「本の山の中」につづいて、今度は、
「戻ってゆくべき古里」です(笑)。
山田俊雄・柳瀬尚紀対談「ことば談義
寝ても覚めても」(岩波書店)から引用。
山田】 だって、高等学校で漢文もやらない。
古典もやらない。
柳瀬】 そうなんです。
山田】 どこに戻ってゆくべき古里をもつのか
というと、何もないわけですね。
柳瀬】 ぼくらが、漢文がなくなった世代ですから、
もうほんとに徹底的に駄目ですね。
山田】 無駄かもしれないけれど、
やる必要があるんだね。
何が有用かということになってくるけれども。
(p61)
ちなみに、柳瀬尚紀氏は1943年根室市生まれ。
また、引用をつづけます。
山田】 ・・ことばに関する財産をぼくらが
どれだけもっているかということです。
自分で覚えて、使えて、それでいつでも適切な
表現だという価値をもたせるのは大変な努力が
いるわけです。だけど、それをもし心がけるなら、
やっぱり古いものをたくさん読んでるということが、
どうしても必要なわけでしょう。
このことばは使える、このことばは使わない
というふうな、そういう見極めをつけて、
使えることばを増やす努力をしないと、
・・・・
だから、そういう点では、いわゆる言語改革なんて
うっかりやると、ろくでもない結果が出てくる。
国語辞典や漢和辞典を作っていて感じるのは、
明治時代のものと今の時代のものがあまりにも
違いすぎて、つながらないことです。・・・・
(p58)
ここに、
「明治時代のもの」と「今の時代のもの」
という比較がでてくる。
山田】 ただ、考えてみると、
自分の身辺に本を置かない若い世代の人って、
勉強のしようがないですね。
図書館に行けばいいなんていっても、
本はそういうものでもないんだ。
やっぱり自分の身の回りに置いてあって、
本の中に埋もれてなくては、
好きなときに好きなものが
自分の栄養にならないですね。
そのことを国語教育でも考えないと・・
(p59)
うん。「どこに戻ってゆくべき古里をもつのか」
それがないなら、自分で探しなさい。
と言われているような(笑)。
ただし、その微妙な探索の仕方を
対談で、教示してくださっておられる。
そんな微妙な醍醐味が印象に残る一冊(笑)。
「戻ってゆくべき古里」です(笑)。
山田俊雄・柳瀬尚紀対談「ことば談義
寝ても覚めても」(岩波書店)から引用。
山田】 だって、高等学校で漢文もやらない。
古典もやらない。
柳瀬】 そうなんです。
山田】 どこに戻ってゆくべき古里をもつのか
というと、何もないわけですね。
柳瀬】 ぼくらが、漢文がなくなった世代ですから、
もうほんとに徹底的に駄目ですね。
山田】 無駄かもしれないけれど、
やる必要があるんだね。
何が有用かということになってくるけれども。
(p61)
ちなみに、柳瀬尚紀氏は1943年根室市生まれ。
また、引用をつづけます。
山田】 ・・ことばに関する財産をぼくらが
どれだけもっているかということです。
自分で覚えて、使えて、それでいつでも適切な
表現だという価値をもたせるのは大変な努力が
いるわけです。だけど、それをもし心がけるなら、
やっぱり古いものをたくさん読んでるということが、
どうしても必要なわけでしょう。
このことばは使える、このことばは使わない
というふうな、そういう見極めをつけて、
使えることばを増やす努力をしないと、
・・・・
だから、そういう点では、いわゆる言語改革なんて
うっかりやると、ろくでもない結果が出てくる。
国語辞典や漢和辞典を作っていて感じるのは、
明治時代のものと今の時代のものがあまりにも
違いすぎて、つながらないことです。・・・・
(p58)
ここに、
「明治時代のもの」と「今の時代のもの」
という比較がでてくる。
山田】 ただ、考えてみると、
自分の身辺に本を置かない若い世代の人って、
勉強のしようがないですね。
図書館に行けばいいなんていっても、
本はそういうものでもないんだ。
やっぱり自分の身の回りに置いてあって、
本の中に埋もれてなくては、
好きなときに好きなものが
自分の栄養にならないですね。
そのことを国語教育でも考えないと・・
(p59)
うん。「どこに戻ってゆくべき古里をもつのか」
それがないなら、自分で探しなさい。
と言われているような(笑)。
ただし、その微妙な探索の仕方を
対談で、教示してくださっておられる。
そんな微妙な醍醐味が印象に残る一冊(笑)。