和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

縦書き。横書き。

2009-05-30 | Weblog
自由社「日本人の歴史教科書」を開いてみました。
左側から、右へのページに、横書きの歴史教科書ははじまっております。
そうそう。学校の歴史教科書はそうでした。
この自由社の市販本には、もうひとつ
カバー右側から、左のページへと、縦書き文がはじまっております。
そして、両方あわせて、一冊にまとめてありました。
一冊の本に縦書きと横書きの頁がある。その境目から、
なんだか、付録の袋とじをめくるようにして、
歴史の幕を、あなたがあけるのですよ、
と語りかけてくるような。
そんな気分になれる一冊。

ところで、私は、縦書きの文を読んでみました。
「日本を読み解く15の視座」というのが縦書きです。

「15の視座」は15人の文が並んでおります。
それを、最初の1から読むのか。
それとも、15番目の最後から読むのか。
わたしは、最後から読みはじめました。
一人が、2ページの文なのです。

堤堯氏の「『戦力放棄』と戦後日本」が印象深い。
さっそく、古本屋へ
堤堯著「昭和の三傑  憲法九条は「救国のトリック」だった」を注文しました。これって、新刊本屋では手にはいらないようです。

うん。新刊本屋では、読めない歴史があるように、
50~60年たってからでしか、書き始められない現代史がある。
そんなスタンスを、あらためて学ばせていただきました。

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四十、五十になって。

2009-05-30 | 幸田文
文庫の新刊で、青木玉対談集「記憶の中の幸田一族」 講談社文庫 が出たようです。

これ、1997年に小沢書店から出版された
青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」の文庫化。
いぜんの、小沢書店の単行本は、装画・堀文子でとてもステキな本です。
なかには、その堀文子氏との対談も載っております。
そこでは、堀さんは、青木玉さんへこう語っておりました。

「あなた様の書かれた『小石川の家』を拝読して、実は私、
一頁ごとに飛び上がりそうになりました。私自身の子供時代とオーパーラップして、叫びたくなるような思いでした。」

ちなみに、堀文子は1918年生まれ。
そうして、青木玉は1929年生まれ。
どちらも、東京に生まれてます。

いぜんの、小沢書店の本の装丁が、とても味わいがあったので、
ここでは、堀文子氏の話を、丁寧に取り上げておきます。

「私は父親に『わしの云うことはおまえが四十、五十になってわかることなのだから、黙って聞け』などと頭ごなしに言われて、なんて嫌な家だろうと思ったものです。それがだんだん齢を取ってくると、本当にわかってくるから不思議。」

「いざというときの強さにつながる。それこそが昔の厳しい躾が持つ、真の意味かも知れませんね。」

もう少し引用しましょ。幸田文を語っている箇所です。

【青木】ええ、周りにいる人間の面倒ばかり見続けた人です。そして祖父を見送って、見なければいけない人がいなくなったときに物書きになった。
【堀】それが、四十四歳。あの時代の女は、自分のためには中々生きれらませんでした。でも人に尽くし忍びながらも、全てが終わったら自分の好きなことをするという、残り時間を待っていたんです。どんなに自分を捧げても大丈夫なだけ自分を鍛えていたように思います。
【青木】母は自分自身、物書きになるなんて思ってもみなかったと思います。


その思ってもみなかった人の、書きものを私たちは読める幸せ。
そして、それにまつわる対談を読める幸せ。
というのが、あるんですね。
四十、五十になると。
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ブジブジブジブジッ。

2009-05-29 | 幸田文
村松友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)に
「『幸田文対話』に収められた対話には、いずれも興味深い語りの妙味がただよっている」(p106)とあります。たしかに、と私も思うのでした。
たとえば鯖の話はどうでしょう。

「今は、もう炭がなくなったでしょ。あたし、鯖が出て来る時期になると、しみじみ子供の時が懐しくなるんです。父がね、鯖って下魚(げうお)だけれど、旬には塩焼きにして、柚子の絞りしるをかけると旨いと言うんですね。焼く時には、庭とかお勝手の外へ、七輪を出すでしょ。あれ、トロトロした火で焼いてると旨くないんですよね。炭がうんとおこったところでやんなくちゃいけない。それで、パーッと粗塩をふって焼く。そして、ブジブジブジブジッてまだ脂がはじけているうちを、大いそぎで父のお膳にもっていく。庭に柑橘がいろいろあるでしょ。それを二つに切って添えて行く。そうすると父は書物を読んでいても、さっとやめて食べてくれた。鯖の塩焼きは焼きあげたそのいっときの熱いうちが勝負なんです。・・・」(「幸田文対話」p346)
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喉元すぎてから。

2009-05-27 | Weblog
徳岡孝夫著「『民主主義』を疑え!」(新潮社)をパラパラとめくっております。
雑誌掲載文(2003年8月~2007年10月)をまとめた一冊。
読んでいると、見過ごしていたり、何も考えずに通り越していた事件がもう一度、反芻されてくる手ごたえがあります。
そう。喉元過ぎてから反芻する大切さが思われます。

まず「はじめに――ジャーナリズムとは?」は、こういう書き出し。
「学校を出る。男だから職を見つけ、食うものを稼がなければならない。文学部の学生控室に新聞社の求人票が出ていた。履歴書を書いて入社試験を受けたが、落ちた。」とはじまる5ページが、そのままに徳岡氏のいままでの履歴書となっております。う~ん。これを紹介してると長くなるので惜しいけれど省略(笑)。

7章にわかれており、各章ごとに巻頭言があるので、それを読むだけでも楽しめます。う~ん。ここでは「喉元過ぎれば」ということで、気になる箇所をピックアップ。

まずは、こんな箇所。
「中国で行われたサッカーのアジア・カップ(2004年)での日本チームへの激しいブーイング。私はべつに驚かなかった。なぜなら、あらゆるスポーツは、多少なりとも観客に正気を失わせるからである。・・・しかし日本国歌の吹奏にブーイングし、手製の日の丸を燃やすのは、やめてもらいたかった。粗末な指導者に導かれる粗末な13億人が何を叫ぼうと勝手だが、せめて記憶力は持ってほしい。それとも彼らの歴史教科書には昭和33年の『長崎国旗事件』は載っていないのか?
長崎のデパートで開かれた中国切手の展示会に一人の反共青年が来て、中国国旗をひきずり下ろした。中国政府はそれを国家への侮辱だと怒り、以後20年間繰り返し日本政府に謝罪を求めた。北京、重慶などでの日本の国旗と国歌への侮辱を、報道官の『遺憾』で済ますつもりか?瀋陽の日本総領事館構内に踏み込んで脱北者を連行した行為(主権侵犯)も、まだ謝っていないんだよ。」

「かつて岸信介首相は、反米・反岸デモで日本は革命前夜の様相だがどう思うかと問われ、『だが後楽園球場はきょうも満員だ』と答え、かえって叩かれた。ジャーナリズムは騒乱・混沌を愛し、無事平穏を憎む。また、図星をさされると逆上する。」(p113)
これに続く文も引用しておきます。
「2005年1月31日は、イラク国民議会の選挙が日本の新聞に出る日だった。某紙は一面トップに『投票妨害テロ相次ぐ』『イラク議会選、厳戒態勢下で実施』の大見出しを掲げ、記事の全文にも『スンニ派勢力のボイコット宣言で正当性に疑問が残った』と書いた。人命はよほど大切らしく、これはエジプトのカイロという安全地帯で書いたイラク報告だった。騒然たる選挙を期待して書いている。ところが記事に添えた写真は、危険な現地でロイターが撮ったもので、なるほど一人の武装兵が見張っている。しかしチャドルをかぶった女性数人を含む投票者の列は延々と伸び、最後尾ははるかかなたに霞んでいる。近頃の日本では見たことのない、有権者の国政参加への熱意を示す証拠写真。・・・・
激しい対立は、あらゆる民主主義国にある。ないのは中国や北朝鮮など、選挙のない独裁国家だけである。米軍駐留がそんなに悪いか?米軍駐留下に英語から訳した日本国憲法を、60年も後生大事に一字も変えず『堅持』してきたのは、どこの国の誰だ。・・・『ニューヨーク・タイムズ』の社説は、明らかに日本の某紙とは異なっていた。『勇敢なイラク人たちは最も楽観的な予測をも超える人数が票を投じた。長い間、沈黙を保ってきた平均的なイラク国民の多数派が殺人の脅威をも排して、新しい民主的な秩序への票を投じたのだ』『本紙はブッシュ政権のイラク政策を批判してきたが、今回は民主的選挙の成功を他の米国民とともに、心から喜びたい』(「産経新聞」2005年2月2日付から)日本の論説委員とアメリカの論説委員と、あなたはどちらと友達になりたいか?」

ここまで、引用してくると、もうすこし続けたくなります。

「なるほど選挙の当日も、30人以上のイラク人がテロに斃れた。だが数百万枚の投票用紙を刷り、数千の記入台を組み立て、米軍・イラク文など30万が厳戒し、あとは有権者が来てくれるかどうかだけだったのだ。そこへ長蛇の列が来た。あのファルージャでさえ、手に手に投票用紙を持った人が並んだ。2004年11月の米軍の徹底的な掃討作戦まで、スンニ・トライアングルの牢固たる一角だったファルージャである。投票を済ませた者はみな、右手の人差し指に青いインクでシルシを付けてもらう。誇らしげに指を示しながら、人々は投票所から出てきた。投票率60パーセント前後だそうだ。」

うん。テロに30人以上が斃れながらの投票率60パーセントとは、恥ずかしながら私は、いままで知りませんでした。
選挙といえば、2004年の台湾での総統選にからめて、こう徳岡氏は書いておりました。
「だいたいシナ人には選挙が似合わないと、私はかねがね思っている。台湾は、まだしも選挙して投票箱の中身を数えた。大陸に住む13億人は、四千年の昔からマトモな投票をしたことがない。北京で全国人民代表大会が開かれると、NHKは毎回忘れずに『日本の国会に当たります』と言う。私はテレビの前で、独り『ウソつけ』と呟く。野党の存在を許さず、一般投票の結果を数えて当落を決める手続きをむまえない立法府は、日本の国会に当たるわけがない。」(p122)

うん、ここまで。
「喉元すぎた」事件が並んでいるのですが、繰り返し味わうに足る文章であります。
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あれは何者だ。

2009-05-26 | 幸田文
山本夏彦対談集「浮き世のことは笑うよりほかなし」(講談社)での
藤原正彦氏との対談のなかで、山本氏はこう語っておりました。

「明治の末頃、長谷川如是閑さんがロンドンにいたころのこと、如是閑さんは大工の家(うち)の出なんです。その時ちょうど万国博覧会があって、長谷川家の出入りの大工が訪ねて来たんです。目に文字のない普通の大工なんですけれど、帰ったあと下宿屋のおかみさんが、あれは何者だって聞くんですって。大工だって言ったらびっくりして、お前の国の大工は皆あんな紳士なのかって。紳士に見えたんでしょうな、風采だっていいわけじゃない。ただ毅然としていたんじゃないですか。」(p244)

ちなみに、この対談は、山本夏彦主宰・工作社刊行の月刊誌『室内』に掲載された対談から選ばれておりました( 夏彦氏は2002年10月に87歳で死去 )。

掲載誌の関連で、対談内容は建築への言及がところどころにあったりします。
それで、大工とかが出てきてたりします。

ここから、私は木へと連想をひろげます。

鶴見俊輔・上坂冬子「対論異色昭和史」(PHP新書)に
ちょっと説明もなく、「樹木のように」と鶴見氏が語っている箇所がありました。

「私は樹木のように成長する思想を信用するんだ。大学出の知識人はだいたいケミカルコンビネーション。そういう人は人間力に支えられていないから駄目という考えです。私と接触がある人では、上坂(冬子)さんにしても佐藤(忠男)さんにしても、樹木のように成長しているものを感じるね。文章を見ればわかる。」(p152)

ここから、幸田文へとつなげたいのです(笑)。

「幸田文対話」(岩波書店)の最初の対談で、父幸田露伴の亡くなる場面を、高田保氏にこう語っておりました。

【幸田】あたくし、一生の中で一番よかったのは、死なれた後の二、三日でした。すうっとして、空っぽになって、宗教的とか何とかというよりも、自分が木とか草とか虫とかと同じものになって、その時にいくらか謙遜になれたかと思っているんですけれど・・・。死ぬ前後ですから、あの時ぐらいゴタゴタしてる時ってないんですけど、あの時ぐらい穏やかにいられた時はないんです。その時来ていた人たちに言わせれば、文子さんは凄い馬力だったって・・・。
【高田】木とか草とか虫とかと同じになったから、馬力が出たんですよ。 (p14)


こういう幸田文さんにとって、奈良・法輪寺の三重塔再建で宮大工と過ごした時間はどのようなものだったのだろうと、私は想像を逞しくするのです。

ところで、長谷川如是閑のロンドン下宿のおかみさん。
そのひとの言葉を、もう一度思いうかべるのです。
「あれは何者だって聞くんですって。大工だって言ったらびっくりして・・・」。
こういう驚きというのは、
文章にもあるものでしょうか。
それが文章にもあるとすると、いったいどのような時なのか?

あるいは、こんな表現になるのじゃないか。
と思える「解説」を篠田一士氏が書いておりました。
そのはじまりの箇所。

「幸田文の作品を読んで、はじめにだれしも経験するのは、日本語がこんな美しいものだったのかというおどろきである。美しいといっては多少そらぞらしくきこえる。言葉のひとつひとつが、しかとした玉のごとき物体となって、読者の掌中のなかでずっしりとした重さを感じさせるといった方が、まだしも正確な表現になるだろう。玉のまどやかな触感――それははじめ冷やかではあるが、しばらくすると、掌のあたたかみを吸収して、情感にもにたぬくもりを逆に放射する。
こうした日本語の怪しい肉感性をもつ文学を、誇張でなく、寡聞にしてぼくは外に知らないのである。・・・・・
幸田文の文学には自然主義→私小説の陰画はまったく認められない。ともかくこれは今日の日本の文学者の場合稀有なことであり、また、この作家にはじめて接した読者に襲いかかるおどろきの一端を説明する文学的事実でもあろう。」(p158.「KAWADE夢ムック 文藝別冊・幸田文 没後10年」)

うん。あらためて、
幸田文とは、あれは何者だ。
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自分をどう支える。

2009-05-25 | Weblog
山本夏彦著「浮き世のことは笑うよりほかなし」(講談社)は雑誌「室内」で掲載されたところの対談集。それが今年の2009年3月に出版されたのでした。
楽しく笑いながら、ゆったりとした活字の頁をめくっております。
さて、藤原正彦氏との対談のなかで、イギリス行きの話題になって、
こんな箇所がありました。

【藤原】外国へ行くと自分をどうやって支えるかっていうのが問題です。
教養で支えるか、大和魂で支えるか。
【山本】あなた両方あるじゃない(笑)。本の中ではいつも愛国心に燃えている。
【藤原】どたんばになると血と血の戦いですからね。向うはシェイクスピアの血です。冗談も洒落もみんなシェイクスピアをふまえています。なまはんかな英文学読んでますなんていうのは最もだめ。シェイクスピアやゲーテを少し知っているより、きちんと日本の古典と伝統を身につけている方が、友達になれるんです。(p244)


この箇所で私に思い浮かぶのは、
司馬遼太郎著「風塵抄 二」(中公文庫)の、おわりに掲載されている福島靖夫の「司馬さんの手紙」にある、印象深い箇所でした。そこを引用してみましょう。

「いま、原稿用紙に書かれたこの手紙を積み上げたら、二十センチ以上になっているのに、改めて驚いている。そのなかの一つで、文章についての私の疑問に、司馬さんはこう書いている。『われわれはニューヨークを歩いていても、パリにいても、日本文化があるからごく自然にふるまうことができます。もし世阿弥ももたず、光悦・光琳をもたず、西鶴をもたず、桂離宮をもたず、姫路城をもたず、法隆寺をもたず、幕藩体制史をもたなかったら、われわれはおちおち世界を歩けないでしょう』
そして、『文章は自分で書いているというより、日本の文化や伝統が書かせていると考えるべきでしょう』と続けるのだ。この手紙を読んで、私はみるみる元気になった。」(p289)


ちなみに、司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙「もうひとつの『風塵抄』」(中央公論新社)が、そのあとに出ていたのですが、p278に、それらしき箇所が拾えるのですが、こちらにはなぜか『文章は自分で書いているというより、日本の文化や伝統が書かせていると考えるべきでしょう』という箇所がみあたらないのです。なぜだろうなあ。
まあ、それはさておき。

山本夏彦著「浮き世のことは笑うよりほかなし」
司馬遼太郎著「風塵抄 二」(中公文庫)
「もうひとつの『風塵抄』」ときました。
つづいて
日下公人・高山正之著「アメリカはどれほどひどい国か」(PHP)の
対談のはじまりの日下氏の言葉を引用したくなりました。
俳諧は私にはわからないのですが、その俳諧の発句のような
対談のはじまりの言葉なのでした。

【日下】日本の先行きを考えるうえで、これから中国経済がどのように推移するかは『見物(みもの)』だと思います。それを見るポイントは、じつはアメリカにある。
まず概括的なことを言うと、中国とアメリカには共通点がいっぱいあって、第一に『プライドのない国』ということが共通しています。プライドがない国は、歴史のない国や、王朝の交代時に過去を否定する国で、そういう国の人はアイデンティティや誇りを持てない。誇りや自信のない人は、建設・発展・未来・進歩など将来を言い、見栄を張って大きなスローガンを掲げます。
アメリカのスローガンは『自由と民主主義と人権』で、中国は『社会主義と一党独裁』でした。そのスローガンの裏側は『自信と根拠のなさ』であって、スローガンをアイデンティティにするのは、歴史のなかに誇るべきものがないからです。
アメリカ人や中国人が口がうまいというのも、アイデンティティのない証拠です。力がない人間が商売や戦争に勝つには、相手を騙すしかない。だから、嘘をつく技術も、世界最高に発達しています。すぐばれる嘘を平気でつくし、サブプライムローンのように、一見ばれそうにない高級な嘘もつくる(笑)。そして、相手には『自己責任』と言う。


これが日下氏の対談の、はじまりの言葉なのでした。
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あ・うん。

2009-05-23 | Weblog
鶴見俊輔・上坂冬子著「対論異色昭和史」(PHP新書)を、あちこちとまだら読みしています。楽しい。新書の帯には二人のお写真。その写真からの連想じゃないのですが、
お寺の山門ににらみをきかせている仁王さまが思い浮かぶのでした。
ちなみに、仁王さまは正式には金剛力士。
口を『阿(あ)』と開くのが金剛、『吽(うん)』と閉じるのが力士、一対で伽藍をお守りするのでした。新書の対論を読んでいると、そのア・ウンの呼吸が、読む者に伝わってきます。たとえば「そうかなぁ。まあいいわ。ここで鶴見さんと議論してもしょうがないから」と最近亡くなったばかりの上坂冬子さんは喋っております。ちょっとここでは、上坂さんの言葉を少し拾っていきます。
「そんなことを聞いてるんじゃありません。」(p80)
「私は自虐という態度が嫌いではないけれど、国家をひたすら自虐的に弾劾する行為は歴史認識を狂わせると思う」(p90~91)

ということで、たとえば「九条」の話になる。
【上坂】そこまで考えて、その上で永世中立を望むのは、論理的にもよくわかる。でも日本は何も持たず、字で書いた九条だけにすがって平和を守れというわけでしょう。(p112)
【上坂】日本も知恵がないじゃありませんか。あんな九条を有り難そうに奉って「九条の会」を作って集まっている人までいるんですから、鶴見さん以外は私と話が通じそうにない人ばかり(笑)。本当ならサンフランシスコ講和条約の直後に、日本は日本の判断として新しい憲法を作るべきでした。あの時、日本人の判断で九条めいたものを作っていたなら、私も「九条を守れ」と言ったかもしれません。
【鶴見】いいじゃない、その考え方。賛成だよ(笑)。

うんうん。せっかくだから鶴見俊輔氏の、そのすぐあとの発言も引用しておきましょう。

【鶴見】あの時の総理大臣は吉田茂だ。彼は自衛隊も作ったでしょう。昭和32年防衛大学校の第一期卒業生を前にして彼は次のような意味の訓示をしている。
『君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり歓迎されたりすることなく終わるかもしれない。批難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君たちが「日陰者」扱いされている時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい』と。これは吉田茂でなければ言えない偉大な言葉だ。(p114~115)

「全面講和か単独講和か」というのは、
上坂さんが語っておりました。そこも引用しておきましょう。
【上坂】ええ、そりゃわかってますから怒らないで(笑)。
あの頃ですねぇ。全面講和か、単独講和かで世論が二つに割れて騒いだのは。全面講和というのは、ソ連も加えて全戦勝国との講和を締結すべきだという意見、単独講和はアメリカを主とする戦勝国と結べばいいという意見。当時はアメリカとソ連が対立してましたから、全面講和なんていつまで待ってたって結べる見通しなんかありゃしません。それに原爆を二つも落とされた日本が二度と立ち上がれないのを見越して、不戦条約を勝手に破棄して8月9日に参戦したソ連が戦勝国なもんですか。常識で考えてもおかしいです。
でも東大総長の南原繁さんなんか、全面講和を主張して吉田首相から『曲学阿世の徒』呼ばわりされてましたね。あの時、私はつくづくインテリなんて駄目なもんだなぁと思いました。全面講和を待っていたら日本はいまだに独立できなかったかもしれない。(p122)

「きれいな水爆」という箇所もありました。

【鶴見】追い詰められた人間の勘でしょう。いよいよとなると人間にはそういう勘が働くんだ。その点で、くどいようだけど、原爆についての日本人の勘はにぶいねぇ。アレを落としたアメリカを総立ちになってウジ虫呼ばわりするどころか、インテリの中には事もあろうにきれいな水爆と言い出す者まであって呆れ果てた。
【上坂】どういうこと?
【鶴見】ソビエトが落とせばきれいな水爆だという輩がいた。
【上坂】そんなバカな。
【鶴見】きれいか。汚いか、落とした奴によって決まると言わんばかりの傾向が戦後の一時期にあってね。日本のインテリはそれで共産党系と非共産党系に分かれたんだ。ヘンな知識を身につけるとああなる。・・・・(p128)


うん。引用をしはじめると、キリがないなあ。
人によっては、もっと興味深い箇所を指摘できるでしょうけれど。
まずは、金剛力士の丁丁発止。
上坂冬子氏もこれが、鶴見俊輔氏との最後だという勘が働いている気配。随所に、これだけは聞いておこうというポイントへの対論の舵取りを感じます。こういうのを要約しちゃ、いたずらに、スケールが小さくなるばかり。興味をお持ちの方は、新書に手をのばして、阿吽の呼吸を味わってみることをお薦めするのでした。
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歴史解説。

2009-05-22 | Weblog
日下公人・高山正之著「アメリカはどれほどひどい国か」(PHP研究所)についてです。キーワードは歴史解説。高山氏は「奴隷」という言葉で、メイフラワー号へと切り込んでゆきます。この歴史解説を、まず、聞いてみましょう。

【高山】この国の正体は・・メイフラワー号でやってきた清教徒から見れば、よく理解できます。彼らピューリタンは、よく知られるように、ワンパノアグ族の酋長マサソイトが恵んだ食糧で冬を越しました。これが感謝祭の謂われですが、一見、心温まる話には、おそろしい続きがあります。七面鳥で元気になった清教徒らは、酋長が死ぬのを待って、彼らの領土を奪い始める。抵抗した息子は殺され、その首は20年間プリマスの港に晒されました。彼の妻子と一族もまとめてカリブの奴隷商人に叩き売られた。こうして土地を手に入れた清教徒は、働き手と妻を、最寄りの奴隷市場に買いに行ったのです。奴隷市場は実は、メイフラワー号が着く一年前に店開きしていて、最初の売り物は140人の英国産の白人女囚でした。・・・(p136~)

この対談では、これを説明する箇所が繰り返してでてきております。
p58では、こうはじまります。

【高山】興味深いのは、アメリカ人は、黒人に対しては奴隷扱いして接する一方、インディアンに対しては即、殺戮を始めたことです。

こうして、ワンパノアグ族のマサソイト酋長のエピソードを語るのでした。
これに続けて日下氏は、語ります。

【日下】アメリカ人は最初、インディアンも奴隷にしようとしていた。ところがインディアンはプライドが高くて白人のためには働かず、むしろ死ぬ。仲間に対しては義理堅く、友人が捕まれば必ず助けに行きました。だから奴隷の身分に閉じ込めることができず、殺すことになった。白人の世界侵略に対抗して、けっして奴隷にならなかったのはアメリカのインディアンと日本人だけだ、という歴史解説があります。(p59~)


奴隷というと、私に思い浮かぶのは、福沢諭吉でした。諭吉は幕末に渡欧したとき、上海や香港で、中国人が英国人に鞭打たれているのを見てショックをうけております。そういえば、司馬遼太郎著「『明治』という国家」に秀吉のエピソードがありました。ちょっと、話がそれますが、司馬さんの語りを引用してみます。

「キリシタン禁制というのは、豊臣政権のときにはじまりました。なぜ秀吉は禁教方針をとったのか、よくわかりません。ただ、推測するための二つの重要な事実があります。秀吉が九州平定のためにその地にやってきてみると、こんにちの長崎の地がイエズス会の教会領のようになってしまっていることに驚くのです。・・・この時代のイエズス会は、宣教師はみなヨーロッパにいる神父とは別人のようにまじめで戦闘的で、命を惜しまずに活動しました。それだけに、あきらかにやりすぎました。それに、ポルトガル商人が、奴隷として日本人を買うんです。日本人たちを船に押しこめ、ときには鎖でつなぎ、食物も十分にあたえずに労働させ、病死すれば海中にすてるということが、たえずありました。ポルトガル商人とキリシタンとは印象としては一枚の紙の裏と表のようなもので、すくなくとも日本人たちは、宣教師が奴隷売買をしているとは見ていないものの、かれらが、自分の教徒であるポルトガル商人に対してそれを制止しないことは知っていました。かれらからみれば、未開の地――つまり異教の国――にくれば自国の商人たちが異教徒を奴隷として売買している光景に鈍感であったことはたしかでしょう。秀吉は教会側に対して、この奴隷売買についてはげしく詰問し、やがて禁教令を出しました。・・・・」


横道へとそれました。この本へ戻ります。

【高山】基本的にアメリカというのは、奴隷の上に成り立った国です。おそらく最後まで奴隷制度を続けた国でしょう。・・・低賃金で酷使されてきた。もちろん、いまや国内では奴隷を使えない。だから中国に奴隷工場を移したわけです。そう考えるとわかりやすい。
【日下】なるほど、わかりやすい(笑)。たしかに、人種差別は強烈ですが、その元にはやはり経済的動機や軍事力の問題がある。その辺の事情を、幕末の日本人はよくわかっていた。白人は、大砲と軍艦のない奴はみんな蹂躙する。理屈を言えない奴はバカだといって支配する。金持ちにはすり寄ってきて貿易する。何もない奴は他に使い道がないから奴隷にする。だからこそ、わが日本国は団結して、働いて金を持ち、その金で軍艦を買い、西欧列強の植民地になることを逃れた。それから幕末の日本人はわかったんです。彼らは愛国心より金が大事らしい。儲けさせれば、軍艦も鉄砲も手に入る、と。(p109~110)


アンケートの箇所も忘れ難い。ので引用しておきましょう。

【高山】20世紀の最も印象深かった出来事とは何か。実はそれを、アメリカのジャーナリストがアンケートで選んだことがあります。1位に来たのが広島、長崎への原爆投下。2位がアポロの月着陸で、3位がパールハーバー(日本海軍の真珠湾攻撃)でした。アメリカにとっては、少なくともアメリカのジャーナリストにとって、まだ日本に対する恐れが上位に来ている。やはり、これを日本人はアドバンテージとするべきではないでしょうか。・・・・神に擬された白人と違う黄色人種が出てきた。第三世界から飛び出した鬼だ。キリスト教でサタン(悪魔)の別名とされる『ルシファー』みたいなものだ。アメリカは、白人の総チャンピョンとして許すわけにはいかない。だから、広島と長崎に原爆を投下して日本を降伏させた――というのが、どうしても20世紀の第1位のニュースになる。」(p88~89)
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履物屋。

2009-05-21 | 幸田文
林えり子著「東京っ子ことば抄」(講談社)には、
「東京っ子ことばの親玉は幸田文」と題する文が載っております。
そこに、「まじりっけなしの東京っ子といえば、すぐに思い浮かぶのが幸田文であった」とあります。ちなみに林えり子は、どんな方なのか。こうあります。「私自身、ふた親が東京っ子、その上の祖父祖母も東京生まれ、その先もたどってみると宝暦期の刊本にひょっこり顔をのぞかせている先祖がいたりする家に生まれ育ち、いうならば江戸語東京語しか知らずに成長してきた。」

そして、こう続けております。

「かく言う私にしてからが、東京語を忘れつつあるうえ、先輩の東京っ子ことばがわからないという不明をさらさなくてはならないのである。その恥をしのんで、以下の作業に取り組んだことをあらかじめお断りしておこう。東京語の探索は、いろいろな方法があると思うが、生粋の東京人が書き残したものに当たるというが順当であろう。まじりっけなしの東京っ子といえば、すぐに思い浮かぶのが幸田文であった。幸田露伴の次女である。露伴は『お城坊主』として江戸城に勤めていた幕臣の家の出、江戸っ子以外の何者でもない。文の母は、日本橋の材木商の娘で、まちがいのな江戸娘である。」

おもしろかったのは、
林えり子氏が幸田文の東京語を分類しているのでした。
その分類法がふるっておりまして、

1、私にはほとんど意味がわからないし、同時にそれを口にのぼせているのを聞いた経験がない語。
2、意味はわかるが聞いた経験は私にはないといった種類の語。
3、今は聞くこともないが、以前はたしかに私の周囲の年長者達が口にしていた語。
4、私自身も時として使うが、今の若い人達は使っていない語。

江戸語・東京語といっても、こんな分類が可能なのが楽しくなります。


まあ、それはそれとして、どこで読んだのか、ちょっとわからないのですが、
幸田文が職業を選ぼうとしたときに、履物屋になりたかったという回想がありました。何で履物屋なのだろうと疑問でした。どうやらその回答が林えり子氏の、この本にあったのです。


そこは、「馬場孤蝶の『明治の東京』は、私の大好きな本である。」とはじまる3ページの文にありました。その中頃にこうあります。

「多くの東京っ子が賛同してくれると思うが、着るものより先に、足許をピカピカにしたがる傾向が私たちにはある。私たち世代は下駄ならぬ靴だが、靴だけは流行の先端、銀座を歩いていてもすぐに靴屋に入り、とりあえず目新しいものに履きかえた。そういう東京っ子の、なんだかわからないけど、履物に執着する気分というものが、伝法や鉄火の延長線上にあるとは、孤蝶を読むまでは、知らなかった。・・・・」(p117~119)


ところで、どこに、履物屋になりたかったというのが出てきたかを探していたら、見つからなかったのですが、「幸田文対話」(岩波書店)にこんな箇所があるのでした。

最初の高田保氏との対話にこんな箇所。

【幸田】言葉では教えられたわけじゃないんですけれど、何も言わなくて通じるっていうのが、最も余韻のある楽しいことっていうふうにあたしは父から感じ取っていましたから・・・。
【高田】その以心伝心はあなたと先生と二人っきりの世界のものですよ。あなたは世界に二人とないその相手方に消えられておしまいになったんだ。



最後の方には沢村貞子氏との対話で、こんな箇所。


【幸田】今日はとても楽しかった。あなたとお話ししてると、とても言葉が通じるの。それでさっきから思っていたんだけど、私、ものなんか書かないで、あなたの付人になりゃよかったわね(笑)。私、あなたが教えてくれること、シャッと吸取紙でとるみたいに受けとったと思うしね。そして私のいうことも、あなたがシャッと分ってくれるだろうと思うし。あなたが家へ帰って着物をすうーとぬいで、さぼして、衿をふいてさっとたたむ。私、手つきまで分っちゃう(笑)。裾を折返して、シャッと戸棚へ入れる手つき、持ち方だってちゃんと分っちゃう(笑)。
【沢村】それでなければ、私が先生の秘書になればよかった。『あの』といったら、『はい』と向うの原稿用紙を持ってきて・・・(笑)。



そういえば、最近読んだ対談に日下公人・高山正之著「アメリカはどれほどひどい国か」(PHP研究所)があります。そのはじまりの日下氏の言葉に、こんな箇所がありました。


「アメリカ人や中国人が口がうまいというのも、アイデンティティのない証拠です。力がない人間が商売や戦争に勝つには、相手を騙すしかない。だから、嘘をつく技術も、世界最高に発達しています。すぐばれる嘘を平気でつくし、サブプライムローンのように、一見ばれそうにない高級な嘘もつくる(笑)。そして、相手には『自己責任』と言う。」
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この橋わたろ。

2009-05-17 | 幸田文
美智子著「橋をかける 子供時代の読書の思い出」が文春文庫にはいっておりました。皇后美智子さまのご本が文庫になった。

ここでは「橋」について思い浮かぶ数冊。

ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)
福音館書店「天の橋 地の橋」(「いまは昔 むかしは今」2)
などがちょいと思い浮かぶのですが、それはそれとして。

茶木滋さんの詩「このはし わたろ」

  このはし わたろ
  このかわこえて
  しらない ところへ
  いこうか よそか。

  むこうの ほうは
  ひろっぱ のはら
  とんとこ おうちが
  ちらほら みえる

  どこからきたか
  むくいぬ こいぬ
  ともだちいるのか
  わたっていった。


安藤鶴夫に「幸田文というひと」という文あり。
それは、「小説『流れる』が、新潮社の小説文庫版になった時、それに添えられた文章」を、短文のまずはじめに引用しておりました。

「小さいときから川を見てゐた。水は流れたがつて、とつとと走り下りてゐた。そのくせとまりたがりもして、たゆたひ、渋り、淀み、でもまた流れてゐた。川には橋がかかつてゐた。人は橋が川の流れの上にかけられてゐることなど頓着なく、平気で渡つて行つた。私もそうした。橋はなんでもない。なんでもないけれど橋へかかるとなぜか心はいつも一瞬ためらつて、川上川下、この岸あの岸と眺めるのだ。水は流れるし、橋は通じるし『流れる』と題したけれど、橋手前のあの、ふとためらふ心には強く惹かれてゐる。」

これを引用した安藤鶴夫は、この文を評して「短いが、どこからどこまで、なにからなにまで、幸田文というひと、そのものズバリの文章だと感心する。」として、次の話題にとりかかっていました。

う~ん。「橋をかける」の「橋」ということでは、以前どこかに書いたことがありました。捜して、読み直してみることにします。
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五感なのだった。

2009-05-17 | 幸田文
幸田文著「月の塵」(講談社)に「くさ笛」という11ページほどの文が載っております。私に面白いと思ったのは、こんな箇所でした。
「自分には五感があるとほっとし、五感だけしかないのだ、と握りしめるように大切に思った。しかしその五感は、しばしばたよりなくなる。身はぬれ紙のとりどころなき、という句があるときいたが、全く濡れ紙と同じに力なく手応えをみせぬ。そんなとき、何の本でもあれ、厚いしっかりした本の背をみたりすると、涙がでそうになるほど知識の力を恋う。・・・・」

そう。幸田文の五感というのが、私には気がかりなのでした。
幸田文の年譜をみてみれば、
明治43年(1910年)6歳
四月、母幾美が肺結核により死去。享年36歳。
秋、隅田川の洪水のため、弟とともに小石川伝通院脇の叔母・幸田延宅へ預けられる。

その二年後の明治45年・大正元年の五月に姉・歌がしょう紅熱により死去。

大正12年(1923年)19歳。
9月1日、向島の自宅で関東大震災に遇い。
炊き出しに加わる。千葉県四街道へ避難する。

その三年後の大正15年・昭和元年の11月に弟・成豊が死去。

そして、結婚離婚があり、
昭和20年(1945年)41歳。
3月10日、東京大空襲。疎開。

その二年後の昭和22年(1947年)43歳。
7月、父・露伴、死去。

さきほどの「くさ笛」から、露伴死去のその後を引用してみましょう。

「その後、乞われるままになんとなく書いた。材料はみな亡父のことだった。家庭の父としてのことしか書けないのだが、文章は行儀のわるい文章でも、材料に骨があるから助かっている、と叔父が心配して注意してくれた。そのうち材料が尽きてきた。想い出はあとから製造できない性質のものだから、尽きるのがあたり前だが、そうなってから、困った。そんなとき娘が辛辣な慰めをいってくれた。おじいちゃんは机に向いている後姿が不動にみえたが、母さんは落着かなくて、未熟ね、と。だがそのあとで、お金がとれるようになっても、母さんの生活態度が変らないのは、いいと思っている、と。その生活態度の一言で、ふっと気付いた。狭くほそい生活の中で、ただ一つ持ち続けてきたものがあるのを忘れていた。それは私の態度のうちの一つだった。自然を表を見て楽しみ、裏を見て怖れをもつというそれである。勉強も読書も得手でないものが、それをよく見ようとすれば、何をたよりにするかといえば、五感なのだった。五感を鋭くしていれば、植物も動物もなにかを示してくれたし、私はそれを心の肌理の粗さの養いにし、寛ぎにしてきた。これは原稿料や想い出のように減って失せるものではなかった。自分には五感があるとほっとし、五感だけしかないのだ、と握りしめるように大切に思った。・・・・」
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いいつたえ。

2009-05-16 | 地震
橋本敏男著「幸田家のしつけ」(平凡社新書)の最後には、参考書籍一覧がありました。その一覧に、戸井田道三著「生きることには○×はない」(ポプラ社)がある。ああ、そういえば、この本、何人かの人が楽しく語っておられたなあ。と思いだしました。そのときも、さっそくネット古本屋で調べたのですが手に入らなかったので、そのままになっておりました。この機会にまた、ネットで調べてみました。すると、ポプラ社の本はなかったのですが、「戸井田道三の本」というのがある。その「1・こころ」に、「生きることに○×はない」が入っているじゃありませんか。2000円と、ちょっと高いかなあとは思ったのですが、こういう機会に買うことにしました。

さてっと。その本をパラパラとめくっていたら、
関東大震災のことが出てきておりました。

「無口で陰気で何を考えているのかわからない子どもだったわたしが、急におしゃべりでほがらかな青年になったのは、震災のあとからだ、と母はいいました。自分では意識しませんが、たぶんそうでしょう。震災は、わたしの生涯にとって一つの転機になったことはたしかです。中学三年生の九月です。」(p146)

おやっと思ったのは、その文中に房総の館山海岸のことが出てくるのでした。
忘れないうちに引用しておきましょう。

「日本橋のいとこたちは、その夏も館山海岸へ行っていました。まだ帰らなかったので、心配していたのですが、わたしたちが着いたおなじ五日に儀イちゃんがひとり軍艦で輸送されてかえり、みんな無事なことがわかりました。地震のあと海の水がどんどんひいていくのをみて、城山へ逃げろと漁師に注意され、みんなで一生懸命にげたのだそうです。安政の地震のとき津波がどこまであがったかをいいつたえていたそうで、逃げても逃げても、もう少し上まで、もう少し上までと村の人たちといっしょに逃げたのでたすかったといっていました。書いて残す時代より、言葉でいいつたえてゆく時代のほうが、前の人の経験が生かされるのかもしれません。」(p144~145)
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露伴と本と水。

2009-05-13 | 幸田文
「本の話が出ましたが、文さんの『みそっかす』に、大川の出水のエピソードがありますね。蝸牛庵が水に浸かり、叔母様のところに預けられて帰ってみると、露伴は本を干している。酒を呑みながら頁を一枚一枚はがしているという話が出てきます。露伴は非常に書物を大事にされ、それこそ古今東西の様々な書物を収集されていた。しかし、あの出水以降は収集ではなく、むしろ自分の記憶の中にすべてを蓄積させていくという方法に変わったのではないかと、実際に作品に時期を重ねてみて、そんな気がしたのですが。・・・・」

これは青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」(小沢書店)での小森陽一氏の言葉(p156)。

そういえば、松山巌の「掃除の仕方について」は、こうはじまっておりました。
「中学のときだったと思うが、国語の読本のなかに載っていた、幸田文の短いエッセー『水』にびっくりした覚えがある。」(p210・「幸田文の世界」翰林書房)

その「みず」というエッセーはどうはじまっていたかというと、
「水の掃除を稽古する。『水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない」としょっぱなからおどかされる。私は向島育ちで出水を知っている。・・・・」

ところで、松山巌氏との対談で、青木玉は台風の時の父娘孫の三人の様子を語っております。そこも引用しておきましょう。

「台風が来て雨戸持ってかれそうになって、それ押さえながら『理の当然』を説くんですからね。二階の雨戸持ってゆかれそうになって、そこから風が吹き込んでる。運の悪いことに祖父の書物のある部屋の前の雨戸だったんですよ。『あっちを押さえろ』『こっちを押さえろ』、大変な騒ぎ。その時に祖父、『そっちをそう持ち上げて、こっちをこうやって持って』って云って、父娘孫三人で濡れねずみになて雨戸を抱えて大騒ぎした憶えがある。母は母で反対側を一生懸命になって持ってるんでしょ。どう考えたって滑稽です。バカ真面目だったと思いますねぇ。・・・」(p78・青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」)
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です。です。

2009-05-12 | 幸田文
文藝別冊「総特集 幸田文 没後10年」にありました。

座談会「東京ことば」 幸田文・石川淳・大野晋・丸谷才一。

そこに、こんな箇所。

【石川】日常露伴先生にはどういう話し方をしていらしたんですか。
【幸田】「だが」はいいませんでした。「です」も嫌いなんです。
「おまえは『です、です』の女か」って、辱められているような感じで・・・。
【大野】「です」と「だが」を使わないと、言葉の終わりはどうなさいました?
【幸田】「おります」「ございます」ですね。
【大野】今日では普通になりましたけれども、
「です」はもともと田舎上りのお侍さんが「でェーす」と伸ばして使ったらしい。
品の悪い言葉だったんですね。むしろ。
【石川】近ごろの女の子は伸ばすじゃないですか。
「でェーす」をやっているじゃないですか(笑)。
【幸田】父にいわせると、「です」の「で」が硬く聞こえる。
ガギグゲゴ、ダヂヅデドを耳立つというので、
「です」というときには飲むようにして。
いい言葉ばかり使ってもおられませんでしょう。

いい言葉というのは、どんな言葉なのか、
そういうのは、聞いてはいたのでしょうが、聞き流していたりします。
ああ、こんな場合というのがある。
そんな例がありました。
徳岡孝夫著【「民主主義」を疑え!】(新潮社)をめくっていたら、
そこに、こんな箇所。

「私が台湾に何となく好意を抱くのは、茶碗屋のオバサンのせいである。・・・
60年代後半、バンコクに一軒だけ、日本語を喋る台湾人のオバサンの営む瀬戸物屋があった。妻を連れていった。
女の買い物は品定めに手間がかかる。いろいろオバサンに質問する。そばで聞いていて、私は驚いた。応対するオバサンの日本語が、実に美しいのである。
『あら、それがお気に召しませんようなら、こちらに色違いがございます』などと言っている。店には若い日本人の主婦も来ていたが、あまりにも綺麗な日本語に押され、客の方がハイハイと恐縮している。聞いていて私は『あ、これは昭和二十年の日本語だ』と気付いた。統治終了の時点で、彼女の日本語は凍結している。われわれも昭和二十年には、こういう美しい言葉を喋っていたのだ。家庭では、夫人と日本語で話しているという李登輝前総統も、折目正しい日本語を遣うという。」(p121)
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さばさば。

2009-05-11 | 幸田文
露伴先生が京都大学講師を辞任して、東京へ帰ってくる。
京都のおみやげは、なんだったか?

瀬沼茂樹氏との対談は、こうはじまっておりました。

【瀬沼】露伴先生が明治41年に、京都大学に招かれて一年間行かれていたことがございましたね?
【幸田】ええ、それがあったために、あとで、『関東の女は』というので、だいぶしかられました。豆を煮ることも、芋を煮ることもできねえのが関東の女でね、と。
【瀬沼】だんだん、江戸の、東京のほんとうの下町の人が減ってしまって、いまの東京人はほとんどが他国人ですから、自然な、江戸の女の考え方、男の考え方がよくわからなくなっていますね。端的には、いまおっしゃったようなことでいわれたと思いますが、それでは関西の女はどうかということは・・・?
【幸田】父が関西の女をどう思っていたのか知りませんが、父にしかられることによって、関西の女というのは、たいへん優れているんだという、コンプレックスみたいなものは、知らされました。・・・・気持ちがひたひたしているというんです。いまはそういう形がよくわからなくなってますけど、私どもは武蔵野の野っ原育ち、野放図ですから、それがいけない。昆布ひとつ煮ても、豆ひとつ煮ても、せっかちで出来が悪い。するとその実際をふまえて、「それみろ」とやられる。
  ・・・・・・・・・・
【瀬沼】しかし、関東の女性というのは、さばさばした気性の強いところが、逆にまた好きだという人も多かったわけでしょう。
【幸田】父のことを好く男の方というのも、やはりそちらの地方にないものをもっている性格やら特徴を喜ばれるからでしょう。


こんな感じで対談ははじまっておりました。この対談では、あの「鰯の話」が出てきたりして興味深いのでした。( 「幸田文対話」岩波書店 )

対談といえば、「幸田文 台所帖」(平凡社)に
こんな箇所があります。

それは辻嘉一氏との対談でした。

「なんだかこのごろ舌が老いてきたような気がしましてね。それは味のことばかりでなく、言葉でもわかります。声も言葉もやわらかにでてきてくれません。そうでなくてもこのごろはデスデスでお話ししましょう。そのデスというのは強くきこえる言葉だから、その上、舌の先がかたくなっていると思うんです。人さまに悪い感じで聞こえやしないかという気がしますね。・・・」(p66)


ここにデスというのがでてきております。
ほかのところでも、たしか対談だったと思いますが、
デスについて話しておられたのですが、ちょっと、
どこにあったのか探せない(笑)。
みつけたら、そのときに、ここへと記載しておきます。
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