和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「海の幸」の千葉。

2007-05-31 | 安房
毎日新聞「日曜くらぶ」の連載「あの人に会う 日本近代史を訪ねて」。
その2007年5月27日は青木繁の連載四回目でした。文と写真は米本浩二。
では、そこからの引用。

「福岡県久留米市の中心部から約20分。兜山(通称・けしけし山)山頂に着いた。標高317㍍。青木繁記念碑がある。」
「1907年8月、繁の父廉吾が久留米市の実家で死去した。繁は急いで帰郷する。25歳だった。酒におぼれて、母や姉らと衝突し、再び上京することもなかった。熊本や佐賀を放浪するうちに結核が悪化して、福岡市内の病院で命を落とした。22歳で『海の幸』を描いてから、わずか数年を経て、死に急速に傾いていった繁。」
「繁は絵だけでなく短歌も詠んだ。『このぬしはわかき女神と人いう/唯(ただ)青々と澄める淵かな』など自然を写した歌に交じり、『父となり三年われからさすらいぬ/家まだ成さぬ秋二十八』など自分のふがいなさを嘆く歌もある。繁が亡くなる約4ヵ月前に書いた遺書は深い印象を残す。一家を支えられなかったことを姉と妹にわび、自分が死んだら骨を『ケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度』と頼んでいる。『未だ志成らず業現われず』『口惜しく残念』など切々たる文字の連なりは『海の幸』にも劣らず人の胸を打つ。・・・・『わが国は筑紫の国や白日別(しらひわけ)/母います国櫨(はぜ)多き国』」


ここで、青木繁の「海の幸」へともどってみたいのでした。
作品「海の幸」は千葉県の布良で、作品の着想を得ておりました。
ちょうど、サイデンステッカー自伝「流れゆく日々」をパラパラとめくっていたら、千葉県について書いている箇所がありました。興味深いので引用しておきます。

「東京と境を接する県の中では、いつでも千葉が一番好きだった。この点、私はたぶん、千葉県人は別として、ごくわずかな少数派に属しているのではあるまいか。東京の人は、ほとんどの場合、千葉県がすぐ隣にあることを、いささか恥ずかしいことと思っているらしい。・・・千葉は、なるほど少々粗野ではあるにしても、変に取り繕っていない分だけ、むしろ正直でいい。千葉以外の東京の近県は、東京に同化されすぎていて、そういう率直さを失ってしまっている。ほかの県でも、千葉に劣らず不正な、規則を破る行為は多々あるはずだが、千葉はその事実について、もっと開けっぴろげだというだけのことではないか。谷崎潤一郎の『細雪』は、やがて私の訳すことになる小説だが、その中に、家族のかかりつけの医者が出てくる。いかにも温かみのある人物で、明らかに、誰か実在の人物をモデルにしたと思われるのだが、この医者が、実は、千葉の出身ということになっている。それにまた、私がやがて知り合いになり、大好きになる有名な作家の一人、立野信之も千葉出身だ。・・どうやらこの土地には、何かがある。土臭い、気取らない、率直で、たくましい、何かがある。」

そして、こんな箇所が出てくるのでした。


「外房で過ごしたすばらしい夏は、全部で六度にわたったが、すべて1950年代のことで、最初は51(昭和26)年の夏だった。九十九里の片貝村で、薬屋の二階を借りてひと夏を過ごしたのだが、東京や千葉から、ひっきりなしにお客があった。・・・片貝村という地名は、今では地図に載っていない。町村合併で併合されてしまったからだが、半農半漁の村だった。・・・漁業にかかわる半分は、漁師の人たちも、漁船も、浜に打ち寄せる大波も・・・実に愉快だった。・・漁師の人たちはと言えば、あれほどつらい労働に精を出す人々を、私はかつて目にしたことがなかった。港がないから、一日の漁が終わると、船を砂浜に引き上げなくてはならない。それも、決して小さな舟ではないのである。みんな、ほとんど素裸に近い姿だった。時には私も船に乗せてもらって、沖の漁の様子を見せてもらうこともあった。網を引く仕事は、まさに重労働そのもので、私など、三十分も持ちこたえられそうになかった。にもかかわらず、すべては笑いと、猥雑な歌に満ちていた。中でも猥雑でたくましかったのは女性たちで、船に乗ることは許されないけれども、魚を降ろしたり、船を浜に引き上げる仕事は、ものすごい勢いで手伝った。私は、この女たちが好きだった。男たちも、そしてこの村そのものも、大好きだった。・・・」(p112~113)

     E・G・サイデンステッカー著 安西徹男訳
      「流れゆく日々 サイデンステッカー自伝」(時事通信社・2004年)


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崋山と一斎。

2007-05-28 | Weblog
谷沢永一・渡部昇一著「人間は一生学ぶことができる」(PHP)は、佐藤一斎の「言志四録」の随筆的な断片を、適宜取り上げながら進行してゆく対談です。
さて、前回とりあげたドナルド・キーン著「渡辺崋山」(新潮社)の、引用の繰返しになりますがキーン氏はこう書いておりました。
「崋山に永遠の名声を与えたのは肖像画であって、他の様式の画でもなければその生涯に起きた数々の事件でもなかった。描かれた人物が誰であれ、また描かれた時代がいつであれ、崋山の肖像画には常に生気に満ちた説得力が漲っている」(p158)

それでは、崋山の肖像画ではどれが一番有名なのでしょう。
今回紹介する対談本に、それらしき箇所がありました。

「学力、気迫を兼ね備えた佐藤一斎という人物の姿を今日に伝える絵が、東京国立博物館に残っています。これは渡辺崋山の作品です。崋山は、肖像の描き方という一つのパターンを作りました。その最高傑作とされるのは下総・古河藩の家老・鷹見泉石の肖像画です。蘭学を通じて、崋山は鷹見泉石と交流があり、そこで得た共感と尊敬とを兼ねて描かれたと言われています。これを第一位とすると、第二位が佐藤一斎の肖像画です。佐藤一斎の肖像画は文政九年、渡辺崋山が29歳、一斎が50歳のときに描かれたと思われます。絵のスケッチが七種類、残っていて、崋山が何遍も下書きをし、納得のいくまで仕上げたことがうかがえます」(p21)

これは谷沢永一氏の言葉です。渡部昇一氏はというと、こんなふうに触れております。

「一斎は近世儒学の最高峰であると同時に、藩政の実務もこなしたので非常に尊敬された人だった。当時の人は一斎の顔つきや癖まで真似ようとしたという噂があるぐらいです」(p251)


ここで、ドナルド・キーン氏の文、佐藤一斎の肖像画について書いた箇所を紹介しておきます。

「文政四年に描いた作品は、崋山がそのために今日記憶されている肖像画の傑作、人によっては最高の折紙をつけている儒学者佐藤一斎の肖像である。一斎像は、それ以前の日本の肖像画には見られない立体感ある力強い作品である。・・この肖像画はこれに先立って描かれた何枚もの画稿の末に初めて完成された。画稿第二では、一斎の顔はほとんど近寄りがたいほど厳しく見える。画稿第三では、その表情は笑みを漂わせて和らいでいる。画稿第十一になると、一斎の表情は哀愁を帯びて内気でさえある。完成稿(これだけは紙本でなく絹本に描かれている)の表情は意志強固で、眼は鋭い。場合によって前に描いた画稿の方が完成稿よりも生き生きと、より力強い効果を生みだしている。しかし完成稿は、佐藤一斎の風貌のみならず、儒教に対する信念の強さを伝えることに最も成功している。」(p83)

「明らかに崋山が望んでいたのは、肖像画が対象の目鼻立ちの写実的な描写であると同時に、人物の個性の再現でもあることだった。弟子の椿椿山(つばきちんざん)に宛てた手紙に美術の目的や技巧について述べたものがあり、画は描かれる対象に似ていなければならないと繰り返し主張している。伝統的な日本の風景画に、中国のどこかにありそうな無名の山がよく出てくるが、そうしたものに崋山は一切関心がなかった。一つの山は一つの顔のように、紛れもなく独自の個性を持っていなければならなかった。崋山は一斎像を完成するまでに、少なくとも十一枚まで番号が付けられた一連の画稿を描いているが、これはその枚数において前例がない。・・・一斎像の画稿第二でさえ、すでに深い感銘を与える。しかし、崋山は満足しなかった。残存している画稿の中でも崋山が一斎の顔や頭部よりも一斎そのものを描くことに決めたのは画稿第十一になってからである。・・・」(p84~86)


また、渡部昇一・谷沢永一の対談にもどりますと、
佐藤一斎著「言志四録」を取り上げる理由として、谷沢さんは二つあげています。
「江戸時代が幕を下ろす直前に生まれた『言志四録」は、江戸時代の儒学、漢学が到り着いた一つの頂点ということです。・・第二に、西郷南洲(隆盛)が傾倒したことです。・・」(p14)

渡部氏は、こうも語っております。

「佐藤一斎は家老ぐらいの職にあって藩政にかかわったから、政治の取り方、上になったときの心得等々に、体験の裏打ちと学問の裏打ちの両方があります。したがって、後に大政治家になる西郷に訴えるところがあったに違いないし、十分なヒントを与えたのだろうと私は想像します。一斎の弟子ということでは、中村正直を挙げておきたいと思います。中村は一斎についている頃から英語の勉強を始め、幕府が有望な旗本をイギリスに留学させるときに総監督を兼ねて渡英しました。・・・中村は儒学の最高峰の佐藤一斎に学んだ最高の弟子でした。」(p253)


さて、谷沢永一氏の筋道を、あらためて辿り直してみたいと思います。
同じお二人の対談で、この本の前にも「人生後半に読むべき本」(PHP)がありました。そこでの谷沢さんにこんな言葉がありました。

「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。『徒然草』がなければ、たとえば井原西鶴の『好色一代男』はなかったろうといわれている。つまり初めて人情というものを著作のテーマにした史上空前の記述なのです。『徒然草』にいたって、しみじみと人生の味わいを語るという新しい分野が広がりました。『徒然草』があったから、西鶴が人情をテーマの中心に据え、それから伊藤仁斎が学問の方面で人情をテーマにするということができたといってもいい。全部源流は『徒然草』。」(p153)

そして、今回の対談「人間は一生学ぶことができる」で、谷沢さんはこう語っております。


「江戸時代の儒学は、伊藤仁斎あるいは山鹿素行以来、人生論の探求であり、社会論の探求であり、『人間、いかに生きるべきか』の研究でした。よかれ悪しかれ、そこに一つの特色があります。」(p15)

「仁斎の『童子問』から近世儒学は熟成し始め、佐藤一斎に至ります。近世の儒学を代表する本を問うならば、まず山鹿素行の『山鹿語類』、それから伊藤仁斎の『童子問』、荻生徂徠の『論語徴』と続き、最後に佐藤一斎の『言志四録」という系譜ができるのではないかと思います。」(p18)


ともかくも、渡辺崋山は、その佐藤一斎の肖像画を描いたのでした。
そして、ドナルド・キーンは、まるで日本人にダビンチの「モナリザ」を紹介するような態度で、世界にむかって「渡辺崋山」を紹介しているのです。



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「渡辺崋山」。

2007-05-26 | Weblog
ドナルド・キーン著「渡辺崋山」(新潮社)を読みました。
たのしかった。こういう場合は、きちんとした楽しみの由来を書くのが本筋なのでしょうが。この音楽を聴いたような楽しみを、どう書き留めておけばいいのかなあ。ということで搦め手からはじめるわけです。

「編集者 齋藤十一」(冬花社)は、多くの方の追悼・回想を集めて一冊にしてあります。そこに池田雅延氏の「微妙という事」と題した文が載っておりました。
池田氏が小林秀雄に聞いた話が載っております。
「『文学は読まなくちゃだめだよ。だがね、文学を読んでいただけではわからない。微妙ということがわからない。音楽を聴けばわかるよ。絵を見ていればわかるよ』そのまましばらく口をとざされ、そして続けられた。『齋藤はわかっているよ。微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いてるからな』」(p160)

さて、ここで齋藤十一にもっていくと脱線するので、ドナルド・キーン著「音楽の出会いとよろこび」(中公文庫)をもってきます。
そのあとがきにキーンさんは、こう書いておりました。

「・・自分は文学よりも音楽の研究を目ざしていたほうがよかったのではないかと思うことがときどきある。いつもことばよりも音楽のほうに深い感動を覚えるからだ。しかし、音楽について書くということも、それが自分の主たる専門活動になってしまえば、たちまちそれほど楽しい仕事でなくなってしまうことは目に見えている。」
そのあとこんな箇所があるのです。
私はキーン著「渡辺崋山」についての解説を読むようにして、このあとがきを味わいました。
「・・専門の音楽批評家たちの文章を読んだり、FM放送などでの彼らの解説を聞いたりしたときに感じたいら立ちが直接の刺激になって書かれている。わたしは批評家たちが、過去の陳腐な意見を繰り返してばかりいるのが不思議でならない。例えば、ドイツ音楽をしかるべく演奏できるのはドイツ人だけである、ヴェルディをまともに歌えるのはイタリア人だけである、今世紀に作曲された弦楽四重奏は、音楽としてベルリーニのオペラにまさっていないわけがない等々。そうした意見は、実際には間違っていないのかもしれないが、わたしにはうんざりだ。そこで、ヘソ曲りの本性を発揮して、反論を楽しんできたというわけである。・・いうまでもなく、定説なるものには必ず根拠のあることは承知しているし、本物の音楽学者の深い学識には頭がさがる。しかし、四十年以上にわたって音楽を聴き続けてきたわたしには、少しくらいのワガママが許されてもいいという気持がする。それに、定説から逸脱したわたしの音楽観でも、読者の興味をそそるくらいの力はあってほしいと願っている。」


音楽はこのくらいにして、渡辺崋山の絵の話。
では、ドナルド・キーン氏の本文からの引用をしてみます。
2箇所。

「北斎漫画は、画学生の便宜のために作られたように見える。その特徴が最もよく現れているのは、たとえば『雀踊り』を描いたページである。後ろ姿の小さな人物たちが、激しい踊りの動きの中で腕、脚、胴体を旋回させている。思うにこれは、あらゆる動きの中で人間を捉える、その描き方を画学生に教えるためのものではないだろうか。『一掃百態』には、こうした教育的な意図は一切ない。代わりに崋山が描こうと努めたのは、多様性に富んだ江戸の人々の生活そのものだった。そうすることで江戸の読者を楽しませると同時に、何世紀か後にスケッチを見る人々の胸に崋山が生きていた江戸の日々を蘇えらせることを願ったのだった。・・・人々の新奇を求める気持が絶えず変化を生んでいる。おそらく崋山は、この変転極まりない江戸の生活の一日を捉え、それを永遠に保存したいという思いに駆られた。・・・」(p80~81)

「崋山に永遠の名声を与えたのは肖像画であって、他の様式の画でもなければその生涯に起きた数々の事件でもなかった。描かれた人物が誰であれ、また描かれた時代がいつであれ、崋山の肖像画には常に生気に満ちた説得力が漲っている。ところが、これらの傑作がどのような状況のもとで描かれたかを知ったら、あっと驚くことになるかもしれない。たとえば崋山が鷹見泉石と市河米庵の肖像画を描いた天保八年(1837)は、日本全国を苦しめた大飢饉の最も深刻な年である。藩の重職にあって痛切にその責任を自覚していた崋山は、藩民に食料が行き渡るように全力を尽くした。崋山は、見事に成功した。全国で多くの餓死者が出たにもかかわらず、田原で飢える者は一人もいなかった。・・・ともあれ崋山は逆境から立ち上がり、画を描き続ける気力を取り戻した。あるいは過酷な飢餓のさなか、家族を養うために崋山は描いた。」(p158~159)
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植木等。

2007-05-26 | Weblog
2007年3月27日植木等亡くなる(80歳)。
3月29日朝刊一面は、各紙がそのテーマでのコラムを書いておりました。
そのコラムで、興味深かったのが、毎日新聞「余禄」と朝日「天声人語」。
同じように、植木等の小学生の頃を取り上げており、コラム比較にはうってつけ。
さっそく、4月12日号の「週刊新潮」「週刊文春」を買って読みました。
4月27日は植木等さんをしのぶ「さよならの会」。
それを機会に28日から、産経新聞では5日連続「植木等伝説」を社会面で連載しておりました。さて、こうなると、たとえば文芸春秋の6月号は、と期待していたわけです。残念期待はずれ。植木等の特集は「文芸春秋」にはありませんでした。ちなみに、文芸春秋の「蓋棺録(がいかんろく)」では取り上げた最後に「・・再び脚光を浴びるのは90年秋、植木等メドレーの『スーダラ伝説』を発表したときだった。この年の暮れ、20数年ぶりでNHKの紅白歌合戦に登場して『スーダラ伝説』を歌った数分、視聴率は56・6パーセントのピークを示した。」としめくくっておりました。せめて亡くなった時ぐらいは「文芸春秋」で特集組んでれば、この雑誌の購読数がピークになるかもしれなかったのになあ。と、期待はずれの残念無念。なんと文芸春秋では「誕生70年女王・ひばりが号泣した夜」なんてのが載っていて、ちょいと読む気になりません。

取り上げてくれたらなあ。と私は思ったわけです。
読めなきゃ。私なりに書いちゃえばいいわけです。そのためにブログがある。
というわけで、植木等。

 3月28日「よみうり寸評」は、植木さんを「この歌この歌手」(読売新聞文化部編・現代教養文庫)から取り上げていたかと思うと、次の日「よみうり寸評」では、小林信彦著「テレビの黄金時代」をあらてめて読み直してみた。とあります。
3月29日「編集手帳」では「渥美清さんの映画『拝啓天皇陛下様』を見た植木さんの感想を、作家の小林信彦さんが著書に書き留めている『渥美ちゃんのは芸術ですよ。ぼくのは映画のマンガですね』(新潮文庫「日本の喜劇」)。とあります。

小林信彦さんといえば、岡崎武志著「読書の腕前」(光文社新書)には、第七章「蔵書のなかから『蔵出し』おすすめ本」で、小林信彦著「本は寝ころんで」(文春文庫)を取り上げて、こう書き始めておりました「これを無類のおもしろさ、と言うのだろう。読書エッセイに限らず、『日本の喜劇人』を頂点とする小林信彦の著作は・・・」(p280)とあるじゃありませんか。

ふむふむ。と小林信彦著「日本の喜劇人」を覗いてみると。
その文庫あとがきには、こんな箇所がひろえます。
「全体を読みかえして痛感するのは、私がもっとも詳しいはずの、クレージー・キャッツや渥美清に関する章が、ごくあっさりとした記述で終っていることだ。・・・ずいぶん、気をつかった挙句、そうなったのである。」という言葉。

それでは、3月29日朝日新聞文化総合欄に載っていた小林信彦の「植木等さんを悼む」から

「時は昭和33年秋、映画『三丁目の夕日』で描かれた時代である。失業した私は、ジャズ喫茶で時間をつぶしていた。ふつうより値段の高いコーヒー一杯で、ハナ肇とクレイジー・キャッツがくりひろげる珍妙なコントと音楽の世界にひたっていた。どうせ、仕事なんかないのだ。グループの中心はMCを兼ねたハナ肇、歌とギャグが植木等、音楽ギャグが谷啓で、その時点での人気者は(なんと!)オヤマ姿の石橋暎太郎(ピアノ)だった。植木等はアイヴィールックに身を包み、色白でリーゼントの髪の一部がパラリとひたいにかかり、いつも悠然としていた。」
「この二枚目が、突然、日本中の人気者になるB級映画が作られた。昭和37年夏の『ニッポン無責任時代』。当時、東宝本社に出入りしていた無責任な快人物をモデルにしたもので、脚本家の話では、はじめフランキー堺が演じる予定だったという。・・・七月末に封切られた『ニッポン無責任時代』を活字で評価したのは佐藤忠男氏と私だったと思うが、同年十二月に『ニッポン無責任野郎』が封切られ、これまたヒットすると、うるさいインテリがリクツを述べ始めた。<無責任>の社会的意味づけである。」

小林さんの追悼文の最後はというと、
「今年の正月すぎに、思いついたことがあって、年賀状を出した。几帳面な植木さんから年賀状がこなかったのを気にしてもいたのである。入院しているとは思わなかったのだ。」

映画については
「『ニッポン無責任時代』(なんとズバリのタイトルであろう!)と『ニッポン無責任野郎』の二作で、植木は無責任人間役の頂点をきわめた。めったに邦画を褒めぬ大島渚が、この二本立てを一回半(つまり、三本分)見た、どうしてあんなに面白いんだろう、と私に語ったが、昭和37年には青島の発想と植木の演技(というより体技)の蜜月時代であった。・・・」(p172・「日本の喜劇人」新潮文庫)


「『ニッポン無責任時代』はともかく衝撃的だった。・・・
しかし、『無責任』シリーズで面白いのは2作目の『ニッポン無責任野郎』まで。それ以降は植木等の陽性のキャラクターでごまかしているが、『無責任』とは名ばかりで個の快楽より公に尽くす昔ながらの主人公に変質してしまっていったのが残念でならない。」(「快楽亭ブラックのヒーロー回復のこの1本」毎日新聞2004年6月13日「日曜くらぶ」から)


ちなみに、小林信彦著「日本の喜劇人」は文庫で今も買えますが、
植木等「夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記」(朝日文庫)は古本でしか読めないのでした。
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石橋エータロー。

2007-05-23 | Weblog
毎日新聞2007年5月20日「日曜くらぶ」に連載中の「あの人に会う」は、青木繁の3回目。そこに石橋エータローの名前が出てきます。

「福田たねは1905年、繁との間に幸彦を生む。幸彦は福田蘭童と名乗り、ラジオドラマのテーマ曲の作曲などで活躍。彼の息子がクレージーキャッツの石橋エータローだ。」

ちょいと、エータローについて2冊ほど引用してみます。

川本三郎著「火の見櫓の上の海」(NTT出版)。
そこにこんな箇所があります。

「布良の漁港から、浜辺を歩いて、自動車道路に戻るようにして坂を上がると、ユースホステルがあり、その近くに、コンクリートの鳥居のようなモニュメントが建っている。昭和37年(1962年)十月、没後五十年にあたって青木繁の後輩にあたる画家辻永らが建てた記念碑で、除幕式には、当時、八十歳を過ぎた福田たねと、彼と青木繁の子ども、福田蘭童が参加したという。福田蘭童は尺八の名手で作曲家。私などの世代には、子どものときに夢中になって聞いたNHKのラジオ・ドラマ『笛吹童子』の主題歌の作曲家として知られる。戦前の松竹の人気スター、清楚な抒情美人の川崎弘子と結婚。その子どもがクレージーキャッツの石橋エータローである。福田蘭童は、釣り好き、料理好き(志賀直哉のためにフグを釣って料理したことがある)で、渋谷に三魚洞(さんぎょどう)という活きのいい魚を食べさせる店を作ったが、これも『海の幸』の縁といえようか。・・・・」(p200~201)


もう一冊引用しておきます。小林信彦著「日本の喜劇人」(新潮文庫)から。

昭和34年の2月のことを取り上げておりました。
「新宿のジャズ喫茶『ABC(アシベ)』では、<クレージーキャッツ>というコミックバンドが若い客相手に奇妙なギャグ入り演奏をみせていた。『ショージョージ』『十二番街のラグ』など、ネタは多くないが、テレビで知られだしており、客の質も良かった。ハナ肇が、創立当時の渡辺プロから三十万円借りて、おふざけバンド<キューバン・キャッツ>を作ったのは30年4月。半年後、<クレージー・キャッツ>と改名した。<キューバン>創立当時のメンバーで、あとまで残ったのは、犬塚弘ひとりである。<シティ・スリッカーズ>解散のごたごたから、植木等しと谷啓が入ってきた。・・・33年秋にかたまったメンバーは、次の通り

  ドラム ハナ肇
  ギター 植木等
  トロンボーン 谷啓
  ベース 犬塚弘
  サックス 安田伸
  ピアノ 石橋暎太郎

この中で、もっとも俗受けしていたのは、現在、辞めて、料理人として著名な石橋エータローである。女形(おやま)風の歩き方で舞台を横切るだけで、どっとウケたのだから、幸せであった。・・・」(p139~140)



それにしても、「海の幸」、「三魚洞」、そして料理人エータローと、興味深い。
さて、クレージー・キャッツが出てきたので、
このつぎは、植木等について書いてみたいと思うわけです。
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そのあたりに。

2007-05-21 | 朝日新聞
文章を書く時に、陥りやすい落とし穴がありまして、
それは、文章の第一ハードルとしての最初に出会う関門としてそびえておりました。ちょっと普通には通り越せそうにはありません。どなたもそこで躓き、その前で右往左往して終わる難関でした。
なんてことを思っていたら、村野四郎の詩「花を持った人」を引用したくなりました。


   くらい鉄の塀が
   何処までもつづいていたが

   ひとところ狭い空隙(すきま)があいていた
   そこから 誰か
   出て行ったやつがあるらしい
   
   そのあたりに
   たくさん花がこぼれている


それでも何人かは、塀から出て行く人はいるわけです。
では、そのためのレッスン。それには、まず壁の存在の確認を怠りなく。
ということではじめます。

清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書)に
「私の少年時代に、美文の型から抜け出るのが文章の勉強の第一歩であったように、現在は、新聞のスタイルから抜け出ることが勉強の第一歩だとも言える。新聞の文章は現代の美文である」(p44)

清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)の第四話は「新聞の真似はいけない」でした。そこにこんな例がでております。

「どなたもお気づきかと思いますが、新聞を読んでいると、『・・・ようだ』という一句で終る文章によく出会います。私は、この一句を見るたびに、何か落ち着かない気持ちになってしまいます。なぜなら、『よう』というのは、推測を意味する弱い言葉であり、『だ』というのは、大変に強い断定の言葉であるからです。『よう』と『だ』とは、素直に調和しない言葉、正反対の言葉のように感じられるからです。本当に推測なら、『ように思われる』とか、『ように思う』とすべきでしょうが、それでは、頼りない主観的な感じが出過ぎるために、『だ』を補っているのでしょう。逆に、本当に断定するなら、『よう』という曖昧な言葉は避けるべきです。しかし、断定してしまうと、どこからか苦情が出た時に、逃げ道がなくなります。・・逃げ腰で口先だけ強いことを言っているような、こういう表現を私は好みません」。

違う本から引用してみましょう。
石原千秋著「大学生の論文執筆法」(ちくま新書)に
「新聞などのマスコミでよく見かける言い回しの中で僕が最も嫌いなのが、何かを批判して『~と言われても仕方あるまい』と収める言い方だ。これも『朝日新聞』から・・ストックしておいたものを、バリエーションを含めてアトランダムに挙げると、『総裁人事を選挙向けのパフォーマンスに利用したといわれても仕方あるまい』、『これでは捜査をする気がなかったといわれても仕方があるまい』、『テロを容認したと言われても仕方ないものだ』、『幹部による組織の私物化と受け取られても仕方あるまい』、・・・などなど。・・
どうしてこういう腰の引けた無責任な表現をするのか、僕には実は理解できる。自分の言葉で批判して『責任』を取るのが厭なのだろう。あるいは、自分の言葉で批判して再批判されるのが怖いのだろう。「きっと誰かが『批判』するだろう、だけど『批判』するのは私ではありません」、こういう声が聞こえてきそうだ。『批判』は他人任せというわけだ。テレビでアナウンサーや記者がレポートの終わりに、『まだ議論は始まったばかりです』などと言うのも、無責任な点では変わりはない。そんなことを言っているヒマがあったら、さっさと自分たちで『議論』すればいいではないか。日本のマスコミの無責任体質がこういう表現によく表れている。『批判』したり、『議論』したりするのは、自分の責任で行いなさい。何度も繰り返すが、研究者が『批判』したり、『議論』したりするときには、研究者生命を賭けているのだ。だって、研究者が『地球が回っていると言われても仕方あるまい』なんて書いたら、バカみたいじゃん。だから、こういう責任逃れのヤワな言い回しが僕は最も嫌いだ。・・・」(p59)こうしてまだ続くのですが、(ちょいと引用がめんどくさくなりました)これくらいにしておきます。


それでは、こうした文章ばかり書いている新聞は、どうなってしまったのか。
それを知りたければ、高山正之著「歪曲報道」(PHP)などいかがでしょう。
朝日新聞を取り上げております。
この本の中で高山正之氏は、こう書いております。
「・・『朝日新聞』は「まさか」ではなく、間違いなく「おかしい」「異常だ」という確信がこのとき生まれた。それからまるまる30年。残念ながら「確信」は裏切られることなく、むしろより異常さが増幅しているように思う。たとえば30年目に起きた『朝日』の本田雅和記者によるNHK・政治圧力事件。・・・」(P199)



   くらい鉄の塀が
   何処までもつづいていたが
   
   ひとところ狭い空隙があいていた
   そこから 誰か
   出て行ったやつがあるらしい




もう少し高山正之氏の言葉を引用して終わりにします。

「こんな大事なことを『朝日』は取材不足で手抜きしたのか、というとそうではない。この新聞は意図的に読者をミスリードするあやかし系をもって得意とする。手抜き記事とこういう騙しの記事は見た目そっくりだが、見分け方は簡単だ。『朝日新聞』が書けば騙し記事。よその新聞なら、それは手抜き記事ということだ。」(P112)

「NHK 報道問題でも、『朝日新聞』の本田記者の思い込み記事によって日本は大いなる過ちを犯すところだった。やっと正しいことがいえる政治家が出た。『北朝鮮に経済制裁をすべし』といえた安倍晋三氏。そして海底資源に関する中国の盗っ人猛々しい言い分にきっちり文句のいえた中川昭一氏。その2人は『朝日』お得意の事実組み換え記事によって危うく葬り去られかねなかった。それは9万人を北朝鮮に送り込んだこととは比較にならないほど大きな痛手を日本に与えるところだった」(P219)


    そのあたりに
    たくさんの花がこぼれている



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現代美文の壁。

2007-05-19 | 朝日新聞
朝日新聞の古新聞が届きました。
さっそく、5月10日の例の個所をさがしたわけです。
一度全体を見渡して、気づかずに改めて第二社会面を覗くとありました。
ここは、後学のために引用しておかなければ。

「週刊朝日は5月4日・11日合併号で、元秘書が、銃撃容疑者の所属する暴力団から脅迫を受けていたとする記事を掲載。・・これに対し、首相側は記事の内容を全面否定し、週刊朝日と朝日新聞に抗議した。」

朝日新聞の注目。第二社会面のベタ記事扱い。見出しは「首相秘書らが本社など提訴」と小さくありました。ていねいに読んでみても、朝日新聞が正しく、首相側が間違っているという記事としてしか読みとれないのでした。

朝日新聞が引用した首相の言葉というのが、あります(部分引用がうますぎです)。
この箇所も、後学のために書き留めておきます。


「私の秘書にも人権があるし、家族もいる。まったく関係ない暴力団とあたかも関係があったかのように報じられている。まったく事実無根で捏造だと思う」


「記事の内容を全面否定し」と強調し、首相の言葉にある「まったく」の繰返しをたくみに記事に反映させる手腕。「全面否定」という箇所をかってに取り上げておいて、「まったく」という使い方にむすびつける秀作。そして啓蒙的な優位に朝日新聞がいるというような雰囲気を醸す記事を作っております。これが朝日新聞の文章力。

岩波新書から昭和34年に出た清水幾太郎著「論文の書き方」という古い本。現在もちゃんと注文すれば買えます。これ、あまりにも有名なためか、講談社の「清水幾太郎著作集」(1993年)では、省かれておりました。その新書の中に、こんな言葉が拾えます。


「新聞の文章は現代の美文である。その用語や表現には新聞独特の思想が浸み込んでいる。・・本当に文章を勉強しようとするなら、過去の人々が美文の壁を突き破ったように、今は現代の美文の壁を突き破らなければならない。」(p48)


「バカの壁」というのは、養老孟司さんでした。
清水幾太郎さんは昭和34年に「現代の美文の壁」という指摘をしておりました。
この昭和34年という頃を、ここで、もう一度反芻してみます。
司馬遼太郎の講演に「週刊誌と日本語」がありました。
そこで司馬氏は桑原武夫氏にこう聞いております。
「共通の文章日本語ができそうな状況になったのは昭和25年ぐらいではないでしょうか」と。以下は講演のままに引用してみます。
「この時代に共通の日本語ができつつあったのではないかと桑原さんに言ったところ、桑原さんは言いました。『週刊誌時代がはじまってからと違うやろか』。昭和32年から昭和35年にかけてぐらいではないかと言われるものですから、私も意外でした」。そして、このあとに西堀栄三郎さんのエピソードをもってきておりました。この司馬さんの講演の最後には、こんな言葉がありました。

「平易さと明晰さ、論理の明快さ。そして情感がこもらなくてはなりません。絵画でも音楽でもそうですが、文章もひとつの快感の体系です。不快感をもたらすような文章はよくありません」。

そういう魅力の文章を書くのに、どうすればよいのか。
その一つの道筋に清水幾太郎著「論文の書き方」があると、私は思うわけです。
そういえば、清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)には
「私の考えでは、新聞の文体だけは真似しない方がよいと思います」(p29)
とありました。ここでは、その新聞を朝日新聞と指定したいと、私は思います。
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房総の風景の。

2007-05-17 | 安房
週刊新潮創刊号(1956年)の表紙絵には、絵のなかに書き込みがありました。
それが、「上総の町は貨車の列、火の見の高さに海がある」でした。
そうそう、川本三郎の本に「火の見櫓の上の海」(NTT出版・古本)というのがあります。
その副題は「東京から房総へ」。川本さんのあとがきには、こんな言葉が拾えます。
「『近所田舎』という言葉がある。辞書には載っていないが、東京の人間が房総のことをよくそういった。『すぐ近所の田舎』といった意味である。海があり、畑があり、山がある。夏、東京からやって来た人間は、海辺の小さな町で、しばし『田舎暮し』の楽しさを味わうことが出来る」
そして、本の題名についての説明。
「房総半島には、低い山がすぐ海まで迫っているところが多い。町は、山と海のあいだの狭い傾斜地に出来ている。だから、駅を降りて海のほうへ下っていくと、海が瓦屋根のあいだに、火の見櫓の上に見えてくる。谷内六郎は、それを『火の見の高さに海がある』という言葉でうまくあらわした。表題はそれに倣った」
ちょいと、この言葉も引用しておきましょう。
「『近所田舎』としての房総を、近来、いちばんよく楽しんでいるのは、マンガ家のつげ義春だろう。・・・私にとって、つげ義春は、房総の風景の発見者である。・・小さなありふれた町を歩く、その日常性のなかにこそ旅の醍醐味があると教えてくれた、旅の良き先人である」
あとがきは「1995年5月」とあります。もう10年以上前の本になります。


さてっと。毎日新聞の日曜版「日曜くらぶ」に「あの人に会う 日本近代史を訪ねて」という連載があるのでした。2007年5月6日と5月13日は「青木繁」の特集でして、まだ来週も続きそうです。文と写真・米本浩二とあります。最初の回は房総半島南端の布良海岸にある「青木繁の記念碑」出かけています。そしてこう綴っております。
「青木繁が名作『海の幸』を描いた場所である。1904年7~8月、繁は恋人の福田たね、画友の坂本繁二郎ら総勢4人で布良の民家に寄宿する。もっぱら繁が絵に没頭するための布良行きで、坂本らはお手伝い役だったらしい。『海の幸』は古代神話を思わせる裸体の漁師の行進を描いている。大魚を背負う陸揚げの様子を坂本から聞いた繁は一気に絵筆を走らせたという」
ちなみに、2回目の5月13日では「青木繁の代表作『海の幸』は福岡県久留米市の石橋美術館が所有している。現在も企画展で公開されている」として、そこに出かけて学芸課長・森山秀子さんとの会話も取り入れております。
何でもこの国の重要文化財は、縦70.2㌢横182㌢の油絵で「大魚の陸揚げが醸し出すイメージが壮大なだけに、実物を小さいと感じる人は多いのではないか」というと、森山さんが答えて「当時の限界でしょうか。布良(めら)で寄宿した民家は狭いし、東京の下宿も4畳半か6畳程度でしょう」。

それでは、川本三郎さんの本では、どのように紹介されていたか?
気になるところではあります。ちょうど200ページにそれはありました。

「この絵のなかの漁師たちは、全裸である。・・・
房総の裸の漁師といえば、木村伊兵衛の写真集『昭和時代』第一巻(昭和59年、筑摩書房)には、裸のたくましい漁師たちが浜辺で船を出そうとしている姿を撮った写真がある。・・・それを見て解説の色川大吉は、『たとえば少年のころ、毎夏、私は銚子や九十九里浜に泊りがけで行った。銚子では漁師たちが市内でもふんどしもつけずに歩いているのに眩しいような思いをした。・・・』・・・青木繁の布良滞在は約二ヵ月にも及んだ。・・海のなかの様子を知るために、『あま眼鏡』で海底にそよぐ藻類や魚を観察したという。房総の海がよほど気に入ったのだろう。次の年の五月には、恋人の福田たねと内房の保田(ほた)を訪れている。青木繁の絵には、房総の海が大きな役割を果たしたことになる」。


ここでさらに、気になるのが、木村伊兵衛の写真集。
ちょうど、その巻だけ簡単にネットの古本屋で買うことができました。昨日とどいたのです。
浜辺で船を出そうとしている裸の漁師たちの一枚の写真。
これは一見の価値がありました。そう思っちゃうほどに、私には鮮やかな残像。
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「谷内六郎館」へ。

2007-05-13 | 安房
週刊新潮2007年5月17日号に
「4月末、神奈川・横須賀に『谷内六郎館』がオープンした。本誌(週刊新潮)の表紙原画を常設展示する美術館の誕生である」として写真で紹介されております。もうちょっと紹介記事を引用してみましょう。
「新設された横須賀美術館の『離れ』のような形で、海に面して立つ六郎館。ここでは、谷内六郎さんが25年にわたって描いた表紙原画が、創刊号から順番に展示される。まず6月3日までは、1956年分。そして7月8日までは57年分といった具合だ。なにしろ膨大な数だけに、全部を展示するのに約3年かかる予定。その多くが、展覧会に出品されたことがなく、ここ横須賀で初公開となる」。
週刊新潮に25年間描き続けた1300点余に及ぶ原画を収蔵するのでした。もしも機会があれば、立ち寄ってみたいなあ。けれど、全部を見るのに3年かかるのも困るなあ。もし一度に全部見れたら、どれだけいいことか。私なら、邪道だけれど、壁が見えなくなるほどにその原画を掛けておくという企画をするだろうに。絵画を見て満腹感を味わって帰るというのが贅沢な理想。そうしたら、一泊してでも、見に行きたいなあ。思うのですが、たとえば東北の美術館に見たいコレクションがある。として、せっかくでかけていっても、その一部しか見れないとしたら、かえってわざわざ見に出かける意欲がそがれるのじゃないかなあ。たとえ、配列がゴッチャになって、隙間がなくっても、全部の作品を見ることができるのなら、私は行きます。そういう贅沢な配列を試みてもいい時期にきてるんじゃないでしょうか。と、私の夢を語ってみました(もちろん。私の貧乏性が語らせる発想なのですが、絵を全部見終ってから、語りたいこともあります)。

  神奈川県横須賀市鴨居4―1 
   横須賀美術館敷地内 谷内六郎館
   電話 046―845―1211   10時~18時
    毎月第一月曜と年末年始は休館。
   観覧料(常設展) 一般300円・高大生と65歳以上200円・中学以下無料。
   京急「馬堀海岸駅」「浦賀駅」
   JR「横須賀駅」からバス便あり


さてっと。それでは、見に行かなくても出来る楽しみ。
つまりですね。あれこれと思ったことを書いてみます。


齋藤美和編「編集者 齋藤十一」(冬花社・税込み¥2500)に、
齋藤美和夫人の談話が掲載されていて、こんな箇所があるのです。


「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、表紙に関することを担当していました。どのような表紙にするか、試行錯誤がつづきました。編集長の佐藤亮一さんから『出版社から初めての週刊誌だから作家の顔で』と言われて、作家の写真を表紙の大きさに焼いてみたりしたのですが、いくら立派な顔であっても、しょせんは【おじさん、おばさんのアップ】で、あまり面白くない。『やっぱり絵にしましょう』と、そのころ若手から中堅の位置にあった高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに描いていただこうと考えたのですが、これもなかなかうまくいかない。そんなときに齋藤(十一)が『こんな人がいるよ。研究してみる価値はあるんじゃないか』と教えてくれたのが、おりしも第一回文藝春秋漫画賞を受賞したばかりの谷内六郎さんでした。」(p280~281)


ちょうど「谷内六郎館」では、6月3日まで、週刊新潮が創刊された1956年2月からの一年分の表紙絵が並んでいるようですね。「週刊新潮」創刊号の谷内六郎の表紙絵は、つとに有名で、名作とされておりますね。これには「表紙の言葉」というのがついていたそうです。それを引用してみましょう。

「乳色の夜明け、どろどろどろりん海鳴りは低音、鶏はソプラノ、雨戸のふし穴がレンズになって丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈。兄ちゃん浜いぐべ、早よう起きねえと、地曳(じびき)におぐれるよ、上総(かずさ)の海に陽が昇ると、町には海藻(かいそう)の匂がひろがって、タバコ屋の婆さまが、不景気でおいねえこったなあと言いました。房州御宿にて」

朝日新聞社文化企画部「誕生80年記念 絵の詩人谷内六郎の世界展カタログ」には、創刊号の表紙絵について、解説がありました。

「実に25年間、1300枚以上の絵だけでなく、それに匹敵する量の詩とも散文とも思える素晴らしい【作品解説】の始まりがここにある。また同時にこの作品には、その後の谷内六郎のすべてが盛り込まれている。青少年期をすごし、絵画の原点ともいえる房総の海、おかっぱ頭でまつげの長い伏し目がちな少女。そして海沿いに肩を並べて、ひっそりとたたずむ漁師町の家並。それらが水平線と平行して、いつの間にか『貨車』になって動きだす。空想と童話風は作品である。」


ここで、もういちど齋藤美和さんの談話へともどってみると。そこに大学時代の齋藤十一氏のことが語られているのでした。早稲田大学の理工学部に進んだ話です。
「そのうちに、大学生活よりも本を読む方が楽しくなってきた齋藤は、どこか空気のいいところで本をじっくりと読みたくなったそうです。何かやりたくなると居てもたってもいられなくなるのは、性分なのですね。早速本をいっぱい行李(こうり)に詰め込んで、お父さんの月給袋をちょっと拝借して、家出をしてしまいました。目的地は千葉。齋藤は子供のころ、夏になると一家で内房の保田にある農家の離れで過ごしていましたから、土地勘があったのです。中学生のころには保田から外房の鴨川まで下駄で歩き通したこともあって、その途中の吉尾村という集落が心に残っており、あそこに行きたいと考えたそうです。結局、齋藤はこの吉尾村のお寺の客間を紹介されてほぼ1年の間、昼間は近所のお百姓の畑仕事を手伝い、夜は好きなだけ本を読んで過ごしました。・・・」(p273)


ここで、「週刊新潮」の創刊号表紙絵について、谷内六郎・齋藤十一のお二人の間に、房州という地名の補助線がひけそうな感じです。表紙絵について、画家と編集者とのどのような会話があったのかを、あれこれと想像してみるのです。

ついては、そのヒントになりそうなエピソードがあります。
「編集者齋藤十一」に「もう一度行ってきな」と題して写真家野中昭夫氏の文が載っています。そこには「『週刊新潮』のグラビア写真は、亮一さん、十一さんの厳しいチェックで、没続きの三年半が過ぎる」(p105)と編集者としての齋藤十一氏のことが出てきます。そこに昭和36年(1961年)の新年号から『芸術新潮』が『読む雑誌から見る雑誌へ』と週刊誌大になって、写真を多く掲載するようになった頃の思い出が書かれているのでした。
「2、3日撮影して、2、30本のフィルムを抱えて夜行で帰京する。早朝の暗室に飛び込み、現像、引き伸ばしを終えて渡す。・・・やがて山崎さんからの呼び出しがあって編集部に行くと、齋藤さんの姿はなく、『もう一度撮り直しに行く。明日出かけるよ』の一言。この雑誌に来てからは、二度ならず三度の取り直しをしたことすらあった。『齋藤さんは何をお望みなんでしょうか』。答えは『何をじゃないよ。どう撮るかだよ』。さらに、『齋藤さんという方はご自分を読者の一人と考えているから、当り障りのない写真では満足しない。雑誌を開いてハッとするような写真でないと読者は買ってくれない』とも。」
そして「もう一度行ってきな」と言われてた野中氏はこう述懐するのでした。
「このシリーズを撮り出した頃は、土門拳氏と入江泰吉氏のことがいつも頭の中にあって・・・だがこの思いは、撮り直し、撮り増しを何度か繰り返しているうちに、間違っていると考えるようになった。」(p107)

こうして、「谷内六郎館」が出来るほどの表紙が描かれる「週刊新潮」を、一から手がけた齋藤十一だからなのでしょう。「新潮45」の新創刊に際して語った齋藤の言葉が、あらたな逆説として、鮮やかに浮かび上がります。

「石井君、表紙なんかいらないよ」
「日記と伝記が雑誌の柱だ」
「グラビアなんかいらない。活字だけ」
「誰も表紙なんか気にしやしないんだよ。問題は中身だ。・・」(p177)
 (「編集者齋藤十一」のなかの、石井昴「タイトルがすべて」)

それにしても、と思うわけです。
「谷内六郎館」へ行ってみたいなあ。
いつか、機会があったら。





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広告を読む人。

2007-05-11 | 朝日新聞
2007年5月10日の産経・読売新聞を読みました。産経新聞は二面の総合ページの真ん中に普通の見出しで書かれておりました。その見出しの言葉は「朝日新聞社など提訴」とあり横に「首相秘書ら 記事・広告で名誉棄損」とあります。本文の最後には、こんな箇所。
「安倍事務所は9日、『根拠が薄弱な記事でも、安倍首相に関することなら躊躇なく掲載するという判断が朝日新聞社内でまかり通っている事実に、極めて執拗な悪意と恐ろしさを感じる』とのコメントを発表。・・・」

つぎに、「読売新聞」を見てみますと、こちらは第二社会面の記事のほぼ半分を使っており、見出しが「週刊朝日広告巡り提訴」とあり、横に「首相秘書ら 過激表現で『名誉棄損』」。読売は社説にも取り上げております。社説の見出しはというと、「新聞広告、中吊りも同罪では」。読売新聞が打ち出している解釈は「最近は、広告だけを読む人が多いことを踏まえ、広告の見出しそのものの違法性を指摘する判決が相次いでいる」という視点で一貫しております。
そして、読売新聞は電車の「週刊朝日」中吊り広告の文句をキチンと写し、
注意すべき点を提示しております。その箇所。
「問題の広告が一部新聞に掲載されたのは射殺事件から一週間後の4月24日で、『射殺犯と安倍首相の「関係」』という大きな見出しが躍った。同じ日、JRや私鉄各線の車内にも『城尾容疑者所属の山口組系水心会と安倍首相の「関係」を警察庁幹部が激白』という中づり広告が出された。しかし週刊朝日の記事は、安倍首相の秘書が暴力団などから脅され、そこに射殺事件の容疑者の所属団体が関与していたという関係者の証言を報じたもので、広告から受ける印象とは内容が大きく異なる」
読売社説には「週刊朝日の発行直後から、首相の憤りは激しかった。『でっち上げ、捏造(ねつぞう)だ』『いわば言論によるテロ。これは報道ではなく(新聞社の)政治運動だ』」としており、
第二社会面では、公設秘書らが朝日新聞社などを提訴したことについて安倍首相の言葉を載せております「言論による暴力は許せない。全く事実無根の捏造だ。私の秘書にも人権はあるし、家族もいる。全く関係のない暴力団とあたかも関係があったかのように報じられているが、全くの事実無根で私は捏造だと思っている。本人も許せないと思うが、私も許せないと思っている」。

産経新聞にもどると、週刊朝日5月18日号の「おわび記事」の言い回しを引用しております。「当核記事は、首相の元秘書が市長銃撃事件の容疑者が所属する暴力団の組織の幹部などから脅かされていたという証言を取材によって検証したものです」(5月18日号週刊朝日)などとするおわび記事を掲載したのだそうです。これが「週刊朝日」の、編集スタッフが作成したボヤかしの文章表現力。ここに「悪意」が常態化した恐ろしさの表現になっております。こうしてボヤかす技術に実力を発揮する朝日。提訴した理由の「極めて執拗な悪意と恐ろしさを感じる』とのコメントを発表」という言葉がうなずけます。こういう悪意を、ていねいに白日のもとにさらけ出す時期がきたということでしょう。

その「おわび」の文面についても訴状は、とりあげている。
「全く事実に反する誤った印象を再び強く読者に与え、原告の社会的評価を著しく低下させた」と指摘している。

ここで、朝日新聞を読んでみたいのですが、古新聞が来るまでの楽しみにしておきます。私の予測はというと、週刊朝日の「おわび」として前回朝日新聞はベタ記事でとりあげております。これで、アリバイ記事は終り。それ以後の経過は掲載しない。という推理がなりたちそうな気がします。

読売新聞の5月10日社説の最初の方には、そういえば、こんな言葉があったのです。
「一国の総理の側と全国紙のトラブルが裁判沙汰に発展した。なぜ、こんな空前の事態に至ったのだろうか。」
「広告だけを読む人」を手玉に取った確信犯・朝日新聞の捏造の実体が、一日もはやく一般常識として浸透してゆけばと願うのでした。この一連の流れを、「空前の事態」と指摘して、読売新聞は社説で注目したのでしょう。さらに、注目していきたいのは、これからであります。
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パリで聞く震災。

2007-05-10 | 地震
関東大震災をフランスで聞いた人たちがいたわけです。
内藤初穂著「星の王子の影とかたちと」(筑摩書房)を読んで、私に忘れられない箇所があります(ちなみに著者の初穂氏は内藤濯氏の息子)。それは内藤濯(あろう)氏がパリに留学している最中に起こりました。その箇所を、引用してみようと思うのでした。

9月5日
「大災害の報、日を追うて確かになつて行く。大島及び江ノ島の消失が伝へられる。新聞をよむと、涙がこぼれてならない。気が落ちつかないので、何にも手につかぬ」
9月6日
「東京の恐ろしい出来事が伝はりだしてからまだ凡そ三日ほどにしかならないが、もう十日も経つたやうな気がする。支那からの電報で、日本の避難民が続々と上海へやつてくるといふのがある。支那人の偽善が見えすいてゐて、さもしく思ふ」(p226~227)

少し端折って引用します。以下は(p228~229)の記述。


フランス人からの同情を受ければ受けるほど、父(内藤濯)の不安はふくらんだ。パリ在留の日本人仲間には、家族全滅の不幸に遭った向きが少なくなかった。アメリカのニューヨークでは、妻をなくして自殺した日本人がいるとのことであった。暗い想像をかき立てる情報だけが耳につき、やりきれない日がつづいた。留守宅に打った電報については、バリ・東京間の私用電は配付不能とのことであった。・・・そんな状況の父のもとに、パリで親しくなった日本人仲間の一人で画家の高畠達四郎があらわれ、壊滅の日本などに帰る気はなくなったと口走る。宿の女主人から慰めの言葉をかけられても、投げやりの口調で、「僕の家は東京のまん中にありますから、きれいに焼けてしまったことでしょう。身内の連中もあの世に行ったに決まってまさあ」というなり、は、は、は、と笑った。あとで父は女主人につかまり、くだんの笑いは不謹慎きわまると決めつけられ、然るべき説明を迫られた。けっきょく女主人を納得させるに足る説明はできなかったが、父にとっては身につまされる笑いで、女主人の非難には賛同できないものがあった。
それからまもなく『エクセルシオル』紙が「黄いろい笑い」と題して、偶然にも高畠流の笑いを論じた。同紙の記者がその笑いを聞いた相手というのは、かつて石本が能を演じたペリー氏記念会の設営に当たった町田梓楼その人であった。
「日本の変災を取材しようとして、朝日新聞社が当地に派遣している町田氏を訪問した。祖国に残してきた身内の安否に心乱れているのは当然と思っていたが、彼の表情は意外に明るかった。会話しながら微笑さえ浮かばせるのである。自分は一瞬、異様な感じを抱いた。何という冷淡な人間だろうとさえ思った。しかし、そう思うこちらがいけないのではないかと気がついた。考えると、日本人は何らかの悲しみにあるとき、その悲しみの反映(コントルクー)を相手に与えるのを避けようとするのである。彼らの祖先から受けついできた道義心がそうさせるのであろう。・・・」この解釈は日本人への一種に慰めといったほうがよさそうに思えたが、解釈の是非はともかく、父の現実は「黄いろい笑い」で不安をまぎらわすような日々の連続だったというほかない。



以上。引用の箇所が、鮮やかな印象を残すのでした。ここには、パリで聞く(あるいは外地で聞く)「関東大震災」という貴重な日本人の心の動揺が、語られているのでした。
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震災の寅彦。

2007-05-09 | 地震
そういえば、物理学者の寺田寅彦は、関東大震災に遭遇しておりました。
その体験を、さてどこに書いていたのか。何だか読んだような気はするのですが、探せない。たとえば、岩波文庫に寺田寅彦随筆集全5冊があります。パラパラと目次をめくってみるのですが、それらしき題名は見当たらない。こういうときは、ひとりで探し回らずに、水先案内人のお世話になるに限る。と、太田文平著「寺田寅彦」(新潮社)をひらいてみました。ありました。そこにちゃんと引用してあります。それでは、そこからの引用。そして孫引き。
それは206ページにありました。

  大正12年9月1日の関東大震災には、寅彦は東京で遭遇している。しかし、寅彦の自宅は幸いその災禍をまぬかれたばかりでなく、『漸く健康を恢復して、そろそろ自分の専門の仕事に手を付け始めたところへ、あの関東大震災が襲って来て、そうして折柄眼覚めかかった自分の活力に新しい刺激を与えたのであった』(「続冬彦集」の自序)科学者としての真価は、このようにして発揮される契機を摑んだのである。『震災日記より』という作品は、寅彦が如何に冷静な自然科学者であるかを示す好材料である。それによると次のようになっている。
―――9月1日(土)雨が収まったので上野二科会招待日の見物に行く。会場に入ったのが10時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「Ⅰ崎の女」に対するモデルの良人から撤回要求の問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰をかけている両足の蹠の下から、木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来た筈の弱い初期微動を気付かずに、直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちに、いよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時にこれは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた、土佐の安政地震の話がありありと想出され、丁度船に乗ったようにゆたりゆたり揺れるという形容が適切であると感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ていると、四、五秒程と思われる長い週期で、みしみしと音を立てながら緩かに揺れていた。それを見たとき、これならこの建物は大丈夫だということが直感されたので、恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうしてこの珍らしい地震の振幅の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。主要動が始ってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大したこともないと思う頃に、もう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになた。―――
この文中の「Ⅰ崎の女」というのは「出雲崎の女」のことであり、T君というのは津田青楓のことである。寅彦は青楓と別れて、大学へ行き、赤門から入って燃えている図書館の裏から本部の前を通り、物理の二階に火のつきかけているのを見た。・・・・


「震災日記より」とありますから、随筆をいくら探しても見つからなかったわけです。きっと寅彦の日記をあたればいいのでしょうが、あいにくそういう全集は手元になかった。やっぱり探さなくて正解でした。
ちなみに、この太田文平著「寺田寅彦」(1990年)の最後は、というと
「実験物理学者寺田寅彦の真価認識はこれからであるというのが、具眼の士の一致した見解である。」と書き込んでありました。

そういえば、2005年に池内了著「寺田寅彦と現代」(みすず書房)という本がでておりました。うれしいことには、ちゃんと古本屋にありました。
せっかくですから、そこからも引用しておきましょう(p142)。

 
 関東大震災が起きたのは大正12年(1923年)9月1日であった。
それから旬日も経たないうちに書いたと思われるのが「事変の記憶」(大正12年10月)で、寺田寅彦は、ややシニカルに、大震災についての自分の思いを書き留めている。まず冒頭で、

   今度の地震と、そのために起こった大火事とによって、我々は滅多に得られない苦い経験を嘗めさせられた。この経験をよく噛みしめて味わって、そうしていつかはまた起こるべき同じような災いをできるだけ軽くするように心掛けたいものである


と述べているように、寅彦の目はもう未来を見ている。



以上
太田文平・池内了の両氏からの引用をしてみました。
いつかまとめて、寺田寅彦を読みたいと思ってはいるのですが・・・・。



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朝日の政治運動。

2007-05-09 | 朝日新聞
今日電車に乗る機会があって、そしたら途中の駅で「夕刊フジ」が目にはいりました。「安倍事務所朝日提訴」の文字。
次にこうあります。
「安倍晋三首相の公設秘書らは9日、長崎市長射殺事件に『関係』があるかのような記事や広告を掲載され、著しく名誉を傷つけられたとして、『週刊朝日』を発行する朝日新聞や編集長、記者を相手取り、謝罪広告の掲載と4300万円の損害賠償などを求める訴訟を東京地裁に起こす。週刊朝日は、広告の見出しついて一方的な謝罪記事を掲載したが、原告側はその文面も名誉棄損に当たるとして、この記事を取り消す広告の掲載も求めるという。安倍vs朝日の因縁バトルは、ついに法廷に持ち込まれる。」

4月24日の新聞各紙の掲載された週刊朝日の広告に、
安倍首相は24日夜の記者会見で(以下夕刊フジの文面)

 「まったくのでっち上げであって、捏造だ」と完全否定。
「いわば言論によるテロ。これは報道ではなく(朝日新聞の)政治運動ではないか」
「私や秘書が犯人や暴力団と関係があるならば、直ちに総理大臣も衆院議員も辞める」と憤りをあらわにした。
・・・・・・
28日付の朝日新聞や同誌5月18日号にも「お詫び」を掲載したが、記事の内容については
「首相の元秘書が市長銃撃事件の容疑者が所属する暴力団組織の幹部などから脅かされていたという証言を取材によって検証した」として、正当性を強調している。これに対し、前出の事務所関係者は「まったく、話にならない」といい、こう語る。「マスコミの使命は、不確かな証言や情報を綿密な取材で検証し、真実か否かを突き止めて報道すること。問題の記事は『事件の背景はやはり奥深く、いまだ全貌は見えない』と締めくくられている。つまり、真実の特定ができていない証拠だ。それなのに、あのような記事や広告、謝罪記事で、われわれと暴力団が関係あるかのような印象を読者に植え付けた。週刊朝日や朝日新聞の悪意を感じざるを得ない」

さて、明日の朝刊は、どう書かれているのか。気になるところです。
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震災と文体。

2007-05-08 | 地震
昨日なにげなく、清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書)を取り出してきて、ひらいたら(かといって、そのまま読んだわけではありません)。それがこうはじまっているのでした。「約三十年間、私は文章を書いて暮らして来た。従って、文章を書くことについては、実にいろいろの思い出があるが、その中で一番辛かったのは、何と言っても、学生時代の一つの経験である。最初に、その話を書くことにしよう。それは、一番辛かったと同時に、私の文章修業の上で一番役に立ったと思われるからである。・・・・私は、1923年の関東大震災の直後、中学の三年生の時、自分の一生を社会学に献げようと決心して以来、自分勝手の方法でガムシャラに勉強して来ていた・・・」とありました。ここから、本題の「一つの経験」が語られる。その前にチラッと関東大震災に触れられていたのです。

話はとびますが清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)のなか、第19話「簡潔の美徳」があります。そこにこんな言葉がありました。「日本文では、簡潔な書き方というのが、或る特別な重要性を持っているように考えられます。簡潔という美徳を大切にしないと、私たち日本人は、情報の伝達という点で外国人に大きく負けてしまうような気がするのです。」(p125)

この「私の文章作法」には文庫解説があり、「狐」さんが書いております。そこで「狐」さんは、堺利彦著「文章速達法」からの引用をはじめております。その例として
「もしも大火事の記事を書こうとするなら、渦巻く黒煙のあいだに悪魔の舌のごとき深紅の炎が閃き出るとか、蒸気ポンプのけたたましいベルの音が群衆の上に響きわたるとか、その火事のすべての景色を並列的に書き立てても文章がごたごたするばかりだと説く。むしろ些事であっても、火事の混乱を効果的に伝える景色を選び、たとえば『寝巻きに細帯という姿で飛び出した一人のカミさんが、左の手には空の炭取を一つ提げて、右の手には生まれたばかりの赤ん坊を逆様に抱いていたというようなこと』を詳しく描出せよ。無限にある事実のうちから、要点を抜き取って排列し、接続し、組み合わせたものが人の思想で、その思想を外に現したものが文章である。元来、文章とは『事実の略記』なのである――と説かれるとき、堺利彦の語る文章法の的確なこと、斬新なことを思わない訳にはいかない。」(p198~199)

ところで、ここで変な連想になりますが、清水幾太郎は地震の際になにを持って逃げたのか。「私の心の遍歴」に、それがありました。それを引用しておきます。

「大正十二年九月一日、中学三年生の私は、第二学期の始業式に出席しました。式は簡単に済みましたから、十一時過ぎには家へ帰ったように思います。何しろ暑い日なので、半袖のシャツとパンツだけという恰好になつて、暑い、暑い、と言いながら、昼飯を食べました。卓袱台(ちゃぶだい)には初物の里芋が出ていました。食べ終つて、お茶を飲んでいる時、猛烈な震動が来ました。震動と一緒に、頭がボーッとしてしまいました。どうしてよいか判らぬうちに、眼の前で、床の間の柱がミリミリと折れる、というより、粉々に砕けて、天井がドシンと頭の上に落ちて来て、真暗になつてしまいました。」(「清水幾太郎著作集10」講談社。p295)
「そこへ、父が帰つて来ました。潰れた家々の屋根を踏んで、父が帰つて来ました。しかし、その無事を喜ぶ暇もなく、今度は逃げる仕事です。荷物、といつても、私たちが這い出した穴に露出している品物しかありません。穴の奥へ入つて出せば出せるのでしょうが、絶えず揺り返しがあるので、それも出来ないのです。従つて、荷物らしい荷物はなく、私は、穴のところに転がつていた枕とお櫃とを両手に抱えていたように思います。火事はかなり大きくなりました。」(p297)
「九月の八日でしょうか、相変らず、枕とお櫃を抱えて、私たちは営門を出ました。何一つ明るい見透しが生れた訳ではありません。けれども、二日の夜に営門を入った時から僅か一週間ですが、明らかに、私は違つた人間になつていました。父にとつては、すべてが全く終つたようでしたが、私にとつては、すべてが終つた半面、すべてが新しく始まろうとしていたのでしょう。」(p303)
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雑誌部数推移。

2007-05-07 | Weblog
朝日新聞2007年2月1日。
その文化欄に「読めない明日 現代雑誌事情」という特集が組まれていたのです。
折れ線グラフがわかりやすく取り入れられております。
そこからの引用。
「日本ABC協会調べの昨年上半期の平均実売部数を96年と比べると、劇的な変化が読み取れる」とありまして。
 「週刊現代」  72万→44万
 「週刊ポスト」 86万→40万
 「non・no]  94万→34万
 「With」    74万→36万
 「Toukyo Walker」 40万→8万

とあります。落ち込み部数の折れ線なので、部数増加の雑誌は図に表示されていません。
部数増加の雑誌は新聞の文章のなかにありました。

 「週刊新潮」 49万→50万
 「週刊文春」 63万→57万(これは、減ですが、それでも多いということでしょう)
 「CanCan」  52万→64万

さて、ここで「週刊新潮」2月15日号に登場していただくわけです。
そこでは、この朝日新聞の特集について書かれているわけでして。
新聞には影も形もなかった「週刊朝日」について調べております。
では「週刊新潮」から

「が、これを見て、誰もが不思議に思うことがある。
当の朝日新聞が発行する週刊朝日やアエラのことがなぜか触れられていないのである。記事のどこにも出てこないばかりか、部数の推移を表したこの折れ線グラフの中にさえ登場しないのだ。・・・自社の発行雑誌の部数に関する記述はない。」

そしてABC調査によるととして
 「週刊朝日」の94年上半期には、40万812部あった部数が、昨年上半期には20万8972部と、見事に半減していることを確認しております。
さらにこう書くのでした。

「アエラにいたっては、部数の公表さえしていない。週刊朝日は昭和30年代前半、扇谷正造編集長時代に実売150万部を誇ったこともある雑誌である。それが今や20万部台からも転がり落ちそうな瀕死の状態とは、さすがに記述できなかったのだろうか」

つぎに、週刊新潮はちゃんと聞き取りをしておりました。

「朝日新聞広報部によると、『多くの読者の念頭に浮かんでくるのは、大部数を発行している出版社系の雑誌であり、そのため雑誌業界を総覧するようなテーマの場合、これまでも新聞社系の雑誌はほとんど取り上げてきておりません』のだそうだ。実に姑息な報道の仕方だが、こういうやり方は、いわば朝日新聞のお家芸ともいえるものである」

こうして昨日の書き込みの「姑息さ」の内容が「週刊新潮」でつづくのでした。
近頃売り出し中の月刊雑誌「WILL」も、そういえば部数を伸ばしているようですから、朝日新聞の「お家芸の姑息さ」に辟易している読者が、堂々と言葉で対峙している雑誌を読み。バランスをとって、溜飲をさげているのだと、自分の場合を思いながら納得するのです。
知らざあ、言って聞かせやしょう。
この新聞が、何げなく「言論のテロ」をたくらむ確信犯だとは。
そりゃあ、お釈迦さまでも御存知あるめい。チョンチョン。
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