和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『 言葉はてめえの食い物だもの 』

2023-03-31 | 詩歌
丸谷才一著「新々百人一首」の単行本古本を今日解体。
バラバラにわける。春・夏・秋・冬・賀~恋。
はしがき。時代順目次~和歌索引。以上7つに分け。
2023年3月31日は、「新々百人一首」の入刀記念日。

切断しながら、思い浮かぶ詩がありました。
長田弘が、長谷川四郎氏へ書いた詩でした。

    もちろん言葉。
    手羽肉、腿肉、胸肉の
    骨つき言葉であること。
    まず関節の内がわに
    サッと庖丁を入れる。
    いらない脂肪を殺ぎおとす。
    皮と肉のあいだを開く。
    ・・・・
    ・・・・

    油を沸騰させておいて
    じゅうぶんに火をとおす。
    カラッと揚げることが
    言葉は肝心なんだ。
    食うべき詩は
    出来あいじゃ食えない。
    言葉はてめえの食い物だもの。
    Kentucky Fried Poem じゃ
    オ歯にあわない。
   
    ぼくの伯父さん、あなたは
    今日どんな言葉を食べましたか?



ちなみに、この詩が長田弘詩集『食卓一期一会』(晶文社・1987年)に
はいったときは、『コトバの揚げかた』と題名がついておりました。
そして、詩集にはいったときには、言葉がかわっておりました。

はじまりは、『もちろん言葉。』が、『じぶんのコトバであること。』に

最後の2行、『  ぼくの伯父さん、あなたは
         今日どんな言葉を食べましたか? 』

これが   『  どうでもいいものじゃない。
         コトバは口福でなくちゃいけない。 』

にかわっておりました。ちょっと『揚げかた』をかえたようです。
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おみやげは、玉手箱。

2023-03-30 | 本棚並べ
河合隼雄著「泣き虫ハァちゃん」(新潮社・2007年)。

この本ところどころに付箋が貼ってあって、
たしかに読んだのだろうけれど、忘れてる。

きっとスラスラ読んで、スラスラと忘れてしまったのに違いない。
とりあえず、題名だけ思い出したので、本をひらいてみることに。

本の最後に2ページの文がある。平成19年10月河合嘉代子とありました。
そのはじまりを引用。

「この『泣き虫ハァちゃん』は、夫が遺した最後の本になりました。
 世界文化社発刊の『家庭画報』に連載中、平成18年8月に脳梗塞で倒れ、
 そのあと書きためてあった文が掲載されましたが、

 まだ本人が執筆予定であったこの続きを書くことはできず、
 倒れてから11ヶ月後にとうとう、意識がもどることなく逝ってしまいました。
 本当に突然のことでした。

 夫はこれまで思い出というものを書かない人でしたのに、
 なぜこの本を書いたのでしょう。なにか、
 はかり知れない運命を感じていたのでしょうか。
 この『泣き虫ハァちゃん』が、夫の置き土産だったのかと思っています。」


あれ、こんな箇所があったのか、それを読んだのか、
すっかり忘れてしまっています。付箋もところどころ
貼ってあるくせに、どうして貼ったのかも分からなくなっている。
それはそうと、一箇所引用してみます。
本の「しおり」ヒモがはさまっていました。
うん。せっかく本をひらいたので、この箇所を引用することに(笑)。

「 ハァちゃんは部屋中を見回し、『やっぱりハイカラやなぁ』と
感心していると、『城山君、グリムの昔話知っていますか』と

クライバーさんが話しかけてきた。ハァちゃんは日本児童文庫の
『グリム童話集』を愛読しているので嬉しくてたまらない。

『僕、グリム童話集、ものすごう好きです』と答えると、
クライバーさんも嬉しそうに、『どんな話、好きですか』と訊いてきた。

あんまり普通の話ではないのにしようと、ハァちゃんはとっさに判断し、
『 つぐみ髯の王様! 』と誇らしい声を出して答えた。

クライバーさんは日本語がわからぬらしい。日本語の得意な奥さんと
何かドイツ語でやりとりしているうちに、
『あ! ケーニヒ・ドロッセルバルト』と大声を出した。
『あれは、私も子どものとき大好きでした』。

ハァちゃんは嬉しくなってきた。
『あのお姫さん、威張りで嫌いやったけど、だんだん可哀相になってきました』
『あ、私も子どものとき同じことを感じました』
ハァちゃんはクライバーさんと友達みたいに感じ出した。
少し目が潤んできたが、ごまかし気味に、

『クライバーさん、日本の昔話知っとってですか』と大きい声を出すと、
『ああ。大分読みました。かちかち山、浦島太郎』

これを聞くと、ハァちゃんはいいことを思いついた。

『あの、クライバーさん、ちょっと訊いていいですか。
 乙姫さんは何で浦島太郎に玉手箱みたいなもん、
 みやげにあげたんですか。あけたらいかん言うし、
 あけたら老人になるだけなんてもん、何でみやげにやるんですか』

ハァちゃんは真剣だった。・・・ずうっと気になっていた。
そして、クライバーさんなら答えてくれそうに思ったのだ。

『面白い!』とクライバーさんは言った。そしてまた奥さんと
ドイツ語で話し合った後で言った。『 面白い質問です 』

少し考えた後で、クライバーさんは実に真剣な顔をしてハァちゃんに言った。

『私は、玉手箱のなかには浦島太郎の年齢(とし)が入っていたと思います。
 あけなかったら、トシがそちらに溜って浦島はずうっと若いままだし、
 玉手箱をあけるとトシが出てきて、浦島は老人になります』

ハァちゃんは、『 あっ 』と思った。嬉しかった。
『クライバーさん、クライバーさんは賢い人です』

クライバーさんはハァちゃんの手をしっかり握ってくれた。
ハァちゃんは嬉し涙をぐっとこらえて握り返した。温かい手だと思った。」

      ( p104~106 単行本 )

  

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本をバラバラにする、チャンス到来。

2023-03-28 | 本棚並べ
丸谷才一著「新々百人一首」の、単行本の古本が400円。
この本は文庫にもなっているのですが、文庫は上下2巻。
両方揃えるとなると古本の文庫でも400円じゃ買えない。
今がこの単行本の買い時。そして、やっと私には読み頃。

なんで、こんな話からはじめたのかというと、
丸谷才一著「思考のレッスン」の箇所が思い浮かんだからでした。

そこの小見出しに『本はバラバラに破って読め』とある。
ここはひとつ、ちゃんと引用しておくことに。

――・・丸谷さんの読書でびっくりしたのは、本が本の形をしていない。
   バラバラにされて本棚に置いてあったことです。

丸谷】 僕は本をフェティシズムの対象にするつもりはまったくない。
    大事なのはテクストそれ自体であって、本ではないと思っているんです。
    ・・・だから、平気で本に書き込みするし、破る、
    一冊の本を読みやすいようにバラバラにする(笑)。
    あれは出版社の人にはとてもいやがられるんだなあ(笑)。


   ・・・・とにかく本というものは、読まないで
   大事にとっておいたところでまったく意味はないんです。
   読むためのものなんだから、読みやすいように読めばいい。・・

     ( p168~ 170   単行本「思考のレッスン」文芸春秋・1999年 )


はい。こんな話を聞いたからって、なかなかに単行本を
バラバラにし読むというのは私に無理だと思っておりました。
そのハードルが400円なら、越えられそうな気がしてきました。

丸谷才一著「新々百人一首」を、丸谷さんが言う通りに
『 一冊の本を読みやすいようにバラバラにする(笑) 』チャンス到来。
各一首一首の解説をバラバラにしておけば、ちょっとした時間でも
パラリパラリとめくれそうな気がしてきました。何とも贅沢な気分。

ちなみに、この指摘は、丸谷才一著「思考のレッスン」の
第四章「本を読むコツ」にあります。

はい。丸谷才一氏の言葉どおりに、丸谷才一氏の本を、
バラバラにする事始め。ケーキ入刀ならぬ単行本入刀。

2023年3月は、単行本『新々百人一首』入刀記念日。
ここから新しい展望が開けると、そんなワクワク感。
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『 泣く 』

2023-03-26 | 柳田国男を読む
柳田国男に『 涕泣史談 』という文があり、
ちょっと、気になることがあったので、あらためてひらく。


この『涕泣史談』は、昭和16年8月に雑誌に掲載されておりました。
柳田国男年譜をひらくと、この昭和16年(1941)は柳田国男67歳。
雑誌掲載のそのあとになるかと思うのですが、
8月15日 兄井上通泰死去、同18日葬儀。
9月17日 井上龍子(通泰妻)、川村桃枝(井上長女)死去。
というのが年譜をひらくとありました。

それはそうと、『 涕泣史談 』をあらためてひらく。
そのはじまりの方には、こんな箇所があります。

「・・旅行をしているとよく気がつく。旅は一人になって心淋しく、
 始終他人の言動に注意することが多いからであろう。
 私は青年の頃から旅行を始めたので、この頃どうやら
 五十年来の変遷を、人に説いてもよい資格ができた。

 大よそ何が気になるといっても、あたりで人が泣いている
 のを聴くほど、いやなものは他にはない。一つには何で
 泣いているのかという見当が、付かぬ場合が多いからだろうと思うが、
 旅では夜半などはとても睡ることができないものであった。

 それが近年はめっきりと聴えなくなったのである。
 大人の泣かなくなったのはもちろん、
 子供も泣く回数がだんだんと少なくなって行くようである。

 以前は泣虫といって、ちょとした事でもすぐ泣く児が、
 事実いくらもあったのであるが・・・
 長泣きといって、泣き出したらなかなか止めない子供もあった。・・」


 「・・泣き声の身にこたえるのは、若い盛りよりも年を取ってからが
  ひどいのである。私の親などはなぜ泣かすと周囲の者を叱り、
  またはごめんごめんなどと孫にあやまっていた。
  気が弱くなって聴いていられないらしいのである。

  一般にまた感情の細かく敏活な文明人ほど、
  泣くのを聴き過すことができなくなるものかと思う。 」

こうして、現代と元禄時代との常識のちがいを例を出して引用しております。

「 つい最近にも、雑誌の『婦人之友』だったかで、
  子供を泣かさぬようにするのが、育児法の理想である
  というようなことを、論じていた婦人があって、
  私も至極もっともなことだと思ったことがあったが・・・」

このあとに、津村淙庵の『譚海』からの引用をしております。

「    小児の泣くといふこと、制せずに泣かすがよし。
     その児成長して後、物いひ伸びらかになるものなり・・  」


ここから、柳田国男の史談が展開されてゆくのですが、
私はここまでで、とりあえずは満足。
ちなみに、史談の展開のスタートラインは、ここらでしょうか。

「表現は必ず言語によるということ、これは明らかに事実とは反している。」


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大村はまの『老いと若さ』

2023-03-25 | 道しるべ
大村はま著「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)をまたひらく。

最初の載っている講演「教えるということ」は、
「1970年8月富山県小学校新規採用教員研修会での講演」とあります。

大村はまは、明治39年(1906)生まれですから、
このときは、64歳でしょうか。新人教師への講演でした。

この講演での、『若さ』と『老い』を拾ってみることに。

大村先生は、こう語っておりました。

「 だれのためにもやっていません。自分が〇〇として老いないためです。」
 ( p31 注:〇〇のなかには教師が入りますが、
        ここには〇〇としておきたいのでした )

この研修会についても触れておられます。

「 若い時は集められて研修会がありますけれど、
  年をとってくれば、自分で自分を研修するのが一人前の〇〇です。 」
 ( p32)

『自分で自分・・』という箇所もありました。

「 一人前の人というのは、自分で自分のテーマを決め、
  自分で自分を鍛え、自分で自分の若さを保つ。   」(p33)

うん。大村はま先生の『研究』という言葉も忘れがたい。

「 『研究』ということから離れてしまった人というのは、
  私は、年が二十幾つであったとしても、もう年寄りだと思います。
   ・・・
  研究というのは、『伸びたい』という気持ちがたくさんあって、
  それに燃えないとできないことです。・・   」


こうして新人教師に語りかける大村はま先生を、
ちっとも読めない癖して少しでも聞いていたい。
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海は白髪なれど

2023-03-24 | 詩歌
『日本海洋詩集』丸山薫編・海洋文化社を注文。

もちろん古本なので黄ばみがまんべんなく広がっていました。
はい。昭和17年発行ですから紙もそれなりのものになります。
それでも、買いたくなる詩集ができたのでワクワクしてます。
海をテーマに、さまざまな詩人の詩が並ぶ、430ページです。

はじまりの序詩。うん。名前はないけれど丸山薫なんでしょう。
10行詩です。はい。その始まりの2行と終りの2行を引用します。

   
    海は白髪なれど
    老いしにあらず

    ・・・・・・
    ・・・・・・

    こゝに不断の波あり
    永遠(とは)の息吹あり



はい。わたしは、これを読めて満足。
こうしてすぐに満足してしまうのが、
たまに傷なのでしょうね(笑)。

この時代のなかの約90名ほどの詩人の、
それも、海の詩が並んでいて壮観です。
目次の名前を見ているだけでもう満足。


まあ、読まずに、満足してばかりでもいけないし、
こういう際には、ちがった角度でここに載らない、
文部省唱歌『うみ』を引用してみたくなりました。


       うみ     林 柳波 作詞 
              井上武士 作曲

   うみは ひろいな
   おおきいな
   つきが のぼるし
   ひが しずむ

   うみは おおなみ
   あおい なみ
   ゆれて どこまで
   つづくやら

   うみに おふねを
   うかばせて
   いってみたいな
   よそのくに


ちなみに、この歌の解説を引用。
「親子で歌いつごう日本の歌百選」(文化庁・東京書籍2007年)から

「 文部省唱歌『うみ』は国民学校(小学校)一年生用の国定教科書
 『 ウタノホン(上)』(昭和16 文部省)に、
 『 ウミ 』というタイトルで掲載されました。
 むかしの小学生は、まずカタカナを習ったので、
 歌詞もほぼカタカナ書きです。

 教科書編纂委員で作詞者の林柳波(はやし・りゅうは)明治25~昭和24
 は、すなおな子どもの発想に寄り添いながら、わかりやすい話し言葉で、
 海の豊かさや大らかさを表現することを心がけました。・・・・

 いまでも教科書教材として親しまれています。・・・    」(p144)


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俳人と歌人と詩人たち。

2023-03-23 | 温故知新・在庫本
篠田一士といえば、「三田の詩人たち」(講談社文芸文庫)。
わかりやすくて、講演の記録なので、スラスラ飲み込める。
あんまりスラスラ読めちゃうので、忘れるのもはやかった。
けれども、この一冊は紹介しときたい本です。

文庫の解説は池内紀。ここから引用してみます。

「語り口はやさしいが、しかし、この点でもやさしいだけではなさそうだ。
 選ばれた五人にしても、ふだん『詩人たち』と呼ばれるタイプではないだろう。
 
 久保田万太郎は俳人・劇作家、
 折口信夫は歌人・国文学者、
 佐藤春夫は小説家、
 堀口大學はフランス文学の翻訳。
 西脇順三郎にきて、はじめて詩人らしいが、
 英文学者としても知られていた。
 さらに六人目、永井荷風に詩作めいたものがなくもないが・・  

 作品紹介にしても、やさしいなんてものじゃない。
 俳句なり短歌なり詩なりをとりあげるとき、
 たいていの語り手は当の作品にまつわり必要と思われる
 事情を合わせて話すものだが、そんな手続きはいっさいない。

『 ここに二十ばかりの俳句を選んでみました 』
 それがそっくり掲げてあって、直ちに作品に入っていく。 
 堀口大學によるアポリネールの訳詩には・・・・・・

 むしろべつのことがわかってくる。
 これが可愛らしい本でも、やさしい詩の鑑賞でもないということ。
 日本の近代詩にかかわり、とりわけ重要な事柄が語られ、
 それをこのように語れるのは、篠田一士という人のほか、
 二人といないということ。

 なぜ俳人や歌人が入ったのか。
 はじめにきちんと理由が述べてある。
 詩を語るなかに、俳句や短歌がまじるのはおかしいと
 言う人がいるかもしれないが、おかしいと思うほうがおかしい。

 この三つを合わせて考えなくては『日本の詩的創造の全貌』はつかめない。
 それぞれが別個の世界として閉ざされていることこそ、
 異様であり、不幸な文学現象というものだろう。

 言葉をかえながら、くり返し述べてある。     」(p199~p200)


はい。自慢じゃないですが、私など最初の久保田万太郎でもう満腹。
それから先へすすめなくなっちゃった(笑)。

ということで、読んださわりを引用しておわり。

「久保田万太郎の小説は読んで面白い。
 特に大震災や戦争で壊れちゃった江戸の感受性のありか、
 ありようを知りたければ、久保田万太郎の小説を読むのが
 一番てっとり早いと思いますよ。」(p14)

はい。一番てっとり早いと言われても、小説を読んでないのでここでつまづく。

「 俳人、歌人は長生きです。長生きしなきゃできない。
  八十までじゃダメ、土屋文明さんなんか確か九十代の半ばですよ。」(p15)


ここにある『 長生きしなきゃできない。 』なんてジーンと印象深い。
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一枚の紙切れ・デッサン・写真

2023-03-21 | 三題噺
重ね読みしたくなる3冊が思い浮かびました。

①「丸山薫全集3」角川書店・1976年
②「マティス展」カタログ・2004年
③「梅棹忠夫語る」日経プレミアシリーズ・2010年


はじめに、③からこの箇所。

小山】 ・・アメリカとかイギリスへ行って、
    アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
    パンフレットとか片々たるノートだとか、そういうものも
    きちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。
(p80)


この箇所の雰囲気は、なにか分るようで、
やっぱり、私には分からなかったのです。
どう考えればよいのか?

①の、全集3解説の竹中郁氏の文のはじまりの方にこうあります。

「 絵画や彫刻の世界に於ては、デッサンやエスキースが
  多く残されてあるのが通例である・・・

  絵や彫刻に於ては、そのデッサンやエスキースをそれなりに
  又たのしみ眺めるという風習がある。しかし、文学に於ては、

  研究資料にこそなれ、それを独立したものとして観賞する風習は
  ごくごく少い。造形美術と文学との因子の相違がおのずと
  そんな風習の差を生んだのであろう。 」(p553)

『丸山薫全集3』の解説をはじめるにあたって竹中郁は、
この第3巻の特色を、あらかじめ読者に明示するのでした。
竹中解説のはじまりは、こうあります。

「丸山薫は詩集にまとめた詩作品以外にたくさんの
 エスキースとみられるものや児童向けの詩的作品を残した。
 その量はまったく予想以上に多く、ここに一巻をなしたほどである。

 中には詩集に収められた完成品と殆ど80パーセント同じようなものも混って
 いて、この詩人の業績の研究追跡をするのに好資料というようなものもある。」

はい。詩の完成品と、未完成品の見分けをどうつけるかもわかりませんが、
まあ、詩人さんがこう語っておられるのだから、そうに違いない(笑)。
そして、竹中郁氏は、こう念押ししておられます。

「 ここに編んだ未刊行のもろもろの作品は、一面
  気散じに丸山が書いたものとして読む必要があると思える。」(p554)


②は、『マティス展』カタログなのですが、そのなかに
天野知香の「マーグ画廊におけるマティス展覧会 1945年12月・・」。
その文のはじまりは、

「1945年12月7日、パリのテエラン街で1軒の画廊がオープンした。・・
 実際に開廊を飾ったのはマティスの作品による、一見風変わりとも
 いうべき個展であった。・・・・

 この展覧会にはマティスの油彩のほか・・挿絵のデッサン・・
 同じ壁面に並べられた、・・やや大きさを変えて引き伸ばされ、額装された、
 油彩画の制作過程を撮影した3~13(14)点の写真であった。・・・


 マティスが制作過程を写真に撮影させた例は早くから見いだされる・・
 マティスは制作が決定的な局面に達した、もしくは重要な段階に至った
 と感じると撮影させたが、翌日にはその作品の欠陥を見つけて
 その部分を消してしまうのだった。こうして制作は続けられ、
 多くの制作過程の写真が残されることになった。・・・・

 とはいえ、こうした写真の一部が、画家の意志によって、
 完成作とともに公に展示されることを中心に据えたマーグでの展覧会は、
 きわめて例外的な試みであった。それは一般的な展覧会の形式としても
 例外的なものであったといわなければならないだろう。・・・・

 それはあくまで彼自身の手になる油彩作品を理解するために必要な要素として、
 その補完物として、このように展示されることが試みられたと考えられる。」


『丸山薫全集3』の竹中郁の解説を読みはじめていると、
私は、このマーグ画廊のマティス展を結びつけたくなってくるのでした。

最後には、天野知香さんの文のこの箇所を引用しておきます。

「マティスは少なくともすでに1910年代末から、自らの作品があまりにも
 安易に制作されていると見なされるのをひじょうに警戒していた。

 マーグとマティスがともにこの展覧会を『教育的展覧会』と読んだのは、
『一見たやすく』描かれていると見なされがちなマティスの作品の
 制作過程における長期にわたる奮闘を示すことによって、

 とりわけ若い世代の画家たちのあいだで、自発性の名の元に安易な
 制作が肯定される傾向を正そうとしたことに由来する。」(p129)


アメリカの図書館のペロッとした一枚の紙切れ。
丸山薫の詩の未刊行のもろもろ。
マティスが制作過程を写真に撮影。


さて、この3冊からの引用。
あなたならどう料理します?




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うれしいのは。

2023-03-20 | 前書・後書。
うれしいのは、いつかは読もうと積んであった本が読み頃をむかえた時。
はい。今回は「丸山薫全集」全5巻(角川書店・1976~1977年)でした。
ちょうど手を伸ばせばそこにあったわけで横着者には願ったり叶ったり。

この全集の編集には5名の名前がありました。
桑原武夫・井上靖・吉村正一郎・竹中郁・八木憲爾。

全集1の解説は、竹中郁。
全集2の解説が、井上靖。
全集3の解説が、竹中郁。
全集4の解説、杉浦明平。
全集5の解説、八木憲爾。

はい。お気楽に、全集各巻の解説を読めれば私は満足。
たとえば、全集の1と3の解説は、同じく竹中郁でした。
同じ人の解説でも内容は別。全集3竹中郁解説を引用。

文中『昭和20年の敗戦』とはじまる箇所がありました。


「・・大正中期に精彩を放ったリベラリズムの影響下に
 かずかずの子供向けの雑誌が出たように、戦後の物の乏しさにもめげず、
 『赤とんぼ』『銀河』『世界の子供』『子供の広場』『ぎんの鈴』など
 というのが相当規模出版社から創刊されていった。

 わたくしもその列に加わるような形で『きりん』というのを創刊した。
 大正も、昭和の第二次世界大戦直後の勃興とよく似ている。つまり

 戦争という暗雲の下では子供への配慮とか愛情とかは、逼塞しがちで、
 その雲の晴れるや、人間は未来を託すべき小さい者たちへの
 責任にめざめるものらしい。・・・ 」(p554)


「子供に読ませるものを書くには、子供にわかるボキャブラリーの範囲内で
 書かねばならない。得意の機転のきいたメタファもそうそうは使えない。
 そんな拘束は、いちど子供向けのものを書いたものなら、
 誰しもがすぐ感じることである。・・ 」(p555)


うん。この竹中郁氏の解説は豊かな内容を含んでいるので
安易に断片引用だけするのは申し訳ないのですが、ここは、
私の楽しみで読み進んでいて、手にした箇所を最後に引用。

「そんな成熟の裏打ちするかのように、丸山には子供の原初的な体験と
 同じような発見やそれに伴う驚きや不審を感じるアンテナがあった。
  ・・・・
 成熟ということにはいつも率直素朴であることこそ必須なものである。

 ・・・丸山はこの大条件をみたすものを一生を通じてもっていた。
 それならこそ、他の同時代の詩人とは離れた場所であざやかに
 そびえる城をのこして逝ったのではないか。

 長い年月、しかもこの巻の示すような多様な要請に応じて執筆した作品群に、
 どこといって、先人の俤(おもかげ)や西欧の詩の影響らしいところが
 見えないのは、一にかかって丸山の個性が強固だったことにある。
 もう一つは丸山の潔癖だったことに依る。

 この巻(第3巻)の全体を通じての表情に統一感があるとすれば、
 この二つの点がその作用の原動力となっていたのであろう。 」(p560)


はい。引用のとりこぼしは、あれこれとあれども、
未読本をこうして読み始められたことのうれしさ。
引用が、私と共にどなたかの役に立ちますように。



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『 バカヤロウ! 』

2023-03-19 | 詩歌
杉山平一さんは、丸山薫追悼の文のなかで、

『 海のようにゆったりとしていて、そして、ずしりと勁いのである。 』

と指摘したあとに、ある詩の一部を引用しておりました。
興味深いので、その最晩年の詩『月渡る』をひらきます。

『月渡る』の詩のはじまりと、おわりの箇所とを引用。


      月渡る    丸山薫

  去年の終り頃から今年の春にかけての四ヵ月半ちかくを、
  私は病院のベッドにいた。じっと寝たっきりだったせいか、
  夜の明ける前には早くも眼が覚めて、そのまま朝を迎える
  のが習慣になってしまった。・・・・


はい。あとは、この詩の最後の箇所を引用します。

  
  夜を掃く朝の光に月はしだいに光を失って、
  窓の西側の隅に押しやられていた。

  そしてついにはそれも白く淡々しく、
  スープ皿の一とカケラとなって空の奥に消えていこうとした。

  そんな月に私はいつも心の中で『 さよなら 』と言った。
  自分の命もまもなくあの影のように空間に帰するのだと思ったからである。

  だがとたんにバカヤロー! 
  早く顔でも洗ってこいと大声叱呼を浴びせられた。
  東の山の背からその日の太陽が昇り始めたのである。


杉山平一さんは、
『 海のようにゆったりとしていて、そして、ずしりと勁いのである。 』
と指摘したあとに、詩『月渡る』の最後の箇所を引用し杉山氏は記します。


  『 私は、やはり勁(つよ)いな、と感動したのであった。 』



参考本
( p46 「四季終刊 丸山薫追悼号」昭和50年の、「その人と詩」より )

  ( p404~405 「丸山薫全集2」角川書店・1976年 )
      なお、 詩は、私が勝手に行分けしました。

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詩人さんの校歌。

2023-03-17 | 詩歌
ネット「日本の古本屋」の検索は、私にはありがたい。
たとえば、名前で検索すれば、その人の本はもちろん。
掲載雑誌・関連本までも、並んでいて参考になります。

あれ、こんな本も関連するのかと興味をそそられます。
『竹中郁』で検索したら杉山平一氏の本が出てきたり。

その杉山氏の本をめくると、知りたかった詩人さんの
学校校歌の一部が読めました。さっそくその箇所引用。


「・・神戸から一度も外へ出なかったわが国モダニズム詩の
 旗手竹中郁氏が亡くなられた。・・・

 そのモダニズムが、単なる衣裳ではなかったのは、23歳の若さで、
 小磯良平氏と共に渡欧、レスプリ・ヌーボーのかおりの漂っていた
 パリを中心にした3年近くの体験のためである。

 従って、言動も極めて合理的だった。大戦後は、詩一本で
 大家族を支えられていたが、詩の純粋を守りつづけて、
 しかも生活人たり得たのもそのゆえである。

 詩人が亡くなるや、関西の新聞は、四段五段抜きで報じたが、
 とくに印象的だったのは、一般の投書欄へ、詩人ならぬ
 一般人の追悼哀惜文が載ったことである。

 いかに幅ひろく詩をもって生活されたかということであろう。
 私は、朝日新聞と神戸新聞に、三篇を見たのだが、
 その一つに八田光子という四十歳の看護婦さんの一文があった。

 彼女の小学校の校歌が、竹中さんの作られたもので、
 それを、母親となった今でも子供に自慢していたが、
 訃をきいた朝、洗濯機を回しながら歌ったといって、
 その歌詞が添えられていた。実にみずみずしい。

 
   風にだかれてかけてくる
   さそい合わせてかけてくる
   肩をならべて胸をはる
   朝の光にうごくかげ
   吸われるようにくぐる門
   はなぞの はなぞの 花園小学校


 というのである。野球大会のテレビによく出るように、
 漢語と教訓に堅くるしい校歌は、
 竹中さんの手によって詩に生まれかわっている。

 それは堀辰雄と共に『四季』の中核をなし、しかも
 『赤い鳥』以来といわれた童詩雑誌『きりん』を
 育てた竹中郁そのものの世界である。

 生活のためにもたくさんの社歌や校歌を作られたが、
 兵庫県下の校歌は竹中氏によって一変したのではあるまいか。

 文字の組み合わせの上でだけ詩人である人は多いが、
 竹中氏は人間や存在においても詩人であり詩を生活できたまれな人であった。」

  ( p131~132 杉山平一著「映像の論理・詩の論理」創元社 )


この次のページには、丸山薫がとりあげられておりました。
ネット「日本の古本屋」の検索のおかげで、校歌が読めた。




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ポエジーが生まれ。

2023-03-16 | 詩歌
詩のアンソロジーを、読む楽しみ。
はい。わかりやすい詩が集まった、
そんな本3冊を本棚から出してくる。

茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書・1979年)
石垣りん著「詩の中の風景 くらしの中によみがえる」(婦人之友社・1992年)
「教科書でおぼえた名詩」(文春ネスコ編・1997年)

茨木のり子と石垣りんの、お二人の著作の目次をめくっても、
丸山薫の詩は見あたりませんでした。丸山薫の詩はというと、
ちょっと引用しながら解説はしにくい詩なのかもしれません。

3冊目の文春ネスコ編の名詩は、こちらは解説なしで、すがすがしい。
中学・高校の教科書に載る詩を、現代詩・俳句・短歌・漢詩・翻訳詩
の順で並べてあります。

『序にかえて』の「学校遠望」は、教科書に未掲載の詩のようです。
編者はここに、丸山薫の詩「学校遠望」を置きたかったのだと思う。

はい。その詩『学校遠望』を引用するのですが、
ちょっと、ここでは回り道。


古本で「 四季終刊 丸山薫追悼号」(昭和50年5月20日)があり、
そこに篠田一士が文を寄せておりました。『一介のアンソロジスト』
と文の中でご自分のことを紹介されております。この文から引用。

「・・・この詩人(丸山薫)をはじめて知ったのは、
 戦後まもない頃刊行されたばかりの『北国』とか『花の芯』
 とかという詩集を読んでからだ・・・

 これといった感銘を受けなかった。
 いや、感銘がないといっては嘘になる。

 こんなに平明な日本語を使いながら、どうして
 ポエジーが生まれるのだろうという不思議な思いだけは、
 いまも記憶の片隅にあざやかである。

 この不思議さはぼくをいらだたせたけれども、
 それが、また、あまりに気にさせないところが、
 この詩人の平明さのもつ粋な魅力のはずだが・・・

 といって・・・青くさい若者の心に、それがひびくはずはない。
 
 それから何年か経って、『物象詩集』を知り・・・詩業の成果を
 ゆっくり味わいながら、ぼくはひそかに脱帽した。・・・

 丸山薫がつくりだした日本の新しい詩的言語の意味合いについて
 ・・・いま、ここに記しておきたいのは、

 この詩人ほど晴々とした試作品を書きながら、
 晴がましさといったものがほとんど感じられないことである。

 晴々とした作品を書いて晴がましく思い、
 また、読むものにも、そう思わせるのが常道だろう。
 晴がましいこと、かならずしも悪いことではない。

 むしろ、その姿勢を作品のもつ晴々した感触と
 どう兼合せるかというのが詩人の芸の見せどころで、
 ・・そうした巧みが、いわゆる匠気とは逆に、あどけない
 子供のmischievous(注:やんちゃ)な戯れのように
 なっているのが独特の魅力でもある。・・・       」(p194~195)


はい。最後には『教科書でおぼえた名詩』の
『序にかえて』に、掲げられている詩を引用。


        学校遠望      丸山薫

   学校をおえて 歩いてきた十幾年
   首(こうべ)をめぐらせば学校は思い出のはるかに
   小さくメダルの浮き彫りのようにかがやいている
   そこに教室の棟々(むねむね)がかわらをつらねている
   ポプリは風に裏返って揺れている
   先生はなにごとかを話しておられ
   若い顔たちがいちようにそれにきき入っている
   とある窓べでだれかがよそ見して
   あのときのぼくのようにぼんやりこちらをながめている
   彼のひとみに ぼくのいるところは映らないのだろうか?
   ああ ぼくからはこんなにはっきり見えるのに
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昭和23年少年少女諸君。

2023-03-14 | 前書・後書。
うちの子供が、小学校の頃に、
学校では詩の副読本が使われてました。
それは、本屋にはなかったと思います。
その中に丸山薫の詩「唱歌」があった。

その詩「唱歌」が気なってました。丸山薫の古本を購入。
「丸山薫全集」全5冊揃い。1150円+送料650円=1800円。
はい。一冊が360円なら安いと思って5年前に買ってあり、
そのまま、本棚にねむっておりました。

そろそろ、読み頃ですよ、と背中を押されます。

童詩雑誌の『きりん』は、昭和23年2月が創刊号でした。
丸山薫著少年少女詩集『青い黒板』は昭和23年5月発行。
「丸山薫全集 2」でその詩集を見ることができました。

はい。詩「唱歌」を引用したいのですが、
まずはこの詩集のあとがきを引用してみます。

「★ この詩集は、だいたい小学五六年生の諸君を目標にして作ったのです。

 ★ けれど、詩の中で使っている言いまわしや漢字は、きびしく言って
   必ずしも五六年生程度のものかどうかは、わかりません。

   言いまわしについては、それがいちばん正直な詩の言い方ですと、
   言っておきましょう。文字は成るべく假名にしましたが、
   紛らわしかったり、それではどうしても気もちが出ないと
   思われるものには、漢字を使いました。

   ・・・・

 ★ どれも方々の少年少女の雑誌にたのまれて書いていったものです。
   ・・・・これを本にするのは諸君にまとめて読んでもらって、

  『 詩をつくる人のこころは物事のすべてをどういうふうに
    感じてくらしているか、また、詩はどんなにたのしく、
    つくる人とよむ人のこころをなぐさめて元気づけるものか 』

   ということを、つよくふかくわかってもらいたいためです。

 ★ ただ、私がこの二年間、東北地方の山の村に住んでいるために、
   詩にも北の山國の子供たちのくらしや感じ方が多く入りまじった
   ことは、ここで、日本中の諸君におことわりしておきましょう。

 ★ また、この詩集中の『唱歌』という作品は、こんど
   小學第五學年生の國語教科書にのせられることになりました。・・


はい。詩には、それなりの時代や背景があって成り立つことを
こうして全集をひらくと教えられることになりました。

それでは、お待ちかね、詩『唱歌』


       唱歌      丸山薫

    先生がオルガンを
    おひきになると
    オルガンのキイから
    紅い
    青い
    金色の
    ちがつた形の小鳥が
    はばたいて出て
    くるくる
    ぼくたちの頭の上を
    まわりはじめた

    教室の 高いところの
    窓ガラスが一枚 こわれていて
    やがて 小鳥たちは
    そこから
    遠い空へ逃げていつた


この全集2には、最後に編注がありました。そこからも引用。

「 著者の自作解説―――

 『・・・・・生まれかわる日本は、なによりもさきに、
  小学校の教室から、芽ばえようとしています。
  いまはたのしい音楽の時間です。みんな耳をすまし、ひとみをかがやかせて、
  新しくおぼえる歌の譜をきいています。
  先生がオルガンをおひきになります。オルガンからは、
  美しいやわらかな音が、つぎつぎに流れ出ます。
  ねいろはまるで、五線の間をはばたく小鳥のように、
  いく羽もいく羽もとびたちます。

  それはまるで、ゆめのように、てんじょうを見つめている
  ぼくたちの頭の上を、くるくるまわるようです。

  ああ、楽しい時間、楽しい教室――
  おや、あんなところのまどガラスが、一枚まだこわれたままだっけ!

  私はこの詩を、終戦後の二年間、山形県の山おくの小学校で、
  先生をしながら書きました。詩の中には、まあざっと、
  いま書いたような感じがふくまれています。

  みなさんたちが読んで、
  そこまではっきりとわかってくださらなくてもよろしい。

  ただ音楽を形にあらわせば、
  ――こんなにもいえるということ――
  それから、おわりのほうの、
 『 窓ガラスが一枚こわれていて 』の行で、
  いまのみなさんたちの教室のようすを、
  ――また、その窓からみえる『遠い空へ』で、みらいの希望を――
  この三つのことばをぼんやりとでも、感じてくださればいいのです。 」
      ( 『小学五年の学習』昭和23年9月号 )



よくばって、最後に、詩集の『 はしがき 』を全文引用。


「  はしがき
 
  詩をむつかしくてわからないという人がいる。
  詩はむつかしいだろうか。詩はむつかしくない。
  むつかしいという人は、詩のおもしろさをかんじない人だ。

  詩は理屈ではない。理屈の説明でもない。
  そんなものをとびこえて、いちはやく、
  もののほんとうの姿とこころを感じ知ることなのだ。

  詩が夢のようだという人は、夢のようなことに酔い、
  夢のようなことしか考えない人だろう。

  詩はゆめであるが、寝ていて見る夢ではない。
  いちばん正しい、すばやいこころである。
  賢く美しい翼のある考のはたらきである。

  子供たちのこころはアンテナである。
  アンテナは塵も埃もない未来の青空にむかって、
  自在に張りめぐらされている。
  宇宙からとんでくる眼に見えない真理をとらえようと、
  ピチピチふるえて待ちかまえている。
  真理がとんでくる。電波のように――。
  それをかんじて言いあらわす。

  少年少女諸君。詩人は君たちの友だちだ。諸君も詩人である。

               昭和23年1月           」
 

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初対面の詩人。

2023-03-12 | 好き嫌い
詩を読むのは好きで、
分かりやすい言葉で、明快で
簡潔な詩を読むのはそれだけで楽しい。

ですが、元来うつり気の私ですから、
潮が引くように、興味がうつります。

興味をもって、古本をたのんだのに、
その古本が届くころにはもう他へと
その興味がうつっていたりしてます。

興味が遠のいて引いてしまった波打ちぎわに、
届いている未読の古本が打ち上げられてたり。

ですが、不思議なもので、興味の波はまた、
何気なく、再度押し寄せることがあります。

今回、竹中郁を本棚から取り出し、
まだ興味の波は引かずにおります。
その興味から丸山薫へと繋ぎます。

詩人との対面で、竹中郁が丸山薫との
出会いを語っている箇所がありました。
そこを引用してみることに


「昭和7年12月10日前後であったが、
 東京麹町三番町の第一書房で、わたしは初めて
 丸山薫と面晤(めんご)した。

 丸山の第一詩集『帆・ランプ・鷗』とわたくしの
 第三詩集『象牙海岸』とが時を同じゅうして刊行され、
 その日たまたまわたくしは神戸から上京して・・・

 そこへ丸山が訪れて同席した。
 身長は170センチ以上にもみえ、大柄な体格は
 年嵩(としかさ)ということもあって、
 わたしには至極大人に感じられた。

 じっさい丸山はゆっくりとものを言い、しかも寡言(かげん)であった。

 わたくしの『象牙海岸』よりも、丸山の『帆・ランプ・鷗』の
 方が用紙といい、本の造型といい、その手にとっての軽い手ざわりといい、
 好もしい出来ばえだったので、

 わたしが店主の長谷川巳之吉が座をはずした隙に
『 あなたの本の方が羨しい出来ばえですなあ 』と嘆じた。

 大抵なら、ここでお愛想の一つと・・・
 挨拶をくり出すのが世間一般なのだが、丸山はそれを言わなかった。

 この場のくだりを今日にまでもはっきりおぼえているのは、
 やはり丸山のその率直な態度にわたくしが感じ言ったからにちがいない。

 要らざる感情をもたない、要らざる発言をしない、
 という態度は丸山の生得のものだったのだと思うが、
 或は又、自ら鍛えてきたものででもあたろう。

 前近代の詩人たちが、溺れたようにめそつく繰り言風の
 スタイルを美学として信奉していたのと比べるがよい。

 丸山は自分の才質にはっきりと自信をもって、
 寡黙で力感のこもった言葉つかいをしている。

 言葉の流れに寄りかかることを避けて、むしろそっけないと言ってもよい。

 大正時代が終るのと同時に、現代詩の方向がそういうコースを
 とりはじめたからでもあるが、丸山が自分の才質に
 自分で目ざめる賢さをもっていたからだ。・・    」

    ( p496~497 「丸山薫全集1」角川書店・1976年 )


はい。次回は丸山薫の詩を引用できればと思っております。 

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昭和32年の『 地上の星 』。

2023-03-11 | 詩歌
あれっ、『地上の星』と題する詩が、
竹中郁の、詩集のなかにありました。

『地上の星』といえば思い浮かべる中島みゆき。
『ヘッドライト・テールライト』の中島みゆき。

それで、すぐに忘れやすい私のことですから、しばらくすれば、
それが、いったい誰の詩でどこにあったのやらも思い出せない。
これが、機会だと竹中郁の詩『地上の星』を引用しておきます。

竹中郁年譜をひらく(「竹中郁詩集成」沖積社・平成16年)と

昭和32年(1957) 53歳
         5月8日 NHK第二放送より詩を放送とあり、
         7つの詩の題が並んでいてそこにありました。

のちに、第八詩集『そのほか』(昭和43年・中外書房)にはいり、さらに、
それが、第九詩集『ボルカ マズルカ』(昭和54年)に再録されています。

ちなみに、詩集の目次をみても、『地上の星』は見つからずさがせない。
はい。目次には『三いろの星』とあるのでした。その三つのひとつの詩。
うん。これだと、いざ探そうとしても、目次では判断できないのでした。


        地上の星     竹中郁

     こちらで振る
     踏切番の白いランプ
     あちらで答える
     もう一つの小さな白いランプ
     どしゃぶりの雨のなか
     話しあっているようだ
     うなずきあっているようだ
     やがて来る夜更けの電車を
     夜更けて帰りの人人のいのちを
     いのっているようだ

     ね ここに一人のぼくがいるよ
     雨とくらやみとにまぎれて
     それとなく見つめているぼくだよ
     ぼくも振っているんだよ
     ランプの話しあいに加っているんだよ
     ランプのいのりに加っているんだよ
     黒い蝙蝠傘を
     大きく大きく打ち振っているんだよ


昭和43年の詩集「そのほか」には、最後の行が
「・・行ってみたい星もある 」となっている詩もありました。
はい。最後にこの詩も引用しておきます(途中端折ります)

        別世界     竹中郁 

    ゆきずりの郵便局の窓口で
    はがきを求める
    一枚七円

    ・・・・・
    ・・・・・

    『 つばめになれ 鳩になれ 』
    一字一字  一行一行
    ただ なんとなしに書く
 
    俗事にかまけたおれの躰から
    俗事一ぱいのおれの脳みそから  
 
    つばめは羽ばたいて立つ
    鳩は羽ばたいて立つ

    ポトリと落しこんだ投函口の奥は暗いが
    そこは果しのない大宇宙
    そこには行ってみたい星もある


  

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