渡部昇一著「父の哲学」(幻冬舎)の終りの方に、こうあります。
「後年、私も同年代の著名な人たちと対談する機会を得るようになった。たとえば佐々淳行さん。彼のお父さんは初代九州帝国大学の法学部教授、母方のお祖父さんは東大の国文学の教授だった。そんな最高の知識人の家庭に育った佐々さんと、幼年時代、少年時代の話をしてみると、そこにまったく教養の差がないことがわかった。陸奥宗光の一族で政界の大物の孫である外交官岡崎久彦さんと話したときも同じことだった。東北の田舎の貧乏屋に育ちながら、東京の最高の知識階級の家に育った人と、少年時代に受けていた読書教育環境が同じだったという、このことがわかったとき、あらためて父親と、それにも増してその父を育てた『父の父』に感謝の気持ちを覚えずにはいられなかったのである。」(p219)
渡部昇一氏は昭和5年(1930)生まれでした。
ところで、川本三郎著「向田邦子と昭和の東京」(新潮新書)を読んでいたら、向田邦子は「昭和4年(1929)、東京府荏原郡世田谷町若林(現在の世田谷区若林。松陰神社の近く)の生まれ。その後、保険会社の社員だった父親の転勤によって宇都宮市、鹿児島市、高松市に住んだこともあるが、人生の時間でいえば地方都市より東京で暮したほうが長い。・・・」(p162)とあります。
その向田邦子さんについて書いた久世光彦著「夢あたたかき 向田邦子との二十年」(講談社文庫)を開いてみたら、そのあとがきで久世さんはこう書いておりました。
「あの戦争が終わって、今年でちょうど五十年である。いまごろ寝ぼけたことを行っているようだが、ようやく戦後が終わったような気がする。私たちの世代にとって、それくらいあの戦争は、√2や√3のような、つまり、いつまで計算しても割り切れない平方根みたいなものだった。私たちのやわらかな希望は、戦争が終わったあの日からはじまったが、私たちの妙なアンニュイや無力感も、あの日にはじまった。戦争と聞くと、胸がちぢむような怖れが蘇るのもほんとうだが、ときめいて懐かしく思うのもほんとうだった。私たちは、まだ幼いといっていい年ごろだったが、あの日、たしかに何かを見失った。そしておなじ日、見失ったものの向うに、何かが束の間見えたような気もした。いったい見失ったものというのは何だったのか、見えたと思ったのは何だったのか、それについて考えているうちに、駆け足のように時は過ぎて、私たちはいつも胸の底に、あの日に忘れ物をしたような不安と落ち着きのなさを抱えて暮らすようになった。まだ取りに戻れる、まだ間に合うと言い訳しつづけて、ふと気がついたら五十年が過ぎていた。・・・」
ちなみに久世光彦氏は1935年生まれ。
その久世氏のあとがきを読んでいたら、渡部昇一氏と岡崎久彦氏との対談が思い出されてくるのでした。そこで岡崎氏は語っています。
「われわれの世代は兵隊教育も受けていないし、戦後も日教組が盛んになる前に大学に通いました。だから、悪く言えば『無教育世代』ということになるんでしょうが、要するに誰も指導してくれなかったから、自分で本を読んで、自分で考えるしかなかった。それがかえってよかったのでしょう。今の言論界に昭和五年世代が多いというのも、そこが大きく関係していると思います。まあ、これ以上は我田引水になるから、昭和ヒトケタ世代の話はこの程度で止めておきましょう」
この対談は「賢者は歴史に学ぶ」(クレスト社)という本。
そのまえがきと、あとがきとで、その昭和五年をとりあげております。
まえがきは渡部昇一氏です。
「岡崎氏を私は同じ昭和五年生まれではあるが、稟質も経歴もまったく違う。しかし、同じ歳の日本人の男として、ツーと言えばカーと通ずるところがある。同じ教科書を使い、同じ唱歌を歌い、同じ少年雑誌を読み、同じニュースを聞いて育ったのだ。戦前の偉大な日本の記憶もあるし、戦争に引き込まれていったプロセスも、敗戦の屈辱も悲惨も、また戦後の解放感も、焼け跡からの復興も知っている。わずかのことで戦場には出なかったので、かえって『敗れて腰が抜けた』ような日本人にもなっていない。占領軍や日教組の反日的教育も受けていない。『こういう世代は貴重なんだ』と岡崎氏は言う。・・・・」
あとがきは岡崎久彦氏。
「・・われわれが育った時代は戦前、戦中、戦後の激動期であり、それぞれの個人の生活体験は360度異なる広がりを持つので一般論は言えない。しかし、一つだけ共通と言えるのは、青春時代の始まりである15歳の時に、敗戦を迎え、自分たちが生まれ育った社会環境が足許から地響きを立てて崩れ、それまでの価値観がすべて失われた絶対的な空白期を体験していることである。そしてその空白の中に、マルクス史観、占領軍史観が入りこみ、日教組教育が、小・中・高校教育に浸透し定着する1950年代の前に、20歳までの思想形成期を過ごしている点も共通である。一つ上の世代の兵隊教育も受けていないし、下の世代の日教組教育も受けていない。自分の読む物は自分で選ばなければならなかった時代である。」
ここから、
私は鹿島茂編「あの頃、あの詩を」(文春新書)の鹿島茂の、まえがきへと繋げたい誘惑にかられるのでした。まあ、それはそれとして。
渡部昇一著「父の哲学」に
「戦前までの日本には、たしかに、怖い父親が存在した。たとえば、放送作家であり直木賞作家でもある向田邦子さんのエッセイや小説には、家族に有無を言わせない、厳格な父親が登場する。これは向田さん自身のお父上の話にほかならない。・・・」(p31)
無教育世代でもある昭和ヒトケタ世代。
その昭和5年生れの渡部昇一氏が書いた哲学には、
冠のように「父」が置かれております。
「後年、私も同年代の著名な人たちと対談する機会を得るようになった。たとえば佐々淳行さん。彼のお父さんは初代九州帝国大学の法学部教授、母方のお祖父さんは東大の国文学の教授だった。そんな最高の知識人の家庭に育った佐々さんと、幼年時代、少年時代の話をしてみると、そこにまったく教養の差がないことがわかった。陸奥宗光の一族で政界の大物の孫である外交官岡崎久彦さんと話したときも同じことだった。東北の田舎の貧乏屋に育ちながら、東京の最高の知識階級の家に育った人と、少年時代に受けていた読書教育環境が同じだったという、このことがわかったとき、あらためて父親と、それにも増してその父を育てた『父の父』に感謝の気持ちを覚えずにはいられなかったのである。」(p219)
渡部昇一氏は昭和5年(1930)生まれでした。
ところで、川本三郎著「向田邦子と昭和の東京」(新潮新書)を読んでいたら、向田邦子は「昭和4年(1929)、東京府荏原郡世田谷町若林(現在の世田谷区若林。松陰神社の近く)の生まれ。その後、保険会社の社員だった父親の転勤によって宇都宮市、鹿児島市、高松市に住んだこともあるが、人生の時間でいえば地方都市より東京で暮したほうが長い。・・・」(p162)とあります。
その向田邦子さんについて書いた久世光彦著「夢あたたかき 向田邦子との二十年」(講談社文庫)を開いてみたら、そのあとがきで久世さんはこう書いておりました。
「あの戦争が終わって、今年でちょうど五十年である。いまごろ寝ぼけたことを行っているようだが、ようやく戦後が終わったような気がする。私たちの世代にとって、それくらいあの戦争は、√2や√3のような、つまり、いつまで計算しても割り切れない平方根みたいなものだった。私たちのやわらかな希望は、戦争が終わったあの日からはじまったが、私たちの妙なアンニュイや無力感も、あの日にはじまった。戦争と聞くと、胸がちぢむような怖れが蘇るのもほんとうだが、ときめいて懐かしく思うのもほんとうだった。私たちは、まだ幼いといっていい年ごろだったが、あの日、たしかに何かを見失った。そしておなじ日、見失ったものの向うに、何かが束の間見えたような気もした。いったい見失ったものというのは何だったのか、見えたと思ったのは何だったのか、それについて考えているうちに、駆け足のように時は過ぎて、私たちはいつも胸の底に、あの日に忘れ物をしたような不安と落ち着きのなさを抱えて暮らすようになった。まだ取りに戻れる、まだ間に合うと言い訳しつづけて、ふと気がついたら五十年が過ぎていた。・・・」
ちなみに久世光彦氏は1935年生まれ。
その久世氏のあとがきを読んでいたら、渡部昇一氏と岡崎久彦氏との対談が思い出されてくるのでした。そこで岡崎氏は語っています。
「われわれの世代は兵隊教育も受けていないし、戦後も日教組が盛んになる前に大学に通いました。だから、悪く言えば『無教育世代』ということになるんでしょうが、要するに誰も指導してくれなかったから、自分で本を読んで、自分で考えるしかなかった。それがかえってよかったのでしょう。今の言論界に昭和五年世代が多いというのも、そこが大きく関係していると思います。まあ、これ以上は我田引水になるから、昭和ヒトケタ世代の話はこの程度で止めておきましょう」
この対談は「賢者は歴史に学ぶ」(クレスト社)という本。
そのまえがきと、あとがきとで、その昭和五年をとりあげております。
まえがきは渡部昇一氏です。
「岡崎氏を私は同じ昭和五年生まれではあるが、稟質も経歴もまったく違う。しかし、同じ歳の日本人の男として、ツーと言えばカーと通ずるところがある。同じ教科書を使い、同じ唱歌を歌い、同じ少年雑誌を読み、同じニュースを聞いて育ったのだ。戦前の偉大な日本の記憶もあるし、戦争に引き込まれていったプロセスも、敗戦の屈辱も悲惨も、また戦後の解放感も、焼け跡からの復興も知っている。わずかのことで戦場には出なかったので、かえって『敗れて腰が抜けた』ような日本人にもなっていない。占領軍や日教組の反日的教育も受けていない。『こういう世代は貴重なんだ』と岡崎氏は言う。・・・・」
あとがきは岡崎久彦氏。
「・・われわれが育った時代は戦前、戦中、戦後の激動期であり、それぞれの個人の生活体験は360度異なる広がりを持つので一般論は言えない。しかし、一つだけ共通と言えるのは、青春時代の始まりである15歳の時に、敗戦を迎え、自分たちが生まれ育った社会環境が足許から地響きを立てて崩れ、それまでの価値観がすべて失われた絶対的な空白期を体験していることである。そしてその空白の中に、マルクス史観、占領軍史観が入りこみ、日教組教育が、小・中・高校教育に浸透し定着する1950年代の前に、20歳までの思想形成期を過ごしている点も共通である。一つ上の世代の兵隊教育も受けていないし、下の世代の日教組教育も受けていない。自分の読む物は自分で選ばなければならなかった時代である。」
ここから、
私は鹿島茂編「あの頃、あの詩を」(文春新書)の鹿島茂の、まえがきへと繋げたい誘惑にかられるのでした。まあ、それはそれとして。
渡部昇一著「父の哲学」に
「戦前までの日本には、たしかに、怖い父親が存在した。たとえば、放送作家であり直木賞作家でもある向田邦子さんのエッセイや小説には、家族に有無を言わせない、厳格な父親が登場する。これは向田さん自身のお父上の話にほかならない。・・・」(p31)
無教育世代でもある昭和ヒトケタ世代。
その昭和5年生れの渡部昇一氏が書いた哲学には、
冠のように「父」が置かれております。