和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

カラリと晴れて快い。

2013-07-31 | 短文紹介
今日は、病院の日。
今日で、ギブスともお別れ。
今日から、補助器具の靴をはくことに。
松葉杖は使用することになっておりますが、
家では、補助器具の靴だけで、
杖にたよらずに歩けるようになりました。

病院に持っていった本は、
刊行時に、とりあえず読んだ、
向井敏著「文章読本」(文藝春秋・1988年)。
「序に代えて」は題して「名文の条件」となっており。
そのはじまりは、
「林達夫に『三木清の思い出』と題する文章がある」
でした。

昨日、竹山道雄の「安倍能成先生のこと」を読んでから、
この「序に代えて」を、あらためて読み直したわけです。
序の内容が、噛みしめられるような気がしてきます。
うん。向井敏著「文章読本」の序のスタートラインに
今回、はじめて立てたような、そんな心持。

ちなみに、林達夫の「三木清の思い出」は
昭和21年11月号の雑誌に掲載されたもの。

では、向井敏氏の「序にかえて」を引用。

「・・しかし、ここが『三木清の思い出』の大事なところなのだが、個々の章節だけについてみれば、どんなに邪険な告発者でもここまでは言えないだろうと思えるほど、手きびしい観察と辛辣な批評をあえてしながら、それでいて、読むうちに、故人への格別の親愛の情と深い悼みが透明な潮のように行間を満たしていることに気づかされる。こういう友情の表現の仕方もあるのだと知らされて、粛然とした思いに誘われる。・・・」

うん。「安倍能成先生のこと」という文章にも、友人と先生との違いはありますが、
「こういう・・表現の仕方もあるのだと知らされて、粛然とした思いに誘われる」という言葉をあてはめてみたくなる、そういう同方向の文章の面持ちを味わえるのでした。

さてっと、向井敏氏は『三木清の思い出』を丁寧に引用したあとに、この「序にかえて」をこうしめくくっているのでした。

「・・・世に湿った文章は数知れず、湿った名文というのもけっして少なくないのである。それだけに、陰湿な情念による浸蝕を可能なかぎり制御した、カラリと晴れて快い文章、乾いて気持ちのいい文章が望まれる理屈だが、それはたとえばどんな文章なのか。その最もすぐれた例の一つが、右に掲げた林達夫の『三木清の思い出』にほかならない。・・」

私には、いまだ『三木清の思い出』の読解は無理。
それにしても、

「カラリと晴れて快い文章」
「透明な潮のように行間を満たしている」
という文句。
これなど、夏に読むと格別。


ところで、
谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」の
人名索引で竹山道雄をひくと、
一箇所だけですが、ありました。
そこを引用(p200)。
題して「おとなの人物論」となっております。
はじまりは
「今日出海が『新潮』昭和25年2月号に書いた。『三木清における人間の研究』は、文化人のかくされたいやらしさを思いきってバクロしながら、しかもモラリスト風の思いやりを忘れないオトナの人物論の傑作だった。・・・」

その頁の最後に、竹山道雄が登場しておりました。
その一箇所だけ登場する箇所を引用しておきます。

「竹山道雄が『新潮』昭和45年11月号に高見順の内幕を描いた『ジャングルの魂』に対して川村二郎が『出版ニュース』11月上旬号で、高見の文学を不健康と非難する竹山は陰湿だ、とかみついている。しかし竹山は高見の人間的弱点を伝えただけで、だから高見の文学がゆがんでいるなどとは言わず、人柄と文学とを混同する愚を犯していない。才能ある人物のやむを得ない人間的欠点を、鋭く、しかし暖かく、距離をおいて見るのが、本当の人間通ではないか。」(1971年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々に近し。

2013-07-30 | 短文紹介
WILL9月号の渡部昇一氏の連載「書物のある人生」は、もう23回。
きちんと毎回読んでいるわけじゃないのですが、読めば得するなあ(笑)。

さて今回は、夏目漱石「こころ」と原勝郎「日本中世史」をとりあげておりました。
どちらも興味深いのですが、ここでは、

「漱石が『こころ』を書く約10年前、第一高等学校での彼の教え子の藤村操が日光・華厳の滝で投身自殺をした。・・漱石が教壇に立って英語を教え始めて1ヵ月ぐらいの時である。漱石も衝撃を受ける。その後、十数名の学生が華厳の滝で自殺する。哲学死、思想死という新現象が起きたのである。
のちに漱石のところに出入りするようになった安倍能成は、この藤村の妹と結婚している。・・・」(p290~291)

なにげない箇所ですが、「藤村操の妹」というのは、普通、どなたも書かないだろうなあ。

竹山道雄著作集4(福武書店)には、「安倍能成先生のこと」(昭和56年)という文が入っております(ちなみに、竹山道雄は昭和59年死去)。
こうはじまります。

「安倍さんはよほど特別な人で、没後十何年たった今になっても懐かしい。思い出さない日はほとんどないかもしれない。去る者日々に近しである。・・・一つには、安倍さんが戦中戦後に一高の校長であったときに近く親炙してこきつかわれたからでもあったろうが、何よりも先生がその独特の天稟からこちらの魂をつかみとってしまったからでもあった。
先生は強烈な自我としみじみとした魂の深さをもっていた。教養人で思索と弁論に長け、また芸術的天分があったけれども、同時に常識から突出して野生むきだしにしてもいた。このユニックな人物について、せめて私が接した横顔とそれへの懐かしさを記そうと思うのだけれども、相手が大きいだけに難しい。」(p198)

こうしてはじまる25頁。
回想は、欠点までも浮き上がらせてゆく知的正直さがあり、
今日の普通のエッセイでは、誹謗中傷になるようで、読む者をハラハラさせます。
たとえるなら、三木清を回想する、ある人の文章が浮かんだりします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

WiLL9月号。

2013-07-29 | 短文紹介
読み甲斐のあるWILL9月号が出ております(笑)。
まず、読んだのが門田隆将氏の「日本を救った男『吉田昌郎』の遺言」。
吉田昌郎氏が亡くなった際に、テレビなどのコメントに
「吉田は津波対策に消極的」だった、という言葉を付け加えていたので
違和感がありました。
門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」(PHP)を読んだ方なら、どなたでも思う見当はずれな、そんな違和感。それを、この雑誌が払拭してくれました。
ことほど左様に、テレビなどのコメントに、もやもや感が残っておりました。
では、この雑誌の門田氏の文からすこし。

「ここで、吉田さんが亡くなってから、『吉田は津波対策に消極的な人物だった』というバッシングが始まっていることに触れておきたい。吉田さんが津波対策に『消極的だった』というのは、まったく事実と異なる。・・・東電の中にあって、最も津波対策に積極的な人物ではなかったかと私は思う。昨年7月に2回、4時間半にわたって、私は吉田さんを取材させてもらった。3回目の取材の直前、7月26日に吉田さんは脳内出血で倒れ、以後の取材はかなわなくなった。3回目の取材で津波対策の詳細を聞く予定だった私は、それが果せず残念だった。大まかな話は、2回の取材の中ですでに聞いていた。」

以下は、雑誌を読んでください(笑)。

安愚楽牧場についても、この雑誌で学習させていただけました。

蒟蒻問答のなかで、
参院選に触れております。
海江田氏に安愚楽牧場の件で
「そのことを記者が糺(ただ)すと、
『何も、いまそれを持ち出すことはないじゃないですか』とキレていました。いまじゃなかったらいつだよ(笑)。・・・・」

経済評論家上念司氏の「シャドーバイキングの真相 支那経済は『牛のいない安愚楽牧場』」という文の、読みでがあります。
そこに
「支那の地方政府としては、当座利払いを維持している間に再び8%以上の成長を取り戻せば、すべてが解決するという甘い見通しを持っているのだろう。
しかし、そうしている間に被害は拡大する。
安愚楽牧場の被害者の多くが、破綻直前に勧誘された会員であったのと全く同じだ。」(p264)


そうなんだよね。
「被害者の多くが、破綻直前に勧誘された会員」。
もうちょっと早く知っていれば、
というのが、情報の恐ろしさ。

久保紘之「・・あんなのを党首に担ぎ出して参院選を戦った一事を見ても、民主党というのは正常な神経の持ち主たちの集団じゃない。」(p102)

では、その安愚楽牧場の事件がどんなものだったのか?
上念司氏の文によると

「既報のとおり、一昨年に破綻した安愚楽牧場の旧経営陣が、特定商品預託法違反で逮捕された。出資者は約7万3千人、被害額約4200億円という、まさに戦後最大の投資詐欺事件である。そのことは、過去に発生した巨額詐欺事件と比較してみればよく分かる。1985年 豊田商事  2000億円
2000年 法の華三法行 950億円
2007年 近未来通信  400億円
 安愚楽牧場の広告塔だった元カリスマ経済評論家・海江田万里氏(現民主党代表)は、被害者から合計6億1000万円の損害賠償訴訟を起こされている。それもそのはず、海江田氏は自身の著作で何度も安愚楽牧場を取り上げては、次のように煽っていた。
『13.3%の高利回り』『年間50万円までの分配金については非課税』『所有の牛に万一のことがあっても、代わりの牛が提供され、最初の契約どおりの利息が支払われることになっている』『元本確実で、しかも年(利回り)13・3%と考えれば、他の金融商品は真っ青!』『オーナーになってはいかが』・・・和牛オーナー商法が破綻した原因は、母牛が一年で一頭の子牛を産むことを想定した高すぎる利回り設定である。実際には、和牛の受胎率は0.6%であり、仮に順調に子牛が生まれたとしてもそのペースは2年に一頭がいいところだったのだ。」(p262~263)

パラパラ読み始めても、
ついつい答がころがっていそうで、
読ませるWILL9月号なのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴォルガの船唄。

2013-07-28 | 短文紹介
モンサラット著(吉田健一訳)「怒りの海」下巻(新潮社)に

艦船が沈み、筏で漂流している状況を描いている箇所があるのでした。

「喧嘩を始めたり、眠気に負けたりして人が次々に死んで行く有様は、宴会をやっていて客が一人帰り、二人帰りする工合をロックハートに連想させた。船が沈んでから間もない頃は人間ももっとずっと多くて、それぞれ十何人かのものを乗せて廻りにも何人か取り付いている二つの筏は、一面に油で蔽われて静かにうねっている海の上を・・・・
ロックハートも死ななかったが、その晩のうちに何度も自分が何のためにまだ生きているのか解らない感じになった。彼は夜の大部分を彼の担当である第二号の筏の脇で過して、夜が明けかけた頃に筏ががら空きになってから、筏によじ登った。・・・そしてもう何の望みも残っていないと決めていいそれだけの条件と戦いながら、もう一度頑張って見なければならない気になって、夜が明けるまで自分と自分の部下の命を長らえさせる決心をした。彼は部下のものに歌を歌わせ、手足を動かしていさせ、話をさせて、眠らずにいさせるように努めた。彼は部下のもの達の顔に平手を食わせ、彼等を蹴り、彼等が目を覚して筏にしがみ付かなければならなくなるまで筏を揺り続けた。彼は自分が知っている限りの猥談をして聞かせ・・・彼は部下のものに遊戯をさせ、フェラビイが黙り込んでしまっているのを無理矢理にけし掛けて、記憶しているだけの詩を暗誦させた。彼はラジオで好評の番組に出演する人物の声色を真似て見せて、他のものにもさせた。彼は部下のものに『ヴォルガの船唄』を歌いながら、筏をぐるぐる同じ場所を漕ぎ廻らせ、子供の頃にやったことがある遊びを思い出して、筏に乗っているものを三つに分け、『ロシア』、『プロシア』、『オオストリア』と皆で一緒に叫ばせた。そうするとその結果が、大きなくしゃみのように聞えるのだった。・・・・筏に乗っているものは彼も、彼の声も、彼の馬鹿げた楽天主義も、全くやり切れなくなって来た。彼等はロックハートを明らさまに罵り、彼は同じ卑しい言葉で罵り返して、港に着き次第、営倉に叩き込んでやるからと言った。
彼は、それだけの元気とエネルギーが自分のどこから出て来るのか解らなかった。彼が筏に上って来た時は体が冷え切っていて、思うように動かなくて、みじめな気持になっていたが、そういう馬鹿げた騒ぎ方をしているうちに生気を取り戻して来て、それが他のものの一部にも伝わった。そしてその中のあるものはロックハートがしていることの意味を呑みこんで、自分達もロックハートと一緒になって馬鹿騒ぎを始め、それで部下の何人かが助かった。・・・」


ところで、
ニコラス・モンスラット著(吉田健一訳)「怒りの海」は
1992年に至誠堂から出ている本では、題名が
「非情の海」となっておりました。

その「非情の海」下巻が
「第四部 1942年激戦」からはじまっており、
ここに筏の箇所があるのでした。
引用よりもけっこう長い文章なので、
あらためて読み直してみたくなります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五里霧中にいた。

2013-07-27 | 短文紹介
気になったので、
竹山道雄氏の知名度を確認しようと、
「ノーサイド」1995年5月号の、特集「読書名人伝」をとりだす。
うん。この雑誌たまたま身近に置いてあったのでした(笑)。
ひょっとして、こういうのに出てくるかなあと思ったのですが
そこには、竹山道雄氏は登場していない。
うん。そんなものか。
それにしても、もったいない。
取りあげる人がいなかったのだ。


講談社学術文庫の竹山道雄著「主役としての近代」に
「春望」という文がありました。
こうはじまります。

「昭和20年の元旦はしずかだった。・・われわれは情報にうえていた。ニュース・ソースをもっている人のまわりには人が集って、むさぼるように『真相』をきいた。それは断片的には意外なほど正確なこともあったが、全体としてはわれわれはつねに五里霧中にいた。そのせいであろう、前途に対する絶望的な見とおしは、実感としては、最後までなかった。」

そのあとに、こんなエピソードがあるのでした。

「学校ではときどき人をよんで講演をきいた。それには役人その他の中にあっての話の分る人がえらばれた。ある外交官は非常に率直だったので外部で問題となったことがあったが、大ていの講演は国民に希望をもたせるというこの頃にきめられていた枠を出たものではなかった。
そうした講演の後では、少数の人のあつまる座談会があった。ここでの講師の話は前とは調子がちがっていた。なかば得意の苦笑を交えつつ、『ここだけの話だが』と前おきして、戦況はわるい、実ははなはだわるい、といった。しかし、そんなときに、もし誰かが思いきって『それでは敗ける心配はないのか』ということを仄めかす質問でもしようものなら、講師は驚愕して、不機嫌に『そういうことをきかれるのは遺憾である。・・いま、若い人たちは身命を捨てて戦いつつあるではないか』と答えるのであった。
あの頃の気持は悪夢の中とよく似ていた。・・・」(p28~29)


ちなみに、竹山道雄著「時流に反して」(文藝春秋)には
「若い世代」と題した昭和20年7月22日に
第一高等学校寄宿寮全寮晩餐会にて、学生に語った文が載っております。

そういえば、と
坪内祐三著「考える人」(新潮社)をひらく、
こちらにも竹山道雄は登場していなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あのころの大新聞。

2013-07-26 | 短文紹介
竹山道雄著「昭和の精神史」に
あのころの大新聞のことを書いてあります。

あのころとは、
「外には満州事変がはじまっていた。
内には経済の不調や思想の混乱や社会の動揺がつづいて、
センセーショナルな危機感が来る年ごとに叫ばれた。
緊迫した半面に弛緩した、異様な変調な雰囲気がみなぎっていた。
関東震災を一つのエポックとして、
それまでは思いもよらなかったあたらしい社会相が現出した。
突如としてひらけた近代生活に対しては、
むかしから日本人がもっていた良識や節度は
ふしぎなくらい無力だった。」

その時期の大新聞を竹山道雄は
こう書いております。

「あのころは、世上に既成体制に対する不満が一杯だった。
見るもの聞くものが、政党・財閥・官僚に対するはげしい呪詛だった。
私はさる大新聞の寸言欄に、
『世界に三つの悪がある。
アメリカのギャングと、シナの軍閥と、日本の政党である』
と書いてあったのを覚えている。
こうしたことは数かぎりなかった。
旧日本は言論が不自由だったと今は信ぜられているが、
やがて拘束がはじまるまでの一頃は
それどころではなく、きわめて破壊的だった。
くる日もくる日も、
辛辣に、手軽に、巧妙に、無責任に、揶揄し罵倒する
言葉をきいて、すべての人々の頭にそれが浸み入った。
しかもなお、乱闘、汚職、醜悪な暴露・・・はあきれるほどつづいた。
分裂と混乱は見込みがないと思われた。
軍人の政党に対する不信反感は非常なもので、
これは最後まで消えなかった。」

「・・・五・一五事件の裁判だった。
白昼首相を殺した軍人の徒党が、軽い刑ですんだ。
明治時代だったら考えられないことだったろう
(封建時代には、赤穂浪士は切腹させられた)。
また、政治悪を憤慨する世論の背景がなくては
行なわれないことだったろう。
世人はその動機の純真に同情したのだった。」

このあとに、
竹山道雄氏は、その頃の、個人的な会話を
書き留めてくれております。

「私事にわたるけれども、
自分の小さな回想を記しておきたい。
岡田良平という枢密顧問がいて・・この人は私の伯父だった。
あの裁判がすすんでいるとき、
私は老人にこういった。
『青年将校たちは死刑になるべきでしょう』
老人は答えた。
『わしらも情としては忍びない気もしないではないが、
あれはどうしても死刑にしなくてはならぬ』
私はいった。
『しかし、もしそうと決したら、
仲間が機関銃をもちだして救けにくるから、
死刑にはできないだろうといいますが』
『そうかもしれぬ』
と老人はうなずいて、しばらく黙った。
そして、顔をあげて身をのりだして、
目に口悔しそうな光をうかべて
語気あらくいった。
『もしそんなことになったら、日本は亡びる』
そのとき私は
『亡びるというのは大袈裟だなあ――』と思った。
しかし、後になって
空襲のころにはよくこれを思い出した――
『やっぱりあれは大袈裟ではなかった』 」


以上は「昭和の精神史」の
「五 青年将校は天皇によって『天皇制』を仆そうとした」
に書かれております。


ちなみに、
竹山道雄の「昭和の精神史」は
「竹山道雄著作集1」に入っております。
その巻の解説は、林健太郎。

あと、講談社学術文庫の一冊に
竹山道雄著「昭和の精神史」があり、
その文庫解説は仙北谷晃一。
その文庫解説からすこし引用。

「『昭和の精神史』は『ビルマの竪琴』ほど華やいだ話題にならなかったが、著者の名を高からしめた著作である。表に立たないところで、水が大地にしみるような深い作用をした。・・雑誌『心』に連載(昭和30年8月~12月)された時は、『十年の後に――あれは何だったのだろう』という表題がついていた。このやや破格な感じがないでもない表題は、これら一連の文章を執筆された頃の先生の心境をむしろ率直に伝えているかと思う。・・・先生の著述のほとんどは、ことばの真の意味での『エッセイ』の彩りを濃く帯びているが、それがその時その時の精一杯の試みであることは、改めて記すまでもないだろう。本書もまたしかりである。」


古本で安く読むのでしたら、
文藝春秋の人と思想シリーズの一冊
竹山道雄著「時流に反して」が
私のおすすめ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう夏が。

2013-07-25 | 短文紹介
注文の古本届く。

奎(けい)書房(長崎県大村市本町)
山田太一著「異人たちとの夏」(新潮社・単行本)
350円+送料290円=640円
初版なのですが、見返しに日付と印あり。
表紙カバーが白っぽいので、それなりに汚れ感あり。
本文はきれい。


KAWADE夢ムック「山田太一」に、掲載されていた、
田辺聖子さんの、新潮文庫「異人たちとの夏」の解説を読んで、
その興味から古本を注文したのでした。
田辺さんは
「小説は何をどう書くべきか・・テクニックのさまざまは否定されるためにある。自由に書けばいい。・・山田太一氏の小説は、まさしくそういうものだと思う。・・」

うん。こういう田辺さんの指摘を、確認すべく、読みました(笑)。

「田原町で地下鉄をおり、国際通りを歩きはじめると、もう夏が終ってしまったことを改めて感じ、淋しかった。排気ガスのたちこめた歩道でも秋の気配はあった。すれちがう人々も、酷暑の頃とは、足どりもちがっていた。夏と共に、父も母もケイも行ってしまった。・・」

最後から5頁ほど前に、こういう箇所があったのでした。

うん。現代のふつうと言われる小説が読めない私にも、スラスラと読了できました。
余分な活字による飾りつけがなく、
削ぎ落としがきちんとしているせいか、
すっきりと、頁の流れにゆだねられてゆきました。

ということで、田辺さんの解説の最後も、
噛みしめながら引用。

「・・すべてはラストの、
『さようなら、父よ母よケイよ。どうもありがとう』
に引きしぼられてゆく。異界の愛によって主人公は生へ引きもどされる。
私はこの物語を、お化け小説ともSFとも思わず、率直に一篇の小説として読めた。浅草をさまよい歩いて出会う若い父母も、無人のビルで知り合った寂しい女、ケイも、小説のなかでは重いリアリティがあった。・・・・」

うん。これが「小説」ということで、いいのですね。
ということで、読後に、あらためて解説を読み直し、
頁の流れに、流されて見過ごしていた、田辺聖子さんのいう
『人間のいちばんいい部分への郷愁』を思ってみるのでした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見落とされている問題。

2013-07-24 | 短文紹介
今日の産経新聞。
その国際欄にワシントン=佐々木類氏の記事がありました。見出しは「中国軍 行動予想しにくい」「米専門家から警戒論噴出」とあるのでした。記事の最後を引用すると


「米国防大戦略研究所のT・X・ハムズ上級研究員が『旧ソ連とはそれなりにうまくやってきた。ソ連軍が何を考えているかが分かり、次を予想できたからだが、中国軍は、だれが軍を制御しているのか不明で、行動を予測できない』と懸念を表明した。」


中国といえば、
長谷川慶太郎著「中国大分裂」(実業之日本社・2012年7月)には

「・・日本ではほとんど見落とされている問題があります。それはこの熾烈を極める『路線闘争』が現政権対人民解放軍の形を取っている点です。本来なら党の完全なコントロールを受けているはずの人民解放軍が、実態面では党中央のコントロールから離脱しているだけでなく、状況によっては党に対して反乱を起こす可能性が強まっているのです。こうした判断を持たざるを得ない情勢が定着していることを隣国にありながら、日本はほとんど無視しています。」(p2)

ところで、
中国のお隣・日本の戦時体制は
どのようなものだったのか?
というのを、竹山道雄著「昭和の精神史」から
引用してみたいと思います。

「種村参謀はそれを書いている。長いけれども、大切なところだから拝借して引用する。・・・・総理大臣が主宰する内閣には、実際には陸海軍の編成大権輔弼責任者として陸海軍大臣があり、外交大権輔弼責任者として外務大臣が存していた。・・閣議は全員一致でなければ成立しないことは、内閣官制で決められていた。・・こうして見てくると、日本の旧憲法では、戦争指導上の責任者は究極のところはっきりせず、いわば寄合世帯だったのである。・・最高指導者のなかったことに関連して、統帥権の独立と陸海軍の対立的存在とは、戦争指導を困難にした最大の原因であった。・・支那事変が始まったときだった。時の総理近衛文麿公は、軍がどこまで兵を進め如何なる意図をもつのか、殆ど統帥については知らなかった。新聞記事で戦況を知るくらいのものであった。陸海軍のやることを、あれよあれよと見送るよりほかに手はなかったといってもいいくらいだった。・・・そこで昭和12年11月大本営の設置と同時に、大本営政府連絡会議を設け、重要な議題は前もって議決することにしたのである。これは憲法上にない戦時特別の措置であるが、その規定がなかなかむずかしく、連判しなければ会議を開くことも出来ない有様で、その運営は極めて窮屈なものであった。・・・一方陸海軍の軍政軍令に関しては、相互に協議を要する事項以外は、陸軍限り海軍限りでやって一切相手に束縛をうけず、極端にいえば秘密にしているから、相互に相手の事情がさっぱりわからない。また協議を要する問題になると、これを裁くものがないから、むずかしくなれば、折半するかどちらか妥協するかしなければ、始末がつかなかったのである。・・・」


昭和の、内閣と陸海軍の問題を無視して通れば、
現代中国の共産党と人民解放軍の問題などは、
まずもって、想起しようがないのだろうなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ときには何十年。

2013-07-23 | 短文紹介
中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」は、
山本夏彦氏が文庫に入れるように薦めたというのを読んだことがあります。
その「私の文章作法」の文庫解説が「狐」さん。

その解説で一読忘れられなくなる箇所は、

「・・ただウォーという呻き声として噴き出るしかない状態は、混沌の中でももっとも原初的で野蛮な混沌、もっとも身体的で苛酷な混沌といえる。・・・・
いまの着想をいま書くことだけが文章を書くことではない。昨日生まれた若い混沌だけが混沌なのではない。ときには何十年も魂の一部を封じ込めていた混沌というものがあり、そこに手を届かせ、表現を組み立てようとする文章がある。・・・」

ところで、竹山道雄。
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)に、
そんな混沌と表現について指摘された箇所がありました。

「竹山は8月15日の玉音放送は立川で聞いた。そこでの勤労作業はじゃが芋畑の雑草取りというつまらない仕事だった。次の文章は竹山没後筐底(きょうてい)に残されていた。これは1976(昭和51)年に活字になってはいなかったのではないかと思うが・・・原稿用紙に『31年前の今日』と書いて消して『終戦の翌日のこと』に改められた短い文章である。『31年前の今日』という題を考えたのは、『10年後に――あれは何だったのだろう』と題して(後に『昭和の精神史』として知られる)歴史的考察を1955(昭和30)年8月から『心』に連載したことが念頭にあったからだろう。竹山の問題意識はあの戦争について、あれは何だったのだろう、という思念と回顧が晩年まで続いたのである。」(p260)

これは第11章「『昭和の精神史』――あの戦争とは」の
はじまりの方で、平川氏が指摘している箇所です。

ちなみに、
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」の人名索引には
清水幾太郎の名が二箇所あるのでした。
そこを引用。

「あのころの東大には軍事アレルギーがあった。大江健三郎が女子学生に向って『自衛官のところへ嫁に行くな』と説いて人気を博した頃である。滑稽だったのは・・・1960年、清水幾太郎以下の左翼知識人は『今こそ国会へ』と学生を煽動したが、1968年にはほかならぬその学生たちによって今度は大学が包囲され占拠されてしまったのである。・・・同類の学生に研究室を荒らされるに及んで丸山真男はにわかに活動家学生をファシスト呼ばわりした。・・他方、東大紛争で男をあげたのは学生たちに軟禁されて173時間、一歩も譲らなかった林健太郎文学部長である。その翌々年林は予想を裏切って東大総長に選出された。大新聞は小さな扱いしかしなかったが、戦後日本の思想史上の転換点はあの林総長の選出にあったと思う。それ以後思想的に左翼は沈滞した。・・・」(p449)

ふ~ん。清水幾太郎は、もとは左翼知識人あがりなのだ。

「竹山は、清水幾太郎などのような戦後論壇で主流となった左翼知識人を信用しなかった。」(p318)


「ときには何十年」たって、
あまたある、
大江健三郎・丸山真男・清水幾太郎の論よりも、
竹山道雄の論を読みたい。
というのが、今年の夏。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言うまいとしても。

2013-07-22 | 短文紹介
今年は7月19日(金曜日)が学校の終業式。
もう、学校は夏休みなのか。
さっそく土・日曜日には、
中学生でしょうか、クラブ活動の大会があるようで、
家の前をよその学校の生徒がジャージ姿で通り過ぎ。
午後には、逆に駅へと向かう集団がありました。

さてっと、夏が過ぎれば始業式(笑)。

「大正12年9月1日、中学三年生の私は、第二学期の始業式に出席しました。式は簡単に済みましたから、11時過ぎには家へ帰つたように思います。何しろ暑い日なので、半袖のシャツとパンツだけという恰好になつて、暑い、暑い、と言いながら、昼飯を食べました。卓袱台(ちゃぶだい)には初物の里芋が出ていました。」

これは、清水幾太郎著「私の心の遍歴」にある「大震災は私を変えた」という章のはじまりでした。つぎも少し引用してみます。

「食べ終つて、お茶を飲んでいる時、猛烈な震動が来ました。震動と一緒に、頭がポーッとしてしまいました。どうしてよいか判らぬうちに、眼の前で、床の間の柱がミリミリと折れる、というより、粉々に砕けて、天井がドシンと頭の上に落ちて来て、真暗になつてしまいました。・・・」


ここで、途中を端折って、引用したいのは、避難の様子なのでした。
その箇所をみてみます。

「・・・私たちは、間もなく、動き出しました。亀戸の町は、いつか、暗くなつています。広くもない往来を埋めて、手に手に荷物を持つた群集がノロノロと流れて行きます。どこへ行くのか、誰も知らないのです。・・・・群集の中に融け込んでからも、私は、時々、妹と弟との名を呼びました。いくら、呼んでも、反応はありません。けれども、私が呼ぶと、群集の流れの中から、同じ肉親を呼ぶ声がひとしきり起つて来ます。それも無駄だと判ると、再び以前の沈黙が戻つて来ます。沈黙が暫く続くと、どこからともなく、ウォーという呻くような声が群集の流から出て来ます。この声を聞くと、私も、思わず、ウォーと言つてしまうのです。言うまいとしても、身体の奥から出てしまうのです。言葉を知らぬ野獣が、こうして、その苦しみを現わしているのです。私たちは、ウォーという呻きを発しながら、ノロノロと、暗い町を進んで行きました。
その晩は、東武線の線路で寝ました。寝たというより、真赤な東京の空を眺めて夜を明かしたというべきでしょう。その間にも、頻繁に揺り返しが来ます。揺り返しの度に、線路に寝ている人たちの間から、悲しみと恐れとに満ちた叫びが出て来ます。原つぱの真中にいるのですから、いくら揺れても、危険はないのですし、失う品物も何一つないのですが、それでも、大変な悲鳴が起るのです。・・・」(p295~299)


以上は、「清水幾太郎著作集 10」(講談社)より引用しました。
夏休みあけの始業式。
その日、世界が変ってしまったのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桁外れの喪失に。

2013-07-21 | 短文紹介
赤坂真理さんの新聞書評(2013年4月7日朝日新聞)が気になっておりました。池澤夏樹著「双頭の船」(新潮社)への書評でした。
べつに、私は「双頭の船」を読みたいとは思えませんでしたが、
書評には、気になる言葉がありました。

「『戦後』の罪のもう一つは、大戦の膨大な死に言葉を与えていないことだろう。被災地の『復興』が、進まないどころか忘れられ、国内棄民をつくりつつあるのは、桁外れの喪失に言葉を与える力が社会にないからではないか。」

という指摘でした。
うん。けっこうな指摘だなあ、と思いながら。
この夏、私は竹山道雄を読んでいるのでした(笑)。

さてっと、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の
注(p156)に

「・・なお高田里惠子がナチス讃美の日本の独文学者を糾弾した『文学部をめぐる病』(2001年)で、ナチス反対の人々に言及しないのは全体像をとらえきれておらず残念なことである。」

との指摘があります。
全体像をとらえるには、どうすればよいのか。
うん。竹山道雄を通じてしか
「桁外れの喪失に言葉を与える力」をとりもどせないのじゃないか。
たとえば、
「ビルマの竪琴」の第一話「うたう部隊」が
その「言葉を与える力」の端緒となっていると、
不思議と思えてくるのでした。

それで、思い出すのは、
東日本大震災のあと、すぐに出た。
平成23年4月26日発行の
新潮ムック「これからを生きる君たちへ」でした。

そこに「被災地の卒業式」という箇所があります。

「今回の被災地の常として、津波の被害がなかった建物はみな、避難所となる。釜石小学校の体育館も、避難した住民で溢れかえり、窮屈な生活を強いられていた。」

そこでの卒業式を、黒井克行氏が書きとめておられます。
以下引用。

「体育館の両側に毛布を積み上げスペースを作り、ゴザを後ろに敷いて、保護者たちと被災者の方々が式を見ることができるよう、臨時の会場を設営した。・・・震度三の地震が襲った。しかし、だれも声を上げることもなく、児童の旅立ちを見守った。こらえきれず涙を流す姿が、あちこちで見られた。
式が終わりにさしかかり、校歌が合唱された。作詞は、仙台出身の作家・井上ひさし氏による。この歌声を聴いた時、私も涙を止めることができなかった。

   釜石小学校校歌

 いきいき生きる いきいき生きる
 ひとりで立って まっすぐ生きる
  困ったときは 目をあげて
  星を目あてに まっすぐ生きる
  息あるうちは いきいき生きる

 はっきり話す  はっきり話す
 びくびくせずに はっきり話す
 困ったときは  あわてずに
 人間について  よく考える
 考えたなら   はっきり話す

 しっかりつかむ しっかりつかむ
 まことの知恵を しっかりつかむ
 困ったときは  手を出して
 ともだちの手を しっかりつかむ
 手と手をつないで しっかり生きる


毎朝、ラジオ体操の後、被災者全員で歌うという。・・・」(p16~17)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寮の入口の下駄箱の。

2013-07-20 | 短文紹介
昨日、フジテレビの山田太一ドラマ「よその歌わたしの唄」を最後まで見る。
一人カラオケの場面からはじまっておりました。
歌といえば、
竹山道雄著「ビルマの竪琴」の第一話は「うたう部隊」。
その第一話の前に、一頁の文があるのです。
それを引用。
こうはじまります。

「兵隊さんたちが大陸や南方から復員してかえってくるのを、見た人は多いと思います。みな疲れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子です。中には病人になって、蝋(ろう)のような顔色をして、担架にかつがれている人もあります。
こうした兵隊さんたちの中で、大へん元気よくかえってきた一隊がありました。みないつも合唱をしています。・・・」

ちなみに、新潮文庫にはあとに「ビルマの竪琴ができるまで」という文が掲載されております。それも引用。

「戦後まもなく『赤とんぼ』の編集長の藤田さんが私の家に来られ、何か児童向きの読物を書け、といわれました。・・・・あの物語は空想の産物です。モデルはありません。・・・モデルはないけれども、示唆になった話はありました。こんなことをききました。――  
一人の若い音楽の先生がいて、その人が率いていた隊では、隊員が心服して、弾がとんでくる中で行進するときには、兵たちが弾のとんでくる側に立って歩いて、隊長の身をかばった。いくら叱ってもやめなかった。そして、その隊が帰ってきたときには、みな元気がよかったので、出迎えた人たちが『君たちは何を食べていたのだ』とたずねた。(あのころは、食物が何よりも大きな問題でした)
鎌倉の女学校で音楽会があったときに、その先生がピアノのわきに坐って、譜をめくる役をしていました。『あれが、その隊長さん――』とおしえられて、私はひそかにふかい敬意を表しました。日ぐらしがしきりに鳴いているときでしたが、私はこの話をもとにして、物語をつくりはじめました。・・・」(p194~195)


竹山道雄氏に「昭和十九年の一高」という文があります。
ちなみに、竹山氏はその一高の先生でした。

そのはじまりは

「昭和19年・・・この年の春から、二年生は日立の工場に働きに行っていた。・・若い人たちは若い人たちらしく、くるしい中にも自分たちの生活をつくっていた。しかし、それはあの当時の時世にはまったく容れられないものであった。ことに、あの軍国化された工場町にあっては、一高生の生活はそれ自体が反抗であり、挑発であった。ある場合には侮辱としてうけとられた。」

以下は、「歌」に触れられた箇所をピックアップ。

「一高生は大勢一緒に歌をうたいながら歩く。こんなことは酔っぱらいか気違いのすることであった。また雨がふるとマントを頭からかぶって歩く、その異様な姿に出あうと、女たちはおそれて道をさけた。・・また、日立の町はあのようなところであるから、私娼窟があった。ここに行けば、おでんを食うことができた。腹がすいている一高生は列をなして、『ああ玉杯』をうたいながら、おでんを食いに白昼私娼窟にくりこんだ。町の人はこれを見て、『天下の一高生が――』とおどろいた。」

それから5頁ほど先には

「ある日の午後、寮生が一人だけ、まだ早い時間に川崎の工場からかえってきた。一高は工場の出勤率がよくなく、これが学校の大きな悩みの種であったから、工場の係りの先生たちにはまたその立場としての困難な任務があった。早退もきびしく取締られていた。この寮生に早退の理由をきくと、答は意外なものだった。『靴がないから、早退しました』この人は跣足(はだし)であるいていた。『おそくなると電車が混んで、足をふまれてたまりません。それで早退しました』この人はそういって寮に入っていったが、行きながら、大きなのんきな声で寮歌をうたっていた。」

そして、こんな箇所

「出征応召が日についだ。見なれた顔がいつのまにか見えなくなった。もうこのころになっては歓送の会もなく、寮の入口の下駄箱のところでしばらく立話をして、『行ってまいります』といって出て行った人もあった。すべての人が、いつかは自分も出てゆく日があるのを覚悟していた。悲歌『都の空』の合唱は、塔の上に、校舎の前庭に絶えることなく、あの歌の声は自分の家にかえっても耳の底にきこえた。
特攻隊に編入された鷲尾君があたらしい軍服を着て、別れを告げに学校にやってきて、その後まもなく散華したときいたのは、これよりもう少し後のことであったろう。白状すると、私はあのとき同君と話しするのがつらかったし、いやだった。彼は何か冷やかなものを感じたのかもしれない、階段の途中でしばらく躊躇していたが、やがて思いきって段を降りてひとりで外へ出て行った。」

ちなみに、新潮文庫「ビルマの竪琴」の後ろには、他の歌とともに、
「都の空に東風吹きて」(一高第14回紀念祭寮歌)の歌詞が、一から十まで掲載されているのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

録画率。

2013-07-19 | テレビ
KAWADE夢ムック「山田太一」に
荒川洋治氏のエッセイ「文章と生き方」が掲載されておりました。
そのはじまりは、

「先ごろ新聞で、山田太一さんはこんなことを述べていた。一軒にテレビは何台もある。ビデオの普及もめざましい。だからこれからは視聴率だけではなく、録画率というものも考えなくてはならないだろうと。山田さんのテレビドラマは録画率の高いものだ。くり返し見て、楽しめる。ためになる。そのエッセイについても同じことがいえる。・・・・だが書物というのは録画率である。」(p152)

まあ、こうはじまるのでした。
そういえば、今日のフジテレビで山田太一のドラマがあるそうな。
さっそく録画することに。

ちなみに、「録画率」の前をすこし引用。

「そのエッセイについても同じことがいえる。はじめてエッセイ集を出したとき、山田さんは売れゆきが心配で、あちこちの本屋を歩き回ったとある本で読んだが、即効、即売性を問うなら、たしかに視聴率ということになる。一、二冊目の売れ行きはかんばしくなかったらしい。だが書物というのは録画率である。」

うん。録画率というのは、こと、本についてなら古本購入率ともいえそうだなあ(笑)。汝、新刊の視聴率に惑わされることなかれ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和21年の夏に。

2013-07-18 | 古典
新潮文庫の竹山道雄著「ビルマの竪琴」を、
とりあえず読了。
私に印象深かったのは、
本文よりも
「ビルマの竪琴ができるまで」の方へ
より惹きつけられました。

「ビルマの竪琴ができるまで」で
今回気になった箇所は

「戦後まもなく『赤とんぼ』の編集長の藤田さんが私の家に来られ、何か児童向きの読物を書け、といわれました。そのころは私は忙しくて、言葉どおり寸暇もありませんでした。・・・しかし、その疲れがでたのでしょう、昭和21年の夏に、かるい中耳炎をおこしました。このおかげで、十日ほど家にひきこもって、寝たり起きたりして、ひさしぶりでぼんやりしていました。耳に血が上るので本を読むこともできません。・・・ズキズキする動悸の音をききながら、あれこれと考えていました。そして、『この暇に子供むきの物語を考えてみよう――』と思いました。・・・日ぐらしがしきりに鳴いているときでした・・・」

「私は旧制高等学校につとめていて、幾年もつづいて、在校生や卒業生の出征を見送りました。」
「まことに、若い人があのようにして死ぬということは、いいようなくいたましいことです。それを終生気にかけていたらしい乃木大将の気持が、おぼろげながら分るような気もします。」

中村光夫の文庫解説(昭和34年)に

「ここに扱われたテーマは、子供をたのしますより、むしろ大人が力一杯とりくむべき問題である、ことに現代の日本には切実な意味を持っています。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読んだあと。

2013-07-17 | 短文紹介
アキレス腱を切って、
今日で2回目の病院。
一回目は、ギブスをまく。
今回は、ギブスの取りかえ。
2週間たつと、隙間ができるとこのと。
次は、7月31日。
ハイヒール式の補助器具になるそう。

とりあえず。
病院にゆくとき、
ショルダーバッグに2冊。

竹山道雄著「ビルマの竪琴」(新潮文庫)
KAWADE夢ムック「山田太一」
を入れてゆく。

文庫は第二話を読む。

「ハハハ、風にただよう竪琴の三つか四つの絃の組みあわせ方――。それで、死んだ人が生きているとは! これは面白い。なかなか詩的だ。きみは夢をみているね」(p103)


夢ムックはパラパラひろげる。
山田太一氏へのインタビュー。
その最後に

「・・・乗り切りますよ。戦中戦後世代は少なくなったとはいえ、みんなあの敗戦、あの貧乏に耐えた人たちの直系なんだから。」(p19)

山田太一氏のエッセイ「向田さんのこと」からも
引用。

「・・その頃私は向田さんのエッセイを『発見』した気になっていた。『銀座百景』に連載していたエッセイが実に素晴しく、どうして人々の話題にならないのだろうと口惜しいような思いでいた。人の作品にそういう思いを抱くのは普通ではないが、半分わが身に重ねていたところがあったのである。テレビライターの書くものだから、とみんな本気で読もうとしていないのではないか、という気持があった。」(p94)


田辺聖子さんの、新潮文庫「異人たちとの夏」の解説文も載っていました。
そのはじまりは、

「小説は何をどう書くべきか、というキマリなどないのであって、小説作法なんて本は往々あるけれど、あれは読んだらすぐ忘れるべきものだ。テクニックのさまざまは否定されるためにある。自由に書けばいい。ただ、読んだあと心に残る結晶が、真実の美しさや、愛であればいい。山田ワールド、ともいうべき、山田太一氏の小説は、まさしくそういうものだと思う。」(p201)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする