「海を持っている」というイメージが、夏にはいいですね。
ということで、そのイメージまでたどりつけますように。
読書と海というイメージも夏にはもってこいです。
では、はじめます。
高島俊男著「座右の名文」(文春新書)の「まえがき」が魅力なのです。
そこを引用しましょう。
「毎日ねころんで本をよみちらす。これが、ここ十数年来のわが生活である。
・・・通常毎日十冊以上はよむ。そのかわり、一つの本をおしまいまで通してよむことはめったにない。まあ五十冊に一冊くらいかな?それとも百冊に一冊くらいか。とにかく、ごくすくない。たいがいは途中でやめる。はやいのは一ページか二ページでほうり出す。毎日十冊以上ときいてびっくりするにはおよびません。あわせて一冊分にもならないのだから。」
ここまで読んだ私は、ホッしたのでした。
そうなんだよなあ。そんなのありなのだ。
こう語ってもらって安心するのでした。
いままで、こう語ってくれる人がいなかった。
語られれば「なあんだ」という呆気なさなのに、どなたからも聞かなかった。
そういう、私にとっての魅力的なフレーズです。
そのあとには、こう続くのでした。
「本の種類は多種多様である。とりとめない。しからばわが本のよみかたは、あてどなく大海をただよう小舟のごときものかといえば、かならずしもそうでない。根拠地はあるのである。しばらくあれこれとよみちらしの漂流がつづくと、ほっといてもおのずからまた根拠地にもどる。ここにもどれば安心なのである。しばらくはここであそんで、またよみちらしの漂流へと出てゆく。根拠地で待っているのは、本というより、人である。その人たちの本をよめば、かならずおもしろいのである。」
ああ、ここが私と違うのだ(こうして、つい自分と比較してしまう不遜)。私には漂流のあとの根拠地が、霞んでいるままなのでした。高島俊男さんはその後に十人の名前をあげてから、こう書いております。
「上に『かならずおもしろい』と言ったが、それは、この人たちの書いたものはどれもこれもみなおもしろいというわけではない。無論駄作もあれば愚作もある。ながいなじみだからそれはわかっているのである。」
「ながいなじみだからそれはわかっている」という馴染みを私はもっていないことに、いやおうなく思い当たるわけです。
そういえば、高島さんの十人のなかには森鴎外と夏目漱石とが登場します。
その二人を語って印象深い対談があったことを思い出します。
それは、古井由吉・齋藤孝の対談。
「文学界」2002年3月号の特集「日本語の埋蔵量」の中での対談でした。
そこから引用します。
【齋藤】・・調子が悪くなったときに、ほかの誰かの文章・・・を読むことで感覚を取り戻すことができる、言ってみれば文章を整えるために読むようなものはありますか。
【古井】それはさすがに漱石ですね。鴎外だとちょっとまねができないから。漱石だと狂いを正してくれる。例えばピアニストがちょっと自分の弾き方に疑問を持つと、バッハの平均律を弾くんですって。・・・現代の口語文でしょう。たかだか百年の歴史しかないものなんです。ほんとうにいい型というのは、まだできていないと見るべきなんです。ところがその口語文が発生したほんの初期に、文語文の教養を持った作家たちが一番完成されたものを書いている。だから明治の人の文章が一番ふさわしいのかなあ。漱石や鴎外、あるいは永井荷風か。・・・近代の口語文に関しては、平均律の代わりになるものはないと思ったほうがいいでしょうね。だから近代以前のものを読んで、その力を浴びる。・・・
「その力を浴びる」という言葉がでてきますけれど、
高島俊男著「座右の名文」に出てくる十人の「ながいなじみ」を語る語り口。その「なじみ」と「浴びる」とが私には同じに見えてくるのです。そうすると、「近代以前のもの」を高島さんはどう馴染んでおられたのか?どうその力を浴びていたのか?
その興味を持って、あらためて十人の顔ぶれを眺め回すのです。
新井白石、本居宣長、森鴎外、内藤湖南、夏目漱石、幸田露伴、津田左右吉、柳田國男、寺田寅彦、斎藤茂吉(生年順)。
高島さんは夏目漱石の箇所で、「坊ちゃん」をテーマに取り上げておりました。
古井さんの「平均律の代わり」となる漱石。その「坊ちゃん」に微妙な狂いを聞き分けている高島俊男がいるのです。
そして高島さんは「坊ちゃん」をどのように弾けばよいかを明示するのでした。
「だから、『坊ちゃん』は、『探偵』に苦しめられる主人公をえがいた『探偵』小説であり、その苦痛から主人公をまるごと救いとってくれる女神との『愛』の物語である、というのである。」(p114)
カギカッコの「探偵」がどのような意味をもつかは読んでのお楽しみなのですが、ここで思い至るのは高島さんが「平均律の代わり」としての「坊ちゃん」の、その微妙な音程の箇所を指摘していることです。この新書で、あえて作品「坊ちゃん」に焦点をあてているのが私には魅力に思えるのですがいかがでしょう。
話はかわるのですが、高島さんのお話の中で幸田露伴の箇所にこんなのがあります。
「本居宣長もずいぶん頭のいい、ものおぼえのいい人であったが、その宣長でもこんなことを書いている。――あることばをさがすのに、たしかこの本にあった、ということまではわかるのに、どこに書いてあったのかがわからなくて困る。かといって、その書物をはじめからしまいまで全部見なおすなどというのはできない相談だから、そこかここかと見当をつけてさがし、けれどとうとう見つからなくて、くやしい思いをすることがある、と。露伴のばあいには、どうもそういうことはなく、『このことばは、この本のこのあたりにあった』ということは頭のなかの写真をさがせばパッと見つかる、というぐあいになっていたらしい。」(p116)
この「写真」とつながるような感じをうける言葉を、古井由吉さんの先の対談でみつけました。
【古井】それから、理解しなきゃいけないというほかに、忘れてはいけないという、この強迫観念もいけないね。忘れては思い出し、忘れては思い出して深まってくるんだ。
【齋藤】身体のどこかに残っている、というぐらいの感触でよしとしないと。
【古井】・・・大体知識なんか、その都度必要なときにつかまえてくるもんだ。魚にたとえれば、自分の中に海を持っていることが大事で、獲った魚をすべて手もとに蓄えておけるわけがない。
2007年の今年の夏は、
「自分の中に海を持っていること」という言葉を反芻しながら過ごせたら。
と、そんなことを、思うのでした。
といっても、こうして書き込んだ次の日から、もう忘れているのですけれど(笑)。
ということで、そのイメージまでたどりつけますように。
読書と海というイメージも夏にはもってこいです。
では、はじめます。
高島俊男著「座右の名文」(文春新書)の「まえがき」が魅力なのです。
そこを引用しましょう。
「毎日ねころんで本をよみちらす。これが、ここ十数年来のわが生活である。
・・・通常毎日十冊以上はよむ。そのかわり、一つの本をおしまいまで通してよむことはめったにない。まあ五十冊に一冊くらいかな?それとも百冊に一冊くらいか。とにかく、ごくすくない。たいがいは途中でやめる。はやいのは一ページか二ページでほうり出す。毎日十冊以上ときいてびっくりするにはおよびません。あわせて一冊分にもならないのだから。」
ここまで読んだ私は、ホッしたのでした。
そうなんだよなあ。そんなのありなのだ。
こう語ってもらって安心するのでした。
いままで、こう語ってくれる人がいなかった。
語られれば「なあんだ」という呆気なさなのに、どなたからも聞かなかった。
そういう、私にとっての魅力的なフレーズです。
そのあとには、こう続くのでした。
「本の種類は多種多様である。とりとめない。しからばわが本のよみかたは、あてどなく大海をただよう小舟のごときものかといえば、かならずしもそうでない。根拠地はあるのである。しばらくあれこれとよみちらしの漂流がつづくと、ほっといてもおのずからまた根拠地にもどる。ここにもどれば安心なのである。しばらくはここであそんで、またよみちらしの漂流へと出てゆく。根拠地で待っているのは、本というより、人である。その人たちの本をよめば、かならずおもしろいのである。」
ああ、ここが私と違うのだ(こうして、つい自分と比較してしまう不遜)。私には漂流のあとの根拠地が、霞んでいるままなのでした。高島俊男さんはその後に十人の名前をあげてから、こう書いております。
「上に『かならずおもしろい』と言ったが、それは、この人たちの書いたものはどれもこれもみなおもしろいというわけではない。無論駄作もあれば愚作もある。ながいなじみだからそれはわかっているのである。」
「ながいなじみだからそれはわかっている」という馴染みを私はもっていないことに、いやおうなく思い当たるわけです。
そういえば、高島さんの十人のなかには森鴎外と夏目漱石とが登場します。
その二人を語って印象深い対談があったことを思い出します。
それは、古井由吉・齋藤孝の対談。
「文学界」2002年3月号の特集「日本語の埋蔵量」の中での対談でした。
そこから引用します。
【齋藤】・・調子が悪くなったときに、ほかの誰かの文章・・・を読むことで感覚を取り戻すことができる、言ってみれば文章を整えるために読むようなものはありますか。
【古井】それはさすがに漱石ですね。鴎外だとちょっとまねができないから。漱石だと狂いを正してくれる。例えばピアニストがちょっと自分の弾き方に疑問を持つと、バッハの平均律を弾くんですって。・・・現代の口語文でしょう。たかだか百年の歴史しかないものなんです。ほんとうにいい型というのは、まだできていないと見るべきなんです。ところがその口語文が発生したほんの初期に、文語文の教養を持った作家たちが一番完成されたものを書いている。だから明治の人の文章が一番ふさわしいのかなあ。漱石や鴎外、あるいは永井荷風か。・・・近代の口語文に関しては、平均律の代わりになるものはないと思ったほうがいいでしょうね。だから近代以前のものを読んで、その力を浴びる。・・・
「その力を浴びる」という言葉がでてきますけれど、
高島俊男著「座右の名文」に出てくる十人の「ながいなじみ」を語る語り口。その「なじみ」と「浴びる」とが私には同じに見えてくるのです。そうすると、「近代以前のもの」を高島さんはどう馴染んでおられたのか?どうその力を浴びていたのか?
その興味を持って、あらためて十人の顔ぶれを眺め回すのです。
新井白石、本居宣長、森鴎外、内藤湖南、夏目漱石、幸田露伴、津田左右吉、柳田國男、寺田寅彦、斎藤茂吉(生年順)。
高島さんは夏目漱石の箇所で、「坊ちゃん」をテーマに取り上げておりました。
古井さんの「平均律の代わり」となる漱石。その「坊ちゃん」に微妙な狂いを聞き分けている高島俊男がいるのです。
そして高島さんは「坊ちゃん」をどのように弾けばよいかを明示するのでした。
「だから、『坊ちゃん』は、『探偵』に苦しめられる主人公をえがいた『探偵』小説であり、その苦痛から主人公をまるごと救いとってくれる女神との『愛』の物語である、というのである。」(p114)
カギカッコの「探偵」がどのような意味をもつかは読んでのお楽しみなのですが、ここで思い至るのは高島さんが「平均律の代わり」としての「坊ちゃん」の、その微妙な音程の箇所を指摘していることです。この新書で、あえて作品「坊ちゃん」に焦点をあてているのが私には魅力に思えるのですがいかがでしょう。
話はかわるのですが、高島さんのお話の中で幸田露伴の箇所にこんなのがあります。
「本居宣長もずいぶん頭のいい、ものおぼえのいい人であったが、その宣長でもこんなことを書いている。――あることばをさがすのに、たしかこの本にあった、ということまではわかるのに、どこに書いてあったのかがわからなくて困る。かといって、その書物をはじめからしまいまで全部見なおすなどというのはできない相談だから、そこかここかと見当をつけてさがし、けれどとうとう見つからなくて、くやしい思いをすることがある、と。露伴のばあいには、どうもそういうことはなく、『このことばは、この本のこのあたりにあった』ということは頭のなかの写真をさがせばパッと見つかる、というぐあいになっていたらしい。」(p116)
この「写真」とつながるような感じをうける言葉を、古井由吉さんの先の対談でみつけました。
【古井】それから、理解しなきゃいけないというほかに、忘れてはいけないという、この強迫観念もいけないね。忘れては思い出し、忘れては思い出して深まってくるんだ。
【齋藤】身体のどこかに残っている、というぐらいの感触でよしとしないと。
【古井】・・・大体知識なんか、その都度必要なときにつかまえてくるもんだ。魚にたとえれば、自分の中に海を持っていることが大事で、獲った魚をすべて手もとに蓄えておけるわけがない。
2007年の今年の夏は、
「自分の中に海を持っていること」という言葉を反芻しながら過ごせたら。
と、そんなことを、思うのでした。
といっても、こうして書き込んだ次の日から、もう忘れているのですけれど(笑)。