和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

近代美術の水先案内人。

2006-09-27 | Weblog
沼波瓊音著「柳樽評釈」を読んだのでした。
そこで、柳樽とは、いったいどんなものだとうという疑問にも答えが載っておりました。

「柳樽は柄の付きたる樽にて朱塗りなどにしたり。酒を人に贈る時に用ふ。もとは柳の木にて作りたる故この称あるなり。婚礼の結納の時これを贈る目録に家内喜多留(やなぎだる)と記す。今も目録に記すだけはこれを記す。」
これはある川柳の注として記してあります。
その川柳は
   家内喜多留小さい恋は蹴散らかし


ところで、沼波瓊音著「徒然草講話」を読んでいるのですが、こうして手ごたえがある本を前にすると私は、ソワソワしだして、なかなか先へと読み進めることができません。ああ、私は読書家じゃないタイプだなあと、つくづく思います。先へと読み進めない癖して、本を閉じると、気分が拡散して他の本へと気が散るのでした。
まあ、それはそれとして、徒然草に「久米(くめ)の仙人」が登場する箇所があります。
その評として沼波瓊音は、
「・・むだ話になるが、徒然草の中にある話は、柳樽に多く詠まれて居る。
この久米仙人も盛に材料にされてる。私の記憶してるらのの中では

    仙人さまアと濡手で抱きおこし

と云うのが最も面白いと思ふ。」
こんな風になにげなく「柳樽」が出てきたりします。

その柳樽にあった
  塩引(しおびき)の切残されて長閑(のどか)なり
これを「名句である」とする沼波瓊音の評釈は、この前に引用しました。
注としては「塩漬にした魚類をすべて云ふ語なれど、普通塩引とのみいへば塩引の鮭のことなり。ここも然り。」
とあります。ここから、そういえばというので
鮭の絵として知られる高橋由一を連想し
私は菊畑茂久馬著「絵かきが語る近代美術」(弦書房)を読んだのでした。
この菊畑の本は山村修著「狐が選んだ入門書」で紹介されておりました。
ちなみに、洲之内徹著「気まぐれ美術館」には「もうひとりの鮭の画家」という文がありました。

最近出版された青木茂著「書痴、戦時下の美術書を読む」(平凡社)を開いたら、
その菊畑さんの本を読んだ感想が書かれております。
「絵かきらしく事実と喰いちがっているところもあるが、菊畑氏の心情では歴史的事実なのである。事実だけを羅列して心情的事実を無視するから、美術史の叙述が面白くないのである。・・私は夕暮れに読みはじめ、考え考え読み通して倒れた。『日本美術の社会史』とともに近来の快著と思う。」(p148)

ちなみに、狐さんはどう評していたか、
「高橋由一の章や、この戦争画の章のほか、フェノロサをきびしく断罪してはばからない章などにも、菊畑茂久馬の身にひそむ思想のしぶとい力が、さながら皮膚の下に筋肉がグリグリと動くようにはっきりと見えます。力強い入門書です。」(p205)

ところで、青木茂氏の、その本の最初は「収書と散書」という4頁ほどの文でした。
そこに
「新本屋で本など買えない。発刊されて十年たって尚いくらか魅力のある図書だけが読む価値があると、三十ごろから思ってきたので、買うのはもっぱら古本である。」とありました。もっぱら新刊に目がいく自分が、場違いな雰囲気にもぐりこんだ気分になるのでした。

青木茂氏の本の最後の著者紹介はというと。

「1932年岐阜県生まれ。早稲田大学卒業。東京芸術大学図書館・学芸資料館、神奈川県立近代美術館、跡見学園女子大学、町田市立国際版画美術館館長を経て、現在、文星芸術大学教授。明治美術学会会長。高橋由一研究の第一人者。・・・」
とあります。


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コラム「緯度経度」を応援します。

2006-09-19 | Weblog
産経新聞の古森義久氏が連載しているコラム「緯度経度」が問題になっています。
始まりは2006年8月12日のコラムでした。
そこで、外務省管轄下の日本国際問題研究所(JIIA)が今春から始めた英文での「JIIAコメンタリー」は、日本からの対外的な発信という意味で時宜を得た発信だと思った。そのように古森氏はコラムをはじめておりました。
そして、英語の論文の形で定期に発信される、その論文をワシントンで読んでびっくり仰天したのだそうです。
ここで内容の指摘をしているのですが、とりあえず私は端折ります。
終わりのほうにこうある。
「この論文の筆者の名を・・国際問題研究所の英文編集長の玉本偉氏だというのだ。玉本氏は在住の長い米国のその筋では知る人ぞ知る、日本政府の対外政策をたたいてきた過激な左派学者である。2003年のワシントンでのセミナーで『北朝鮮の拉致問題というのはすでに解決ずみであり、日本側は対外強硬策の口実にしているだけだ』とか・・断言するのを私もまのあたりに聞いた。」
最後はこうでした。
「現在の日本の外交や安保の根本を否定するような極端な意見の持ち主に日本の対外発信を任せる理由はなんなのか。この一稿の結びを佐藤理事長(元国連大使の外務官僚)への公開質問状としたい。」

すると、米紙ワシントン・ポスト8月27日付に米国民主党系活動家が書いた投稿文が掲載されたのだそうです。
そこでコラム「緯度経度」のその文を非難して
「自由な言論を抑圧し、市民社会に後退を迫る右翼による公的人物に対する威嚇キャンペーンの最新の襲撃」だと中傷する文が載ったのだそうです。
9月16日産経新聞は、その後の経過を示しております。
そのワシントン・ポスト投稿文。800語以上の長さの文に対して、
450語の反論と抗議の投書を8月30日に送ったが、スペースの制約のために250語ほどまで短縮してほしいという要請があったそうです。その翌日、短縮した書簡を送ると、その翌9月1日にたぶん掲載との通知があるものの、掲載されずに、問い合わせに対しては回答がない。という以上の様子を産経新聞が国際欄で記事にしておりました。

さて、この米紙投稿文を利用したのが、朝日新聞でした。
9月8日の朝日新聞には社説脇には、
この問題の掲載論文を閲覧停止にした佐藤理事の判断を非難する記事を作っておりました。そこにはこうあります。
「佐藤氏は朝日新聞の取材に【『靖国カルト』など不適切な言葉遣いがあった。内容ではなく表現の問題だ。もう一度よく精査している】と語った」とあります。
そこでの朝日新聞の記事には玉本偉氏の名前は載っていないのですが、
玉本氏の論文をこんな風に引用しております
「小泉首相や過去の首相の靖国神社参拝を『靖国カルト』(崇拝)と表現し、『日本の政治的見解は海外で理解されない』などとしている」

もとにもどって古森義久氏の8月12日「緯度経度」には、そのカルトのニュアンスを朝日新聞の(崇拝)という言葉とは違って伝えておりました。
その箇所。
「その英語の文章は靖国神社の参拝支持を『靖国カルト』と評するような偏向言語に満ちている。カルトとはオウム真理教のような狂信的宗教集団を意味する断罪言葉である。」
どうですか、日本語で、(崇拝)というのと「狂信的宗教集団を意味する断罪言葉」というのでは、だいぶ開きがあります。
どちらの記事をたよりにしたらよいと思いますか?

もうすこし古森氏の玉本偉氏の論文紹介を引用してみましょう。
「同論文には日本の現実派の思考を『反歴史的想像』と呼び、戦後の日本国民の戦争観を『記憶喪失症』と断ずるなど、全体として米欧の左派系や中国の日本たたきに頻繁に使われる扇情的、情緒的なののしり言葉があまりに多い。この点では『反日』と呼べる論文なのである。」

そこで、これが9月18日産経新聞一面コラム「産経抄」で取り上げられておりました。
「スティーブ・クレモンスなる御仁によれば、小紙と古森義久記者が『言論を弾圧している』そうだ。」とコラムを書き始め、
「古森記者はすぐ反論をポスト紙あてに送ったが、2週間たっても掲載されなかった。『言論の自由』について考えさせられる対応である。」とコラムを終えています。

どうやら、私たちは、ワシントン・ポスト紙の程度を知っておいた方がよさそうです。

例によって朝日新聞の記事には、ボヤかしたアイマイ表現で閲覧停止を非難して
「研究所や外務省内にも『過剰反応』と異論があり、米紙は『言論封殺』とする寄稿を掲載。」とさも米国の新聞という書きぶりになっております。
どの新聞か知りたい朝日新聞の読者にワシントン・ポスト紙への直接の言及を、濁しておりました。いつもながら朝日の5W1Hの新聞のイロハは死語になっているようで、私たちは、ワシントン・ポストとともに、玉本偉の名前も忘れないようにしたいですね。もちろん朝日新聞の記事取り上げ方の巧妙さも忘れないことにします。

とにかくも、こういうことが現在進行形としてあるのですから、
知っておきたいものです。それでなくても、アジアの人からは
日本のヒトは社会歴史を知らないと非難されている。
じつは、現在も知らないんですと、正直に白状しちゃいましょう。
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沼波瓊音著「柳樽評釈」(彌生書房)。

2006-09-17 | 詩歌
沼波瓊音の本を読みたいと思っていたのです。もっとも、
いつも、思っていて「読みたい」だけで終る私です(笑)。
けれども、今回は違いました。ありがたいことに、
沼波瓊音著「柳樽評釈」のレビューを読むことができました。
伊藤正雄著「忘れ得ぬ国文学者たち」のレビューも読めた。
どちらも、さいわい本が手元にありました。
これは、いい機会だと思って「柳樽評釈」を、最後まで読んでみました。
途中まで線をひいてあるので、購入した時に、すこしチャレンジしてみた
形跡があります。それで歯が立たなくて、そのままになっていた本でした。
今度読み直したら、これが楽しい読書になったのです。

読み終わると、評釈の味わいがみごとなのです。
内容の紹介が主なので、でしゃばらない様な評釈なのですが、
読了すると、微妙なその感じが、的確に全体を包んでいるのがよく伝わります。
それは沼波瓊音の主張が、静かに基調音として聞き取れる魅力。
たとえば、こんな言葉が拾えます。
「をかしいと云へばをかしい、気の毒と思へば気の毒。かう云ふ句が名句である。
 川柳と云ふもの決して冗談では無いのである。」(p35)
「川柳にある斯う云ふ動物の写生は、頗(すこぶ)る特色があつて面白い。」(P41)
「まことに詩である。風俗詩である。」(p52)
「よく云ひおほせ、よく写しおほせてある。」(p56)
「人口に膾炙してる句で、しかも名句である。」(p60)
「これがどこが面白い、と云ふ人のありそうな句で、そして妙句である。」(p62)
「これも命の無い机上作である。」
この机上の句というのが、悪い見本としての評価のようです。
「机上の句だなァ。」(p162)「一向力の無い詰まらぬ句。」(p174)
「云ひ方も低いし、作りつけたような句。」(p199)
その机上に対して
「実地の句で、面白い句である。」(p175)
「私は電車で芝を通る時、いつもこの句を思ひ出す。」(p246)
「非常に面白い句である。・・川柳を浅い可笑味とか諷刺とかに限るやうに思ふ人は、斯う云ふ句の味を知らないのである。」(p115)


すこしは、川柳の紹介もしておきましょう。
本の最初のほうに、ありました。

  古郷(ふるさと)へ廻る六部は気の弱り

藤沢周平のエッセイ集に、
題して「ふるさとへ廻る六部は」(新潮文庫)というのがありました。
広辞林によれば、六部とは六十六部のことで
「六十六部の法華経を書写し、日本六十六か国を遍歴して、その霊場に各一部ずつを納めて歩く行脚僧」または「後世、鉦をたたき、鈴を振り、あるいは厨子入りの仏像を背負いなどして、米や銭を請い歩く巡礼。回国。六部。」とあります。

それでは、沼波瓊音の評釈をもってきます。
「なんだか心細くなつて、急に郷里恋しくなり、まだ予定の巡拝は仕舞へぬが、この追分から、連に別れて郷里を指す。自分で鳴らす鉦(かね)もいつもより哀れに、空うす暗く、烏黙つて飛ぶ。自宅(うち)の様子がありありと頭に浮ぶ。」(P13)

つぎに川柳をもう一つ。

 投入(なげいれ)の干からびて居る間(あひ)の宿

この沼波瓊音の評釈は、というと
「今でも徒歩旅行して、小さい村を通ると、斯うした光景がある。
ひしやけたやうな家が並んでゐる。此の家のかげに六部がしやがんで休んでゐる。・・・奥の座敷が外からも見える。そこの床柱に竹の花筒がかかつて、それに野菊が投入れてあるが、いつ活けたのやら、バサバサに干からびて、花弁が粉薬(こぐすり)のやうにそこらに散らばつてゐる。」(p23)

ここから、私は田中冬二の詩を思い浮べるのでした。
そういえば、冬二氏も旅先での詩が多くあります。
たとえば、川柳にあった「投入れ」という言葉からの連想。

   虹   田中冬二

 夜半 雨をきいた朝

 裏二階の窓をあけると
 山の傾斜地の林檎園の上に
 うつくしき虹

 投げ入れへ夏蕎麦の花と芒と

 台所の冷蔵庫の中
 麦酒壜のレッテルは濡れておちてゐる


ちなみに
「投入れ・・・挿花の一法。一枝二枝無造作に挿したるを云う。」
と、沼波氏の注にあります。



今回。この本を読んで印象に残った川柳は

 塩引(しほびき)の切残されて長閑(のどか)なり

これの評釈を読んでいたら、高橋由一の絵画「鮭」を思い浮べました。
では、評釈を引用します。

「歳暮に貰つた塩鮭が、台所にぶら下げてある。それを段々切つて食べた。もう残りが少うしになつて、頭のした五分程になつた。もうその頃は二月の末、春漸く闌(たけなわ)ならむとする時である。『切残されて』と云つて、もうあと少しに切残されて、と云ふ意を利かせてある。語そのものによりてのみ解かうと思ふと、わからなくなる。『長閑なり』と云つて、台所の春の景及び情になつてる所、名句である。」


ところで、日本美術史で、近代絵画として、明治に高橋由一の「鮭」というのが、よく絵入りで載っております。わきに黒田清輝の「読書」とか浅井忠とかの絵が並んでいたりします。ちょいと他の洋画と異質な感じをうける絵です。
縦長の長方形に鮭が縄を口から延ばして吊るしてある、生活のなかの画材を取り扱っております。
これについてのみごとな解説としては
菊畑茂久馬著「絵かきが語る近代美術」(弦書房)
副題が「高橋由一からフジタまで」という本の第1章を高橋由一に割いて、実地に絵を見て、深く理解が行き届いて、素敵な発見があるのでした。


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風と桶屋との迷路。

2006-09-11 | Weblog
北祭さんのコメントを読んでいたら、楽しく思い浮かんできたのでした。
まるで闇夜にボールを投げ入れたら、投げ返して来てくれたような驚きでした。この場合、またボールを投げ入れることも思うのですが、私は、ここでボールを眺めながら物思いにふける(笑)。
たとえば「風が吹けば桶屋・・」じゃなくて、酔眼亭さんのことが思い浮かんだのです。さっそく、そちらのブログへと挨拶してみたり。どうしてかなあ、北祭さんのコメントが楽しい「風」を運んできたのでした。ちょいと可笑しな流れです。

さて、今回は雑誌「考える人」2006年夏号の対談を取り上げます。
坪内祐三さんと井上章一さんとの対談。題して「『考える』ための素振り」
(そういえば、清水幾太郎さんは読書はシコをふむようなものだと語ったと追悼文にあったような気がします)。
井上さんといえば読んでいないのですが「つくられた桂離宮神話」というのがありました。
対談で井上さんが話しておりました。
「昔、桂離宮について調べていた時に、和辻哲郎の著作を読んだんですが、これは率直にいって、何の参考にもならへんかった。世迷いごとのようにしか思えなかった。・・」
そこから少し話しの後で、
坪内「なるほど。谷沢永一さんも強く批判してますよね。和辻哲郎のそういう面を。」
井上「・・私は、知性としてはむしろ、谷沢先生のような物知りのほうに憧れますね。・・
私自身のなかにある『頭が下がるなあ』という思いは、いわゆる『考える人』、突き詰めて考える人よりは、書誌学者のような『調べる人』の方に向かいますね。」
坪内「それは私もそうですね。『考える人』の本を読んでも、考えるきっかけにはならない。書肆学的な本を読んだほうが、自分が考えるきっかりにはなりますね。・・」
井上「・・書誌学は『私を踏み台にして、あなた伸びていって』って、ささえてくれる感じですもんね。・・・・・特に考えているという自覚はなくても、いろいろ調べてる時、物思いに耽ってますよね。」(p72~74)

谷沢さんといえば、谷沢永一・渡部昇一の「人生後半に読むべき本」(PHP)に
渡部「古典で読みながら小膝を打って、『ああ、そうか』といえるものといえば、真っ先に挙げれるものは、やはり『徒然草』でしょう。あれは真のエッセイです。・・・」
これに答えて谷沢さんは
「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。・・・
いま、渡部先生のおっしゃったおもしろさという意味でも、第一位は『徒然草』でしょう。・・今までの注釈評釈で一番いいのは沼波瓊音(武夫)の『徒然草講話』。学者的軽薄さがない。昭和の国文学者で、この沼波瓊音(ぬなみけいおん)に啓発されて、国文学は捨てたものではないと思った人が何人いるかといわれるぐらいです。明治から戦前に書かれた注釈書で後世に大きく影響を与えた著作といえば、この『徒然草講話』と、・・特筆すべきは、江戸時代を通じて、『徒然草』を読解するための注釈書が続々と出されますが、そこに吉田兼好が拠ったと思われる古典漢籍が、注の形で全部出てくるわけです。松尾芭蕉にしても、俳諧の中で依拠する古典知識を全部この『徒然草』の注釈書から勉強していると思われる。江戸時代の本を読む人たちは、『徒然草』の注釈書で、李白を知り、杜甫を知るという次第となった。すべての入り口は『徒然草』であったわけです。・・・」(p153~154)

沼波瓊音といえば、2006年8月31日初版の沼浪瓊音著「意匠ひろひ」(国書刊行会)。
なんでも山口昌男監修の「知の自由人叢書」の一冊だそうです。
その本の巻末対談は
山口昌男・坪内祐三で「解説対談 沼波瓊音の面白さ」とあります。
この本には、さすがに「徒然草講話」は入っていないのですが、
エッセイ中心。興味を惹くのは
関東大震災のルポ「怖しくされどうつくしかりし日」が掲載されていること(㌻数は35㌻)。

地震といえば、坪内祐三著「考える人」(新潮社)の中の森有正を語った箇所に、
森有正が暁星の小学校の時、関東大震災がおこっております。
そういえば、9月1日は2学期が始まる最初の日ですよね。
森少年は、学校からかえってきてからなのでしょう。
「よく憶えているんですがね、大震災のときでした。下町が火事で焼けたと聞いて、ぼくの学校はどうなっているんだろうと気になりました。もし焼けたら、授業がなくなるわけでしょう?それで、歩いて、学校を見にいったんです。そうしたら、同じように学校を見にきた友達と、ばったり会いましてね。『森君、学校焼けちゃったよ』と友達が言うと、ぼくたちは思わず抱き合って、道の真ん中で躍りまわりました。何とも困ったものですねえ。もちろん数日後に、仮校舎ですぐ授業が始まったんですけれど」(p115)

何で、こうなるかというと、
酔眼亭さんのブログの、地震を取り上げる箇所が愉しみなのです。

ろこのすけさんに連絡したら、あっという間に、北祭さんのコメントが、風のように舞込んできて、そこから、まるで木の葉が吹き寄せるようにして、酔眼亭さんへと結びついたというわけです。

心強い。お三人からのコメントを頂けた。
これで、ブログの新設祝いが出来ました。
これでもって、気楽な書き込みができそうです。
これからも、よろしくお願いします。
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「考える人」から狐さんへ。

2006-09-09 | Weblog
季刊雑誌「考える人」に連載されていた坪内祐三著「考える人」が単行本になりました。さっそく読んでみました。
単行本の坪内祐三著「考える人」(新潮社)と、
雑誌「考える人」2006年夏号の特集「戦後日本の『考える人』100人100冊」。
この特集号には坪内祐三・井上章一の対談「『考える』ための素振り」が掲載されていて、本と同時に読むと味わいが倍になったように感じられます。
そのことについて
読後思ったことを書きます。
たとえば、川に泳いでいる魚を、捕まえて小さな水槽に入れて観察する。
よく魚の姿をながめられますし、鱗の様子まで手に取るように見れる。
けれども、自由な泳ぎ振りを眺めるには、その水槽では無理でしょう。
雑誌連載が単行本になり、通して読むと、微妙な内容の推移を、具体的に観察しているような気分になります(とどのつまりは、何か注文をつけたくなる)。
ところが、あらためて雑誌の対談を読み直すと不思議な感じになります。
それは、単行本という小さな水槽で観察していたのが、
いつか、雑誌という川の流れに、改めて魚を放ったような錯覚を抱くのです。
その考える魚を、妙に閉じこめてしまっては、そもそも考えることにはならない。
というようなことを思ったわけです。

う~ん。変な考えにつき合わせてしまいました。
それでは、単行本を見てみます。

単行本の「考える人」には16人が登場します。
その順番はというと

  小林秀雄
  田中小実昌
  中野重治
  武田百合子
  唐木順三
  神谷美恵子
  長谷川四郎
  森有正
  深代惇郎
  幸田文
  植草甚一
  吉田健一
  色川武大
  吉行淳之介
  須賀敦子
  福田恆存

説明としては
「私は、この『考える人』で、私が本読みとしての物心がつく頃に現存していた人物を扱うことにしています」(p40)とあります。そして現在は亡くなっておられる方々がここに登場しています。
でも。と私は思うのでした。
たとえば坪内祐三著「新書百冊」(新潮新書)の百冊リストに登場して、こちらには登場しない方もおられます。桑原武夫・富士正晴・宮崎市定という京都の面々は登場しません。それに清水幾太郎も。リスト外では山本夏彦も、司馬遼太郎も登場なし。東京の文壇から眺めて、その距離感からの周辺の視点とでもいうのでしょうか。雑誌文壇を中心にして殆どの方が、それでも名前だけは知っている。そんな人たちが選ばれております
(ちなみに、雑誌の特集「戦後日本の『考える人』100人100冊」では
富士正晴の名前がありました)。

こういうことは、細かすぎますね。
けれども、単行本を読んでいると気になりました。
たとえば、二人目の田中小実昌さんの箇所で田中美知太郎じゃなくて、同じ田中でも
小実昌さんを登場させます。
う~ん。文藝春秋の巻頭随筆で田中美知太郎は、つとに一般の知名度としても有名でした。残念。
もう一つだけ、三番目の中野重治で、彼の文「素樸(そぼく)ということ」を愛読し、繰り返し読みました。と書いております。
この文は、桑原武夫著「文章作法」(潮出版)の第1章の「できるだけシンプルに書く」でも鮮やかに取り上げられておりますから。ぜひとも坪内祐三さんと桑原武夫の二人の文を読み比べてみたい箇所なのです。

ちがうちがう、私はこんなことを言おうとしていたのではなかったのです。
坪内さんはあとがきに
「私の世代、そして私よりひと廻り上の団塊の世代の人たちが、自分はまだ若いと思い続けている内に、きちんと成熟する機会を失ない、いま、日本は、とてもひどい国になってしまいました。だから、私は、私なりの成熟を確認するために、そのことを考えてみるために、この連載を引き受けることにしました」
とあり、それが大切なことなのでした。

最初の小林秀雄の箇所で、昭和24年の講演文「文化について」を引用しており。
つぎに田中小実昌の最後では小実昌さんの文を引用しておりました。
「哲学をする者にはすべてが哲学だろう。たまには哲学をのぞいてみるなんてことはできやしない。また、たまには哲学からはなれ、息ぬきをするなんてこともない。哲学には息ぬきはない。宗教にも息ぬきはない。イエスとアメンにどこに息ぬきがあるか」

そして、長谷川四郎の箇所では、こんな引用。
「書こうと思ったものを、ちゃんちゃんと書いてしまう人には、私はあんまり興味をもちません。意図したものとは、だいぶちがったものが出来あがって自分もおどろくというところに、作品のおもしろさがあるように思います」

最後の福田恆存の箇所でも、最後の引用は
「私たちは倫理の不合理を批判することはできる。
 が、合理的な倫理などといふものは、いつの時代にもあつたためしはない」

私が鮮やかな印象として残ったのは、
深代惇郎を語る文章でした。これなら、どんなアンソロジーにも登場ねがえます。
そして、この文だけで充分に感銘をうけるのでした。そう私は思います。
それは、雑誌掲載の時から素晴らしいなあと思っておりました。
次に、単行本で読んだとき注目したのは色川武大の箇所でした。
そこでの引用では、こんな箇所がありました。
「・・いいかい。ここいらへんの俺のいいかたは棒のように受けとらないでおくれよ。言葉を受けるキャッチャーの方にセンスが要求されるよ。・・・
けれども、わかる、ってことは、言葉でわかったりすることじゃないんだからな。
わかる、ってことは、どういうことかというと、反射的にそのように身体(からだ)が動くってことなんだな。」

ちなみに、単行本の最後には「『考える人』年表」がありまして、
昭和4年生まれは
2月1日、須賀敦子が兵庫に生まれる。
3月28日、色川武大が東京の牛込区矢来町に生まれる。
4月19日、深代惇郎が東京の浅草橋に生まれる。
11月30日、幸田文が女児を出産。玉と命名。

ところで、坪内さんが登場させた昭和4年生まれを二人だけ引用するのは
あまりにもったいない。もう一人の須賀さんも引用してみます。

坪内さんは須賀敦子さんの作品「トリエステの坂道」について
「(須賀敦子の著作の中で私はこの作品集が一番好きです)」(p220)と一番好きな作品を示しております。
ここで、余談になりますが、
山村修著「花のほかには松ばかり 謡曲を読む愉しみ」(檜書店)の味わいを
どう言葉で表現すればいいのかと思っていたのです。
そしたら狐著「野蛮な図書目録」の中に、
須賀敦子著「トリエステの坂道」を書評した文がありました。
こうはじまります。
「もしも今、この書き手が、書くことをやめてしまったなら、日本語表現の領域の一角で何かがひっそりと消えてしまうことだろう。当座は気がつかなくとも、あとでその稀有なこと、大切なこと、いとおしいことが分かるような何かが失われることだろう。」
そして、最後はというと
「普通の人間の普通の暮らしを書いて、これほど非凡な輝きを帯びた本をほかに知らない。あるかもしれないが思い出せない。」


雑誌「文学界」には、たしか狐さんが連載をしていたなと思って、本屋で最新号(9月7日発売)を覗いてみました。すると中野翠さんが巻頭に「さようなら“狐”」という文を書いております。

そうそう、坪内祐三さんのこの本には、こんな言葉もありました。
「私は・・大の訃報欄ウォッチャーであった・・」(p81)




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日本のアーサー・ウェイリーを探せ。

2006-09-05 | Weblog
読売新聞の毎週土曜連載に、
ドナルド・キーン氏の「私と20世紀クロニクル」があります。
その最新の9月2日では文章の最後をこうしめくくっておりました。
「私に霊感を与えたウェイリーの信じられないほど素晴らしい翻訳の先例がなかったなら、果たして私は日本文学の美しさを世界に伝えるという試みに自分の生涯を捧げていたかどうかわからない。」
ここをもうすこし詳しく引用してみます。
8月26日の連載の最後で
「私はアーサー・ウェイリーから手紙を受け取った。ウェイリーによれば、右腕を骨折したため、たぶん二度と原稿を書くことは出来ないということだった。この不運に加えて、ウェイリーはロンドン大学構内にある彼の家から追い出されようとしていた。大学が構内に、コンピュータ(当時は、極めて巨大だった)を設置することにしたからだった。しかも最悪なことには・・・」
そして、連載の9月2日につながります。
「ロンドンに到着したのは、1962年2月の暗く寒い朝だった。ウェイリーのアパートの階段を上りながら、彼のような年齢の人間には階段はさぞ難儀なことだろうと思った。ウェイリーは無表情のまま私を出迎え、すぐに上の階に行こうと言った。そこにべリル・デ・ゾーテがいて、死の床に就いているのだった。・・・
私たちは黙ったまま、階下へ下りた。ウェイリーは牛肉と小牛の腎臓を煮込んだ缶詰を開け、私たちの昼食用として温めた。・・・・
これがウェイリーに会った最後だった。
その後何度か手紙を書いたが、ウェイリーから返事は無かった。・・」

アーサー・ウェイリーご自身についての文学的な説明は省きますが、
たとえば、田代慶一郎著「謡曲を読む」のあとがきで、
田代氏は「私はウェイリー訳するところの英訳謡曲数篇には深い感銘を受けた。
特に英訳『景清』を読んだときの感動は今もあざやかに覚えている。『オイディプス王』や『リア王』を連想し、日本にもこんなに優れた劇文学があるのだと思って、ひとり昂奮した。私は舞台を見たわけでもなく、謡を聞いたわけでもないのだから、それは純粋に文学的な感動と呼ぶよりほかないものだった。シェイクスピアやラシーヌのような劇詩人についてなされるような文学的分析の対象としても、謡曲は充分それに応え得る内容を持っていると思った。」

田代慶一郎著「謡曲を読む」から
「その精緻な読み方から、私はたくさんのことを教えられました」と書くのは
先頃亡くなった山村修氏でした。
その遺著ともなった「花のほかには松ばかり」(檜書店)にはこんな箇所。
「夏目漱石の小説『行人』に、父と来客たちとが謡う『景清(かげきよ)』を家の者たちがそろって聴くシーンがあり、そこに漱石が謡曲を『読む』テクスト、つまり文芸としても考えていたことをうかがわせる一節が書かれています」
そして小説の引用をしておりました。

夏目漱石といえば「吾輩は猫である」ですね。
山村修というよりも、狐さんと読んだほうがわかりやすいのですが、
その山村修=狐さんの「水曜日は狐の書評」(ちくま文庫)で
めずらしく「知ったかぶり」と称して
岩波書店の「漱石全集 第一巻 吾輩は猫である」の注解における
ワキの甘さを指摘しておりました。

「まず苦沙弥先生が便所に入るたびに『是は平の宗盛にて候』と謡うところ。注には、『謡曲【熊野(ゆや)】の冒頭でワキの宗盛が名乗る最初の句』とあるが、これは正確でない。ワキ役が貴族や勅使など身分が高い場合は『~にて候』ではなく『~なり』と偉そうに名乗る。『~にて候』と、へりくだって名乗るのは坊さんや民間人など。権力者である宗盛は『これは平の宗盛なり』と名乗るのが正しく、謡曲文もそうなっている。それを漱石はわざと違えて書くことで、苦沙弥先生の半可通ぶりを表現しているのだ。右の注では漱石のせっかくのギャグが生きてこない。
その注ではさらに『【熊野】や【松風】は初心者の稽古曲』と続けているが、これも誤り。二つとも相当に高度な曲で、初心者などお呼びでない。昔から『熊野、松風は米のめし』といわれるほどの人気曲だが、おそらく、人気曲であることを初心者向けと思い誤っているのではないか。」

さて、ここでまたドナルド・キーンさんの連載へともどりましょう。
8月26日に
「能の舞台を見るだけではおさまらず、私は謡の稽古を受けることにした。・・先生は金春流の名人、桜間道雄だった。・・私が最初に稽古したのは、『橋弁慶』だった。この作が選ばれたのは、謡いやすい上に筋が単純だったからに違いない。稽古は楽しかったが、私はもっと文学的興味に富んだ演目を覚えたいと、いつも思っていた。ある日、桜間さんに、次は私のもっと好きな演目をやっていただけませんかと頼んでみた。彼は、どれですかと尋ね、私は『熊野です』と答えた。彼は大笑いして、それではまるで幼稚園から大学までいきなり飛び級するようなものですね、と言った。・・・」

岩波の漱石全集を評した狐さんの文が日刊ゲンダイに掲載されたのが2002年5月22日です。岩波の注ぐらいの謡理解がいまもつづいていると見てさしつかえないのでしょう。

もうすこしもどって、7月29日のドナルド・キーンさんの連載を拾ってみますと、
1957年に東京で開催された国際ペンクラブ大会のことが書かれております。
アメリカ代表にはジョン・スタインベック、ラルフ・エリソン、ジョン・ドス・パソス、ジョン・ハーシーがいた。そして英国代表には、スティーブン・スペンダー、アンガス・ウィルソン、カサリン・レイがいた。とあります。
「ペン大会は、私にとって作家の世界への正式な仲間入りだった。・・一緒に朝食を食べた。朝食の席で交わされた皆の会話には、がっかりした。ほとんどの代表にとってこれが初めての日本訪問であったにもかかわらず、前もって日本文化に親しむという準備を怠っていたようだった。彼らは、自分が理解出来ないものは嘲笑う傾向があった。
全員を感動させた唯一の文化的行事は、能の上演だった。ところが上演が終了するや、記者たちはそれぞれの代表を取り巻き、『さぞ、退屈なさったでしょう』と質問するのだった。自分たちにとって退屈極まる芸術が、まさか外国人にわかるなどとは想像も出来ないのだった。」
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虫の音ばかり。

2006-09-02 | 婚礼
山村修著「花のほかには松ばかり」(檜書店)を読んでから、しばらくして、思い浮かんだ文がありました。それは、司馬遼太郎の「六三郎(ろくさぶろう)の婚礼」という6ページほどのエッセイ。
その連想のきっかけは、
山村修氏の本の中のこんな言葉でした。
それは、謡曲「松虫」を語りながら、山村氏の感想を述べている箇所。
「この『松虫』について語られるとき、キーワードのようにきまって出てくることばがあります。同性愛ないし男色です。私にはそれが気に入りません。
・・・たがいに友情を抱いた青年同士が死んだからといって、いちいちそうした文化的な価値づけをすることが厭なのです。余分な意味、余分な価値をまとわせるのが厭なのです。
とくに、先に逝ったほうの友の死にかたをみてください。この『死』には、じつに、およそ意味というものがない。・・どんなわけで死んでしまったのか。まったく書かれていない。・・・
その水のように透明な青年が、鳴く虫はどこにいるのか・・歩き、心が尽きて草の上に空しくなった。その死は、いわば死の芯をなす死です。・・価値という価値をぎりぎりまでこそげおとした死です。」

ちょうど秋の題材にした謡曲ですが、
山村修氏は「私がことのほか好きな作品の一つです」とあります。
そして曲のラストも引用してありました。

 さらば友人名残(なごり)の袖を 招く尾花(おばな)の
 ほのかに見えし跡絶えて 草茫々たる朝(あした)の原に
 草茫々たる朝の原に
 虫の音ばかりや残るらん
 虫の音ばかりや残るらん



この山村修氏の本はというと、25曲の謡曲を1曲ごとに短く紹介してゆくのが本文です。
さらりとして、とりたてて気持ちを高ぶらせての紹介しているわけでもないので、
読むこちらとしても、さらりとした読後感を持ちました。
そして、しばらくしてから、私は司馬さんの文を思い浮べたというわけです。
その「六三郎の婚礼」は江戸時代後期・六三郎の結婚式を取り上げたものでした。
長兄が家長となる江戸期の、六人の子のうち、男でかぞえて三番目の弟です。
司馬さんはその相続権のない弟ぶりを、「厄介(やっかい)」と江戸期の正式の法制用語を取り出して語っております。

「六三郎のような『厄介』は、他家の養子になるか、学問か技芸を身につけて世を送らねばならない。」けれども
「みなことわられた。ついには、能役者の養子にどうかということで、三ヵ月間、汐見坂の家から両国山伏井戸に住む梅若某の家まで毎日謡(うたい)の稽古に通ったこともあったが、のどに力がなくて沙汰やみになった。
やがて医者になろうとし、蘭学と漢学とのそれぞれの塾に通い、根気よく習学した。結局、医者にはならなかったが、幕府に語学力を買われ、二十四歳のとき、役につき、厄介と書生であることの境涯から脱することができた。」

この単行本にして6ページほどの文を全部引用したくなるのですが、
ここでは端折って、婚儀にうつります。

「山内六三郎の婚儀の場合にいたっては、媒人(なこうど)さえ立てず、また席上、盃事(さかずきごと)をさせる待上臈(まちじょうろう)の役は、姉がつとめた。小気味いいほどの簡潔さである。」

原文は
「之れなん、予が将来苦楽を共にすべき妻女か。顔見たし、など思ふ間に、姉上の御酌にて三々九度は済みたり。」

そして、酒宴の様子を語ります。
「披露の酒宴は農村などの場合、三日もつづくことがあるが、右のような江戸の標準的な知識階級の場合、しつこいものではなかった。
  酒間、謡並仕舞もありき。高砂・猩々(しょうじょう)の類なりしならん。
とあっさりしたものである。さらには、席上、人数もごくわずかなものであった。
唐突だが、こんにち流行している無用に贅沢な・・しかも産業化した・・婚礼のなかにまぎれこんだりするとき、六三郎の時代のほうが民度が高かったのではないかと思ってしまう。」

このあと司馬さんは、余談のようにしてチュー政権下のヴェトナムのサイゴンの様子を語るのでした。

山村修氏の本の読後感として、私は「六三郎の時代の民度」を連想したというわけです。ちなみにこれは新潮社「司馬遼太郎が考えたこと ⑪」にあります。いまは新潮文庫も出ておりまして手に入りやすいので、短い全文を読むのも参考になるかと思います。

「酒間、謡並仕舞もありき。高砂・猩々(しょうじょう)の類なりしならん」

ほかならぬ、その謡曲を現代人のために紹介しているのが、今度でたばかりの山村修著「花のほかには松ばかり」なのです。門外漢の私には、たいへんよい入門書になっております。日本の民度というのは、こうして高めるのだという見本のような入門書になっていると思うわけです。



コメント (2)
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