『首都直下地震』の定義を、まるで知らないでおりました。
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書)の
はじめの方で、おそまきながら、地域の範囲を知りました。
「 首都直下地震とは関東地方の南部の
神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県、茨城県南部
で起こるM7級の大地震を指す総称である。 」(p24)
はい。武村氏の本は題名にもあるように東京がテーマとなります。
でも、私のテーマは『安房郡の関東大震災』。あくまで地元安房に注目します。
能登半島地震でも交通路遮断による援助途絶が心配としてあがっておりました。
それに、港などの隆起によって、援助船も近づけないという状況です。
改めて、『安房郡の関東大震災』の状況をふりかえってみたいと思います。
安房郡役場と北條警察署とは、9月1日震災当日午後2時過ぎに
県庁へと急使を送ります。津波の心配もありますので、海岸線を避けながら、
県庁へとむかうことになります。
翌日、県庁へ、急使が到着します。
ところで、震災当日の県庁の様子はどうか。
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻にこうありました。
「かかる混乱時に於て、人々は東京に大災禍あるを知って、
県内に之あるを知りえなかった。
・・警察部の記録の如く主なる警察電話さへ通ぜず
為に県下の情況は暗中模索の情況であった。
況んや誰か県下の安房郡その他が空前の大被害を蒙り、
かの如き大惨状に呻吟しつつあらうとは・・・ 」(p220)
そして、安房郡役場と北條警察署からの急使をうけて、
「県は一方において食糧、医療の手配を考慮すると同時に、
他方取敢へず警備及救護に盡さしむる為に、
2日夜県下各署から巡査を千葉市に集合し、
翌3日朝52名の一隊を遠藤警部をして之を引率せしめ、
自動車にて北條警察署に応援せしめた。・・・・・
何れも軍用自動車を以て木更津町に輸送し、
夫れより通行不能なる道路を自転車を以て急行せしめた。」
( p245~246 『大正大震災の回顧と其の復興』上巻 )
ここには、警察署の行動の機敏さが読み取れます。
一方の、安房郡役所の急使に対する行政としての県庁の対応はどうだったか。
「2日午後2時過ぐる頃安房郡役所より急使が到着した。」 (p247・上巻)
このあとに、急使の郡書記により手記が載っており、
手記の最後の方には、こんな箇所がありました。
「疵は腫れ上り更に疲労を加へて聊か悪寒を覚えたるも、
・・篤き介抱により此の施療と卵子2・3個を忝ふして
再び帰路に急ぐこととなった。
『 帰ってふさ丸を千葉に廻航せしめよ 』
との命を受けたからである。 ・・・・
北條に帰着したのは・・3日午前10時であった。 」(p251・上巻)
震災当日に、次々に急使を県庁へ送り出した
安房郡長・大橋高四郎は、つぎにどうしたか?
「無論、県の応援は時を移さず来るには違いないが、
北條と千葉のことである。
今が今の用に立たない。
手近で急速応援を求めねば、
此の眼前焦眉の急を救うことが出来ない。
・・・・・・
まず大鳴動の方向と、地質上の関係から考察して、
被害の状態を判断するより外はなかった。
そこで、郡長は平群、大山、吉尾等の山の手の諸村が
比較的被害の少ない地方であろうと断定したから、
先ず此の地方・・・・応援を求めることに決定した。 」
( p236~237 「安房震災誌」 )
安房震災誌には、館山にある汽船ふさ丸と鏡丸への言及があります(p257)。
この様子は、また別の機会に紹介できればと思います。
それはそうと、もう一度、武村雅之氏の本へともどります。
「 一般にM8級の海溝型地震が発生した際に
M7級の余震が発生することは珍しくないが、
関東地震ほどM7級の余震数が多い地震は珍しい。 」
(p24 「関東大震災がつくった東京」)
この本には、それに関する図と表が載っておりました。
大正12年9月1日 相模湾M8・1 さらに、地震当日はM7が二回。
大正12年9月2日 千葉県勝浦沖M7・6 さらに、2日はM7が千葉県東方沖。
最後に、安房震災誌からの記述を引用してみたいと思います。
「2日の正午過ぎに、又しても一大激震があった。
1日の大地震に比較的損害の少なかった長狭方面は、今度は激震であった。
そこで長狭方面から北條方面へ向け来援の途上に在った青年団は、
途中から呼び戻されたものもあった。・・・・
且つ警戒の為めに応援意の如くならずして、苦心焦慮の折柄、
3日の朝になると、東京の大地震殊に火災の詳細な情報が到着した。
斯くてはとても郡の外部の応援は望むべくもない、
1日の震災後直ちに計画してゐたことも、
郡の外部の応援はとても不可能である・・・・
郡長は・・そこで、
『 安房郡のことは、安房郡自身で処理せねばならぬ 』
といふ大覚悟をせねばならぬ事情になった。
4日の緊急町村長会議は実にこの必要に基づいた。・・
したがって会議の目的は、各町村の震災の実況、
医薬、食料品の調査、青年団、軍人分会、其の他の
応援が主たる問題であった・・・
郡長は席上において、大震災においての実況と
四圍の情勢を詳細・・述べた。そして各町村青年団は
① 全潰戸数が総戸数の3分の1以下なる町村は必ず他の応援救護すべきこと
② 被害3分の1なる町村は其青年団、軍人分会、消防組員を3分して、
―――1分は被害者―――
1分は自町村の救護に、1分は他町村のそれに、而して激震地の
救護に従事すべき員数は郡長の割当に従うべきこと
特に北條、館山、那古、船形に出援するものは郡長の指揮に待つこと
の割合で応援すべきことを命じた。・・・・・
来会した町村長は何れも草鞋(わらじ)脚絆・・・
就中、富崎村長の如きは、
『 自分の村の被害は海嘯で被害者約70は何一つ取片付けべきものも
残されてゐないから全村こぞって応援に当ろう 』と申出た。・・」
( p277~278 「安房震災誌」 )