和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

読んでくれえ。

2009-09-30 | Weblog
徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社・1991年)を、あちこち前後しながら、読了。ご自身のことを語って「平々凡々たるというより、ジャーナリストとしてあまり成功せず社会的な出世もしなかった私」(p11)とあります。
うん。私は雑誌のコラム「紳士と淑女」の著者が徳岡氏だと分かってから、はじめて氏の本を読みだしました。いままで私は何を読んでいたのだろう。と思うような気分で、一冊一冊新鮮な味わい。


「健全な視力を持って自発的に入っていった病院を、全盲ではないにしても盲人として出る。・・・・我が家のドアに達するまでに十段の階段がある。かつてはテニス・パンツで駆け上がったその段を、いまは一段ずつ手をつなぎながら這って上がらねばならなかった。勝手知った家の中の椅子、電気スタンド、壁の絵などはぼんやり見えるが、すべて輪郭はにじみ、しかも手前になるにつれてぼやけていた。・・・書斎に入ってデスクの前に腰を下ろす。壁を埋める本の背の題字が、一冊として読めなかった。本棚の本が一斉に『読んでくれえ』と叫んでいた。だが応えてやることはできないのだ。試しに一冊を抜き取って開くと、一ページに何行あるかはぼんやりわかるが、字は一字として読めなかった。・・・長年かかって集め愛してきた蔵書が一切合財読めなくなった打撃は、それほども強烈だった。
その後、眼科の医者が分厚い眼鏡を処方してくれ、ルーペの使い方も覚えたから、ゆっくりとではあるが本や新聞が読めるようになった。だが眼球の動きが鈍いためか、新聞ひとつでさえまるでヨウカンを読むようで、『政府・税調・の・答申の・基本的・考え方・は』と、端から順に少しずつ切って読んでいって、一行が終わるたびに次の行の頭をさがさなければならない。棚線のない新聞記事は、一行をずっと上から下まで読んでしまうので、二つの記事がごっちゃになる。・・・・
このさき何をして・・・あるいは何を書いて生きるか。
・・・・・
現にこうやって書いている原稿は、私にとって職業人になって以来はじめて、メモ【という情報の記録】を見ずに書く原稿である。私は読者を騙しているような後ろめたさを禁じ得ない。」(~p47)

このあとの「薄明の底より」も、もう一度読み直してみたい。
二章「無銘碑」は、7人を取り上げて書かれ、どれもジャーナリストとして
意外な切り込みで対象を探り出し、さらりと印象深いのですが、
私は「日米下田会議の演出者」として、山本正氏を取り上げる文がよかったです。
これらも、薄明の中に手探りで書かれた文だと思うと、その軽快な文章の流れに、あらてめて驚かされたりするのでした。

次に読もうと、さっそく徳岡孝夫著「舌づくし」を古本屋へと注文しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盲目の。

2009-09-29 | 短文紹介
徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社)を読んでるところ、
最初の方には、「ジャーナリストとして、メモを見ずに文章を書くのは、これが最初の経験である。」とあります。ほとんど失明状態になってからの徳岡氏の本なのでした。

そのあとには、こうありました。

「退院後も週に一度通っている病院で、全盲の右眼には回復の希望なし、薄明の左眼にも改善の見込みがあまりないと宣言されてから、私はしきりに盲目だった先人を思うようになった。芝居の沢市、春琴に仕えた小説の佐助、失明に近い視力で晩年も健筆を振るわれた田中美知太郎先生。本棚をさがすと、学生時代に買ったジョン・ミルトンの英詩集の中に、ちゃんとSamson Agonistes が入っていた。盲目の詩人が書いた盲目の英雄サムソンの叙事詩を、私はこの原稿が終わりしだい、ルーペをたよりに読んでみようと思っている。サムソンの怪力の源泉は長髪だったが、手術前に剃った私の髪もおいおいに伸びてきた。髪が長くなれば、ひょっとして奇跡が起こるかもしれない。
能には盲目物というジャンルがある。なかでも私のような大阪人に身近なのは、高安の里や俊徳道など今日に残る地名で親しい『弱法師(よろぼうし)』である。・・・」

この文の最後は、
「私は、このさきは、自分の幸不幸を問うまいと思う。ゆっくりではあるが、眼鏡の力で字は読める。見るものすべて湖中満開の桜花のように曖昧模糊としているが、それを眺めつつ、目が見えていた手術前のように苦しんだり楽しんだりしながら生きていこうと思う。」(~p52)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倚りかからず。

2009-09-28 | 詩歌
暑さがつづきますが、秋ですね。
なんだか、詩でも読みたくなります。
ということで、NHK出版生活人新書の一冊
小池昌代編著「通勤電車でよむ詩集」をめくってみました。
うんうん。普通の詩のアンソロジーではおめにかかれない
はじめて読む詩が、そこには並んでおりました。
こういうのを見ていると、さて、私ならどんな詩を並べるだろうなあ。という気持になってきたりします。

ということで、ちょうど思い浮かんだ詩三篇。


    秋の歌        ルミ・ド・グウルモン

倚(よ)りそへよ、わがよき人よ、倚りそへよ、今し世は秋の時なり
愁(さび)しくも濡(しめ)りがちなる秋の時なり、・・・・

  ・・・・・・・・・

倚りそへよ、わがよき人よ、秋風は激しく叫びてわれ等を叱咤するなり。
小径に沿ひて、風の言葉は鳴り、
茂れる葎(くさむら)のうちに、
山鳩のやさしき羽音はなほきこゆ。
   ・・・・・・・・・・

倚りそへよ、わがよき人よ、さびしき秋は、今し、
冬の腕(かひな)に身を委ねんとしてあり、
されど夏の草なほ生え出でんとし、
咲きいでし芝草の花はやさしく
最期(いまは)の靄に包まれては、
花咲ける蘚(こけ)にも似たり。
倚りそへよ、わがよき人よ、倚りそへよ、今し世は秋の時なり。

・・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・

      ( 堀口大學編訳「月下の一群」講談社文芸文庫より )


堀口大學のこの「月下の一群」は関東大震災の2年後(大正14年)に第一書房より刊行されておりました。現地フランスにて梱包された訳詩集は、ひらくと同時にその場の雰囲気まで匂いひろがるような気分です。それは時代を超えて現代でもほどんど違和感なく、それは、まるで冷凍保存された言葉が、そのままに解凍されて出されたようなみずみずしさえ私には感じさせます。この本の序にはこうあります。

「最近十年間の私の訳詩の稿の中から・・・仏蘭西近代の詩人66家の長短の作品340篇を選んでこの集を作った。最初私はこの集を見本帖と云う表題で世に問うつもりであった。と云う理由(わけ)は、たまたま此集が仏蘭西近代詩の好箇の見本帖であったからである・・・読者の見らるるとおり、私がこの集の訳に用いた日本語の文体には、或は文語体があり、或は口語体があり、硬軟新古、実にあらゆる格調がある。然しそのいずれの場合にあっても、私が希(ねが)ったことは、常に原作のイリュジヨンを最も適切に与え、原作者の気凛を最も直接に伝え得る日本語を選びたいと云う一事であった。・・・・」

これにまつわる有名はエピソードも引用しておきましょう。

「『月下の一群』のあの詩人群の大方は、その頃まだ日本には名さえ知られていなかった。ぼくはその人たちの作品を、名もない詩誌のバックナンバーや、市販には見出せない小部数発行の詩集やを探し集めては、読み耽り、気に入っては翻訳可能の一篇でも見つかるとこおどりして、これに立ち向かった。ヴァレリーもコクトーもぼくは自分で見つけた。」


こうして原作者と同時代・同国で出会った詩を封印したような一冊。
いまでも本をひらけば、煙が立ちのぼるような錯覚をおぼえる一冊。


さて、次にいきましょう。
茨木のり子さんは1926年大阪生まれの詩人。
ここでは、夫・三浦安信氏について、
安信氏は1918年8月28日生まれ、山形県鶴岡市出身。
旧制山形高等学校理科乙類に進まれ、
1945年に大阪帝国大学医学部を卒業。46年には新潟医大の助手。
1949年に学位をとられ、秋に結婚。都下東村山にある結核予防会・保生園の医師に。
1954年に北里研究所の付属病院に。
1961年に蜘蛛膜下出血の大病を患います
岩崎勝海氏によりますと、
「恢復までに大変長い期間を要された。数年たって、久しぶりにお訪ねした時、病の後の、以前とは見違えるほど暗く、そして一段ともの静かになられた安信先輩と遭遇した。のり子さんは看病疲れの気配も見せず、毅然としておられた。それからも私は、ときどきお邪魔して、以前と同じように勝手なおしゃべりを安信さんにきいていただいていたが、安信さんは肝臓癌で1975年5月22日に亡くなられてしまった。57歳であった。」

さて、茨木のり子は2006年2月17日に亡くなります。
そのあとに残された詩篇が「歳月」と題して出版されたのが、2007年2月でした。
その詩集「歳月」に「椅子」という詩がありました。


    椅子   茨木のり子

―――あれが ほしい―――
子供のようにせがまれて
ずいぶん無理して買ったスェーデンの椅子
ようやくめぐりあえた坐りごこちのいい椅子
よろこんだのも束の間
たった三月坐ったきりで
あなたは旅立ってしまった
あわただしく
別の世界へ
―――あの椅子にもあんまり坐らないでしまったな――
病室にそんな切ない言葉を残して

わたしの嘆きを坐らせるためになら
こんな上等の椅子はいらなかったのに
ひとり
ひぐらしを聴いたり
しんしんふりつむ雪の音に
耳かたむけたりしながら
月日は流れ

今のわずかな慰めは
あなたが欲しいというものは
一度も否と言わずにきたこと
そして どこかで
これよりも更にしっくりしたいい椅子を
見つけられたらしい
ということ




詩集「歳月」には、あとがきにかえて「『Y』の箱」という宮崎治氏の文が添えられておりました。そのはじまりは

「『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。
伯母は夫に先立たれた1975年以降、31年の長い歳月の間に40篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。
何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。・・・・」


そこで、思い浮かぶのは生前に発表された詩集「倚りかからず」でした。
そこから詩「倚りかからず」を最後に引用。


     倚りかからず    茨木のり子


もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勿体ない。

2009-09-27 | 詩歌
1994年に単行本になっていた「紳士と淑女 人物クロニクル 1980-1994」を、読まないけれども、パラパラめくってみると、堀口大學氏の写真が載っているページがあり、その箇所を読んでみました。

1981年5月号(81年3月)

「湘南の空が春のうららに晴れていた3月15日、『饗宴にエロスを招く者』堀口大學が葉山の自宅で逝った。89歳。はじめは、西洋の詩人の見本をお目にかけようというわけで『見本帖』の表題が予定されていた大正14年の訳詩集『月下の一群』。ヴェルレーヌ、コクトオ、アポリネールら66人の詩人の340編を新鮮な日本語で紹介した、近代日本文学史の・・・というよりは精神史上の、記念すべき一瞬である。
サンボリズムを移そうと思えば、あの日本語しかなかったのだ。堀口大學の重さは、『社会主義の良心』かは知らないが荒畑寒村などとは比較にならないことを、新聞編集者は知ってほしい。いまの編集局長クラスなら戦後の全訳『悪の華』を読んだだろうに。それとも君らは『空想より科学へ・・・』などに安っぽくカンゲキしていたのか?・・・・」


最初、私は、この堀口大學を追悼した箇所を読んだとき、コリャ誰か、文学に精通している方が、かわって書いたのじゃないか? などと不遜にも思ってしまいました。
ましてや、『月下の一群』を、荒畑寒村や『空想より・・』と比較するという斬新さ。普通はこんな発想はしないよなあ。と思ってしまったのでした。

ところが、徳岡孝夫著「薄明の淵に落ちて」(新潮社)を何げなく開いていたら、
そこに、こんな箇所がありました。

「恩師の故中西信太郎先生は、シェークスピアの深い研究で知られる碩学だった。『シェークスピア物語』のチャールズ・ラムを卒業論文に書いた私は、先生の堅実な御学風を慕って、できれば大学に残るか高校の英語教師になりたかった。ところが某日、研究室に呼ばれた。『きみは体力がありそうだから教師には勿体ない。新聞社に入ったらどうですか。地下【の学生控室】に新聞社の求人が貼ってありましたよ』
私を雑駁なジャーナリズムの道に進めて下さったのは中西先生である。あとで考えると体力があるからとはヘンな理由だが、先生が真面目な顔で言われたものだから当時の私は可笑しいとも思わなかった。私がはじめてフルブライト留学生試験を受けたのは1958年のことで、願書に添えて出す推薦状をお願いに行くと、先生はちょっとバツが悪そうに笑ってから言われた。『きみ、それじゃ僕これから推薦の文章を考えますから、すまないけどちょっと事務室に行って西鉄が勝っているかどうか聞いてきてくれませんか』・・・」(p81)


うん。そういえば私が好きな訳詩で、中西信太郎著「完訳 シェークスピア ソネット集」(英宝社)が、あったことを思い出しました。
略歴を最初から思い出してみれば、氷解したのですが、徳岡孝夫氏は、1930年大阪生れ、53年京都大学文学部卒でした(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まず言葉から。

2009-09-26 | 朝日新聞
山本夏彦著「愚図の大いそがし」(文藝春秋)のなかに
「私の文章作法(一)(二)」という文が載っております。
そのはじまりを引用。

「故人清水幾太郎は『私の文章作法』のなかで、言葉に好き嫌いのある人なら文章が書けるだろう、その見込みがあると言って・・・『原点』『空洞化』『虚像と実像』『ふまえて』『きめこまかな』『それを○○のたたき台にして』――これらはたとえ千金をつまれても私は口にしない、また筆にしないと書いていた。
もっともである。けれどもこの言いぶんを『原点』以下の書き手に承知させるのは困難である。わがマスコミ界は清水のきらいな言葉にみちみちて、これが改まるのは『文化』全体が熟するよりほかない・・・」


ここでは、直していかなければならい『言葉』ということで、
徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女 1980‐2009」(文春新書)から、マスコミの例文をとりあげてみたいのです。ちょうど、新書「紳士と淑女」の1980年代で取り上げられているコラムがテキストとして、よい例文を提供してくれております。

1981年10月号

「どの新聞も、この後継者争いの刻一刻の状況を、夜討ち朝駆けで報じてくれないのが残念だ。日本最大の暴力団、山口組組長、田岡一雄、六十八歳の死。
『警察庁は、直ちに山口組内部や他の暴力団との抗争が火を噴くことはまずないと見ている。しかし、田岡組長個人との関係で山口組に属していた組や幹部もいずれは去り、同組に対抗する暴力団も勢力伸張をうかがっていることから、やがて暴力団地図は塗りかえられる可能性が大きいとしている』(朝日7月24日)
若きジャーナリスト諸兄姉よ、よく読んでおくがいい。これが『無難な記事』のお手本だ。」(p37)

80年代のこのコラムでは、注意すべきは読者諸君にではなくて、若きジャーナリスト諸君へと語りかけているのでした。
先に引用した山本夏彦氏の文をもう一度思い返していただきたい。
「けれどもこの言いぶんを『原点』以下の書き手に承知させるのは困難である。わがマスコミ界は清水のきらいな言葉にみちみちて、これが改まるのは『文化』全体が熟するよりほかない・・」。ここに「わがマスコミ界」とありました。

ここでは重ねて、新聞読者よりも、その新聞を書く「若きジャーナリスト諸兄姉」へと、コラムは語りかけていることを指摘しておきたいと思います。読者は読みすごすかもしれないが、諸兄姉は、どうか、こんな『無難な記事』は書いてくれるな。というメッセージがこめられております。
こうした書き手の視点から読むと、だいぶ味わいが違ってくる。
では、例文を続けます。

1983年11月号

「朝日的な、あまりに朝日的なダブルスタンダードのみごとな例証として、8月25日の朝刊を永久保存とする。第六面は『世界はきょう』と称する在台北特派員のレポートである。見出しだけを並べてみよう。
台湾――繁栄に潜む不安。『生存』なお米国頼み。絶えぬ海外逃避の動き。体制批判の『党外人士』。高齢化進む外省人議員。長期戒厳令、自由を制約。対米外交を活発に展開。
見出しだけを見れば、台湾、悪いことだらけだ。だが、その裏、すなわち第五面は?『党・軍の体質改革めざす中国』という見出しで、記事もヒドイものだ。
『四千万という世界最大の党員を抱える中国共産党が近く三年がかりの整風運動にとりかかる。・・・・整風とは、党員の思想、活動状況を洗い直し、仕事ぶりを正す、党内大掃除である。・・・現実に、北京からは犯罪者が一挙に三十人も処刑されたことが伝えられている。率直な発言で知られる氏だけに、党や軍が抱える問題指摘は鋭い。・・・・中国政情の安定と政策の継続性を願う立場から、今後の動きを冷静に見守ってゆきたい』
新聞の表と裏を読んで、思わずワッハッハと笑ったよ。処刑された三十人(無実の者もいたはずだ)には気の毒だが、実をいえば、いま中国が何よりも願っているのは、一日も早く台湾のようになりたいことなのですよ。それがわからないんですかね。」(p57~58)

1986年3月号

「日航ジャンボ機事故をめぐる朝日新聞の自衛隊批判について、東京新聞の大久保昭三記者による『日航事故・ある自衛官の涙と殺意』(文藝春秋・新年号)と、それに反論する朝日新聞・田岡俊次記者の『空幕広報室事件・私の真意』(同二月号)を読み比べた。
田岡記者は空幕広報室長を非常識と呼び、『やはり、あんたは広報には向いてないんだ。早く飛行群司令にでも栄転した方が似合うよ』ということも話した、と書いている。
ところが、大久保記者は直接引用で、田岡記者のニュアンスを紹介している。
『お前はバカだよ。まったくアホだよ。これだけまわりに迷惑を掛けていながら、まだわからないのか。お前は歴代広報室長の中で、一番最低だよ』『どっかに飛ばしてやろうか。せっかく、どっかの飛行群司令にしてやろうと、思っていたのに・・・』
このうち後者について田岡記者は『飛行群司令は最高の栄職の一つ』だから、そこへ飛ばしてやろうなど言うはずがないと反論しているが、いったい彼はちゃんと大久保記者の文章を読んだのだろうか?
それはともかく、田岡記者は単に『思い返すと恥ずかしいが、数分間は大声の口論となった』というだけで、自分の言葉のニュアンスには何も言及していないが、朝日の記者は自衛隊の一佐をお前呼ばわりし、バカだの、飛ばしてよるだのと怒鳴るものだろうか。いや言うものらしいと信じるには理由があって・・・・」(p84~85)


こういう朝日新聞の自衛隊批判は、どのようなつながりから来ているのか?
その方向性を確認するようなのが

1987年10月号

「『天皇訪問控え、うずく傷跡』『沖縄はまだ戦場だ』といったような記事がボツボツ目につき始めたので、まさかとは思うが不測の事態にそなえて、ちょっと伺っておきたいことがある。一部の新聞は、天皇が唯一の戦争犯罪人であって、その天皇は米軍の軍靴に踏みにじられた沖縄へ行き大地に頭すりつけて謝罪せよというのか?もしそうであれば、はっきりそう書いてもらいたい。
人間の生命には、値段の高い生命と安い生命がある。広島原爆の死者たちの生命は高い。彼らの死の記憶に基いて平和を宣言する広島市長の声は、ほとんど誇らしげである。
長崎で失われた生命も高い。だが長崎と同じ八月九日は始まり全満州と北朝鮮を阿鼻叫喚の地獄と化したソ連侵攻軍の犠牲者の生命は安い。だから朝日や毎日には、その人々のことが今年も一行も載らなかった。
沖縄の死者たちの生命も、また高い。だから沖縄本島南部の古戦場には記念碑が林立し、その中には悪趣味に近いものさえある。沖縄を守り切れなかった非力を恥じて自決した牛島司令官や長参謀長の生命は安い。だから誰も祈らない。・・・・」(p101~102)


これ以上引用すると煩雑になるので、ここまでとします。
あとは、読んでのお楽しみ。
山本夏彦氏は、先に引用した文章の、最後をこうしめくくっておりました。


「私たちは共通な人物と歌を失った。何よりその背後にある芝居を失った。言葉どころではないようだが、言葉から直していかなければこれは改めようがないのである」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一人旅。

2009-09-25 | 朝日新聞
河合隼雄と長田弘の対談「子どもの本の森へ」(岩波書店)で、長田さんがこう語っておりました。

「よくないのは、要約しろっていう読み方。その考え方が読書をつまんなくしちゃてると思うんですね。要約なんかしなくていい。それよりもその本のどこか、好きなところを暗誦するほうがずっといいと思うのです」(p7)

ということで(笑)はじめます。
徳岡孝夫著「ニュース一人旅」(清流出版)。
「この本は、ほぼ十年間、女性向きの月刊雑誌・・に毎号寄せてきた記事から、一部を択んで一冊にしたものである」とご本人が書いております。

さて、要約などはせずに、ひとつの文章を紹介がてら、引用したいと思ったのです(笑)。


題は「不可解な『朝日』(05・12)」(p56~57)
それでは、以下引用


 ほぼ三十年間の記者生活の大半を、社会部や週刊誌の記者として過ごした私は、朝日新聞社がなぜNHK番組が政治家の圧力によって改変されたと書いた自己の記事を『誤りでした』と認めて謝らないか、不可解でならない。どんな記者でも、誤報することがある。・・その場合には早く過ちを認め、関係者に謝罪するのが、新聞記者として正しい行為である。部外者による委員会を設けたり、二ページ見開きの検証記事を載せたり、『朝日』はなぜ屋上屋を重ねるような大騒ぎをしてまで、誤報を書いた記者を守るのだろう。・・
安倍氏はNHK幹部を『呼び出し』て番組内容を変えよと求めた。中川氏は放送前日にNHK幹部に会ったと書いた。ところが当時の記録を調べると、安倍氏がNHK幹部を呼び出した事実はなかった。中川氏が会ったのは放送前でなく、放送後だった。
新聞記事は『事実』のデータに基づいて成り立つ。その『事実』が間違っていれば、そそくさと訂正して謝らなければならない。他人が過ちを犯したとき、新聞は『過ちを認めよ』『謝れ』と要求する。雪印乳業の社長などは、ぐずぐずしたため、新聞からコテンパンに叩かれた。自分が間違ったときの『朝日』の、このゴマカシぶりはどうだろう。・・・
今度の記者会見で『朝日』の秋山耿太郎(こうたろう)社長は百人ほどの記者の前で『反省する』と言った。だが同時に『(記者の)妥当性は認められた』と、訂正も謝罪も拒否した。放送後に会ったのを『放送前日』に会ったと書いておいて、何が『妥当性が認められる』だろう。・・・・・・
『朝日』が政治家の介入によって改変されたと称するNHK番組は、従軍慰安婦問題で報道キャンペーンの先頭を切っていた故松井やより記者らNGOが開いた模擬裁判『日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷』を報じたものだった。昭和天皇を性奴隷(従軍慰安婦)制の元凶だとして有罪宣告するのが、その『裁判』の判決だったという。
大騒動を起した記者は、先輩の故松井記者に深く傾倒していた。その記者を、『朝日』は処分するどころか、会社を挙げて守った。長野の誤報記者はクビにしたのに、昭和天皇を悪の親玉とする記者は社内に残した。おそらく同じような思想を持つ者が大勢いるのだろう。常識ある人は、今後『朝日』記者から話しかけられたとき、注意した方がいい。何を書かれるか判らない。


この引用で終わるのは、なんとも勿体無い。
私は「完本 紳士と淑女」(文春新書)からも引用して続けてみたいと思うわけです。



1987年7月号

「多くの識者が朝日紙上で声を一にして言っていたように、青春に富む小尻知博記者の死は傷ましい出来事であり、暴力による言論弾圧は宥すべからざる行為である。しかし、だからといって、われわれは言論機関を神聖とし、新聞社を神格化しなければならないのだろうか。『言論の自由』というときの言論は、原理的にはハイド・パークの一隅に立って演説する個々人のそれを指す。高校野球の大勧進元になり、マラソン大会を実行して沿道を社旗で埋め、テレビ局やカルチャー・センターを経営し、自己を批判する雑誌の広告を拒否し、わが言論に反する言論あれば片っ端から告訴する。そんな一大権力機構が神聖であろうか。権力者は幼児、老人、母親の真の味方であろうか。
他を顧みて批判するのに巧みでありながら、自己への批判を許さない朝日は、言論機関よりむしろ権力の府ではないか。朝日阪神支局の襲撃は宥すべからざるものだが、それをもって新聞を批判するファシズムがいよいよ暴力に訴え日本に暗い時代が来ると騒ぐが如きは、一人の娘の襲われたのを見て海千山千の女が女性全体の貞操の危機を叫ぶに似たものではないか。」(p99~100)


本の題名「ニュース一人旅」の「一人旅」という言葉を思うにつけ、
「『言論の自由』というときの言論は、原理的にはハイド・パークの一隅に立って演説する個々人のそれを指す。」という徳岡孝夫氏ご自身の言葉が想起されるのでした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

完本雑感。

2009-09-24 | 朝日新聞
昨日はじめての方からコメントをいただきました。
あわてて、コメントへの返事もせっかちなものとなりました。
ということで、あらためて、コメントに対するご返事を
ここに書いてみたいと思います。

PHP文庫の谷沢永一著「完全版紙つぶて」が身近にあったので、その後記をみてみました。
こうあります。
「私は結局、この『完本 紙つぶて』一巻を書くために、長い年月を経てきたのかも知れない。そう思いかえしても、私は十分に満足である。いや、それどころか、ひとりのささやかな読書人の、うたかたに消えゆく筈の心情の一面を、我流の【紙つぶて】として書き続ける機縁に恵まれたのは、私にとって最上の幸福であり、関係者に対する感謝は尽きない。」(p548)

うん。うん。
ところで、「紳士と淑女 人物クロニクル 1980~1994」の「まえがき」に
編集者の提案という言葉があります。

「最初のうちは『なるべく人物中心でいきましょう』という編集者の提案に従って、その月の大きな出来事よりも『話題の人』を拾いすぎた嫌いがあった。そういう傾向が最近では逆になって、編集者から『今月のトップは何でいきますか』と相談を受けることがある。・・・」

ここで注意したいのは、編集者の意向が『人物中心で行きましょう』ということだったこと。この「紳士と淑女」が以前に刊行された単行本も副題に『人物クロニクル』とある。いま私が読み直そうとすると、その人物がかえってネックになっているような気がします。ここには、本来の徳岡孝夫氏がいないんじゃないか。

話題をかえて、新聞の人物論として私が思い浮かべるのは
朝日文庫「辰濃和男の天声人語【人物編】」でした。
それは1976年から1988年までの天声人語に載った人物をとりあげた一冊。
新聞読者の知る人物を中心にしながら出来上がっている人物編。
「紳士と淑女」は1980年(正確には1979年・月刊雑誌は次の月が表紙を飾り、発売月とはズレがある)からはじまっている。
編集者は、世間に普通の、たとえば天声人語の人物編を意識して、その傾向でゆこうとしていたのじゃないか? けれどもですね。辰濃和男氏は天声人語を降りてから、まるっきり文章の核がなくなってしまったかの感がある。それに比べるのも変ですが、徳岡孝夫氏は、ひとり三島由紀夫を書くにしてもライフワークほどの出会いとスタンスをもって臨んでおられる。そして、そこには通奏低音としての時代への眼差しが響いているのでした。

時代への眼差しなんていうと、さっきの「1980‐1994」の「まえがき」に、こんな箇所がありました。

「『諸君!』・・・創刊(1969年5月)のころ、世界はベトナム戦争と文化大革命の、日本は学園紛争の最中であった。ゲバ棒で武装した学生が街頭で警察隊と衝突しバリケードを築いて立てこもると、新聞はそれを『解放区』だと書いて囃していた。当時の百科事典の『ソヴェト連邦 社会・文化』の項は、理想社会からの報告と言ってもよかった。スターリン批判はすでに行われていたにもかかわらず、やがて来る共産主義革命への信仰は日本のインテリの間に普遍のものだった。そういう風潮の中で『諸君!』は『どこか間違っている』(池島信平「創刊に当って」)と感じ、自由に考え正しい発言をする決意をもって世に出されたのだった。ベトナム戦争が終息し、中国もまた文化大革命という『狂気の十年』を脱したとはいえ、似たような日本の思想的風土は『紳士と淑女』が始まった1979年(昭和54年)秋にもなお健在だった。
この年の二月に起こった中越戦争によって、正しいはずの共産主義体制への信仰はやや薄らいだが、たとえば日本人の非武装中立神話は微動だにしていなかった。
世界に冠たる平和憲法によって戦力を放棄し、おかげで経済的繁栄を築いたのだという日本のインテリの幻想は、その幻想に酔う間も米軍が日本列島を守ってくれている事実を都合よく忘れたものだが、多くの日本人はそれに気付いていないようだった。かえってこの平和主義を世界に広めなければと力みかえる者さえいた。遊戯人間コラムの延長として始まった『紳士と淑女』は、もともとそのような日本人の自己陶酔を打ち破ろうという野望などなく、書き手にも謬説に対抗するに足る論理的視点、視座があるわけでもなかった。編集長の提案によって書き出し、月々の話題を拾い、気がついたら14年が経っていたにすぎない。ただし、自己陶酔がいかにも阿呆らしいときにだけ、阿呆らしいと書いた。」


そこで、2009年9月へともどります。
文春新書の今月の新刊「完本 紳士と淑女」。
この「完本」では、「自己陶酔がいかにも阿呆らしいときにだけ、阿呆らしいと書いた」その箇所を、注意深くひろっての一冊となっているように、私はお見受けいたしました。人物中心に惑わされることなく(古い本には人物写真も掲載されていて、いやおうなくおじさん臭さがあります)この「阿呆らしい」視点から古い単行本「紳士と淑女」の2冊を読み直してゆけば、徳岡孝夫氏に出会えるのだと、私はあらためて思ったりするのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震の9日前。

2009-09-23 | 地震
徳岡孝夫著「完本紳士と淑女」(文春新書)は、月刊雑誌コラムの30年間分を精選したものでした。そこに地震の箇所がありました。

26年前の1983年10月号には、こんな箇所。

「紳士淑女諸君!これが最後になるかもしれません。なにしろ気象評論家・相楽正俊サンのおっしゃることには『9月10日から15日まで』の間に富士山は大噴火、東京はマグニチュード8だそうですから。覚悟はいいですか?いいとも!」

この記述も気になるわけですが、
1997年に出ている古本「紳士と淑女2 人物クロニクル1994-1996」(文藝春秋)を、何げなくパラパラめくりをしていたら、1995年のコラムが目にはいりました。阪神大震災に関するコラム。震災の状況を書いたあとに、こうありました。

「大震災の翌朝の話だが、『産経抄』がこの地震には[予告]があったと書いているのを見て、ハッと思い出した。急いで交換に出す前の新聞の山を引っくり返してみると、やはりあった。『日経』(1月8日)に『琵琶湖――大阪の断層 大地震を起こすエネルギー蓄積 立命大教授が分析 300年以上活動なし』という囲み記事があった。立命館大学理工学部・見野和夫教授の研究で、過去の文献の統計的分析によれば若狭湾から大阪湾に至る花折・金剛断層系には、ここ三百年以上『地震が起こらなすぎる』という。エネルギーが全く放出されていないのだ。豊臣秀吉の朝鮮出兵の前の1596年(慶長元年)に起った大地震では京都で約五百人、大阪と堺で六百人以上が死んだ。・・・その後、江戸初期の1662年を最後に地震はハタと止まった。見野教授は『関西は地震に対する意識が薄く、防災体制が不十分』と、あの大地震の九日前に警告していた。しかし『21世紀半ばまでにM7以上の地震が連続して起きる可能性がある』という気の長い警告だから、読んだ関西人もそれほどピンと来なかったことだろうし、淡路島から神戸を通して宝塚に至る活断層の位置も、教授の指摘した場所とは少しズレている。神戸は地震に関して俗間話題になったことさえない土地であり・・・・・」(p90~91)

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日新聞の恋。

2009-09-22 | 朝日新聞
文春新書の徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女1980~2009」の精選コラムを楽しく読んだので、それではと、古本の「紳士と淑女 人物クロニクル1980~1994」「紳士と淑女2 人物クロニクル1994~1996」を開いてみたのですが、お手上げ、私は文春新書の一冊で満足することにしました。
う~ん。とりあえず目の前に
「紳士と淑女 1980~1994」
「紳士と淑女2 1994~1996」の二冊があるので、その感想。
二冊とも単行本の最後に、「主要人名索引」があるので、人名を探すのには困りません。
けれども、私は読む気にはならないなあ。
月刊雑誌文藝春秋の最後の方にある「蓋棺録」の方が、私には楽しめます。
ちょっと、人名辞典としては役に立つかもしれないのですが、そこまで。

けれども、せっかくですから「まえがき」(1994年9月)から引用。

「世界に冠たる平和憲法によって戦力を放棄し、おかげで経済的繁栄を築いたのだという日本インテリの幻想は、その幻想に酔う間も米軍が日本列島を守ってくれている事実を都合よく忘れたものだが、多くの日本人はそれに気付いていないようだった。かえってこの平和主義を世界に広めなければと力みかえる者さえいた。」

「私はもともとニュースの本流を展望して、日本の政局がこれからどうなるか国際経済がこの先どんな方向に動いていくかを考えるより、些事におかしみを感じるたちだった。・・・もともと政治に限らず、人間が集団を組んでする行為は、原則に則るより原則を外れる場合が多いのだと考える。はっきり言えば、この世はなんでもありの世の中なのだ。理屈は、どうにでもくっつく。」

う~ん。有体(ありてい)に言えば、私の食わず嫌いなのですが、
たまたま、ひらいた箇所が興味深いので引用しておきます。

1993年(p744)
「いま朝日新聞編集委員という肩書きで、毎晩テレビ朝日系『ニュースステーション』で久米宏の隣にすわって、したり顔の解説などしている和田俊という男。知らない人は何の気なしに見ているが、彼は元プノンペン特派員で、言ってみればポル・ポト派のお先棒をかついだ男なのだ。1975年4月、ポル・ポト派がプノンペンを占領し、その直後からカンボジア国民の大殺戮を始めた。殺された者は百万とも三百万ともいわれる。妊婦も病人も女も子供も殺され、カンボジアは血で彩られた。いまでも各地で集団墓地が見つかっている。ポル・ポト派が今なお銃口に頼っているのは知ってのとおりだ。和田は、そのポル・ポト派を解放勢力と呼び、次のように書いた。
【カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、武力解放のわりには、流血の惨がほとんどみられなかった。入城する解放軍兵士とロン・ノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。政府権力の委譲も、平穏のうちに行われたようだ。しかも解放勢力の指導者がプノンペンの【裏切り者】たちに対し、『身の安全のために、早く逃げろ』と繰り返し忠告した。これを裏返せば『君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑もしなければならない。それよりも目の前から消えてくれた方がいい』という意味であり、敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。解放勢力指導者のこうした態度とカンボジア人が天性持っている楽天性を考えると、新生カンボジアは、いわば『明るい社会主義国』として、人々の期待にこたえるかもしれない。】(「朝日」75年4月19日夕刊)
プノンペンにいずにプノンペンを見るがごとく書いたこの大ウソ記事が出たころには、すでに解放(!)勢力による虐殺と処刑が始まっていた。首都に残った(和田とは違って)勇敢な外国人記者たちも、フランス大使館構内に逃げ込んで、わずかに難を避けたのである。カンボジア全土を覆った以後の流血を見て、インドシナの戦争を取材した各社の元特派員は、折りに触れて和田のこの大ヨタ記事を話題にした。『あんなことを書いてしまったヤツは、もう世間に顔向けできないだろうなあ』と、和田を憫笑(びんしょう)した。
その男が、いまニュースステーションの解説者となり、その解説を茶の間の日本人はうなずきながら聞いているのである。日本のために、これは泣くべきことか、それとも笑うべきことか。『朝日』の素粒子(6月8日夕)は言う。『苦く思い出す、日本はかつてポル・ポト派政権承認国だった事実を。国民の関心は薄かった』
何を言うか。『粛清の危険は薄い?』と見出しのついた和田俊記者の前記記事、『カンボジア解放勢力米軍侵攻に耐えて 旧敵のシ殿下とも結束』と大見出しのついた記事(75年4月17日)、『プノンペンの戦い終わる』と題する社説(75年4月18日)、『農村復興に最重点 腐敗?した都市の空気恐れ プノンペン解放1ヵ月』の見出しで『解放勢力による大量処刑の情報がもっぱら米国筋から流された。・・・しかし、これらの米国情報は、いずれも日付、場所などの具体性に欠けている』と書いた和田の記事(75年5月17日)などなど。国を誤ったのは政府ではなく、ポル・ポト派という『解放勢力』に恋した『朝日新聞』である。」(p744~745)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日新聞読解。

2009-09-21 | 朝日新聞
朝日新聞文章読解。その傾向と対策。

徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女1980~2009」(文春新書)にある、30年間にわたる雑誌「諸君!」巻頭コラム「紳士と淑女」(新書は精選コラム)。そこから、朝日新聞をとりあげた箇所をピックアップすることの重要さと魅力。以下は引用列挙。


1984年8月号

「例によって例の如く朝日編集委員の大特集『北朝鮮【金正日時代】へ着々』(6月6日夕刊)。切り抜いて後日のために保存しておこう。
『代表団が平壌市内の幼稚園を訪れた時、園児たちがいくつかの歌を聞かせてくれたが、その一つは【金正日先生ありがとう】だった。代表団はまた平壌にある三階建ての鉄道省革命事蹟館電化分館を見学したが、三階部分はすべて金正日書記がいかに鉄道の電化に力を注いできたかを写真などで示した展示館だった。ともあれ、金正日時代に向けての体制固めが着々と進行している感じだった』
このほか、客観描写を装いつつ、この記者はしきりに『着々』『建設』『さらに好転』『落ち着きを増し』『自力で』とプラス面を印象づけようとしている。1950年代のソ連、60年代の中国に感激し続けてきた新聞社だから、いまさら文句はないけれど・・・」

これが、いまから25年前のコラム。この新聞社の文章の傾向と対策を以下拾ってゆきます。インフルエンザと同じように抵抗力がないと、すぐに感染しやすい朝日新聞記事への免疫抗体づくりのために、ここはていねいに列挙。


時代によって北朝鮮の拉致問題の報道は、かわってゆくわけですが、
2000年2月号から。

「ほらね、やっぱり心配した通りになった。村山訪朝団は平壌で金容淳ひとりの長広舌を拝聴し、向うの言いなりに拉致事件や不審船問題をタナ上げしてしまった。あれほど頼んだ横田めぐみの両親の訴えを、きれいさっぱりと忘れ、国交正常化交渉の再開と食糧支援を約束して帰ってきた。あれで国会議員か。子供の遣いじゃないか。
マスコミも『産経』を外させた北朝鮮に抗議ひとつせずに帰ってきた。帰るとすぐ、NHKは『いわゆる拉致事件』と言い出した。何がいわゆるだ。拉致そのものではないか。・・・・
金容淳は同行記者団に向かって、こう言ったという。
「【拉致】という言葉を使ったら何も解決しない。・・・マスコミも注意すべきだ。どのマスコミが【拉致】という表現を使っているか、一字一句を調べたい」
こんなことを言われ、よく黙っていたなあ。あれほど警察の電話盗聴に反対したくせに、北朝鮮の検閲には、怒る社説が一つもない。
すべては70年代の悪名高い『中国報道』のおさらいである。『朝日』の特派員ただ一人が北京滞在を許され、文革下の中国べったりの記事ばかり書いた。毛沢東の後継者に指名された林彪副首席が謀反を起して死んだのに『何かあったという報道は西側の謀略だ』と書き続けた。『産経』を除く各紙は、北京に特派員を置かせてもらおうと、鞫(訇は匊)躬如(きつきゅうじょ)として中国政府の意を迎えた。
あれの繰り返しである。各紙各局は、すでに村山訪朝団の『成功』を称えている。日本のマスコミは、政治家に輪をかけた、冷血漢、売国奴である。」


つぎはどなたも記憶に新しい2003年1月号から(p299)

「痛々しいほどおばあちゃんに生き写しのキム・ヘギョン(15歳)の顔がアップになり、はらはらと涙をこぼす。『おじいちゃん、おばあちゃん、なぜ会いに来てくれないの。私は日本に行けません』と、これは『朝日』『毎日』、フジテレビ。脱走兵ジェンキンス(62歳)と二人の娘が並んで座り『お母さんがいないので、ご飯がのどを通りません』『デモを起してでも妻を帰すよう日本政府に訴えてください』、こちらは『週刊金曜日』。
涙を拭ってよく考えてこらん。日本に帰った五人を返せとは、彼らが犯した誘拐・監禁という罪の結果を、犯罪進行中の状態に戻せということなのだ。夫は子を『人質』に取り、情にからんで拉致という犯罪を再び継続しようとは、金正日しか思いつかない正邪転倒の発想である。・・・全体主義に選別、招待されて情報を貰うメディアは、必ず『そこに情報があったから報道した。どう判断するかは読者の自由だ』と言う。詭弁である。文化大革命の間、北京に住むのを許された『朝日』秋岡家栄特派員と、彼を庇った『朝日』が、どんなに日本人の中国観を歪めたか――ちょっと思い出してもらいたい。全体主義の誘いに乗る自由メディアは、情報という弾丸が命中しやすいよう、彼らの銃口を支えてやっている。」


う~ん。では悪名高いという『中国報道』を簡潔に、1980年8月号から

「人民日報の自己批判をうけて、朝日(6月14日夕刊)の素粒子はこう書いた。
『権より強きペンを鍛えるべく、われらもまた自戒。文革追従の過ちを、人民日報自己批判』朝日人よ、今日の日本ではすでにしてペンこそ最強の権であるのを知らないのか。まだこのうえに、鍛えよというのか!

1971年9月21日、国慶節パレードの中止を、AFP北京支局が打電。
同9月30日 モンゴルのモンツァメ通信が中国機のモンゴル領内墜落を報道。
同10月9日 『林彪の身に何かが起こった』とニューヨーク・タイムズ。
同11月16日 林彪失脚説を日本向けモスクワ放送。

そして同11月25日の朝日紙上では、『たった一人の北京特派員』秋岡家栄が、
『北京では一部右派系新聞の間に林彪副首席の失脚説が流れていた。そういう報道を読んだあと、深圳の税関でまず目についたのが、控室に掲げられた毛首席と林彪副首席が並ぶ大きなカラー写真だった。・・・・今日の中国で起こっている事態をより正確に理解するためには、時間という要素をかけて、ながめることが必要である』
・・・・・
素粒子のさりげない三行で自己免罪は完了なのか?
人民日報のほうが、よほど正直。  」


P237に「彼らにとって、神は常に日本の外にいた。最も憎むべきは日本のナショナリズムであり、誉むべきは他国のナショナリズムだった」という箇所があります。
う~ん。では、こんな箇所も引用しておきましょう。

1999年11月号。

「農水省で定例の事務次官会見が、記者クラブ内の一部をアコーデオンカーテンで仕切った記者会見場で行われようとした。職員が国旗である日の丸と三脚を持ち込もうとした。するとクラブ加盟の朝日新聞と北海道新聞と共同通信の記者が立ちふさがって、国旗の入室を阻んだ。朝日新聞広報室は『立ちふさがったという事実はない』と釈明したから、たぶん立って、ふさがっただけなのだろう。
事件のあったのは9月2日。その後の農水相や次官の記者会見はどうなっているのか。国旗は会場に『定着』したのか?・・・・・問いたいことは山ほどあるが紙幅がないので、ここでは印象評論にとどめよう。
会見場に向かう国旗と次官の前に立ち、通路をふさいだ三記者は、口々に『話を聞いてください』『大臣も強制はしないと言っていたじゃありませんか』『国旗を持ち込まないで会見を開きましょうよ』と叫んだという(読売9月3日)。思わず呵々大笑した。典型的な左翼の言葉遣いである。
左翼、たとえば日教組は、勤評闘争いらい『ぶっ潰せ』とは絶対に言わなかった。『やめましょうよ』『話し合いましょう』と、猫撫で声で校長を何十時間も吊し上げた。降参するまで許さない。追いつめられて自殺した校長が何人もいた。その左翼の口調を『朝日』以下の三人が言ったのだ。
新聞社、通信社はレッキとした私企業である。なのに各官庁、各自治体、国会、各裁判所、各警察のトップが執務する中枢フロアの一等地にクラブ室を持ち、大変な権力を握っている。いわゆる『新解釈』により、記者クラブは取材の拠点で、記者会見は記者クラブが主催するものと定義された。・・・・彼らは家賃はおろか光熱費、電話代、女の子の給料などビタ一文払わない。税金の窃盗に等しい行為だが、それでも足りず、彼らはクラブ室に治外法権を適用する。農水省が自分のビルの中で国旗をどこへ動かそうと、農水省の勝手ではないか。家賃払ってないくせに、何が『話し合いましょうよ』か。
『朝日』社説は『記者にとって会見場は日常の仕事場である』と言い、そこへ『ことさらに国旗を持ち込む。不快に思うのは、踏み絵を踏ませるような貧しい心根を感じる』から反対だと書いた。
おお、よくも言った。高校の卒業式という非日常的な場に日の丸を掲げるのに反対したのはどこのどいつだ。形勢不利と見れば一歩退き、日常的な仕事場に国旗はけしからんと言い張る。お前さんの根性にこそ貧しい心根を感じるよ。」


うん。このくらいにして、
「完本紳士と淑女」の中で朝日新聞を取り上げた箇所。
私が印象に残ったページだけですが、索引として、どこにあったかを記しておきます。

p19「人民日報のほうが、よほど正直」
p37「無難な記事のお手本」
p47「沖縄」
p53「戸塚宏」
p57「永久保存とする」
p67「金日成」
p84「朝日新聞・田岡俊次記者」
p99「小尻知博記者の死」
p101「値段の高い生命と安い生命がある」
p117「八重山列島のサンゴ破壊事件」
p178「テレビ朝日報道局長椿貞良の談話」
p212「昭和28年「こども」のページ」
p237「韓国からの通信」
p252「石川校長の死」
p257「国旗」
p299「メディアの詭弁」
p323「イラク国民議会選挙投票日の風景」
p327「長野総局の西山卓記者(28歳)」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞を切り抜く。

2009-09-20 | 前書・後書。
徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女 1980~2009」を読了。

まえがきに、こうある。

「30年という長い年月、私は休むことなく『紳士と淑女』の材料を探しながら暮らした。雑誌『諸君!』巻頭の7ページに何を書くか?月によって違うが毎月18~20日に〆切りが巡ってくる。その日に備えて、一日も休まずに日本語三紙、英語一紙の新聞を切り抜く。関係のある資料を探す。材料をひねくり回し、ほぼ一週間かけて書き上げる。読み返し、ときには改稿する。〆切りの日が来ると、午後一時には学生アルバイトがJR駅前まで受け取りに来る。落ち合って三階の食堂で厚切りポークカツ二つとビール小瓶一本を注文する。食べ終わったところで原稿の入った封筒を手渡す。『落とすな』『電車の中で居眠りするなよ』・・・・。食堂は横浜市南部の駅前ショッピングモールにある。30年間に私はトンカツを計720皿注文した勘定になる。取りに来る学生アルバイトには男も女もいたが、『お腹いっぱいですから』と厚切りポークカツを辞退した子は、ついに一人もいなかった。」


精選コラムを前にして、毎日切り抜かれた新聞のことを思い。それをもとに書き続けたコラムを通覧したのでした。


そうそう。26年前の1983年10月号には、こんな箇所がありました。

「紳士淑女諸君!これが最後になるかもしれません。なにしろ気象評論家・相楽正俊サンのおっしゃることには『9月10日から15日まで』の間に富士山は大噴火、東京はマグニチュード8だそうですから。覚悟はいいですか?いいとも!」


そして、2009年6月号。

「ガン宣告と前後して、『諸君!』の編集長から電話があった。『やむを得ない事情により、『諸君!』が休刊に決まりました。六月号が最終号です』そうですか、長らくお世話になりました、と言って、私は電話を切った。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民のみなさん

2009-09-19 | 前書・後書。
文春新書・徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女1980~2009」が発売されました。
大きく、1980年代・1990年代・2000年代と3つの章に分けられて、コラムが並べられております。とりあえず、1980年代を読んだところです。

あれこれと思うので、最後まで読むと最初に思ったことを忘れてしまいそう(笑)。
ということで、読んでる途中ですが、書きこみ。


まずは、平成21年8月に書かれたというご本人の「まえがき」から。

「代表になった鳩山由紀夫は『友愛』を説いている。フランス革命じゃあるまいし、いまさら何のタワ言と思うが、本人は大真面目である。・・私は長く『諸君!』巻末を書いた故山本夏彦の名言を思い出さずにはおれない。『汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす』というのである。すべての人間には金銭欲があるから、汚職は永遠になくならない。汚職を完全追放するには、人間すべてを殺す以外に手はない。だが正義は、国を滅ぼせる。・・・そこへ弟の鳩山邦夫が思いがけない発言をした。かんぽの宿の一括売却を『許さない』、『だって正義に反するもの』というのである。友愛の次は正義か!私はほとんど卒倒しかけた。これを書かずに何を書くか。」

もうすこし引用をつづけます。

「私の右腕には点滴の針が差され、チューブの下には尿瓶がぶら下がっていた。3月(2009年)に入院する直前、『諸君!』の編集長から『六月号で休刊になります』と、雑誌の終焉を聞かされていた。おまけに私の視力は近頃とみに悪化し、大きいルーペを使ってももはや新聞の切り抜きは読めなくなった。
書く力がない。書く場所がない。もうトシである。人を呪わば穴二つ。鳩山さん兄弟を思いっきり笑おうと思ったが、むしろ笑うべき、憐れむべきは私自身の身の上だった。私の病気はまず治らない。治るとしても・・・・」


ところで、この新書の1980年代を読んでいるところなのですが、
1983年12月号には、田中角栄が田中派議員に向かって語った言葉が引用されておりました(p59)

「・・・総理総裁に適任なのは自分しかいないと思っている奴がいる。アホー。そんなことで総裁は務まらん。生意気なことを言うな。総理総裁なんていうのは帽子なんだ。帽子だという言い方はまずいから機関だと言っているんだ。思い上がりも甚だしい。そんなことを言う者はバカだ」

そういえば、「まえがき」には「秘書の犯罪」での小沢一郎を語っておりました。

「新聞はそれを降格人事のように書いたが、とんでもない。小沢は党代表なんぞには何の未練もない。彼は全国を二度も三度も『行脚』し、両手のこぶしを膝に置いて『票を持つ人』の意見に傾聴してきた。深くうなずき、『わが党に入れてくれれば必ずお役に立ちます』と約束してきた。代表なんぞ鳩山由紀夫にくれてやればいい。人形より人形遣いの方がずっと面白い。小沢は望むポストを手に入れた。」

さて、テレビで聞きなれた鳩山由紀夫のいう「国民のみなさん」という言葉からの連想。
それは、1985年3月号(p73~74)でとりあげている美濃部亮吉とダブってくるのでした。
「一千億円を超す都財政の赤字」をこしらえた美濃部亮吉は
「都政は私が人生の最後を賭けた仕事でした。そのため、みなさんとともに汗した価値ある十二年間は、私の生涯の思い出であり、誇りでもあります」
こうコラム子は亮吉のこの言葉を引用したあとに、
「この『みなさんとともに』が、彼の都政のキーワードである。」と〆ておりました。

なにやら、「紳士と淑女」をおさらいしていると、
美濃部亮吉と鳩山由紀夫とが重なってくるじゃありませんか。

この新書は、いっきょに全部読んじゃうのはもったいない。
そんな新書です。この30年の日本歴史を振り返るにふさわしい現代史として。
「国民のみなさん」と言われて居心地の悪さを感じる方に、お薦めの一冊。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心が晴れたりする

2009-09-18 | 前書・後書。
本を読むのに、お金は気にしないでおりました。
本代を気にすると、まずは、本なんて買えません。
ですが、お金もなくなり(笑)。
すこしは、本の整理をするようになると、
本を買うのは、ここまで。
と自制するように最近なってきております。
というか、こうして書きながら、言葉でここまでと取り決める。
そういう、境界線を引くには、言葉はうってつけかもしれないなあ。
何せ、自分で自分に言い聞かせる。

ということで、最近の例。
養老孟司・久石譲対談本「耳で考える」(角川oneテーマ21新書)740円。

ここに、
「僕は高橋秀実(ひでみね)の書くものが好きなんだけど、たとえば自分の奥さんのダイエット話(「やせれば美人」新潮文庫)一つとっても、彼が書くことで日常的なことがある豊かさをもって浮かんでくる。言葉というのはそういうふうに使うものだと思うんです。
言葉というものは、何でもないことを豊かにしてくれるものであるべき。・・・今は世界を痩せさせるために使っている気がする。だから、言葉狩りをしたり、失言を大げさにとらえたり、バカなことばかりしているんですよ。物差しが狂っている。」
「世界を貧相にしちゃいけない。でも、どうも今の言葉は、世界を貧相にするように使われている気がしてしょうがない。・・・とくに新聞はひどいと思う。事実を正しく伝えるとかアホなことをいう。そうじゃない、事実を豊かにするのが我々の仕事だというふうに思えば、新聞はもっと有効なものになる。誰も読まないのは、これが事実だとかウソだとか、そんなことでけんかばっかりしているからですよ。」(p141~142)


ここに高橋秀実さんが登場している。
「やせれば美人」が、ちょっと気になる。
今日(9月18日)の新聞に、雑誌「新潮45」10月号の広告が載っている。
そこに特別対談「養老孟司・高橋秀実」の「百年に一度をどう生きるか」というのが写真入であるじゃないですか。う~ん。買わないよなあ。760円。

買わないときは、その話題をすぐに変えるに限る。
ちょうど、その新書のp137に、こんな箇所がある。

【養老】・・ある雑誌が日本に在住している外国人に、『日本のいいところを言ってください』というアンケートを採ったことがあった。はっきり中身を憶えていないんだけど、唯一憶えているのは、日本人のいいところのトップが『時間どおり来る』『言ったとおりやる』ことだった。この二つは日本人の美点なんだな、と思った記憶があります。世界にはそれだけ、『時間どおり来ない』『言ったとおりやらない』国が多いということです。
【久石】これは、僕、痛感しています。本当にそうなんです。日本の仕事はやりやすいなあといつも思うのは、言ったことは必ず守るし、時間も正確、ズレがない。予定が予定どおりに進む。これ、日本の社会だけで仕事をしている人は当たり前のことだと思うでしょうが、外国ではまずありえないことなんですよ。・・・・言ったことをきちんと守ろうとする日本人の特質というのはすごいですよ。(p137~p138)


う~ん。ここで養老さんが紹介している雑誌というのは、
文藝春秋特別版平成18年8月臨時増刊号「私が愛する日本」。
この雑誌のことじゃないかと、私は思いあたったのですが、どうか。
こちらは、つい先頃本棚の整理をしていたので、すぐに棚から引き出せました。
「大特集 外国人52人が語る 私は日本のここが好き!」というのがあります。
養老さんの指摘しているのは、どなたか、この雑誌をまた読み直してみても
楽しめるような気がします。
ここでは加藤恭子氏の「解説」(p160)。そのはじまりを少々。

「【文藝春秋臨時増刊号】の飯沼康司編集長とは、時々とりとめもない雑談をすることがある。その中の一つに、中国の反日デモがあった。
2003年11月、西安の大学で日本人留学生が行った寸劇がきっかけのデモから、2004年7月のサッカーのアジアカップでの反日デモ、2005年4月に北京、上海、天津などで起きた反日デモや暴動。それに韓国での反日感情が加わると、『自分たちは近隣諸国からこんなに嫌われているのか』と多くの日本人が自信を失っている現実も話題になった。話し合っているうちに、飯沼氏と私の共通の思いが出現する瞬間があった。
『日本人を励ましましょう。反日ばかりではない。日本が大好きな外国人は大勢います。あなたたちには、こういういいところがたくさんありますよと』『でも、どうやって?』と試行錯誤を繰り返しながら実現させたのが、今回の特集である。私たちは次のことをきめた。日本の内外に住み、知日経験には差のある外国人たちに、『あなたは日本のどういうところが好きですか?』『日本に対する注文は?』と訊ねる。できるだけ多彩な文化的職業的背景の人たちを集めるためには、私の教え子たちを動員し、また上智大学で同僚だった大和田滝惠教授にも中国語を生かして協力して頂く。・・・・」
「昭和47年に43歳で帰国した私は、それまでの合計15年間、海外に住んでいた。旅行やフランスへの短期留学を除くとほとんどアメリカで、ことに最後の7年は永住権を持つ移住者だった。その間ずっと、私は外から日本を見続けていたことになる。
この【外の眼】は、日本へ帰って日本を【内の眼】で見るようになっても私の中で生き続け、時には人生を複雑にしてくれる。個人にせよ国民性にせよ、美点のすぐ裏には欠点が、そしてその逆もありうる。日本人の多くは完璧主義者で、物事を悲観的に見る傾向がある。これはこれで仕事の正確さ、技術の向上などの推進力となっている。しかし心の状態を問うと、『すべてに満足』と答える人よりは、『閉塞感がある』『将来が不安』『孤立している』『自信がない』などと答える人の方がずっと多いのではないだろうか。
私自身も【内の眼】だけで日本を見続けると、気持が曇ることがある。そんなときに外から客人たちと外国語で話しながら街の中を歩き回ると、ふと心が晴れたりする。・・・」

これから、あとの心が晴れるエピソードなども忘れ難い。
ということで、あらためて古雑誌を読み返すこととして、何とか高橋秀実さんの本と対談へとは、手をひろげないことにいたします(笑)。


ちなみに、今日検索したら、出窓社より加藤恭子編で「私は日本のここが好き! 外国人54人が語る」として、雑誌の特集が加筆し単行本になっていたようです(2008年・1575円)。「ふと心が晴れたりする」という手ごたえが、雑誌特集の反響として、そのころあったのかもしれませんネ。そんなことを思いながら、私は古雑誌をまた読み直してみましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どんな映画より。

2009-09-17 | 短文紹介
昨日の水曜日は電車の中で養老孟司・久石譲対談「耳で考える」(角川oneテーマ21新書)を読む。普段は、虫にむかって、黙々と語りかける(?)養老さんが、よい聞き手を得て、嬉々として語り始める。そんな様子が伝わってくるような対談。なにやら、蝉の声としての養老孟司の語りが、聞き手の久石氏のあのきれいな岩(頭)にしみこんでゆくような錯覚を抱くのでした(笑)。

そういえば、
対談最後のあとがきは、久石氏でした。
こうあります。
「長い間待ち望んでいた養老さんとの(対談)本が出来た。・・・
それはどんな映画よりもおもしろく、僕はただただ感動しわくわくしながら聞き入っていた。・・・人間が生きていく上で、もやもやしてすっきりしないことをこうですよとばっさり言葉で言い切るのが理論だと僕は思う。・・・僕はといえば、まだガチガチの理論派なのである。いや、理論武装するほど勉強してはいないので理論好きというところである。この間も音楽大学で特別講義をおこなったとき、学生に『和声学や対位法』の理論は徹底的に勉強した方がいい、と声を大にして言った。・・・『知る』ということの無上の喜びを知った。だからこの本の一番の読者は僕であり、多くの人たちとその喜びを共有できたらもっと嬉しい。・・」

さてさて。
あらためて、新書の帯のお二人の写真を眺めております。
帯の真中に言葉「脳よりも耳を使え!」という言葉の垂れ幕。
その言葉を右から養老さんの顔写真。左が久石さんの顔写真。
どちらも向かい合っているように写っております。
いけません。養老さんの白髪が
まるで、ナウシカのオームの触手のように
久石氏の頭に延びてゆくような幻想を抱く私がおります(笑)。

よい聞き手を得て、ほとばしり出るような養老氏の語りは、
多岐にわたり、その一箇所だけを取り押えても、しょうもないのですが、
それでも、私に読後も印象に残る箇所を、ひとつ引用しておきます。
それは情報化と情報処理のまったく違うということを語っている箇所。
とりあえず、情報処理の作業とは、こう語っております。

「あの人はこう言っている、この人はこう言っている、これとこれは理屈でいえば矛盾しているだろうとか、あそこにはこう書いてあったとか、そういう他の人の言っていることや書いていることを上手に整理してまとめていくのは『情報処理』なんです。」

これに対して情報化はどうか。
ちょっと丁寧に引用してみます。

「僕は昨日、何をしていたかというと、ある新種の虫の特徴を言葉にして記載していたんです。頭がどうなっている、胸がどうなっているというのをA4ぐらいの紙一枚に書いていく。やってみるとわかりますけど、『頭がこうなっています』ということを説明するためには、同じ仲間の同じ種類の他の個体を見ていくとどうなっているか、他の個体には当てはまることは何で、当てはまらないことは何かといったことを全部知っていないといけないんですよ。つまり何が書くに値するかということがわかるまでには、相当の種類、数を見てないといけない。それが一番ベースにある。その虫がよっぽど変わっていたとしても、単にその個体だけの特徴である場合は、それを判断して落としていかなくてはならない。似たような虫が多い場合、これはこういう部分が他のとは違うよな、というのをパターン認識して、それを言葉にしていく。そういう作業を、僕は『情報化』といっています。たかが一匹の虫のことを書くだけだろうと思うかもしれませんが、『情報化』というのは、えらく時間がかかって、えらく大変なことなんですよ。
今は『情報』という言葉があまりにも普通に使われているから皆さんピンと来ないかもしれないけれど、自分が見ている世界を言葉にする時、それ一つだけをよく見れば書けるというものではないんです。それを書くためには、他のことをたくさん、しかもよくわかっていないと、的確に表現することはできない。」(p128~129)

う~ん。これからの私の連想は、
昨今の政治情勢でした。
情報処理に長けた野党民主党が、
今度は、情報化に取り組むこととなった。
「えらく時間がかかって、えらく大変なこと」を
どこまで、情報化し、
どこから、お家芸である情報処理で対処してゆくのか。

え~と、この新書は、いろいろな連想を呼び覚ましてゆくのですが、
あとは、読んでのお楽しみ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滅びる前に。

2009-09-16 | 地震
コラムとか書評とかの文に触発されて、本を注文することがあります。
でも、そんなに関連本を買うわけにもいかず。
コラムとか書評の言葉で満足して、それ以上、
関連本の注文をしない。深追いはしないように注意(笑)。

では、深追いしない、
その、途中経過。

「関東大震災のあと、作歌の小島政二郎は2つ歳上の芥川龍之介を田端にたずねた。小島は下谷の生まれ。芥川は本所で育った。その時、芥川が『これで、ぼくたちが生まれてそこで育った明治の東京は完全に滅びるね』と言ったことを小島は書き記している。・・・」

これは小林信彦氏による坪内祐三著「東京」への書評の書き出し(平成20年9月8日産経新聞)。ちょうど今月号「Voice」10月号の谷沢永一「巻末御免」では柴田宵曲。まず加藤郁乎著「俳の山なみ」からの紹介として、

「宵曲居士が寒川鼠骨翁薫督のもとに、根岸の子規庵で、居士愛用の机を据えて、子規全集編纂のために、遺稿を浄書しはじめるのは大正十二年、関東大震災から三月と経たない頃であったという。その間の事情を解明する加藤郁乎の筆致は感動的である。」


ちなみに、
芥川龍之介は、明治25年(1892年)生まれ。
柴田宵曲は、明治30年(1897年)東京日本橋生まれ。

深追いはしないわけですが、
加藤郁乎著「俳の山なみ」という新刊は、
記憶しておきたいと思うのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする