和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

年賀ハガキ書かないままに年の暮。

2024-12-31 | 手紙
今年も年賀ハガキは書かず仕舞い。
ということで、思い浮かんだ年末年始予定は、
ちょうど「『安房郡の関東大震災』余話」が
ブログで10話とまとまっているので、
それをプリントして、表紙をつけて、
届いた年賀ハガキのお返しに送ることにしました。

横着というか、何というか、それでよしとします。
とりあえず、10冊分プリントアウトしたとこです。
はい。これでもって今年の締め括りといたします。

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お世辞は云ひません。

2024-12-22 | 手紙
庄野潤三の兄が庄野英二。
今まで、庄野英二氏の本を読んだことがなかったので、
この際、古本で買ってみようと思いました。

庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の最後に登場するのが、
英二氏なのですが、そこで、紹介されている本の題名だけでも、

 庄野英二著「ロッテルダムの灯」の中の「母のこと」
 庄野英二著「こどものデッキ」の中の「朝風のはなし」
 庄野英二著「星の牧場」

と3冊が取り上げられ紹介されているのでした。
私は地方に住んでおります。はじめての著者の本は
どんななのか、あてずっぽうに、想像するほかないのですが、
地方にいると、利点があります。
住んでいない家があったり、空きスペースがある。
本は置けるので、まあ、冊数は余り気にならない。

さて、庄野英二の本を買おうと、
日本の古本屋を検索していると、
3冊をバラバラに買う合計よりも、
「庄野英二全集」11巻をまとめて買う方がお得感がある。

今回注文したのは、
東京神保町の田村書店。
庄野英二全集揃11巻(凾入り、月報揃)。
これが、3000円+送料1367年=4367円
( 一冊だと、397円となります )。
読めればいいので、単行本へのこだわりはありません。
凾入りで、各冊のページもきれいでした。

ということで、また全集を古本で買ってしまったのでした。
まず、まっさきに読んでみたかったのは、
庄野英二の『 母のこと 』でした。

それは、庄野英二全集9巻にありました。
全集で8ページほどの文でした。
はい。実際に読めてよかった。
ちなみに、全集第九巻の巻末に
前川康男氏の「庄野英二覚え書」が載っており。
そのはじまりに、佐藤春夫の手紙が引用されておりました。
はい。全集を買ってよかった(笑)。
その佐藤春夫の手紙を引用しておきます。

『 呈、御無沙汰に打過ぎました。
  『 ロッテルダムの灯 』をありがたう。
  あれを拝受した頃は、何かと忙殺されて
  読む暇がありませんでした。

  昨夜ふとしたはづみに手もとに置いてあった。
  あれを読みはじめ、今朝また昨夜のつづきを読み、
  現在三分の二ほど読んで、大へん感心しました。

  それで手紙を書く気になったのです。
  僕は手紙ぎらいでめったに手紙を書きませんが
  今日ばかりは書かないでゐられないで書くのです。

  僕は詩人です。お世辞は云ひません。

  僕は大兄をなつかしい人がらの人と
  永く敬愛して来ましたが、昨夜から今日にかけて
  その認識を新にするとともに大兄の
  気取りのない温雅な文才を羨ましいと思ひました。

  『 母のこと 』や『 松花江 』などは、
  そっくり教科書に採用すべき品位のある名文です。

  僕は詩人です。ほんとうをいふ職業です。
  お世辞は一言半句もありません     不一   』 (p390)

このあとに、前川康男氏は、
昭和49年6月に出版された講談社文庫『ロッテルダムの灯』の
河盛好蔵氏の『解説』からも引用をつづけておられます。
最後に、そちらも引用して終ります。

「 河盛好蔵氏は、『解説』で、この書簡に続けて、
  次のように記しています。

  『 ――本書の読者もまたこの手紙を読んで、
   詩人の讃辞に心からの同感を覚えたにちがいない。
   ≪ 気取りのない温雅な文才 ≫という佐藤さんの評は、
   庄野氏の作品の魅力を的確に伝えた言葉であるが、
   私はその上に、
   汲めども尽きぬ豊かなファンテジーと、
   目の覚めるような鮮かな色彩感覚とをつけ加えたい。 』(p391)


はい。とりあえずは、古本全集購入の余得のお裾分け。



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父母に宛てた手紙。

2024-12-17 | 手紙
途中で読みかけだった庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文芸文庫)を
手にとる。今回は『山芋』と題する箇所を読みました。

お母さんが、兄弟に手伝ってもらう箇所からはじまります。

「 ・・ある晩、台所で夕食の支度をしていた細君が安雄を呼んだ。
  『 なに? 』
  『 ちょっと手伝って 』
  『 はい 』
  安雄は部屋から出て来た。
  『 なにするの? 』
  『 あのね。とろろ、すって頂戴 』
  細君はすり鉢で山芋をすっていたのだが、忙しくなって来た。 」(p199)


はい。こうして弟も呼ばれて、主人公もでてきて・・・・
そうこうしているうちに、仙台地方とのとろろ汁談義になって、
そうしているうちに、橘南谿(たちばななんけい)の『 東遊記 』
の記述を思い浮かべるのですが、その『東遊記』を読んだのが

『 彼がこの一節を読んだ時は、戦争中であった。 』(p207)
と話題が、自然な流れとして転換してゆきます。
そこに、一冊の手帳が出てきます。

「これには、彼が海軍の予備学生隊にいた時、家族に出した便りの
 写しが全部入っている。ずぼらな性質の大浦が、どうしてこんな
 まめなことをしたのか、よく分からない。
 生きて帰ることが分かっていたら、おそらく自分の書いた便りの
 写しをいちいち取るというような、面倒なことはしなかっただろう。」
                             (p208)

こうして、その家族への手紙が引用されてゆくのでした。
そこには、体の具合の悪いことを書けなかったとあります。

「だが、そういうことは、父や母に宛てた手紙には書けない。
 ひとことも書けない。・・・・
 そこで、家へ出す手紙の文面は、次のようなものになった。

『 こちらは別に変ったことはありません。
  先日は僕の誕生日でしたが、次の日に思い出しました。
  学生隊の生活にも少しずつ馴れて来ました。
  それにこの頃は、来た頃にくらべてだいぶ気候がよくなりました。
  お昼すぎの暖い時には、もう春が近くなったと思うことがあります。
  そんな日には、富士がやわらかく霞んで、
  上の方だけ浮いたように見えます。
  風邪も引かずにいますから、御安心下さい 』

 嘘はちっともついていない。ただ、
 いうと心配するようなことは書かないだけのことであった。 」(p212)

この『山芋』の章は、最後に
『 とろろ汁をこしらえた次の日に植木屋の小沢さんが来た。 』(p214)
ということで、小沢さんの話し方を紹介してゆくのでした。

「 小沢は山紅葉の下に立って、枝を見上げていた。
  『 いい色に紅葉を 』と小沢はいった。

  この人の言葉を文字に写すのはむつかしい。
  決してひと息に全部いってしまわないで、
  何度も立ち止まる。そこへ『 あー 』でもないし、
  『 えー 』でもないが、字に書くとすればそう書くより
  ほかない声がはさまる。それも極く自然にはさまる。‥」(p214)

 こうして文庫本にして、12ページほどが植木屋の小沢さんとの
 話になって終るのでした。

 何だか次へと読みすすめるのが、もったいなくなるような
 『 山芋 』の章でした。ということで昨日はこの一章のみ読みました。



そういえば、ちょうど
重ね読みをしていた庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)のなかに、
兄庄野英二をとりあげた箇所がありました。忘れがたい箇所です。

それでも私は忘れっぽい。時が経過すると、探せないかもしれない。
そのロスを省くために、長くなりますが、ここに引用しておくことに。

「 或る日、思いがけず兄から電話がかかって来た。
  父が出た。いま、広島にいますといったから驚いた。
  次に、昨日、着いたところで、いま、陸軍病院からかけている
  という。どうした?
  腕に負傷したけど、大したことはない。近いうちに大阪の病院へ
  転送になるから、見舞いに来ないでほしい。
  わざわざ来てくれても行き違いになるといけないから。
  ああ、分った。お母さんにもそういっておいて。
  ああ、そんなら大事にせえといって父は電話を切った。

  電話のそばで父のやりとりを聞いているだけで全部分った。
  父と母に心配をかけるのをふだんから最も怖れていた兄は、
  先ず元気な声を父に聞かせて安心させておいてから、
  負傷して内地に送還されたことを小出しに報告したわけである。

  『 ロッテルダムの灯 』の中の『 母のこと 』には、
  来ないでとあれほどいっておいたのに、電話をかけた翌々日、
  父が広島へ面会にやって来て、上半身ギブスに包まれた兄に
  いろいろ質問するところが出て来る。ここで再び兄は
  母が来ないようにと父に頼むのだが、
  その数日後に母が病室へ現れる。

     母も看護婦に案内されて私の病室にくるなり、
     『 ごめんよ、かんにんしてよ、痛かったでしょう 』
     涙声で母の郷里の徳島なまりのアクセントでいいながら
     かけよってきた。
     ごめんよ、かんにんしてよ、と母が私になんで謝っているのか、
     とっさに私にはわからなかった。
     が、私の頭のなかで何秒か考えが回転してから、
     やっと判断することができた。
     それは私が戦場で重傷を負ってあやうく死にかけたことを、
     母はまるで自分の責任のように感じて、
     そんなもののいいかたをしたのであった。 ( 「母のこと」 )

  私たち兄弟にとって
  在りし日の父母の姿がありありと目の前に浮ぶ場面である。・・ 」
                   ( p399~400 新潮文庫 )


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サンキュー・レター

2024-12-14 | 手紙
年賀ハガキをどうしようか?
ここ数年、最近はちっとも書いておりません。
それでも頂けば、返事がてら書きなぐりを投函。


さて、庄野潤三の著作を数冊読んだだけなのですが、
読み継ぐことは、そっちのけで、あれこれ思います。

たとえば、手紙をテーマに、庄野作品を展望する。
あれこれと、読み齧りの思いつきはひろがります。

ということで、庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)から、
坂西志保さんの箇所を引用したくなりました。

「『 庄野さん、アメリカで一年暮してみるお気持ちはありませんか 』
 といきなり訊かれた。それが始まりであった。・・・・ 」(p328)

吉行淳之介の箇所では、庄野氏ご自身をこう紹介しております。

「 いったい何をしゃべったのだろう。口の重い、
  社交性の乏しい私が、何をしゃべったのだろう。  」(p268)

これもあったからでしょうか。坂西志保さんは
アメリカへ出発する際に、ある注意をされておりました。
はい。そこを最後に引用することに。

「 ・・・アメリカで次の二つのことを守って下さいと
  坂西さんがいわれた。

  一つは約束の時間に決して遅れないこと。
  もう一つは、食事やお茶に招かれたとき、
  必ずサンキュー・レターを出すこと。
  短くてもいいから、すぐにお礼のことばを書いて
  出して下さいといわれた。

  坂西さんに教わった二つのことを
  私たちはアメリカ滞在中、守ったばかりでなく、
  帰国後もずっと実行した。

  また、子供らに、人に何かしてもらったときは、
  必ずお礼状を書くようにと教えた。
  三人の子供はみな結婚して家を離れたが、
  今でもこのお礼状をすぐに出すという習慣は
  身についているようだ。坂西さんに感謝したい。 」(p334~335)

お礼状とか、感謝とか、言い忘れたことを年賀状にしたためる。
そんな習慣が、いままで身近にありました。ここを読みながら、
ここらで私は、サンキュー・レターへと切り替え時だと思うわけです。
ということで、またしても12月は、年賀状を書かないだろうなあ(笑)。

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「読み、書き」の一点張り。

2024-10-17 | 手紙
桑田忠親著作集第1巻「戦国の時代」の目次をひらくと、
最後に「武人の書風」という題の文が載っている。
本の最後をひらくと、初出再録一覧があって、昭和52年に
出版された「書と人物」3(毎日新聞社)に掲載された文でした。

「 人間の生活と書とは密接な関係がある。
  今日、一般の人間の書が下手なのは、  」

と、はじまっております。この「今日」とは、昭和52年頃でした。
そのあとも、つづけて引用。

「 われわれの生活が近代化し、物質科学化したからである。
  人びとの社交は、電話・電報などで簡単にすまされる。
  年賀状もはがきに活字で刷るし、
  封書の手紙も万年筆かボールペンでしたためる。
  これでは、書が上達しないのも当然だ、
  学問の幅も非常に広くなって、書などを習っている暇もないし、
  字が下手でも学識者・教養人で通用する。
  しかし、昔はそうではない。・・・・   」(p336)

はい。習字はどうやっても下手な私ですが、それでも、小学生の頃は、
書き初めの時期に、講堂の床で皆して筆を持ってました。
そういえば、あれ以来、書き初めなんてしていないなあ。
桑田氏の文をつづけます。

「 ・・昔はそうではない。『読み、書き、そろばん』という言葉があるが、
  江戸時代以前は『読み、書き』の一点張りで、これと少々の
  古典芸能の嗜みがあれば、学識者・教養人とみなされた。

   ・・・・・・・
  武人は、武を表芸とするが、武事や戦いの余暇には、
  文事を嗜んだ。その文事というのが、具体的にいえば、
 『 読み、書き 』なのだ。つまり、読書と習字である。
  この両様の学習は、もちろん一生の課題でもあるが、
  中流の武士の家庭においては幼少時から近くの寺院の
  僧侶について、上流武家の場合は書家を家庭に招いて、
  強制的に学ばされた。 」

このあとに、語られる事例が列挙されておりますので、
この機会に、引用しておきたくなります。

「 古い時代のことは、関係文献史料が不足なため実情を
  明らかにしがたいけれど、源義経などは牛若と呼ばれた11歳の頃、
  鞍馬山の僧侶について書を習ったであろうし、
  楠木正成は8歳で河内の観心寺に入り、院主の滝覚房について
  学問を修めたというが、習字も学んだに相異ない。

  さらに戦国時代に実例を取ると、
  米沢市の上杉神社には、上杉謙信が7歳で越後春日山の林泉寺に入り、
  天室禅師について書を習った時の≪ 片仮名イロハ ≫の筆跡が
  保存されている。

  豊臣秀頼が、5歳から18歳まで、大坂城内で当代一流の書家について
  稽古した≪ 豊国大明神 ≫の神号筆跡は、10数通も現存する。
  秀頼の父秀吉も幼児、手習いのために尾張中村の光明寺に入った
  というし、徳川家康も幼時、駿府伝馬町の知源院で習字にはげんでいる。

  四国の覇者長曾我部元親も、習字は土佐の吸江庵の真蔵王(しんぞうす)
  について修めた。彼らが、そのほか、さまざまな武芸・学問・芸能などを
  その道の達人に学んだのは、

  今日の社長の坊ちゃんが、英語や数学やゴルフを、それぞれ専門の
  家庭教師について学ぶのと類似しているといえなくもない。
  要するに、少年時代、戦国式寺子屋で、または一流の家庭教師に
  ついて学び、生涯の文武両道の嗜みの基礎を固めさせられたのである。」
                              (~p337)


はい。こうして桑田氏の文ははじまっておりました。
ちなみに、著作集の「武人の書風」には書の写真がはぶかれてる。
ここは、ひとつ昭和52年発行の「書と人物」3(毎日新聞社)を
古本で買うことにしてみました。こちらは書の写真入りです。

注文は「日本の古本屋」。
福岡県宗像市の、すかぶら堂書店で
500円+送料500円=1000円で購入。
それが届きました。凾入り。30.5×21.5㎝。
まずひらくと、桑田氏の文があり、
文の上にありました。豊臣秀頼の歳書(8歳と11歳)
「 豊国大明神 」の習字が踊っておりました。

「武人の書風」の最後の方からも引用しておきます。

「 私が最も感動するのは、足利尊氏・大田道灌・北条早雲
  上杉謙信・真田幸村・宇喜田秀家などの筆蹟である。
  専門の書家から見れば、どう批判するかは知らないが・・・・

  ともかく、みごとな書の一語に尽きる。
  堂々として、かつ悠揚迫らぬものがあり、
  気品もあり、格調も高く、その人らしい味わいがにじみ出ている。
  どうして、このようなみごとな字が書けるのか。
  私は改めて、いろいろと考えてみたが、やはり、
  武将としての彼らのつねに躍動した生活、
  身についた文芸の嗜み、生死の境を超克して、
  その日その日を力強く、たくましく生き抜いていった
  武人としての根性、悟りの心境、そういったものが、
  ・・・これらの書のうちに脈々として生きているからだと思う。
  そうでも思う他に正しい回答は得られないのである。・・・・ 」(p344)

 
さてっと、『書と人物』第三巻(武人)をゆっくりとひらき、
そこから、桑田氏が感動するという書を味わうことにします。
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ことごとく。

2024-09-29 | 手紙
桑田忠親氏への司馬遼太郎の手紙。
桑田著『或る蘭方医の生涯』を、司馬さんへ贈ったお礼の手紙が
残っているのでした。

「 ・・・ありがとうございました。
  阪大微研の加藤先生からおくられて参りました。

  桑田先生の御著書はことごとく読ませていただいた
  つもりでございますが、この本が先生の学風とは、
  ちょっと風変りなと思っておりますと、
  先生の御先祖にあたられるときき、
  立斎の後ありと思いました。・・・・  」
            ( p103 臼井史朗著「昭和の茶道」淡交社 )

 ここに出てくる立斎とは、桑田立斎のことで、
 桑田忠親の曽祖父にあたり、幕末の蘭方医だったとあります。

 それにしても、『ことごとく読ませていただいたつもりでございますが』
 と、司馬遼太郎に言われたら、桑田氏はどんな感慨を抱くのだろうなあ。

 それなのに、桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)を
 私などはちっとも読めずにおります。きちんと読めないと
 パラリと、本文の最後の箇所を読んだりしてみます。
 こうありました。

「 ・・・幾百年の後の世においても、
  お茶といえば必ず利休さんとくる。

  利休は、日本人の実生活の上に無言の恩恵を垂れている。
  気のきいた、しかも深みのある趣向は、みな利休好み、
  便利な日用品はすべて利休形であると、さえ言える。

  われら日本人の実生活を、正しく、清く、上品に、
  しかも最も便利に改革してくれた大恩人こそ利休居士であろう。 」
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明治37年夏の手紙。

2023-08-04 | 手紙
何年前からか『 夏 』が気になりました。
おそらく、「漱石の夏休み」ぐらいからか。
少しずつ、お気入りの夏を貯め込むように。

はい。今日は青木繁。
明治37年8月22日の青木繁の手紙。
そのはじまりを引用。

「 其後ハ御無沙汰失礼候
  モー此處に来て一ヶ月余りになる、
  この残暑に健康はどうか?

  僕は海水浴で黒んぼーだよ、
  定めて君は知って居られるであろうが、
  ここは萬葉にある『女良』だ、
  すく近所に安房神社といふがある・・・・

  漁場として有名な荒っぽい處だ、
  冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを
  切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ、

  西の方の浜伝ひの隣りに相の浜といふ處がある、
  詩的な名でないか、其次ハ平砂浦(ヘイザウラ)
  其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎でここは
  相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼し 」

 この手紙には絵も描かれているのでした。

「 上図はアイドといふ處で直ぐ近所だ、
  好い處で僕等の海水浴場だよ、
  上図が平砂浦、先きに見ゆるのが洲の崎だ、富士も見ゆる 」

 手紙のなかに童謡として引用されてる箇所がありました。

「  ひまにや来て見よ、
   平砂の浦わァ――

   西は洲の崎、
   東は布良アよ、
   沖を流るる
   黒瀬川ァ――
   
    ・・・・・    」


うん。手紙はまだ魚の名前をつらねたりして、まだまだ続きます。
手紙の最後からも引用しておかなければね。

「 今は少々製作中だ、大きい、モデルを澤山つかって居る、
  いづれ東京に帰へってから御覧に入れる迄は黙して居よう。 」


 ( 青木繁著「假象の創造」中央公論美術出版・昭和58年 )

 
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友人の音信(おとづれ)を受取る。

2023-04-13 | 手紙
篠田一士著「幸田露伴のために」(岩波書店・1984年)。
はい。露伴を読まないくせに、気になる個所をチェック。

「露伴を知らなければ、日本文学そのものとはいわない、
 少なくとも日本の近代文学がもつ底力は、ついに理解されないと、
 ぼくは、だれはばからず断言する。 」( p137 )

ここで、「日本文学そのものとはいわない」と断っている。
こういうのが、私にはこたえられない箇所です。なぜって、
私は文学を読まないから、そんな変人をも取り込む言葉に、
まいってしまいます。それじゃ、どういう『底力』なのか。

わたしにも読めそうな紹介がしてありました。ありがたい。

「・・60過ぎた露伴が書いた、ささやかな昔話『野道』一篇を
 読んだだけでも、そこには、粋なデリカシーが躍動し、
 ときとして、西脇順三郎の詩に通じるようなモダニスチィックな
 感性のよろこびさえ汲みとることができるのである。 」( p127 )

なんか、読んでみなきゃ、意味が理解できなさそうな箇所。
ここで、『ささやかな昔話』を読んでみなきゃとなります。

ありました。「露伴全集」第四巻

   昭和28年3月10日第一刷発行
   昭和53年6月16日第二刷発行

そんなに、戦後に読まれていなかったようだとわかります。
それはそうと、『野道』は8ページの短文(昭和3年)です。
この短さならば、例え旧かなでもどなたでも読めそうです。

春になり、郵便で音信がとどくところから始まります。
その四行目から1ぺージ目をつい引用したくなります。

「 無事平和の春の日に友人の音信(おとづれ)を受取る
  といふことは、感じのよい事の一(ひと)つである。

  たとへば、其の書簡(てがみ)の封を開くと、
  其中からは意外な悲しいことや煩(わずら)はしいことが現はれようとも、
  それは第二段の事で、差当つて長閑(のどか)な日に友人の手紙、   
  それが心境に投げられた惠光(けいくわう)で無いことは無い。

  見ると其の三四の郵便物の中の一番上になつてゐる一封の文字は、
  先輩の某氏の筆(ふで)であることは明らかであつた。

  そして名宛の左側の、親展(しんてん)とか侍曹(じさう)とか
  至急(しきふ)とか書くべきところに、閑事(かんじ)といふ二字
  が記されてあつた。閑事と表記してあるのは、

  急を要する用事でも何でも無いから、忙しくなかつたら披(ひら)いて読め、
  他に心の惹かれる事でもあつたら後廻しにして宜(よ)い、という注意である。

  ところが其の閑事としてあつたのが嬉しくて、
  他の郵書よりは先づ第一にそれを手にして開読した。
  さも大至急とでも注記してあつたものを受取つたように。 」(p437)


はい。これが最初の1ページ目にあるのでした。
それから・・・・・。

つい、したり顔して最後まで説明したくなる。
でも、ここまでにしておくことにいたします。

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手紙と、文化の触覚。

2022-06-01 | 手紙
佐藤忠良氏の対談の言葉に、

「 彫刻って触覚が何より大事な仕事なんです。
  コンピューター全盛の時代でも我々彫刻家は、

  先人が腰蓑(こしみの)つけていたのが、
  背広にネクタイつけるようになっただけの違いで、

  相変わらず粘土をこねているーーでも、
  文化って、そういう触覚感が大事なんですよ。 」

       ( p22 「ねがいは『普通』」文化出版局 )
       ( p26 「若き芸術家たちへ」中公文庫  )

この言葉のすぐ前に、佐藤忠良氏は、安野光雅氏に語っています。

「 我々若いとき、一生懸命、手紙書いたでしょう?・・・ 」

うん。この箇所が気になっておりました。
粘土をこねるように、手紙を書いていた。

ということで、手紙が思い浮かびました。
安かったので購入して、昨日届いた古本に
矢野誠一著「昭和の東京 記憶のかげから」(日本経済新聞出版社・2012年)
がありました。矢野誠一氏の本ははじめてです。
ひらくと、この方は「東京やなぎ句会」の一員とあります。
それはそうと、パラリとひらくと、
『諸先輩からの手紙』(2010年7月)という2ページの文がある。
そこから、端折って引用することに。

「 パソコンも使わないから、
  原稿は万年筆で原稿用紙に書くし、
  電話で意の通じにくい連絡、
  献本や贈答品のお礼は、もっぱら郵便を利用する。
  これで、日本国憲法で保障されている。健康で文化的な
  最低限度の生活を営むにあたって痛痒を感じたことはまったくない。」

うん。短い文を、さらにブツ切りにしてゆくと、
つながりが、つかみにくいでしょうが続けます。

「 文豪と呼ばれる作家の日記や書簡を読むのが好きで、
  その『日記・書簡集』というのがほしさに、
  全集全巻購入してしまうなんてことがあったが、
  
  世のなかからこう手紙を書く習慣が失われては、
  そんな楽しみも日記だけになりそうだ。

  古書展などで見かける著名人の葉書や書簡の文面に、
  単純な用件しか記されていないのが意外に多いのは、
  ケータイはおろか電話そのものがそれほど普及して
  いなかった時代を物語るものだろう。       」


「 筆まめだった戸坂康二、中村伸郎、木下順二などの
  諸先輩からはずいぶんとお手紙を頂戴したが、いま
  思いかえして大切な用件の記されたものはほとんどなかった。

  中村伸郎さんからは、胸うたれるような書簡をいただく一方で
  『 グレースケリーが女優をやめるのを、
    しつこく反対したのはヒチコックだそうだ  』
  とだけ記した葉書も受け取っている。

  師戸坂康二は、封筒のあて名のわきに『閑信』と記し、
  『シラノ・ド・ベルジュラック』の『シラノの週報』の
  ような手紙をくださった。・・・・・         」
                   ( p134~135 )


はい。粘土をこねるようにして、『閑信』を書いている。






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手紙でも書いてやってくださいナ。

2022-03-28 | 手紙
長谷川家の三姉妹。マー姉ちゃん長女の長谷川まり子さん。
「サザエさん うちあけ話」の最初の方に登場する箇所は、
福岡出身アズマ マナブさんとの交際が描かれております。

『足しげくかよってきては、姉をそとにつれ出していました。
 出るのはいいが彼女、食べものに目がなく、
 決してえんりょも、しないタチ。

 彼はしだいに
「ウチ(長谷川家)でいっしょに話しましょうや」と、
 すわりこんで、うごこうとしません。
 サイフも、底をついたとみえます。・・・』

『さて、先方の親も上京して、婚約のはこびと、なりましたが、
 まもなく応召。久留米の連隊。そして中支からラブレターが
 とどきます。といっても、軍りつきびしいから、
 内容は、暑中見まいと、さしてかわりません。

 「早く、へんじをあげなさい」と律儀な母は、
 うるさく姉をせっつきます。

 ところが、無類のフデぶしょうで、ため息と共に、
 やたらと びんせんのかき損じの山をきずくだけで
 一日のばしです。

 ついに見かねて、ヒットラー(母親)が代返を決行。
 アズマと母との間に、ラブレターが、せわしく往復し、
 やがて彼は、ヒシと母のレターの束をむねにビルマに
 発って行くこととなります。

 小隊長として出陣が決まりますと、姉はモンペ姿で、
 彼のウチに、とんでゆきました。・・・
 わずか一週間の花よめでした。・・・・・      」

はい。絵と文字とで、読者としては、何気に読むすすみます。
そういえばサザエさんの四コママンガに、こんなのがあった。

①夜コタツで晩酌をしておそい夕食をとる浪平。
 舟さんが座るわきには電気釜?
 襖ごしには、寝ている子供たち

 舟 『 コドモにあえないときはチョット
     てがみでもかいてやってくださいナ 』
 浪平『 ウン 』

② フトンに起きて座っているカツオ
  そばによってくるワカメ。
  ふたりして、てがみをうれしそうに読んでいる。

 ふたり『 おとうさんからだ!! 』

 フトンのわきには、舟さんがすわっている。

③朝ご飯を、お膳でたべている。カツオとワカメ。
 カツオは通学カバンを背中にしょいながら。
 舟さんが白のカッポウ着で立っている。

舟『 コドモたちからも ごへんじだしたら? 』
二人『 ウン 』


④ 文机で、便箋にむかう、お舟さん。
  付近には丸めた便箋がアチコチに。

舟『 みんな、あたしに代筆させるんだョ 』
     吹き出しのなかの「みんな」には
     浪平・カツオ・ワカメの顔が描かれている。

 そばに立って、あきれた顔をしているサザエさん。

   (p118 長谷川町子全集33「よりぬきサザエさん」 )


はい。この四コマの配役を
長谷川家で割りふるならば、

舟さんは、お母さん。
カツオは、長谷川まり子。
ワカメは、長谷川洋子。
サザエは、長谷川町子。

という組み合わせが、どうも
ピッタリとはまる気がします。






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炎暑之候、御病体如何。

2021-08-19 | 手紙
漱石といえば、手紙。そう教えてくれたのは、
出久根達郎著「漱石先生の手紙」(NHK出版・2001年)。

うん。それから夏目漱石の手紙を読もうと思ったのは
我ながらよかったのですが、けっきょく読まず仕舞い。

岩波文庫の「漱石・子規往復書簡集」も
買ったのですが、読まずに本棚に置かれたままでした。
はい。この機会にちょっとひらいてみます。

明治22年8月3日
   牛込区喜久井町一番地 夏目金之助より
   松山市湊町四丁目十六番戸 正岡子規へ

そのはじまりは

「炎暑之候、御病体如何・・・・
 
 近頃の熱さでは無病息災のやからですら胃病か脳病、
 脚気、腹下シなど様々・・・・

 必ず療養専一摂生大事と勉強して女の子の泣かぬやう
 余計な御世話ながら願上候。
 さて悪口は休題としていよいよ本文に取り掛かりますれば
 ・・・・・・・・」

はい。これは時候の挨拶だけ引用して、
次に、9月15日の正岡子規への手紙は

「・・・・貴兄漸々御快方の由何よりの事と存候。
小生も房州より上下二総を経歴し、去月30日始めて帰京仕候。

その後早速一書を呈するつもりに御座候処、
既に御出京に間もあるまじと存じ、日々延頸(くびをながく)
して御待申上候処、御手紙の趣きにては今一ヶ月も御滞在の由
随分御のんきの事と存候。

しかし此に少々不都合の事有之(これあり)。
両三日前小生学校へ参り点数など取調べ候処、
大兄三学期の和漢文の点及ビ同学期ならびに同学年の体操の点
無之(これなき)がため試験未済の部に編入致をり候が、
右は如何なる儀にて欠点と相成をり候哉。

もし欠点が至当なら始業後二週間中に受験願差出すはずニ御座候間、
右の間に合ふやう御帰京可然(しかるべく)と存候。・・・・・・・

小生も今度は・・ぶらぶらと暮し過し申候。
帰京後は余り徒然のあまり一篇の紀行ような妙な書を製造仕候。
貴兄の斧正(ふせい)を乞はんと楽みをり候。

先は用事のみ。・・なるべくはやく御帰りなさいよ。さよなら。」


うん。子規の落第の心配をする漱石の手紙。
落第といえば、寺田寅彦と漱石が結びつく。

ということで、寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」
のはじまりを最後に引用。

「熊本第五高等学校在中、第二学年の学年試験の終ったころ
のことである。同県学生のうちで試験を『しくじったらしい』
二、三人のために、それぞれの受け持ちの先生方の私宅を歴訪して、

いわゆる『点をもらう』ための運動委員が選ばれたときに、
自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。

その時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親類
つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、
もしや落第すると、それきりその支給を断たれる恐れがあったのである。

初めてたずねた先生の家は白川の河畔で、藤崎神社の近くの閑静な町で
あった。『点をもらいに』来る生徒には断然玄関払いを食わせる先生も
あったが、夏目先生は平気で快く会ってくれた。

そうして委細の泣き言の陳述を黙って聴いてくれたが、
もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。

とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、
自分は『俳句とは一体どんなものですか』という、
余にも愚劣なる質問を持ち出した。

それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知
していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ
発酵しかけていたからである。」
(P142岩波少年文庫「科学と科学者のはなし・寺田寅彦エッセイ集」)

寅彦のエッセイは、ここからが本題にはいるのですが、
とりあえず、落第の話題はここまででした。




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切手と絵封筒と老若男女。

2020-12-26 | 手紙
記念切手が手元にあって、
さて、そんなに手紙を書かないので、
どうしたものかなあと、思っておりました。

きたむらさとし・松田素子著「絵封筒をおくろう」(文化出版局)
が2007年に出ておりました。古本で購入、それが届く。
ネットで、絵封筒と検索しても、楽しめます。

「絵封筒をおくろう」のカバーは、
横長にした封筒が、美術館見学風景を描いております。
真中の大きな額には、宛先が書かれてる。
右側の額には、切手がそのまま貼ってある。
8人も描かれていて、みんながこちらに背をむけて
その額縁をみている姿として描かれております。


はい。葉書には、宛先の面には、切手の場所が指定され、
描けないことになっておりますが、どうやら
封筒には、絵を描いてもよいようです。
切手も宛名の面なら、どこに貼っても許されるようです。
しらなかったなあ。

記念切手で、日本画の花鳥風月など、
大判の切手があったりすると、貼るだけで躊躇するのですが、
額縁を描いて、掛け軸などを描いて、そのなかに
記念切手を貼れば、それでいいのだと思うと、楽しくなります。

はい。あとは、手紙を書くだけですが、
肝心の手紙は、めったに書かない(笑)。
けれども、いざ書くときは、この手がある。
うん。これからは、躊躇せずに、大判の記念切手を貼ることが
できそうです。

さて、この本のはじまりを引用しておくことに。
絵本編集者の松田素子さんが書いておりました。
そのはじまりは

「私が絵封筒を初めて見たのは、イギリス在住の
絵本作家きたむらさとしから届いた封筒でした。

それが縁で、その後イギリスの出版社アンデルセン・プレスで、
社長のクラウス・フルーガー宛に届いた、たくさんの
絵本作家たちの絵封筒を見ることになったのです。
 ・・・・・

封筒に絵を描くということは、これまでにも古今東西
いろんな人たちが、なにげなく、あるいは意識的に
行なっていたことであるにちがいありません。
それぞれが個人的に、点のようにしていたことが
どんどんとつながり、いまやプロもアマもなく、
老若男女を問わず、これほどの広がりを見せ
はじめていることに感動します。
 ・・・・             」(p2)

はい。昨日この古本が届いて、夜は夢中で
ページをめくっておりました。
まるで、短歌の枕詞のようにして、
切手からはじまる絵封筒の世界がひろがっておりました。


はい。切手が動きだし、相手へ届く瞬間のたのしみ。
ということで、記念切手の数だけ豊かな想像がひろがりそうです。

はい。来年、切手を貼るのがたのしみになりますように。

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手紙も、そえてあります。

2020-11-27 | 手紙
はい。森三千代訳「枕草子物語」(岩崎書店「日本古典物語全集⑦」)
を、私は、たのしく読めました(フリガナつきです)。

枕草子のダイジェスト訳ですが、
私にとっては、はじめての枕草子。
はじめての印象は、やはり残しておきます。
といっても、とりとめがなくなるので、
ここでは『手紙』ということで、まとめてみます。

「行成卿(ゆきなりきょう)のおくりもの」と題された文から

「ある日、頭の弁(役の名)藤原行成卿から、使の者が来ました。
 
その使者は、白い紙に包んだ食べ物らしいものに、
花のいっぱい咲いた梅の一枝をそえて、とどけてきたのでした。

包みの中はなにかと、いそいであけてみると、
ヘイダンというお餅が二つならべてあります。
(へいだんは、もちの中に卵と野菜の煮たのを包んだ、
肉まんじゅうのようなものです。)

手紙も、そえてあります。
その手紙をひらいてみると、公式の目録をまねて、

 進上、餅餤(へいだん)一包
 例によって、件(くだん)の如し
 別当 少納言殿

とあって、月日を書き、おくり主の名は、
任那(みまな)の成行としてあります。・・・

さすがに能筆家だけあって、
すばらしく上手な字で書いてあります。
さっそく、中宮にお見せしますと、

『まあ、いい字。それに、おもしろい手紙だこと。』
と言って、中宮は、じっと字をながめたあとで、
その手紙を取りあげてしまわれました。

へいだんをもらったわたしは、
行成卿にお礼を言わなければなりません。
 ・・・・・・・           」
(p161~162)

手紙をとられる場面は、
「にわとりの鳴きまね」にもありました。

「行成卿からきたこの時の手紙は、みなで三通ですが、
あとの二通は、れいによって、字がうまいので、
人にとられてしまいました。

一通は、中宮の弟の隆円僧都(りゅうえんそうず)が、畳に頭を
すりつけて、どうしてもくれと頼んだので、もって行きましたし、
あとのは、中宮が、ほしいと言われたので、さしあげたのでした。」
(p167~168)


「うらやましいもの」にも、手紙が登場しておりました。

「字が上手で、歌を詠むことがうまくて、歌合わせのときなど、
まっさきに選に入る人も、うらやましいと思います。

貴(とうと)い身分の方のそばに仕えている女官(にょかん)が、
おおぜい集まっているとき、だいじなところへお出しになる手紙を、
人をさしおいて、わざわざ呼び出されて、すずりや筆をわたされて、
書かされている信用のある女官は、見ていてもうらやましいと思います。
仕えている女官たち、だれ一人として、
そんなに字のまずい人はないのですから。」(p203)

「山吹の手紙」は、中宮からの手紙でした。


「・・代筆ではなくて、
中宮がご自分でお書きになった手紙だと思うと、
ありがたくて、胸をとどろかせながら開きました。

なかには、山吹の花が一つ入っていて、つつんだ紙に、

『 いわで思うぞ。(なにも書かないけれど、忘れはしませんよ)』

とだけ、書いてありました。・・・・」(p185)


はい。それでは、
行成卿のように達筆ではなく。
女官がそばにいるわけもない。
そんな時代になるとどうすればよいのか?

ということで、随筆文学の、次のバトンをうけついだ、
吉田兼好「徒然草」は、この手紙をどう克服したのか。

「手のわろき人の、はばからず文(ふみ)書きちらすはよし、
見ぐるしとて、人に書かするはうるさし」

これについて、谷沢永一著「百言百話」(中公新書)には
こうあります。

「字の下手なんか、平気で手紙なんかをドシドシ書くのは宜しい。
見苦しいからと云ので、人に書かせるのは、うるさい厭味なことだ
(沼波瓊音(ぬなみけいおん)訳文)。

沼波瓊音は『この段は短いが、言が実に強い』と嘆賞して、
次の如く彼一流の『評』を記している。

『私が中学に居た時、和文読本という教科書の中に、
ここが引いてあった。鈴木先生の講義を聞いた時に、
少年心(こどもごころ)ながら、ハッとした。

今からその時の心持をたとえていって見ると、
凜然たる大将が顕われて、進め、と号令したような気がした。
恥ずるに及ばぬ、自分を暴露して、その時々のベストを尽くして、
猛進するのだ、という覚悟は、この段の講義を聞いた時に
ほのかながら芽ざしたのであった』。
大正3年の著作であるから・・・・」(p122)

はい。徒然草でどうやら達筆の呪縛から、
解き放たれた。そんな気がするのでした。





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京からの手紙。

2020-10-02 | 手紙
もっぱら、安い古本がたまっております(笑)。
うん。系統だった本の購入でなく、場当たり的。
その一冊に、
「古典の森へ 田辺聖子の誘(いざな)う」(集英社・1988年)
がありました。新聞に月一回の連載で、おしゃべりを工藤直子さんが
書き留めたものだそうです。この本に枕草子が出ておりました。

そのはじまりは、
「私は『枕草子』を読んでいて【ああ、女だなあ。女なればこその、
ものの見かた、発想だなあ】って感じるところが、じつに多いのね。
だから、私は『枕草子』をこう読んだ、という思いを軸にしたものを
書きたいと、清少納言を主人公にして、『むかし・あけぼの』という
小説を書きました。」(p68)

うん。『むかし・あけぼの』という小説を書かかれたようです。
はい、小説は私は敬遠する方なので、それについてはノーコメント。

聖子さんのおしゃべりは続きます。
ひとつ面白いなあと、印象に残った箇所はここでした。

「『すさまじきもの』のところで
『人の国よりおこせたるふみの物なき』というのがあります。
【地方から、こちらに送って寄こしている手紙に、贈り物が
ついていないの】というのね。
手紙だけくれて贈り物がないのはシラケル、と。これも貴重な財源
だったのかな、かなり現実的な、欲深いことをいっていますね(笑)。

それでいて京から送るのは手紙だけでいい、なんて、
あつかましいのね(笑)。なぜかというと
『それはゆかしきことどもを書きあつめ、
世にある事などをもきけばいとよし』というわけ。
つまり、京からの手紙には、地方で知りたいことを書き集め、
世間の出来事をも聞くのだから、それでよろしい、と。
品物に見あうだけの情報が入っているのだから、
なにも添えなくていい、と。なかなか頭(ず)が高いんです(笑)。
・・・・」(p72~73)

うん。なかなか、現在の情報社会を先取りしているなあ。
と思ってしまう箇所です。よく正直に書いておられる。

そういえば、徒然草の第117段が思い浮かびます。
その段は「友とするに悪(わろ)き者、七つあり。」
とはじまり、箇条書きに手短にかかれたあとでした。
「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。
二つには医者(くすし)。三つには、智恵ある友。」
としめくくられておりました。

それでは、吉田兼好さんは、
物くるる友に、お返しの物を差し上げたのでしょうか?
あるいは、清少納言のように情報を提供していたのでしょうか?

枕草子でいうところの
『ゆかしきことどもを書き集め・・・』
その書き集められた集大成が、枕草子あり、
また、徒然草でもあったのでしょうか?

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寒山拾得と手紙。

2020-08-11 | 手紙
京都国立博物館の図録「海北友松」(平成29年)。
古本で購入したら、チケット半券がはさまってる、
2017年4月11日~5月21日開館120周年記念特別展覧会
と入場券の半券にありました。

さてっと、この図録をパラパラひらいていたら、
寒山拾得の図に、今回は興味を持ちました。
二人して庭らしいところに立っております。
一人は巻紙をひらいて、挙げた左手から下の
右左手までU字形に巻紙が広げられています。
その巻紙を見ながら笑っています。
もう一人は、その人の肩に左手を置いて、
右手は庭箒を支えて、同じく巻紙を見ているようで、
いっしょになって笑っています。


この図録をひらいていると、
二人して巻紙を見ている構図が
しばしば印象的に現れてくるのでした。

そうこうしているうちに思い浮かんだのは、
戦場カメラマン・一ノ瀬泰三の写真でした。

私に思い浮かんだのは、夫婦を撮った写真のようでした。
二人して土間のようなところに座っています。
向って左側に夫が座りながら手紙をひらいて読んでいる。
腕の間に杖でも傾けるように、戦場ライフルのような拳銃を
右肩に立てかけ寛いでいます。妻は隣に座って頬を夫の肩に
近づけながら手紙をのぞき込んでいます。
夫は手紙を読みながら笑ってる。
妻は、殺伐な状況のなかで、切れ切れな感情をどう結びつければ
よいのかもわからないままに、夫の笑いを笑っています。
その手紙は、どうなのでしょう。子からの消息なのだと思えてきます。
うん。ネット検索だと、簡単にこの写真は見れます。

海北友松の寒山拾得の図をみていたら、一ノ瀬泰三のこの写真が
思い浮かびました。そうすると、どうしてもわたしには、
寒山拾得図の巻紙が、手紙なのだと思えてくる。
すると、寒山拾得二人の笑が身近に感じられます。

うん。こういう笑いを思い描いてしまうと、
もう、イヤ味な手紙は書けなくなります(笑)。
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