和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『戦国武将の手紙』その授業風景。

2024-10-19 | 前書・後書。
桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」の解題は米原正義氏。
米原氏は、桑原忠親の授業の回想を文に書いておりました。
それを読んでいると、この第三巻自体の奥行きを感じます。

『戦国武将の手紙』の授業風景を回想から引用。

「まず読みである。読めない箇所があってもそう簡単には教えてもらえない。
 ・・ややあって先生から教えられ、ほっとする。おかげであまり進まない。」

「重要語句・歴史的用語などの説明はことにくわしく、・・板書される。
『笑止』を文字通り、笑を止めるので『気の毒』と解釈する
 ことを知ったのも、この元就の教訓状を教わったときであったし、
 歓楽が病気の意味だと知った」

「それにしても先生の話で最も参考になったのは先輩の活躍の様子であった。
 ・・在学中に特に多く、すぐれた先輩の研究について、研究態度、
 その他の話を聞いた。・・・・

 つたない論文を発表したときでも、
『 あんな論文では駄目だ 』と言われたことは一度も聞いたことがない。
『 論文には良いところが必ずある 』といわれ、
 勇気と自信を持ったことであった。・・・・・

 何だか解題にならない解題を書いているようだが、
 そうではなく、要するに『戦国武将の手紙』は、
 一朝一夕にできたものではなく、こうした授業の中から、
 長い年月を経て生まれたものである、と言いたかったのである。」(~p355)

こうして、解題を読んでから、『戦国武将の手紙』の「はしがき」を見ると、
何だかこの授業を受けている学生へと語りかけているような箇所がある。

「・・・近頃は、若い人は、もちろん、おとなでも、
 墨でしたためた走り書きや、候文体に接触する機会に恵まれないから、
 自然と、そうした体験に欠けてくる。

 歴史評論家や社会科の教師で、古文書が読めなかったり、
 ほんものと偽ものとの区別が判定できない人も、ざらにいるし、
 専門の歴史家でも、自分の専攻する時代以外のものは、
 そんなにわかるものではない。

 わかったような振りをする学者ほど、
 なんにもわかっていない場合が多い。
 学問とは、元来、そんなものである。

 だから、素人の歴史趣味家でも、
 格別、悲観するに当たらない。
 要は、古文書に親しむ度数が物を言うのである。  」(p187~188)

ここでは、授業を受け専門の学問を究める人もあるだろうし、
卒業して、社会科の教師になる人もあるだろうけれども、
また、畑違いの職業につくかもしれないが、そんなのことは、
『 格別、悲観するに当たらない 』と語りかけているようでもあります。

米原正義氏の解題には、こんな箇所もありました。

 「 授業の途中、先生の武勇談が出る。今でもその殆どを覚えていて、
   なかなか面白い話があったが、内容を紹介する紙数がない。 」(p355)


第三巻をパラパラひらいていると、
『 初陣にみる戦国武将の生き方 』(p338~344)などは
そんな『 なかなか面白い話 』を聞けた気分になります。
勿論、全文を読んでいただきたいのですが、
ここには最後の箇所を引用しておくことに。

「 武将にとって、初陣というものは、
  元服式や婚礼よりも大切なものであるから、
  千軍万馬の間を往来した戦国の名将は、
  大抵、14か15、6で、これを体験した。
  信玄、謙信、信長など、みな、この線を行っている。

  ところで、・・・織田信長も、二代目になると、次男の信雄(のぶかつ)
  三男の信孝など、みな、秀吉に滅ぼされたり、追放されたりし、
  三代目の織田秀信(信長の嫡孫)は、
  豊臣家臣となって生きながらえたが、
  ・・関ケ原の戦いに、石田三成に味方したのはいいにしても、
  岐阜の居城を徳川勢に攻められたとき、19歳で初陣を強いられた。

  そのとき鎧かぶとを、どれにしようかと、
  カッコいいのを選びあぐねているうちに、
  戦機を逸し、城を攻め落され、降参している。

  また、稀世の英雄豊臣太閤秀吉も、二代目になると、
  ひどいものである。大坂夏の陣で、・・・
  譜代の家臣に励まされ、いでたちも美々しく、
  大坂城の桜門を出て、天王寺に向かって出陣しようとした。

  これが総大将秀頼にとって、まさに晴れの初陣であった。
  しかし、秀頼は、すでに23歳にもなっていたが、
  実戦の経験は皆無である。そのくせに、女色のほうにかけては、
  正妻の千姫のほかに、愛妾も貯え、子も2人ほど産ませて、一人前だが、

  母公淀殿の教育よろしからず暖衣飽食、遊堕に流れ、
  徒(いたず)らに肥満していた。10万の将兵を
  統率するどころのさわぎではない。
  教育ママと一緒に、親ゆずりの大坂城内で
  自害できただけでも、上々であった。   」(p344)
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大名と御伽衆。

2024-10-15 | 前書・後書。
桑田忠親著作集の第三巻「戦国武将(二)」の目次には、

〇 大名と御伽衆
〇 戦国武将の手紙
〇 史論史話

とあります。「大名と御伽衆」の序にはこうあります。

「 初めは・・官位部の御伽衆の項を補うくらいな軽い気持で
  集めていたが、次第に面白くて罷められなくなってきた。
  恩師や学友の御声援もあって、極く身内の専門雑誌に
  その成果を発表したのも、随分前のことである。
  それから、この御伽衆又は御伽の問題が意外に
  広い社会史的背景をもっていることにも段々と気がつき・・・ 」

とあるのでした。さすがに著作集だけあって、そのあとに
『 増補新版の序 』を加えてあります。そのはじまりは、

「 日本歴史と国文学との両方面にまたがる特殊な研究の
  成果といささか自負する『大名と御伽衆』を公刊して・・・ 」

うん。興味深いので第1章のはじまりを引用。

「戦国時代の大名の間に設けられた官職にはさまざまなものがあるが、
 それらは、総じて、きわめて単純な制度から出来あがったすこぶる
 実用本位な職業であって、実に江戸時代に於ける諸職業の淵源を
 なすものであった。ここに述べようとする
  
 御伽衆(おとぎしゅう)なども、それらに類する御伽という職業に
 あった人々の総称であって、しかも、その語ることろは、
 よく主君たる大名並びに将軍の見聞を拡めしめ、かたわら、
 区々たる史実をも伝播するに与って力があった。
 そこに特に留意すべき価値が認められるのである。・・・」(p11)


はい。私などは、ついつい子供に話して聞かせるところの、おとぎ話
しか思いつかなかったのですが、それについても、語られておりました。

「御伽噺を古典的な童話ときめてしまうのは間違いだ。
 すなわち、御伽噺とは、御伽の際になされた咄であり、
 それには、種々様々なものがあった。

 大人向きのものもあれば、子供向きのものもあった。
 大人の御伽の席で語られたのは大人向きの咄であり、
 子供の御伽の席で行なわれた咄は子供向きの咄であった。
 
 ただ、若殿相手の御伽ということが盛んになってくるに従って、
 子供向きの咄、すなわち、童話というものが創作されてきた。
 昔咄の中から子供向きのものを取ってきて、
 童話風に創作するようになってくる。

 しかし、御伽噺すなわち童話ということになったのは
 もちろん、明治時代になってからのことで・・・・   」(p175~176)

ちなみに、この「大名と御伽衆」の最後には
『 物読み法師と源氏物語 』と題する8ページほどの文がありました。
はい。最後にここから、すこし引用。

「 ・・禁裏御用の餅屋として知られる川端道喜や
  堺の納屋衆出身の茶匠千利休の身辺にも、
  物読み法師がいたことが知られるが、ともかく、
 『 源氏読みの法師 』というのは、珍しい。 」


うん。そのあとに、源氏物語の朝顔の巻からの引用もありました。
その引用にでてくる歌を終わりに引用しておきます。

    秋はてて露のまがきにむすぼゝれ
           あるかきかにうつるあさがほ



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誰が書いても、みな。

2024-10-08 | 前書・後書。
読みたいと本を買っても、時がたつと、興味が他へうつるので、
その本を忘れてしまうことがたびたびあります。

うん。何だかそれが慣れっこになって、ある程度の時間内に、
パラパラでも読み込んでおくことが肝心。興味にも賞味期限がある。
最近は、つとにそんなことを思います(笑)。

さてっと、桑田忠親著作集全10巻を古本で買ったのですが、
まずは、パラパラと各巻の最後をひらくことにしたいと思います。
幸いに、各巻の巻末に、さまざまな方が文を寄せておられます。

第7巻「戦国の女性」の巻末は二木謙一氏の文がありました。
その最後の方にこうあるのでした。

「 いつも思うことだが、桑田氏の文体には、
  歴史家にはまれなセンスの良さが感じられ、
  また史料の伝存しない部分、文字に見えぬ
  歴史の裏面の洞察とその復元に独特の才能
  が発揮されている。            」(p349)

うん。このセンスが、史料をひからせているのだなあ。
なんて思うのでした。
巻末をひらいたあとは、巻頭をひらいてみる
「桃山時代の女性」という文の「まえがき」にはこうあります。

「・・日本の女性史に関する諸氏の著作を一通り読んでみた。
 しかし、それらの多くは、ある一定の理論を尺度にして、
 甚だ概念的に社会制度の変遷などを叙述したものが多く、
 専門的、具体的な学術書としては飽きたりない感を深くした。
 確かな文献史料の裏づけよりも観念のほうが先ばしっているから、
 たれが書いても、みな、同様なものができあがる結果となる。
 この不満を解消するために、私はまず・・・   」(p11)


はい。とりあえず全集の第7巻は、ここまでにして次に巻へ。
「読みたい」という私の賞味期限内に、まずは全巻の巻末を
読みすすめておくこととします。

はい。これでも会って立ち話でもしたような気分になれます。
そこから、本との交わりがはじまればよし。おわってもよし。


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筺底(きょうてい)に秘めて

2024-10-03 | 前書・後書。
芳賀徹の父・芳賀幸四郎に「千利休」と題する本がありました。
以前に買ってあって、読まずにというか、読む気にならずにありました。
そういえばと、その「はしがき」をひらいてみる。
そこに桑田忠親の名前が登場していたのでした。

「・・いざ実際に執筆にかかってみると、
 その困難さは当初の危惧をはるかに超えるものであった。

 桑田忠親氏や唐木順三氏らに、
 それぞれ『 千利休 』と題する名著があり、
 それに利休関係の史料はほとんど発掘しつくされていて、
 従前の研究水準以上に出ることが、不可能とさえ思われた・・

 かえりみてまことに慚愧にたえない。
 このまま筐底(きょうてい)に秘めて、
 さらに数年研究を続け彫琢を加え、
 いささかなりと自信をもって世に送りたいのが、
 いつわらぬ私の真情である。

 しかし書肆の督促と、この小稿を閲読してくれた友人が、
『 現在の段階では、出す意味は十分にある 』といってくれたのを
 跳躍台として、あえてこれの上梓に踏みきることにした。・・・・
                 ( 昭和38年3月1日 )    」

うん。千利休を書いたり語ったりするというのは、
こうして、率直に経過を語りかけられるのがポイントなのかもしれませんね。
うん。私には芳賀幸四郎著「千利休」は読み進められなかったのですが、
今回、ひょんなことで桑田忠親著「千利休」を読んでおります。
といっても、パラパラ読みでまことに情けない。
情けないけれど、まあいいや。このままに読み進めます。

そのうち、唐木順三著「千利休」と芳賀幸四郎著「千利休」も
はずみで、読めるかもしれませんしね。

はい。今回の最後はというと
桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)の
第六章「秀吉の御茶頭となる」からの引用。

「・・彼は、東山時代このかた重んぜられていた唐物道具に
 対するぎょうさんな礼讃ぶりに背なかを向け、
 唐物(からもの)よりはむしろ井戸茶碗のごとき
 高麗物(こうらいもの)の侘びたのを愛する
 侘び数寄の傾向からさらに一歩を進め、
 国粋的茶器の創造に心をとめていたのである。
 長次郎に焼かせた利休七種茶碗など、
 その代表的なものであった。
 このころすでに唐物中心の数寄大名のお祭騒ぎに対して、
 彼が苦々しく感じたのも道理であろう。  」(p67~68)
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『 流言蜚語 』への招待。

2024-09-15 | 前書・後書。
東日本大震災のあと、
吉村昭著「三陸大津波」の文庫を読みました。
その頃に、寺田寅彦の震災関連の文庫は、3社から出版されました。
方丈記も、新しい訳で文庫登場したのでした。
そして、清水幾太郎著「流言蜚語」(ちくま学芸文庫・2011年6月10日)も
その流れの中で文庫化されておりました( 忘れておりました )。

はい。その「流言蜚語」の文庫を買ってはあったのですが、
とりだしてみたら、きれいで、文庫として読んだ形跡がない(笑)。
まずは、ここには清水幾太郎著「流言蜚語」(ちくま学芸文庫)の目次紹介。

  1 流言蜚語                 ・・・p12
  2 大震災は私を変えた
     日本人の自然観 ー 関東大震災     ・・・p176
     明日に迫ったこの国難 ― 読者に訴える ・・・p248
     大震災は私を変えた           ・・・p274
     地震のあとさき             ・・・p285

   解説 言葉の力  松原隆一郎        ・・・p309


さてっと、「流言蜚語」。その清水幾太郎氏の本文の最後にはこうあります。

「 だがこれだけは言っておかねばならぬ。
  言語への軽蔑の支配するところは、
  かえって流言蜚語の発生と成長とに
  有利な風土を持つということである。  」(p170~171)

この次に「結論」という2ページの文がありました。
その結論の最後には、こうあります。

「 流言蜚語は除かねばならぬ。だがこれを軽蔑する前に、
  一般に評価する前に、対策を立てる前に、

  我々が知らねばならぬのはその本質である。
  そしてこれへ読者を招待することが私の任務であった。 」(p173)

清水氏からの『流言蜚語』への招待。
一読者宛の、招待状を受取りました。


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キノコ取リニ行キマシタカ。

2024-09-07 | 前書・後書。
安野光雅・藤原正彦著「世にも美しい日本語入門」(ちくまプリマ―新書)。
はい。今回この新書をひらいて、そこから購入したのが
安野光雅著「絵本歌の旅」(講談社)だったのでした。
それから、もう一冊注文した本がありました。

それは、新書の初めの方にあった安野さんの言葉で注文しました。
まずは、その安野さんの言葉を引用。

「 私はむかしから、『戦没農民兵士の手紙』という岩波新書の
  一冊を大切にしています。今は手に入りません。
  図書館などにあるでしょう。文章は拙(つたな)いが、
  それだけに読んでいて涙がでます。その中に残っている。
  飯盛正さんから弟の孝志(たかし)君にあてた手紙の
  一部分をあげてみます。

 『 ブタノ子ガ タクサン生レテ居ルンダッテネ。
  ヤギハイナイデスネ。ウサギハ大キクナッタデショウネ。
  タカシハ キノコ取リニ行キマシタカ。
  今ハ雪ノシタ(キノコの名)ガ盛ンデスネ。 』   」(p21)

注文したら、今は新刊で手に入りました。
昨夜届いたのには「 2023年8月18日 第22刷発行 」とあります。

あとがきをひらくと、そのはじまりには、こうありました。

「私たちがこの手紙を集める運動をおこしたのは昭和34年の秋10月・・
   ・・・・
 仏壇の上の鴨居にかけられた、軍装姿も凛々しい兵隊の写真、
 私たちは農家のあちこちで、何度そうした写真を見かけ、
 やっぱりこの家も・・と、何度思わされ、
 生きて帰れたわが身と思いくらべ、複雑な感情を抱かされて
 来たことだったろうか。写真が私たちに何かを語りかけている。
 私たちはその訴えを聞かねばならぬ、何度そのような
 思いに駆られて来たことだったろうか。・・・・・・・ 」(p221)

 このあとがきの最後には
「   1961年6月    岩手県農村文化懇談会  」とありました。
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絵巻の読解と文学体験

2024-09-01 | 前書・後書。
気になる古本があったので買ってありました(1200円なり)。
揚暁捷著「鬼のいる光景」(角川選書・平成14年)。
副題が「『長谷雄草紙』に見る中世」とあります。

はい。本棚から取りだし序章をひらく。
うん。序章だけならとお気楽にひらく。

なんでも、『和漢朗詠集』にはいっている平安前期の
文章博士紀長谷雄(きのはせお)の詩が引用されはじまっております。

「長谷雄個人の文集や詩集はまとまった形では一巻も伝わらないなか、
 この詩だけは、作詩の模範例として詩学書に収められ、
 後世の人々に愛誦された。・・・」(p6)

そうして数ページあとに、こうあります。

「 一方では、朗詠とは、漢詩の一部分を取り出して吟唱し、
  それをまとまりのある文学の世界から切り離すことを特徴とする。

  人々に繰り返し唄われる佳句は、それが盛んに伝わるほどに、
  句と最初に詠まれた詩との繫がりが忘れ去られ、そこからは
  やがて独立した文学的イメージを作り出すことになる。
  長谷雄の句も例外ではなかった。 」(p8)

 「 この奇怪でどことなく愉快な、平安文人と鬼との話は、
   ストーリー全体のプロットがそのままに一巻の絵巻となった。・・

  絵巻という表現の形式を得て、長谷雄と鬼にまつわるこの説話は、
  新たな精彩を放ち、文字だけによって記されるものでは及ばない
  豊かな表現の世界を形作った。
  朗詠集の注釈と絵巻の詞書と・・・・  」(p12)

 「 ともかく絵巻『長谷雄草紙』は、
   注釈にも取り上げられた一つの説話にスポットを当て、
   これを新たな表現手段によって再現したといえよう。
   注釈と絵巻との間には、直線的な継承関係が認められないにせよ、
   
   この両者にあり方に注目することにより、
   漢詩、朗詠、そして絵巻という、多彩な表現の世界の
   繫がりを感じ取ることができ・・・   」

 「 絵巻「長谷雄草紙」が制作されたころ、
   この第一の鑑賞者だと想定される限られた階層の人々は、
   このような文学・文化活動の成果をすべて共通した
   教養として身に付けていたはずである。

   この絵巻は、けっきょくのところそのような
   鑑賞者を満足させることから出発した。
   漢詩、朗詠、そして注釈といった表現の世界に精通し、
   そのうえ、絵という表現形態でしかもたらしえない
   新たな世界の創出にこそ、絵巻作者の本領があった。

   その意味で、今日の読者としてこのような複数の
   文学的世界を互いに参照させながら絵巻の読解に立ち向かえることは、
   一つの素晴らしい文学体験になるはずである。 」(p14)


はい。今日は序章を読んで満腹。

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いいこともある。

2024-06-25 | 前書・後書。
産経新聞を購読してます。といっても、パラパラとめくるだけ。
この頃、原英史×高橋洋一の新書がこの新聞の3面下広告に載っていて、
気になっていたので昨日注文したら、今日のお昼に届きました。
「利権のトライアングル」(産経セレクト・令和6年6月24日発行)。

はい。高橋洋一氏が7ページほどの『はじめに』を書いています。
うん。その『はじめに』の最後を引用しておきます。

「 ・・・マスコミと国会議員がつるむと違う。
  火のないところにも火をつけて火事にできるのだ。

  まったくおそろしい時代になったが、いいこともある。

  今やSNSを使って、個人でも巨大組織のマスコミや
  巨大権力の国会議員とも闘える。
  原さんの勝訴はその闘いの結果でもある。  」 ( p9 )


はい。私は『はじめに』を読めただけで、もう満足しています。
何をいっているのやら。うん。世の中には『いいこともある』。

ということで、あとがきにあたる、原英史氏の『おわりに』の
出だしの箇所を最後に引用しておくことに。

「毎日新聞のデタラメな記事が出たのは2019年6月11日でした。
 その後も毎日新聞は連日、一面トップで私の『悪事』を報じました。
 
 数日後に森ゆうこ・前議員らにより野党合同のヒアリングが結成され、
 国会での誹謗中傷も始まりました。・・本当にひどい目にありました。

 それからもう5年が経ちました。
 長い時間がかかりましたが、毎日新聞と国会議員を相手取った
 訴訟は、ようやくすべて勝訴で終えることができました。  」(p203)

「 これは私自身のためではなく、日本の未来のための戦いなのです。 」
                             (p209)


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『ノウサギ日記』

2024-05-05 | 前書・後書。
キチンと本を最後まで読まない私なのですが、
これはもう直しようがないと思っております。

この前、古本で買った
高橋喜平著「ノウサギ日記」(福音館日曜日文庫・1983年)は
函入りで、表紙は子ウサギが後ろ足で立っている写真。
うん。いいね。本の最後には50ページほどの河合雅雄氏の解説。
この解説を読めただけで私は満腹。
また、そこだけでも再読してみたいのですが、
とりあえずは、解説からすこし引用しておきたくなりました。
二箇所引用。最初はこの箇所。

「動物好きの人は、世の中にはごまんといる。
 犬や猫をペットにして飼っている人は、何百万人におよぶだろう。
 しかし、高橋さんのような日記をものした人は、
 ほとんどいないにちがいない。

 なぜなら、高橋さんはたんなるペット好きなのでなくて、
 心からの自然愛好者――ナチュラリストだからである。

 この日記を見て感動を覚えるのは、
 ナチュラリストとしての高橋さんの人柄であり、
 動物に対する視点のたしかさ、
 すぐれた科学的な観察眼がもたらすものである。

 そこには、自然に対する温かい心と動物に対するやさしさとともに、
 動物の生態に対する鋭い目と洞察があり、独自の解釈が行なわれる。
 これこそナチュラリストの本領だといわねばならない。 」(p268~269)


さてっと最後に引用する箇所は、
この長い解説の終わりの箇所にあたります。
そこでは、今西錦司の「都井岬(といみさき)のウマ」に触れて
河合さんは読んだときの感想を記しております。

「この著作は、毎日のフィールドノートをそのままに写したようなものである。
 動物社会学の創始者である今西さんの最初の動物記であるから、
 期待に満ちた心躍らせてページをめくるうちに、しだいに
 速度が落ちてくる。そして、なにがなんだかよくわからなくなってくる。」
                          ( p308 )
このあとに、その今西氏の文を数行引用して説明しておりました。
そのあとでした。

「このごろの動物の行動に関する論文を読むにつれて、
 今西さんがこのとほうもない文体によってなにを主張し、
 なにを訴えようとしていたかが、ますます明瞭になてきたと思う。

 動物の行動や社会関係を表わすのに、最近は厳密で正確な数量的表現と、
 それにもとづく分析が要求される。2分ごとの行動をチェックし、
 それをまとめて個体の行動型を表記するといったことが、
 普通のレベルで行われている。

 このことはもちろん、非難されるべきことではない。
 しかし一方、科学的な精密さ、分析のメスの鋭さを競うあまり、
 いのちをもった動物の生きいきとした行動や生活のしかたが、
 どこかへ押しらやれてしまう、という状況が濃厚である。

 科学哲学者として著名なイギリスのホワイトヘッドが、
 最後の講演を行なったさい、『 精密なものはまやかしである 』
 とぼそっといって壇を降りたという話を、
 鶴見俊輔さんが書いておられたのを思い出す。
 彼は、分析のいきすぎが全体像を見失う危険を警告したのであろう。」
                   ( p309~310 )

そして、いよいよ解説の最後です。

「『都井岬のウマ』は、科学の進歩が、生物の実像を失わしめる
 危険があることに対する予言的警鐘として、重要な意味を
 もっていると、今にしてつくづく思うのである。

 『ノウサギ日記』は、『都井岬のウマ』と同列の作品であるといえる。
 その意味で、この旧(ふる)い日記が現在に登場する価値の重さに
 あらためて思いおよぶのである。 」(p310)


はい。私はこの解説をめくってもう満腹。
本文を読まずにスルーしちゃういつもの私がおります。
ひとまず、本棚に置いて、つぎこそは・・・。

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そこで福田恆存が考えた。

2024-03-04 | 前書・後書。
昨日の朝注文した「福田恆存の言葉」(文春新書)が
昨日の午後6時過ぎ届く。ありがたい。
あとがきは、福田逸氏。そのはじまり

「・・本書は東京・本駒込にあった三百人劇場に於いて
 昭和51年(1976年)3月から開講された、『三百人劇場土曜講座』の
 第一回から第八回までを収録した。・・・

 福田恆存らが結成した現代演劇協会傘下の劇団『雲』が
 前年分裂し・・稼ぎ頭だった俳優たちが、ごっそり抜けた・・

 殊に三百人劇場という建物の維持に苦労したわけである。
 そこで福田恆存が考えた企画の一つがこの『土曜講座』で・・

 毎回二人の講演を行い、恆存が後半を受け持った。ちなみに、
 第一回の客員講師は小林秀雄、
 第二回が田中美知太郎、
 以下会田雄次、矢島鈞次、藤井隆、
 高坂正堯、林健太郎、山本健吉と続いている。・・・・

 ・・・いわば、四苦八苦、あの手この手で劇場維持と
 劇団昴の公演継続に邁進したわけである。『土曜講座』は
 いわばそれらの嚆矢(こうし)となったわけだ。 」(p217~218)

次に、この講演がCDになっていたことを紹介したあとに
CDのよさと利点を指摘したあとに、

「 活字を追うという行為には、立ち止まって考えたり、
  読み直したりできる利点もある。読者に沈思黙考
  する機会も与えられるのではあるまいか

 ( ただし、現在は音声配信サービス『LisBo(リスボ)』
   で、この連続講演を聴くことはできる )。 」(p219)


はい。何か、こうしてあとがきやまえがきを引用させてもらっていると
よく、本の帯に書かれた紹介文を、あえて私がつくっているような
そんな気がしてきたりもします(笑)。

ということで、『はじめに 古びない警句』浜崎洋介の
それこそはじまりの箇所を引用しておきます。

「 本書に収められた福田恆存の講演は、
  昭和51年の3月から、翌昭和52年の3月までの
  1年間のあいだになされたものである。

  年齢で言うと、63歳から64歳の福田恆存による講演
  ということになるが、脳梗塞で福田が倒れるのが、
  その4年後の昭和56年であることを踏まえると、
  記録として残されたものとしては、これが
 『 福田恆存(つねあり)、最後の講演録 』
  だと考えてよさそうである。 ・・・・    」(p3)


つぎは、ゆっくりとでも、本文を味わえますように。

 
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2冊の震災本。前書・後書。

2024-02-28 | 前書・後書。
安房郡の関東大震災を語るときに、
『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』の2冊が
材料の宝庫でした。

『安房震災誌』の編者・白鳥健氏の言葉を紹介しておくことに。

「 終に私(白鳥)が安房郡役所の嘱託によって、
  本書の編纂に干与したのは、震災の翌年のことであったが、
  当時は各町村とも、震災の跡始末に忙殺されてゐた・・・・

  若し此の小さき一編の記録が、我が地震史料の何かの
  役に立つことがあれば・・・    」と凡例の最後に記しております。

また、安房郡長・大橋高四郎氏は、『安房震災誌』が完成した際には
前安房郡長という肩書で「安房震災誌の初めに」を書いております。
その最後にはこうありました。

「・・本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、
  資料も亦た其處に一段落を劃したのである。

  そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
  挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにしたのであった。

  今編纂成りて当時を追憶するば、身は尚ほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。
  聊か本書編纂の大要を記して、之れを序辞に代える。  
           大正15年3月     前安房郡長 大橋高四郎    」


ここには、もう一冊の『大正大震災の回顧と其の復興』からも引用。

 『 編纂を終へて  編者 安田亀一 』(上巻・p978~989 )から
 そのはじまりを引用しておきます。

「千葉県の大震災に何の関係もない私が、その震災記録を編纂することになった。
 而してそれが災後8年も経ってゐる(引受けた時)ので、
 その材料の取纏めや当時の事情の一通りを知る上に、
 多少の苦心なきを得なかった。それにも拘わらず私は、
 このことを甚だ奇縁とし、且つ光栄とするものである。

 あの当時私は大震災惨禍の中心たる帝都に在って、
 社会事業関係の仕事に従事してゐた。
 しかも救護の最前線に立って、一ヶ月程といふものは、
 夜も殆ど脚絆も脱がずにごろりと寝た。
 玄米飯のむすびを食ひ水を飲みつつ、
 朝疾くから夜遅くまで駆け廻った。

 頭髪の蓬々とした眼尻のつり上った垢まみれの破れ衣の人々が、
 右往左往する有様や、路傍や溝渠の中に転がってゐる焼屍体の臭気が、
 今でも鼻先にチラついてゐる。

 電車で本所の被服廠前を通るにも、
 私は心中に黙祷することを忘れないのである。

 そんな関係で、ここに大震災の記録を綴ることは、
 何か知ら私に課せられてゐる或る義務の一部を履行するやうな気がしてならない。」  
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プロの読み手。

2024-01-30 | 前書・後書。
安岡章太郎著「犬をえらばば」(講談社文芸文庫・2013年4月10日)。
注文してあったこの文庫が、今日届く。

この文庫の最後は年譜でした。その年譜の最後。
『 2013年(平成25年)1月26日、老衰により逝去。享年92。 』

さてっと、この文庫解説は小高賢です。
うん。その解説を引用したいのですが、ここは回り道。

藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社・2011年)
から引用。

「説得力のある文章を書くためには、
 誰に向けて書くのか、つまり読み手の想定が大切です。
 読み手が複数いる場合は、全員ではなく特定の一人に絞ること。

 できるだけ具体的に読み手の顔を思い浮かべたほうが、
 当たり障りのない内容から一歩踏み込んだ表現ができて、
 文章の説得力も高まります。  」(p29)

この次のページに、編集者が登場しておりました。

「プロの書き手は、その点で恵まれているのかもしれません。
 読者の前にまず編集者というプロの読み手がいるので、
 原稿用紙に向かえば否応なしにその顔が思い浮かびます。
 まず編集者を納得させることができるかどうかが第一関門になるわけです。」
                        (p30)


はい。それでは、講談社文芸文庫の小高賢氏の解説。
まずは、その最後から引用。

「 編集者として私が、お宅へ伺いだしたのは、
  安岡が60歳すぎてからである。
 『第三の新人』の仲間が、それぞれ病気がちになってきた頃である。
 『だんだんおもしろいことがなくなって、結局、原稿に向かっているのだ』
  と、ときおりつぶやいていた。友人との時間がなくなってきたことへの
  寂しさがあったのかもしれない。

  多くの友人の弔辞を読み、見送った安岡章太郎は
  2013年1月26日午前2時35分、家族に囲まれて自宅で亡くなった。
  ・・・・     」(p233)

 あとになりましたが、この小高賢氏の解説のはじまりを、
 最後に引用しておくことに。

「 本書(「犬をえらばば」)の刊行は、
  1969(昭和44)年1月。ちょうど、東大の入試が中止となった年である。

  自筆年譜には、その前後、小説があまり書けなかったとある。
  そのかわり、数多くのエッセイが執筆され、また、
  『志賀直哉私論』などの作家論の他に、文芸時評、評論、
  さらには対談・旅行記・紀行・ルポ・時評・翻訳など、
  他ジャンルへ旺盛な越境がはじまっている。・・・

  いわゆる『第三の新人』のなかで、安岡ほど
  小説だけでなく、幅広くいろいろな領域に
  積極的に立ち向かった作家はいない。・・・・

  ・・・後年の作品の厚みは、こういうプロセスを経て
  次第に獲得され、深められたものであろう。
  いいかえると、ものを見る幅と重層性が生まれ、
  
 『流離譚』『大世紀末サーカス』『果てもない道中記』『鏡川』
  につながった。またみずからの足跡を繰り返し訪ね、掘り下げる作業が、
 『自叙伝旅行』から『僕の昭和史』となって結実する。・・・・・・

 『 一見みおとしやすい日常的な卑近な現象から、
   ものごとの本質に迫ってゆくところに、安岡の
   軽妙な認識力があることだけはうたがいがない 』(平野謙)・・

  小島信夫に『 そのうち彼は急速に大人になった。
         それは旅行記やエッセイという「方法」でである。 』
  という鋭い観察がある。小島のように、
  この時期の多方面への跳躍が、後年の仕事につながった
  と考えるほうが自然だろう。・・・ 」(p220~p224)

はい。『編集者というプロの読み手』が書く解説というのが
これなんだなあと、そんなことを思いながら解説だけ読みました。
 
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地方的東京人。地方的文化人。

2023-12-30 | 前書・後書。
注文した扇谷正造著「諸君!名刺で仕事をするな」(PHP文庫)古本届く。

扇谷正造氏は、1913年(大正2年)宮城県生まれ。
巻末の著者紹介には、1935年朝日新聞入社~1968年退社。
この単行本は、1975年(昭和50年)に出版されておりました。

扇谷氏が退職されてからの講演などが掲載されているようです。
ここには、旧版の「序に代えて」を引用してみることに。

「肩書とか会社名などというものは、いわば風袋(ふうたい)で、
 風袋をとったところに、人間の真価がでてくる。
 ビジネスマンの勝負は、だから、ほんとうは
 『 定年で会社を辞めてから 』ともいえるかも知れない。」

退社しての扇谷正造氏の意気込みが吹き込まれているような一冊。
序に代えてには、こうもありました。

「『 名刺で仕事をするな 』というのは、
 今からちょうど40年前の昭和10年、私が朝日新聞に入社した時、
 いわれたことばである。編集局長は、あとで社長になった
 故美土路昌一氏で、このことばは、たしか、美土路さんの提言
 ということであった。以来、40年、私はいろいろな人に会い、
 さまざまな本を読んだが、ビジネスマンのことばとして、
 これにまさるものはない。と思っている。  」

パラリとひらくと、第三部『千年樫の下に』という半自伝的な箇所に
ひかれるものがありました。それについても「序に代えて」にあります。

「考えてみれば、私のような人間は、≪ 地方的東京人 ≫とか
 ≪ 地方的文化人 ≫というのだそうである。

 青少年時代を地方ですごし、長く東京生活をやっていても、
 その≪根≫は、生れ故郷にしっかり結びつけられている
 人間というわけである。すると、自分の人間形成というものは、
 いったい、どういうところから来ているのだろうか・・それもまた、
 いま地方からでてきて、東京や大阪などに働く若い人たちに
 何かの参考にならないだろうか、という思いが、第三部をまとめさせた。」


はい。私は題名のみ、昔から存じていたような気がします。
けれども、この本を手にとったのは、これがはじめてです。
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門松とツリー。

2023-12-14 | 前書・後書。
ネット「日本の古本屋」で名前検索をしていると、
解説だけの本までも、検索にひっかかってくれて、
はじめて知る人の本の検索に私にはとても有難い。

たとえば、『 吉田光邦 』の名で検索すると、
中央公論刊「日本絵巻大成」の第8巻「年中行事絵巻」がひっかかる。
その最後の解説を吉田光邦氏が書いているとわかる。とっても有難い。

日本絵巻大成全20巻には、巻末解説をいろいろな方が書かれているけど、
吉田光邦氏が書いているのは、この第8巻のみ。この機会にさっそく読む
(のちに絵巻大成は、続編も追加されているようです)。

それはそうと、「日本絵巻大成」には、毎回の月報を宮本常一が書いており、
月報をまとめ、「絵巻物に見る日本庶民生活誌」(中公新書)として出てる。
中公新書のは、以前にたのしく拝見したことがありました。

はい。日本絵巻大成第8巻の月報から、今回は引用してみることに。

「・・・町家の前に門松が立てられている。・・・
 興を覚えるのは、宮廷や貴族の門の前には立てられていない。

 これは、民衆の間にのみ見られる習俗だったのだろうか。

 門松は正月の神を迎えるための木ということになっており、
 この絵巻では松が立てられているが、土地によっては
 ツバキ・サカキ・シイなども用いられている。
 東京都府中市では笹竹のみを立て、松は用いていない。

 門松を立てるのは、日本のみではなく、中国の北部などにも見られ、
 そこではモミを立てているようであり、中尾佐助氏の『秘境ブータン』
 によると、ブータンでも門松を立てている。
 ただし、これは二本ではなく数が多いようである。

 日本では、門松のほかに、家の中に拝み松というのを立てるところが多い。
 東北などでは広く、これを見ることができるが、もとは奈良・京都付近の
 農家でもみなこれを立て、その松を拝み、その前で正月の酒を汲み交わした。

 そうすると、キリスト教におけるクリスマスツリーとたいへん近いものになる。
 これはモミ・ツガを主とするが、北欧の古い農耕儀式がキリスト教に結びついた
 ものと故渋沢敬三先生は言っている。

 これは優れた指摘であり、正月に松を立てることは、
 どうやら広く世界各地に見られた習俗のようである。 」

 ( 「日本絵巻大成」第11回配本・第8巻 月報11の、p1 )
 ( 「絵巻物に見る日本庶民生活誌」中公新書では、p214∼217 )
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職人像への切り口。

2023-12-01 | 前書・後書。
注文の古本・吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店・昭和41年)届く。
とりあえず本が手許に届けば、もうそれだけで安心して読まなくなる私。

けれどこの本の『あとがき』だけは、しっかり引用したくなりました。
テレビ東京だったか、外国人が、日本の職人さんへ数日間弟子入りして
その家庭などで食事をしたりして帰ってゆくという番組がありますよネ。

たまにしか見ないけども、思わず心持ちが緩むようで印象に残っております。
「日本の職人像」の「あとがき」を読むと、そのテレビを思い浮かべました。
ということで、ここに本の『あとがき』の全文を引用しておくことに。


「 河原書店主からこの書のおすすめを受けたのは、わたくしが
  三度めの西アジアの旅から戻って、報告書を書いているころであった。

  西アジアでわたくしはずっと手工業の技術を調べてつづけていた。
  陶工、金工、木工・・・それらの仕事に従う人びとは、みなわたしが
  これまで接してきた日本の職人たちと全く同じ人びとであった。

  自分の仕事、技術に誇りをもち、しかも貧しい暮らしに甘んじながら
  うすぐらい工房で黙々と終日働きつづける人であった。

  彼らはこの異邦の旅人に、こまかに工程を語り、自分の作品を見せ、
  時には食事まで用意してくれる。その細やかな心づかい、
  人間はどこへ行っても人間であった。

  そんなことを考えながら、もういちど日本の職人像をたしかめようと、
  すこし歴史的な経過を追ってこの書物を書いてみた。


  すでに職人論を二冊ほど書いている。
  それらとはまたちがった資料と視角で構成したのが本書である。
  
  貧しく寂しい暮らしに閉じこめられつつ生きてきた
  日本の職人たちに、関心をよせられる方は、

  小著『日本の職人』(角川)、『日本技術史研究』(学芸出版社)を
  合わせて参照していただければ幸いである。

  最後にこの書の出来上るについての河原書店の方がたの
  お骨折に御礼申し上げる。

                  1966年5月  吉田光邦 」


ちなみに、発行所河原書店住所は、京都市中京区高倉通三条下ルとあります。


  
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