竹山道雄著作集3「失われた青春」の月報は、
まず、河盛好蔵氏の文からでした。
「昭和12、3年頃だったと思う。その頃私は三日にあげず片山敏彦君の家へ遊びに行っていた。」と河盛氏は、はじめております。
「当時片山君は一高でドイツ語を教えていたが、あるとき、いつものように、独仏の詩人たちの著書のいっぱいつまっていた片山君の書斎で駄弁っているところへ一人の紳士の来客があった。それが一高で片山君と同僚の竹山道雄さんであった。」
「・・・立派な人、というのが私の最初の印象であった。そしてこの印象はその後も深まるばかりであった。竹山さんの教養の豊かさにも感心させられた。片山君との会話を聞いていると、西欧のすぐれた知識人たちのサロンにいるような気持がした。
当時はヒットラー礼讃の声がそろそろわが国にも高まり、ドイツ文学者のなかにもナチス文化の太鼓を持つ連中の現われ出した頃であったから、両氏のヒットラーやナチズムの批判は痛烈を極め、共鳴するところが多かった。・・・両氏は、当時のドイツ文学者のなかで最後まで徹底してナチスを憎み嫌った数少ない明哲の士であった。それ以来私は竹山さんに親しくして頂いている・・・・」
ちなみに、
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」の註(p156)に
「なお高田里惠子がナチス讃美の日本の独文学者を糾弾した『文学部をめぐる病い』(2001年)で、ナチス反対の人々に言及しないのは全体像をとらえきれておらず残念なことである。」という箇所があります。
2001年になっても、まだ、片山敏彦や竹山道雄の立ち位置は理解されていないようだとわかります。
もどって、河盛好蔵氏の文の最後には、こうありました。
「私が戦後、『新潮』の編集に参加したとき、こんどの戦争で、わが国の学生たちと同じように戦ったナチの若者たちのことを知りたいと思い、ナチスについて詳しい竹山さんに、『失われた青春』という標題もこちらで用意して原稿を依頼した。それが昭和21年3月号の『新潮』に発表された・・これは、非常な好評を博し、以後竹山さんは『新潮』の大切な寄稿家になった。ナチス時代のドイツに題材をえた秀作には『憑かれた人々』などもあり、竹山さんの独壇場であるが、これらの作品は正宗白鳥さんも高く買われて、私に賞めていられたことを思い出す。・・・」
この月報は、あとに
「河盛好蔵 私の随想選」第五巻(新潮社)に、収められておりました。
ところで、「河盛好蔵 私の随想選」第7巻の「終戦前後」(p240~245)には、こんな箇所がひろえます。
「ともかく一日も早く何か職業を見つけなければならない。終戦のとき私は43歳で、小学校六年生の長女以下四人の子供がいた。私にできることは学校の教師か、翻訳ぐらいしかないが、教師の口などは早急に見つかるものではない。・・・
ところが幸いなことに、昭和20年の2月から、当時新潮社の出版部に勤めていて、以前から懇意にしていた斎藤十一君が、家族を疎開させてひとりぐらしで不自由をしている私を憐れんで、夫婦で私の家に移転してきてくれていた。おかげで、私はどんなに助かったか分らない。戦争末期を餓死もせずに生きのびることができたのは斎藤夫婦のおかげであったと、今でも深く感謝している。その斎藤君が、私のぶらぶらと遊んでいるのを見て、新潮社に入って、雑誌『新潮』を編集してみないかとすすめてくれた。・・・それからは、毎日、斎藤君を相手に復刊第一号のプランを練った。・・・
20年11月号から『新潮』を復刊したのである。この号は非常な好評を博した。軽井沢に疎開していた堀辰雄君が、わざわざハガキをくれて、『すべり出し甚だ好調、どうかこの調子でやって下さい』と激励してくれたときの嬉しさを今でも忘れることができない。それから二年間、私は夢中になってこの雑誌のために働いた。私の一生のなかで最も充実した毎日であった。」
そうそう。「新潮社七十年」という社史も、河盛好蔵氏が文をまとめて書いておりました。
まず、河盛好蔵氏の文からでした。
「昭和12、3年頃だったと思う。その頃私は三日にあげず片山敏彦君の家へ遊びに行っていた。」と河盛氏は、はじめております。
「当時片山君は一高でドイツ語を教えていたが、あるとき、いつものように、独仏の詩人たちの著書のいっぱいつまっていた片山君の書斎で駄弁っているところへ一人の紳士の来客があった。それが一高で片山君と同僚の竹山道雄さんであった。」
「・・・立派な人、というのが私の最初の印象であった。そしてこの印象はその後も深まるばかりであった。竹山さんの教養の豊かさにも感心させられた。片山君との会話を聞いていると、西欧のすぐれた知識人たちのサロンにいるような気持がした。
当時はヒットラー礼讃の声がそろそろわが国にも高まり、ドイツ文学者のなかにもナチス文化の太鼓を持つ連中の現われ出した頃であったから、両氏のヒットラーやナチズムの批判は痛烈を極め、共鳴するところが多かった。・・・両氏は、当時のドイツ文学者のなかで最後まで徹底してナチスを憎み嫌った数少ない明哲の士であった。それ以来私は竹山さんに親しくして頂いている・・・・」
ちなみに、
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」の註(p156)に
「なお高田里惠子がナチス讃美の日本の独文学者を糾弾した『文学部をめぐる病い』(2001年)で、ナチス反対の人々に言及しないのは全体像をとらえきれておらず残念なことである。」という箇所があります。
2001年になっても、まだ、片山敏彦や竹山道雄の立ち位置は理解されていないようだとわかります。
もどって、河盛好蔵氏の文の最後には、こうありました。
「私が戦後、『新潮』の編集に参加したとき、こんどの戦争で、わが国の学生たちと同じように戦ったナチの若者たちのことを知りたいと思い、ナチスについて詳しい竹山さんに、『失われた青春』という標題もこちらで用意して原稿を依頼した。それが昭和21年3月号の『新潮』に発表された・・これは、非常な好評を博し、以後竹山さんは『新潮』の大切な寄稿家になった。ナチス時代のドイツに題材をえた秀作には『憑かれた人々』などもあり、竹山さんの独壇場であるが、これらの作品は正宗白鳥さんも高く買われて、私に賞めていられたことを思い出す。・・・」
この月報は、あとに
「河盛好蔵 私の随想選」第五巻(新潮社)に、収められておりました。
ところで、「河盛好蔵 私の随想選」第7巻の「終戦前後」(p240~245)には、こんな箇所がひろえます。
「ともかく一日も早く何か職業を見つけなければならない。終戦のとき私は43歳で、小学校六年生の長女以下四人の子供がいた。私にできることは学校の教師か、翻訳ぐらいしかないが、教師の口などは早急に見つかるものではない。・・・
ところが幸いなことに、昭和20年の2月から、当時新潮社の出版部に勤めていて、以前から懇意にしていた斎藤十一君が、家族を疎開させてひとりぐらしで不自由をしている私を憐れんで、夫婦で私の家に移転してきてくれていた。おかげで、私はどんなに助かったか分らない。戦争末期を餓死もせずに生きのびることができたのは斎藤夫婦のおかげであったと、今でも深く感謝している。その斎藤君が、私のぶらぶらと遊んでいるのを見て、新潮社に入って、雑誌『新潮』を編集してみないかとすすめてくれた。・・・それからは、毎日、斎藤君を相手に復刊第一号のプランを練った。・・・
20年11月号から『新潮』を復刊したのである。この号は非常な好評を博した。軽井沢に疎開していた堀辰雄君が、わざわざハガキをくれて、『すべり出し甚だ好調、どうかこの調子でやって下さい』と激励してくれたときの嬉しさを今でも忘れることができない。それから二年間、私は夢中になってこの雑誌のために働いた。私の一生のなかで最も充実した毎日であった。」
そうそう。「新潮社七十年」という社史も、河盛好蔵氏が文をまとめて書いておりました。