和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『読んで損はない』

2024-01-31 | 書評欄拝見
私の本読みは、パラパラ読み専門。
それも、最初から読まずに、勝手口から読み始めるような変則。
それでも、印象に残る箇所があれば、そこだけ読み返してみる。
その本に、印象深い箇所がたび重ると、あらためて読み始める。
うん。最近はそんな感じの読書をしているような気がしてます。


せっかく、藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)を
ひらいたので、パラパラとめくってゆくと、こんな箇所がある。

「 推敲は必ず紙にプリントアウトしてから行います。  
  不思議なものですが、同じ文章にもかかわらず、
  紙で推敲すると画面で見た場合と比べて何倍もの粗(あら)が見えてきます。・・・
  文章そのものの稚拙さも紙のほうがはっきりと浮かび上がる気がします。」(p128)


あれれ~。こうしてブログに打ち込んでいると、すっかり忘れてしまってますが、
たしかに、文章を書こうとした場合に、私も紙にプリントアウトして推敲します。

うん。読む。打ち込む。書く。というのを
『推敲』という視点から考え直してみたい。
まあ、そんなことがふと思い浮かびました。

そういえば、ちっとも読まずにいた積読本にも、
あらためて、光をあてる一手間作業が必要かも。
書評を読んでいると、推敲とはちがうのですが、
新しく本を掘り返してくれている気になります。


くだくだ能書きをつらねました。こんな書き出しは、
はじめから読まなくてもよい見本みたいなものです。

福田恆存著「私の幸福論」(ちくま文庫)というのを
だいぶ以前に購入してありました。私のことですから、
おそらく、何かの書評で興味をもって、購入したはず。
ですが、ひらかずそのまま本棚にしまってありました。

産経新聞の読書欄「産経書房」(2024年1月28日)の
『ロングセラーを読む』で「私の幸福論」が取り上げられてました。

はじまりの方にはこうありました。

「・・・令和の時代まで読み継がれている。
 それが今回紹介する福田恆存(つねあり・1912∼1994年)の
 名著『私の幸福論』だ。平成10年にちくま文庫になり、昨年で23刷に。・・・」

はい。この文の最後が引用しておきたくなるのでした。

「 ・・・腹が決まったとき、
  やるべきことをやりきったとき、
  人は凛とした、落ち着きを覚えるはずだ。
  多くの情報に翻弄されがちなSNS全盛時代、
  自分の道を一歩踏み出すためにも読んで損はない。 」


はい。福田恆在氏の文は、以前に読もうとしたのですが、
私は読めなかった。読めなくても名前は気になっていた。
おそらくそこで簡単に読めそうな文庫『私の幸福論』を、
買ったのだろうと、忘れていた購入動機を思うのでした。

この機会でもって未読本を既読本へと置き換えるチャンス。
未読なので読書本の推敲をしているような気分になります。






 
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プロの読み手。

2024-01-30 | 前書・後書。
安岡章太郎著「犬をえらばば」(講談社文芸文庫・2013年4月10日)。
注文してあったこの文庫が、今日届く。

この文庫の最後は年譜でした。その年譜の最後。
『 2013年(平成25年)1月26日、老衰により逝去。享年92。 』

さてっと、この文庫解説は小高賢です。
うん。その解説を引用したいのですが、ここは回り道。

藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社・2011年)
から引用。

「説得力のある文章を書くためには、
 誰に向けて書くのか、つまり読み手の想定が大切です。
 読み手が複数いる場合は、全員ではなく特定の一人に絞ること。

 できるだけ具体的に読み手の顔を思い浮かべたほうが、
 当たり障りのない内容から一歩踏み込んだ表現ができて、
 文章の説得力も高まります。  」(p29)

この次のページに、編集者が登場しておりました。

「プロの書き手は、その点で恵まれているのかもしれません。
 読者の前にまず編集者というプロの読み手がいるので、
 原稿用紙に向かえば否応なしにその顔が思い浮かびます。
 まず編集者を納得させることができるかどうかが第一関門になるわけです。」
                        (p30)


はい。それでは、講談社文芸文庫の小高賢氏の解説。
まずは、その最後から引用。

「 編集者として私が、お宅へ伺いだしたのは、
  安岡が60歳すぎてからである。
 『第三の新人』の仲間が、それぞれ病気がちになってきた頃である。
 『だんだんおもしろいことがなくなって、結局、原稿に向かっているのだ』
  と、ときおりつぶやいていた。友人との時間がなくなってきたことへの
  寂しさがあったのかもしれない。

  多くの友人の弔辞を読み、見送った安岡章太郎は
  2013年1月26日午前2時35分、家族に囲まれて自宅で亡くなった。
  ・・・・     」(p233)

 あとになりましたが、この小高賢氏の解説のはじまりを、
 最後に引用しておくことに。

「 本書(「犬をえらばば」)の刊行は、
  1969(昭和44)年1月。ちょうど、東大の入試が中止となった年である。

  自筆年譜には、その前後、小説があまり書けなかったとある。
  そのかわり、数多くのエッセイが執筆され、また、
  『志賀直哉私論』などの作家論の他に、文芸時評、評論、
  さらには対談・旅行記・紀行・ルポ・時評・翻訳など、
  他ジャンルへ旺盛な越境がはじまっている。・・・

  いわゆる『第三の新人』のなかで、安岡ほど
  小説だけでなく、幅広くいろいろな領域に
  積極的に立ち向かった作家はいない。・・・・

  ・・・後年の作品の厚みは、こういうプロセスを経て
  次第に獲得され、深められたものであろう。
  いいかえると、ものを見る幅と重層性が生まれ、
  
 『流離譚』『大世紀末サーカス』『果てもない道中記』『鏡川』
  につながった。またみずからの足跡を繰り返し訪ね、掘り下げる作業が、
 『自叙伝旅行』から『僕の昭和史』となって結実する。・・・・・・

 『 一見みおとしやすい日常的な卑近な現象から、
   ものごとの本質に迫ってゆくところに、安岡の
   軽妙な認識力があることだけはうたがいがない 』(平野謙)・・

  小島信夫に『 そのうち彼は急速に大人になった。
         それは旅行記やエッセイという「方法」でである。 』
  という鋭い観察がある。小島のように、
  この時期の多方面への跳躍が、後年の仕事につながった
  と考えるほうが自然だろう。・・・ 」(p220~p224)

はい。『編集者というプロの読み手』が書く解説というのが
これなんだなあと、そんなことを思いながら解説だけ読みました。
 
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「安岡章太郎」覚書。

2024-01-29 | 道しるべ
関東大震災は、大正12年9月1日。
安房郡でその記録「安房震災誌」が出来たのは大正15年3月。

読んでないのですが、安岡章太郎著「僕の昭和史1」は
こうはじまっておりました。

「僕の昭和史は、大正天皇崩御と御大葬の記憶からはじまる。
 天皇の崩御は大正15年12月25日、御大葬は翌昭和2年2月7日・・・」

今回古本で注文したのは
安岡章太郎対談集「対談・僕の昭和史」(講談社・1989年)。
カバーもきれいな単行本がとどきました。
この対談集の最後には、田村義也氏との対談がありました。
田村義也といえば、

「安岡さんの著書の大半が田村義也装丁である。・・・・
 『僕の昭和史』(全3巻)と『対談・僕の昭和史』の装丁・・・

 第一巻が『ゴールデンバット』、第二巻が『ピース』、
 第三巻が『セブンスター』、対談集が『光』であったが、
 タバコのデザインも時代によって少しずつ違っている・・・・

 田村さんの装丁も・・・精興社の活版印刷のよさも生きた、
 とても素晴らしい出来ばえであった。 」
( p230  鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」 )

うん。『対談・僕の昭和史』が古本でも新刊並みの綺麗さで、
その素晴らしい出来ばえが味わえました。

それはそうと、田村義也・安岡章太郎の対談のなかに
興味深い箇所があったので、忘れないように引用しておきます。

安岡】 最近僕は、小説は文学の中心ではないように思いはじめている。
   これまでずっと小説が文学の中心だったわけだけど、一般に
   そういう考え方は変わってくるんじゃないかな。
   僕自身かなり変わってきていますけれど、
   伝記とか紀行とかいうものに対する関心が、ずっと大きくなりましたね。
   自分のことをいっていいかどうかわかりませんが、
   アメリカから帰ってきて書いたものの中では、やっぱり
  『志賀直哉私論』が大きいんですね。・・・・・・

田村】 あの本については、僕にも思い出があってね。
   岩波にいた頃のことなんだけど、小林勇さんがやってきて、
  『おれはきのう大変なことになった』と興奮していう。

   小林さんは、前の晩に、安岡さんが『文学界』に連載していた
   『志賀直哉私論』を読みだして大興奮したらしいんですね。
   たまたま一冊読みだしたら止められない。押し入れの中に
   積み重ねてあった雑誌のバックナンバーを探し出して必死に読んだ、
   そして、すごくおもしろかった、という・・・・

安岡】 僕は後でそれを聞いてうれしかったんだけど、とにかく
    あれは小林さんが70歳ぐらいのときですよ。
    その歳の人が文芸雑誌を引っくり返して読んでくれる
    というのはうれしかったね。
       ・・・・

安岡】 あのあと『流離譚』を書いたでしょう。
    あれは『志賀直哉私論』とほとんど同じ書き方です。
                       (p259~261)


話しは逸れるのですが、編集者・鷲尾賢也氏の文のなかに

「 調子にのると、安岡(章太郎)さんは おかしな格好になる。
  相撲の蹲踞(そんきょ)のように腰を浮かせて書くのである。
  そうなったらしめたもので脱稿も間近い。・・・」
  ( p229  鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」 )

という箇所があって、気になっていたのですが、
どうしてそんか姿勢になるのかが、今頃になって判明しました。

世界文化社の一冊に、安岡章太郎著「忘れがたみ」があり、
私は読んでいないのですが、目次の次のページの写真。
それは、机に向かって執筆している写真なのですが、下に説明がある。

「昭和34年(1959年)頃の著者
 まだ脊椎(せきつい)カリエスが完治せず、坐っての執筆は無理だった。」

なあんだ。蹲踞の姿勢で執筆するのは、病気が原因だったのだ。


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人心の動揺底止まりする所を知らざる時。

2024-01-28 | 地震
関東大震災を記録した「安房震災誌」をひらき、

未曽有の関東大震災に見舞われた人心の動揺を
どのように言葉で現わしたかを拾ってみました。

館山町役場報に掲載された言葉がありました。

「  余震はひんぴんとして来たり、
   海嘯の噂はひんぴんとして起り、
   不逞漢襲来の叫びはひんぴんとして伝えられ、
   人心は不安と恐怖とに襲われて、
   ほとんど生きた心地もなく、
   平静の気合は求めようとしても求められず、
   ただ想像力のみ高潮して戦々兢々としていた時であった。 」


話しは変るのですが、産経新聞2024年1月28日のオピニオン欄
「新聞に喝!」藤原かずえさんの文が印象に残りました。
令和6年能登半島地震の発生にともない・・・
北陸電力は発生直後から被害の調査を開始し、
その結果と逐次速報して・・・

さて、藤原かずえさんは
「一部のマスメディアは公表された施設の被災状況を
 不相応に問題視し、センセーショナルな見出しで
 一般市民の不安を不必要に煽る報道を展開しています。」

として、東京新聞と、毎日新聞の例をとりあげておりました。

「1月13日付東京新聞は『震度5強の志賀原発で「想定外」続々』と題し、
 変圧器の故障で外部電源の一部の受電が止まったことなどを
 『想定外』と報じました。

 しかしながら、敷地外の山林を通過する外部電源の喪失は、
 原発にとって明確に『想定内』の事態です。

 事実、志賀原発では、外部電源の喪失に供えて
 多様かつ多重な非常用電源・・が待機していました。・・
 ちなみに外部電源5回線のうち3回線が今でも受電可能なので、
 非常用電源の使用には至っていません。 」

毎日新聞については、こうあります。

「北陸電力は、大地震発生当時の施設全体の概査を基に速報した
『推定値』を、翌日以降の個別の精査に基づき確度の高い数値に
 更新しました。この至極常識的な事業継続計画対策を

『情報が二転三転』(毎日新聞)などとして、
 現場や被災地の混乱をいたずらに増長する報道が散見されました。」


もどって、これから関東大震災級の地震が、関東全域に起った場合に、
からならず、流言蜚語が飛び交うわけですが、
とりあえず、東京新聞・毎日新聞は、今から除外してかかることにします。

さてっと、大正12年9月1日の関東大震災です。
大正13年1月26日に安房郡長・大橋高四郎は、
青年団・消防団へと感謝状を出しておりました。
最後に、その文面を引用しておきたくなります。

       感謝状

 前古未曽有の震災にあたり
 本郡の被害は実にその極に達し
 土地の隆起陥没相次ぎ
 家屋の倒潰せるもの算なく
 死傷者累々たるもこれを処置するに途なく
 災民飢を訴ふるも給するの食なく
 傷者苦痛に泣くも医薬給するあたわずして
 惨状見るに忍びざるものありき
 加ふるに流言蜚語盛んに伝わり
 人心の動揺底止まりする所を知らざるの時
 団員よく協力一致
 自己の被害を顧みずして
 あるいは死傷者の運搬に
 あるいは倒潰家屋の取り片付けに
 あるいは慰問品食料品衛生材料等の荷上げ配給に
 その他交通障害物排除
 または伝令に従事せる等
 その熱烈にして敏速なる奉仕的活動は
 まことによく青年団(軍人分会)の
 精神を顕著に発揮せるものにして
 本郡における災後整理並びに
 救護事業遂行上貢献せる所
 すくなからず
 ここに謹んで感謝の意を表す。
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書評の中の財務省。

2024-01-27 | 書評欄拝見
月刊Hanada令和6年3月号の書評欄をひらく。
「堤堯の今月の1冊」は
田村秀男×石橋文登著「安倍晋三vs財務省」(育鵬社)。
うん。どうせ私のことだから興味があっても読まないだろうと思っていた。
気になっていたけれどの一冊。それを書評で語っていただける有難さ。
うん。後半のここを引用。

「たとえば東日本大震災のおり、
 民主党の菅直人(かんなおと)政権は
 復興特別所得税(所得税の2・1%を徴収)を定めた。

 国家的規模の大災害なら、国債発行(国の借金)
 をもって対応するのが常識だ。

 なのに、民主党政権は被災者にも課税した。
 被災者にすれば踏んだり蹴ったりだ。
 振り付けたのは財務省で、このとき安倍(晋三)の胸に
 財務省への疑念が生じたという。

 昭和恐慌を高橋是清(これきよ)は国債発行で乗り切った。
 その高橋は大蔵(財務)では忌み嫌われている。
 高橋は軍事費削減を主張し、2・26事件で最も残酷な殺され方をした。

 高橋は日露戦争のおり、戦時国債をロンドン市場で売りさばき、
 戦費を調達した戦勝の大功労者だ。・・・・・

 救国の功労者を理解できない。令和のいま、
 財務省は安倍晋三を死んでもなお忌み嫌う。
  ・・・・・・・

 いままた岸田政権は財務省べったり。
 防衛費43兆円を増税で賄う。
 防衛は国のインフラだ。
 なのに建設国債で賄うとは考えない。
 これも財務法第四条の縛りから来る。 」(p165)


うん。読まないとしても、
対談で分かりやすそうだし、この本買っとくことにします。
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あの悲劇のなかで

2024-01-26 | 地震
月刊Hanada2024年3月号届く。
巻頭随筆で渡辺利夫氏と門田隆将氏が台湾を書いている。
それを紹介。まずは門田氏の台湾。

「・・極寒の能登で倒壊家屋の下敷きになった人が助かる確率は
 1月2日、3日の『二日間』のみといってよかった。
 圧倒的な数の倒壊家屋に、どれほど救出隊員が居ても足らない。

 ・・倒壊家屋の下から家族の命を救い出す専門家集団は、
 日本にも台湾にも存在する。この高度な救出ノウハウを
 台湾に伝えたのは、実は日本である。

 李登輝総統時代の1999年9月21日午前1時47分に発生した
 マグニチュード7・3の台湾中部地震。
 このとき日本は9月21日当日の内に救助隊の『先遣隊』、
『第一陣』、『第二陣』を送り込み、さらに翌日も『第三陣』
 を派遣した。・・・

 李登輝総統は感激。・・・のちに
『日本で何かが起こった時に真っ先に駆けつけるのは台湾だ』
 と言い切ったのである。・・・・ 」

 そのあとに、東日本大震災の台湾の経緯を記述したあとに、

「 今回も台湾救出隊の動きは早かった。
 能登半島地震発生およそ1時間後の午後5時過ぎには
 蔡英文総統がお見舞いと共に支援表明。
 約3時間後の午後7時過ぎには、総勢160人規模の
 捜索救助隊の派遣準備を整え、日本側に
 『要請があれば即座に派遣可能』と伝達した。・・・・・

 日本側からは、受け入れ受諾の回答がなく、
 そのまま台湾救助隊は『待機』となった。
 約2日間の待機ののち、1月3日午後2時過ぎ、
 台湾救助隊は待機を『解除』したのである。・・・

 岸田政権は『台湾だけではなく、一律に外国の援助隊は
 受け入れていない』と、時系列を完全に無視した弁明をおこなったが、

 台湾外交部による
『台湾側は日本政府の災害援助計画を十分理解し、尊重している』
 との大人の対応に救われた形になった・・・ 」(p28~29)

ここにある【 時系列を完全に無視した弁明 】というのは、
「・・・翌日、そして二日後に援助表明した中国や韓国と『同列に』
 結局、受け入れられなかった。」ことを指摘しているのでした。

この表明で、のちの災害もまた、曖昧なままに継続されることになります。

この3月号には、ちがう視点から『台湾』が語られており
読み甲斐がありました。それが渡辺利夫氏の文です。
氏の文は1月号からつづいておりました。
遠回りして、まずは1月号「後藤新平の大仕事」のはじまりだけ引用。

「自然災害や感染症のことを語る時、
 遠い明治のあの時代にあって、
 日清戦争後の検疫事業に精出し、
 関東大震災に遭遇しては帝都復興をスローガンに
 陣頭指揮を執った人物のことを・・・・・・・・
 後藤新平のことが現代人になお語り継がれるのはなぜなのだろうか。」

おもいっきり真ん中をカットして、この1月号の渡辺氏の最後は

「やがて再び襲ってくるであろう自然災害や感染症から
 日本をどうやって守り抜くのか。
 後藤の『仕事』のすべてを徹底的に解明しておく必要がある。
 研究者、出でよ。」

2月号の渡辺氏の題は「人間は何かに依存せずしては生きていけない」
とりあえずは、はじまりを引用してから、3月号へ駒をすすめます。

「後藤新平は『危機の指導者』である。・・・・
 後藤が初めて台湾の地を訪れたのは、
 明治29年(1896)6月中旬のことであった。 」

はい。3月号の渡辺氏の題は「思想と人生――後藤新平のこと」。
ここには、だいぶ端折って、最後の箇所を引用。

「後藤は第4代総督の児玉源太郎という権威において・・
 その厚い信頼を得た。しかも帝国憲法や帝国議会の制約からも離れて

 フロンティア台湾の白いキャンパスのうえに・・・・
 アヘン漸禁(ぜんきん)策、土匪(どひ)招降策、旧慣調査、
 土地制度改革、衛生事業、インフラ整備事業などを
 次々と展開していった。・・・・・

 言及する暇(いとま)がなかったが、
 諸事業のための人材抜擢、抜擢された人間への全幅の信頼、
 信頼に応える技術者、官僚の後藤への献身が
 台湾統治成功の物語を彩っている。」


うん。まとまっていなくてもしかたがない。
引用して備忘録として残しておきたかった。
最後にもう一度、門田隆将の3月号の言葉を引用することに。

「李登輝総統時代の1999年9月21日午前1時47分に
 発生したマグニチュード7・3の台湾中部地震。

 このとき日本は9月21日当日の内に救助隊の
 『先遣隊』、『第一陣』、『第二陣』を送り込み、
 さらに翌日も『第三陣』を派遣した。

 ここで日本隊が多くの生き埋めの台湾人を救出したことに
 李登輝総統は感激。
『 あの悲劇の中で、こんなにありがたいことはなかった。 』
 と語り、のちに
『 日本で何かが起こった時には真っ先に駆けつけるのは台湾だ 』
 と言い切ったのである。 」

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享年69歳。

2024-01-25 | 道しるべ
田中美知太郎の短文のなかに、

「老人心理というようなものについて、
 わたし自身どれだけ知っているのか。
 知ったかぶりは笑われるだけであろう。
 
 しかし年とともに、死もまた光を失い、
 次第に平凡なものになって行くのではないかと考えたりする。」

「シリーズ牧水賞の歌人たちVol.5  小高賢」(青磁社・2014年)
という雑誌本がありました。

最後の方に、小高賢自筆年譜がある。

1944(昭和19)年0歳
 7月13日、東京下町に生まれる。・・秋口に疎開。・・
 祖母、母、兄とともに移る。中風の祖母、
 それに乳飲み子で、病弱な私の世話で、どれほど
 苦労したかというのが、晩年の母の繰り返した愚痴である。
 確かに、私の身体には切開した跡がいくつもある。
 脳膜炎になり、首を振ったとも聞かされていた。 
 父は昭和20年3月10日の大空襲を隅田川に浸かって助かったという。

この年譜の、最後はというと、

2013(平成25)年69歳
  ・・・長くお付き合いいただいた安岡章太郎さんが亡くなる。
  ショックであった。・・・・
  12月に、安岡章太郎『歴史のぬくもり』を編集刊行。解題を書く。

そして最後にこう付け加えてありました。

2014(平成26)年
  2月10日、脳出血のため急逝。享年69歳。

この編集後記をみる。

「・・・このムックの最終校了ゲラが小高さんから届いたのが2月10日
 ・・・同日、10日の午後4時過ぎにはメールがあり、書き出しは
 『東京は大雪。昨日、雪かきで腰を痛めました。年寄は困ったものです。』
  であり、結語もやはり
 『そのうち、打ち上げで一献しましょう。楽しみにしています。』であった。
  その僅か数時間後に訪れる唐突な死のことなど、
  微塵も感じさせない文面である。・・・・」


最初に引用した田中美知太郎氏の文の後半には、こうありました。

「・・・『死を思え』と哲学は教える。・・・
 ・・いつまで生きてみたところで、
 わたしたちには解くことのできない問題がいくらもある。
 人生の大切な問題は、これまでの歴史において解くことができなかったものを、
 これからの歴史において解くことができるなどと信じてはいけないとも
 言われている。
 われわれが今生において見たものがすべてなのである。・・・だから、
 限られた今生の間に永遠は垣間見られると言った方がいいかも知れない。
 ・・・・   」

 (p77~78 田中美知太郎著「古典学徒の信条」文芸春秋・昭和47年)


う~ん。とりあえず、小高賢年譜にでてくる
安岡章太郎歴史文集『歴史の温もり』(講談社・2013年12月発行)を
古本で注文することにしてみました。



 
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歌集『本所両国』

2024-01-24 | 詩歌
鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」の
最後の著者紹介箇所をひらくと、
「 1944年、東京の下町に生まれる。・・・・」
とあって最後の方に
「 また編集者の顔とは別に、小高賢の名で歌人としても活躍。
  歌集『本所両国』で第5回若山牧水賞受賞・・・・
  2014年2月、脳出血により死去。 」


はい。この歌集の題名『本所両国』に惹かれまして、
以前に古本で買ってありました。それを、本棚からとりだす。
歌集のあとがきに、こうありました。

「歌集名の『本所両国』は、芥川龍之介のタイトルから借りた。
 周知のように死ぬ直前、といっても私よりずっとずっと若い
 35歳のとき、自分の育った地域を巡った印象深いエッセイである。
 ・・・・   」(p197)

パラパラと歌集をひらいていたら、
関東大震災と東京大空襲という言葉がでてくる。
歌の前書きに

「 ——関東大震災を母は被服廠で、東京大空襲を父は墨田川で助かった 」

この言葉のあとの歌4首を引用。

  焼夷弾に追われたりけん大川に父の3月10日の夜空

  30歳代火の粉まみれの身を沈め川に一夜をすごしたる父

  一度だけしかばね浮かぶ隅田川を酒にまぎれて父はもらしぬ

  大川端百本杭はきれぎれに亡父の記憶に添いかがやけり


はい。せっかくひらいたのですから、最後は、次のページをひらいて一首引用。

  
   1月1日一生懸命リハビリの老いに出会いぬ河岸の道

  
        ( p160∼163 小高賢歌集『本所両国』雁書館・2000年 )


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余震間断なく襲ひ。

2024-01-23 | 安房
「千葉県安房郡誌」(大正15年6月・千葉県安房郡教育会)により、
安房を襲った関東大震災の被害状況は、

「・・・実に一瞬時で死者1200余人、傷者3000余人を出し、
 家屋の倒潰したものは3万有余戸を数ふるに至った。

 その範囲は北條・館山・船形・国府・館野の各町村から
 東方に亘る一帯の地を激震地として殆ど全郡に及ぼし
 強烈なる余震は日に数10回を算し、
 加ふるに海嘯(津波)の襲来を叫び、鮮人の来襲を伝へ
 人心は兢々として昼夜為すところを知らなかった。・・・ 」

 ここには、震動・余震に関連する箇所をピックアップしてみます。

「 震源地点は、安房洲の崎の西方にして、
  大島の北方なる相模灘の海底である。
  震動の回数は、初発より9月25日までに850回を算した。 」

「 地震襲来の状況を記せば、上記正午2分前、
  南西より北東に向て水平震動起り、続いて激烈なる上下動を伴ひ、
  震動は次第に猛烈となり、別表に示すが如く、
  鏡浦沿ひの激震地方は、大地の亀裂、隆起、陥没、随所に起り、
  家屋その他の建築物又一としてその影をとどめざるまでに粉砕され、
  人畜の死傷限りなき一大修羅場と化した。

  続いて大小の余震間断なく襲ひ、大地の震動止む時なく、
  折柄南西の方向に恰も落雷の如き鳴動起り、
  余震毎に必ず此の鳴動を伴った。
  人心為めに恟々、全く生きた心地がなかった。・・・ 」


はい。もし関東大震災級の地震が、またこの地に繰り返されるならば、
 『 大小の余震間断なく襲ひ、大地の震動止む時なく 』
ということを、肝に銘じなくてはならないのだろうなあ。

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『一年の計』『百年の計』

2024-01-22 | 安房
今年は能登地震からはじまった。そうですね。
ここに、新聞の見出しを引用してみることに。

1月3日 『能登震度7 死者48人』
   1日午後4時10分ごろ、石川県志賀町で震度7の地震が・・
1月4日 『能登地震 死者73人に』
1月5日 『能登地震「生き埋め」40~50件 死者84人、不明79人に』
1月6日 『能登地震 救助遅れ深刻 死者94人、安否不明222人』
1月7日 『能登地震 死者126人に』
1月8日 『発生1週間死者128人、安否不明195人』
1月9日 『死者168人 安否不明323人』
1月10日『能登地震 死者200人超す』
1月11日『能登地震 死者206人、関連死8人』
1月12日『死者213人、不明37人』
1月13日『死者215人』
1月14日『輪島 中学生250人避難へ』
1月15日『死者221人 不明24人』
1月16日記事内に『15日時点で222人の死亡が確認・・』
1月18日『死者232人に 輪島で新たに10人』
 ・・・・・・・・・・
            ( 産経新聞の一面から )


『一年の計』は、元旦にあり。といわれますが、
『百年の計』では昨年が関東大震災から百年目。

ここに、『安房震災誌』という本があります。
そのはじめに『安房震災誌の初めに』と題して
安房郡長・大橋高四郎の文があります。

「私が安房郡に赴任したのは、大正9年12月のことで、
 まだ郡制時代のことであった。
 大正12年9月の関東大震災は、それから丁度4年目のことである。」

こうはじまる2ページの文でした。
そこに、『 今後の計 』という箇所があります。
そこを、引用してみます。

「震災誌編纂の計画は、此等県の内外の同情者の誠悃を紀念すると
 同時に、震災の跡を後日に伝へて、いささか今後の計に資する
 ところにあらんとの微意に外ならない。

 震後復興の事は、当時大綱を建ててこれを国県の施設に俟つと共に、
 又町村の進んで取るべき大方針をも定めたのであった。

 が、本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが
 主眼で、資料もまた其處に一段落を劃したのである。

 そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
 あげてこれを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにしたのであった。

 今、編纂成りて当時を追憶すれば、
 身はなほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。
 いささか本書編纂の大要を記して、これを序辞に代へる。

     大正15年3月    前安房郡長 大橋高四郎    」


はい。今年は、この『安房震災誌』を手許におきながら、
安房郡長・大橋高四郎とは、どのような人物だったかを、
当ブログに記録してゆこうと私事『一年の計』をたてる。

それはそうと問題は、その次の段階なのかも。
鷲尾賢也氏の言葉に、こんな箇所があります。

「 いくら企画がよくても、
  誰かが書いてくれないと、
  じつはまったく意味がない。 」(p76)

「  いくらすばらしい企画でも、
   実現しなければ単なる妄想で終わる。
   妄想と企画は紙一重である。
   妄想を実現してしまえばすばらしい企画になる。
   紙一重の差は、天地の開きにもなるのである。   」(p64)

 ( 鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」トランスビュー )


はい。今年の私の『一年の計』が実現しますように、
これが私の役割だと自分で自分の背中を押してみる。

本当は、誰かが書いた大橋高四郎の人物像を読めれば私はそれで満足。
けれど、どなたも書いていないようです。押っ取り刀で始めてみます。

これがキッカケになって、大橋高四郎に関する情報や資料が、
新しく発見・発掘される、その先駆けとなるならばうれしい。
ということで何回でも、今年の『一年の計』を宣言してみる。




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『 年齢七掛説 』

2024-01-21 | 短文紹介
鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」(トランスビュー)を
ひらいたついでに、パラパラとめくってみる。
講談社の編集長をしていた視点からのご意見を拝聴。

たとえば、私など、本を買えども読まない本というのがある。
最近は居直って、積読でも気持ちが弱らなくなりました(笑)。

そういう視点からだと、面白いなあという言葉がある。

「書店だけでなく読者の読む力が弱くなっている。
『 良書でござい 』とあぐらをかいていてすむ時代ではない。
 どうにかしてともかく買ってもらう。
 そうすればその中の何割かは読むだろう。
 ・・・編集者のフットワークが要求されている。 」(p175)

はい。良書のあぐら。安岡章太郎の『蹲踞のように腰を浮かせて書く』。
連想のつながりで、動作が並びます。『良書でござい』とあぐらをかく。
『蹲踞のように腰を浮かせて書く』。さらには、編集者のフットワーク。

編集者の視点が鮮やかに感じられてくるのは、まだまだありました。

「そのころ『 年齢七掛説 』がささやかれていた。
 つまり、いまの22歳はむかしでいえば、15~6歳にしかならない。

 かなり幼いと思った方がいい。
 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』のようなものができないか、
 というふうにはなしが進んだ。・・・ 」(p84)

「 編集者にもいろいろなタイプがある。・・・・・
  ダメだということをいかに納得させるかに苦労することもまれではない。」
                       (p85)

「 鶴見俊輔がどこかで、
  日本はどうも10年ごとにくりかえしているといっていた。
  企画をたてるのに、出版の歴史を知っておいて損はない。 」(p87)


はい。何だか編集者という海岸の砂浜で、尽きない真砂から、
キラキラひかる言葉の貝殻を拾ってるような気分になります。

ちなみに、著者あとがきの最後の日付は2003年12月20日。
約20年前に出版された本のようです。
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蹲踞(そんきょ)のような姿勢

2024-01-20 | 好き嫌い
寒がりな私の場合、いつも足首の方から寒さがあがってくる。
冬の夜は、レグウォーマの厚いのが必需品。それに湯たんぽ。

うん。最近になって、足のももとか、足首回りの筋肉を
重点的に鍛えてみるのもよいらしいと側聞しましたので、
とりあえず半坐りの格好で、足の筋肉を刺激することに。

そうすると、これは蹲踞(そんきょ)の姿勢ぽくなります。
思い浮かんだのは、安岡章太郎の蹲踞の姿勢というのでした。

鷲尾賢也著「新版 編集とはどのような仕事なのか」
(トランスビュー・2014年)。この鷲尾氏は講談社の編集長。
本棚からこの本をとりだしてくる。
とりあえず、蹲踞までの箇所が印象的なのでまとめて引用。
編集者として関わった安岡章太郎を述べている下りです。

「長期連載ではなんといっても、安岡章太郎『僕の昭和史』であろう。
 『本』の編集のなかでいちばん印象に残っている仕事である。

 当時『流離譚』を『新潮』に連載中で、おそらく先生のなかでは
 軽い気持ちではじめられたものだろう。ところが書いているうち
 に熱が入ってきた感じがする。文学的自叙伝の傑作である。

 ・・・・担当していてとても不思議だったのは、
 作家の頭の構造である。安岡さんは書き出すと、ご自身の体験されたこと
 のディテールがどんどん思い出されてくる。日記もメモもなにもないのに、

 じつに正確でリアルなのである。ソウルにいた幼少時代、戦争中のはなし・
 記憶力とは異なった『思い出力』のようなものに、たびたび感嘆した。

 『アメリカ感情旅行』(岩波新書)は、奥様の簡単な家計簿の数字が
 唯一の資料だったそうである。その後、安岡さんは『群像』で
 『果てもない道中記』を連載した。その取材にも同行したのだが、
 いつもメモなど一切とらない。

 カンヅメになっていただくこともあった。・・・・・・・
 調子にのると、安岡さんはおかしな格好になる。
 相撲の蹲踞(そんきょ)のように腰を浮かせて書くのである。
 そうなったらしめたもので脱稿も間近い。・・・   」(p228~229)


う~ん。ここはひとつ。運動と読書をかねて
蹲踞のような姿勢でもって『果てもない道中記』を読む。
というのもありかなあ。
 

コメント (2)
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茶の間・床の間・仏間

2024-01-19 | 思いつき
茶室とか、茶道とか、わたしには分からず、
まずもってどう捉えてよいのかが分らない。

などと漠然と思っていたのですが、
あっ、これが手がかりになるかも。
そんな古本の一冊を手にしました。

小泉時著「ヘルンと私」(恒文社・1990年)。
そこに「野口米次郎とセツ」という文がある。
「詩人の野口米次郎氏は、八雲に会いたいと
 思っておられたようだが、二、三日の差で、
 生前の八雲に会うことができなかった。」(p84)

こうはじまる7ページの文と写真。
写真は、葬送の西大久保の自宅前と葬列。
それに、西大久保の家の仏間兼書斎写真があり印象深い。

さて、野口米次郎が、セツの在世中に友人の米人記者を連れて
訪問した様子を記述した文が紹介されておりました。

「文豪ラフカディオ・ハーンの未亡人、節子刀自(とじ)は
 令嬢寿々子さんとハーン在世当時、
   松江から連れて来た腰の曲った老婢よね婆さんと、
   三人で東京市外西大久保の自宅で老後を養っていた・・・・
 刀自は知らぬ人に応接することをあまり好まなかった。」(p87)

この訪問者の箇所も印象鮮やかなのですが、
引用をカットして野口氏が〇〇氏を案内した場面。

「それは『新聞社からの案内ならば困る、筆者(野口米次郎)が
 案内して来て下されるなら面会しましょう』という訳であった。

 約束の時間に訪問した。玄関へお米婆さんが取次に出た、
 名刺を通じて暫くすると、刀自は黒紋付の羽織、令嬢は
 友禅縮緬の礼装で玄関に私等を迎えられた。

 〇〇氏には途中自動車の中で日本の礼儀のことを話しておいたから、
 先ず一礼して静かに外套をとり、靴をぬぎ、静々と導かれるがままに
 庭に面した日本座敷に通された。

 床の間にはハーン愛好の桜花満開の軸が掛けられ、
 その前に香がたかれてある。庭には赤や白の皐月(さつき)が
 今を盛りと咲いているが、五月雨が降っていて薄暗い。

 令嬢が日本の茶とお菓子を礼々しく持って出る。
 〇〇氏はただ無言のままで、日本の座布団の上に
 ヘンな足つきで固くなって坐って居る。
 刀自は・・・

 『お馴れにならないのにこんな室でお気の毒ですから、
  ハーンの書斎に椅子とテーブルを用意しておきましたから』

 と、今は仏間となっている書斎へ案内された。
 それから刀自は、正面の仏壇の扉を開かれ燈火をともし、
 ハーンの肖像と位牌の前に黙礼して生ける主人に対するが如く、
 私共に出されたものと同じ果物やお菓子を供え、
 鈴をチーンと打って、静かに〇〇氏の前へ進まれた。

『 お名刺を一枚いただきたい 』

筆者(野口氏)は〇〇氏に向かい、
『 刀自が今ハーン先生の霊前に貴下の来訪をお告げになるのです 』
と伝えた・・・・

 刀自は〇〇氏の名刺を仏前に供えられてから、

『 はるばるお訪ねくださいました貴下を故人の霊に引合わせました。
  さぞ喜んでいることでしょう 』

 と申された・・・・
 それからいろいろと、ハーンの遺品を出して見せたりされた。
 筆者は〇〇氏に何か質問や希望がないかと聞いた。
 氏は・・・ただ多年憧れて居た大文豪のお住居を訪ね、
 しかもかくまでご丁寧な待遇を受け、
 文豪の霊にまでお引きあわせ下さった事は、
 生ける文豪に直き直き面会したと同じである。
 日本へ来て各方面の見物や諸名士の招待を受けたが、
 今日の如く自分の脳裡に深く印象し、また
 今日の如く嬉しい日は生れて始めてである。・・・・・

何もセツばかりではなく、戦前まではどこの家庭でも 
仏間があり、来客より頂戴物があれば、まずお燈明をあげ、
先祖の霊に捧げてから家族がいただいたものである。・・・」(~p91)



はい。私の昔の家には仏間というのは無かったのですが、
居間兼食堂兼寝室の部屋に備付けの小仏壇はありました。
そんな私にも、仏間のイメージは何だかわかる気がする。

どんな心持で、茶室をイメージすればよいのだろうか。
この本から、私は仏間から茶室へ補助線を引いてみる。
これで、縁遠かった茶室茶道が身近に感じられるかも。

神棚から神社へとつながるように、案外なことに、
茶の間、床の間よりも、仏間から茶室への道のり。
どうせの思いつきなら、このような連想の楽しみ。
 
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小沢昭一俳句のこころ。

2024-01-18 | 詩歌
小沢信男著「俳句世がたり」(岩波新書・2016年)を
ひらいていたら、小沢昭一の俳句(変哲)が登場しております。

  落第や吹かせておけよハーモニカ   変哲 (p90)
 
  危うくも吾れ祭られず招魂祭     変哲 (p93)

はい。俄然興味がわきまして、
p91に紹介されている小沢昭一の本を古本で注文。
「俳句で綴る 変哲半生記」(岩波書店・2012年)。

ちなみに、小沢昭一は83歳で亡くなっております。
1929年(昭和4年)4月6日~2012年(平成24年)12月10日。

「俳句で綴る 変哲半生記」は
年毎の月毎に俳句が並べてあるのでした。
うん。74歳から晩年までの1月の俳句を私の好みでピックアップ。

  まだ稼ぐ猫背めでたき明(あけ)の春    平成15年1月

  五慾ひく二慾三慾寒の内          平成16年

  関八州暮れなんとして葱の列 

  犬なみに心躍るや雪しきり        平成17年

  寒中の握手山形から来た人と 

  なまいきに懐手して塾通い

  熱燗や棟上げ終えし夜の棟梁(とうりょう)

  ひまらしく守衛のつくる雪達磨      平成18年

  雪折れの枝で杖つく羽黒山        平成19年

  積もる雪折れる枝やら撥ねる枝

  水仙や佛と暮らす四畳半

  年寄の笑はぬ顔の初笑ひ

  老残の頭(かしら)の小言出初式     平成20年

  煮凝や粋筋かくす割烹着

  寒月やいきてりゃこそ娑婆の空

  大根をきざむ手際のカッポー着       平成21年

  寒月め俺亡きあとも照りやがる

  冬なればこそ青さに空深く 

  江の電にただ海を見て実朝忌        平成22年

  大木に隠れる真似も実朝忌

  水洟や年はとりたくないものよ

  大寒の夜の六度目か厠月          平成23年

  寒月の照るも曇るもわがこころ

  めでたくもまたこの顔ぶれの初句会     平成24年

  変りばえせぬもめでたし初句会





  
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関東大震災の被服廠跡地。

2024-01-17 | 地震
回転ずしで、注文する際に、ワサビ入り、ワサビなし、と
選択ができるようになっているのですね。気づきませんでした。

思ったんですけれど、俳句の解説にも、
ワサビ入り、ワサビなし、と選べるかもしれません。

小沢信男著「俳句世がたり」(岩波新書・2016年)。
パラリとめくっていたら、震災忌という句がありました。


    震災忌置く箸の音匙の音    三橋敏雄

そこを解説している小沢氏の文は、
「9月1日が震災忌。」とはじまっております。

「そもそも大正12年(1923)9月1日の真昼時・・・
 大地震が関東一円を襲い、火災が多発して東京の下町は一面焼け野原。
 死者10万余人のうち約4万人ほどが本所被服廠跡で焼死した。
 跡地の一部を公園にして慰霊の震災記念堂を建立した。

 その22年後に、東京大空襲によって、より広大な焼け野原。
 ただし震災記念堂の一帯は、同愛病院から両国駅までぶじに残った。
 そこで無量の焼死の遺骨をここに納めて、東京都慰霊堂と改称した。
 以来、3月10日と9月1日の、春秋に大祭が催されております。

 春の大祭は賑わう。空襲の生きのこりが孫子をつれてくるからね。
 くらべて秋は、ややさびしい。もはや88年も昔のことだもの。
 しかしこちらこそが本家ではないか。 」(p46)

はい。俳句だけじゃ分からなかった指摘がなされて、
まるで、ワサビ入りの俳句解説を読んでいる気になります。

この箇所の引用をつづけます。

「・・震災時に、築地本願寺も全焼しながら、
 酸鼻の被服廠跡へ僧侶たちは駆けつけて、
 死者供養と、生きのこりたちへの説教所、託児所もひらいた。
 さすがは大衆のただなかの浄土真宗。
 その説教所が寺となって『震災記念 慈光院』と、現に門柱に掲げる。

 そして9月1日には『すいとん接待』の看板が立つ。
 境内は付属幼稚園の母子たちで大賑わいの、そこらいちめん
 『 置く箸の音匙の音 』なのですよ。
 平成の童子たちが、大正12年の非業の死者たちとともに
 たのしむ施餓鬼(せがき)供養でした。
 ゆきずりの者にも気前よくふるまうので、
 折々に私も一椀ご相伴にあずかっております。・・・ 」(p47)

内容としては、このあとも欠かせない文が並ぶのですが、ここまで。
いつか機会があれば、そこに立ってみたいと思いました。

「酸鼻の被服廠跡へ僧侶たちは駆けつけ・・」という箇所などは
私には、方丈記のなかの一文にであったような気さえしてきます。
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