和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

内房線館山駅から

2025-01-06 | 安房
JR内房線の館山駅から上りへ乗車して、次の駅・那古船形までの区間。
電車の右側の窓から、途中小高い丘の中腹に大瓦屋根が見えてきます。
この小高い山(那古山)と寺が、補陀落山那古寺。

この那古寺を中心に、歴史上の安房の隆起をたどることができます。
那古寺は坂東三十三観音の三十三番札所で、補陀落山那古寺(那古観音)
となっております。この寺の御詠歌というのは、
『 補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ浪を 見るにつけても 』
であり、この歌にある通りに、山の下は砂浜に、波がよせていたようです。
西側の山の下の岸に波が打ち寄せていたのは、
寛文12年(1672)の那古寺境内の絵図を見ると了解できます。
           (  p405 「那古史」平成19年3月発行 )

これについては、君塚文雄氏の文にもありました。

「 応仁の乱から約20年後の
 文明18年(1486)6月から翌年3月までの間、
 北陸・関東・奥州諸国を遊歴し、『回国雑記』を著わした
 聖護院門跡准后道興も訪れて、麓まで波に洗われて、
 夕日に輝く有様は絵のように美しいと記した那古の観音様も・・ 」
  ( p119「190ふるさとの想い出写真集 館山 」国書刊行会昭和56年 )


もどって、館山駅から那古船形駅までの車窓に見える那古寺は、
いまでは、そこから700~800メートルほどの先に海岸があり、
那古寺と海岸までの間は、館山一中があり、JR内房線が走り、
海近くに海岸道路が敷かれており、これらは隆起の陸地です。


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安房地区被害一覧。

2025-01-05 | 安房
今日は消防の出初め式。消防詰所が遠いので仮説場所へ寄附をもってゆく。
午後、区長さん来る。おそらく出初式の来賓で参列した後なのでしょう。

今年の2日に神社で手渡しておいた、資料
『 安房郡の関東大震災 』をもってきて、
そこにある『安房震災誌』からの引用の
『 安房郡震災被害状況図 』と
『 関東大震災安房地区被害一覧 』とを
集会の際に、この二カ所をプリントし配布したいとのこと。
そんなこんなを、区長さんと立ち話し。


庄野潤三著『ザボンの花』を読もうとするのですが、
遅々として読みすすまない。ゆっくりと読むことに。

私は最初に『明夫と良二』を読んでいたせいか、
『ザボンの花』の方が、夫婦の視点もでてきて、
サザエさんの四コマが活字化されたような気分。
その割に、先に読みすすめられないでおります。

『ザボンの花』に登場する四郎くんは、
さしずめ、サザエさんではタラちゃん。

「・・・四郎はひとりきりで、洗面器の中のえびがにと
 メダカを見ていた。時々、えびがにはのろのろと動いて、
 その脚がメダカの上にのっかる。
 すると、四郎は大きな声で叱るのだ。

 『 えびがにのばか、あし、のけえ 』

 えびがにの脚がメダカから離れるまで、叱るのを止めないのである。
 タカ子ちゃんが遊びにやって来た。四郎は、たちまち得意になって、
 大声を出してタカ子ちゃんを呼び入れる。
 
 『 タカ子ちゃん、来てごらん。こわいものがあるよ 』  」

これは第四章「えびがに」に出て来るのですが、この場面のつぎは

「 タカ子ちゃんが遊びに来ると、四郎はいつでも大よろこびで、
  大いにサービス精神を発揮する。  」

という箇所があり、何とも四郎君の涙ぐましい対応が読めるのでした。

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臨海学校

2024-12-16 | 安房
「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社)に
庄野潤三長女の「私のお父さん」が載っておりました。
そこに「 夏の思い出 」があるのでした。

「 父は、10月に生まれた私に『 夏子 』と名付ける程夏が好きでした。
  それは、入道雲が湧き上り生命の躍動する様が好きという他に、
  海で泳ぐのが大好きだからです。

  帝塚山(てづかやま)学院の初代院長だった祖父の庄野貞一は、
  夏休みに全校生徒を臨海学校に連れてゆき、
  丈夫な体と心になるように遠泳させました。

  父は、夏になると自分の家族を引き連れて
  外房の海岸に行き、小さな宿に三日程滞在して
  朝から晩まで真黒になるまで遊ばせました。
  小舟を借りて沖を遠泳させられた事もあります。

  お蔭で私達姉弟は、魚のように泳ぐし、
  荒海もこわくありません。
  昼には、近くに住む近藤啓太郎さんのご家族が合流し、
  奥様の作られた豪快なお弁当をたいらげました。

  遊び疲れて帰る日には、太海駅前の田丸食堂の
  カツ丼をとどめにいただき大満足。
  どんな時でも食べる事がついてくるのが我家流です。 」(p71~72)


はい。まだまだ続くのですが、引用はここまで。
写真はそんなに多く載っていないのですが、
古い写真に夏子さんが写っていると、
大人たちに交じって、そこだけ清水が湧き出しているかのように
真っ白で真新しく思えてくるから不思議です。

この本には、最後に「 庄野潤三全著作案内 」があり、
初心者には、お誂え向きの著作コメントを読むことができます。
今日はさっそく、後半生の本の中から選び注文したところです。
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太海(ふとみ)の海で泳ぎを覚え

2024-12-12 | 安房
近藤啓太郎のことを知りたくて、
庄野潤三著「文学交遊録」(新潮文庫)をひらく。

目次に「吉行淳之介・安岡章太郎・近藤啓太郎」の章がある。

「吉行と安岡のことを話したら、長年のつき合いのある
 安房鴨川の近藤啓太郎のことを話しておきたくなった。」

はい。安房の外房の太海(ふとみ)のことが出て来るので
ここは、長めの引用となります。

「・・私たち一家が東京へ引越して来た翌年の夏、
 近藤に勧められて、海水浴をしに子供を連れて、
 外房の太海海岸へ行った。

 私たちが子供を海で泳がせたがっているのを知った近藤は、
 それなら鴨川の一つ先の太海がいい、
 太海には子供を泳がせるのに持って来いの浜がある、
 庄野、太海へ来いよといった。

 ・・・次の年から画家や画学生の泊る吉岡旅館を予約してくれた。
 この宿屋も海もよくて、私たち一家はすっかり気に入り、
 毎年、夏休みが来ると、必ず太海へ出かけて、
 吉岡旅館に泊まるようになった。何とかして都合をつけて出かけた。

 はじめは一晩泊りであったのが、すぐ二晩泊りになり、
 やがて豪勢に三晩泊るようになった。
 妻は今でもそのころのことが話に出ると、
『 今年は三晩泊りだといわれたときは、とび上るほどうれしかった 』
 という。幸いに画家や画学生を相手の旅館だから、宿賃が安かった。
 宿賃の安い割には食事もたっぷり出て満足させてくれた。

 太海ではお宮さんの石段の前にいい泳ぎ場があった。
 岩でかこまれたようになっていて、大きな波が来ない。
 安心して子供を遊ばせておくことが出来た。
 
 この浜で私の三人の子供は泳ぎを覚えた。
 次男のごときは、生れた次の年の夏にはもう太海へ連れて行って、
 砂浜に坐らせておいた。あるとき、泳いでいて浜の方を見ると、
 2歳になる次男が砂浜にひとり坐っていて、
 こっくりこっくり眠っているらしく、身体が少しずつ横へ傾いては
 もとに戻る。日が照りつける下で、ひとり砂の上に坐ったまま、
 眠り込みそうになっていた。

 お金がないからビーチパラソルなんか買えなかった。
 この下の子が太海の海で泳ぎを覚えて、
 小学校へ上るまでに泳ぎ出した。
 
 海べで育った子どもと同じように楽々と泳げるようになった。
 長女も泳ぐのが好きで、いつも太海を引上げる日の午前、
 最後まで海につかって名残を惜しみつつ泳いでいた。 」(p293~p295)

まだ、続くのですが、そしてこのあとに近藤啓太郎家族も登場するのですが、
う~ん、またしても、引用が長くなってしまうのでここまで(笑)。

ちなみに、庄野潤三全集第六巻の月報6には、
永井龍男・近藤啓太郎・安岡章太郎の文が載っており、
全集の月報4に、吉行淳之介の文が載っておりました。
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外房州の海岸へ

2024-12-10 | 安房
庄野潤三著「夕べの雲」の目次は
最初が『 萩 』。次が『 終りと始まり 』。
目次の二番目の『 終りと始まり 』に、それはありました。

「 外房州の海岸へは、毎年行く。
  二晩か三晩泊って、帰って来る。
  東京から遠いのと、すぐ隣の町に大きな海水浴場があるので、
  ここまで来た人もそっちへ集ってしまうせいか、
  その海岸は静かであった。

  彼等が初めてその村の小さな宿屋へ行ったのは、
  もう十年前のことで、晴子と安雄はいたが、
  正次郎はまだ生れていなかった。

  有難いことにその漁村は、十年前もいまも殆ど変りがなかった。
  色の黒い村の子供も、家族連れで来ている客も同じ磯で泳いでいて、
  人数はそんなに多くならないのであった。
  夕方になると、浜には誰もいなくなった。

  この村へ行くようになったのは、
  ひとつ隣の海水浴場のある町に大浦の友人が住んでいて、
 『 いいところだから、来ないか。子供がきっと好きになるところだ 』
  といって、誘ってくれたのであった。

  彼の話によると、その海岸にはお宮さんの下にいい泳ぎ場がある。
  まわりに岩礁があって、そこだけ特別に波が静かで、泳ぎよい。
  岩礁の上を伝ってどこまでも歩いていくことが出来て、危くない。

  岩の間の窪みにいるダボハゼを取るのに絶好の場所で、
  魚取りに夢中になっていて、顔を上げると、
  眼の前は太平洋だ。海の色が違う――と、
  そういうのであった。

  そこで、彼等は出かけて行った。
  小学一年生の晴子と三つになる安雄と彼と細君とで。
  友人がいった通り、子供はそこが気に入った。
  彼も細君も気に入って、来年もここへ来ようと思った。
  そのうち彼等の家族は、人数が一人ふえた。・・・・・  」


年譜によると、昭和39年(1964)43歳
『夕べの雲』を日本経済新聞夕刊に連載(127回完結)とあります。
その年の年譜には『 八月、家族と太海へ行く。 』ともあります。


ちなみに、昭和31年の年譜にはじめて、出てくるのが
『 近藤啓太郎の紹介により千葉県安房郡江見町の太海へはじめて
  家族と行く。子供はまだ小さかったが、夏には都合のつく限り
  出かけるようにしたので、三人ともこの浜で泳ぎを覚えた。 』
            ( p583 「庄野潤三全集」第10巻 )

気になって古本を注文しました。
庄野潤三著「明夫と良二」( 岩波少年少女の本16 )。
それが、昨日届きました。凾入りハードカバー。
安西啓明氏の、表紙画と本文にところどころの挿画があります。

はい。庄野潤三全集第9巻に「明夫と良二」が載っているのですが、その
全集には、岩波少年少女の本に載った「あとがき」はありませんでした。

その「あとがき」に、海が出て来ておりました。
あとがきは、昭和47(1972)年3月とあります。
最後に「あとがき」を端折って引用しておきます。

「 『ロビンソン・クルーソー』のような話が書ければ、
  どんなにいいだろうと、思わないわけではありません。
  小学生のころに、家にあった、絵入りのこの本を、
  私は兄や姉なんかと同じように胸おどらせて読んだのですから。 」

そのあと途中を端折りますが、どうしてか、海という言葉が出て来ます。

「これは、どこの港からも船に乗らず、従って海のまっただ中で
 怖ろしいあらしに出会うこともなく、無人島に流されもしない、
 自分の家でふだんの通りに暮らしている五人の家族の物語であります。・・」


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八月、家族と太海へ行く

2024-12-05 | 安房
講談社「庄野潤三全集」第10巻の巻末に、
( 昭和49年3月、著者誌す )とある年譜がありました。
そこをめくってみます。

大正10年(1921)2月9日、大阪府東成郡住吉村
( 現、大阪市住吉区帝塚山東・・ )・・の三男として生れる。

以下には、興味がある地名が出てくる箇所。

昭和19年(1944)23歳・・・7月、館山砲術学校に移り、
             対空射撃の訓練を受けた。・・・

昭和26年30歳 9月、朝日放送に入社、教養番組制作を担当。
昭和30年34歳 8月、朝日放送を退社、文筆生活に入る。
昭和31年35歳  近藤啓太郎の紹介により千葉県安房郡江見町の太海へ
        はじめて家族と行く。子供はまだ小さかったが、
        夏には都合のつく限り出かけるようにしたので、
        三人ともこの浜で泳ぎを覚えた。

    ちなみに、長女夏子(昭和22年、10月生まれ)
         長男龍成(昭和26年生まれ)
         次男和也(昭和31年、2月生まれ)

年譜をめくると、『 八月、家族と太海へ行く 』というのが、
昭和34年・昭和36年・昭和37年・昭和38年・昭和39年・昭和40年
昭和41年・昭和42年とあり、
昭和43年から「家族と広島へ行き、釣りと海水浴をする」とあります。
       
 
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房州の海岸町にいて

2024-12-04 | 安房
さてっと、未読の庄野潤三なのですが、
どれから、読んだら良いのだろうと思っておりました。

そこはそれ、お薦めの一冊『 明夫と良二 』を今日読む。
後半になって『 ざんねん 』という題の箇所が印象深く。
残りを読むのが勿体ないようなそんな気がしておりました。

そうそう。『 姉と弟 』と題する箇所のなかに
『 房州の海岸町  』というのが出てきたのでした。
兄弟で、姉のところへ行ったあとの会話でした。

「 『 和ちゃん、喜んでいたよ。帰りにこれくれた 』
 紙袋にじゃこの入ったのを、明夫は机の上に置いた。

 結婚式のあとで、房州の海岸町にいて、
 小さいころから和子を知っている井村の友人が、
 お祝いにひじきとじゃこと鰹節をどっさり送ってくれた。

 和子が、その時、
 『 海産物のお店がひらけるくらい、頂きました 』
 と井村のところに報告したくらいで、主人の家、
 世話になった仲人さんの家、井村の家と自分のところと、四軒に分けたが、 
 ひじきだけはまだ一年分くらい残っているというのであった。

 この気前のいい友達は、井村の家族が東京へ引越して来た
 その翌年の夏に、みんなで泳ぎに来るようにといって、
 彼の町から汽車でひとつ先の駅に近い、小さい宿屋を紹介してくれた。

 和子は小学校一年、明夫は三つ、良二はまだ生まれていなかった。
 その時以来、子供が夏休みになると、いつもここへ来て、
 せいぜい二晩泊りか、長くて三晩であったが、岩の窪みにいる小魚を
 つかまえたり、泳いだりして過すようになった。

 ・・・・井村の三人の子供はみな、外海に面した
 ここの浜で泳ぎを覚えたのであった。  

 『 もう和ちゃんのところ 』 
  と明夫はいった。
 『 このくらいしか、残っていなかったよ 』
  よほどいいじゃこを送ってくれたらしくて、
  井村の家族はみんな、おいしい、おいしいといいなが食べてる。・・ 」
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房総地震と隆起資料。

2024-12-03 | 安房
房総半島地震の隆起に関する資料

〇君塚文雄編・国書刊行会
「190・ふるさとの想い出写真集。明治・大正・昭和 館山」

〇千葉県郷土史研究連絡協議会編・郷土研叢書Ⅳ
「 房総災害史 元禄の大地震と津波を中心に 」

〇 羽鳥徳太郎著「 歴史津波 」(イルカぶっくす)

〇武村雅之著「 地震と防災 」(中公新書・2008年)

〇千葉県【 防災誌 】 ( 各30~40ページほどの冊子 )
 「 元禄地震  語り継ごう 津波被災と防災」(2008年3月発行)
 「 関東大震災 千葉県の被害地震から学ぶ震災への備え」(2009年3月発行)
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房州館山の子守歌。

2024-12-01 | 安房
北原白秋著「日本童謡ものがたり」(河出書房新社・2003年)をひらく。
ちなみに、最後にこうあります。
「本書は、北原白秋『日本童謡物語』(アルス、55年7月、日本児童文庫42)
 を底本とし、同書のアルス、30年11月版も参照しました。」

そのp34に、『 とと買い 』という子守歌が載っていました。


         とと(さかな)買い   ( 安房=千葉県の一部 )

      ねんねのおもりは どこへいた。
      南条長田(なんじょうながた)に とと買いに。
      そのとと買(こ)うてきて、なにするだ。
      ねんねにあげよと 買うてきた。


そういえば、君塚文雄氏の文に、
奈良・平安時代の昔の房州・館山への言及があり、
わらべ歌の紹介があって、南条長田が出ています。


「 南方の南条や長田集落の全面はもちろん海であって、
  房州の古い古い子守歌に
 『 ねんねがお守りはどこへいった、南条長田に魚(とと)買いに云々 』
  とあるのは故(ゆえ)なしとしない。
  また館山の西方の柏崎辺は、現在の国司神社の辺まで海であって、
  平安時代の末、国司源金吾親元が任満ちて京に帰る時、
  そこから船出したといおう口碑がうなづけるのである。

  時代がくだって源頼朝の頃となると、陸地の上昇が段々と著しくなり、
  次の第三の砂丘列即ち神明町・北町・仲町・南町が陸地化し、
  高井・上野原の砂丘列との間に低湿地を広く残していたと思われる
  ・・・・・・・・・・  」
 ( p118∼119 君塚文雄編
 「ふるさとの思い出写真集・明治大正昭和 館山」国書刊行会・昭和56年 )

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大正の房州館山

2024-11-30 | 安房
古本で買った文化出版局の佐藤雅子著「季節のうた」は、
函入りで、第1刷発行が昭和51年11月30日とあり、
購入本は、第11刷発行で昭和52年7月20日でした。

はじめての著者なので、紹介文を引用。
「 明治42年(1909年)、東京、小石川に生まれる。
  府立第二高等女学校卒業、昭和6年結婚。
  元人事院総裁、故佐藤達夫氏夫人・・・・
         ・・・昭和52年2月28日死去。 」

ゆったりとした活字が月別に配列されて写真も豊富です。
そこに、大正時代の房州館山での夏が紹介されておりました。
はい。忘れないようにここは、引用しておきます。
題は『 懐かしい海 』P753∼756。
はい。短い文なので、ほぼ引用してしまいます。

「 8月に入ると海が荒れます。
 『 今日は泳ぎに出てはだめですよ 』
  とよく母にとめられたことを思い出します。
  大正の終わりのころ夏をすごしておりました
  房州館山でのことでございます。    」

うん。『 大正の終わりのころ 』とあります。
すぐに思い浮かぶのは、大正12年9月1日に関東大震災ありました。
大正の終わりといえば大正15年になるのですが、震災後の館山じゃ
ないでしょう?佐藤雅子さんは、関東大震災のころ14歳。
おそらくは、それ以前の頃の話かと思うのですがどうでしょう?

「 そのころは海もきれいで、足の先まで透きとおるように
  美しく澄んでおりました。朝早く海辺で拾いました桜貝は、
  今でも大切に小箱に入れております・・・・

  水泳が好きで、海の静かな日には、鷹の島、沖の島まで
  泳いでいったこともたびたびでございます。
  男の子のように真っ黒に日にやけて、父ののぞみ通り
  泳ぎだけは誰よりも上手になってしまいました。

  おぼれた人の水をはかせる方法なども、よく父に教わりました。
  救急法も、今ではすっかり新しい方法に変わっておりますけれども、
  そのころは大きな水がめ(  真水を貯えるために、海辺の家には
  どこにもおいてありあした )を横にして、
  中で浜に打ちあげられた流木を燃やし、その上に
  おぼれた人を伏せるようにして暖めて、水をはかせる
  ことなどをさせられたものでございます。

  父の泳ぎは、昔は武術のなかのひとつだったそうで、
  水府流と申し、早瀬を水にのって渡り切るのが得意でございました。
  小抜手略体という水面をたたくようなはげしい抜手の父の早い泳ぎと、
  クロールで競争したのも楽しかったこのころの思い出でございます。

  海にもぐって、お魚をもりでつくことも大好きでございました。
  黒鯛やベラ、ときにはごんずいまでついてきて、
 『 こんな魚いじったら毒があってたいへんだよ 』
  と漁師のおじさんにどなられたこともございました。
   ・・・・・・・

  『 ろ 』をこいで沖に出て、ともえであじを釣ってきたり、
  地引網の中ではねて銀色に光るいわしを手づかみでもらってきたり、
  お月夜に潮にのってあがってきたいかが、なぎさに打ち上げられて
  いるのを朝早く取ってきたり、お魚ではずいぶん母の手をわずらわせ
  たことでございました。母はお魚のお料理が上手で・・・・・

  いつも懐かしく思い出しますのは、この海辺の家での楽しかった
  夏の日の水泳ぎや、にぎやかな夕食のことでございます。 」

 p755の写真は、小箱がひらかれ、お盆に並べられたきれいな貝殻たち。 

  
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待ち兼ねて

2024-10-09 | 安房
待ち兼ねて、それでもって、すっかり忘れてしまっていた、
公民館の講座アンケートの集計一覧が、やっと届きました。

「安房郡の関東大震災」と題して、8月28日に開催の講座でした。
その日アンケート記入して頂いて、10月8日にその集計結果届く。

これで、やっと講座の感想を読むことができました。
再度聞きたいと書き込んでくださった方がおります。
ここには、アンケートに答えて下さったコメントを引用。
ちなみに、参加者は15名で、その内の70歳代以上が12名。
60歳代が3名でした。

〇 関東大震災の内容をもっとくわしく教えてほしい。(もっと時間をかけて)

〇 今日の関東大震災の話とプリント等を、もう一度どこかで
  企画してほしいです。たくさんの人に学んでほしい。

〇 歴史と防災を絡めた講座(今日受講できてよかったが)
  度々催して欲しい。


〇 安房地方での震災の状況を具体的に聞けてよかった。

〇 講師も教材もすばらしかった。惜しむらくは講義時間が少なかった。・・

〇 安房郡の関東大震災は具体的に説明あり、
  とても良く理解するように資料と共に説明が、とても良かった。
  改めて関東大震災の事を身近に感じました。今後の対策や対応に参考に
  なりました。この資料と説明は多くの人に教えてほしいと思います。
  ・・・

〇 興味深い内容でしたが、時間が足りないですね。
  数回に分けて(参加が可能かは別として)だといいかな。

〇 南海トラフが話題になっている昨今、時宜を得た講話だった。

〇 関東大震災について知らなかった事が多く、
  説明を聞いて大きな震災だったのだと分かりました。

〇 歴史を絡めた防災の話を聞きたかったこと、
  折しも災害多発(現在も台風接近)の現在において、
  タイムリーな講座だったと思う。・・・

〇 震災が起きているので、良い話を聞かせて頂き、ためになりました。
  講師の話しは分かりやすく良かった。

〇 歴史に学べと言われていますが、今回の研修、とても
  意味のあるものでした。『安房震災誌』を読んでみたいと思いました。・・


うん。大部分の感想を引用させていただきました。
当日は、ほかの方の話もあったので、時間が思うようにとれなくて、
用意したプリントを端折りながら、あちらこちらと食い散らすように
語っていったので、こりゃ伝わったかなあと、心配しておりました。

アンケートで、感想を聞けたことでホッとしております。
こうして、手応えを頂けたことに感謝したいと思います。
これから、機会があれば語っていきたいと思うのでした。
参加されてコメントまで頂いてありがとうございました。

  

コメント (2)
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海嘯は最早来ない心配ない。

2024-09-20 | 安房
面白い本を手にしました。
東海大学出版会の「動物その適応戦略と社会」というシリーズの中の、
14巻「災害と人間行動」(1986年)。

そこに、1984年の日本海中部地震に関する考察が載っておりました。
パラパラ読みで、細部は端折りますが、
「海についての災害文化」という箇所に『誤報騒ぎの際』とはじまる
文がありました。

「・・・・・(その誤報騒ぎに)地震当日とは違って
『 海岸地区 』にいた人々はこれに加わらなかった。
地震当日は全員が避難した『 海岸地区 』では、
誤報騒ぎのときに2割足らずの人しか避難しなかった。
こうした対応の違いは、浜辺にいた人がどちらの場合にも海の様子を
自らの対応の決め手として非常に重視していることを示唆している。

地震当日、海の変化を危険だと判断して避難した人は15名中14名にのぼる。
誤報騒ぎの際にも有線あるいは口コミで津波のことを知った後、
71名中46名が海を見て危険はないと判断していた。

浜辺にいた人の対応をみると、彼らは公的な災害情報がなくても
海の様子が危険であれば避難し、公的な災害情報があっても
海の様子が危険でなければ避難していないことがわかる。

すなわち、公的な災害情報よりも
海の変化を観察して得られる体験的情報が
判断の決め手として優先されているのである。

この事実は2つの意味で注目すべきことである。

第1点として、
公的な災害情報はそれが体験的な情報と合致した場合にだけ
効果をもち得るということである。なぜならば、
体験的情報と公的情報が矛盾していた誤報騒ぎの場合には、
公的な災害情報が否定されているからである。

第2点として、海とともに暮らす田野沢の人たちには
海の変化がもつ意味を十分認識し、それを体験的情報とすることができる
『災害文化』をもっていることである。
そのため公的情報を否定し得たといえる。

今回の津波の犠牲者の大部分が、そうした『海についての災害文化』を
もたない人たちであったことを見過してはならないだろう。  」
                           (p166~167)


はい。東日本大震災の大津波の映像を目の当たりにした者としては、
なにをチマチマしたことを言っているのだろうと思われかねないのですが、
ここには、公的情報にも、誤報道はつきものであること。
そういう健全な判断力がためされていると言えそうです。
とっさの、臨機応変の判断力がためされる場合がある。

ということで、最後は安房郡の漁港があった船形町の
関東大震災の記述を引用しておわることに。

船形尋常高等小学校報から、

「正木清一郎翁は当時船形町長の要職に居られまして、
 齢70歳に近きも意気は壮者を凌ぐ程であった。
 
 ・・・大震災に遭ひ・・学校や役場は勿論倒潰し・・・

 責任観念の旺盛なる翁には早くも校門に現はれ、
 児童は職員は大丈夫かと叫ばれ・・

 翁曰く海嘯との叫びがするから
 あなたは(注:忍足清校長?)御影を・・別邸に奉遷しなさい、

 僕が海岸に参って様子を見て来るからとの言葉、
 御老体のこと危険なるべきことを申上ぐると、
 決して心配はない海嘯は沖合に見えてから
 逃れることが出来るものだ。
 僕に心配なく閣下の別邸に避難するがよいとのことにて、
 其の言に従ひました。

 間もなく翁は別邸に来り海嘯は最早来ない心配ない。
 只だ心配なのはあの大火災だ風向きによっては
 町の大部分は焦土と化してしまうと心配されて居られた。 」
         ( p910~912 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )




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隆起と津波と。

2024-09-13 | 安房
能登地震での海岸線の隆起の写真が印象深い。
じつは、房総半島も隆起しております。
けれど、隆起を説明する、むずかしさ。
例えば、お寺の階段の何段目まで津波が到達した記録があった。
という、事実を踏まえ、現在の海岸からの標高を示し注意を喚起する。
はい。役場の看板にその注意喚起の記載が残っておりました。

そこには、以前の隆起した高さを引いておくという視点がない。
その間違いを指摘しても、どうもピントこないらしく
話はそこで終わってしまうのでした。

うん。能登地震の隆起の話から、房総半島の隆起の話に
つなげていけば、簡単な話のなかで理解が深まる気がします。
その点で、いきなり東日本大震災の津波のイメージは禁物なのでした。
ローカルな意味では、房総半島と能登半島は身近な感じがいたします。

いよいよ、房総半島の隆起の話が理解しやすく話しやすい頃となりました。
まずは、能登半島の海岸隆起の写真を示して、
関東大震災の房総半島の隆起の資料をしめす。
それから、房総半島の関東大震災より前の元禄地震の津波へと話題を
もっていけば、元禄地震の実際の津波の高さが分かってもらえそうです。

はい。私は学者じゃなくって、一般の素人防災士。

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安房の関東大震災余話。

2024-09-12 | 安房
「安房郡の関東大震災」余話として10回並べたのでした。
最初は

① 「安房震災誌」にあった言葉『海の時代』と『牛乳の国』から
  房総半島の2枚の絵を紹介。青木繁『海の幸』と坂本繁二郎『うすれ日』。
  これが6月30日のブログにあげてありました。

② 御真影に関連して田尻久子著「橙書店にて」と「防災士教本」

③ 「安房震災誌」の千歳村の震災まぎわ「念仏を唱え」ていたことから、
  震災の安房での追悼会。石井光太著「遺体」へ。

➃ 梅原猛・瀬戸内寂聴『生ききる。」(2011年7月10日)

⑤ 「震災復興 後藤新平の120日」
  政池仁著「内村鑑三伝」

⑥ 「内村鑑三伝」から
  曽野綾子著「揺れる大地に立って」(2011年4月)と
  内村鑑三「後世への最大遺物」

⑦ 「帝都復興秘録」の孫引き

⑧ 保田町の鋸山

⑨ 南三原村民一同建立の「震災記念碑」(大正13年9月1日建立)
  「南三原千歳村耕地整理記念碑」

⑩ 「安房震災誌」に載る「安房郡震災被害状況図」が
  のちの各町村史に転載されていることを紹介
  三芳村史(昭和59年)・富浦町史(昭和63年)
  丸山町史(平成元年)・和田町史(平成6年・通史編下巻)


はい。1時間に満たない1年1回の講座の中で、
削られてゆくしかなかったこれら余話の方が、
ブログに書きこみして、楽しかったのでした。
また、余話の視点から浮ぶテーマがあります。
たとえば、地震には、常に津浪が結びつけられて語られ、
何の疑いも抱かないわけなのですが、流言蜚語のなかに、
津波が入っておりました(安房郡の関東大震災場合には)。
これは、語り考えて伝えておきたいテーマとしてあります。
うん。これについて、何か語れたらと思っております。

ただ思いつきをブログに書き込んでゆくことと、
改めて整理しテーマが思い浮かんでくることは、
それは、まったくの別物なのだと思い知ります。

ここからテーマが生きる段階へと踏み込む気分。
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石碑と紙碑と。

2024-09-09 | 安房
うん。今年は1月から、「安房郡の関東大震災」というテーマで
あれこれと思い浮かぶことをブログに記しておりました。

それが、8月28日に1時間講座としてひらいたのですが、
時間の配分も悪くって、うまく発表できませんでした。
何だか、このままに終わらせては中途半端を免れない。

ということで、もう一度、自分のブログを読み直してみて、
あらためて、紙面にまとめて、残しておきたいと思います。

はい。そんなことが思い浮かびました。
うん。その方向ですすめていくことに。

あらためて、私に思い浮かぶのはというと、
下三原龍神社にある石碑「震災記念碑」と、
安房郡役所発行の「安房震災誌」とでした。
はい。石碑と紙碑と。
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