和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

地震と世話焼き。

2009-03-19 | 地震
幸田文を以前読もうと思っていたのに、読めずにおりました。
幸田文の「木」「崩れ」が印象に残っておりました。
最近になって、平凡社から青木玉編で「幸田文しつけ帖」「幸田文台所帖」と2冊が発売になっております。また村松友視「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)が出ております。あとは平凡社新書で「幸田家のしつけ」が2009年2月13日に発売になっておりました。
ということで、私は「幸田文しつけ帖」を読んでみました。
雑文を青木玉(幸田文の娘)が編んだものです。わかりやすい言葉でかかれているのに通読がシンドイ。うん。だから今まで読まずにいたのだと、改めて分かるのでした(笑)。
まるで、詩集の言葉が、行あけもせずに、余白もなしに、つまって、並んでいるような緊張感があります(あるいは、落語の話芸を、活字にしてしまった読みにくい言い回しを感じることがあります)。それなのに幸田文ご本人は、ご自分の文章を感想文と心得ておられる。ここには、子供の頃の感想文のイメージが、そのままに成人の文章につながったような、そんな道筋が望めるような楽しさがあります。
一冊読みおえて、あれこれと本の気分にひたっていると、あらぬことを思い描くことが、たまに私はあります。
「幸田文しつけ帖」のあとがきを青木玉氏が書いているのですが、その最後の方にこうありました。「母の生きてきた八十六年を考えると、大変だったなと思うことの連続だ。そのどれもが、自分の選択の及ばないことが殆どといっていい。家族の病気も、父親の気むずかしさも、関東大震災も、戦争も、母の心がけでどうにかなるというものではない。そういう避け難い苦労の数かずに母はよくもめげずに切り抜けた。生れ持った陽気な性格と気力体力に負うところが大きい。・・」

ここに、関東大震災という言葉がある。
「幸田文しつけ帖」には最後に「幸田文年譜」がついている。
さっそく、そちらも見ることにします。
1904年(明治37年)生まれで、1990年(平成2年)に86歳で亡くなっております。1923年(大正12年)の関東大震災の時は19歳と年譜にあります。

「幸田文全集」(岩波書店)の第十八巻に
「渋くれ顔のころ」という文章がありました。こうはじまります。
「大正十二年九月一日は関東大震災の日なのだが、その日私は満十九歳だった。つまり誕生だったのである。晩には赤いごはんでもたこうという心づもりをしていたのだが、そんなことどころか、十一時五十分、ひどい揺れで縁ばなから庭へゆすりおとされ、やっと立木につかまった時には、もうあたりの様相が一変していた。自分のうちの屋根も隣近所の屋根も、みんな瓦をこぼして禿げ禿げになり、そこへ明るい天日がさしていて、目にはそういう大変を見ているのに、こわいとか身がふるえるとかいうことはなくて、なにかしばらくは、あっけらかんとした思いがあった。印象ふかい誕生日だった。」(p131)

この巻に「大震災の周辺について」という文章もあるのでした。そのはじまりこうでした。

「はじめにお断りしておくけれど、私は関東震災にであってはいるのだが、市内(当時は市)にいた人たちのような凄まじい体験はしていないのである。市外に住んでいたからで、隅田川の東、隅田堤からだらだらとおりて一丁ほどのところ、農家のしもたやと商店と工場がまざる、市の周辺村だった。地盤がいいとは思えない土地だし、家並みも立派には遠いものだったから、どの家でも被害のない家はなかったが、それでもバッタバッタの将棋倒しというわけでもなく、火事も近くまで燃えてきたが焼けどまってくれたし、怪我人は何人かあったようだが、圧死など悲惨な死は近所のかぎりではきかなかった。私の家も破損程度ですんだし、家族三人怪我もせず、飢え餓(かつ)えもせず、まずは関東震災にあった者の中で、いちばん難の軽かったものと思う。・・・」

7ページほどの文なのですが、無駄のない書きぶりです。
引用するにこしたことはないでしょう。

「あのとき、突然に揺れて、ガタピシものが落ちた、とおもう。縁はなからころがし落され、庭木につかまったが、これが私を振りもぎろうとするように揺れた。記録に当ったのではなく、私のおぼえなのだが、最初は上下動であとは横揺れだったのだろうか。なぜ立っていようとしたのだろう、木の根を抱いてしゃがんでいたほうが、ラクだったのではなかろうか。まともに立っていられないとこわくて、バカ力でふんばる。だが、ああいう時は無意識のうちに、逃げる体勢から立っていようとするのだろうか。とにかく恐怖感はすくないにこしたことはない。
恐怖感は、なにか作業をすればなおる。ゆり返しひまひまに、水を汲みため、足ごしられをし、食料衣類を運びだすなど。ただし家の中へ入るときは私は弟を見張りにした。つぶされてもまさか見殺しにはしまいからの用心だが、気ばたらきと作業は気持の委縮に即効がある。だが、またほかのショックがきた。怪我人。腕が付け根からぶらさがった血だらけな人を、二人の男が手かきにして通った。生れてはじめて見たおそろしさだった。従軍看護婦のうたの歌詞を思った――倒れし人の顔色は、野辺の草葉にさも似たり、というその通りの草の葉の葉色の顔が目をつむっていた。いまも忘れない。よほど気を呑まれたから、さも似たりなどがぼんやり浮上がったのだろう。
そのころ、出世前の若いものには浮世の無情や悲惨は見せたくない、というのが老人や大人の心掛けの一つだったようで、私の父もよく【見ようとするな、おまえたちの目はまだ柔らかいから、そういう惨(むご)いものは突刺さってしまって、終生消せない。だから、いいもののほうを沢山みておかなくては】といましめていた。でも事態がこうなっては、死の無情も怪我の無惨も見ないわけにはいかない。そこで『仏さんには回向のほかない』『怪我は外科』とけじめをつけることを説教され、【いつまでもオドオドしているのは、この際、あまったれもはなはだしい。はた迷惑な】としぼられた。こういう世話焼きは、ぜひしてもらいたい家長の役だとおもう。・・・
市内が大火事になっていたころだろう、中空には火災による強い風が流れているのがよくわかった。焼けたトタンが吸いあげられ、くるりくるりと舞いまわった。ずっと高いのはうす黒くみえ、低いのはくるりとまわるたびに日に光った。無気味な光景だった。これが斜めに切って急降下するときはこわい。どこでくるっと方向転換するか、目で追いながら逃げ足体勢になっている必要があった。わたし三寸の椎の木などガツッと折れた。」


この19歳の幸田文の体験から、晩年の「木」「崩れ」の文を読み解きたくなる。
そんな誘惑にかられます。
そう思いながら、幸田文著「月の塵」(講談社)をひらいておりました。
そこに、こんな箇所。
ひとつは「塔」という文章です。こう始まっておりました。
「奈良法輪寺の三重塔が、復元再建されるときいたのは、昨夏、暑いさかりの頃だった。」
「塔は着工から完成まで、三年の予定だときく。・・この塔の成就を見ていきたい願いをもつ。ものの生し立つのをみるのは、老いてはひとしおうれしく思うのである。老いて逢いたくない縁は、崩れをみること、消失を見ることである。・・・」


この次の文章は、「胸の中の古い種」というのでした。そこに

「・・無理をはじめるとは、おろかしいという。でも、無理だとか、としだとかで押えきれないのが、思いたったということだろうか。思いたつとは、発芽に似ている。」
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月の音。

2009-03-14 | Weblog
2009年3月2日読売歌壇の小池光選。
その最初

   月欠ける音の聞こゆると友が言いわれは夜な夜な耳澄まし待つ
                仙台市 小野寺寿子
この小池光氏の選評はというと、
【評】ふしぎな友人をお持ちの人。さらに本人もまたふしぎな人。どこからこういう発想が出てくるのだろう。つくづく感心する。短歌はミステリーが似合う詩型だ。

ここから、上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)へとつなげたいのでした。

上田氏はこう語っております。

「茶室をみるなら、やはり道路の露地門あるいは邸内の露地内からはじまって、外露地・内露地をめでながら、蹲(つくばい)で手をあらい口をすすいだのち茶室にあがるべきだろう。それも夕刻、月のあるときがのぞましい。」(p118)

これが、第六章「露地 月をみる」にあるのでした。
その六章の最後にこうあったのでした。

「人間に生きるエネルギーをあたえる空間は建物ではなく庭、すなわち自然だからだ。庭の木であり、草であり、花であり、苔であり、虫であり、鳥であり、わたる風であり、さしこむ日である。それらは自然であり、一休のいう虚空だ。その虚空のひとつに月がある。満月になればじっさいに月のエネルギーが、つまり月の引力が海の潮をよせてくる。名月の夜は大潮なのだ。そこで芭蕉は深川芭蕉庵で、月の庭をみてくちずさんだ。
    名月や門にさしくる潮頭(しおがしら)    」


このあと、第八章「回遊路 名所をあるく」に桂離宮が登場しております。

「桂離宮のばあいにはそれがはっきりしている。月である。月がうつくしくみえるとき桂離宮は最高の姿をみせるのだ。そこで桂離宮のよさをしるためには、月夜の晩にでかけなくてはならない・・・・・
ところがそういう認識も要望もないせいか、桂離宮の管理者である宮内庁は昼の桂離宮しかみせてくれない。桂離宮にかぎらず日本のおおくの寺々も、夕方四時半になると拝観終了である。ほんらい寺は、夜明けか、あるいは太陽が西にしずむ夕暮れが最高のときであるにもかかわらず、さっさと門をしめてしまう。・・・
建築史家の宮元健次は『桂離宮は、月の出をみるために書院や月波楼などの建物を高床にし、中天の月をあおぐために軒の出をみじかくきりそろえている』という。さらに建物の配置もよりよい月をみせるために苦心されているのだそうだ。・・・」
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詩と書と絵。

2009-03-13 | Weblog
宇野直人・江原正士著「李白」(平凡社)のはじめのほうにこうあります。

【宇野】漢字を目で見ながら追うと、それなりにイメージが広がって多少味わえるところがありますが、音声だけだと辛いですね。たとえば『空庭(くうてい)』ですと、音だけだと難しいかも知れませんが、字を見ればなんとなくイメージがわきますよね。

【江原】日本に入って来ていない漢字もあると聞いたのですが、漢字というのはそんなにたくさんあるものなのですか。

【宇野】ええ、中国だけで使われる漢字もありますし、逆に『国字』と言いまして、日本だけで使われる漢字もあります。『峠』『辻』『畑』『働』『躾』などですね。漢詩の中には、今は使われなくなった漢字もあります。

【江原】李白も当然、それを筆で書いていたわけで、書道と漢詩は切っても切れない関係ということでしょうか。

【宇野】そうですね、後世になると、詩と書と絵は三位一体と言われています。



ここに、「詩と書と絵は」と語られておりました。
そうだ、田辺聖子著「古典の文箱」にこんな箇所がありました。
ということで、以前の書評をもってきてみます。
田辺聖子著「古典の文箱」をkhipuにレビューを書いたのを、
ふらりと思い出しました。たいていは忘れたままになっているのですけれど。
たまたま、他のを探していて見つけるということもあります(笑)。



魅力の文箱です。

「あとがき」にこうあります。

「古い遠祖たちの心を受け継ぐ、というのは、かたちにあらわすと古典を愛し尊び、親昵(しんじつ)する。ということもその一つではなかろうか。

現代の若者には古典アレルギーが多い。漢字制限が行なわれ、漢文学教養がなおざりにされてゆく当節の学校教育だから、古典にも、うとうとしくなってゆくのは当然かもしれないが、それはまた、一つには、【もの書き】の努力不足かもしれない、と、この頃の私は思うようになった。若い人に古典のふかい滋味を説くのも、年齢的先輩のつとめ、そしてまた、【もの書き】としての義務でもあろう。」

「私の感触でいえば、人々の古典へのあこがれの地熱は、想像以上に熱いものがあるようだ。ほんの少しの手引き、あと押しがあれば。・・・」


産経新聞の2003年1月21日「追憶の一冊」に布施英利さんが「鉄腕アトム」を取り上げていました。アトムの誕生日が2003年4月7日。ということもあったのでしょう。そこにこんな言葉がありました。

「わが恩師・養老孟司先生は、マンガというメディアの、絵とセリフを組み合わせた構造は、日本語のつくりと同じだと指摘した。だとしたら、マンガを愛読することで、ぼくも日本語の感性が鍛えられたわけだ。・・」


この布施さんのバトンを、田辺聖子さんに受け取って語っていただきましょう。今回紹介の本にこうありました。

「王朝の人々は、字を書くのと同じように絵も描いた。手紙に走り書きしてそのそばにちょっちょっと簡単な絵を描いたらしい。絵は教養ある人のたしなみの一つであったようだ。『源氏物語』の『絵合』の巻で、光源氏が須磨謫居中、つれづれのままにスケッチした風景画が、最後に提出される。そのあまりの美事さに、ついに絵合わせの挑みは源氏の勝ちになる。

そういう本式、本格の絵でなくとも『落窪物語』の貴公子は、恋文の端にさらさらとマンガ風な絵を描いている。

字も絵も、王朝紳士は同じようにかきこなしたらしい。

いまの若い人も王朝文化の流れを汲んで、簡単なマンガなんか実に巧いものだ。私のところへくる未知の読者のお手紙にも、マンガを面白くあしらって、手紙の末尾には、『乱筆乱絵、失礼しました』と書かれてある。ほんとに感心してしまうほど、たのしげでノビノビと描かれてあっていいなあ、と思う。

マンガ家になるには辛い修業も必要だろうが、内々の親しい人へのメッセージや日記に描くマンガは自己流でよい。

ただ、マンガで自分のいいたいことを表現するとき、人は大なり小なり、人や自分を客観視し、距離をもたねばならない。そこがマンガの功徳である。

どうしても絵はにがてなの、とおっしゃる向きには、川柳はいかがだろうか。私が女性にいちばんすすめたい文芸は川柳である。・・・」ということで以下、川柳の話にうつります。

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月夜。

2009-03-11 | 安房
今夜は東に月が出ています。満月に見えます。
「房総のうた」(未来社)に大正の歌が紹介されていました。

大正13年12月号雑誌「金の星」に「証城寺の狸囃子」

 つん つん 月夜だ
 みんな出て
 来い 来い 来い


大正7年11月号雑誌「赤い鳥」に「かなりや」

 月夜の海に浮べれば
 忘れた唄をおもいだす


大正8年に「浜千鳥」が発表された

 月夜の国へ 消えてゆく
 銀の翼の 浜千鳥

大正12年に「月の砂漠」が作られ・・・






 
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勝手読み。

2009-03-10 | Weblog
養老孟司著「読まない力」(PHP新書)を買いました(笑)。
ちょうど、浪花節好きが、何回も聞きなれているのに、また聞きたくなるような。そんな感じで買いました。
浪曲師・広沢寅造は「バカは死ななきゃなおらない」と語るのですが、
浪花節じゃなく「養老節」は、さしあたり「バカの壁」以来のフレーズを繰返しているわけです。この新書にしても、「まえがき」の7ページを読めば、それこそ本文は「読まない」でもいいわけで。そうなんですが、私は買いました(笑)。

その肝心な「まえがき」を引用。
たとえば、こんな箇所。

「本を読むな、という教育を受けた。大学院生のときに、恩師からそういわれた。ただし専門書のことである。本を読むと、考えなくなるというのである。古くはソクラテスもそういったらしい。・・文字は批判的思考を鈍らせる。そう考えていた。
・・・その意味では、私はよい教育を受けた。小学校二年生のときに、それまで使っていた国語の教科書に、先生にいわれて墨を塗ったからである。私の前後の世代には、その記憶がはっきりあるはずである。当時は大切だった教科書に、あそこはダメ、ここはダメと、子どもが墨を塗ったんだから、みごとな教育だったと思う。・・「正しく」書かれた教科書を使わないと、「子どもが悪くなる」と大人は信じているらしい。私は信じない。だって、教科書が間違ってたら、墨を塗りゃあいいんだから。」

ちなみに、養老孟司氏は1937年生まれ。
ところで、河合隼雄氏は1928年生まれ。
まえがきで、養老さんは河合さんのことを書いておりました。

「平成20年に、前年亡くなられた河合隼雄元文化庁長官を追悼する会がたまたま二つあった。そこでお話をさせていただく機会があたので、河合さんのいわれたことを思い出そうとしたら、一つしかないことに気づいた。河合さんはまじめになると、『私はウソしかいいません』といわれたのである。『日本ウソツキクラブ』の会長をされていたくらいだから、私にだけではなく、いつもそういっておられたに違いない。それ以外は、ダジャレしかいわれなかった。
この叙述は典型的な自己言及の矛盾で、意味がない。『ウソしかいわない』のが本当なら、河合さんはここで本当のことをいってしまっているのだから、この叙述はそもそも成立しない。河合さんの真意は、言葉なんてその程度のものですよ、ということだったと私は思う。臨床心理の場で、ひたすら患者さんの話を聞いた人の言葉である。拳拳服膺(けんけんふくよう)、しっかり耳を傾け、記憶すべきであろう。」

このあと、こんな言葉がありました。

「言葉は意識の産物である。現代は意識優先、つまり脳化社会で、だから情報化社会になる。人生は『意識のみ』になってしまった。」


以上は、「まえがき」からの引用。
ですが、これだけじゃ、いけないかなあ。
すこし、本文を引用します。
そこに、「勝手読み」という言葉がありました。

「いささか考える力に欠けている。学生を教えているあいだ、よくそう思ったものである。もう一押しできないものか。その一押しがむつかしい。碁や将棋であれば、相手より一手先が読めたら必勝のはずなのである。しかし下手な人は、相手の一手先どころか、いわゆる勝手読みをする。相手の出力を自分の都合のいいほうに来る、と勝手に決めてしまう。」(p94)

「読まない力」を文字通り信じると、さっそく「勝手読み」という読みがはじまってたりする。
ああ、こんな箇所もありました。

「教育に外国も日本もない。教育の基本は学問で、だから江戸時代ですら基礎は四書五経だった。考えてください。これは中国の古典ですよ。それで育った人たちが蘭学を学び、明治維新を完遂したのである。そろそろ親もしっかりしたらどうかと思う。教育なんて、四書五経で十分かもしれないのである。」(p79)

ここには、教育と四書五経と蘭学と明治維新とが、短い文に肩を並べていたりして、驚かされます。
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火の見の高さに。

2009-03-09 | 安房
千葉県立安房南高等学校の「創立百年史」に、
昭和38年3月高校15回卒の栗坪和子(旧姓・中山)氏の回想文がありました。
題して「蝉の声」とあり、こうはじまっておりました。
「安房神社という社が下総の国市川にある。安房の国からだいぶ離れたこの地にこの社を見つけた時、とても懐かしかった。今住んでいる家に近いので時折り訪ねている。小高い山のふもと、黒松に囲まれた簡素な佇まいの社である。」
さて、回想はというと、
「私は入学後、新聞部に入った。顧問は、藤代千代先生だった。藤代先生は、安房高女時代の母の担任の先生でもいらっしゃったが、いろいろとご指導を賜った。私が、大学を卒業し、新潮社という出版社で三十八年間、本作りに専念することになったのも、思えば、高校時代の、あの新聞作りに端を発していたのかもしれない。そして、教育者藤代先生の大きな力を思う。・・・現職の頃、ささやかだったが、何回か、図書室に自社本を寄贈させていただいたこともあった。平成十八年八月、私は久しぶりに安房南高校を訪ねた。蝉がひっきりなしに鳴いている。・・そういえば、初夏の頃、合唱コンクールがあったっけ。・・蝉たちの鳴く声は、遠い日のあの私たちの歌声のようだ・・ここ安房の国の夏は悠久だ、と思った。」(p133)

新潮社といえば、新潮社の編集長であった齋藤十一氏のことが思い浮かびます。
齋藤美和夫人の談話の中にそれはありました(「編集者 齋藤十一」冬花社)。
大学生の頃です。
「大学生活よりも本を読む方が楽しくなってきた齋藤は、どこか空気のいいところで本をじっくりと読みたくなったそうです。何かやりたくなると居てもたってもいられなくなるのは、性分なのですね。・・
目的地は千葉。齋藤は子供のころ、夏になると一家で内房の保田にある農家の離れで過ごしていましたから、土地勘があったのです。中学生のころには保田から外房の鴨川まで下駄で歩き通したこともあって、その途中の吉尾村(現・鴨川市吉尾平塚)という集落が心に残っており、あそこに行きたいと考えたそうです。結局、齋藤はこの吉尾村のお寺の客間を紹介されてほぼ一年の間、昼間は近所のお百姓の畑を手伝い、夜は好きなだけ本を読んで過ごしました。そのころには文学作品だけでなく、歴史書や哲学書に興味を持つようになっていたようです。
本を読んだらすぐに処分してしまう人でしたが、家の本棚の奥には何冊か古い本が残っています。
   「プラトン 対話篇」
   「ヘーゲル全集 歴史哲学」
   「カント著作集 一般歴史考」
   「パスカル 瞑想録」
   「モンテーニュ 随想録」
   「マキアベリ選集 ローマ史論」
   「三木清著作集」
   「西田幾太郎全集」
    内藤湖南「支那論」「支那絵画史」
   「詩学序説」ヴァレリー(河盛好蔵訳)
   「古代オリエント文明の誕生」アンリ・フランクフォート
   
他にもありますが、処分できない、思い入れのある本だったのでしょう。
・ ・・・・・・」

ところで、美和氏の談話で興味深い箇所がもうひとつあります。

「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、表紙に関することを担当していました。どのような表紙にするか、試行錯誤がつづきました。編集長の佐藤亮一さんから『出版社から初めての週刊誌だから作家の顔で』と言われて、作家の写真を表紙の大きさに焼いてみたりしたのですが、いくら立派な顔であっても、しょせんは『おじさん、おばさんのアップ』で、あまり面白くない。『やっぱり絵にしよう』と、そのころ若手から中堅の位置にあった高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに描いていただこうと考えたのですが、これもなかなかうまくいかない。そんなときに齋藤が『こんな人がいるよ。研究してみる価値はるんじゃないか』と教えてくれたのが、おりしも第一回文芸春秋漫画賞を受賞したばかりの谷内六郎さんでした。」

ここで谷内六郎が登場するのでした。
安房南校の「百年史」・齋藤十一・谷内六郎と続きました。

週刊新潮の創刊号の表紙には絵の中に言葉が書き込まれておりました。
「上総の町は 貨車の列 火の見の高さに 海がある」と谷内六郎の文字が書き込まれておりました。そして「表紙の言葉」というのが雑誌についているのでした。そこも引用しておきましょう。
「乳色の夜明け、どろどろどろりん海鳴りは低音、鶏はソプラノ、雨戸のふし穴がレンズになって丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈。兄ちゃん浜いぐべ、早よう起きねえと、地曳(じびき)におぐれるよ、上総(かずさ)の海に陽が昇ると、町には海藻の匂いがひろがって、タバコ屋の婆さまが、不景気でおいねえこったなあと言いました。房州御宿(おんじゅく)にて」 
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煙花三月。

2009-03-08 | 詩歌
一海知義(いっかいともよし)氏の指摘にこうあります。

「ほとんどの日本人がよく知っている漢詩の詩句を挙げれば、まず第一に『国破れて山河在り』(杜甫「春望」)、そして『春眠暁を覚えず』(孟浩然「春暁」)・・・」(p38「漢詩入門」岩波ジュニア新書)とあります。第二番目に「春眠あかつきを覚えず」がある。

さてっと、宇野直人・江原正士著「李白 巨大なる野放図」(平凡社)をめくっていたら、その孟浩然が出てきました。李白よりも孟浩然は十年ちょっと年上の大詩人。「李白はたいへん尊敬していたようです」(p102)と宇野氏が語っております。興味深いので、もうすこし宇野氏の語る孟浩然を引用しておきます。

「ユニークな人で、科挙(公務員試験)に合格しなかったので、官職につけなかったんです。それで一生、放浪隠居の生活を繰り返しました。ただ、詩の才能がたいへん有名で、名士として交友関係は広かったんです。『春眠、暁を覚えず』で知られる『春暁』という詩を作った人です。昔の中国では役人は朝が早く、星が見えるうちから役所に行かなくてはいけません。でも孟浩然は仕事がないので、暁を覚えず、日が昇っても寝ていられたわけです。・・悲しい詩が多いです。」

その孟浩然を、李白は詩にしておりました。ここでは宇野直人氏の本にはないのですが、武部利男訳をもってきます。

  「黄鶴楼(こうかくろう)で孟浩然が広陵にゆくのを送る」と題された詩です。

  友人は西のかた黄鶴楼にわかれをつげ
  かすみ立つ三月 陽州へと下ってゆく
  たった一つの船の帆があおい山のかなたに消え
  あとにはただ長江が空のはてに流れてゆくのみ

ところで、話しはかわるのですが、李白の詩「静夜思」は、一海氏によれば日本で何番目ぐらいによく知られているのでしょうか。次にその「静夜思」を、これもまた武部利男訳で引用してみます。

   静かな夜の思い

  寝台の前にさしこんでくる月の光を
  ふと地におりた霜かとおもった
  頭をあげては山の端の月をながめ
  頭をたれてはふるさとのことを思った

ここは、宇野直人氏と江原正士氏との対話を引用してみたいところです。

【宇野】・・前半後半に分けますと、前半は描写で、月がメインです。・・月の光、霜、明るいんですね。
【江原】イメージがわぁーっと湧いてくる、すごくきれいな表現ですね。
【宇野】それを受けて後半、気持ちの描写に移ります。悲しい気持ちです。床にさしている月の光のもとをたどって李白はだんだん視線を上げます。すると窓の外に山があり、そこに月がかかっているのを見つけた。『顔を上げて遠くの山にかかる月を眺め』、故郷の峨眉山の月を思い出したんですかね。そして悲しくなって、だんだん視線が下がってゆく、『それから私はうつむいて、故郷を懐かしむ気持ちに沈んでしまった』。
【江原】望郷の念がすごく強いんですが、気持ちも鬱ですね。『地上の霜』というたとえがすごく美しいなと感じたのですが、こういう表現は漢詩にたくさんあるのですか。
【宇野】李白の特色だと思います。月の光が満ち溢れる透明さや明るさを述べ、その後でなにか悲しい気持ちを述べるパターンが、これからいくつも出て来ます。
【江原】ということは、李白にとっては月の光は悲しみ・・・。希望や明るさ、ロマンチックなほうには行かないんですね。どちらかと言えば、テンションの下がった気持ちを代弁していると。
【宇野】そのような傾向が強いですね、悲しみを誘い出すと言いますか。月はすべての人が同じように見ますから、月を見ると、「遠くにいる親しい人もこれを見ているんだろうな」と悲しい気持ちになりがちです。あと、一つ異説がありまして、一句めの「牀前(しょうぜん)」を「寝台」と訳しましたが、「屋外の井戸端」ととる説もあります。その場合、李白は夜中に外に出ていることになります。眠れなくて外に出ている。そうすると、一層辛そうな、悲しそうな気持ちが強調されます。
【江原】夜眠れなくて、つい外に出てしまうという、そっちのほうが悲しいですね。ストレスが相当ありそうな。就職活動がまだうまくいっていないのがよくわかります。(p100~101)


この本「李白」は、対話形式で詩が紹介されてゆきます。
おもわず、漢詩が息づいてくるような対話になっております。
そういうときは、「デパ地下の試食」よろしく、一口味わってみる。そして試食は、ついつい、もう一口。引用したくなります。

【宇野】・・ところが李白の不思議の一つなのですが、彼の伝記をいくら探しても科挙の受験した形跡がないんです。
【江原】でも後に登用されていますよね。
【宇野】ええ。能力のある人は試験を通過せず、推薦によって登用される場合もあって、李白はそれに該当するんです。・・・李白は自分の才能に絶大な自信があったので、あえて科挙を受けずに推薦のルートで職につこうと決意を固めていたという説があります。
【江原】それでずっと運動して来たんですか。でもことごとく失敗していますよね。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・
【宇野】・・・また別のところに、酒癖の悪い者は官僚になれないという項目があるんです。
【江原】ははは、先生、李白はどうだったんでしょうか。
【宇野】悪かったでしょうね。・・
あとで長安を追放されてますしね。李白の酒癖が悪くて、酔った勢いで玄宗皇帝の側近に「俺の靴を脱がせろ」と言って脱がせた、それを根に持った側近が玄宗皇帝に告げ口をしたせいだと言われています。
【江原】酒癖が悪いとだめというのは、今も同じですけどね。
【宇野】そうですね。でも才能さえあれば採用されますから、やはり抜け道はあるでしょう。(p121~123)



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金粉。

2009-03-07 | 安房
大正制定の安房高校旧校歌は、こうはじまっておりました。

 あした旭日を太平の
 洋(なみ)の彼方に迎へ出て
 夕(ゆうべ)夕陽を東海の
 富士の高嶺に送り入る
 ああ美はしの安房の国
 ああ懐かしの安房の国

これは明治36年制定校歌の次に作られた校歌でした。作詞のエピソードがあります。
「大正五年には『晨旭を太平の』で始まる校歌が制定された。
作詞は辻橋教諭の後任の岡本作次郎教諭。大正四年、長狭地区の家庭訪問で鴨川の旅館に一泊した際、翌朝太平洋から昇る朝日を見て感激、一気にこの詞を書き上げたという。曲は東京高等師範の水泳部部歌を踏襲。部歌の作曲は神保格氏。」(忍足利彦編著「安房の校歌と応援歌」・p247)

ちょうど、安房高は内房で東京湾の側にあり、鏡が浦から富士山が望める位置にあります。
一方の鴨川は外房で太平洋を望む雄大さがあります。
同じく外房にある和田中学校の校歌は昭和40年制定で、
最初の2行は、こうはじまっておりました。

  青潮遥か 太平洋
  海の太陽 燃え上がる

ところで、青木繁が滞在した、房州布良は、太平洋に面していながら、「夕(ゆうべ)夕陽を東海の/富士の高嶺に送り入る」場所にあるのでした。
山口栄彦著「鯨のタレ」(多摩川新聞社)に、こんな箇所があります。

「昭和36年6月19日・・・長谷川広治の三人は、小石川の福田蘭童(青木繁の子供)の家を訪ね、記念碑の建設について懇談した。懇談は終始和やかだった。・・・長谷川は、たねの話として懇談の様子を次のように書き留めた。」
その書き留めた話のなかに
「三回目に『海の幸』のデッサンをした。書いたのは陽の落ちる頃だった。元の絵は金粉を使った。金粉は、保田まで買いに行ったが、本物がなく色が冷めてしまった。・・」(p328)
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図書館へ。

2009-03-06 | 安房
館山の図書館へ。
ちょうど、近くへ行く機会があったので、寄ってみました。
安房節について、ちょっと調べたかったのでした。
図書館の方が丁寧に調べてくれました。
房総の民謡とかいう冊子を探してくれました。
そこには、布良にある碑に記された言葉もありました。

    伊豆じゃ稲取 房州じゃ布良よ
    生きな船頭さんの出るところ
    ~ エー八間間口の土ど倉よりも、
     良いかか持ったほうが一生の幸せ アイヨーイ ~

    
    あー千倉へだてて どんとうつ浪は コラサーイ
    可愛い お方のよー 度胸さだめーな


    船頭巻くなら高帆はおよし 
    アイヤイヤイト 風になさけはあるものだ
    チャンがとってきたイカなます

    港出るとき引かれた袖が 
    アイヤイヤイト 沖の沖まで気にかかる

    岡本港は入れには良いが
    アイヤイヤイト 出るときゃ別れの波が立つ
    エーそうだそうだ雨そうだよ
    早くしねいと降ってくるよ アイヨー

    ハァエー アイヨー 波も静かな岡本浦で 
    アイヤイヤイト 歌う安房節ゃ主の声
    来たかさしたかアジコがよ
    トウゴロナマスは骨っぽいよ アイヨー
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安房節

2009-03-03 | 安房
朝日新聞千葉支局編「房総のうた」(未来社・1983年)に、4ページほどの「安房節」紹介の文が掲載されております。それが私にはたいへんに興味深い文なのでした。短いので全文を紹介したくなるのですが、まあ、ちょこちょこと。たとえば、こんな箇所。

「野趣に満ち、間の長い荒削りな感じだが、どこか哀愁を漂わせている。しかも、囃子(はやし)が、どの歌も違い、方言や地名が入っている点が特色だ。安房節を研究している日本交通常務の松尾譲治さんは、『私の集めた歌詞は約六十だが、面白いものがある。安房節は富崎、相浜、布良、神戸、館山、船形など限られた地域で歌われたものだが、館山より相浜、布良あたりの方が、男っぽく漁師の歌らしい。・・・』」

ところで、この短文は引用からはじまっておりました。
それは「作家林芙美子が『文芸春秋』の昭和26年3月号に載せた『房州白浜海岸』の文章の一節」からの引用なのです。では、はじまりの箇所の引用を。

「私は房州特有の古い民歌を聞きたいと注文すると、時丸さんは、この正月にNHKで放送したのをやりましょうと、次のような歌を、太いさびのある、いい声で唄ってくれた。

    あいよおい・・・・
    マグロとらせて、
    万祝い着せて
    詣りやりたい、
    ああ高塚へ
      (中略)
    ああ港出る時、
    ひかれた袖が、
    沖の沖まで気にかかる、
    ち、ちげねえよ、
    そんそこだよ、
    島の鳥がおろろん、
    ろんかなあえ
    ・・・・・・・

これは安房節というのだそうだが、如何にも、海に向って歌う漁歌である。」



ここで、林芙美子が、お座敷唄として、時丸さんから聴けた歌詞が、鮮やかな印象を残すのでした。
それが、どうしたことか、たとえばインターネットで検索しても、安房節の記念碑の歌詞しかお目にかかれないのが残念。
松尾譲治氏が「私の集めた歌詞は約六十だが、面白いものがある」という豊かさへはつながらないのでした。
せめてのこと、時丸さんの歌詞を見てゆくことにいたしましょう。
ここでは、時丸さんの歌詞の背景を、きちんと説明してくれるような文。
それは、田仲のよ著「海女たちの四季」(新宿書房・1983年)。その中に、

「お伊勢参りや鎌倉のはんそう様は遠い他国にありますが、県内のも昔から漁師やおかみさん達がかならずお参りするところが幾つかあります。高塚不動尊と三ッ石山観音です。高塚は旧隣村大川とその向こうの千田との境にある山で、不動尊があります。竜神様もおまつりしてあります。昔は旧正月28日が大祭でした。このあたり一番の大祭りで子供たちの楽しみにする正月の行事でした。どの家でも、かならずお参りします。山の頂上まで一生懸命登り、高い山の頂きまで登ると、すごく信心がきくような気がしたものです。・・・・・・
高塚へ行く時は一張羅を着ます。私も結婚の翌年亭主と一緒に、一張羅でお参りに行きました。考えてみれば亭主と二人で出かけたなどというのは、これが最初で最後だったことに気づきます。どこへも行ったことがないのです。
その亭主がよくいっていました。三陸漁に行く時、船から高塚が見えなくなると、自由になったあ気がする。三陸からの帰り、勝浦の、はな(でっぱり)を曲がると高塚が見えてくる。・・・高塚山は信仰の山、というばかりでなく、房総沖で働く釣り漁師には欠かすことのできない大切なヤマダテの山(漁場位置を割りだす内陸の標的)にもなっています。」(p186~187)

歌詞の中の「高塚」という地名は、この高塚不動尊のことなのでしょう。
(ちなみに田仲のよ著「海女たちの四季」は2001年に新版が出ており、いまでも新刊として買えます)
普通は、漁師の記録は残らないわけですが、時丸さんの太いさびのある唄い声にのせて、浮かびあがる安房節の背景というものがあります。
もうすこし田仲さんの本から引用してゆきます。
そこに、「突きん棒のふるさと、半後家のむら」という文があります。
こうはじまります。

「白間津は、あま(海士・海女)の村というより、突きん棒の村でした。子供のころの冬の朝、寝床から飛び起きると外に出て竹やぶの竹のゆれ方をみて、『今日は大川の方から風が吹いてくるよお』と、大声で家の中にいる父母たちに怒鳴っものです漁師は風で仕事をします。それは東よりの風だと、その日はカジキが浮くといい、家の船、日蓮丸が父と若い衆を乗せて出港する突きん棒日和であり、大西(西からの強風)が吹くと時化のため父が家にいる・・・」

「突きん棒漁は朝出て夕方帰る島廻り(伊豆大島周辺)の[春漁]が終わると、三陸・北海道沖へ出る夏の旅漁になるのでした。この地方はよく靄が出るそうで、その靄の中に若い衆を乗せたテンマを見失った話を父がしていました。私が小学校五年の夏です。気がついたら靄が立ちこめ、テンマが見えない。ひと晩中気狂いのように探したがダメ。翌朝カジキの荷物で沈みそうなテンマをようやく見つけた、というのです。テンマの若い衆は眠ることもできず、夜通し櫓を操って迎え船を待っていたわけです。櫓押しは突きん棒船乗りのイロハでした。無謀といえばそれまでですが、父は台湾まで出掛けました。昭和七年のことです。海図がないので尋常小学校の教科書の地図を見て走ったそうです。行く先々で漁師に日和を聞き、キールン(基隆)という所で一年ぐらいカジキを突いてきました。・・・
突きん棒村の正月は楽しかった。豊漁で新年を迎えると万祝を着た一団が氏神の日枝神社へ向かうのでした。船主がボーナスとともに乗組員に配る独特な晴れ着が万祝です。先頭に家の船、日蓮丸と染め抜いた印旗を持った若い衆。その後に父と乗組員がつづくのでした。父が配った万祝は濃い藍色の地に船名、鶴亀、七福神、波などが朱や黄色、白で染めてあり、帯をせず羽織るだけですから風にあおられて美しくはためくのでした。」

「・・夫の船です。私は用意した着換えをもって村の港へ見送ります。これで半年会えないと思うと涙が出て、どうにも仕方がなかった。男たちは内心をかくして平気な顔をしていますが、どこの嫁も泣きの涙で別れます。一緒に住んだのが三ヵ月、夫は旅に出ました。船を見送ると、船ごとに嫁たちがかたまって神社へ行ってオコモリをします。最初に、漁師の守り神を祀ってある青峯山をおがみます。

    あんらくや、せかいをまもる
    あおのみね
    かいじょうのなんを
    すくいまします

これを三回繰り返す。御詠歌です。これが終ると集落の西のはずれにある三ッ山地蔵尊に参ります。ここではまた別の御詠歌です。その後、船主の家でも一度お祈りし、ご馳走をいただき、おひらきにします。夫の帰りは十二月の末。留守を守り半年堪える[半後家]の生活がこうして始まるのでした。その後何十年も一年の半分、それ以上の後家生活を送ることになります。突きん棒村の半後家暮らし。それは白間津の嫁のきまりでした。・・・」

時丸さんの「太いさびのあるいい声」は、もう安房でも聞くことができないのでしょう。ですが、安房節の歌詞の背景を追おうとするなら、田仲のよさんの本に探ってみることができるのでした。
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