幸田文を以前読もうと思っていたのに、読めずにおりました。
幸田文の「木」「崩れ」が印象に残っておりました。
最近になって、平凡社から青木玉編で「幸田文しつけ帖」「幸田文台所帖」と2冊が発売になっております。また村松友視「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)が出ております。あとは平凡社新書で「幸田家のしつけ」が2009年2月13日に発売になっておりました。
ということで、私は「幸田文しつけ帖」を読んでみました。
雑文を青木玉(幸田文の娘)が編んだものです。わかりやすい言葉でかかれているのに通読がシンドイ。うん。だから今まで読まずにいたのだと、改めて分かるのでした(笑)。
まるで、詩集の言葉が、行あけもせずに、余白もなしに、つまって、並んでいるような緊張感があります(あるいは、落語の話芸を、活字にしてしまった読みにくい言い回しを感じることがあります)。それなのに幸田文ご本人は、ご自分の文章を感想文と心得ておられる。ここには、子供の頃の感想文のイメージが、そのままに成人の文章につながったような、そんな道筋が望めるような楽しさがあります。
一冊読みおえて、あれこれと本の気分にひたっていると、あらぬことを思い描くことが、たまに私はあります。
「幸田文しつけ帖」のあとがきを青木玉氏が書いているのですが、その最後の方にこうありました。「母の生きてきた八十六年を考えると、大変だったなと思うことの連続だ。そのどれもが、自分の選択の及ばないことが殆どといっていい。家族の病気も、父親の気むずかしさも、関東大震災も、戦争も、母の心がけでどうにかなるというものではない。そういう避け難い苦労の数かずに母はよくもめげずに切り抜けた。生れ持った陽気な性格と気力体力に負うところが大きい。・・」
ここに、関東大震災という言葉がある。
「幸田文しつけ帖」には最後に「幸田文年譜」がついている。
さっそく、そちらも見ることにします。
1904年(明治37年)生まれで、1990年(平成2年)に86歳で亡くなっております。1923年(大正12年)の関東大震災の時は19歳と年譜にあります。
「幸田文全集」(岩波書店)の第十八巻に
「渋くれ顔のころ」という文章がありました。こうはじまります。
「大正十二年九月一日は関東大震災の日なのだが、その日私は満十九歳だった。つまり誕生だったのである。晩には赤いごはんでもたこうという心づもりをしていたのだが、そんなことどころか、十一時五十分、ひどい揺れで縁ばなから庭へゆすりおとされ、やっと立木につかまった時には、もうあたりの様相が一変していた。自分のうちの屋根も隣近所の屋根も、みんな瓦をこぼして禿げ禿げになり、そこへ明るい天日がさしていて、目にはそういう大変を見ているのに、こわいとか身がふるえるとかいうことはなくて、なにかしばらくは、あっけらかんとした思いがあった。印象ふかい誕生日だった。」(p131)
この巻に「大震災の周辺について」という文章もあるのでした。そのはじまりこうでした。
「はじめにお断りしておくけれど、私は関東震災にであってはいるのだが、市内(当時は市)にいた人たちのような凄まじい体験はしていないのである。市外に住んでいたからで、隅田川の東、隅田堤からだらだらとおりて一丁ほどのところ、農家のしもたやと商店と工場がまざる、市の周辺村だった。地盤がいいとは思えない土地だし、家並みも立派には遠いものだったから、どの家でも被害のない家はなかったが、それでもバッタバッタの将棋倒しというわけでもなく、火事も近くまで燃えてきたが焼けどまってくれたし、怪我人は何人かあったようだが、圧死など悲惨な死は近所のかぎりではきかなかった。私の家も破損程度ですんだし、家族三人怪我もせず、飢え餓(かつ)えもせず、まずは関東震災にあった者の中で、いちばん難の軽かったものと思う。・・・」
7ページほどの文なのですが、無駄のない書きぶりです。
引用するにこしたことはないでしょう。
「あのとき、突然に揺れて、ガタピシものが落ちた、とおもう。縁はなからころがし落され、庭木につかまったが、これが私を振りもぎろうとするように揺れた。記録に当ったのではなく、私のおぼえなのだが、最初は上下動であとは横揺れだったのだろうか。なぜ立っていようとしたのだろう、木の根を抱いてしゃがんでいたほうが、ラクだったのではなかろうか。まともに立っていられないとこわくて、バカ力でふんばる。だが、ああいう時は無意識のうちに、逃げる体勢から立っていようとするのだろうか。とにかく恐怖感はすくないにこしたことはない。
恐怖感は、なにか作業をすればなおる。ゆり返しひまひまに、水を汲みため、足ごしられをし、食料衣類を運びだすなど。ただし家の中へ入るときは私は弟を見張りにした。つぶされてもまさか見殺しにはしまいからの用心だが、気ばたらきと作業は気持の委縮に即効がある。だが、またほかのショックがきた。怪我人。腕が付け根からぶらさがった血だらけな人を、二人の男が手かきにして通った。生れてはじめて見たおそろしさだった。従軍看護婦のうたの歌詞を思った――倒れし人の顔色は、野辺の草葉にさも似たり、というその通りの草の葉の葉色の顔が目をつむっていた。いまも忘れない。よほど気を呑まれたから、さも似たりなどがぼんやり浮上がったのだろう。
そのころ、出世前の若いものには浮世の無情や悲惨は見せたくない、というのが老人や大人の心掛けの一つだったようで、私の父もよく【見ようとするな、おまえたちの目はまだ柔らかいから、そういう惨(むご)いものは突刺さってしまって、終生消せない。だから、いいもののほうを沢山みておかなくては】といましめていた。でも事態がこうなっては、死の無情も怪我の無惨も見ないわけにはいかない。そこで『仏さんには回向のほかない』『怪我は外科』とけじめをつけることを説教され、【いつまでもオドオドしているのは、この際、あまったれもはなはだしい。はた迷惑な】としぼられた。こういう世話焼きは、ぜひしてもらいたい家長の役だとおもう。・・・
市内が大火事になっていたころだろう、中空には火災による強い風が流れているのがよくわかった。焼けたトタンが吸いあげられ、くるりくるりと舞いまわった。ずっと高いのはうす黒くみえ、低いのはくるりとまわるたびに日に光った。無気味な光景だった。これが斜めに切って急降下するときはこわい。どこでくるっと方向転換するか、目で追いながら逃げ足体勢になっている必要があった。わたし三寸の椎の木などガツッと折れた。」
この19歳の幸田文の体験から、晩年の「木」「崩れ」の文を読み解きたくなる。
そんな誘惑にかられます。
そう思いながら、幸田文著「月の塵」(講談社)をひらいておりました。
そこに、こんな箇所。
ひとつは「塔」という文章です。こう始まっておりました。
「奈良法輪寺の三重塔が、復元再建されるときいたのは、昨夏、暑いさかりの頃だった。」
「塔は着工から完成まで、三年の予定だときく。・・この塔の成就を見ていきたい願いをもつ。ものの生し立つのをみるのは、老いてはひとしおうれしく思うのである。老いて逢いたくない縁は、崩れをみること、消失を見ることである。・・・」
この次の文章は、「胸の中の古い種」というのでした。そこに
「・・無理をはじめるとは、おろかしいという。でも、無理だとか、としだとかで押えきれないのが、思いたったということだろうか。思いたつとは、発芽に似ている。」
幸田文の「木」「崩れ」が印象に残っておりました。
最近になって、平凡社から青木玉編で「幸田文しつけ帖」「幸田文台所帖」と2冊が発売になっております。また村松友視「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)が出ております。あとは平凡社新書で「幸田家のしつけ」が2009年2月13日に発売になっておりました。
ということで、私は「幸田文しつけ帖」を読んでみました。
雑文を青木玉(幸田文の娘)が編んだものです。わかりやすい言葉でかかれているのに通読がシンドイ。うん。だから今まで読まずにいたのだと、改めて分かるのでした(笑)。
まるで、詩集の言葉が、行あけもせずに、余白もなしに、つまって、並んでいるような緊張感があります(あるいは、落語の話芸を、活字にしてしまった読みにくい言い回しを感じることがあります)。それなのに幸田文ご本人は、ご自分の文章を感想文と心得ておられる。ここには、子供の頃の感想文のイメージが、そのままに成人の文章につながったような、そんな道筋が望めるような楽しさがあります。
一冊読みおえて、あれこれと本の気分にひたっていると、あらぬことを思い描くことが、たまに私はあります。
「幸田文しつけ帖」のあとがきを青木玉氏が書いているのですが、その最後の方にこうありました。「母の生きてきた八十六年を考えると、大変だったなと思うことの連続だ。そのどれもが、自分の選択の及ばないことが殆どといっていい。家族の病気も、父親の気むずかしさも、関東大震災も、戦争も、母の心がけでどうにかなるというものではない。そういう避け難い苦労の数かずに母はよくもめげずに切り抜けた。生れ持った陽気な性格と気力体力に負うところが大きい。・・」
ここに、関東大震災という言葉がある。
「幸田文しつけ帖」には最後に「幸田文年譜」がついている。
さっそく、そちらも見ることにします。
1904年(明治37年)生まれで、1990年(平成2年)に86歳で亡くなっております。1923年(大正12年)の関東大震災の時は19歳と年譜にあります。
「幸田文全集」(岩波書店)の第十八巻に
「渋くれ顔のころ」という文章がありました。こうはじまります。
「大正十二年九月一日は関東大震災の日なのだが、その日私は満十九歳だった。つまり誕生だったのである。晩には赤いごはんでもたこうという心づもりをしていたのだが、そんなことどころか、十一時五十分、ひどい揺れで縁ばなから庭へゆすりおとされ、やっと立木につかまった時には、もうあたりの様相が一変していた。自分のうちの屋根も隣近所の屋根も、みんな瓦をこぼして禿げ禿げになり、そこへ明るい天日がさしていて、目にはそういう大変を見ているのに、こわいとか身がふるえるとかいうことはなくて、なにかしばらくは、あっけらかんとした思いがあった。印象ふかい誕生日だった。」(p131)
この巻に「大震災の周辺について」という文章もあるのでした。そのはじまりこうでした。
「はじめにお断りしておくけれど、私は関東震災にであってはいるのだが、市内(当時は市)にいた人たちのような凄まじい体験はしていないのである。市外に住んでいたからで、隅田川の東、隅田堤からだらだらとおりて一丁ほどのところ、農家のしもたやと商店と工場がまざる、市の周辺村だった。地盤がいいとは思えない土地だし、家並みも立派には遠いものだったから、どの家でも被害のない家はなかったが、それでもバッタバッタの将棋倒しというわけでもなく、火事も近くまで燃えてきたが焼けどまってくれたし、怪我人は何人かあったようだが、圧死など悲惨な死は近所のかぎりではきかなかった。私の家も破損程度ですんだし、家族三人怪我もせず、飢え餓(かつ)えもせず、まずは関東震災にあった者の中で、いちばん難の軽かったものと思う。・・・」
7ページほどの文なのですが、無駄のない書きぶりです。
引用するにこしたことはないでしょう。
「あのとき、突然に揺れて、ガタピシものが落ちた、とおもう。縁はなからころがし落され、庭木につかまったが、これが私を振りもぎろうとするように揺れた。記録に当ったのではなく、私のおぼえなのだが、最初は上下動であとは横揺れだったのだろうか。なぜ立っていようとしたのだろう、木の根を抱いてしゃがんでいたほうが、ラクだったのではなかろうか。まともに立っていられないとこわくて、バカ力でふんばる。だが、ああいう時は無意識のうちに、逃げる体勢から立っていようとするのだろうか。とにかく恐怖感はすくないにこしたことはない。
恐怖感は、なにか作業をすればなおる。ゆり返しひまひまに、水を汲みため、足ごしられをし、食料衣類を運びだすなど。ただし家の中へ入るときは私は弟を見張りにした。つぶされてもまさか見殺しにはしまいからの用心だが、気ばたらきと作業は気持の委縮に即効がある。だが、またほかのショックがきた。怪我人。腕が付け根からぶらさがった血だらけな人を、二人の男が手かきにして通った。生れてはじめて見たおそろしさだった。従軍看護婦のうたの歌詞を思った――倒れし人の顔色は、野辺の草葉にさも似たり、というその通りの草の葉の葉色の顔が目をつむっていた。いまも忘れない。よほど気を呑まれたから、さも似たりなどがぼんやり浮上がったのだろう。
そのころ、出世前の若いものには浮世の無情や悲惨は見せたくない、というのが老人や大人の心掛けの一つだったようで、私の父もよく【見ようとするな、おまえたちの目はまだ柔らかいから、そういう惨(むご)いものは突刺さってしまって、終生消せない。だから、いいもののほうを沢山みておかなくては】といましめていた。でも事態がこうなっては、死の無情も怪我の無惨も見ないわけにはいかない。そこで『仏さんには回向のほかない』『怪我は外科』とけじめをつけることを説教され、【いつまでもオドオドしているのは、この際、あまったれもはなはだしい。はた迷惑な】としぼられた。こういう世話焼きは、ぜひしてもらいたい家長の役だとおもう。・・・
市内が大火事になっていたころだろう、中空には火災による強い風が流れているのがよくわかった。焼けたトタンが吸いあげられ、くるりくるりと舞いまわった。ずっと高いのはうす黒くみえ、低いのはくるりとまわるたびに日に光った。無気味な光景だった。これが斜めに切って急降下するときはこわい。どこでくるっと方向転換するか、目で追いながら逃げ足体勢になっている必要があった。わたし三寸の椎の木などガツッと折れた。」
この19歳の幸田文の体験から、晩年の「木」「崩れ」の文を読み解きたくなる。
そんな誘惑にかられます。
そう思いながら、幸田文著「月の塵」(講談社)をひらいておりました。
そこに、こんな箇所。
ひとつは「塔」という文章です。こう始まっておりました。
「奈良法輪寺の三重塔が、復元再建されるときいたのは、昨夏、暑いさかりの頃だった。」
「塔は着工から完成まで、三年の予定だときく。・・この塔の成就を見ていきたい願いをもつ。ものの生し立つのをみるのは、老いてはひとしおうれしく思うのである。老いて逢いたくない縁は、崩れをみること、消失を見ることである。・・・」
この次の文章は、「胸の中の古い種」というのでした。そこに
「・・無理をはじめるとは、おろかしいという。でも、無理だとか、としだとかで押えきれないのが、思いたったということだろうか。思いたつとは、発芽に似ている。」