和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

茶壺。茶杓。薬匙。

2024-09-30 | 温故知新・在庫本
桑田忠親著「定本千利休」(角川文庫)を
パラパラとひらいているのですが、茶道の素人の門外漢には、
はじめの方に、印象深い箇所があるのでした。

おそらく再度読めばちがう所へと興味がうつるのでしょうが、
最初に読むと、こんな箇所が私の印象に残るという
そんな箇所を引用しておくことに。

まずは、茶壺。

「 ・・・精選し燻製された葉茶を茶壺に保存し、
  季節と時期とを考えて茶壺の口を切り、
  葉茶を茶臼でひいて粉末とし、その抹茶を
  茶杓(ちゃしゃく)で茶碗にすくい入れ、
  熱湯を注ぎ、茶筅(ちゃせん)で練り、
  またはかきまわして泡をたて、それを
  神仏にそなえたり、来客にすすめたりする。

  これをいただくお客の方も、
  清純な気持で、その泡だった緑色のお茶を飲む。
  それをたててくださった亭主の厚いこころを汲みとり、
  緑の抹茶をば、ゆっくりとすすり味わいながらいただくことになる。 」

茶杓の記述も印象に残ります。

「 茶の湯に用いる抹茶式飲茶法を宋からはじめて
  わが国に伝えたのは栄西禅師であった。・・・・

  鎌倉三代将軍源実朝が、宴会で酒を飲みすぎて
  二日酔いで苦しんだ際に、治療剤として栄西が
  抹茶を進めたところが、ほどなく快癒したので、
  実朝はひじょうに喜んだ。そこで栄西は、
  『喫茶養生記』を献上し、抹茶の薬用的価値を
  説明したということが、『吾妻鏡』に見えている。

  抹茶がもともと薬剤として用いられたのは、
  古い形式の茶杓が薬匙(やくひ)の形である
  ことによっても知られよう。・・・ 」(~p11)


うん。このあと明恵上人へとつながるのですが、
また、長くなるのでこのくらいにしておきます。
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ことごとく。

2024-09-29 | 手紙
桑田忠親氏への司馬遼太郎の手紙。
桑田著『或る蘭方医の生涯』を、司馬さんへ贈ったお礼の手紙が
残っているのでした。

「 ・・・ありがとうございました。
  阪大微研の加藤先生からおくられて参りました。

  桑田先生の御著書はことごとく読ませていただいた
  つもりでございますが、この本が先生の学風とは、
  ちょっと風変りなと思っておりますと、
  先生の御先祖にあたられるときき、
  立斎の後ありと思いました。・・・・  」
            ( p103 臼井史朗著「昭和の茶道」淡交社 )

 ここに出てくる立斎とは、桑田立斎のことで、
 桑田忠親の曽祖父にあたり、幕末の蘭方医だったとあります。

 それにしても、『ことごとく読ませていただいたつもりでございますが』
 と、司馬遼太郎に言われたら、桑田氏はどんな感慨を抱くのだろうなあ。

 それなのに、桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)を
 私などはちっとも読めずにおります。きちんと読めないと
 パラリと、本文の最後の箇所を読んだりしてみます。
 こうありました。

「 ・・・幾百年の後の世においても、
  お茶といえば必ず利休さんとくる。

  利休は、日本人の実生活の上に無言の恩恵を垂れている。
  気のきいた、しかも深みのある趣向は、みな利休好み、
  便利な日用品はすべて利休形であると、さえ言える。

  われら日本人の実生活を、正しく、清く、上品に、
  しかも最も便利に改革してくれた大恩人こそ利休居士であろう。 」
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「 井戸茶碗の由来 」

2024-09-28 | 短文紹介
読まないままに、古本で買った利休の本に
山本兼一著「利休の風景」(淡交社・2012年)がありました。
せっかくなので、パラパラめくるとこんな箇所がありました。

「井戸茶碗は、もとはといえば朝鮮の飯茶碗である
 ――というのが、日本での通説であった。 」

そのあとに、柳宗悦の評論を引用しておりました。

「 それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使う茶碗である。
  全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。
       ・・・・・    (柳宗悦「茶と美」講談社学術文庫)   

  そんなありきたりの雑器の美を日本の茶人が見出し、賞玩したからこそ、
  井戸茶碗に価値が出たというのが柳氏の主張であった。

  この説はたいへん広く流布された。・・・・・

  しかし、最近、韓国の陶工申翰均(シンハンギュン)氏が、
  井戸茶碗の由来について新説を唱えている。
  井戸茶碗は、日常の食事のための雑器ではなく、
  先祖を供養するときに使う祭器だったというのが、申氏の主張である。

  井戸茶碗は、神の器だった――というのだ。
  たしかに、井戸茶碗が日常の雑器ならば、いくらなんでも
  もうすこし韓国に残っていてもよさそうなものだが、
  現在、韓国内に伝えられている古い井戸茶碗はまったくないという。
  ・・・・

  井戸茶碗が祭器であったことの証明のひとつとして‥」(~p105)

  このあとに、韓国の三代古刹の通度寺(トンドサ)の礼拝図に
 「 祖霊を祀る祭器として井戸茶碗が描かれている 」と記したあとに

「 そもそも朝鮮人の人たちは、茶碗を手に持って食事をする習慣がない。
  茶碗や丼は、机に置いたまま、そこから匙を使って食事する。
  この習慣は、かなり古い時代から現代にいたるまで続いている。
  ・・・・その食べ方からすれば、高台が高くて小さな
  井戸茶碗は、はなはだ不安定である。
  ご飯の茶碗としてはたいへん使いにくい。

  その話を申氏から聴いて、わたしは大いに頷いた。
  歴史の定説や常識のなかには、まったくの誤解や誤伝が
  たくさんひそんでいる。井戸茶碗が飯茶碗だったというのも、
  そんな常識の嘘のひとつにほかなるまい。  」(~p106)

はい。パラパラでも読んでみるものですね。
うん。うん。と頷きながら読みました。
ところどころ端折りましたが、端折りすぎたかもしれないと、
この箇所を最後に引用。

「 なぜ、残っていないのか?
 神聖な祭器であった井戸茶碗は、もともと数が少ないうえ、ある期間が
 過ぎると、粉々に砕いて土のなかに埋めてしまったからだという。」(p105)


はい。神聖な祭器を茶道では大切にあつかい。
本来、粉々に砕いて土のなかに埋められてしまう
はずだった祭器を、茶道では井戸茶碗として伝えている。

何だか井戸茶碗への歴史回答を得たような手ごたえで、
本に載る、井戸茶碗の写真を見入ることとなりました。

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千利休

2024-09-27 | 道しるべ
いつかは、千利休を読んでみたいと、
思ったことがありました。

まず、古本で千利休関連の本を買っておく。
私がはじめたのは、それでした。
読まなくっても買っておくと
それなりに溜まってゆくものですね。

たとえば、桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)
というのを買ってありました。はい。読んではおりませんでした。

そのあとがきをひらくと、そのはじまりにはこうありました。

「私が千利休の研究に志し、その根本史料である利休自筆書状の
 蒐集を始めたのは、東京大学の史料編纂所に勤めていた昭和10年、
 33歳の頃であるが、それらの根本史料をもとに、
 『 千利休 』と題する評伝を著わしたのは、昭和17年、40歳の
 ときである。・・・  」(p232)

はい。今回初めてあとがきをひらいてみました。
それじゃってんで、本文のはじまりはどうなっているのか?

「 茶の湯というのは、要するに、遊びごとであり、
  楽しみである。この点では、今も昔も同様であろう。・・  」
                          (p8)

はい。本文は、こうはじまっています。
やはり、古本で購入した本に
臼井史朗著「 昭和の茶道 忘れ得ぬ人 (淡交社・平成5年)に
その桑田忠親がさまざまな方の中に登場しておりました。
そこからも引用。

「昭和61年2月15日の深夜のことである。
 隣りの家から火が出た。博士(桑田忠親)の家は、
 みるみるうちに類焼、全焼してしまった。・・・

 すでにその頃、博士は83歳となっていたのである。
 もうほんとうに晩年だった。3万冊にも及ぶ厖大な
 蔵書と資料は、一瞬のうちに烏有(うゆう)に帰してしまった。
   ・・・・・

 たまたま未亡人を訪ねた時、焼跡に黒こげになって残っていた
 鞄の中から発見された、多くの手紙を拝見する機会を得た。
 火煙をくぐり、水にぬれて残った手紙類ばかりであった。 」

こうして、松永耳庵・川端康成・井上靖・司馬遼太郎の手紙を
紹介したあとの最後には、こうありました。

「水と火をくぐりぬけ、ボロボロになってしまった
 これらの来翰を見るにつけても、その学殖の文学への
 ひろがりを嗅ぎわける思いがした。それは、
 戦国時代を研究テーマとしたその核のひろがりでもあった。

 とくに、茶道史を実証史学の爼(まないた)にのせ、
 その研究成果を数多く公刊し、歴史理解への道を
 大衆のためにひらいたその業績は、茶道史に不朽のものとして残る。

 博士は、昭和62年5月逝去。85歳。生涯が学究一途の旅だった。 」
                         ( ~p105 )

ちなみに、この本のはじまりは佐々木三味で、
そこには、終戦で焼けた道具類の手紙が紹介されておりました。
そこにも、火事のことがでてきております。

「 空爆避けの山疎開は山火事にて大事な道具を喪いし之由
  其道具こそまことに数奇な運命とも可申候   」(p26)

とか

「 名古屋の友人伊藤幸楽主人は今様に 水ツケの焼け跡から
  茶器類をホリ出シ 小生ニモ珍しき事なる旨通知ありたるに
  蕨の絵をかき
    春山に やけ太りたる わらびかな
  と申送り候処 それらを取繕ふて 木曽川町の仮寓で
  名古屋より疎開中の茶友を招き 会致度由 
  楽げに茶会記を添へ申来りて候
  又左近君は爆風にて散々に家を崩されながら
  之を自分にて幾分修理し 道具類を纏めつつある旨申来り
  到処此喜劇のみ承わり居候
  茶道には非常時無く 平常心是道 茲に御喜ひ申上候
                         敬具  」(p28)


うん。雑本ばかりですが、千利休の本もすこしづつ溜まってきたので、
パラパラと読み始められますように。まずはパラパラと、この秋は、
桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)からひらけますように。
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流言蜚語通信

2024-09-26 | 短文紹介
月刊「Hanada」11月号が今日届く。
目次をめくると、そこに流言蜚語の言葉がある。
そこを引用

「 韓国では、言論統制のあった時代には
  噂話や各種ニセ情報がしょっちゅう流された。

  これは『 流言蜚語(りゅうげんひご)通信 』、
  さらに短縮して『 流蜚通信(ユビトンシン) 』と呼ばれた。
  もちろん、なかには本当の情報も隠されていた。 」
              ( p208 重村智計「朝鮮半島通信」 )

せっかくひらいたので、重村氏の文の最後の方も少し引用。

「 韓国には、自民党総裁選が、日本の政治と民主主義において
  どのような意味があるのかを、きちんと説明できる専門家や
  ジャーナリストがいないのが現実だ。韓国の世論は
  『 反日 』を叫べば満足し、学者や新聞記者たちは
  そんな世論に阿(おもね)っている。日本の現実とリアルを、
  韓国民に説明する勇気がない。・・   」(p211)


あらてめて、清水幾太郎著「流言蜚語」の本文の最後を引用。

    「 ――だがこれだけは言っておかねばならぬ。
     言語への軽蔑の支配するところは、却って
     流言蜚語の発生と成長とに有利な風土を持つ
     といふことである。    」


それから、おもむろに雑誌の最後にある平川祐弘氏の連載をひらくと
第29回の題は「『源氏物語』の歌とウェイリ―の英訳(上)」とある。
うん。ここには、そのはじまりを引用しておくことに。

「私は老年の愉しみに『源氏物語』を荻窪の「よみうりカルチャー」で
 通読してきた。まず原文を音読する。
 物語をしっかり掴んでいる人が音読すると
 もうそれだけで内容がおのずと伝わる。
 ついでウェイリ―の英訳を読み上げると、
 するとその箇所の全体像がはっきりしてくる・・・ 」(p314)

はい。ここから平川氏のお話がはじまるのでした。
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墓碑銘を読みあげ

2024-09-24 | 詩歌
お墓参りというと、
あらためて、アイさんのことが思い浮かびます。

吉村昭著「三陸大津波」(文春文庫)の
第二章「昭和八年の津波」のなかに、「子供の眼」があります。
そこに、尋常小学校6年 牧野アイさんの作文があったのでした。

東日本大震災のあと、
森健著「『つなみ』の子どもたち 作文に書かれた物語」(文藝春秋)
をひらいていたときに、そのアイさんとの出会いが語られておりました。

ここには、娘さんの栄子さんの語りを、あらためて引用しておきます。

「 栄子の記憶には、アイのこんな習慣が深く刻まれている。

『 母は津波を忘れないために、夜寝るときには、
  洋服をきちんと畳み、着る順番に枕元に置いておく。
  玄関の靴は必ず外向きにして揃えておく。
  避難の際は赤沼山への道を決めておく。

  また、お盆のお墓参りでは必ず墓碑銘を読みあげ、
  誰が津波で死んだかを口にしていた。

  その振る舞いも母自身への津波への教訓であると同時に、
  子どもたちへの防災教育でもあったのです 』

               ・・・・・・    」(p250)


うん。今回この箇所を引用していたら、
戦後にシベリアへ抑留された過去を持つ、
石原吉郎氏の短い詩を思い浮かべました。


      世界がほろびる日に    石原吉郎


    世界がほろびる日に
    かぜをひくな
    ビールスに気をつけろ
    ベランダに
    ふとんを干しておけ
    ガスの元栓を忘れるな
    電気釜は
    八時に仕掛けておけ
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地域震災出前講座。

2024-09-23 | 地域
『安房郡の関東大震災』の題で、防災士として
出前講座をしようと思いました。

時間は、午後6時半以降ならOKです。
地区や、5人以上のグループの要望で出前うけたまわります。

        口 上

防災の日は、関東大震災(1923年)が発生した9月1日になっておりました。
その日の安房郡を焦点にして、関東大震災の記録と記述とを読み解きます。
さいわい『安房震災誌』などの紙碑が残されております。
防災士として、地元の安房の関東大震災を語りふりかえります。

  出前講座の予約は、電話〇〇〇〇へ
  参加人数分のプリントを用意してお伺いします。
  午後6時半以降でしたら、いつでも、
  講座は、正味一時間くらいの予定。
  ただし、金曜日のみ、午後7時半以降となります。 


はい。思いつくのはさまざまですが、
当ブログでは、思いつきをそのままに記録しておきます。
思いつきを実行するかどうかは、これはまた別とします。
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震災と会話。

2024-09-22 | 三題噺
震災と会話ということで、3冊の本が思い浮かびました。

 ① 清水幾太郎著「流言蜚語」
 ② 田尻久子著「橙書店にて」(ちくま文庫)
 ③ 「災害と人間行動」(東海大学出版会)


①に
「 会話は二重の意味に於いて人間に必要である。
  第一に生きるために必要であり、
  第二に生きることを自覚するために必要である。

  会話(一般に言語)の二つの側面の間の関係から
  恐らく多くの問題が生れるのであろう・・・ 」(p122・著作集2)

②の『ヤッホー』と題する文に
「 ご近所さんの顔が見えるということが、いちばんうれしく
  頼もしく感じたのは、地震のときだった。
  知っている顔が見えて、こんにちは、と挨拶を交わす。
  余震が来ると、大丈夫?と声をかけあう。
  そんなささいなことで、気持ちの揺れがおさまっていく。
  こわいね、こわかったね、一人でそう思っているより、
  誰かと言い合うと、こわさが少し淡くなる。・・  」(p233)

③は、1983年日本海中部地震の調査に基づく記録でした。
8章の「農村型災害と住民の対応ー激震時における人間行動」(田中二郎)

「揺れがおさまってから、2、3時間までの行動にみる特徴をみてみたい。
 聞き取り調査によれば、この時間、隣近所で外に集まって地震について
 話していたという人が少なくない。
『 揺れがおさまってから、外へ出てみて、
  近所の人と修理計画などについていろいろと話した 』(30代、女性)
『 家に帰らず隣近所で話をしていた 』(40代、女性)

 揺れの際、家の中にいた人でも、おさまってから外へ出たケースが多く、
 また、余震が続いていたため、かなりの人たちが、隣近所の人々と
 寄り集まって、この『話し合い』に加わっていた。

 こうした行動は、地震が生みだした緊張を緩和し、
 動揺を鎮め、さらには、今後の生活に関する情報を得ることにより、
 不安感をやわらげるためのものであったと考えられる。

 また、この時期は、次第に、外出中の家族との連絡もとれ、
 互いに安否を確認できるようになったころでもある。・・・」(p219~220)


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清水幾太郎著「流言蜚語」

2024-09-21 | 書評欄拝見
清水幾太郎著作集2(講談社)の月報は藤竹曉氏。
そこにこんな箇所がありました。

「『流言蜚語』は戦前の日本社会学が生んだ名著である。
 『流言蜚語』の基礎にはイメージの問題がある。

 先生の独創性は、流言蜚語をアブノーマルなニュース
 としてとらえた点に求められる。・・・・・

 本書は二・二六事件直後に発生した流言蜚語の氾濫をテーマに、
 先生が『中央公論』と『文芸春秋』に同時に寄せた二本の原稿を
 もとにして、一気に書かれた。

 もちろんその背景には、先生が中学三年生のときに遭遇された
 関東大震災における流言蜚語の経験があったことは言うまでもない。

 『流言蜚語』が読者を摑まえ、最後まで離さない魅力は、
 言論が不自由になってきた社会状況のもとで、
 流言蜚語の分析に託しながら、精一杯の抗議をなさる
 先生の姿が本書の隅々にまで漲っているからである。 

 『流言蜚語』は先生の学術的著作の中ではもっとも文学的
 とでも呼べるような社会学的に美しく、しゃれた表現が
 ちりばめられている点でも異色である。・・・・     」

はい。途中で引用をやめときます。
私には清水幾太郎著「流言蜚語」は、はなから歯が立たないので、
パラパラ読みに終始しているのですが、そうか
『もっとも文学的とでも呼べるような社会学的に美しく、しゃれた表現』
というのは、たとえば、こんな箇所かもしれないと
一人合点する言葉を最後に引用しておくことに。

「・・完全に嘘であるにも拘わらず、
 現実以上に真実であるやうな流言蜚語があるのである。
 優れた芸術が現実よりももっと現実的であるやうに、
 優れた流言蜚語といふものがあるとするならば、それは
 現実に与へられてゐる以上の真実味を深く湛へたものでなければならぬ。
 ・・・・優れた芸術が現実以上に真実を伝へるといふことは
 何人も否定しないであろう。
 併し学問もまた同じやうな性質を持ってゐないであろうか。
 ・・・・   」( p30 著作集2 )

はい。さわりの箇所だけなのですが、引用してみました。
まあ、私としては、これ以上読み進められそうもないし、
とりあえずは、ここまでにしておきます。
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海嘯は最早来ない心配ない。

2024-09-20 | 安房
面白い本を手にしました。
東海大学出版会の「動物その適応戦略と社会」というシリーズの中の、
14巻「災害と人間行動」(1986年)。

そこに、1984年の日本海中部地震に関する考察が載っておりました。
パラパラ読みで、細部は端折りますが、
「海についての災害文化」という箇所に『誤報騒ぎの際』とはじまる
文がありました。

「・・・・・(その誤報騒ぎに)地震当日とは違って
『 海岸地区 』にいた人々はこれに加わらなかった。
地震当日は全員が避難した『 海岸地区 』では、
誤報騒ぎのときに2割足らずの人しか避難しなかった。
こうした対応の違いは、浜辺にいた人がどちらの場合にも海の様子を
自らの対応の決め手として非常に重視していることを示唆している。

地震当日、海の変化を危険だと判断して避難した人は15名中14名にのぼる。
誤報騒ぎの際にも有線あるいは口コミで津波のことを知った後、
71名中46名が海を見て危険はないと判断していた。

浜辺にいた人の対応をみると、彼らは公的な災害情報がなくても
海の様子が危険であれば避難し、公的な災害情報があっても
海の様子が危険でなければ避難していないことがわかる。

すなわち、公的な災害情報よりも
海の変化を観察して得られる体験的情報が
判断の決め手として優先されているのである。

この事実は2つの意味で注目すべきことである。

第1点として、
公的な災害情報はそれが体験的な情報と合致した場合にだけ
効果をもち得るということである。なぜならば、
体験的情報と公的情報が矛盾していた誤報騒ぎの場合には、
公的な災害情報が否定されているからである。

第2点として、海とともに暮らす田野沢の人たちには
海の変化がもつ意味を十分認識し、それを体験的情報とすることができる
『災害文化』をもっていることである。
そのため公的情報を否定し得たといえる。

今回の津波の犠牲者の大部分が、そうした『海についての災害文化』を
もたない人たちであったことを見過してはならないだろう。  」
                           (p166~167)


はい。東日本大震災の大津波の映像を目の当たりにした者としては、
なにをチマチマしたことを言っているのだろうと思われかねないのですが、
ここには、公的情報にも、誤報道はつきものであること。
そういう健全な判断力がためされていると言えそうです。
とっさの、臨機応変の判断力がためされる場合がある。

ということで、最後は安房郡の漁港があった船形町の
関東大震災の記述を引用しておわることに。

船形尋常高等小学校報から、

「正木清一郎翁は当時船形町長の要職に居られまして、
 齢70歳に近きも意気は壮者を凌ぐ程であった。
 
 ・・・大震災に遭ひ・・学校や役場は勿論倒潰し・・・

 責任観念の旺盛なる翁には早くも校門に現はれ、
 児童は職員は大丈夫かと叫ばれ・・

 翁曰く海嘯との叫びがするから
 あなたは(注:忍足清校長?)御影を・・別邸に奉遷しなさい、

 僕が海岸に参って様子を見て来るからとの言葉、
 御老体のこと危険なるべきことを申上ぐると、
 決して心配はない海嘯は沖合に見えてから
 逃れることが出来るものだ。
 僕に心配なく閣下の別邸に避難するがよいとのことにて、
 其の言に従ひました。

 間もなく翁は別邸に来り海嘯は最早来ない心配ない。
 只だ心配なのはあの大火災だ風向きによっては
 町の大部分は焦土と化してしまうと心配されて居られた。 」
         ( p910~912 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )




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大震災と津波の誤情報

2024-09-19 | 地震
「安房郡の関東大震災」をテーマに、記録をひらいていると、
津波の誤情報があったことがわかります。

うん。今なら、地震があったら津波とすぐに思い浮かべるわけですが、
地震が頻発するたびに、津波情報が多発されるとどうなるのか。
余震が多発するさいに、津波情報も多発されればどうなるのか。

そういうことを実際に思うに際し、歴史的な関東大震災の場合、
安房の記録が語る当時の地域歴史の輪郭が浮き彫りになります。

「・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯(津波)起るの
 流言蜚語至る處に喧伝され人々の不安は今から考へれば
 悲壮の極みであった。・・・ 」
    ( p894 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

ここで注意したいのは、流言蜚語の中には
『海嘯起る』もはいっていることなのです。

その不安は、こう表現されておりました。

「 余震は頻々(ひんぴん)として来り、
  海嘯の噂は頻々として起り、
  不逞漢襲来の叫は頻々として伝へられ、
  
  人心は不安と恐怖とに襲はれて殆んど生きた心地もなく、
  平静の気合は求めようとして求められず唯想像力のみ
  高潮して戦々兢々として居た時であった。  」


こうして、当時の館山町役場報には、震災の翌日の9月2日夕刻に
『戒めの語り草』として、津浪襲来の噂を勘違いして
「町全体は混沌として名状すべからざる状態に陥ってしまった」
という記述があり、そのしめくくりには、こうあるのでした。

「毎年9月1日の震災記念日には、何時も老若男女の戒めの語り草として
 永遠に云ひ伝らるべき悲惨な珍話となっている。 」
      ( p771~773 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

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急がば回れ。

2024-09-17 | 道しるべ
清水幾太郎著「流言蜚語」のはじめの方にこうあります。

「・・報道、通信、交通がその機能を果たさなくなった時、
 社会の大衆は後になっては荒唐無稽として容易に片づけることの
 出来るやうな言葉もそのまま受け容れるのであって、
 どんな暗示にも容易にひっかかってしまふものである。

 軽信性は愚民の特徴だと言はれるが、
 かういふ場合に動じないのは余程の賢者か狂人である。

 関東大震災の時に落着いてゐたために助かった
 若干の人は、その落着きを賞讃されたが、
 しかしこの同じ落着きのために生命を棄てた多くの人々に対して
 世間は最早この落着きを讃へはしない。
 この場合にはそれは落着きといふ名さへ与へられないのである。 」

             ( p18 「清水幾太郎著作集2」講談社 )

『 この同じ落着きのために生命を棄てた多くの人々 』とあります。
どちらかといえば、私はその多くの人々の一人になるタイプです。
そんなことを思い浮かべては、つぎへと行きます。

うん。今こうして地元の関東大震災の記録を引っくり返しているのは、
いまならば、まだ地震が起きていない。
いまならば、『 急がば回れ 』という落着きが示せる。

ということで、ここでは、
『 急がば回れ 』を故事・ことわざ辞典で調べてみる。


「 急ぐときには危険な近道より、
  回り道でも安全な本道を通って行け。

 用例:     宗長のよめる
      もののふのやばせの舟は早くとも
           急がば廻れ瀬多の長橋  (醒睡笑-1) 」


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『流言蜚語』の賞味期限。

2024-09-16 | 先達たち
清水幾太郎著「流言蜚語」に、こんな箇所がありました。

「だが報道や流言蜚語の生命は大抵或る時間の間しか存続しない。
 報道と流言蜚語とが対立して生きるのは、一定の期間だけのことである。
 その時間を過ぎてから事実との比較が行はれたにしても、そして
 その結果報道の虚偽が明らかになったとしても、・・・・・
  ・・・・ 一定の時間が経ってからでは、
 比較を試みようとする熱情が何人の胸にも湧いて来ないであらう。 」
                     (清水幾太郎著作集2・p46)


うん。「安房震災誌」に、この賞味期限内の判断への言及があります。

「 要するに、斯うした苦心は刹那の情勢が雲散すると共に、
  形跡を留めざることであるが、一朝騒擾を惹起したらんには、
  地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。
  郡長が細心の用意は、実に此處にあったのである。 」(p222~223)

「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
安房郡長のような指導者がいなかった地域の話が載っておりましたので
引用しておくことに。

  『裸体のまま』    飯野村 竹内伊之吉   p856~857

「・・・ちょうど昼食をしやうとした我家では激しい動揺に打驚され
 『 それっ 』と裸体のまま外に飛び出した。飛び出して表をふらふら
 してゐる中に主家が崩壊した、パッと上る砂煙揺り返して来る余震、
 瓦の落ちる音、人の叫び・・・・
 七転八起、近所の竹藪に飛び込んでほっとした、
 箸を手にしてゐる人、裸体の人、子をおぶった女、
 土まみれの子供、竹藪は不安な人々で満ちた、道は裂け山は崩れる・・・

 不安な夜は来たが余震はなお続いた、北方の空は真紅に染り、帝都は
 火を発した、夕食をし様とする人もなく不安気な夜は沈々と更けていった。
 蚊群に攻められつつ余震におびやかされながら落着かぬ心にて
 まどろむのだった。明るくなれば2日の太陽が上った、
 何時もの赫々たる光は無く只無気味に真赤だ、誰もの顔に
 生色はない魂の抜けた人の様にうつろな眼をして天を眺め沈黙して居る。

 午前10時頃余震は少なくなったと言ふものの
 未だ人々の胸からは不安は去らず、徒に心配するのみ
 新聞紙の燃え残りノートの燃え残り等飛来し
 そぞろ帝都の惨状を思はせる、

 不逞の徒が某方面へ百人上陸した、
 某方面へ五十人此方へ向って来るそうだ、
 流言は飛んで蜚語を生み、
 村中は蜂の巣をつついた様其の騒ぎは一通りでは無い、
 刀を持出す人、竹槍を造る人等、

 女子や子供は地震よりも恐れ戦いた。
 一人の正しき指揮者も無く村は全く無警察状態だった。

 思ひ起せば十年前当時の模様が走馬燈の様に私の頭に行き来する、
 その事も後で聞けば全然流言だったそうだ、
 此の事では如何に多くの村人が心配した事だらう。
 思へば馬鹿馬鹿しくも悲しい事である。・・・・    」
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『 流言蜚語 』への招待。

2024-09-15 | 前書・後書。
東日本大震災のあと、
吉村昭著「三陸大津波」の文庫を読みました。
その頃に、寺田寅彦の震災関連の文庫は、3社から出版されました。
方丈記も、新しい訳で文庫登場したのでした。
そして、清水幾太郎著「流言蜚語」(ちくま学芸文庫・2011年6月10日)も
その流れの中で文庫化されておりました( 忘れておりました )。

はい。その「流言蜚語」の文庫を買ってはあったのですが、
とりだしてみたら、きれいで、文庫として読んだ形跡がない(笑)。
まずは、ここには清水幾太郎著「流言蜚語」(ちくま学芸文庫)の目次紹介。

  1 流言蜚語                 ・・・p12
  2 大震災は私を変えた
     日本人の自然観 ー 関東大震災     ・・・p176
     明日に迫ったこの国難 ― 読者に訴える ・・・p248
     大震災は私を変えた           ・・・p274
     地震のあとさき             ・・・p285

   解説 言葉の力  松原隆一郎        ・・・p309


さてっと、「流言蜚語」。その清水幾太郎氏の本文の最後にはこうあります。

「 だがこれだけは言っておかねばならぬ。
  言語への軽蔑の支配するところは、
  かえって流言蜚語の発生と成長とに
  有利な風土を持つということである。  」(p170~171)

この次に「結論」という2ページの文がありました。
その結論の最後には、こうあります。

「 流言蜚語は除かねばならぬ。だがこれを軽蔑する前に、
  一般に評価する前に、対策を立てる前に、

  我々が知らねばならぬのはその本質である。
  そしてこれへ読者を招待することが私の任務であった。 」(p173)

清水氏からの『流言蜚語』への招待。
一読者宛の、招待状を受取りました。


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「流言」と、ゴキブリ。

2024-09-14 | 重ね読み
流言蜚語をネット検索したらこうある。


明確な根拠がないのに言い触らされているうわさ。
世間にひろがる根も葉もないうわさ。デマ。

[使用例] 眼前の事実よりもいわゆる流言蜚語の方が現実感においてまさっているという経験は、戦争末期においての私たちの経験でもあった[堀田善衛*方丈記私記|1970~71]

[解説] 「流言」は根拠のないうわさ、つくり話のこと。
「蜚語」はどこからともなく出てくる根拠のないうわさ、
無責任なうわさ、のことで「飛語」とも書きます。
「蜚」はもともとはゴキブリをさしますが、「飛ぶ」の意があります。


うん。言葉には、意味があって、それをたどるのは、楽しい(笑)。
「使用例」を、堀田善衛著「方丈記私記」の本文にさがしてみる。

ありました。第五章「風のけしきにつひにまけぬる」の中です。
鎌倉武士に関する箇所にこうあります。ちょっと長めに引用。

「鎌倉は、たしかに関東武士に発する新しい理念、
 京都にはまったくない機動性ゆたかな理念を生んだ。

 そこに新しい日本は、たしかに芽生えていた。けれども、同時に、
 その理念をうちたてるために払わなければならなかった犠牲もまた、
 あまりに多すぎた。そうしてその犠牲の多くは、
 きわめての短期間のあいだの、近親殺戮に類したものであった。

 幕府開設以来、公暁出家まで、25年に満たずして、
 鎌倉はすでに疑心より暗鬼の生ずる夢想、夢魔に
 つかれたような状況になっていた。

 眼前の事実よりもいわゆる流言蜚語の方が
 現実感にまさっているという経験は、
 戦時末期においての私たちの経験でもあった。・・・・・

 かつはまた、ほとんど例によって、と言いたいくらいに、
 京にも鎌倉にも連続地震の季節がふたたび襲いかかって来る。 」

     ( P113~114 堀田善衛著「方丈記私記」ちくま文庫 )


もどって、「流言蜚語」の「蜚」を、ここでは、
「新潮日本語漢字辞典」でひいてみることに。

【 蜚 】 ( ひ・とぶ )             p1993
 ① とぶ。 
     ふわふわと浮き上がって宙を行く。
     非常に速く行く。「 蜚語(飛語) 」
 ② 飛ばす。遠くへ及ぼす。
 ③ 「飛蠊(ごきぶり・ひれん)」
     昆虫の名。体は平たく光沢のある黒褐色。
     長い触角を持つ。人家にすむ種は伝染病などを媒介する害虫。
     油虫。
 ➃ 農作物を食う害虫。油虫あるいは飛蝗(ばった)。


うん。最後には小学館の
「 故事・俗信 ことわざ大辞典 」をひらいてみる。
流言蜚語は、みあたらなかったのですが、こんな言葉が拾われておりました。

【 流言は知者に止まる 】            p1221

  根拠のないうわさは愚人の間では次々とひろまるが、
  智者は聞いてもそれを人に言ったりしないからそこで止まってしまう。
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