和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

一月往(い)ぬる。

2015-01-31 | 短文紹介
今日1月31日の読売と産経の一面コラムは、
こうはじまっておりました。

読売の編集手帳

「一月往ぬる。二月逃げる、三月去る。
昔の人は月の名に頭韻を踏み、冬の終わり
から春先を流れる時間の速さを言い表して
来た。近づく春の足音に耳をすまし、あるいは
何かと行事の多い気ぜわしさ吐息をもらし、
『往ぬ』の実感は人それぞれだろう。・・」

産経の産経抄

「一月往ぬる、二月逃げるとはよくいったもので、
あっという間に、きょうで一月もおしまい。
仏週刊紙『シャルリー・エブド』銃撃、
『イスラム国』による日本人殺害脅迫事件と、
イスラム過激派が暴れ回った年の初めだった。」

うん。2月もひきつづき、
産経と読売を講読します。
コメント (3)
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月刊「外山滋比古」。

2015-01-30 | 短文紹介
関東大震災の年に生まれた外山滋比古氏は、
そういえば、
この頃は、再販などを含め、
毎月のように新刊を出されているなあ。
それだけ読者がおられるのだろうなあ。

ということで、新刊の「知的生活習慣」から、
小見出し「生活を編集する」を引用(p85~87)。

「あるとき、われわれの日常の生活も、
形のない雑誌のようなものではないかと考えた。
ぼんやり、なんとなくすごす一日は、
編集のない同人雑誌のようなものではないか。
そういう生活がおもしろかったり、
世のためになったりするはずがない。」

この最後も引用。

「たいていの人間は、毎日、雑然としたことを
している。ほうっておくと、編集のない雑誌の
ようになる。生活のエディターとして、整理を
加えれば、人生は充実したものになる。
そういうのが、生活の編集である。
そうして、小さいながら、一冊の雑誌をつくる
のである。それをただくりかえすだけでなく、
週刊雑誌をつくる。月刊雑誌、年刊雑誌という
ように積みかさねる。その結果がライフ・ワーク
としての人生になるのである。
そういうことを考えるようになったのは、
25年続けた雑誌編集の仕事からはなれてかなり
たってからである。そして、おそまきながら、
わが人生の雑誌の編集にとりかかった。
少しおそかったが、おもしろい日々をすごす
ことができるようになった。」

さてっと、月刊「外山滋比古」では
つぎに、どんな雑誌が
編集されてくるのかなあ(笑)。

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92年1月11日朝日一面。

2015-01-29 | 朝日新聞
朝日新聞2014年12月23日に
「本社慰安婦報道 第三者委員会報告のポイント」
というページがある。
報告を、朝日新聞が分かりやすく編集した
ページになります。
それが朝日新聞の文章作法を教えてくれる、
私にはありがたい、教材となっております。

たとえば、
宮沢喜一首相が訪韓する直前の
92年1月11日。
その朝日新聞の一面トップと夕刊での
たたみかけ。
この箇所を、私はとりあげてみます。

まずは、
雑誌WILL3月号の対談で堤尭氏は
「この世の中、何事も被害者面してる奴の
勝ちなんだよ(笑)。
『私が強制的に慰安婦狩りをした』という
吉田清治の証言と、
『連行された元慰安婦を見つけました』と
称して金学順を第一号の被害者として持ち出した
植村の記事が合わさって、日本は国連でも
『性奴隷の国』として糾弾されることになった。
植村は『挺身隊と慰安婦を混同した』というが、
金学順自身は『挺身隊』という言葉は一度も使って
いない。・・・・」(p54)

ここにかかわる92年1月11日についての記事を
朝日新聞がポイントとして新聞に載せるとこうなる。

『安易かつ不用意な全文』『1面トップ問題とはいえない』
と横見出しをした下には、こうポイントを要約しております。

「日韓首脳会談のため宮沢喜一首相が訪韓する
直前の92年1月11日、朝刊1面トップで
『慰安所 軍関与示す資料』などの見出しで
報じた記事の作成経緯も議論された。
報告書は、1面トップとした判断に問題が
あったとはいえないと結論づけた。・・・
ただ、前文で『深刻な課題を背負わされた
ことになる』としていることや、11日夕刊
にも別の資料を掲載してたたみかけるように
報道したことを挙げ、『訪韓の時期を意識して
慰安婦問題が政治課題となるよう企図して
記事としたことは明らか』と指摘した。
一方、記事につけられた『従軍慰安婦』の
用語説明メモは、挺身隊として強制連行された
朝鮮人慰安婦の人数が8万~20万人である
かのように不正確な説明をしており、
『読者の誤解を招くものだった』と判断した。」

『ただ』とか『一方』という言葉で、
問題を相対化したような朝日文の落し穴。

さらに、朝日新聞12月23日には
「国際社会に対する影響」というポイントを
もうけております。そこの見出しだけ引用。

『日本批判に弾み』『韓国世論に効果』
『あまり影響ない』3報告併記

こちらも、並べ方への考察を誘われます。
まあ、ネットでも読めるようです。
根深く、興味深いテーマなので、
朝日新聞の今までとこれからを占い。
きちんとした、自分の意見を持つという
読解力を養う絶好のチャンス。
ということで、私は読めてよかった。
今度は、もうすこし丁寧に
読んでみます(笑)。
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朝日文章報告書。

2015-01-28 | 短文紹介
雑誌WILL3月号を
パラパラとめくると、
朝日新聞に触れてる。

「五年前、朝日新聞を筆頭に政権交代を
囃し立て、民主党に308議席を与えた。」

とは、堤堯氏(p59)

田原総一朗氏の文は
「・・朝日第三者委員会」というような題。
そう。田原氏は朝日第三者委員会の一人。

「日本の新聞界は、はっきりいえば
安倍政権に批判的な朝日、毎日と、
安倍政権に肯定的な読売、産経が
競い合っている。」(p68)

「第三者委員会からも、
朝日新聞は自らで検証し、分析できないのかと
の疑問が出たが、『自分たちでやれば、自分たち
に都合のいいようになってしまうから外部に
任せる』となった。」(p64)

巻頭随筆の一人・門田隆将氏の文には

「暮れに出た慰安婦報道の第三者委員会の
報告書では、朝日の論理のすりかえの手法や、
運動体と化したかのような【角度をつける】記事、
さらには、歪曲してまで相手にレッテルを貼る
やり方などが、厳しく指摘された。」(p27)

この門田氏の真意を、具体的に読みたくなる。
そういえば、と貰ってきた朝日の古新聞を
ひっくりかえす。
その2014年12月23日に
慰安婦報道 第三者委員会報告書(要約版)
があります。
ネットでも確認できそうです。
要約版の⑥が委員の個別意見が載っており、
各委員の意見が聞ける。
要約版も最初から読むと、
朝日の都合に付き合うこととなります。
くれぐれも注意して⑥から読むことを
私はおすすめ。
岡本行夫氏は
「記事に『角度』をつけ過ぎるな」と題して、
うん。この中では一番読めました。
次が北岡伸一氏の
「現代におけるジャーナリズムの責任」
いちばん長い文。


ちなみに、蛇足になりますが、
もう一人なら波多野澄雄氏の
「『相対化』する視点を!」が
私には興味深い。
この波多野氏の文の最後に

「大野博人氏(論説主幹)は、
今年6月、東亜日報幹部との
長時間対談を終え、こう書いている。
自分たちの国や政府の振る舞いを
なるべく『相対化』する視点を
読者に提供する。私は、それも
大事な仕事の一つだと思っている。・・」

この波多野氏の題の
「『相対化』する視点を!」で
すぐに思い浮かぶのは

清水正之著「日本思想全史」(ちくま新書)の
まえがきにある
「・・もちろん絶対的な思想を説いた
思想家もいる。その絶対の説き方がまた
相対主義への批判というかたちをとる
ところに、日本思想史の興味深い論点があろう。」
(p18)

さてこの清水氏の本「日本思想全史」には
本居宣長の『玉勝間(たまかつま)』からの引用
がありました。その現代語訳の箇所を引用。

「蘭学を学ぶ者は、天地の間にあるどの国も
それぞれだから、どこかに一辺倒に執着する
べきではない、というように言っているよう
である。この見解は、あの中国にだけ執着する
よりは、優れており一見その通りだと聞こえる
が、しかし日本が万国に優れて尊い国である
ことをなお知らないのではなかろうか。
万国のことを知ったならば、日本の優秀さは
自然と知られるはずなのに、ただ執着しない
ことをよしとしてどこにも執着しないことに
執着しているからであろう。これは蘭学者に
限らず、世の普通の学者にも、今日こうした
考えの者は多い」


こうして訳したあとに、
こう指摘しております。

「宣長は蘭学の相対主義を評価し、それが、
中国の絶対化に固執する漢学者よりすぐれて
いるとしながらも、他方で、日本の尊さを
知らないということにおいて、まさに自らの
相対主義そのものに固執していると批判する。
そして、蘭学者のみならず、一般の学者にも
こうした考え方をする者は多いとして、
その批判を、同時代の知のあり方に向けている。」
(p261)


うん。波多野澄雄委員の個別意見が
「日本思想全史」へとつながってゆくような
ひろがりを感じたのでした(笑)。

それにしても
「『相対化」する視点を」という
朝日新聞論説主幹の言葉は

「第三者委員会からも、
朝日新聞は自らで検証し、分析できないのかと
の疑問が出たが、『自分たちでやれば、自分たち
に都合のいいようになってしまうから外部に
任せる』となった。」

という言葉と、
重ねあわせて味わってみたい。
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日本思想全史。

2015-01-27 | 前書・後書。
注文してあった清水正之著
「日本思想全史」(ちくま新書)が
届く。2014年11月10日第一刷。
届いたのは2015年1月15日第四刷。

パラリと最後の方をひらく
「おわりに――二階建ての哲学」(p414~417)に
カール・レーヴィットを引用しておりました。

「『・・二階建ての家にすんでいるようなもので、
階下では日本的に考えたり感じたりするし、
二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでの
ヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。
そして、ヨーロッパ人の教師は、これで二階と
階下を往き来する梯子はどこにあるのだろうか、
と疑問に思う。本当のところ、かれらはあるがまま
の自分を愛している。認識の木の実をまだ食べて
いないので、純潔さを喪失していない。人間を自分の
中から取り出し、人間を自分に対して批判的にする
あの喪失を嘗(な)めていないのである。』
レーヴィットが、ナチスの政策でドイツの大学を辞め、
東北大学に招かれたのは1936年(昭和11)11月で
あった。そして1941年、日独の提携の強化のなかで、
離日し渡米する、その間の体験からの以上の言である。」

うん。
もう90歳以上の方は、
二階へ行くのも億劫になるだろうなあ。
などと私は思い浮かべます(笑)。

そういえば、
柴田トヨさんの詩集「くじけないで」の帯に
「『百歳近いトヨさんが92歳から始めた詩が
この詩集となって日本中の人々に生きる夢を
与えている』日野原重明さん大絶賛」
「白寿の処女詩集」

うん。テレビで見たことのある
柴田トヨさんのお宅は、
たしか平屋でした(笑)。

さあてっと、
「日本思想全史」の帯には
「神話時代から現代まで日本人の
思考をたどるはじめての本格通史」
とあります。

「はじめに」には

「現在では、日本の思想というジャンルは
ある程度の市民権を得ている。それは近代の
初頭において、日本思想研究の確立に努力し
た先人の賜(たまもの)でもある。当初、
当人たちの意識では、哲学的な分科という
視点であった。現状では、学際的な領域である
とともに、全体的には歴史学的手法を用いた
思想史が多い。」

「はじめに」の最後も引用。

「・・・もちろん絶対的な思想を説いた
思想家もいる。その絶対の説き方がまた
相対主義への批判というかたちをとる
ところに、日本思想史の興味深い論点が
あろう。思想の選択的受容のなかには、
あるべき人間とは何か、という問いが
常にあった。選択的受容を通して、
内と外の二重性を超えて至りつこうとした
それぞれの時代の思想に照明を当てること
で、決して外部的視点からの解釈を押し通す
のではなく、内在的視点をもって、
本書の叙述をしていきたい。
今また私たちの生きる場は、選択と受容の
はざまにある。過去の選択と受容を精査し、
蓄積の上に未来をどう組み立てるかが、
日本の思想の課題である。」

うん。ありがたい。
尾瀬の沼や湿原に、はじめて
木道ができた時のように、
この新書でもって、
日本の思想を軽装で歩きながら、
眺められるようになった。
そんな一冊が、ここにあるようです(笑)。
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世界は一冊の本。

2015-01-26 | 詩歌
産経新聞に「歌会始の儀」での短歌が
並んで掲載されており(1月15日)読みました。
その感想。

今年のお題は「本」。
BOOKにまつわる歌がほとんどなのに、
何人かは、別の発想をしておりました。
そこに魅かれます。

天皇陛下

 夕やみのせまる田に入り稔りたる
   稲の根本に鎌をあてがふ

秋篠宮さま

 年久しく風月の移ろひ見続けし
   一本の巨樹に思ひ巡らす

長野県 木下瑜美子さん(74)

 大雪を片寄せ片寄せ一本の道を
   開けたり世と繋がりぬ



そういえば、
と本棚から2冊取り出す。

長田弘著「世界は一冊の本」
「大木惇夫詩全集」3(金園社)

ここでは、大木惇夫の詩を引用。

 
    大きな書物  

 自然は 大きな本である、
 字のない生きてる本である。

  空のペーヂに雲がある、
  虹が出る、
  ふかいさとしを 僕は知る。

  土のペーヂに麦がある、
  芥子(けし)が咲く、
  花は語るよ、僕は聴く。

  水のペーヂに蘆(あし)がある、
  風が立つ、
  波に書いている、僕は読む。

 自然は 大きな本である、
 こころの眼で見る本である。


もどって、
産経新聞の、その記事から
すこし引用。

「宮内庁によると、陛下は
皇居内で毎年、種もみから育てて
伊勢神宮にも供えている稲を、
秋の夕闇が迫るなかで刈り取った
時のことを詠まれた。」

「宮内庁は14日付で、
来年の歌会始のお題を『人』とする
募集要領を発表した。応募は未発表の
自作で1人1首。『人』の文字が
入っていれば、『ひと』だけでなく、
『じん』『にん』などと読んでも構わない。」

今年、
私は読めるでしょうか?
「一冊の本」という世界。


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小説も悪くない。

2015-01-25 | 短文紹介
注文してあった新刊新書が届く。
「中学生からの大学講義1」とあります。
「何のために『学ぶ』のか」。
桐光学園+ちくまプリマー新書編集部・編。

7名の文が並び、
各人が最後に「若い人たちへの読書案内」を
何冊か推薦しておりました。

私が購入したのは、
最初の文が、外山滋比古氏だったから。
その外山氏の推薦本は3冊。

 寺田寅彦随筆集
 夏目漱石「坊っちゃん」
 内田百随筆

うん。ここには、
漱石の「坊っちゃん」の推薦の言葉全文。

「どういうわけか私は小説があまり好きでない。
せっせと読んだ時期もあったが、心にしみる
という作品がない。作り話にどれだけの価値が
あるか、といった不遜なことを考えたりした。
そんなとき、たまたま読んだ漱石の『坊っちゃん』
に心をうばわれた。こんなおもしろいのが小説
なら小説も悪くない。明るいのがいい。
ざっくばらんな文章が魅力である。
恵まれているとは言えなかった漱石の生い立ちを
こういう明朗な世界にするのは、やはり
文学の力だろうと考えた。実は、私自身、
あまり幸福でない幼少の時代をすごしていた
のにひびき合うものがあったのかもしれない。
後年になってから気付いたことだが、
生きる力がおとろえているときに
『坊っちゃん』を読むと、おのずから
心が明るくなり、元気が出る。」
(p37~38)

うん。私はここだけで満足(笑)。
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春告花(はるつげばな)。

2015-01-24 | 詩歌
藤原正彦著「大いなる暗愚」(新潮社)
の古本を買う。連載コラム「管見妄語」の一冊。

パラリとひらけば、女房ものも気になるけど、
ここでは、「白い花が好きだった」を引用。

はじまりは

「庭にコブシが咲き始めた。
父が植えたものである。もうじき
信州でもコブシが咲くだろう。
山がまだ枯木で覆われている頃に、
いち早く春の訪れを告げる春告花である。・・
父にとってコブシこそは、春であり希望であり
郷愁だったのである。だから昭和27年の3月
初めに吉祥寺に引っ越してまずしたことは、
コブシを庭に植えること、そして小学校2年の
私を散歩に連れ出し近隣にコブシの花を探すこと
だった。井の頭公園の弁天池のほとりで見事な
コブシを見た時、父は大はしゃぎだった。・・
次に見つけたのが我が家から五分ほどの所に
あるコブシだった。庵とも呼ぶべき小さな
古家の小さな庭に、不相応ともいうべき
巨木が白い花を咲かせていた。父はここで
立ち止まると五分ほども腕組みをして
その姿を愛で、『コブシはもともと山の木だから
ここの主人がわざわざ植えたに違いない』と
つぶやいた。そして『同好の士として
ちょいと挨拶してこよう』と言うと玄関まで
行きベルを押した。・・・」

これが前半。
後半がどうなったか、それは読んでのお楽しみ。

年の暮れに、掃除もせずに、
詰めこんであったのをポツポツと
片付けはじめる。

そしたら、もう無くなってしまった
レビュージャパンのファクトリーBBS
での「『手紙の話』しませんか」という
コーナーをプリントアウトして簡単に
ホチキス止めした冊子が出てくる(笑)。

その2006年11月7日「投稿はがき」に

毎日新聞10月8日河野裕子歌壇選の
短歌が引用されておりました。

会ひたいと必ず最後に書いてあり
   九十歳の叔母の手紙は
    ( 伊勢市 大田千枝 )


そういえば、2015年1月14日産経新聞の
伊藤一彦選の短歌のはじめはこうでした。

 卒寿すぎ少し世間が見えてきた
 もう遅いのだいやまだこれからだ
  ( 高知市 武内章實 )
選評も引用します。
「九十歳をすぎて世間が見えてきた
という思いは貴重なものだ。
心が新鮮なのである。そんな作者だから、
『まだこれから』と意欲をもつのである。」


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90歳からの眼差し。

2015-01-23 | 地域
90歳をすぎてから、
どのような眼差しで、
世の中が見えてくるものなのか?

ということを昨日思っておりました。
90歳以上となりますと、もう
明治生まれはおられず、大正生まれ。
その方たちが、子供時代、
中学時代を、どういう眼差しで
思い起こしておられるのか?

というのも、
関東大震災の年に生まれた
外山滋比古氏の新書新刊を
読んだら思い浮かんできました(笑)。

そういえば、私の視野にもう一冊。
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」。
その帯に
「90歳にして初の自伝」
とあったのでした。

ちなみに、
大橋鎭子さんは
1920(大正9)年3月10日
 ~2013年3月23日。
関東大震災と戦争とが
その眺望に、見え隠れして。
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藤原正彦新刊新書。

2015-01-22 | 短文紹介
週刊誌はめったに買わない。
そのためか、気になる連載があると
惹かれます(笑)。
週刊新潮1月22日号に藤原正彦氏の
連載「管見妄語」があり、第281回の
題名は「間違い探しの迷い道」。

こうはじまります。
「小保方晴子さん発見のSTAP細胞は
理研により完全に否定された。疑わしい
点は論文のあちこちにあったらしいが、
最大の理由は再現性がなかったということだ。」

こうして、再現確認の手続きの例として
山中伸弥教授。数学者の高木貞治。
そしてご自身のことにまで及びます。
それが簡潔に充実してまとめられております
(うん。この真中へんが読みどころ)。

さて、コラムの最後はというと

「研究者、特に若手のさらされている激しい
ストレスは同情に余りある。例えば理研研究員
の何と八十八%は任期付きだ。不安定な身分や
激烈な研究費獲得競争がこのまま続けば若手は
年月のかかる大きなテーマに取組まなくなる。
そもそも前途有望な少年少女がかくも苛酷な
境遇の研究者を志さなくなるだろう。」

このコラムが印象に残ります。
さて、月刊雑誌「新潮45」2月号。
特集の最初に、藤原正彦氏の文がある。
7頁の文。その前半が素敵でした。
そこに
「教養とは何か、
その根本を考えてみると、私は、
自分を変えずに、あるがままの
自分を完成するための手助け
みたいなものだと思います。
つまり、生まれた時から持っている
その人の個性というものを生かしたまま、
人格を段々と完成していくために必要な
ものです。」(p21)
とある。

同じページに
「教養についてのより詳しい話は、
いずれ稿を改めて、一冊の新書に
まとめるつもりです。」
とある。どうやら、
新書を一冊書き上げているらしい。

うん。雑誌の文を読んでいると、
新書一冊にまとめるための、
知的溶鉱炉の熱が持続され、
その熱気が伝わってくるような。
そんな明快な文となっていて、
読みどころとなっております(笑)。

私は何を言ってるのだろう。きっと、
明快な文章に酔ったのかもしれない。
もっとも、後半はいただけない。
ただ、筆がすべっているようで、
私は前半のすばらしさを買います。
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切手。

2015-01-21 | 手紙
手紙を出すには、まず切手。
ということで(笑)、記念切手を購入。

「ピーターラビットの暮らし」82円切手
10枚シール。これは今月9日に出たもの。
シール式で貼るのが簡単。
絵模様も子供から大人まで楽しめる。

もう一種類は、昨年9月2日に発売した
記念切手「季節のおもいでシリーズ」
「第3集 秋」。
たまたま、郵便局に残っていたもので、
原画は黒井健。
東山魁夷みたいな、湖や路のある風景。

さてっと、
今年は手紙を書く。
のです。
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思考の帯。

2015-01-20 | 短文紹介
外山滋比古著「知的生活習慣」(ちくま新書)。
その本の帯を見ると「『思考の整理学』の著者が
たどり着いた生活の極意」と小文字であり。
さりげなく、著者の最近のカラー写真。

本の帯といえば、
晶文社の木下是雄集3
「日本人の言語環境を考える」の帯は
「『物理学者が提唱する日本語の新しい文体』
 外山滋比古」とある。

のちにそれが題名をかえて
木下是雄著「日本語の思考法」(中公文庫)になり、
その文庫本の帯にも
「これを読んで言語に関して
 同じ人間であるのはむずかしい
 外山滋比古氏推薦 」とある。


うん。新書の「知的生活習慣」の中に、
木下是雄氏が登場する箇所があり。
そこを引用。

「日本語の散文確立にとって
木下是雄『理科系の作文技術』の果たした
役割は大きい。文系の人たちの『文章読本』
は充分に散文的でない。それをはっきりさせ
たのが、物理学者の書いた『理科系の作文技術』
である。」(p206)

「散文確立のためには、あえて、詩歌と絶縁
するくらいの覚悟が必要である。自然科学者の
ほうがいい散文を書くことが多いのも、
文学に干渉されることがすくないからである。」

「散文的であるのはつまらぬ表現だという
先入主にとらわれていては、平明、達意の
文章は書けない。歌人、俳人でもない人間が、
『文学的』な文章にあこがれるのは、知性の
問題である。ものを考えるのにも、文学的、
情緒的なことばより、散文的なことばの方が
すぐれていることははっきりしている。
それでもなお、文学的なことばからはなれるの
を怖がる気持ちはなかなか捨てきれないのだろう。
・・散文が難しいものであることははっきりする。
知的であることは散文的であることと近い、
ということを認めるのが、思考力のある知性
かもしれない。」(~p208)
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知識の賞味期限。

2015-01-19 | 前書・後書。
外山滋比古著「知的生活習慣」(ちくま新書)。
うん。今年は初めから、
ちくま新書の数冊が気になるなあ。

楽しく「知的生活習慣」を読了。
読了記念に、「あとがきにかえて」を引用(笑)。

「わかりもしない自分を、わかったように思い、
一度も自分を疑うこともなくて一生を終わる人
がきわめて多いから、人は幸福に生きていかれる。」

「多少、もの知りのつもりでいたのに、
自らについてはまったく無知である、
というのは、かなり大きな発見である。
あまり愉快でない発見だが、
新しいものを生み出すエネルギーを
秘めているようだ。
それに気づくのが、知の始まりで、
その日々が知的生活ということになる。
本を読んでいれば知的だと思っているのは
素朴な知識信仰である。そういう知識の
賞味期限は短いから、中年をすぎれば、
ゴミのようになる。ゴミは進歩のじゃま
になるから、廃棄しないといけない。
頭のゴミ出しをするのにいちばん心強い
味方になるのは忘却であるという
ところまでくれば、しめたものである。
年をとって忘れっぽくなったりするのを
嘆くことはない。むしろ日々これ新しく
前進すると考えたい。老年、怖れるに
足らず、の心境になれば、人生は明るく
たのしいものになりうる。
そんなことを考えるのが知的生活である、
と私は信じているが、ひとさまに押しつけ
ようというつもりは少しもない。
すすめようとも思わない。・・・・」

ふっ~。
少したったら、またパラパラと
線を引いたところを読み返してみます。
新年の一月に読めてよかった(笑)。
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思考の断片が踊り出す。

2015-01-18 | 短文紹介
「思考の整理学」で
つとに有名な外山滋比古氏は
1923年の関東大震災の年に生まれております
(もっとも愛知県で11月の生まれ)。
さてっと、
外山滋比古著「知的生活習慣」(ちくま新書)
が2015年1月10日に出ておりました。
ミーハーのファンとしては、さっそく、
少し読み始める。

怠惰なファンの私は、
外山滋比古氏の最近の新刊を読みはじめると、
まず、もう一冊同じ本を手元に置きたいと、
そういえば、毎回といっていいほど思う。
その癖して、読み終わる頃には、
やっぱり、この一冊でいいや。となる(笑)。

この新刊も、最初の90頁ほどを読んだところ
なにやら、もう一冊欲しくなる。
どなたかへ、あげてもいいように、
ストックしておくと安心なような。
そんな感じがしてくる。

この気持ちは何なのか。
たとえば、
「思考の断片が踊り出す」(p72)
という箇所がありました。

「・・ボンヤリ、ものを思っていると、
おのずから思考の断片が踊り出す。
しばらくは、ほうっておく。すると、
かつてしきりに考えたことが
ひょっくりあらわれる。
すっかり忘れていたことが
再びあらわれるのは気持ちがいい。
それに付き合っていると、
まったく別のアイディアが、飛び出してくる。」

うん。読者の私もいっしょになって、
踊り出したくなるような気分になる。
こういう箇所があると、うん、
同じ本をもう一冊持っていようかなあ、
と思い浮かぶ。そして、いつものように、
それも、最後まで読了し、踊り終わる頃には、
自身を顧みて、
この一冊で充分ということになる(笑)。
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今年は手紙。

2015-01-17 | 手紙
よし、今年は手紙を書く。
と、自分に言い聞かせる。
それでないと、
書かないタイプです(笑)。
うん。何度でも言おう。
今年は手紙を書く。


今年は、新聞を2紙購読。
2紙は、産経新聞と読売新聞。

今日の読売一面は
「阪神大震災きょう20年」と縦見出し。
発生 1995年1月17日午前5時46分
震源地 淡路島北部
マグニチュード 7.3
死者数 6534人
負傷者数 4万3792人
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