Jレスキュー編「ドキュメント東日本大震災 救助の最前線で」(イカロス出版)は、「Jレスキュー」というのは、消防・レスキューの専門雑誌なのだそうです。その雑誌に掲載された文を中心に一冊の本として出ておりました。全部で18の文が掲載されております。
私は消防団をとりあげた「最前線で闘った消防団の苦悩」という文に、感銘しました。
そこを、紹介してみたいと思います。
陸前高田市消防団高田分団の大坂淳分団長をとりあげております。
ここで、消防団員の声を引用してみます。
「地震発生は下校前の時間だった。マニュアル通りであれば、子どもたちは間違いなく校庭に避難していたはず。・・子どもたちがどうにも心配だった。幸い、4百数十名の児童は裏山に無事避難したということだった。大津波がここまで来ると察知した消防団員が『逃げろーっ!』と大きな声で2回言い、その声にはじかれるように子どもたちがいっせいに動いたという。が、小学校に避難してきたお年寄りは子どもたちのようには走れないから、何人もの犠牲者が出た。津波は小学校の二階の下まで押し寄せ、校舎が堤防になって瓦礫がせき止められた。学校を再開させるため、瓦礫の撤去は小学校から始めることにしたが、この瓦礫の中からも何体ものお年寄りの遺体が発見された。」(p67~68)
「後日、記憶を頼りに各部の名簿を作り、生存者を確認して団員に27名の犠牲者が出たことがわかった。犠牲者の中には実動中に亡くなった団員もいれば、仕事中に亡くなった団員もいる。仕事を終えて屯所に移動中に亡くなった団員もいる。『最前線にいた人間は誰もが危機一髪だった。ほんの1つの判断が生死を分けた』と大坂分団長は言う。5部のポンプ車は、いつもは寡黙な団員がその時だけ大きな声で『マイヤだ!』と叫んで直進する車を左に切り替えさせた。マイヤは3階建ての大きなスーパーマーケット。団員らは外の非常階段を屋上までかけ上がり、津波をかわすことができた。直進したら、あるいは内階段を使っていたら、命はなかった。」(p68~69)
それでは、大坂分団長は、どのように語っていたのか。
文を書いた方は、質問をしておりました。
「最後に大坂分団長に一番腹が立ったことを聞くと、こういう答えが帰ってきた。
『いっぱいあるけど言えない。死ぬまで腹の中においておこうと思う。オレはその日から怒りまくっている。その日から家はない、嫁はない、娘はいない。が、怒れば怒るほど自分が情けなくなるから、怒らないことにした。いちいち腹を立てていたら、怒りの矛先が飛び火するし、人間が下がっちまう』(p84)
分団長のご家族のことも書き込まれておりました。
「大坂分団長自身も写真店である自宅の一切が流され、最愛の妻と娘を失った。助かっているものとばかり思っていた妻と娘は避難所のどこを捜しても見つからなかった。」(p76)
この本の最後は「日本で初めての公的災害救助犬出動」という文でした。
そこに、宮城県へむかった救助の様子が書かれております。
「前日には消防団が入って遺体を発見し、今日もさらに発見しているが、遺体そのものは警察が来るまで触れてはいけないと言われている。しかし警察官にも限りがあり、遺体引き上げの手がまわらない。・・」(p314)
もう一度、大坂分団長の話にもどりますと、
「高田分団の当面の主たる仕事は遺体の捜索だった。遺体の捜索だった。遺体の搬送や管理は本来警察の仕事だが、最初の2,3週間は消防団が搬送まで行った。遺体の数が多く搬送が追いつかないのだ。」(p75)
この本は消防署員やレスキューが主眼となっていると思うのですが、そこにあらわれる地元の消防団員の姿が読後も鮮やかに浮かび上がります。
私は消防団をとりあげた「最前線で闘った消防団の苦悩」という文に、感銘しました。
そこを、紹介してみたいと思います。
陸前高田市消防団高田分団の大坂淳分団長をとりあげております。
ここで、消防団員の声を引用してみます。
「地震発生は下校前の時間だった。マニュアル通りであれば、子どもたちは間違いなく校庭に避難していたはず。・・子どもたちがどうにも心配だった。幸い、4百数十名の児童は裏山に無事避難したということだった。大津波がここまで来ると察知した消防団員が『逃げろーっ!』と大きな声で2回言い、その声にはじかれるように子どもたちがいっせいに動いたという。が、小学校に避難してきたお年寄りは子どもたちのようには走れないから、何人もの犠牲者が出た。津波は小学校の二階の下まで押し寄せ、校舎が堤防になって瓦礫がせき止められた。学校を再開させるため、瓦礫の撤去は小学校から始めることにしたが、この瓦礫の中からも何体ものお年寄りの遺体が発見された。」(p67~68)
「後日、記憶を頼りに各部の名簿を作り、生存者を確認して団員に27名の犠牲者が出たことがわかった。犠牲者の中には実動中に亡くなった団員もいれば、仕事中に亡くなった団員もいる。仕事を終えて屯所に移動中に亡くなった団員もいる。『最前線にいた人間は誰もが危機一髪だった。ほんの1つの判断が生死を分けた』と大坂分団長は言う。5部のポンプ車は、いつもは寡黙な団員がその時だけ大きな声で『マイヤだ!』と叫んで直進する車を左に切り替えさせた。マイヤは3階建ての大きなスーパーマーケット。団員らは外の非常階段を屋上までかけ上がり、津波をかわすことができた。直進したら、あるいは内階段を使っていたら、命はなかった。」(p68~69)
それでは、大坂分団長は、どのように語っていたのか。
文を書いた方は、質問をしておりました。
「最後に大坂分団長に一番腹が立ったことを聞くと、こういう答えが帰ってきた。
『いっぱいあるけど言えない。死ぬまで腹の中においておこうと思う。オレはその日から怒りまくっている。その日から家はない、嫁はない、娘はいない。が、怒れば怒るほど自分が情けなくなるから、怒らないことにした。いちいち腹を立てていたら、怒りの矛先が飛び火するし、人間が下がっちまう』(p84)
分団長のご家族のことも書き込まれておりました。
「大坂分団長自身も写真店である自宅の一切が流され、最愛の妻と娘を失った。助かっているものとばかり思っていた妻と娘は避難所のどこを捜しても見つからなかった。」(p76)
この本の最後は「日本で初めての公的災害救助犬出動」という文でした。
そこに、宮城県へむかった救助の様子が書かれております。
「前日には消防団が入って遺体を発見し、今日もさらに発見しているが、遺体そのものは警察が来るまで触れてはいけないと言われている。しかし警察官にも限りがあり、遺体引き上げの手がまわらない。・・」(p314)
もう一度、大坂分団長の話にもどりますと、
「高田分団の当面の主たる仕事は遺体の捜索だった。遺体の捜索だった。遺体の搬送や管理は本来警察の仕事だが、最初の2,3週間は消防団が搬送まで行った。遺体の数が多く搬送が追いつかないのだ。」(p75)
この本は消防署員やレスキューが主眼となっていると思うのですが、そこにあらわれる地元の消防団員の姿が読後も鮮やかに浮かび上がります。