和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

いざ半七捕物帳。

2008-06-29 | Weblog
私は本を読んでいる時よりも、どうも本を読みたいと思っている時の方が、好きです。というのも、読んでも長続きしない飽きっぽい性格がわざわいしているようです。ですから、読む前のワクワクする気分が、私にとっての醍醐味。それは、旅行の予定を地図を見ながら、あれこれと考えている時間の楽しみ。実際に、旅行中は、日程をこなすのに、おおわらわの状態(笑)。ひどい時は、旅行中時間に追われて、見るものも見ずに通り過ぎる状態。まして、旅行日程を繰り上げて、端折って帰ってくるみじめさ。比べて、旅行予定を考えている時の至福の時間。これは何物にも代えがたいのでした。

ということで、いま読書旅行計画中なのが、題しまして「いざ半七捕物帳」。小説はまるっきり駄目で、すぐに数頁で投げ出す前科を重ねている私ですが、今回は、じっくりとまわり道しながら、外堀を埋めてゆきます。

まずは、渡部昇一氏の言葉。
とりあえず、「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)に、こうあります。

「学校で習ったような作家の書いた『文壇中の小説』は、歳を取って読んでみるとえてしてつまらないことが多い。まあ、改めて読んでみて、つまらなさを実験するのも一興ではありますが(笑)。一方、下の下だった捕物帖でも、『半七捕物帳』などは今でも読むに耐えるものです。時代小説の江戸情緒がいいなあと、私がつくづく思ったのは中学三年で学徒勤労動員に出た時分でした。最上川の堤防工事を泊まり込みでやった。たまの休みに一日か二日、家に帰る。田舎だから、母親がぼた餅なんかを作ってくれる。そのときに昼間からぼた餅を食い、布団に入って『銭形平次捕物控』を読んだ。今は銭形平次など拵え物で読めないと思うのですが、アメリカの艦載機が飛ぶ下で江戸情緒を読むことは何ともいえない甘美な逃避でした。」(p102)


さて、渡部氏が学徒勤労動員で読んでいたという銭形平次捕物控の作者は野村胡堂。胡堂のエッセイが面白い。「胡堂百話」(中公文庫・古本)は面白かったなあ。ということで古本で「銭形平次捕物全集 別巻」というのを買ってみたことがあります。
そしたら、今引用した渡部昇一の言葉に共鳴するような言葉がひろえるのでした。

「『時』ほどそう明なものはありません。その当時大したエライ人とも思はない先生が、後で考へると得難い良師だつたり、その当時、非常に愉快な先生と信じた人が、今日から考へると、一向つまらに人だつたりすることも少なくありません。」(p68)

では、胡堂が語る岡本綺堂を、この機会に紹介。

「岡本綺堂の『半七捕物帳』は、綺堂先生が風邪か何んかで臥せっていた時、退屈のあまり、江戸名所図会をひもといて、フトこれを舞台に、江戸末期の風物詩的な捕物を書いて見ようと思い付いたということである。『半七捕物帳』の出発が明かになると、あの全篇に沁み出る、江戸情緒の面白さの由来も呑込めるような気がしてならない。」(p146)

うんうん。この調子で引用していきましょう。
あとp165の白石潔・江戸川乱歩。p167の吉田茂のことは、ここでは煩瑣になるのでカットして次に行きます。

「コナン・ドイルはその自叙伝のうちに、『私がもしシャーロック・ホームスなどいうものを書かなかったら、文壇的にはもっと高い地位をかち獲たことであろう』というようなことを言っている。コナン・ドイルとしては当然の述懐で、まことに同情に堪えないが日本の愛読者なる我々に取っては、シャーロック・ホームス無しにコナン・ドイルの存在は考えられず、ホームスを書かないドイルなどは、先づどうでも宜しように思うのが一般人の常識であろう。・・・『半七捕物帳』に描かれた江戸の風物とあの詩情と、それに一脈のほの温かい人情味は、大衆読物の神髄に徹するものだ・・・」(p169)

そして、こうも胡堂は書いておりました。

「私の先生は、生前一度もお目に掛ったことの無い岡本綺堂先生であったと言って宜しい、私の『銭形平次捕物控』は、『半七捕物帳』に刺激されて書いたもので、私は筆が行き詰ると、今でも『半七捕物帳』を出して何処ともなく読んでいる。『半七捕物帳』は探偵小説としては淡いものだが、江戸時代のの情緒を描いていったあの背景は素晴らしく、芸術品としても、かなり高いものだと信じている。」(p173)


さあて、「いざ半七捕物帳」と題した読書旅行計画表には、これは、というもう一人ぐらい背中を押してくれる人を捜したいですね。そうそう、人数は多いにこしたことはありませんからね。ということで、「近代日本の百冊を選ぶ」(講談社・古本)を開いてみると、瀬戸川猛資氏が1ページほど紹介文を書いているのでした。
これが素晴らしい。引用。引用。


「岡本綺堂は本名を岡本敬二といい、明治五年、東京の高輪に生れた。父の敬之助は百二十石取りの幕府御家人だったが、維新後は英国公使館の書記となった人である。敬二少年はこの父から漢詩や芝居を、公使館のイギリス人留学生たちから英語を学びながら育ったという。日本的伝統美の世界への親しみと西欧の知に対する興味。少年期に形成された両者のバランスの上に、岡本綺堂の文学は成立している。『半七捕物帳』は、そのもっとも色あざやかな精華といえるだろう。大正六年に雑誌〈文芸倶楽部〉に発表された第一話『お文の魂』に、半七は《江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズ》として登場する。大正六年は西暦1917年で、コナン・ドイルが現役作家としてホームズ譚を盛んに書いていたころ。それを綺堂は原書で読み、短編連作ミステリーを捕物帳という形式で日本に移植しようと試みたのだった。その際に考え出した趣向がすばらしい。明治二十年代の末、新聞記者の『わたし』が神田三河町で岡っ引をしていた七十すぎの半七老人の話を聞く、という構成にして《江戸の昔がたり》の側面を強調したのである。
知的で論理性ゆたかな短編ミステリーの器に盛られた、古き良き江戸の風物詩。この混淆具合の絶妙さゆえに、『半七捕物帳』は、現在読んでも少しも古さを感じさせない。その後に続出した他の捕物帳と比べても一頭地をぬきんでた高みにあり、日本大衆文芸史上の秀峰として屹立している。・・・」


さて、読書旅行計画案の素案は出揃ったのですが、あとひとつは、怠惰な読者である、私をいかにして引っ張り出すか。これが一番の関門。
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落書き連想。

2008-06-27 | Weblog
イタリアのフィレンツェ市。そのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の壁に落書き。というニュースが流れておりましたね。岐阜市の市立女子短大の学生6人が今年の2月に海外研修旅行でした不始末。大理石の壁に縦約30センチ、横約20センチにわたって、日付や自分の名前、短大名などを油性フェルトペンで落書きしたとのこと。テレビでは、数日にわたって何回も放送されていて、今日は現地の大聖堂の落書き現場を写しておりました。
ああそうだ。と今日私が思い浮かんだのは、西遊記のあの場面です。
そういえば、小杉未醒著「新訳絵本西遊記」(中公文庫)を読みたいとだいぶ前に買わせてもらって、そのままに読まずにおいてあったのを、取り出してきました。

では、その箇所。

「悟空心中に嘲笑って、如来の掌(たのぞこ)に跳り上り、一気にキント雲を放って飛び去った。正に十万八千里を飛ぶと、前面に五ッの赤柱が立って居る、その真中の柱へ、斉天大聖此処に一遊すと書いて、又十万八千里を飛び帰って如来の掌の上へ来た。大威張りで見廻すと、驚く可し(斉天大聖此処に一遊す)は、ツイ足の下の中指に書いてある。呆れおそれて逃げんとするを逃がしもあえず、如来は掌に掴んだまま、五つの指に像(かたど)った、五行山と云う岩山を忽ち下界に化成して、悟空をその下に圧し入れてしまった。・・・」(p42)


ちなみに、女子短大生は、停学とか、テレビで伝えておりました。

連想ついでに、
渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)は、谷沢さんのこういう言葉ではじまっておりました。
「今回渡部先生とお話しようというのが『貞観政要』という本なのです。この本は唐の太宗が諌議大夫や諌臣たちと交わした対話をまとめた本です。貞観というのは唐の太宗が在位していたときの年号ですね。」

井波律子著「中国の五大小説(上)」(岩波新書)
そこに西遊記の内容を紹介しておりました。
すこし引用してみましょう。

「『西遊記』は物語の構成もひじょうにわかりやすく、きちんと整理し完成されています。物語は三部構成で、第一部では花果山の石から生まれた猿、孫悟空が大暴れの末、釈迦如来によって五行山に閉じこめられるまで(第1~7回)。第二部では三蔵法師が唐の太宗の命により西天取経へと出発するまで(第8~12回)。そして第三部にいたってようやく三蔵法師、孫悟空、猪八戒、沙悟浄というおなじみの一行が揃い・・・・」(p176)


ここで『貞観政要』と『西遊記』とが、太宗でつながっているのに気づかされました。
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手書きの魅力。

2008-06-26 | Weblog
文化出版局から出ている「手をめぐる四百字」。
その帯には「五十人の肉筆原稿を読もう!」とあります。

そういえば、夏目漱石の「直筆で読む『坊っちゃん』」(集英社新書ヴィジュアル版)で、原稿用紙の升目にきちんと納まっている漱石の文字を読んだことがあります。この「手をめぐる四百字」をひらくと、達筆であったり、無骨な文字であったり、絵画じゃなかろうかと思う文字だったりと、はなから四百字の原稿の言葉をおうよりも、その文字に見取れながら、ぼんやりと、自分の連想に身をまかす楽しみにひたれるのでした。それに言葉の内容を、たどるのも疲れそうな達筆文字もあります。

私は、ドナルド・キーン著「明治天皇」を読もうと思っているのです(何でこう書くかというと、宣言すると、すこしは読むことになるかなという淡い期待があるからです)。それで、ひとつ明治天皇について

ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)の第一章に(p18)こうありました。
「明治天皇は自分の書いた字を人に見せたくなかったようです。自信がなかったためかどうかわかりません。短歌を詠むとき、まず紙切れに歌を書いて、誰か字の上手な女官に命じてきれいな紙に書かせたあとは、自分の原稿は破って捨てていました。それゆえ、歌稿は一つも残っていないでしょう。伝記を書こうとする身には大変困ります。」

「明治天皇御集・昭憲皇太后御集」というのを開いていたら、明治天皇の御歌の中に、こうありました。

 うるはしくかきもかかずも文字はただ読みやすくこそあらまほしけれ

 手ならひをものうきことに思ひつるをさな心をいまくゆるかな

 ものかかむ暇なければすらせたる硯の墨もそのままにして



さてっと。「手をめぐる四百字」は縦書きの原稿用紙に、原稿が書かれております。思い浮かんだのは小渕暁子編「父が読めなかった手紙」(扶桑社)でした。
小渕恵三元首相が、病床にいる時にお見舞いの手紙をもらったのを写真でそのままに手紙を紹介しております。小学生たちの手紙もまじる一冊なのです。
「手をめぐる四百字」は五十人全員が縦書きです。
けれども小渕首相へのお見舞いの手紙は、縦書き横書きがごっちゃになっておりました。おそらく正式には縦書きなのでしょう。改まった原稿を書こうとすると縦書きになる。けれど、そのうちに横書きになるかもしれませんね。
二冊の本をひらくと、私たちは、縦書きと横書きとの、ちょうど境目に暮らしているような塩梅じゃないかと、あらためて現在の立ち位置を思い浮かべるのでした。

たとえば、広岡勲著「こんな時代だからこそ心にとめておきたい55のことがら」(アーティストハウス)や、清水義範著「大人のための文章教室」(講談社現代新書)を思い浮かべるのですが、清水さんはこう書いております。

「そんなわけで、この文章教室で最初に導き出される文章のコツは、心をこめた文章は手書きにすべし、である。」(p19)
「何らかの組織から、会員全員に届けられる報告文書などは、ワープロ文であることが多いが、それは構わないと思う。あれは手紙というよりは、通信文、といった性格のものであろう。しかし、人を動かしたい手紙ならば、手で書くべきである。ここ、重要なところである。ひとは文章を、他者に何かを伝えるために書くのである。そして、何かを伝えるとは、事情を了解してもらえばそれでいい、ということではない。こちらの情報を正しく伝達されることはまず第一の目的だが、それだけではなく、相手の同意、同感させることが文章の二番目の目的である。そして、相手をこちらの希望するように動かすのが、文章の究極の目的なのだ。」

そんなわけで、私が、といわないまでも、あなたが、心をこめた手書きの文章をかこうとした場合。そのためにですね。一度「手をめぐる四百字」の覗いておいてもソンはなさそうですョ。
と、まあ。それだけですけれどね。一度見ればそれで十分という気もします。
けれども、これだけは言えそうです。ペン習字のような正式の文字を規範にして、自分の文字を書くのが億劫な方にとっては、こういう文字もありなんだ。と、少しは自分なりの字を書くのがメンドクサクなくなる効用がありそうです。

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地震雷火事大仏。

2008-06-25 | 地震
岡本綺堂と地震。
岡本経一氏は書いております。
「大正十二年九月一日の関東大震災で東京の大半は壊滅した。麹町区元園町に住んでいた岡本家もその厄に遭うて、家屋資材蔵書の一切を失った。綺堂はかぞえの五十二歳の時である。」(光文社「鎧櫃の血」の解説)

おもしろいのは、旺文社文庫の「綺堂むかし語り」。
その三章「身辺雑記」というのが、震災にまつわる雑記をおさめており、興味深いのでした。たとえば、三章のはじまりは「人形の趣味」。これは大正9年に書かれた雑記なのでした。そこからすこし引用を重ねます。

「・・・人形に限らず、わたしもすべて玩具のたぐいが子供のときから大好きで、縁日などへゆくと択り取りの二銭八厘の玩具をむやみに買いあつめて来たものでした。・・・そんな関係から、原稿などをかく場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然に付きはじめたので、別に深い理窟があるわけでもなかったのです。・・・今ではそんなことをしません。しかし何かしら人形を控えていないと、なんだか極まりが付かないようで、どうも落ちついた気分になれません。小説をかく場合でもそうです。脚本にしろ、小説にしろ、なにかの原稿を書いていて、ひどく行き詰まったような場合には、棚から手あたり次第に人形をおろして来て、机の上に一面にならべます。自分の書いている原稿紙の上にまでごたごたと陳列します。そうすると、不思議にどうにかこうにか『窮すれば通ず』というようなことになりますから、どうしてもお人形さんに対して敬意を表さなければならないことになるのです。旅行をする場合でも、出先きで仕事をすると判っている時にはかならず相当の人形を鞄に入れて同道して行きます。」

さて、そのあとにも、いろいろと書かれているのですが、この文の最後には、追記がありました。そこも引用しておきましょう。

「・・それら幾百の人形は大正十二年九月一日を名残りに私と長い別れを告げてしまった。かれらは焼けて砕けて、もとの土に帰ったのである。九月八日、焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つの焦げた人形を掘り出して来てくれた。
   わびしさや袖の焦げたる秋の雛     」


旺文社文庫では、この後の文が「震災の記」でした。
そういえば、そこにも人形にまつわる記述があります。

「第一回の震動がようやく鎮まった。ほっと一息ついて、わたしはともかくも内へ引っ返してみると、家内には何の被害もないらしかった。掛時計の針も止まらないで、十二時五分を指していた。二度のゆり返しを恐れながら、急いで二階へあがって窺うと、棚いっぱいに飾ってある人形はみな無事であるらしかったが、ただ一つ博多人形の夜叉王がうつ向きに倒れて、その首が悼(いた)ましく砕けて落ちているのがわたしの心を寂しくさせた。
と思う間もなしに、第二回の烈震がまた起こったので、わたしは転げるように階子をかけ降りて再び門柱に取り縋った。それがやむと、少しの間を置いて更に第三第四の震動がくり返された。・・・」


ここで、話題をかえたいのですが、
田山花袋著「東京震災記」という古本を買ったのですが、最初に何枚かの写真が載せてあるのでした。そこに「頭の落ちた上野公園の大佛」という写真があり、ちょっと見にくいのですが、なるほど、首から上が前に転がっている写真です。

私が読んだ記録では、ほかに
慶安二年(1649)6月21日に武蔵国を中心とする大地震にも、
上野寛永寺の大仏の首が落ちたという記述があるそうであります。


さてっと、ここからなら「地震雷火事大仏」という噺に、
つながりそうです。

え~。江戸時代には、三大大仏といわれる大仏があったそうですなあ。
東大寺の大仏は教科書にも写真が載って有名です。それに鎌倉の大仏。
あとひとつはなにかといいますと、昔、京の大仏というのがあったそうです。
豊臣秀吉が何でも奈良の大仏にならって作らせたそうです。
その京の大仏は、鎌倉の大仏と違って、経緯がわりかし辿れるのでした。
1595年。大仏殿完成し、高さ19mの木製の金漆塗座像の大仏が安置される。
1596年。激震で、開眼供養前の大仏が倒壊。
1598年。秀吉死亡。その年。大仏がないままに大仏殿で開眼供養。
1602年。出火により大仏殿焼失。
1612年。徳川家康の協力で、大仏殿と銅製の大仏完成。
1614年。梵鐘も完成。
1662年。地震で大仏がわずかに破損し、木造で作り直される。
このとき出た銅は、寛永通宝に使われる。
1798年。雷が大仏殿に落ちて、本堂、桜門と共に大仏も焼失。
二度と再建されず。江戸時代の三大大仏である。京の大仏が
これで姿を消すことになりました。

(以上は、ネットで調べました)


それじゃ、奈良の大仏は、どういう災害にみまわれたのか?
気になるのは、大仏の首でした。

「造立されてから約100年の間に200回を超える地震があり、855年5月仏頭が重みで自然落下し、その後も、二度兵火に襲われ、現在の大仏は胴体が鎌倉時代、両手が桃山時代、少し面長になった首から上の頭部が江戸時代に再鋳造されている」のだそうです。気になる大仏の頭はというと、

「平安時代の大仏の頭が傾き、855年地震で転がり落ち、861年に修理」
「1180年12月28日。四万の軍勢により奈良町の民家に放火。
その時、大仏殿の天井裏に避難した老若男女1000人と共に大仏も頭と手が焼け落ちる」
この再建にあたって、奥州平泉の藤原秀ヒラから5000両。源頼朝から1000両の砂金の寄付。1195年3月落慶供養。その際に、数万の軍勢を率いた頼朝も黄金1000両を寄進して、北条政子と共に参列。

「1567年10月。兵火で、又も大仏殿が焼失。大仏の頭部が焼け落ちる。」
外護者織田信長の死などで中断し、再興は進まず、奈良東部の領主山田道安が私財を持って・・大仏の頭を木で造り、銅版を張っての仮修理、大仏殿も仮建設。1610年大仏殿が暴風雨で吹っ飛び、大仏は銅版の頭のまま風雨にさらされて露座。」
そして1691年(元禄4年)に大仏またも完成。翌年大仏開眼供養。・・・・



え~と。京の大仏。奈良の大仏。ときました。
鎌倉の大仏は、鎌倉時代より津波で大仏殿が流されたおかげもあって、露座のままに現在まで首がつながっているのでした。現在は緑青錆(ろくしょうさび)に覆われ見栄えはよくないのですが。それに酸性雨の影響も心配の種はつきないのですけれど、地震雷火事津波に耐えて、その姿を700年以上に渡って伝えているのでした。ということで、機会があったら、改めて見てみたいと思うこの頃です。

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親とつき合う法。

2008-06-24 | Weblog
産経新聞2008年6月24日。つまり今日。
文化欄のコラム「断」は、イタクラヨシコさん。
こうはじまっておりました。

「古書店で見つけた『親とつき合う法』という文庫を一気に読み耽った。著者は8年前に97歳で他界したフランス文学者、河盛好蔵である。」

これ魅力あるコラムなので、引用しておきます。

「昭和30年代の週刊誌の連載エッセーを束ねた本だが古さを感じさせない。ものわかりのよい振りをしてその実、心の通い合わない親子より、衝突したり許し合ったりできる『愉快な関係』が好ましいと河盛は説き、子供を叱るべき時に叱らないのは親として無責任なだけでなく、『第一薄情なやりかたである』という言い方で諌める。なかでも心に残ったのは、親子の会話は大切だが、大事な議論よりもまず日常の些事をいかに面白く相手に聞かせるか、互いにシャベリを磨けとの提言だ。『くだらないおしゃべりをしている間に、正面切っては言いにくいことを、巧みに伝える技術を覚えるのである』」

それじゃ、全文引用。
この後が、すばらしいのでした。


「東京・秋葉原の殺傷事件以降、親子のあり方という問題が世の関心を集めているが、事件後の識者のコメントの多くは、容疑者の親子関係がどうダメかに言及するのみで、げんなりさせられた。今時の学者センセイは、河盛のように、経験と教養と想像力を総動員して人の心の機微に分け入り、望ましい親子関係を打ち出し得ないのか。脳科学などでは解明しきれない人間関係という七面倒くさい主題に食い下がり、東西の文学から落語まで引き合いに出し、タテ横斜めに考察を重ね、しかもそれを平易で感じのいい文章で表現してくれるような学者はいないのか。本書はもっと読まれるべき好著だと思う。」


ところで、イタクラヨシコさんというのは文筆業とありますが、どんな方?まず先に、河盛好蔵著「親とつき合う法」(新潮文庫)を読みたくなりました。


じつは、河盛好蔵著「人とつき合う法」(新潮文庫)は読んだことがあり、感銘しておりました。といっても、だいぶ前なので、もう内容も霞んでおります。その時に、古本で河盛好蔵著「親とつき合う法」(新潮文庫)を買ってあったのです。けれども、こちらは読む気が起こらなくって(いつものことなのですが)、そのままになっておりました。このイタクラヨシコさんのコラムで俄然読みたくなりました。有り難い。ありがたい。私にとって、ありがたいコラムなのでした。

そういえば、渡部昇一著「父の哲学」(幻冬社)というのも今年出ております。「親とつき合う法」は、どうやら父親がテーマとなっているようなのでした。
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岡本綺堂と地震。

2008-06-23 | 地震
岩波文庫に「岡本綺堂随筆集」が入っておりました。
最初に選ばれている文は「磯部の若葉」。こうはじまります。

「今日もまた無数の小猫の毛を吹いたような細かい雨が、磯部の若葉を音もなしに湿(ぬ)らしている。家々の湯の烟(けむり)も低く迷っている。疲れた人のような五月の空は、時々に薄く眼をあいて夏らしい光を微かに洩すかと思うと、またすぐに睡むそうにどんよりと暗くなる。鶏が勇ましく歌っても、雀がやかましく囀っても、上州の空は容易に夢から醒めそうもない。『どうも困ったお天気でございます。』・・・・」


ところで、この文庫に関東大震災のあとに書かれた「火に追われて」(p136~)という文を見つけました。そのはじまりは。

「なんだか頭がまだほんとうに落ちつかないので、まとまったことは書けそうもない。去年七十七歳で死んだわたしの母は、十歳の年に日本橋で安政の大地震に出逢ったそうで、子供の時からたびたびそのおそろしい昔話を聴かされた。それが幼い頭にしみ込んだせいか、わたしは今でも人一倍の地震ぎらいで、地震と風、この二つを最も恐れている。風が強く吹く日には仕事が出来ない。少し強い地震があると、またそのあとにゆり返しが来はしないかという予覚におびやかされて、やはりどうも落ちついていられない。・・・」

そして大正十二年九月一日。

「この朝は誰も知っている通り、二百十日前後に有勝(ありがち)の何となく穏かならない空模様で、驟雨がおりおり見舞って来た。広くもない家のなかは忌(いや)に蒸暑かった。二階の書斎には雨まじりの風が吹き込んで、硝子戸をゆする音がさわがしいので、わたしは雨戸をしめ切って下座敷の八畳に降りて・・・広谷君の帰る頃には雨もやんで、うす暗い雲の影は溶けるように消えて行った。茶の間で早い午飯をしているうちに、空は青々と高く晴れて、初秋の強い日のひかりが庭一面にさい込んで来た。どこかで蝉も鳴き出した。わたしは箸を措いて起った。天気が直ったらば、仕事場をいつもの書斎に変えようと思って、縁先へ出てまぶしい日を仰いだ。それから書きかけの原稿紙をつかんで、玄関の二畳から二階へ通っている階子段(はしごだん)を半分以上も昇りかけると、突然に大きい鳥が羽搏(はばた)きをすうような音がきこえた。わたしは大風が吹き出したのかと思った。その途端にわたしの踏んでいる階子がみりみりと鳴って動き出した。壁も襖も硝子窓も皆それぞれの音を立てて揺れはじめた。・・・」

こうして地震のはじまりが描かれておりました。
以下も興味深いのですが、それはそれで、またの機会がありましたなら(笑)。


追記。
あとで、分かったのですが、旺文社文庫「綺堂のむかし語り」に
引用したどちらも、掲載されておりました。
ただ、「火に追われて」は、旺文社文庫では「震災の記」と題して掲載されておりました。
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辻惟雄。

2008-06-22 | Weblog
雨が降っていると、ボンヤリと絵でも見ていたくなります。
そういえば、最近は新書でもきれいな写真で絵が紹介されているのでした。
読みませんが、気になる新書というのがあります。
じつは、山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)に
辻 惟雄の「奇想の系譜」が紹介されているのでした。
紹介されているのに、いつものように私はいまだ読んでいないのでした。

  辻惟雄(つじのぶお)氏の本

 「奇想の系譜」(ちくま学芸文庫)
 「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」(文春新書)
 「奇想の江戸挿絵」(集英社ヴィジュアル版)
 「日本美術の歴史」(東京大学出版会)これは単行本
 「奇想の図譜」 (ちくま学芸文庫)


 あと私が気になる新書はというと、

 原信田実著「謎解き広重『江戸百』」(集英社ヴィジュアル版)
 磯辺勝著「江戸俳画紀行」(中公新書)


「奇想の江戸挿絵」は、挿絵が並んでいて、私などは、水木しげる氏の妖怪本(もっていないのですが)を見るよりも実感があり、楽しめるのでした。p184には江戸の浮世絵でしょうね。絵の隅で女の人が傘をさしている前で。侍が駕籠からおりて、切り合いの立ち回りが描かれている。背景の余白に文字が斜めに書き込まれておりまして、雨の中を現しているのでした。その斜めに降りそそぐような雨。じゃなくて文字を、切り裂くようにして日本刀での切り合いしている男四人。それを見返り美人のような仕草で見ている女が一人。その女の傘の上にも文字が。
それこそ、私は読みもせずに、チラッと見ただけの新書ですが、何とも印象に残る描きぶりなのでした。そういえば、縦書きの文字というのは、細かければ細かいほど雨にたとえることも出来るのですね。それが斜めに降るように描かれると、なにやらとたんに、絵が動き出してみえます。
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五分間再読。

2008-06-20 | Weblog
日垣隆著「知的ストレッチ入門」(大和書房)は、気になる本でした。一回では、感想が語れそうにありませんが、気になった箇所をとりあげてみます。
最初に出てくる基本原則の3つ。

 1、インプットは必ずアウトプットを前提にする
 2、うまくいった諸先輩の方法をどんどん採り入れる
 3、おのれを知る


ここでは、2番目に注目してとりあげてみます。
諸先輩の方法としては、梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)が、まずもって上げられますよね。ということで、本棚から、あらためて取り出してみました(それが、だいぶ古い新書のせいか、真ん中の折り目から本が真っ二つにわかれてしまったのでした。こりゃ始めての経験。こりゃ2冊として使おう)。

さって、「知的生産の技術」にこんな箇所があります。

「一冊の本からつくられるカードは、ふつうの本で、三枚から三十枚くらいである。」(p110)とあり、つぎに「つん読」が語られております。
「いっぺんよんでから、つんどくのである。よみおわって、鉛筆で印をつけた本は、しばらく、書斎の机の上に、文字どおりつみあげてある。さきにのべた、傍線にしたがってのノートつけは、よんだあとすぐではなく、数日後、または数週間後におこなうのである。そのあいだ、本の現物は、目のまえにつんどかれる。」

まあ、この後からが、本題になるのですが、
ここでは、この箇所が思い浮かびました。
梅棹忠夫は、鉛筆で印をつけておりました。
日垣隆はというと、付箋。
その付箋のつけかたを日垣さんは語ります。

「それぞれ10箇所以上にならないのがコツです。一般には、よくできた本なら【ここ重要!】と思える箇所は100くらいすぐいってしまうものです。でも、だからと言って100枚も付箋を貼って電車の中で本を読んでいたら、笑われます。同僚も笑います。・・何より、100枚も付箋を貼ったら、どれが重要なのかさっぱりわからなくなってしまいますし、100ヵ所も角を折ったら本が膨らんでみっともないでしょう。」
「いったん本を読み終えてから、5分程度かけて、付箋を貼ったり角を折ったり書き込みをした箇所だけ、まとめて再読します。この【まとめて再読】があるのとないのとでは、その後の読書力は30倍くらい違ってくるでしょう。黄金の5分間です。折ったり貼ったりする箇所を、それぞれ10ヵ所程度にとどめる、というのも、読書力を高めるために大きな効果を発揮します。」(p47~48)

私といえば、この頃、小さな付箋をたくさん買い込みまして、やたらめったら、気になるところに貼り付けておりました。あとでポカンと数行の言葉が、うる覚えに浮んでくる時があります。その箇所をあらためて探し出すのが億劫なので、横着なのですが、とにかくも、気になった箇所には付箋、何はなくとも付箋(笑)。付箋だらけにして、自己満足しておりました。それに読んだ後は、そのまま【つん読】して寝かせておりました。がこれは、最近効果がうすいことに、うすうす気づいておりました。一回寝かせてしまうと、読まない、もう興味が次へうつってしまっていることがおおくて、読み直さないのでした。それで日垣さんの「黄金の5分間」は、参考になります。今度から試してみたいと思ったわけです。

読んだ後は、漠然とした満足感にひたるのですが、ルーズな私はそのままになりやすい。日垣さんの五分再読は、これから試してみます。付箋貼りは、もうちょっと懲りるまで試してみます。
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知的ストレッチ。

2008-06-19 | Weblog
月刊雑誌「WILL」2008年2月号には、新春特別対談として渡部昇一・日垣隆「史上最強の知的生活の方法」という24ページが読みごたえがありました。そのはじまりの雑誌の前口上には「77歳で借金をして、おそらく世界一とも見られているプライベートライブラリーを建てた渡部昇一先生。・・」とあります。
ちょっと気になっていたのは、そこにこんな箇所がありました。

【渡部】私は日垣さんの本が好きなので、ほとんど全部読んでいるのですよ。日本に日垣さんのような偽善を暴く評論家が出たということを嬉しく思っています。この『知的ストレッチ入門』も編集者から送ってもらって読んだのですが、すみませんこれにサインしてください。
【日垣】え?                 (p51)


サインしてもらおうという本はどんなだろうなあ、と興味がありまして、古本屋から『知的ストレッチ入門』(大和書房)を買いました。その最初の方にこうあります。

「知的ストレッチを効率的に進めた場合・・・・
とりあえず基本的に興味をもったことに関連する新書や一般向けの本を5冊から10冊読むことで広げられます。5冊程度の本が一気に読めないのであれば、そのテーマに対する興味は大したものではないということでしょうから、その題材では幅は広げられないと考えたほうがよいでしょう。もっと知りたいと思えたり、次々に疑問が出てくる状態が、まさに『幅が広がっている』ということになります。深さに関しては、専門書を読んでいくのが一番の近道です。」(p21~22)


うん。深さはともかくとして、
幅を広げるということで、私の最近はというと

ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)
渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)
ドナルド・キーン著「明治天皇」(新潮社)
「明治天皇御集・昭憲皇太后御集」
山本七平ライブラリー③「帝王学」(文芸春秋)
原田種成「貞観政要」(新釈漢文大系の二冊・明治書院刊行)
原田種成著「私の漢文講義」(大修館書店)
「中央公論」2000年3月号。小渕恵三・福田みどり対談
「貞観政要定本」(財団法人無窮会東洋文化研究所)


とりあえず。読んでみたい思い浮かぶリスト。

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チンプン漢文。

2008-06-18 | Weblog
「貞観政要定本」という古本を買ってみました。
ネットで注文したのですが、ひらくと、まったくの漢文。
チンプンカンプン。チンプン漢文(笑)。
漢字を目でおって50ページほど見たのでした。
分かるのは「発刊の辞」でした。
そこに
「・・後世の明王はこの書を愛重せぬものはない。我が明治天皇はこれを座右に置かれ、大正天皇の侍読であった三島中洲先生は、常に此の書を御進講申上げたといふ。」とありました。

そういえば、山本七平ライブラリー③「帝王学」(文芸春秋)を、ちょっとパラパラと開いてみたら、ドナルド・キーンの名前が出てくるのでした。それは『宋名臣言行録』を取り上げた個所でした。

「この書が明治天皇の愛読書であったことを知った時である。
ドナルド・キーン氏が『ヴィクトリア女王伝』があるのに『明治天皇伝』がないのは不思議だといわれ、ライフワークの『日本文学史』が終ったら次に『明治天皇伝』に手をつけたいといわれているが、確かにごく普通の偏見のない目で見れば、ヴィクトリア女王より明治天皇の方が知的関心をひく存在であろう。このことはごく簡単に次のことを想像してみればよい。維新の動乱を生き抜いて来た功臣という一癖も二癖もある年長の猛者に取り巻かれた、16歳で即位した少年を――。彼は維新政府の中で最弱年、その幼時はキーン氏の言葉を借りれば、女たちの中で育てられてきたはずである。これは16歳で相続して社長となり、年長のモーレツ重役に取り巻かれているより大変な状態、普通なら体よく棚上げされ、雲上の飾りものにされる状態であろう。」(p154)


うん。
明治天皇は「貞観政要」を座右に置かれ、「宋名臣言行録」を愛読書とされておられた。ということでしょうか。私にはチンプン漢文の「貞観政要定本」も、とりあえず身近に置いとくことにします。それでもって、ドナルド・キーン著「明治天皇」を読んでみたいなあ(まだ読み始めていないのでした)。

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地震雷火事大仏。

2008-06-17 | Weblog
地震や津波について思っていたら、そのうち、鎌倉大仏に興味がうつりました。「地震雷火事大仏」なんて、唱えながら、鎌倉の大仏の話をしてみたくなりました。

ということで、とりあえず。
江戸の三大大仏とされる、京の大仏はいったいどういう経緯で出来て、そしてなくなってしまったのか?東大寺の大仏の首は、いつ頃の再建か? そして、鎌倉の大仏は猫背で、首がすこし前に語りかけるようにして傾いているのですが、鎌倉時代から、そのままの姿を保っているのは、どうしてか?
それが地震と火事と津波と面白くも関係しているのでした。
あまり資料がない分、ほかの大仏との比較をしていると、鎌倉の大仏の魅力が浮き立つように背景がたどれるのでした。
それにしても、社会科の教科書には、東大寺の大仏は写真入りで紹介されておりますが、鎌倉大仏が紹介されないのは、ちょいとさびしい限り。


思いついたら、資料をならべてみたいと思います。
カタログ類とともに、ネットで簡単に調べることができたのも、楽しみでした。
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命日を祝う?

2008-06-16 | Weblog
渡部昇一・谷沢永一著「上に立つ者の心得 『貞観政要」に学ぶ」を読んでのあれこれの備忘録。

太宗ならではの傑作な話として、紹介されているエピソードがありました(p175)。

【谷沢】・・貞観17年、太宗が周りの者にこう言ったというんです。・・・誕生日というのは喜び楽しむ日ではなくて、むしろ自分を生んでくれた母の苦しみを静かに思いめぐらすべき日であると言っているわけです。・・これは僕は傑作だと思いますね。こういう皇帝はちょっと例がないと思う。
【渡部】東西に例がないでしょうな。だけども、いい独創ですね。
【谷沢】ええ、実に清らかな独創です。

ここから結びつく発想が私には刺激的でした。

【渡部】これは大変なことですな。しかし考えてみると、日本では誕生日を祝わないで命日ばかり祝っていたんじゃないですか?
【谷沢】あぁ、そうですね。
【渡部】私の子供の頃に誕生日という観念はなかったですね。むしろ、今日はお祖母さんが死んだ日、今日はお祖父さんが死んだ日と、命日ばかりでした。そのほうが太宗の感覚には合いますな(笑)・・・誕生日を祝わないという日本の習慣がどこから来たのかわかりませんけれど、みんな亡くなった日を偲んでいたというのは、どうしてでしょうね?・・・・


この誕生日を、まるで逆にでもしたような命日を祝うという発想がどこからきたのか? ・・・というよりも、そこで私が連想したのは将棋のことでした。将棋には持駒の使用ということがあります。相手からとった駒を、こちらで使うのでした。木村義徳氏は「日本将棋は外国の将棋にくらべてきわめて特異である。まず持駒使用がほかになく、最大の特長であることに異論はないと思う」(「日本文化としての将棋」三元社)

また対談にもどります。

【谷沢】太宗が偉いのは、自分の反対派であった人物を許して、逆に諌議大夫に取り上げている点です。
【渡部】魏徴(ぎちょう)ですね。この人は太宗が殺した皇太子ーー自分の兄ーーの家来だった。
【谷沢】そうです。太宗が李世民(りせいみん)と名乗っていた頃、皇太子であった兄の李建成と、弟の李元吉を殺すわけですね。いわゆる「玄武門の変」です。これは李世民の人望に危機感を抱いた二人が結託して李世民を亡きものにしようと謀ったのがそもそもの始まりなんですが・・・結局、李世民は皇太子になって、お父さんの高祖から位を譲り受け、確か27歳で即位した太宗になります。それから24年間の在位中、太宗は兄を殺したという決定的な負い目を背負い続けた。それを帳消しにするために、太宗は名君たらざるを得なかったとも言えるでしょう。・・・(p41~ )

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貞観政要。

2008-06-14 | Weblog
谷沢永一・渡部昇一著「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)を読んだのでした。それで思い浮かんだのがドナルド・キーンさんの「明治天皇」でした。といっても私は、その本を読んでいないので、講演記録をまとめたドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)が浮んだのです。

そんなこんなを、語りたいと思います。
まずは、明治天皇について、
鼎談「同時代を生きて」(岩波書店)のなかにこんな箇所があります。
(鼎談は瀬戸内寂聴。鶴見俊輔。ドナルド・キーンのお三方)

【瀬戸内】日本人が書いたものよりよくわかるんだもの。『明治天皇』なんて、日本人は誰もよう書かないでしょう。
【鶴見】日本人には書けないんです。あれを思い、これを思うから。・・
【瀬戸内】近代に入って、歴代の天皇の中で、われわれはわからないけれど、なんとなく明治天皇は格別という感じがしませんか。
【キーン】します。
【瀬戸内】私たち大正11年生まれなんかにとっては、有無を言わさない偉い人でしたね。
【鶴見】そうです、そうです。(p24~25)


鼎談でこんな箇所もあったりしました。

【キーン】変な言い方ですが、それは投資として最高のものでした。そういうふうにお金を使ったことが、日本のためになったのです。もし、そのときに同じお金で、たとえば皇室が素晴らしい宮殿を造ったとすれば、ぜんぜん違っていたでしょう。しかし、明治天皇は新しい宮殿建造を断っています。皇居が火事で焼けたのですが、新しい皇居を造るという話が出るたびに、いつも断っていました。それは、ほかの国の歴史にちょっとないことです。また、明治天皇の立像がどこにもないというのも偉いと思います。
【鶴見】それはすごいことですねえ。
【キーン】それはすごいことです。
【鶴見】いや、それは気づかなかったなあ。
【キーン】ヨーロッパのどんな小さな国へ行っても、君主の立像とか、乗馬姿の像などが必ずありますが、明治天皇にはそれがまったくないんです。それはたいしたものだと思います。・・・  (p180~181)


さて、どうして明治天皇のことが思い浮かんだのかというと、
これから谷沢・渡部対談「『貞観政要』に学ぶ上に立つ者の心得」について引用してみます。


【谷沢】・・この『貞観政要(じょうがんせいよう)』には、唐の太宗(たいそう)とその臣下のやりとりが事細かく書かれています。唐の太宗は、王を諌(いさ)める役目の諌議大夫(かんぎたいふ)という役職を置くわけですね。その諌議大夫あるいは諌臣(かんしん)といわれる重臣たちが、唐の太宗にどんどん上疏文(じょうそぶん)を出すわけです。ようここまで言うたなと思うぐらい、忠告するんですよ。(p39)


【谷沢】それから太宗を取り巻く諌臣と言われている連中がいます。『貞観政要』には、この連中の家は質素で表座敷すらなかったということが書いてある。それが本当であるとすれば、これも奇跡的なことです。
【渡部】それほど皇帝の近くにいる人が贅沢しないということはシナでは考えられないですからね。(p47)

【谷沢】魏徴もそうですが、諌臣たちは太宗に対して『質素にしろ』ということをやかましく言いますからね。・・・たとえば、あまりにも古びている宮殿にちょっと手を加えたいというぐらいの気持ちはある。ところが太宗がそう言うと、ただちに魏徴が『それはなりませぬ』と上申するわけです。当時は貴族社会ですから、帝が贅沢をしたらその下の貴族が贅沢をする。帝王と貴族が贅沢をすれば、そのツケは庶民にまわってくる。だから帝王は贅沢をしてはいけない、宮殿に手を入れるのはやめなさい、という具合にね。・・・・
【渡部】止める側の人が贅沢な生活していたら『なんだ、お前は』という話になりますけれど、みんな非常に質素であったから太宗も認めざるを得なかったというわけです。その気になれば、諌臣たちは太宗に『贅沢しなさい』『美女を集めなさい』とおべっかを使えば、自分たちも同じ贅沢ができる立場にあったんですけれどね。
【谷沢】それが揃いも揃って清廉潔白で、政治とはどうあるべきかということだけを考えて一生過ごした。そんな諌臣が十人ぐらいおったというわけですから、この組み合わせも奇跡ですね。(p48~49)



ということで、「明治天皇」と「貞観政要」とが、自然と繋がってゆくという驚きが読後感としてありました。ここから、ドナルド・キーン著「明治天皇」を読んでみたいと思っているのですが、私にひとつ心配なのが、積読という言葉(笑)。
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昭憲皇太后歌集。

2008-06-14 | Weblog
ドナルド・キーン氏の言葉に誘われて、「昭憲皇太后歌集」を古本で購入してみました(ネットでも十分読めるのですけれど)。大正13年の本なので、シミあり、古い感じ(500円じゃしかたないか)は否めませんが、歌は私に新鮮な息吹を感じさせてくれました。

ということで、すこし引用しておきましょう。

 「読書言志」とありまして

  夜ひかる玉も何せむ身をてらすふみこそ人の宝なりけれ

脇には、毎回ではないのですが、編者による説明もつけてあります。
「夜ひかる玉 金剛石。 貴重品として人の喜ぶ金剛石も身には何ぞ益すべき書籍こそ人の身に眞の光を添ふるものなれば宝なれど読書の尊さを示し玉へるなり。」

季節ごとの歌がわけてありますので「夏の部」からも引用しておきます。

 夏草のしげみがなかに交れどもなほしなたかし姫百合の花

    (しなたかし  : 品位が高い )

 何れをかまことの色と定むべき日ごとにかはるあぢさゐの花


 
 夕立の露ふきはらふ松風におちくる蝉のこゑのすずしさ


 人ごゑも聞えぬほどの夕立に大路も川となりにけるかな


 蝉のこゑあつくきこえし松陰もすずみどころとなるゆふべかな


 
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書き始め。

2008-06-13 | Weblog
お~い熊さん。この頃、大家さんのお小言を聞いてないねえ。ひとつ、ご機嫌伺いに、いっしょにお小言頂戴しに行かねえかい。そうだなあ。八っあん。小言は好かないが、こうテレビや新聞で、 毎回、首根っこを捕まえられて、振り回されているような文句ばかり聞かされて、こちとら、はなから飽き飽きしていたところだ。ここはひとつ、隠居した大家さんのお小言を正座でもって、いっしょに聞きたくなるってものじゃねえかい。
そうそう。どうも一人じゃ行きづらい。敷居が高い。と思っていたんだ。熊さん。 それにしても、ご隠居は物好きだねえ。あっしらみてえな野郎にも、噛んで含むようにお小言をしてあげようってんだから、ありがてえねえ。しかもだよ、最近は「モノの道理」を語ろうってんだ。同時代長屋の大家さんも酔狂だねえ。 そんな酔狂を聞きに行こうってんだから、八っあん。あんたも、物好きだねえ。

と、二人笑いながら、大家さんの家にむかう。

ありがたいことには、このご時世、大家さんのお小言が、ちゃんと本なっている。えっ。何ですって。お小言の内容をすこし話しちゃくれねえかい。ですって。ハハハ。そいつは、野暮ってもんですよ。旦那。
でもね。旦那。すこしぐらいなら、よござんす。
なあに、ちょっとですよ。ちょっと。

ということで、谷沢永一著「モノの道理」の、あとがき。
そのはじまりはこうでした。

「君は今なにかを考えている、まずそれから書き始めたらよい、とヘンリー・ミラーが記したと伝えられる。」

あとがきの中頃には、こうあります。

「いつの時代においても然りであろうけれど、特に昨今のわが国における表層的の風潮には、次第に固まってきた空虚な建前と人心の実際との乖離が甚だしすぎる。その原因はどなたもが内心に受けとめているであろうように、報道媒体(メディア)の不思議な偏向にあるとしか思えない。その顕著な趨勢が一斉にそろい踏みとなっているのは壮観である。見渡して較べて楽しむ興の削がれるのにはどなたにしろ不満であろう。この均一性に対する反発の声が大きくならないところに昨今の病弊がある。・・・」
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