和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

尻拭い。

2017-03-21 | 短文紹介
「新潮45」4月号。
曽野綾子氏の連載のはじまりは

「2017年2月3日に死去した夫の三浦朱門という人は、
家の中で常に笑いの中心であった。」

今回の連載のさいごは

「ワルクチの謂い放題をしながら、
朱門は決して誰かに本気で悪意を持たなかった。
死後思い出そうとしても、朱門に深く嫌われていた人を
私は思い出せない。小出しにワルクチを言うことが、
彼の誠実のあり方だったのかもしれない。」(p21)


ひとつ引用。

「朱門には旧制高校時代の親しい友達がいた。
そのうちの一人は優しい誠実な性格で、
いつも朱門の荒っぽい、投げやりな性格の
『尻拭い』をしてくれていた。
或る日朱門はその人に殊勝なことを言った。
『友人は皆死なないでほしいな』
『君、今日は珍しく優しいことを言うね』
『いや、皆がいないと、俺の葬式だすのに困るからさ』」
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産経新聞だけだった。

2017-03-17 | 産経新聞
つい最近覚えたのは、大相撲録画(笑)。
大関横綱が登場する時間帯を録画して、
夕飯の時に、再生して見る。
立会いまでの時間を桟敷で食べながら見ているような
たのしい気分になります。

さてっと、産経新聞16日の一面左上に
「中国、本紙記者の出席拒否」という見出し。

そのはじまりは
「中国・北京の人民大会堂で15日、全国人民代表大会(全人代=国会)
の閉幕後に李克強首相の記者会見が行われたが、
産経新聞の記者は出席を拒否された。
北京常駐の日本メディアで出席を認められなかったのは
産経新聞だけだった。・・・・」

ということで、
17日今日の「産経抄」が読ませます。
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挨拶として完璧である。

2017-03-14 | 詩歌
注文した古本が月曜日届く。

講談社学術文庫「英文収録おくのほそ道」
ドナルド・キーン訳。
この文庫にキーン氏の講演も掲載されていて、
そこから引用。


「『おくのほそ道』にも即興的にできた挨拶の句がかなりある。
例えば、尾花沢で清風(せいふう)という人を訪ね、
『かれは富めるものなれども志いやしからず。
都にも折々かよひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、
日比(ひごろ)とどめて、長途(ちやうど)のいたはり、
さまざまにもてなし侍る』。
そして、一つの俳句を作った。
 
 涼しさを我が宿にしてねまる也

これは清風に対する挨拶であろう。
暑い夏の旅だが、あなたの家は涼しい。
我が家にいるような気楽さで、くつろぎ座っている。
内容はあまり深くないが、挨拶として完璧である。
また、俳句の中にある『ねまる』は、
この地方の方言で膝をくずして楽に座ることである。
土地の人は関西の人であった芭蕉が自分たちの
方言を使うことを喜んだだろう。
軽くて爽やかな調子のこの句の特徴を挙げうると、
改作(つまり、芭蕉がなにかの理由で俳句を変えた)
の跡が見られないことである。
挨拶という目的で作った俳句だったので、
一旦完成すれば、それ以上表現を磨いたり、
またはより簡潔にする必要を感じなかったのであろう。
・・・・・」

うん。印象に残る。
芭蕉も、旅の苦労を癒されて
うれしかったのでしょうね。
そんな気分がそのままにすくいとられている感じがします。
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家族葬。

2017-03-11 | 短文紹介
Voice4月号届く。
巻頭随筆は解剖学教室でなじみ深い養老孟司氏。
そのはじまりは、

「お葬式の形が変化してきている。
現在の状況は鵜飼秀徳『無葬社会』(日経BP)に
その詳細が記されている。多くの人はお気付きかもしれないが、
いまではいわゆるお葬式が全国的に見ても半数を切った。
東京のような都会では、葬儀をせずに火葬場に行く直葬、
さらに身内だけが集まる家族葬を含めると、
葬儀のほぼ八割を占めるという。」

つい先頃、親戚の家族葬へ行ったので、
そうかもしれないと、あらためて思うのでした。

曽野綾子氏の連載「私日記」を
さっそくひらく。
こちらの日記では、
まだ、ご主人は亡くなっておられない。

「私は子供の峙、昔風の父の元で
いつ父の機嫌が悪くなるかわかならいという
恐怖におびえながら暮らし、家族の穏やかな
時間を知らなかった。家族というものは、
心と体を癒し、失敗も包み込んでくれ、
寒ければ火を焚き、暑ければ汗を拭いてくれる
場所だと知ったのは、結婚してからであった。
だから三浦朱門は私を、まあ人並みな人間に
してくれたのである。・・・
私は病院で夜中に眼を覚ますと・・・・
血圧は信じられないほど低かった。
一度最高血圧が五十八になった時、
『ご家族をお呼びになった方が・・・』と言われて、
孫夫婦も夜十時過ぎにかけつけたが、
それでも朱門は静かに生き続けていた。
その後、血圧は四十八くらいまで下がる時もあったが、
その危機を朱門は自分で乗り越えた。
『健康な病人』という言葉を私が思いついたのは、
その時である。
入院して時に、一切の不自然な延命処置をしないことに
合意する旨の書類に私はサインしていたのだが、
それは二人の長年の暮らしの中で充分に
申しあわせのできていたものであった。
一月三十一日、私は眠り続けている病人をおいて、
浜離宮朝日ホールに、五嶋龍さんのヴァイオリン・リサイタル
を聞きに行っている。・・・」(p32~33)
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戒めの語り草として。

2017-03-09 | 地域
千葉県の大正12年の房総半島のことです。
関東大震災についての館山町役場報に

「僅かばかりの言葉の聞き違いから町八千有余人の人々を忽ちにして
不安と恐怖とに陥し入れたと云うこの挿話は、毎年九月一日の
震災記念日には、いつも老若男女の戒めの語り草として
永遠に云い伝えらるべき悲惨な珍話となっている。」

その「永遠に言い伝えられるべき話」とは何だったのか。
私ははじめて知ることだったので、
あらためて、ここに採録。


「『今来たよう!』の簡単な一言から全町を震撼させた悲惨な挿話がある。
時は大正12年9月2日の夕刻、日は西山に落ちんとして西天は夕焼に燃えて
暮色蒼然たる午後六時の事であった。
余震は頻々として来り、海嘯の噂は頻々として起り、
不逞漢襲来の叫びは頻々として伝えられ、
人心は不安と恐怖とに襲われてほとんど生きた心地もなく、
平静の気合いは求めようとして求められず
ただ想像力のみ高潮して戦々兢々としていた時であった。

町の旧家として町の有力者として亦町の古店舗の餌場屋として
土地の人達からは、・・左膳の『オシオクリ』(押送り)
山田丸が東京から帰って『今来たやう』と叫んだのを
『海嘯が来たよう』と聞き誤って伝えられた事に端を発したものであった。


山田丸は漁獲物を満載して魚河岸にひと商に出掛けたのは
震災二日ばかりの前のことであった。
山田丸乗組の人達は、ひと商を終ったので月島の河岸に船を繋いで
色々帰港の準備に忙殺せられていた折柄間一髪を入れずして
あの恐ろしい大震災に遭遇した。
阿鼻叫喚其の痛ましい状態をまざまざと目撃して来たので、
自分の家族の安否がひと入気付かはれるので数名の避難者を便乗させて
一路帰港を急いだのであった。
船は緊張しきった人々の一念に操つられたので思ったより早く
二日の夕刻夕焼の日を浴びて六時頃に無事に帰港したのである。


いつも船が帰る頃には、大勢の人達は船を迎えてくれるが通例であるのに、
その日は地震直後の事とて誰も迎えに出る人もなく、
ただ海辺は藾々として磯吹く松風の音と、ときどき海嘯の噂に
驚かされて海を見に来る人ばかりであった。

船の者は人の気配もないので無関心の裡に
『今来たやう!』と陸をめがけて叫んで見た。
日に何回ともなしに海嘯の噂に怖えている人達は、
聞くともなしに其の声が耳に入ったので
『ソレ来た』とばかりに人々の間に宣伝されたので、
忽ちの間に海嘯襲来の事実話となって
各方面に伝えられてしまったのである。
然し恐怖して聞き伝えた人は其の事実を確かめたのでもなく、
また誰がそれを云ったのか、そんな事なぞ勿論知ろう筈もない。

海嘯襲来の噂は忽ちにしてそれからそれへと伝えられた。
泣きわめく子供を背負って逃げる者、
老人の手を引いて逃げる者ら、
城山の中腹や岡沼の高地は避難者の雑踏で
一時は町全体は混沌として名状すべからざる状態に陥ってしまったのである、
役場では其の悲報が伝えられたので其の誤伝の事実を周知せしめ
人々の不安を一掃せしむべく、吏員を八方に派して極力其の誤解を
説いたので、辛うじて人心の安定を期し得たのであった。

わずかばかりの言葉の聞き違いから町八千有余人の人々を
たちまちにして不安と恐怖とに陥し入れたと云うこの挿話は、
毎年九月一日の震災記念日には、いつも老若男女の
戒めの語り草として永遠に言い伝えらるべき悲惨な珍話となっている。」

(「大正大震災の回顧と其の復興」上巻)
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80歳を過ぎると。

2017-03-08 | 短文紹介
つい、新刊で
曽野綾子著「出会いの幸福」(WAC)を買う。

そこに80歳を過ぎた三浦朱門氏が登場しておりました。

「・・枕元が暗くて、本が読みにくいと文句を言う。
『僕は活字人間だから、身辺に本が散らかっていないと
落ち着かない』とも言う。
うちでは秘書たちとも私とも昼間終始喋っているのに、
病院でにわかに静かに沈黙の生活をするようになったら、
みるみる反応が鈍くなった。
それまで毎日渋谷まで電車に乗って本屋さんに行き、
本を買いあさり、名店街で『女房に頼まれたもの』を買い、
電車の中では無言のうちに、最近の女性風俗をしみじみ眺めて
楽しんでいたのに、そうした刺激が一切なくなったのだ。
八十歳を過ぎると、人間はほとんど数日のうちに衰える。
歩かなければ歩けなくなるし、
刺激がなければ惚ける。
恐ろしいほど早く変化が来る。・・・」(p28)


うん。80歳を過ぎた自分を想像できない。
この引用の言葉も80歳を過ぎる頃には忘れているか?
と、80歳を過ぎても生きてるつもりでいる(笑)。
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こぼす涙は。

2017-03-07 | 詩歌
読売歌壇に稀勢の里。
岡野弘彦選の3首目でした。


 稀勢の里がこぼす涙は美しき
     熱きもの胸にあふれきにけり
      橋本市 宮本好美

【評】 原作は
「稀勢の里の無垢の涙の美しく
熱きもの胸にあふれきてやまず】。
三句できっぱりと切って、
自他の感動が際立ちます。


栗木京子選の2首目はというと。


 我が街の本屋全滅本買えぬ
   貴方の歌集も立ち読みできぬ
    常陸太田市 岡田広子

【評】街の本屋が閉店。
歌集も置いたあったというのは、かなり規模の大きな
店だったのだろう。歌集については、立ち読みでなく
買ってほしかったなあという気もするが。
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大正大震災の回顧と其の復興。

2017-03-06 | 地域
昭和8年出版の
「大正大震災の回顧と其の復興」(上下巻)は
千葉県罹災救護会で発行されておりました。

昨年かに、古本購入して、そのままに本棚へ。
昨日、気になる箇所をパラパラと読みはじめる。

資料的な興味を満たしてくれる。
ありがたい、と思いながら読みはじめる。

この資料を取り扱える視点を持てれば、
読みやすい資料として新たな光をあてられるはず。

うん。そんなことを思いながらパラパラとめくる。
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いつかは読もう。

2017-03-05 | 先達たち
以前、「伊豆川余網」というレビューを書く方がいらっしゃった。


本を買うけれど、いつか読もうと自分に言い聞かせて(笑)。
そういえば、こんなレビュアーさんがいらっしゃった。
と思い出しました。

本を読むのは、めんどくさいのですが、
詩や、対談や、講演などは、読みやすく苦にならない。
というのがあります。

ネットで、本の検索をすると、
その本のレビューを読めたりして、
そのレビュアーを検索すると、
いろいろと他の本も取り上げておられる。

今回、気になったのは、
カスタマーレビュー「ござねぶり」さん。
この方が、
城山三郎対談集「失われた志」(文藝春秋)を
取り上げていたので、それではとネット注文(笑)。

はい、未読。いつかは読もう。
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別願讃

2017-03-04 | 詩歌
武石彰夫著「精選仏教讃歌集」(佼成出版社)に
別願讃(べつがんさん)が載っておりました。

身を観(かん)ずればみずのあわ

とはじまっております。
鑑賞には

「始めの八句は、人間の終局、死を見つめ、つぎに、
さけがたい苦、感覚のむなしさを指摘し、
遠く過ぎ去った昔から、今日現在に至るまで、
人間が希望するすべての事は、思い通りにならないのが
悲しいとまとめる。ここに、一遍自身の体験から
ほとばしり出た厳粛な死の事実への凝視がある。
ついで、仏の教えを聞きながらも正しい信仰に
徹しきれない歎きを述べる。
そして弥陀の本願を信じ名号を唱えることに
よってのみ往生できるとする核心部分に入る。・・・」

鑑賞の次の頁には、こうありました。

「時宗は、詩の教団、讃歌の教団である。・・・
また、時宗は移動する教団であったから、
歌声は旅とともに東北の陸奥(みちのく)から九州の果てまで
民衆の心にひびいた。弘安年間の日本の人口を約五百万人とすると、
その過半数は教化したといわれる。」

「一遍は・・・五十一歳、正応二年(1289)八月二十三日の辰の
始(午前七時)、兵庫(神戸市)光明福寺の観音堂(現在の真光寺)において、
時宗による晨朝礼讃(じんじょうらいさん)の『懺悔の帰三宝』
(仏法僧の三宝に帰依する文)を唱えるなかに静かに往生した。」

そして鑑賞の最後にはこうありました。

「中世は戦いの時代、醜い人間物欲と権力の争いなかにも
静かな念仏の声がもれる。古い鎌倉街道沿いに
時宗の道場が営まれ、『別願讃』が諷誦されていたのである。」
(p33)
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稗貫郡立稗貫農学校教諭になる。

2017-03-03 | 朗読
宮澤賢治が稗貫郡立稗貫農学校教諭になったのは
1921年(大正10)でした賢治25歳。
稗貫農学校は、1923年に郡立から県立花巻農学校となります。

1922年2月。賢治は農学校のために精神歌を作詞、
川村悟郎(当時盛岡高等農林学生)が作曲。
年譜にはこうありました。

「川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、ああでもない、
こうでもないと作曲をしておりました。ですから私たちは、
できあがらないうちから、精神歌をきいていたわけです。
題は、はじめありませんでした。曲ができ上りますと放課後、
音楽の好きな生徒をのこして歌わせました。
畠山校長もいい歌だと感心していました。
はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
三月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、
卒業式には、りっぱに歌いました。校長さんは、
宮澤さんに校歌にしてくれるように言いましたが、
宮澤さんは遠慮ぶかい人ですから、
遠慮して校歌にはしませんでした。―――堀籠文之進談」
(p162~163堀尾青史「年譜宮沢賢治伝」中公文庫)

この頃の宮沢賢治が気になります。
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土佐言葉で書く。

2017-03-02 | 短文紹介
ちょっと、取りだしたのは
内村鑑三著「後世への最大遺物 デンマルク国の話」(岩波文庫)
ワイド版がありました(笑)。

講話を本にしたので、読みやすく寝ながらひらきました。
あれ、こんな箇所があったというのを引用。

「私は高知から来た一人の下女を持っています。
非常に面白い下女で、私のところに参りましてから、
いろいろの世話をいたします。ある時はほとんど私の母のように
私の世話をしてくれます。その女が手紙を書くのを側(そば)で
見ていますと、非常な手紙です。筆を横に取って、仮名で、
土佐言葉で書く。・・・ずいぶん面白い言葉であります。
仮名で書くのですから、土佐言葉がソックリそのままで出てくる。
それで彼女は長い手紙を書きます。実に読むのに骨が折れる。
しかしながら私はいつでもそれを見て喜びます。
その女は信者でも何でもない。
毎月三日月様になりますと私のところへ参って、
『ドウゾ旦那さまお銭(あし)を六厘』という。
『何に使うか』というと、黙っている。
『何でもよいから』という。
やると豆腐を買ってきまして、三日月様に豆腐を供える。
後で聞いてみると
『旦那さまのために三日月様に祈っておかぬと運が悪い』と申します。
私は感謝していつでも六厘差し出します。
それから七夕様がきますといつでも私のために七夕様に
団子だの梨だの柿などを供えます。
私はいつもそれを喜んで供えさせます。
その女が書いてくれる手紙を私は実に多くの立派な学者先生の文学を
『六合雑誌』などに拝見するよりも喜んで見まする。・・・」(p47~48)


これは明治27年の講話でした。
講話で読みやすく、はじめは
「デンマルクの国の話」を読みたかったのですが、
つい、こちらも読めました(笑)。
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いつか再び取りだす日まで。

2017-03-01 | 本棚並べ
山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)で
藤井貞和『古典の読み方』を取り上げている箇所がありました。
題して「社会人に語りかける古典入門」。

そこで語っている山村修氏の指摘が思い出せました。

「藤井貞和のいうように、手にふれるものを何でも
自由に読もういうのは『放恣(ほうし)』であって
『自由』ではなく、
『秩序のない乱読は乱雑な文化人を作りだすだけ』なのです。
また、もし『徒然草』を一度読んだら、
いつか再び取りだす日まで書棚にしまっておこう
というのも有益なサジェスチョンです。
いったんは、しめくくりをつけてやること。
書物は生き物であり、生き物は眠りを必要とする。
愛読書はいつまでも起こしていないで眠らせてやり、
浮気のようにほかの書物へと関心を移してみるのがよい。
なぜなら『ほんとうの愛読書なら、いつかあなたの心のなかで、
眠りから目ざめるときがきっと来ることだろう』し、
『そのときの新鮮さは格別の味わいがある』と著者は記します。
古典文学再読のよろこびを語って、
これは至妙(しみょう)の一節であるといえるでしょう。」(p60)

うん。それなら、高齢化社会というのは、
愛読書が眠りから目ざめるチャンスを限りなくひろげる社会、
ということが言えそうです(笑)。
『そのときの新鮮さ』を、どうか味わえますように。
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