和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大正の房州館山

2024-11-30 | 安房
古本で買った文化出版局の佐藤雅子著「季節のうた」は、
函入りで、第1刷発行が昭和51年11月30日とあり、
購入本は、第11刷発行で昭和52年7月20日でした。

はじめての著者なので、紹介文を引用。
「 明治42年(1909年)、東京、小石川に生まれる。
  府立第二高等女学校卒業、昭和6年結婚。
  元人事院総裁、故佐藤達夫氏夫人・・・・
         ・・・昭和52年2月28日死去。 」

ゆったりとした活字が月別に配列されて写真も豊富です。
そこに、大正時代の房州館山での夏が紹介されておりました。
はい。忘れないようにここは、引用しておきます。
題は『 懐かしい海 』P753∼756。
はい。短い文なので、ほぼ引用してしまいます。

「 8月に入ると海が荒れます。
 『 今日は泳ぎに出てはだめですよ 』
  とよく母にとめられたことを思い出します。
  大正の終わりのころ夏をすごしておりました
  房州館山でのことでございます。    」

うん。『 大正の終わりのころ 』とあります。
すぐに思い浮かぶのは、大正12年9月1日に関東大震災ありました。
大正の終わりといえば大正15年になるのですが、震災後の館山じゃ
ないでしょう?佐藤雅子さんは、関東大震災のころ14歳。
おそらくは、それ以前の頃の話かと思うのですがどうでしょう?

「 そのころは海もきれいで、足の先まで透きとおるように
  美しく澄んでおりました。朝早く海辺で拾いました桜貝は、
  今でも大切に小箱に入れております・・・・

  水泳が好きで、海の静かな日には、鷹の島、沖の島まで
  泳いでいったこともたびたびでございます。
  男の子のように真っ黒に日にやけて、父ののぞみ通り
  泳ぎだけは誰よりも上手になってしまいました。

  おぼれた人の水をはかせる方法なども、よく父に教わりました。
  救急法も、今ではすっかり新しい方法に変わっておりますけれども、
  そのころは大きな水がめ(  真水を貯えるために、海辺の家には
  どこにもおいてありあした )を横にして、
  中で浜に打ちあげられた流木を燃やし、その上に
  おぼれた人を伏せるようにして暖めて、水をはかせる
  ことなどをさせられたものでございます。

  父の泳ぎは、昔は武術のなかのひとつだったそうで、
  水府流と申し、早瀬を水にのって渡り切るのが得意でございました。
  小抜手略体という水面をたたくようなはげしい抜手の父の早い泳ぎと、
  クロールで競争したのも楽しかったこのころの思い出でございます。

  海にもぐって、お魚をもりでつくことも大好きでございました。
  黒鯛やベラ、ときにはごんずいまでついてきて、
 『 こんな魚いじったら毒があってたいへんだよ 』
  と漁師のおじさんにどなられたこともございました。
   ・・・・・・・

  『 ろ 』をこいで沖に出て、ともえであじを釣ってきたり、
  地引網の中ではねて銀色に光るいわしを手づかみでもらってきたり、
  お月夜に潮にのってあがってきたいかが、なぎさに打ち上げられて
  いるのを朝早く取ってきたり、お魚ではずいぶん母の手をわずらわせ
  たことでございました。母はお魚のお料理が上手で・・・・・

  いつも懐かしく思い出しますのは、この海辺の家での楽しかった
  夏の日の水泳ぎや、にぎやかな夕食のことでございます。 」

 p755の写真は、小箱がひらかれ、お盆に並べられたきれいな貝殻たち。 

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「わらべ歌」の源流へ

2024-11-29 | 詩歌
もう11月28日となりました。何とか今月中に
「日本わらべ歌全集」(柳原書店)を読み終える予定は中断。
私の興味の賞味期限は、まあ、ここいらあたりとなります。
全集をひらくのはここまでにして、またふたたび、興味の潮が
満ちることを期待しながら、本棚へともどすことにします。

ところで、収穫がありました。
岩波文庫『 わらべうた 日本の伝承童謡 』
文庫の最後にある、浅野建二「解題」がわらべ歌の姿を
歴史の中へと辿ってゆく魅力を感じました。
ということで、「解題」を、ちょっと触れておくことに。
どのような具体例がでてくるかを列挙してゆきます。
まずは、

〇 「日本書紀」巻24 皇極天皇の2年の条・・
    岩(いは)の上に  子猿米焼く
    米だにも 食(た)げて通らせ 
    山羊(かましし)の老翁(をぢ)
〇 宣長「古事記伝」

〇 藤原通憲「本朝世紀」に
  天慶8年7月九州より上洛した志多良(しだら)神を
  諸人が歌い囃したという神事歌謡(童謡)6首
     月は笠着る、八幡は種蒔く、いざ我等は荒田開かむ。
     しだら打てと、神は宣ふ、打つ我等が命千歳。
     しだら米早買はば酒盛れ、其の酒富の始めぞ。

  の如く、当時の老若男女を狂信的ならしめた歌舞で、
  『 しだら打つ 』 (手を叩く義)という歌遊の事象は、
  更に『建久3年皇太神宮年中行事』の鳥名子の舞歌にまで
  伝承された。即ち、同書に
      
     しだら打てと、父が宣へば、打ち侍べり、習ひ侍べり
     袙(あこめ)の袖、破れて侍べり、帯にやせむ、
     襷(たすき)にやせむ、いざせむ、いざせむ、鷹の緒にせむ。
       
はい。これが解説のはじまりの方にあります。
最後には、この岩波文庫の本文から、これからの時期のわらべ歌を

       大寒小寒  ( 寒気 )   東京  P130

     大寒(おおさむ) 小寒(こさむ)
     山から小僧が泣いて来た
     なんといって泣いて来た
     寒いといって泣いて来た


        霰やコンコン    秋田    P140

      霰(あられ)や コンコン 豆 コンコン
      鰯(いわし)コ とれだら 籠背負って来い
 
      霰や コンコン 豆 コンコン
      鰰(はだはだ) とれだら 樽持って 来い



        雪コンコン     宮城  p142

      雪 コンコン 雨 コンコン
      お寺の屋根さ 雪一杯た~まった
      小僧 小僧 ほろげ(揺すぶっておろす意) 
      和尚さんほろがねがら おらや~んだ


         雨コンコン    福島   P143

      雨コンコン 雪コンコン
      おら家の前さ たんと降れ
       お寺の前さ ちっと降れ


         雪やコンコン   京都  p144

       雪やコーンコン
       霰やコーンコン
       お寺の柿の木に
       一ぱいつ~もれ
         コーンコン


         じいじいの      石川 p146

       じいじいの ばァばいの
       綿帽子雪が降るわいの
       おおと(玄関・表口)の蔀(しとみ)も立てさっせ
       背戸の烏も啼くわいの
       摺鉢(すりばち)かぶって走らっせ


        堅雪かんこ      青森  p148

      堅雪か~んこ 白雪かっこ
      しんこの寺さ 小豆パッとはねた
      は~ねた小豆コ すみとって
      豆コ ころころ 豆コ ころころ



はい。このへんで引用をおわります。           


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『 あやとりの記 』

2024-11-27 | 詩歌
石牟礼道子さんの名前は知っていても、本は未読でした。

渡辺京二著「もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙」(弦書房)
渡辺京二発言集「幻のえにし」(弦書房・2020年)

石牟礼道子さんへの水先案内人・渡辺京二さんの2冊をひらく。

「 石牟礼さんの作品を若い人に勧めるとしたら、全部勧めるね(爆笑)。
 でもね、『 あやとりの記 』を読んでもらいたい。
 『 あやとりの記 』はいいですよ。これはね、
 どこかの雑誌に最初から児童文学として書いたんだけど、
 もちろん単なる児童文学じゃない作品に仕上げてるんだけどね。
 一応子供向きになてるから入りやすいでしょうね。・・・・ 」
             ( p64 「幻のえにし」 ) 

「 私の考えでは、これは石牟礼さんがこれまで書かれた
  作品のうちで最高のものです。完璧な仕上がりといってよく、
  しかも包含するものが非常に深い。・・・・

  その描写の魅力をうかがうために、
  ひとつだけ情景を取り出してみましょう。
  みっちんは火葬場の岩殿に興味をもっていて、
  その日もまわりの松の幹にかくれて様子をうががっているのですが、
  岩殿はそれを知っていて木苺の蔓をさし出したりして
  少女を釣り出そうとします。みっちんがなかなか出て来ないので、
  岩殿は『 大寺(うでら)のおんじょ 』の唄を歌い出します。
  これは78行にわたる即興の物語詩で、大変面白いものですが、
  爺さまの唄い躍る姿につられて、みっちんは思わず
  『 おんじょの舟をば 曳いてくる ほっ ほっ 』と、
  唄の最後のフレーズを口真似しながら跳び出してしまうのです。

  この情景はぜひご自分でお読みいただきたい。
  そうすれば、こんな情景はいまだかつて
  日本近代文学で描かれたことがなかったという事実を、
  心からご承認いただけるものと思います。   」
           ( p64∼65 「もうひとつのこの世」 )

はい。わらべ歌を読んでいると
「ちなみに、作中に出て来る民謡風の唄はみんな作者の創作であります。」
          ( p59 「もうひとつのこの世」 )

という指摘も気になるのでした。
これならやっと『 あやとりの記 』(福音館文庫) が読めるかもね。         

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とんとこ舞い納め

2024-11-26 | 詩歌
「日本わらべ歌全集23下」(柳原書店)は、「大分のわらべ歌」でした。
まずは、あとがきから引用。

「・・・わらべ歌は、村落の子供たちの間にうたい継がれた歌であり、
  世が世であれば当然次の世代にうたい継ぐべきはずの歌である。
  ・・・・・・・

 録音マイクの前に立って、
 『 私がこの世に生きた証の歌だから、いい音で録音願います 』
  と、深々と頭を下げた素朴な古老。
 『 墓場に持っていくのは勿体ない歌だから 』
  と、前置きしてうたってくれた古老。・・・・・

 いずれも、ここ数年の間に次々とこの世を去ってしまった。

 本書の刊行が、こうした伝承者たちの期待に応え得るものであることを思うと、
 感慨もひとしおであり、同時に柳原書店の『日本わらべ歌全集』出版の企画が、
 この上なくありがたいものに思われるのである。
 柳原書店のスタッフの方々に深甚の敬意と謝意を表して筆を擱くことにしよう。

           昭和61年8月        加藤正人          」


ここには、手まり歌『 緒方のしゃんしゃんの 』から引用。
まずは、その解説から

「 大野郡緒方町には、寿永2年(1183)に緒方惟栄が創祀した
  一宮八幡社・二宮八幡社・三宮八幡社があり、
  緒方三社の名で親しまれている。この手まり歌は、
  旧暦10月14日、15日の三社祭で繰り広げられる御神幸行列の
  はなやかさを、数え歌にしてうたったものである。 」


      緒方のしゃんしゃんの

    緒方のしゃんしゃんの 祭礼に
    一では鉄砲 二では弓
    三ではしゃんしゃん大神輿(おおみこし)
    四では白旗猩々緋(しょうじょうひ)
    五では五人の団扇(うちわ)どり
    六つで六頭(むかしら)舞い立てて
    七つでなんにもお揃いで
    八つで屋敷を舞い立てて
    九つこれまで舞うてきて
    十でとんとこ舞い納め
     トコ イッキトセ
             ( 大野郡千歳村舟木 ) p54
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

船は白金 艪(ろ)は黄金

2024-11-25 | 詩歌
土曜日の夜から熱が出て38.4。何にもする気がおこらず、
寝ていたら、腰が痛くなってくるし・・・。

「日本わらべ歌全集19上」は「広島のわらべ歌」です。
手まり歌に惹かれました。そこを引用。

        長吉でぶちに(でぶちは、出額で「おでこ」のこと)


     セッセのセ 
     長吉でぶちに 笹植えて
     その笹折んな 枝折んな
     上(かみ)へ参ろうと 出かけたら
     後(あと)からお小夜(さよ)が 泣いてくる
     泣く涙は どこへ行く
     泣く涙は 船に積む
     船は白銀(しらがね) 艪は黄金(こがね)
     ヤーレ押せ押せ 都まで
     都みやげに 何もろた
     都みやげに 帯もろた
     帯をもろがた まだ絎(く)けぬ
     絎けてたもれや 針三本 針三本

             ( 安芸郡音戸町・倉横町 )


「 おでこへ笹を植えるという奇抜な発想でうたい出す
  愉快な手まり歌。・・・・

  『 船は白銀、艪は黄金 』以下は、
  『 淋敷座之慰 』( 延宝4年成 )にある
  鞠もの歌から出たものらしく、
  東北地方から九州鹿児島まで、ほぼ類似の歌詞でうたわれている。
  
  江戸時代より伝承されてきた手まり歌の名歌として評価が高い。 」
                            ( p32 )


ここを読んだときに、私に思い浮かんだんのは、
西條八十の『 かなりや 』でした。
詩集『砂金』に載っているようです。

        かなりや   西條八十

     ――唄を忘れたカナリヤは、後の山に棄てましょか。
     ――いえ、いえ、それはなりませぬ。

     ――唄を忘れたカナリヤは、背戸の小藪に埋けましょか。
     ――いえ、いえ、それもなりまぬ。

     ――唄を忘れたカナリヤは、柳の鞭でぶちましょか。
     ――いえ、いえ、それはかはいそう。

     ――唄を忘れたカナリヤは、
       象牙の舟に、銀の櫂(かい)、
       月夜の海に浮かべれば、
       忘れた唄をおもひだす。

             (p55 「詩集西條八十」ハルキ文庫 ) 

私には、西條八十の『カナリヤ』の詩の中で、どうして
『 象牙の舟に、銀の櫂 』へと結びつくのだろうかと
今まで不思議に思っておりました。わらべ歌の文脈では、
各行での『 長吉でぶちに 』がごく自然に惹かれます。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信楽焼とわらべ歌

2024-11-23 | 詩歌
「日本わらべ歌全集14下」(柳原書店)は、「滋賀のわらべ歌」でした。
全国同じようなわらべ歌があっても、各巻を開く楽しみは異なります。

この巻からは、『 雨のショボショボ 』を紹介するのですが、
まずは、その解説から引用。

「 狸が徳利さげたユーモラスな『 酒買い狸 』の土焼き人形は
  本県(滋賀県)の特産品。甲賀郡信楽町の信楽焼で
  全国的に知られており、飲み屋の店頭に置かれるほか、
  個人宅の庭や玄関にも飾られている。

  この人形は藤原銕造(てつぞう:初代、明治9~昭和41年)が
  明治末期に創作し、少しずつ姿勢を変えて大正期に現在のものに
  近いスタイルにまとめた、といわれている。  」( p118 )


      雨のショボショボ   ( 雨 )

     雨のショボショボ   降る晩に
     マメドが徳利持って  酒買いに  
                   ( 長浜市元浜町 )

「 雨が降り出したときや、いつまでも降り続いて
  外出できない退屈時に口ずさまれた歌で、
  
  同系のものが県下各地でうたわれた。
  ただし、大津市をはじめ湖南地方では
  『 マメダ 』と略称する豆狸(まめだぬき:小狸)が、
  湖北の長浜などでは『 マメド 』となる。  」(p118)

「 『 雨のショボショボ 』の歌は、
  滋賀県をふくむ関西各地でひろくうたわれているが、
  明治・大正期の民謡文献には見当たらず、
  比較的新しいものと観察される。

  恐らくは、人形がかなり出回るに至った大正期に、
  それを見た子供たちがうたい出したのだろう。

  雨と結びついたのは、人形がバッチョ笠をかぶっているだけでなく、
  『 マメダ 』と『 雨だ 』の押韻連想があった、と思われる。 」
                        ( p119 )  
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎の芝生。

2024-11-22 | 道しるべ
谷川俊太郎氏が亡くなり、検索していたら、
谷川俊太郎選の「永瀬清子詩集」(岩波文庫・2023年10月13日発行)がある。
ちょっと気になり、新刊で注文。昨夜6時頃届く。

私が思い浮かぶ、谷川俊太郎の詩集は、
『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社・1975年)です。
はい。内容よりも、私は題名がいつまでも忘れられずにおりました。
そこにある、最初の詩は『 芝生 』。その詩の出だしはこうです。

         芝生     谷川俊太郎

       そして私はいつか
       どこかから来て
       不意にこの芝生の上に立っていた
        ・・・・ 
  ( 注: あと四行あるけどカットしました )

この『 芝生 』というのが、気になりました。
さてっと、谷川俊太郎選『永瀬清子詩集』(岩波文庫)の
はしがきは、谷川俊太郎でした。そのはじまりを引用。

「 私の最初の詩集『 二十億光年の孤独 』が出てしばらくして、
  珍しく父・徹三に永瀬清子を読むようにすすめられた。

 『 荒地 』『 列島 』『 時間 』などに拠る詩人たちに比べると、
  当時あまり話題にあがらない詩人だったが、
  父の書庫に詩集『 諸国の天女 』があったので読んでみた。
  ・・・ここに他の現代詩の書き手にない何かがあった。・・・  」

それでは、現代詩の書き手だった谷川俊太郎は
どのような少年だったのか?河合隼雄と谷川俊太郎の
対談に『 元禄の会話 』というのがありました。
その場面を引用。

谷川】 ・・・この間も、ぼくが小学校1年生のときに
    父と一緒に写っている読売新聞のコピーを
    持ってきてくれた人がいて、
    家庭訪問みたいな記事なんだけれど、
    もうギョッとしちゃった。

河合】 写真だけじゃなくて記事の内容ですか?

谷川】 そうなんです。母が教育論なんかしゃべっていて
    おかしかったんだけど、ぼくがね、
    母と記者が話しているときに客間に出ていって、
    そこにあった瀬戸物に対して、
   『 お母さま、これは元禄時代の焼き物でしょう 』
    っていうの(笑)。

河合】  ええっ (笑)。

谷川】  そうすると母はね、
    『 違うわよ。これは朝鮮の物よ 』っていうの。
    と、ぼくはね、
    『 朝鮮でも時代は元禄でしょう 』(笑)。
    もうこれは慄然としましたね。
    そういう下地があったから、母は・・
    怒ったんだと思いますね。

河合】  その元禄の会話も載ってるんですか。

谷川】  載ってるんですよ (笑)。
     ・・・・・・・
   
   (  河合隼雄対談集「あなたが子どもだったころ」光村図書 )
 ( 谷川さんと対談副題は「人間ばなれをした孤独を知る人」とありました)

もう少し引用したいけど、引用過多になるのでここまでにして。
父親の谷川徹三の対談などをひらくと、正法眼蔵を病室にもっていて
読んだりとか、宮澤賢治に関する文もあったりする。
どのような思いで、父は息子と対していたのか?
ということで、もう一度『はしがき』を引用しておわります。

「 私の最初の詩集『 二十億光年の孤独 』が出てしばらくして、
  珍しく父・徹三に永瀬清子を読むようにすすめられた。・・・・ 」


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩とわらべ歌。

2024-11-21 | 詩歌
町田嘉章・浅野建二編「日本民謡集」(岩波文庫)の
最後にある解説をめくったら、上田敏の名前が出ておりました。
そこを引用。

「・・上田敏が明治37年1月発行の『帝国文学』に掲載した 
 『楽話』(「文芸講話」所収)という文章の中で

『 一体、私は我邦音楽界の急務として、
  なるべく早く実行したいと思ふ事業がある。
  それは民謡楽の蒐集である。

  文明の普及と共に、山間僻地も自ら都会の俗悪なる諸分子を吸収して、
  醇朴なる気風の消滅すると共に、古来より歌ひ伝へたる民謡も
  全然滅亡しそうであるから、今のうち早く蒐めて保存することは、
  歴史家其他の人の急務であるが、私の目的は左様いふ考古学上の
  事に止まらず、実は他日国民音楽を大成する時に、
  一種の尚ぶべき材料と成るであろうといふ考だ云々 』
 
  と述べているのが早い。わが国の文学界にこの語が
  頻出するようになったのもこの頃から以後のことらしく・・・」(p402)


そういえば、永瀬清子著「すぎ去ればすべてなつかしい日々」(福武書店)
をひらいていたら、そこにも上田敏の名前が登場しておりました。
3ページほどの短文の題は『 詩を書き始めたころ 』とあります。
はじまりは

「 大正11年の秋、名古屋の電気局へ父の転任が決まり、一家
 (父母、私をかしらに3人の娘、4人目に初めて生れた男の子の誠一・・)
  が金沢を発つ事になった。・・・・・  」(p52)

それから真中を端折って後半を引用しておきます。

「 大正12年の2月半ばごろ、末の妹が激しい大腸カタルで入院し、
  私はつきそって1ヵ月ほど看病した。 ・・・・
  父母は私の親身の看病を感謝してくれて、
  何でも好きなものを買ってあげようと言ってくれた。
  その時私は新聞で『 上田敏詩集 』の広告を見ていたので
  躊躇なく『 この本を買って下さい 』と言った。

  そのころ、女の人はほとんど詩を書いてはいなかったし、
  まともな女性には用のないものだとも思われていた。

  男でも家や身を省みぬ道楽者、或は無頼の人間の仕事と
  思われていたので、父や母にはやや心配だったと思う。

  しかし私は今まで何一つほしがったり無理を言った事はなかったし、
  父母もいったん何でも買ってやると言った以上、嘘はつけぬと考え、
  『うつのみや』に注文し病室に早速とどけてくれた。

  早春の光のさしそめた妹の枕辺で、
  私はくり返しその本を読みふけり、
  私も詩人になるほかないと心に決めたのであった。
  それが私の詩の道に入る最初のきっかけとなったのであった。 」(~p54)


はい。ここで上田敏へと寄り道していると先にすすめそうもないので、
ここでは、民謡・上田敏・詩・永瀬清子の組み合わせのチェックのみ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『 離るるるるるるるる 』

2024-11-19 | 詩歌
昨日のブログでの引用箇所で、名前を
浅野健二氏と打ち込んでしまったのですが、
浅野建二氏が正解でした。つい、パッと見て引用すると
こんな間違いをおこします。ひとのことは言えませんね。

さてっと、その浅野建二氏というのは、どういう方かと、
検索していたら、なあんだ、自宅の未読本にありました。

岩波文庫の
『わらべうた 日本の伝承童謡』と 『日本民謡集』。
どちらも、編者のひとりとしてあります。
どちらも、町田嘉章・浅野建二編とあります。
どちらも、買っても、未読のままひらいてもなし。
はい。まだひらきません。

そのまえに、岩波文庫
『 新訂 閑吟集 』がありました。
こちらは、浅野建二校注とあります。


本棚から出して、とりあえず、パラパラとめくります。
ここでは、校注を読む楽しみ。ひとつ引用してみます。

 
『 ただ人には、馴れまじものぢゃ 馴れての後(のち)に
        離るるるるるるるるが 大事ぢゃるもの  』 


はい。このあとの校注は、どう書かれているか。

「 『 ただもう、あまり人に馴れ親しむものじゃないわ。
    一度馴染んでしまったら、離れる時が大変ですもの 』

  という意で、過度の馴染みをいましめる歌。

  『隆達』の『 胸の間に蛍あるらん、焦(こが)るるるるるる、
        いつもよなよな憧(あこが)るる 』などと同様、
  『離るる』意を強調するために、
  『 る 』を重ねた唱法が特色。
  『 大事ぢゃる 』は、大事である、の転。

  人に馴れることをいましめる歌は、『古今集』恋五の
  『 見ても又またも見まくのほしければ馴るるを人は厭ふべらなり 』
  をはじめ、『宴曲集』巻四の
  『 留余波(とどまるなごり) 』『 行余波(ゆくなごり) 』を経て  
  近世歌謡にまで及んでいる。直接の継承歌に
  『 たんだ人には馴れまいものよ、馴れての後は
     るるんるる、身が大事なるもの、離るるが憂いほどに 』
           ( 松の葉・第一・裏組「賤(しず)」 )。
  下句は
  『 あたりの野辺の白真弓(しらまゆみ)、・・・・
    馴れぬほどは何にせん、馴れての後はそるぞくやしき 』
             ( 義経記・今様 )と同調。     」
                        ( p103~104 )


はい。ここだけを引用しただけで、もう私は満腹です。
とりあえず、この岩波文庫3冊を身近に置いておきます。
たいていは、しばらくして読まずに本棚へともどします。

今月の目標は、他へ寄り道せずにパラパラでも、
『日本わらべ歌全集』を何とか各巻ひらくこと。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この子のかわいさ。

2024-11-18 | 詩歌
「日本わらべ歌全集23上」(柳原書店)は、「福岡のわらべ歌」。

子守り歌の箇所にある。解説から、まず引用してみます。

「 東北から九州まで、広く各県に分布する子守歌・・・
  可愛さの表現に、星の数、松葉の数、砂の数をうたうのは、
  『 閑吟集 』以来の常套だが、伝承は古く、限りなく
  こまやかな母親の愛情が忍ばれる。
  この系譜の歌で最もすぐれたものは、
  静岡県沼津のものという浅野健二博士の指摘がある。‥」(p216)


はい。では、福岡と静岡の歌を順にならべてみます。


        坊やはよい子だ    ( ねかせ歌 )

     坊やはよい子だ ねんねしな
      坊やのかわいさ かぎりない
     山では木の数 草の数
      草の数より まだかわい
     天にのぼれば 星の数
      星の数より まだかわい
     千本松原 小松原
      松葉の数より まだかわい
                   ( 行橋市行事 )
        ( p216 「日本わらべ歌全集23上・福岡のわらべ歌」 )



       この子のかわいさ    ( ねさせ歌 )

     坊やはよい子だ ねんねしな
     この子のかわいさ 限りなさ
     天にのぼれば星の数 七里ヶ浜では砂の数
     山では木の数 萱(かや)の数
     沼津へ下れば千本松 千本松原小松原
     松葉の数より まだかわい
     ねんねんころりよ おころりよ   ( 沼津市大岡 )

        ( p198 「日本わらべ歌全集11・静岡山梨のわらべ歌」 )


 子守歌では「 ねかせ歌 」以外に子守が歌う「 守り子歌 」があり、
 そちらも引用しておかなければバランスがとれないのでしょうね。
 ここには、宮崎県の「 守り子歌 」から2つ。

        いやだいやだよ   ( 守り子歌 )

     いやだいやだよ 泣く子の守りは
     子からせつかれ 親からがられ(叱られ)
     世間の人から にらまれる     ( 串間市笠祇 )


         雨の降る日と   ( 守り子歌 )

     雨の降る日と 日の暮れぐれにゃ
      親の在所が なつかしや ハーヨイヨイ
     この子(か)泣かんちゅて わしゃ守り来たが
      いつも泣きべす 泣き暮らす ハーヨイヨイ
     わしが死んだら 誰(だい)が泣いちぇくりゅか
      浜の松の下で せみが鳴く ハーヨイヨイ
     せみじゃござらん おっかさんでござる
      おっかさん泣きゃんだ わしゃ死なん ハーヨイヨイ
                   (  延岡市島野浦 )

  ( 以上はp424 「日本わらべ歌全集25・熊本宮崎のわらべ歌」 )  


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永瀬清子のわらべ歌。

2024-11-17 | 詩歌
「日本わらべ歌全集18下」(柳原書店)は、「岡山のわらべ歌」。
最初の「岡山わらべ歌風土記」(署名はなしでした)の文には、
最後の方に、永瀬清子の名前がでてきておりました。

「 赤磐熊山町出身の詩人、永瀬清子さんには、
  もう憶えている人が絶えてしまった歌を
  いくつかうたっていただいた。      」( p20 )


うん。『 詩人とわらべ歌 』というのは、気持ちのいいテーマです。
永瀬さんの詩はわからないけど、私が永瀬さんをはじめて知ったのは、

鶴見俊輔著「らんだむ・りいだあ」(潮出版社・1991年)でした。
この本のはじまりの文が『 ひろびろとした視野 永瀬清子・・ 』
となっていて、鶴見氏が京都の岩倉から大阪の箕面へ、
葬式にでかける場面から、はじまっておりました。

「 ・・お寺の庭はいっぱいだったが、私にとっては知り人はいなかった。
  やがて拡声器から、詩を読む声が流れてきた。せきこんだような、
  つっかけをはいて先をいそいで歩いてゆくような速さで、

     いつかあの世であったら
     あなたも私も、女の詩人として
     せいいっぱいのことをしたのだと
     肩をたたきあってわらいたい

  私のおぼえているままを記すと、そういうふうにつづいた。
  それは、私がそれまでにきいたことのない詩の読まれかたで、
  私の心をみたした。 ・・・・・    」( ~p8 )


ああ、そういえば、思いかえすと、もっと早くに私は知っておりました。
茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書・1979年)でも、
永瀬清子の名前が登場していたことを思い出します。その目次を見ると、

『諸国の天女』(p188)と、
『悲しめる友よ』(p208)と、二カ所に引用がある。

まあ、それから私は永瀬清子という人を思い浮かべるようになったのですが、
まあ、私のことですから、それっきり、忘れておりました。

思潮社の現代詩文庫1039「永瀬清子詩集」の最後の方には、
飯島耕一・谷川俊太郎・大岡信の文が載り、そのあとには、
干刈あがたの『伝える、伝えられる』という文が載っておりました。
ここは、干刈さんの文から引用。

「 私は永瀬清子の詩を読みながら、もっと早く読んでいればよかった、
  と思う一方で、もし20代の時にこれらを読んでいたら、
  私にはこの明りは見えなかったかもしれない、とも思います。

  私は自分が生活経験を重ねてみて、
  女が家の中にいることや子育てで身動きできないこと
  自体が不幸なのではない、その中には考える種がいっぱいあり、
  命に近いところにある豊かさをいっぱい感じられる場所なのに、
  そのことに気がつかないことが不幸なのだ、と思うようになりました。

  そこからものごとを見つめたり考えたりしたい、と思うようになった
  私に、ようやく見えた明りだったのではないかと。
  私の永瀬清子の詩の読み方は、大ざっぱなもので、
  折々ぱらぱらと頁を繰って、わかりやすいものに取りつく、
  というようなものです。・・・・          」( p153 )

はい。こんな箇所は読んでいたので、
折あらば、永瀬清子の本があれば、古本なので買っておりました。
買ったはいいのですが、読まずにありました。そんな一冊に
永瀬清子著「光っている窓」(編集工房ノア・1984年)がありました。
今回この本の目次をめくってみると、『 消えてゆく子守唄 』がある。
はい。その5ページほどの文を紹介しておくことに。

年譜によると、永瀬清子は1906年に岡山県熊山町松木に生まれるとあり、
2歳の時父の勤務先金沢市へと一家赴く。とあります。
その金沢で妹が入院した際の、付き添いのおばさんが
ひょんなことに、永瀬さんの家に始終来るようになったそうです。
それが永瀬清子さんが11歳の頃とあります。

「 ・・・身よりのない人なので別に用事のない時でも
  坐りこんでキセルで煙草を吸っていた。・・・
 『 おばさんはここが一番の極楽や 』といい、   
  少しずつ何か手伝ってはお茶をのんでいた。
  ・・・昔はおんば日傘だったともいい、
  種々の唄など知っていて私たちに教えてくれた。・・・
  私たち姉妹はいつも唄って唄ってとせがみ、
  母も老女をあわれんで好きにさせておいた。

  子守唄は母も教えてくれたが母のは故郷の岡山地方のものであり、
  おばさんが教えてくれた地元の金沢地方のは、湿っぽい北陸の空気や、
  何ともいえぬ沈んだ色あいを含んでいて、
  私に忘られぬ印象を与えた。・・・  」( p70 )

 こうして、永瀬さんが覚えている歌が引用されておりました。


      うぐいすや うぐいすや
      一夜のお宿を借りかねて
      梅の木小枝に巣をかけて
      花の咲くのを夢にみて

      一本折っては腰にさし
      二本折っては振りかたね
      三本目に日がくれて ・・・


「 私がなぜそんなに長く記憶していられたのかと・・人が私にきいた。
  一つは金沢では私一家はよそ者で、土地の人ほどそれらの唄が
  自然そのものでなかった、という事がある。私自身の好奇心の
  強さもある。また若いながらにこの唄の美しさを失うまいと思い、
  意識的に長い間心の中でくり返して来たのでもあった。 」(p73)

うん。この指摘も引用しておきます。

「 私の考えでは子守唄は、
  五線紙にのる小学唱歌などがゆきわたる前には、
  娘や老母たちの愛唱の唄でもあったのではないかと思う。 」(p73)


やっと、私にとって永瀬清子詩の読み頃を迎えるのだ。
そんなワクワク感でもって今日ブログを綴っています。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幼児口遊(クチスサミ)

2024-11-16 | 詩歌
「日本わらべ歌全集14上」(柳原書店)は、「三重のわらべ歌」。

普段は4ページの、地域新聞をとっております。
わらべ歌の関連で、お手玉の記事が気になりました。
そこには、手作りのお手玉を贈ったとあります。

「 中学生の頃から、趣味で編み物や洋裁などをしている・・・
  現在も月に1回・・編み物サークルなどで活動しながら、
  手芸をたしなんでいる。

  お手玉は、洋服作りの過程で出る端切れを有効利用しようと
  作ったもので、『 いろんな人に昔の遊びに親しんでもらえたら 』
  という思いから、小学校や福祉施設への寄贈を思いついたという。

  今回は、地元の〇〇小学校と孫が通う学校、
  地域の老人ホームの3カ所に100個ずつ贈るため、
  計300個作った。・・・    」
             ( p4  2024年11月13日 房日新聞 )

三重のわらべ歌のなかに、お手玉の説明がありました。

「 お手玉は、手まりと共に女の子の遊びの双璧だが、
  そのルーツは『 いしなどり 』(擲石・投石)といって、
  数個の小石を撒き、その中の一個を上にあげている間に
  撒いた石二、三個をさらえ、落ちて来た石も一緒につかみ取る   
  遊びであった。

  この遊びの歴史は古く、赤染衛門の『 栄花物語 』にも
  見えるほか、江戸期には喜多川守貞の『 守貞漫稿 』にも
  『 いしなご 』として述べられている。

  現在のように布の小裁(こぎれ)を縫って作るようになったのは
  室町以降でその呼び名も、関東は『 お手玉 』、
  上方は『 おじゃみ 』『 おこんめ 』が一般的だが、
  『 石ナンゴ 』(東国)、『 ナナツゴ 』(越前)『 ヲノセ』(伊勢)
  などいろいろある。・・・  」
        ( p88 「日本わらべ歌全集14上・三重のわらべ歌」 )


せっかく、ひらいたので、引用をつづけます。

         子供は風の子   ( 寒気 )

    子供は風の子 じじばば火の子
      ( 繰り返す )   
                 ( 亀山市南崎町 )

  「 『 子供は風の子』の唱え文句は、
    天保2年序にある『 尾張童遊集 』(小寺玉晁著)の
    『 幼児口遊(クチスサミ) 』の項にも出ている。
    これもまた古い伝承をもっている。      」( p156 )

 
 この本のあとがきは服部勇次氏。この全集について語っております。

「  『日本わらべ歌全集』全27巻39冊の第1回配本は
   尾原昭夫氏の『 東京のわらべ歌 』と
   高橋美智子氏の『 京都のわらべ歌 』が
   昭和54年も押しつまった12月、同時に刊行された。

   あれから早くも13年になる。・・・・
   当初、全国47都道府県を網羅して伝承わらべ歌を採集調査し、
   しかも楽譜もつけるという計画に、果たして全巻無事に
   完成できるかどうかと危惧した・・・・

   今回刊行される『 三重のわらべ歌 』は第38回目の配本であり、
   あと完成まで『 山口のわらべ歌 』一冊になったという。
    ・・・・・・・・・・・

               平成3年11月    服部勇次   」

          つづれさせ    ( こおろぎ )


       つづれさせ つづれさせ
       ぼっこさせ ぼっこさせ  
              ( 安芸(あげ)郡芸濃(げいのう)町 )

   注:  つづれ = 綴れ。ぼろ着物。
       ぼっこ = ぼろ着物をいう方言。  

    「 こおろぎの鳴き声の聞きなしである。
      こおろぎが鳴き出すと秋も深まり冬も近い。
      綴れを刺して冬支度をする季節になったと
      教えているのだという。         」( p168 ) 


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽根つき

2024-11-15 | 道しるべ
ネットで古本を注文する際、有難いことに表紙画像を確認できる。
アマゾンだと、それを拡大できて、帯の文句まで読める。

ちょっと前でしたが、庄野潤三著「丘の明り」(筑摩書房)。
これが凾入りで帯があり、その帯をよめました。

「   庄野潤三作品集    永井龍男

   庄野潤三という人は、日本の作家の
   誰も持っていない境地を切り開いた。
   しかも、実に静かにだ。たとえば・・
    ・・・こういう小説が書けたら、
   どんなにたのしかろうと思うが、
   この人のほかには絶対に、誰にもかけない。   」


「丘の明り」(筑摩書房・昭和42年発行)。
各文芸雑誌などに掲載された作品をまとめた一冊でした。
ちなみに、定価は1円+送料350円=351円。
はい。買っちゃいました。

私はといえば、庄野潤三の小説は未読。
ただし、庄野氏の学生時代の先生が詩人の伊東静雄であり、
私は詩人を先生に持つ庄野氏がどのような作品を書くのか、
気になっておりました。それで、帯の文句に惹かれました。

こういう場合、ついつい他の作品にも手がでてしまいます。
庄野潤三随筆集「自分の羽根」(講談社・昭和43年)購入。
随筆集をひらくと、まずは表題となった「自分の羽根」を
読む。はい。4ページほどですから、すぐに読めちゃう(笑)。
そのはじまりを引用。

「 先日、私の娘と部屋の中で羽根つきをやった。
  冬休みがもう終りになるという頃だった。
  小学五年生の娘は、
  私が一日机の前で浮かぬ顔して仕事をしているのを見て、
  運動不足になることを心配したらしい。

  『 羽根つきをしよう 』 という。
  『 もう外は真っ暗だよ。 それに庭はドロンコだ 』
  『 部屋の中でやれるよ 』

  本当にやれるかと私は危ぶんで立ち上ったが、
  なるほどやって見ると、出来る。
  少しつき合いをしているうちに、
  ひとつどれだけ落さずに続けられるか、
  やってみようということになった。

  一番長く続いたのが五十回で、
  あとは大抵三十回にならないうちに
  どちらかがしくじった。・・・・・・・・

  ・・・弧をえがいて落ちて来る。その動きがきれいである。
  『 いいものだなあ 』と思いながら、私は打ち返していた。

  『 われわれの先祖はたしかにすぐれた美感を持っていた。
  お正月の女の子の遊びに、羽子板でこういうものを打つことを
  考え出すなんて。まるい、みがいた木の先に鳥の羽根をつけて、
  それでゆっくりと空に飛び上って行き、落ちて来るまで
  全部見えるようにこしらえるとは、よく考えついたもんだ! 』

  いい年をした親父になって、今ごろこんなことを
  感心しているのは、あまり賞められたものではない。   」(p185~186)

  
はい。これは随筆の始りの箇所で、これからが読みどころなのでしょうが、
私には、この箇所が読めればじゅうぶん(笑)。

さっそく、「日本のわらべ歌全集24・佐賀長崎のわらべ歌」(柳原書店)の
この箇所が思い浮かびました。最後にそれを紹介して終ります。

「 佐賀の子供たちは、初正月のお祝いにもらた羽子板で、
  手製の羽根をついて遊んだ。

  明治の頃までは、現在のように二人がつき合うのではなく、
  一人で羽根を落とさないように、何回つけるかを較べあうものであった。

  その頃の佐賀では、子供のいる家では、
  羽根つきの羽根は、たいてい手製であった。
  それはお正月の主料理に鴨(かも)が多くて、
  どこでも鴨の羽毛があったからである。

  冬になると有明海に鴨が渡って来て、鴨猟がはずむ、
  暮れの街には、乾物や荒物を売っている店にも
  鴨がぶら下がり、お歳暮用に売られていた。

  子供たちは、ムクロ(無患子・むくろじ)の木の
  黒くてかたい実に小さい穴をあけ、
  むしった鴨の羽根の中から一番形のいいものを選んでさしこみ、
  クサビを打ちこんで抜けないようにする。
  かたい羽根はシンに、柔らかい羽毛はフワリと落とすための
  抵抗にというふうに気を使ったようである。・・・    」(p46)


うん。この説明のあとにある、羽根つき歌も最後に引用しておきます。


       大黒さんという人は   ( 羽根つき )

      大黒さんという人は
      ここのお国の 人でなし
      天竺天から 舞いおりて
      一つ俵を ふんまえて
      二つにっこり 笑うて
      三つ盃 さしよって
      四つ世の中 よいやさ
      五ついつもの ごとくなり
      六つむくろじ 手にすえて
      七つ何事 言わしゃんす
       ・・・・・・・・・
       ・・・・・・・・・


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大さむ小さむ。大寒小寒。

2024-11-14 | 詩歌
「日本わらべ歌全集12」(柳原書店)は、「愛知のわらべ歌」でした。

昨日は、主なき家の道路に面した箇所の雑草取りなどで。
はい。半日仕事。これから寒くなれば、雑草も生えない。
そう思っているのですが、年内にまた伸びてくるかもね。

寒くなるといえば、このわらべ歌が思い浮かびます。
ここには、愛知のわらべ歌から引用。

        大さむや小さむや   ( 寒気 )   

      大さむや 小さむや
      山へ頭巾(ずつきん) おいてきた
      とりに行(ゆ)こうか 戻ろか
      みかんの皮でも かぶれかぶれ   
                 ( 東海市名和町 )

「 『 大さむ小さむ 』とうたい出すわらべ歌は全国各地で見られる。
  『 尾張童遊集 』(天保2年)にも
  『 寒き時いふ詞 』として次のようになる。
  『 ををさむ小さむ猫の皮ひッかむれ、又山から小僧がないて来た 』。

 【類歌】   大寒小寒、山から小僧がとんできた、
       山は寒いと泣いてきた、泣いてきた。 ( 尾張西部 )
      
       大寒小寒、山から小僧がやってきた、
       何と言うてやってきた、寒いと言ってやってきた。
                     ( 東三河=蒲郡市 ) 」

        ( p160 「日本わらべ歌全集12・愛知のわらべ歌」 )


  
あれれ。相撲という言葉もでてくる、地口歌がありました。


        みかんきんかん   ( 地口歌 )

     みかん きんかん 酒のかん
     相撲取りャ はだかで 風邪ひかん  ( 刈谷市高須 )


 【類歌】  みかんきんかん、酒のかん、親のせっかん、子は聞かん、
      相撲取りはだかで、風邪ひかん、
      田舎の姉ちゃん、気がきかん。  ( 尾張東部 ) (p236)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そうだ・ソーダ屋・村長さん。

2024-11-12 | 詩歌
そうだ。『日本わらべ歌全集』の中から、
『 そうだ。ソーダ 』を目次検索することに。
各冊子目次の「ことば遊び歌」項にありました。

    そうだ村の村長さん   ( 地口歌 )

  そうだ そうだ
  そうだ村の村長さんが
  ソーダ飲んで 死んだそうだ
  葬式まんじゅに あんがなかったそうだ  ( 米子市能党 )

    
【類歌】 そうだ、そうだ、ソーダ屋の宗助さんが、ソーダ飲んで、
     死んだそうだ、葬式まんじゅうは、うまかったそうだ。
                  ( 西伯郡淀江町九区 )

        ( p178 「日本わらべ歌全集20上・鳥取のわらべ歌」 )



こんな感じで、掲載されている県が、あるかどうかと各巻の目次をめくれば、
山形・千葉・愛知・埼玉・岐阜・熊本・愛知・山口
徳島・高知・香川・島根・新潟・茨城・北海道・群馬
と、載っておりました。ここはひとつ私が気になった歌と解説を引用

       ソーダ屋の   ( 地口歌 )

    ソーダ屋の ソーダ爺(じい)が
    ソーダ食って 死んだそうだ
    葬式ゃ 明日(あした)そうだ    ( 人吉市紺屋町 )

 「 『地口』とは、ありふれた成語と語呂の合う文句を作って、
   これを両様に聞きとらせる≪ しゃれことば ≫である。
   この歌は、『 ・・・だそうだ 』と言った者に、
   すかさずはやしたてる地口。・・・・       」
        ( p156 「日本わらべ歌全集25・熊本宮城のわらべ歌」 )


      そうじゃ そうじゃ   ( 地口歌 )

   そうじゃ そうじゃ
   総社(そうじゃ)村の 村長さんが
   ソーダ飲んで 死んだそうじゃ
   葬式まんじゅう でっけえそうじゃ
   おいらが行っても くんねえそうじゃ
   中のあんこは ねえそうじゃ     ( 北群馬郡榛東村 )

「 ・・・この歌が『そうじゃそうじゃ』とうたい出すのは、
 『そうだ』が訛ったものとも見られるが、前橋市の町名『総社町』に
 語呂を合わせたものと考えられる。 
 ここには、六百余の神を一ヶ所に集めて祀った総社神社があり、
 郷土を代表する格式ある神社として、・・郷土の誇りともなっている。」
        (p165~166 「日本わらべ歌全集5下 群馬のわらべ歌 )


       そうだそうだ

     そうだそうだ 桑田(そうだ)村の村長さんは
     ソーダ飲んで 死んだそうだ
     葬式まんじゅう ふとかったそうだ
     中には餡が なかったそうだ
     そっと山へ 棄てたそうだ    ( 高知市 )

      ( p266 「日本わらべ歌全集22 徳島高知のわらべ歌」 )



はい。こうした 地口歌を聞くとはなしに、聞き覚えていた者にとって、
山口のわらべ歌は、歌い継がれて幾多の変遷を加える前の、新鮮さを感じました。
ここからならば、意味がすんなりと辿れる。ソーダよりも古い原形を感じました。


          そうだ そうだ

       そうだ そうだ
       そうだ村の 村長さんの
       惣領息子が 死んだそうだ
       葬式まんじゅう 大きいそうだ
       中にはあんこが ないそうだ    ( 山口市 )

       ( p171 「日本わらべ歌全集19下 山口のわらべ歌」 )




こうして、『 そうだ そうだ 』を、引用していても、
各地で、さまざま、微妙な、違いが出てくるのでした。
その全部から引用したくなるのですが、ここは、ほれ、
本の帯にある小島美子さんの文句を引用して終ります。

「 わらべ歌はいつでもどこでも変わる。
  アメーバのように歌詞もメロディーも変わる。
  だからわらべ歌の記録は山のように必要だ。
  この全集はそれにこたえる大きな山になるだろう。 」



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする