和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

誤解。

2010-04-30 | 詩歌
文庫の「自選井上靖詩集」をめくっていたら、
私に思い浮かんできた詩人は田村隆一でした。
ということで、田村隆一の話。
まずは、外山滋比古著「日本語の論理」から引用。
その「日本語の姿」の中の「誤解」という文に、こんな箇所がありました。


「子供は父親に向って改まってものを言うときの第一人称がはっきりしていないのが普通である。『私』というのは照れくさい。『俺』というのもまずい。『ぼく』は板につかない。いつもは主格の第一人称などをすっかり忘れてものを言っていてすこしも不自由しないから、第一人称が不安定である。急に第一人称を用いたりすると、そのこと自体に驚いて対話が不必要に緊張するということもある。変った言葉を使うと目の前にいるのが親子でないような気持になって、事態をいっそう深刻なものにしてしまうのである。
学校の教師と学生、生徒という、親密であるべき間柄においても、第一人称と第二人称の調節がうまく行かないために、思ったことが言えない。ひとつ歯車がくいちがうと、その断絶を埋める言葉がなくなってしまう。話し合えば話し合うほど溝はふかまるということになる。面と向っては思うことが言えないから、手紙で書いた方がよく気持が伝えられるということが、こういう至近距離における人間の間には案外多いものである。欧米の対話といったものを形式だけ持ち込んでみても、言語の性格がこれだけ違う以上、簡単に話せばわかるとは言えない。そう言えるにはいろいろな前提条件が必要なのである。」(p80・中公叢書)

さて、以前は詩集で読んでいた田村隆一の詩なのですが、
この前、講談社文芸文庫で田村隆一著「腐敗性物質」を読んだときに、
あれ、と思ったことがありました。
 
ここには、むしろ必ずといっていいくらい
人称が詩に登場しているのでした。
私・彼・僕・俺・きみ・わたし・あなた・われわれ・われら・ぼく・彼女・おまえたち・星野君・おれには・あなたが・ぼくたち・ぼくは・おれは・神が・ぼくら・君・すべてのものは・かれを・かれらは・きみに・ぼくには・彼女も・われらは・おれの・きみが・ぼくには・ぼくはきみのことが・ぼくも・きみの・おれたちは・おれたちが・カミさんが・おれなんざ。

そうそう。この文庫には収録されていないけれども

     おまえさん おまえさん

というのもあります。そういえば田村隆一に「誤解」という題の詩集がありました。
というので、取り出してみました。装幀が堀内誠一。
うん。詩集の内容より、それをつつむ装幀のほうが印象に残っておりました。

う~ん。それでも、一人称二人称と、人称との関連で詩を思う時に、田村隆一の詩は忘れてはならない位置をしめていそうです。そういう意味で欠かせない詩人ということになるかとあらためて思うのでした。

さてっと、ここでもう一度、外山滋比古氏の「誤解」という文にたちもどってみます。

「・・・さらに、豆腐のような言語の日本語では演劇がうまく発達しない。・・われわれの頭は、そうでなくても言語におけるあいまいさに対して寛容になっている・・要点だけで全体を理解している。したがって、もし誤解がおこるととんでもないことになる。ことに親しい人間同士の間では、いつもたいへん大きな飛躍を互いに許しあっている。以心伝心、腹芸のごときものである。かりにそこで相手がこちらの要点をふみ外したりすることがあれば、その誤解を救うものはもう何もなくなる。・・・このようにして生じた親子の間の不和、誤解などというものは簡単には解けないのであって、論理をつくす言葉、対立を解消させる演劇的発想があれば、いくらか役に立つかもしれないが、われわれの言語では、そういうときに話し合う言葉がない。」

これから、あとが、最初に引用した箇所へとつながるのでした。
田村隆一の詩の初期作品に、演劇的要素が多く見られることを私は思いうかべるのでした。
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井上靖の詩。

2010-04-28 | 詩歌
水曜日は、東京へ用事ででかけることが多いのでした。
片道2時間くらい。
今日は、行きはバス。帰りは電車。
まあ、ほとんど寝ているわけですが、
本をもってゆきます。今日は、旺文社文庫の「自選井上靖詩集」を
ポケットに。居眠りばかりだったのですが、帰りの電車でひらいておりました。

ちゃんと、通して読んだことがなかったので、よい機会。
たとえば、詩「二つの絵」は、こうはじまります。

「青春の絵では二十二歳の青木繁が描いた『海の幸』が好きだ。
 大きな獲物をかついで波打際を歩いて行く漁師たち。
 金色の空、群青の潮、足もとには白い波が砕け・・・」


今回私が興味をもったのは、詩の「雪」と「心衰えた日に」。
まあ、とりあえず、並べてみましょう。

  雪 

 ――雪が降つて来た。
 ――鉛筆の字が濃くなった。

こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
十何年も昔のこと、「キリン」という童詩雑誌でみつけた詩だ。
雪が降って来ると、私はいつもこの詩のことを思い出す。
ああ、いま小学校の教室という教室で、
子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。
この思いはちょっと類のないほど豊穣で冷厳だ。
勤勉、真摯、調和、そんなものともどこかで関係を持っている。


   
  心衰えた日に

書くべき何ものもない日――と、ある詩人は歌った。
書くべき何ものもない日――と、私も原稿用紙の上に書く。

八日間、車窓から白い幹と緑の葉の林ばかりを見た。
見渡す限り白樺の原始林だった。
それから五カ月経った十一月のいま、
一枚の葉もなくなったシベリアの白樺の林には、
毎日のように、こやみなく雪は落ちているだろう、
いまこの時も。この想念ほど、私を鼓舞するものはない。

書くべき何ものもない日――と、私も書く。
原稿用紙の上に、こやみなく雪が落ちている。



初期の井上靖の詩しか知らなかった私には新鮮でした。
そうそう。行きにガムをチリ紙につつんで、ポケットにしまったのですが、
ちょうど、そのポケットに文庫があり、帰ってから取り出したら、
文庫の裏にガムがこびりついていたのでした。
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あの木が私だ。

2010-04-27 | 幸田文
読売俳壇2010年4月26日の矢島渚男選の最初の句。

  老残の身を寄す施設木々芽吹く   石川県 田保与一

とありました。
そういえば、鶴見和子氏の養護施設に入ってからの短歌が思い浮かぶのでした。
それについて鶴見俊輔は、こう語っております。

「彼女の最後の十年というのは、同じ社会学でもまったく違うんです。・・
倒れてから後は、遠慮なく自分を導入するようなものだといって、日記のように和歌を書いているので、和歌と論文とはつねに交流する。倒れてからそれまでの仕事を藤原書店ですべて本にして出してくださったわけですが、どの巻にもあとがきだけは自分で入れるでしょう。あとがきで、一つ一つのだるまに目を入れるように、別のものになってく。ここに自分が入ってきて、いまの実感からものをいう。だから彼女の学問全部が全部新しい様相を見せるようになる。」(鶴見俊輔著「言い残しておくこと」p160~161)

ちょいと、寄り道しました。
読売俳壇の句を読んで、最初に思いうかべたのは、
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)の、この箇所だったのです。

「・・・トーテム・ポールで、自分を何かの動物部族の末として、地球の上に位置づける。宇宙史の中で、動物、植物、鉱物のどれかの系統に自分を位置づける方法もあり、ことさらにその血を引いているなどと考えるまでもなく、その何かの友だちとして自分を置く方法もある。俳諧歳時記は、その方法で、何かのそばに自分を置いてみるという、さりげない身ぶりと言える。そういう想像力の動きの中に自分を置くということだろう。」(p77)

そして、つぎのページに、こんな箇所があったのでした。

「これは『夜と霧』にある話だが、アウシュヴィッツの強制収容所に閉じこめられてフランクルは、おなじ仲間の老女がいきいきと毎日をすごしているので、どうしてかとたずねた。すると、彼女は道に見える一本の樹を指して、『あの木が私だ』と言う。・・」(p78)
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寅彦漱石の俳句。

2010-04-26 | 詩歌
パラパラ読み、拾い読み、調べ読み。
とまあ、呼び方はいろいろあるのでしょうが、
ようするに、同時並行的に少しずつ摘み食い風に読んでいると、もともと自分の興味から読んでいるためでしょうが、別個の本が結びついてくるような気がする時があります。
ということで、ここでは、寺田寅彦。

末延芳晴著「寺田寅彦バイオリンを弾く物理学者」(平凡社)が楽しめました。
では、私の楽しみ方。
たとえばです。
外山滋比古氏の本を数冊読んでいると、
外山氏と寺田寅彦の関連が、自然と思い浮かんでくることになります。
それは、知る人ぞ知る。まあ、知らない人は知らない(笑)。

さてっと、寺田寅彦といえば、文学的には、まず夏目漱石のつながりが思い浮かびます。
寺田寅彦に「夏目漱石先生の追憶」という文があります。これ岩波少年文庫の寺田寅彦のエッセイにも載っております。
その文はこうはじまっておりました。

「熊本第五高等学校在学中、第二学年の学年試験の終わったころのことである。同県学生のうちで試験を『しくじったらしい』二、三人のために、それぞれの受け持ちの先生方の私宅を歴訪して、いわゆる『点をもらう』ための運動委員が選ばれたときに、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。その時に夏目漱石の英語をしくじったというのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、もしや落第すると、それきりその支給を断たれる恐れがあったのである。」

 こうし先生を訪ねた寺田寅彦は

「もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、自分は『俳句とは一体どんなものですか』という、世にも愚劣なる質問を持ち出した。それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ醗酵しかけていたからである。」

さて、ここで、漱石先生はどう答えたか?
ここは大切なところですから、何度も繰返して、よい箇所であります。

「その時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。『俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。』『扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。』『花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという。』『【秋風や白木の弓につる張らん】といったような句は佳(よ)い句である。』『いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。』」

こう漱石先生から聞かされた寺田寅彦はどうしたのか。
ここが凡才と非凡との分かれ道であります。

「こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった。そうして、夏休みに国へ帰ってから手当り次第の材料をつかまえて二、三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本へ着くなり、何よりも先にそれを持って先生を訪問して見てもらった。その次に行ったときに返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二、三の句の頭に○や○○がついていた。それから病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二、三度も先生の家へ通ったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井に移っていた。立田山麓の自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。」

そしてどうなったか。

「自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規のところへ送り、子規がそれに朱を加えて返してくれた。そうして、そのうちからの若干句が『日本』新聞第一ページ最下段左隅の俳句欄に載せられた。自分も先生のまねをして、その新聞を切り抜いては紙袋の中に貯えるのを楽しみにしていた。自分の書いたものがはじめて活字になって現われたのがうれしかったのである。当時自分の外に先生から俳句の教えを受けていた人々の中には厨川千江、平川草江、蒲生紫川らの諸氏があった。その連中で運座というものを始め、はじめは先生の家でやっていたのが、後には他の家を借りてやったこともあった。時には先生と二人対座で十分十句などを試みたこともある。そういうとき、いかにも先生らしい凡想をとびぬけた奇抜な句を連発して、そうして自分でもおかしがってくすくす笑われたこともあった。」


え~と。何でしたっけ。
そうそう。鶴見俊輔著「言い残しておくこと」(作品社)に

『俳句というのは、明治以降の欧米の学問に追随したものにはない、江戸以前からの日本の文化とつながる深い眼差しがあるんですよ。』(p222)

さて、末延芳晴著「寺田寅彦バイオリンを弾く物理学者」は、その俳句と寅彦について知るのに思いもかけない視点を提供してくれておりました。
それはそれとして、漱石と寅彦と俳句との関係の最後も描かれておりました。

「大正五年12月9日、恩師の漱石が死去したあと、寅彦は『漱石全集』の編集委員に選ばれ、漱石の旧稿、特に俳句関係の原稿を集め、読み進めていく。その過程で、漱石文学の根底において俳句が重要な意味を占めていることを改めて認識させられたのだろう、小宮豊隆や松根東洋城らと共に『俳句を通しての漱石先生の研究の会』を組織し、定期的に例会を持ち続け、最初の成果として大正14年、小宮や松根と共著で『漱石俳句研究』を刊行している。さらに、漱石俳句の研究に一段落ついたのを見届けるようにして、翌年から松根と連句作りに力を入れるようになる。そして五年後の昭和6年には、連句研究の第一人者、幸田露伴の面識を得たことで、連句への傾斜と理解を一層増している。寅彦は、俳諧文学を通して培ってきた漱石との関係の集大成として『連句雑俎』を書き上げることで、漱石の学恩に報いようとしたのであろう。」(p294)


外山氏の豆腐文では、なかなかこうはっきりと経過を知ることができないのですが、末延芳晴氏の著作で、その道筋が見えてきたような気がいたします。
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エディターシップ。

2010-04-25 | 短文紹介
外山滋比古著「エディターシップ」(みすず書房)を、今日は読み始めました。
といっても、いまだ45ページまで。
古本です。何でも「新エディターシップ」というのが出ているようですが、
それはそれとして、まずはこの本を楽しみます。

たとえば、こんな箇所がある。

「すぐれた編集者は大学の教師以上に学を好み、考え方が柔軟で、やさしく、親切である。つまり、優秀なのである。・・・少なくとも、編集の仕事をしている間は、われわれの心の中の善良さの部分だけを発動させるような何かがあるのではないだろうか。」(p32)

さて、このあとでした。

「狩人のようにものを追い求めている編集者に会っていると、自分のかなにも相手の求める獲物が眠っているのかもしれない、とついうぬぼれの錯覚がおこって胸を躍らせる。それで相手が幸運の女神のように見えるのかもしれない。別に仕事のことでなくても、編集者と雑談をしていると、日頃は漠然としか考えていないことが急に明確な形をとって口をついて出るということも珍しくない。人間の潜在的能力を引き出して具現するのが教育の本義であるとするならば、編集はまさにすぐれた教育だと言ってよい。・・・」

 ということで、
なぜか、井上靖の詩「猟銃」を思い浮かべたりするのでした。

    猟銃

なぜかその中年男は村人の顰蹙を買い、彼に集る不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾の腰帯(バンド)をしめ、コールテンの上衣の上に猟銃を重くくいこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天城への間道の叢(くさむら)をゆっくりと分け登ってゆくのを見たことがあった。
それから二十余年、その人はとうに故人になったが、その時のその人の背後姿は今でも私の瞼から消えない。生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、あのように冷たく武装しなければならなかったものは何であったのか。私はいまでも都会の雑踏の中にある時、ふと、あの猟人(ひと)のように歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静かに、冷たく――。そして、人生の白い河床をのぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方に、同時にしみ入るような重量感を捺印(スタンプ)するものは、やはりあの磨き光れる一箇の猟銃をおいてはないかと思うのだ。


井上靖の「猟銃」を思うと、私は田村隆一の詩を思い浮かべます。
ということで、どんどんと連想は、それてゆきますが、思い浮かぶままに、


     細い線

  きみはいつもひとりだ
  涙をみせたことのないきみの瞳には
  にがい光りのようなものがあって
  ぼくはすきだ

    きみの盲目のイメジには
    この世は荒涼とした猟場であり
    きみはひとつの心をたえず追いつめる
    冬のハンターだ

  きみは言葉を信じない
  あらゆる心を殺戮してきたきみの足跡には
  恐怖への深いあこがれがあって
  ぼくはたまらなくなる

    きみが歩く細い線には
    雪の上にも血の匂いがついていて
    どんなに遠くへはなれてしまっても
    ぼくにはわかる

  きみは撃鉄を引く!
  ぼくは言葉のなかで死ぬ



うん。ただ単に、「狩人」から「猟人」へ、そして「冬のハンター」へと私の連想でした。
ところで、「エディターシップ」の引用箇所の文は、菊池寛を語っておりました。そこも引用しておきましょう。

「菊池寛はきわめて独創的なエディターであったが、わが国の知識階級が外国文化に盲目的に追随している時代に、そういう独創が正当に理解されることは困難である。・・・・われわれは現在でもまだ文化の創造者としての菊池寛の姿をしっかりとは見ていない。外国模倣文化の中では、やむを得ないことなのであろうか。・・・・」
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再読。

2010-04-24 | 他生の縁
そういえば、鶴見俊輔氏には「再読」という題名の本があったような気がします。岩波新書で出た鶴見俊輔著「思い出袋」を、私は、岩波の月刊「図書」で4年ほど続けて楽しみに読んでおりました。それからは、講読をしなくなっていたので読まずじまい。それが今年になって新書で出たのでした。何でも7年間続けた連載とある。
新書であらためて読んで、気になるので、またパラパラとめくっております。新書で読みやすいのもあるのですが、何しろ87歳の鶴見俊輔氏の重量感を、短文でひも解いているような楽しみがあります。

たとえば、いまNHK連続ドラマ「ゲゲゲの女房」。
その水木しげるについて、鶴見氏は語ります。

「水木しげるの『河童の三平』は、私の古典である。」(p32)
う~ん。こういう言い切りが、きっとすばらしいのですね。
たとえば、小学校でもよいのですが、担任の先生が、
私は『河童の三平』が大好きです。
といったとします。その時は、笑いながら忘れても、
あとあと、読まないとしても、その先生が語った言葉として
思い出すに違いない。

鶴見氏の小気味いい短文を、
再読しながら、こりゃ、あとあと残るなあ
そう思いながらの再読。

すこし引用。

「声を出して、子どもに絵本を読んできかせることは、人生をもう一度生きることである。『はしれ きしゃ きしゃ』からはじまって数年後に水木しげるの『河童の三平』全四巻まできた時、私は自分自身の人生の戸口にふたたび立っていることを感じた。子どもが眠るまで何度も読む。そのうち子どもは全部おぼえてしまう。・・・・そのうち岡部伊都子さんが、子どもを一晩あずかりたいと言ってきた。子どもは行くと言う。当日、彼は『河童の三平』をもって岡部さんの家に泊まり、その本を読んであげた。もとよりその本を全部暗唱していて、絵をめくるそばから、そらで言えた。・・・」(p203~204)


こんな箇所もありました。

「私が二歳から三歳のころ、英語の絵本があって、それを親に読みきかせてもらったことはなかったが、絵から筋を想像できた。『しょうがパン人間』という本だった。老人夫婦が、小麦粉をこねて、子どもの形のパンを焼いた。その子どもは家からかけだして、囲いを越えて出ていく。そのあとはよく見なかった。おそろしい絵が出てくるので、こわくてわざと忘れたのだろう。何十年かたって、『おだんごぱん』という日本語の本を自分の子に朗読してやって、そのときはじめて、しょうがパンの末路を知った。しょうがパンの子どもは、せっかく自由になって野山をかけまわったあと、狐に食べられてしまうのだった。私としては、家を離れて、野山を自由にかけまわるところに心をひかれて、悲しい結末は見たくなかったから、見なかったらしい。八十年たって民話のあらすじを知ってながめると、自分の生涯がこの物語にすっぽり入っているようにも見える。」(p90~91)

もう少し引用を、ついつい重ねたくなるのですがこのへんで(笑)。
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寅彦バイオリン。

2010-04-23 | 短文紹介
買ってあった末延芳晴著「寺田寅彦バイオリンを弾く物理学者」(平凡社)をとりだして拾い読みしております。

とりあえず、気になる箇所だけ、拾い読みしております。
そこに、思わずうなずく箇所がありました。

「夏目漱石の出世作『吾輩は猫である』は、『坊つちやん』と並んで、誰もが一度は手にしたことのある人気小説である。ただ、小説は意外に長く・・・また、漱石一流の警句や難しい漢語、熟語、ことわざ、蘊蓄を傾けた議論がびっしり詰め込まれているので、結構読みにくく、最後まで読み通した人は意外に多くないのではないか。そのため、最終章で登場人物の寒月が語る、バイオリン購入にまつわる苦労談の面白さを知る人が少ないのは残念である。漱石は、『吾輩は猫である』のエンディングで『猫』を死なせるまえに取って置きの面白い話をと思い、寅彦から聞いた、バイオリンを買い初めて弾いてみたときの話を落語ふうに面白おかしく膨らませて書いたのが、寒月が語る出色の滑稽譚である。・・・こうして『猫』の最終章まで書き継いできて一年半、寒月の絶妙にユーモラスな語り口は、小説家として夏目漱石がすでに無類に自在な筆と想像力の働きを手中に収めていたことを証明してあまりあるだろう。場面は例によって・・・・」(p252~253)

う~ん。漱石と落語ということで、
水川隆夫著「漱石と落語」をさっそく注文したりするのでした。
まだ、末延芳晴氏のこの本をまともに読んでいないというのに。
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時代の目利き。

2010-04-22 | 他生の縁
花田清輝を読んだことがないままに、
鶴見俊輔氏が書く花田清輝が印象にのこります。

ここでは、鶴見俊輔著「言い残しておくこと」(作品社)から

「花田にはいろんなところでよく叩かれたけど、叩かれることが、私にとって一つの開眼のきっかけのなっている。
それから花田は屈指の伯楽でもあった。
司馬遷のいう『千里の馬はいつの時代にもいる。しかし、千里の馬を見分ける伯楽のいない時代もある』というやつですね。たとえば、昭和初期に登場したまま、その後長いあいだ忘れられていた尾崎翠を再評価して、苔が恋をするという『第七官界彷徨』を自分の編んだアンソロジーに入れた。花田がいなければ、尾崎翠は永遠に復活しなかったでしょうね。私が当代の立派な文章家と認める小沢信男も花田が引っ張ったんだね。小沢は、『江古田文学』に『新東京感傷散歩』という作品を書いて、それを花田が読んで認めたわけです。小沢は俳句もやっていて、『学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地』という名句がある。そうして彼は、山下清の伝記を書いたでしょう。私は山下清を尊敬してるんです。山下清そのものがオリジナルなんだ。それを小沢みたにな人が出て、その力を見抜いていく。その小沢は花田によって見出された。それがエリートを抜く力なんです。」(p188~189)


ちなみに、鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)に登場する花田清輝はというと、

「・・編集者は犀を見つけることが仕事のはずだが、実際にはその仕事の内実は、うわさの運搬である。その中で、目利きとして私の記憶に残る例外的な編集者は、戦中・戦後の林達夫、花田清輝、谷川雁である。
司馬遷は早くから、千里の馬はいつの時代にもいるけれども、それぞれの時代に目利きが少ないと嘆いた。千里を行く馬は速いが、犀はのろい。しかし、ひとり千里を行くという点では、両者は共通である。」(p58・「犀のように歩め」)

ちなみに、この文のはじまりは、
「『犀のように歩め』。瀬戸内寂聴の『釈迦』で、久しぶりにこの言葉に出会った。」
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文学論のテーマ。

2010-04-21 | 他生の縁
鶴見俊輔の新刊二冊を読んでいて、
そこに前田愛氏が登場する箇所があるのでした。
今日は、そこについて。二冊の両方にそのエピソードが登場しているのです。
ちなみに、ネット検索をすると、まず最初に、前田愛は声優・女優とでてきます(笑)。
まずは、前田愛について
「前田愛(1932~1987)。文芸評論家・国文学者。著書に『樋口一葉の世界』『都市空間のなかの文学』など」とあります。私は未読なのですが、外山滋比古氏との共通するだろうテーマとしては、前田愛著「近代読者の成立」があげられそうです。外山氏には「近代読者論」という本があります。どちらも私は読んでいないので、ここではこれだけ。

さてっと、鶴見俊輔氏の文にこうある。

「いまから二十年以上も前のことですけど」

ということは、もう20年以上前のことがいまだに80歳を過ぎた鶴見氏の感心を引くテーマとしてあるらしいのです。つづけます。

「東京の山の上ホテルで、ばったり前田愛に会った。立ち話の中で、・・・・
漱石に話題を転じて、『漱石はあんなに勉強したけど、結局解けるはずがないんですよ。漱石が解こうとして問題は、I・A・リチャーズのときになって初めて解けたんだ。リチャーズはマリノフスキーを引いているでしょう。マリノフスキーのような文化人類学者が世界各地に出かけていってはじめて、違う文化の中から違う文学の趣味が生まれるプロセスがはっきりしたんだから。そのおかげでリチャーズは文学理論を書くことができた。だから、漱石がいくらジェームズやウォードを読んだって、自分の立てた問題を自分では解けないんだ』というようなことをいってましたね。』」(鶴見俊輔著「言い残しておくこと」p78~81)

これについて、「思い出袋」(岩波新書)には、こうでてくるのでした。

「前田愛と立ち話をした。そのあとすぐ彼がなくなると思わなかったので、すわってゆっくり話をきかなかったのが残念だ。・・・漱石の『文学論』の問題提起には感心するという。あれは、当時、どんなに広く同時代の参考文献を読んだとしても、漱石には解決できなかっただろう。社会学だけでなく、文化人類学の成果を参考にして、I・A・リチャーズ(1893~1979)がはじめて解決の方向に手がかりを見つけた。そう前田愛は言う。たかだか二、三分の会話だったが、心に残った。
リチャーズは、1930年、中国の北京で三人の教授に教えられつつ、2300年前の孟子の心理学を手探りで考えた。その成果を公表したのは、中日戦争の中で米国の大学が中国を支援する目的で開いた一連の講座の一回目だった。1940年のことである。リチャーズの探索は『孟子の悟性』(1964年)で読むことができる。・・・37歳にもなって、遠く離れた中国の漢字の迷路に自分を置くというのは、新しい冒険である。リチャーズは、英国で自分の学生だったW・エンプソンから示唆を得ている。『あいまいの七つの型』(1930年)は、シェークスピアから用例を取って、あいまいな意味の型を例解した本で、あいまいな表現の効果を分析している。このエンプソンも、日本と中国に暮らして、漢字から刺激を受けた。・・・夏目漱石が『文学論』と自作の漢詩によって指さした境涯は、リチャーズの意味論、エンプソンの意味論とに、半世紀を通してなだらかに続いている。」(p41~43)

ここから、外山滋比古著「中年記」(みすず書房)へと引用を重ねます。

「夏目漱石は中学生のときからよく読んだが、『文学論』は大学へ入ってから読む。その構想と思考の方法にはひどく感心した。おそらくこの本が出たとき、世界中でこれに匹敵する文学概論はひとつもなかっただろう。そういうことがわかるのに、その後二十年くらいはかかった。・・」(p24)

では、ここに出てくる『文学論』を外山氏がわかるのは、どういう経路を通じてだったのか。
外山氏の文を追ってみます。

「戦争末期、昭和19年10月に、東京文理科大学英語学英文学科の学生になった。・・・入学して早々、学生控室に掲示が出た。主任教授福原麟太郎先生の名で、新入学生と個人インタヴューを行なうとあって、時間が指定してある。・・・これもあとで想像したことだが、そういう時代にこともあろうに英文科へ入って来た学生たちである。いろいろ悩みもあろう、心細いと思っているものもいよう。経済的に困っているものもあるにちがいない。それとなく相談にのってやろうというのが、個人インタヴューだったのである。親の心子知らず、ではないが、そんな配慮が学生にわかるはずがない。改めて面接試験を受けるのかと、気が重かった。
先生がなにをきかれ、何を話されたかは一切記憶にないが、
『最後に、なにかきいておきたいことはありませんか』
と言われる先生に、とんでもない質問をしてしまった。
『文学というのがよくわかりません。文学って何ですか』
先生はびっくりされたに違いないが、静かに、
『それは大問題で、ひと口には言えないが、いずれ追々にわかってきます』
・・・・・・
福原先生のインタヴューを終えると、その足で、英文研究室の書棚、といっても硝子戸つきの本棚だが、いちばん上のLiterature:Generalという分類の本の背のタイトルをにらんだ。これもそのときはわからなかったが、この図書室には、ケインブリッジ・スクールと呼ばれる学者、批評家の本が実によく集めてあった。山路太郎というかつての助手がケインブリッジ・スクールのことを日本でもっとも早く、もっとも深く知った学究で、その図書選定にも、その造詣がおのずとあらわれたのである。そんなことも知らずに、文学論の本をつぎつぎ読んだ。」

 これからが、読み応えがある箇所なのでしょうが、
私はよくわかりませんので、端折っていきます。

「その次にはWilliam Empson:Seven types of Ambiguityが待っていた。従来、表現にとってマイナスであると考えられていた曖昧性を表現美の要と見る画期的な批評で、たちまち世界的に有名になった。これがケインブリッジの英文科卒業論文をもとにしたものであることが学生にはひどく刺激的であった。もうひとつ、エンプソンを身近かに感じることがあった。エンプソンは、この『曖昧の七型』を出版すると、東京文理科大学へ外国人教師としてやってきたのである。さきの山路太郎は親しくその教えを受けた一人である。『和歌とソネットを論ぜよ』といった試験問題を出したという伝説をきいたことがある。・・・・エンプソン以上につよい刺激を受けたのは、I・A・Richards:Practical CriticismとPrinciple Literary Criticism である。文学ということに関してPrinciplesは世界に先がけるものであるが、夏目漱石はその二十年前に、よく似た方法で文学の本質を究明しようとしたことは、はじめてリチャーズを読んだときには気づかなかった。・・・リチャーズはエンプソンの先生である。もとは数学コースにいたエンプソンは英文科へ転じてリチャーズの指導を受けた。エンプソンが卒業を前にして、リチャーズ先生に、自説をのべ、先生が、それはおもしろいと言った。一週間だかして、タイプ原稿を先生のところへもち込み、先達ての論文です、と言った。これが卒業論文になり、すぐ出版されて名著になる。そういうことを、夢のような気持ちで追った。・・」(~p27)

これ以下が系譜として面白いのですが、以下は興味がある方が読まれるとよいと思います。

 
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思い出袋。

2010-04-20 | 他生の縁
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)を読む。
読み応えがありました。なぜならば、80歳から月一回の連載を7年つづけたのを、こうして一冊にまとめてあるからなのでしょう。さて80歳を過ぎるとどうなるか。
「出典をあきらかにして、引用を正確にするところから、私はもはや遠いところにいる。」(p60)
そういう鶴見氏が、自分のことを回顧しながら、それが自慢話にならずにすんでいるのは、たとえばグレタ・ガルボを語ったこんな箇所に、その気構えが出ているように思えます。

「この人は、晩年、ニューヨークにかくれて住んだ。老夫婦とすれちがう時には、うらやましく感じることがあると友だちに言い、『名声と欲望が自分をほろぼした』とつけ加えた。自分の生涯をふりかえって、こんなふうに言える人はすばらしいと思った。」(p21)

こういう「すばらしさ」をどうやら、この新書でめざしておられるように読めました。
さまざまな出会いを、そのつどの一期一会として、反芻しているような文章で、さまざまなお名前が登場するのでした。その一般的にいえば有名人を語って、イヤミにならないのは、どうしてなのか。たとえば柳宗悦の本を紹介しているこんな箇所。

「蒐集は、美術館に行っても、そこにあるものとくつろいでつきあう感じにならないと、心に残らないそうである。」(p28)

「私は今でも、自分の小学校の級友四十二名をあだ名でおぼえている。」(p66)

それでは、すこし長い引用。

「丸山真男は、自分の雑談が活字になることを嫌った。丸山さんは亡くなり、その雑談を私はここに書くことになるが、許してくれるだろうか。
1967年のある日、私は何か用事があって、都内の喫茶店で丸山さんと会った。ちょうど私は校正刷りをもっていて、丸山さんに、『評論の本を出すので、その題を、『日本的思想の可能性』ということにしました』と言うと、『それはよくない。君が僕に教えてくれた最大のことは、日常的ということだ。』私はおどろいた。・・・このとき私は感じた。すぐれた思想史家は、著者その人よりも深く、その著作をとらえる場合がある。・・・私はすぐ出版社に電話し・・本の題名を変えた。・・友人をどう定義するか。私は、その人に敬意をもっていることが第一の条件と思うが、それに加えて、その人と雑談することがもうひとつの条件としてあると思う。」(p136~137)

う~ん。あなたが読めば、あなたの別の視点で、芋づる式に言葉がつながって出てくる。そんなような、豊かな新書一冊。博識を日常の次元に呼び戻す呪文を、手放さずにいようとする80歳代の回顧の記録。
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鶴見俊輔新刊二冊。

2010-04-19 | Weblog
鶴見俊輔著「言い残しておくこと」(作品社)を読んで、
つぎに岩波新書の鶴見俊輔著「思い出袋」を読み始めました。
新書は、岩波の月刊雑誌「図書」に連載されていたもの。
あとがきに「みじかい文章とはいえ、七年続けて書くのは、八十七歳の私にとってはじめてのことでした。」とあります。
この新書が面白いこと、
博識の鶴見さんが出会った方々を、その新書の方々に登場させながら、印象に残って思い出されることだけを取り上げているなあ。という感じがよく出ております。
途中パラパラと読みながら、外山滋比古著「中年記」のある箇所を思い浮かべました。
そういえば、外山滋比古氏は1923年生まれ。
それからね、鶴見俊輔氏は1922年生まれ。
魚が水の中に住むように、
同時代の中におられたお二人のことを、ちらりと思い浮かべるのでした。

ということで、
とりあえず、共通の話題となる箇所。
それは漱石とリチャーズとエンプソンにまつわる話。

岩波新書ならp41~43
作品社ならp78~81
「中年記」は、p24~29

まさか、鶴見俊輔と外山滋比古とがつながるなんて、
私は思ってみなかったのでした。
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言い残しておく。

2010-04-18 | 短文紹介
鶴見俊輔著「言い残しておくこと」(作品社)は、
インタビューをまとめた面白い構成の本です。
まず5~6㌻の鶴見俊輔氏の話があり、そのあとに、その話に登場する人物や事件に関する事柄を、ほかならぬ、鶴見俊輔氏の本のなかから、選んで項目別に引用してある。
そして、次の話へとすすむ。その項目別引用はあとで「メモラビリア初出一覧」として、
7ページほどの掲載誌および単行本の紹介も載っております。そして最後には人名索引もついております。そんなこんなで、本は全315ページ。

というわけで、項目別引用をはしょって飛ばして読めば、それだけでも楽しめますし、読むのが簡単です。さてっと、鶴見俊輔氏は哲学者という肩書きが、ございます。
う~ん。ひとつの言葉をさまざまに反転させながら、語っているのが、そういう哲学者の哲学者たるゆえんでしょうか。
そう思えば、ここでのお話の筋道がみえてくるように思えるのでした。
たとえば、こんな具合。

「これは都留重人さんからのまた聞きですけど、シュンペーターが、日本の知識人の文化をずっと見て、『これは輸入とか模倣というんじゃなくて、ブランダーだ』といったんだそうです。・・・ブランダーというのは、英和辞典で引くと、『へま』と書いてある。つまり間違いだね。ふつう日本の近代文化・思想というのは、ヨーロッパ文化・思想のイミテーションといわれるでしょう。ところがシュンペーターは、いやイミテーションじゃないといって、あえてブランダーという言葉を使った。つまり真似ではなく、西洋文化を間違って訳している、これはへまだ、と。」(p37~38)

このあとエリートという言葉の使い方を教示しておられます。
まあ、それは読んでもらうとして、ここでは、「メモラビリア」という鶴見氏の本からの引用にある『まちがい主義』をそのままに引用。

「記号論理学をつくったラッセルとホワイトヘッドの共著に『プリンピキア・マセマティカ』っていう大きな本がある。私は1940年に、ラッセルの12回の講義を聞いた。ラッセルはこう言うんです。壇上に立って、『ああ自分の考えていることは、全部間違いだ、と感じるときがある』。これは記号論理学の話としては、成りたたないんだ。矛盾しているから、そういうことは言えないんです。だけど、そういう一瞬の感情を自分は押えられない。それは記号論理学の創始者として語っているのではなく、人間として自分の存念を語っている。だから、この講義を彼が本にしたとき、このフレーズはそこに残していませんけどね。」
そのあとには、ホワイトヘッドの大学付属教会での講義の最終講演の話が続きます。
こちらも引用しないとおかしいですね。

「彼はよたよた出て来て、壇上に上がって話して、ぼそぼそっと最後の言葉を話して壇を降りてしまった。あれは何を言ったのかなと思って、気になったんだ。(略)私は米国にいる彼女(鶴見和子)に手紙を出してね『ホワイトヘッドの最終講演の記録があるはずだ、それのゼロックスのコピーを送ってくれ』と頼んだ。彼女は・・すぐに送ってくれたんだ。すると、ホワイトヘッドの最後の一言はね、Exactness is a fake ――精密さなんてものはつくりものだ、と言ってたんです。それが、彼の終わりの講演の、そのまた最後の一行なんですよ。記号論理学の体系をはじめてつくった二人が、一方は大学の壇上で、もう片方は教会でそういうことをいっている。」(p124~125)

このように、鶴見氏のインタビューのお話を活字におこしながら、
同時に引用として、鶴見氏の関連する本から、当のご自身の文章を引用しておりまして、
おやべりと本とのセッションみたいな感じで楽しめます。

ついでですから、この本の最初の方にある言葉も引用しておきましょうか。

「私の細君はキリスト教徒ですが、私はキリスト教徒になったことはありません。私は、キリスト教の定義は、you are wrong おまえが悪い、という主張だと思っている。イスラームも you are wrong だから、両方が you are wrongとなれば決着はなかなかつかない。それに対して私の立場は、基本的に、 I am wrong なんです。私の細君がyou are wrong といって、私が I am wrongといえば、その決着はどうなるんですかね(笑)。」(p14~15)

この言葉が、さまざまな角度から鶴見俊輔氏の人生を振りながら、むすびついてゆく一冊となっております。興味がある方は、この本にあたってください(笑)。
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外国人参政権。

2010-04-18 | Weblog
今日の産経新聞(2010年4月18日)の3面に
「永住外国人への地方参政権(選挙権)付与・・・
参政権付与には鳩山由紀夫首相、岡田克也外相、小沢一郎民主党幹事長ら政府・与党に推進派が多く、参院選後に推し進めかねないとの危機感が広がっている。・・」とあります。

渡部昇一著「国民の見識」(到知出版社)に
その外国人参政権付与が成立するとどうなるかという具体的な指摘がわかりやすい。
以下に端折ってその部分を引用。

「・・・では、外国人に参政権を与えている国はないのか。三国ある。スイス、オーストラリア、それにお隣の韓国である。韓国も以前は参政権を『国民固有の権利』と憲法で規定していた。それが突如、平成17(2005)年に永住外国人に地方参政権を付与するように法を改正したのだ。
突如であるだけに、その意図は見え透くというものである。
日本に住んでいるアメリカ人やイギリス人が参政権を要求しているわけではない。熱心に要求しているのは民団系の在日韓国人である。韓国の突然の法改正がその後押しであることは明らかである。事実、相互主義に立って在日韓国人に地方参政権を付与するよう、韓国は日本にプッシュしてきている。しかし、韓国の地方参政権を与えられる日本人は、多く見積もっても五十人程度である。それに対して在日韓国人は四十万人を超えるのだ。五十対四十万超で相互主義もへったくれもあるものではない。」

  さて、つぎは渡部氏の推測ということで語られております。

「なぜ韓国は日本の外国人参政権に執心するのか。ここから先はあえて私の推測ということにしておくが、韓国人が盛んに対馬の土地を買い占めていることはご存知だろう。日本はたとえば東京で暮らしていても、対馬に住民登録を移せば対馬の住民ということになる。対馬は人口が減少傾向である。民団系の在日韓国人がたとえば十万人、対馬に住民登録したらどうだろう。それが地方参政権を持っていたら、対馬の行政を牛耳るのはたやすいことである。事実上、対馬が韓国の領土になってしまうということだ。事実、韓国には対馬は元来韓国領だったという嘘を平気で言う人もいるのだ。竹島のように。
こういうこともある。島根県も人口が少ない。ここに十万人の在日韓国人が住民登録をしたら、と考えてみるがいい。島根県議会は、『竹島は島根県である』と決議している。これを取り消すことも不可能ではなくなるのだ。
外国人参政権は、このように日本を危うくする中身を具体的に含んでいるのだ。マニフェストにも記載せず、誤魔化しを重ねてやるようなものではない。もしやるなら国会を解散し、この問題を焦点にして民意を問わなければならない。
もちろん、民主党にそんなつもりはない。これほどの重要問題なのに、選挙は経ずに、マニフェストにも記載しないまま、外国人地方参政権付与の法案を成立させるつもりである。・・・」(p37~39)

さてっと、この本が出たのは平成22年2月25日。
実際の本文は「平成20年1月25日から平成21年11月20日にわたって、『昇一塾』ニュースレターとして配信されたものに加筆・修正をし、再構成したものです。」とあります。

ちなみに、産経新聞平成22年4月16日の一面トップは、その外国人参政権についての全国都道府県議会の状況が掲載されておりました。
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かたっぱしから。

2010-04-17 | 短文紹介
外山滋比古著「日本語の論理」(中公叢書)を読んで、
ああ、ここに外山氏のはじまりがあるのだろうなあ。
外山氏の文章のはじまり、はじまり。という感があります。

たとえば、
「思想の『体系』もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々と記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いて不朽のものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却のなかへ棄てさる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。」(p28)

などというのは、外山氏が最近書かれている「忘却の力」「忘却の整理学」へとつながる原型があるように感じます。それよりも、「日本語の論理」は、そのあとのp29へ行く場面が、私には印象的でした。

それはそれとして、
こんな箇所が気になります。

「そして、日本文学は圧倒的に抒情性、情緒性を主調とした文学になっている。ヨーロッパでは小説というものは、どちらかといえば演劇的性格をもつことが多く、とくに抒情的なものではないが、日本においては小説の中にヨーロッパの人が見たら詩ではないかと言うほどに抒情性が盛り込まれていないと、読者が満足しないのである。」(p78)

 そして

「論理をつくす言葉、対立を解消させる演劇的発想があれば、いくらか役立つかもしれないが、われわれの言語では、そういうときに話し合う言葉がない。」(p79)

という言葉が目に止まったのは、最近、井上ひさしさんが亡くなったからかもしれません。
2010年4月13日の読売新聞文化欄に山崎正和氏が追悼・井上ひさしさんとして「『せりふの演劇』貫いた同志」という文を寄せていたのでした。
こうあります。

「思えばこの半世紀近く、井上さんと私は互いに交叉せず、しかし遠く離れない平行線のうえを歩いてきたようである。彼は明治以来、日本最大の喜劇作家だったのにたいして、私は客席を笑わせるのが苦手の芝居書きであった。彼は大衆演劇の経験を持ち、舞台裏まで知り尽くしたプロだったのにたいして、私は学生演劇の経験もない机上の作者だった。ついでに彼は芝居とともに小説を書いたが、私は評論をもう一つの仕事にしてきた。・・」

ちなみに、この追悼文の最後は

「思いだして楽しいのは、ここ数年、読売文学賞の選考委員会で同席したことであった。いわば初めて二人は文学について語り合い、互いの価値観を問われたわけだが、驚いたことに劇作はもちろん評論伝記についても、二人の意見はほとんどことごとく一致を見た。抽象的な世界観ではなく、個別の作品の評価の点で共感できたことに、私は二人の友情の新しい未来を期待し始めていた。御逝去の報に接して、日本の劇界が天才を失ったことを嘆くのが第一義だが、この友情の芽を摘まれたことを悲しむ私情も、大方のお許しを頂きたいと願っている。」
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豆腐文。

2010-04-15 | 前書・後書。
外山滋比古著「『人生二毛作』のすすめ」(飛鳥新社)を読んだのです。
外山氏の「思考の整理学」を読んだ方が、いったい外山滋比古氏というのは、どのような方なのだろうと、興味をもたれたとします。そういう方に、現在の外山氏を知ってもらうのに好都合な一冊だと私は思うのです。
なんせ、親しい方とのおしゃべりを活字にされているので、普段の文章からうかがえない様子や姿を垣間見させていただけたりします。たとえば、外山氏の文では、奥様のことなど、まずは出てきませんが、このおしゃべりを活字にした本では、現在の生活のなかでの様子として、ちらりと登場したりするのです。ということで、外山氏の他の本を読まれている方にも、新しい側面を知ることの出来る本となっております。これが、文章とおしゃべりの違いなのかもしれないという外山氏についての興味深い一冊。

さて、本文中に「日本語の論理」について、p26で出てくるのですが、
この本のあとがきにも、こんな箇所がありました。

「・・・四十歳になったのを機に編集をはなれたが、おいそれと学究一筋というわけにもいかず、迷いながら自分の仕事の方向を模索して、あれこれほっつきまわった。そのひとつが『日本語の論理』だった。この本が出ると、さっそく槍玉にあがった。それがつい先ごろまで自分の編集していた雑誌の匿名批評だったからコタえた。匿名氏は、この本の著者は英語の論理も書かないで日本語の論理などにうつつを抜かして、けしからんといった調子だった。
そう言われては率直に引き下がれない。それのどこが悪いか、と居直った。これをきっかけに日本への関心を高め、半ば英文学をすてた。英文学者などにならなくて結構、われはわが道を行くと肚をきめたのである。行きがけの駄賃ではないが、調子にのって大学の英文学の命脈は長くて三十年だとよけいな口をきいて、同学のヒンシュクを買った。それから三十年、各大学が競って英文学の看板をおろしてしまった。いい気味だとは思わないが、いくばくかの感慨がないわけではない。・・・・
読み返してみると、この本はまるでシラフでクダを巻いているような趣きがあり、われながら、恥ずかしい。諸賢の寛容を乞いたてまつる気持である。
この本は、私がしゃべるのを旧知のライター浦野敏裕さんが文章化したものである。話は三回にわたったが、そのつど飛鳥新社社長土井尚道さん、同編集部工藤博海さんが同席、雰囲気を支えてもらった。」

さ~て、それでは、というのでまだ読んでいなかった外山滋比古著「日本語の論理」に手を出したのでした。『雑誌の匿名批評』がけしからんと書いたのが、今では歴史的経緯として興味深く読むことができます。その「けしからん」が現在も続いているかどうかは読んでのお楽しみ。
ところで、私が読後興味深く思ったのは豆腐文でした。
外山滋比古氏の文の最初から、もう豆腐文ではじまっていたのだと、あらためて再確認できた思いでした。ということで、「日本語の論理」に出て来る豆腐について。
ここに引用しておきましょう。

「喩えで言うと、ヨーロッパの言葉は煉瓦のようなもので・・・それに対して日本語は豆腐のようなものである。豆腐を煉瓦のように積み重ねればかならず崩れる。おいしい絹ごしなら、二、三丁重ねてももう崩れてしまう。・・・いろいろ豆腐の建築みたいなことを試みた。しかし、どうもうまく行かない。・・豆腐は豆腐らしく使う必要があるはずである。」(p76~77・中公叢書)

これ以来、ずっと豆腐文で通しておられる外山氏なんだなあと、あらためて思ったのでした。
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