誤解。
2010-04-30 | 詩歌
文庫の「自選井上靖詩集」をめくっていたら、
私に思い浮かんできた詩人は田村隆一でした。
ということで、田村隆一の話。
まずは、外山滋比古著「日本語の論理」から引用。
その「日本語の姿」の中の「誤解」という文に、こんな箇所がありました。
「子供は父親に向って改まってものを言うときの第一人称がはっきりしていないのが普通である。『私』というのは照れくさい。『俺』というのもまずい。『ぼく』は板につかない。いつもは主格の第一人称などをすっかり忘れてものを言っていてすこしも不自由しないから、第一人称が不安定である。急に第一人称を用いたりすると、そのこと自体に驚いて対話が不必要に緊張するということもある。変った言葉を使うと目の前にいるのが親子でないような気持になって、事態をいっそう深刻なものにしてしまうのである。
学校の教師と学生、生徒という、親密であるべき間柄においても、第一人称と第二人称の調節がうまく行かないために、思ったことが言えない。ひとつ歯車がくいちがうと、その断絶を埋める言葉がなくなってしまう。話し合えば話し合うほど溝はふかまるということになる。面と向っては思うことが言えないから、手紙で書いた方がよく気持が伝えられるということが、こういう至近距離における人間の間には案外多いものである。欧米の対話といったものを形式だけ持ち込んでみても、言語の性格がこれだけ違う以上、簡単に話せばわかるとは言えない。そう言えるにはいろいろな前提条件が必要なのである。」(p80・中公叢書)
さて、以前は詩集で読んでいた田村隆一の詩なのですが、
この前、講談社文芸文庫で田村隆一著「腐敗性物質」を読んだときに、
あれ、と思ったことがありました。
ここには、むしろ必ずといっていいくらい
人称が詩に登場しているのでした。
私・彼・僕・俺・きみ・わたし・あなた・われわれ・われら・ぼく・彼女・おまえたち・星野君・おれには・あなたが・ぼくたち・ぼくは・おれは・神が・ぼくら・君・すべてのものは・かれを・かれらは・きみに・ぼくには・彼女も・われらは・おれの・きみが・ぼくには・ぼくはきみのことが・ぼくも・きみの・おれたちは・おれたちが・カミさんが・おれなんざ。
そうそう。この文庫には収録されていないけれども
おまえさん おまえさん
というのもあります。そういえば田村隆一に「誤解」という題の詩集がありました。
というので、取り出してみました。装幀が堀内誠一。
うん。詩集の内容より、それをつつむ装幀のほうが印象に残っておりました。
う~ん。それでも、一人称二人称と、人称との関連で詩を思う時に、田村隆一の詩は忘れてはならない位置をしめていそうです。そういう意味で欠かせない詩人ということになるかとあらためて思うのでした。
さてっと、ここでもう一度、外山滋比古氏の「誤解」という文にたちもどってみます。
「・・・さらに、豆腐のような言語の日本語では演劇がうまく発達しない。・・われわれの頭は、そうでなくても言語におけるあいまいさに対して寛容になっている・・要点だけで全体を理解している。したがって、もし誤解がおこるととんでもないことになる。ことに親しい人間同士の間では、いつもたいへん大きな飛躍を互いに許しあっている。以心伝心、腹芸のごときものである。かりにそこで相手がこちらの要点をふみ外したりすることがあれば、その誤解を救うものはもう何もなくなる。・・・このようにして生じた親子の間の不和、誤解などというものは簡単には解けないのであって、論理をつくす言葉、対立を解消させる演劇的発想があれば、いくらか役に立つかもしれないが、われわれの言語では、そういうときに話し合う言葉がない。」
これから、あとが、最初に引用した箇所へとつながるのでした。
田村隆一の詩の初期作品に、演劇的要素が多く見られることを私は思いうかべるのでした。
私に思い浮かんできた詩人は田村隆一でした。
ということで、田村隆一の話。
まずは、外山滋比古著「日本語の論理」から引用。
その「日本語の姿」の中の「誤解」という文に、こんな箇所がありました。
「子供は父親に向って改まってものを言うときの第一人称がはっきりしていないのが普通である。『私』というのは照れくさい。『俺』というのもまずい。『ぼく』は板につかない。いつもは主格の第一人称などをすっかり忘れてものを言っていてすこしも不自由しないから、第一人称が不安定である。急に第一人称を用いたりすると、そのこと自体に驚いて対話が不必要に緊張するということもある。変った言葉を使うと目の前にいるのが親子でないような気持になって、事態をいっそう深刻なものにしてしまうのである。
学校の教師と学生、生徒という、親密であるべき間柄においても、第一人称と第二人称の調節がうまく行かないために、思ったことが言えない。ひとつ歯車がくいちがうと、その断絶を埋める言葉がなくなってしまう。話し合えば話し合うほど溝はふかまるということになる。面と向っては思うことが言えないから、手紙で書いた方がよく気持が伝えられるということが、こういう至近距離における人間の間には案外多いものである。欧米の対話といったものを形式だけ持ち込んでみても、言語の性格がこれだけ違う以上、簡単に話せばわかるとは言えない。そう言えるにはいろいろな前提条件が必要なのである。」(p80・中公叢書)
さて、以前は詩集で読んでいた田村隆一の詩なのですが、
この前、講談社文芸文庫で田村隆一著「腐敗性物質」を読んだときに、
あれ、と思ったことがありました。
ここには、むしろ必ずといっていいくらい
人称が詩に登場しているのでした。
私・彼・僕・俺・きみ・わたし・あなた・われわれ・われら・ぼく・彼女・おまえたち・星野君・おれには・あなたが・ぼくたち・ぼくは・おれは・神が・ぼくら・君・すべてのものは・かれを・かれらは・きみに・ぼくには・彼女も・われらは・おれの・きみが・ぼくには・ぼくはきみのことが・ぼくも・きみの・おれたちは・おれたちが・カミさんが・おれなんざ。
そうそう。この文庫には収録されていないけれども
おまえさん おまえさん
というのもあります。そういえば田村隆一に「誤解」という題の詩集がありました。
というので、取り出してみました。装幀が堀内誠一。
うん。詩集の内容より、それをつつむ装幀のほうが印象に残っておりました。
う~ん。それでも、一人称二人称と、人称との関連で詩を思う時に、田村隆一の詩は忘れてはならない位置をしめていそうです。そういう意味で欠かせない詩人ということになるかとあらためて思うのでした。
さてっと、ここでもう一度、外山滋比古氏の「誤解」という文にたちもどってみます。
「・・・さらに、豆腐のような言語の日本語では演劇がうまく発達しない。・・われわれの頭は、そうでなくても言語におけるあいまいさに対して寛容になっている・・要点だけで全体を理解している。したがって、もし誤解がおこるととんでもないことになる。ことに親しい人間同士の間では、いつもたいへん大きな飛躍を互いに許しあっている。以心伝心、腹芸のごときものである。かりにそこで相手がこちらの要点をふみ外したりすることがあれば、その誤解を救うものはもう何もなくなる。・・・このようにして生じた親子の間の不和、誤解などというものは簡単には解けないのであって、論理をつくす言葉、対立を解消させる演劇的発想があれば、いくらか役に立つかもしれないが、われわれの言語では、そういうときに話し合う言葉がない。」
これから、あとが、最初に引用した箇所へとつながるのでした。
田村隆一の詩の初期作品に、演劇的要素が多く見られることを私は思いうかべるのでした。