和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

本の居候(いそうろう)。

2025-01-24 | 書評欄拝見
今年がどうなるのか、分からないといえば、分らないのですが、
やっぱり、古本を購入しているだろうなあ。と思っております。
あっちこっち齧り読みをするのだろうなあ。と思っております。

河盛好蔵氏の文に

「しかし本というものは、僅か数行でも役に立てば、
 それだけで充分値打ちがあるのだ。といったのは
 確か津田左右吉博士だったと覚えている・・・

 隅から隅まで役に立つというような本は、たまにはあるだろう。
 しかしそんな本の使いかたを教えてくれるのは
 あまり役に立たないたくさんの本ではないだろうか。

 初めから、役に立つ本とばかりつき合おうとするのは、
 カロリーの高さだけで食べものを選ぶ浅はかさと同じである。

 本と楽しくつき合うためには、一生役に立ちそうに思えない居候でも、
 イヤな顔をしないでいくらでも養ってやる寛大さが必要である。
 本の居候ぐらいなんでもない。
 のみならずそれに目をかけて手もとに置いているうちに、
 どんな役に立つときがくるかわからないからである。   」
              ( 河盛好蔵 本とつき合う法 )

こうして、河盛氏の言葉は、断捨離を忘れさせ、
今年も古本を購入する気持ちに、拍車がかかる。

それにしても書評本というのは、ある種の毒気がありますね。
たとえば、肥料を大量に入れれば、根腐れしてしまうような、
かえって、読もうという気持ちが萎えてしまいます。
適切な本の配分が必要なのだと、この頃は思います。

  『 どんな役に立つときがくるかわからない 』

役立つ出会いが来るのだとそんな夢をみることに。
ということで、今年の初夢にかえたいと思います。
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『 すべてをまことに漫然と 』

2025-01-21 | 書評欄拝見
山本七平著「精神と世間と虚偽 混迷の時代に知っておきたい本」(さくら舎)
のページ最後にはこうありました。
「 本書は文藝春秋『諸君!』に連載の
     『 山本七平の私の本棚から 』(1982年6月~1985年8月)
      を再構成し、まとめたものです。・・・                      」

雑誌掲載ののち、さくら舎がはじめて単行本(2016年)化したことになる。
山本七平と本の間柄も、本の紹介(書評)の枕として、挿入されております。
たとえば、

「 趣味が読書だとすべてをまことに漫然と読みはじめる。
  小林秀雄も確か武者小路実篤氏の『論語』を評したとき、
  『 いつものやうに漫然と読みはじめ・・・ 』
  といった言葉があったように記憶する。

  私の記憶違いで、他の本の批評だったかもしれないが、
  この『 いつものやうに漫然と・・ 』という言葉を
  30年以上記憶しているところを見ると、
  何か共感を感じたのであろう。漫然と読んでいると、
  時々ふと読書をやめて他のことを考えている自分に気づく。 」(p33)

これは、京極純一著「日本の政治」をとりあげた文の導入部でした。
そのあとに、こうありました。

「 そしてまた我に返って読みはじめる。
  私はこういう読み方が楽しいのだが、
  『 日本の政治 』を読みはじめてすぐ感じたことは、
  『 まてよ、京極先生、『 老子 』の愛読者じゃないのかなあ 』
  ということであった。

  もっともこれは私の勝手な連想で、そうでないのかもしれない。
  だがそのような連想をしたのは、
  『 其の鋭を挫き、其の紛を解く 』(「老子」四章)という言葉を
  思い出したからである。この言葉はさまざまに解釈できるであろうが、
  『 一刀両断、ずばりとものごとを割り切るような鋭さを挫き、
    もつれた糸を根気よく解くほうがよい 』の意味、
  諸橋轍次(もろはしてつじ)氏はこれを
  『 世の中の文化や文明は、条理の整った一つの複雑さ 』を持つから、
  根気よくこれを解いていくのがよいとした、と解説されている。
  そして本書はまさに、西洋文明と中国文明と日本文化が
  『 糸のもつれのような紛雑 』(諸橋氏の言葉)さでからみあっている
  日本の政治に『 其の紛を解く 』という形で迫っているからである。」
                               (p34)

あとすこし、引用してみます。

「 ・・・『あとがき』には次のようにある。
  この書物の目的は『日本の政治』のいくつかの側面について
  記述し説明することであって、
  日本の政治の現在について評論し、
  日本の政治の将来について唱道(しょうどう:先に立って唱える)
  することではない。

  教室で授業を聞き、試験を受け、単位を取り、
  卒業しなければならない立場にある学生・・に対して、
  教師が一方的に評論と唱道を提供することは、
  マックス・ウェーバーを俟(ま)つまでもなく、フェアでない。

  しかし、人間交際のなかで、言葉が認知・評価・指令の三側面を
  多少とも共存させ、表現が報道・解説・評論・唱道の四側面に
  多少ともわたることは、避けがたい事実である。
  この点を考え、この書物のなかでは評論、とくに唱道
  にわたることを、気のつく限り、避けたつもりである。 」(p35)

この本の目次をひらくと、目次の見出数から判断して、
すくなくとも22冊の本が紹介されているようです。
これから、辻善之助著『日本文化史』を読みはじめようとする私には
この推薦本の並びは目の毒というもの。私は京極氏の本は読まない
だろうけれども、『 すべてはまことに漫然と 』読みはじめる
ということが、私にもけっしてないとは言えないので引用しました。
 


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横尾忠則の書評。

2024-12-30 | 書評欄拝見
え~と。どこから話したらよいのか?

新宿区西早稲田の古本屋『 浅川書店 』から本が届く。
ネット『日本の古本屋』で、注文したら安かったので注文。
届いた古本は、本の隙間を新聞紙ではさんでありました。

そういえば、と思うのですが、意外に新聞紙でも書評欄を
包み紙として使用され入れこんでくれる古本屋さんがある。
浅川書店さんも、そうした古本屋の気づかいを感じました。

さて、本題。それは朝日新聞12月14日(土)の読書欄を
包み紙として使っておりました。私は朝日新聞は未購読。
そこに、横尾忠則の書評が載っておりました。

思い出すのは、画家の宮迫千鶴さんの書評でした。
幸田文の『崩れ』だったか『木』だったかの書評をされていて、
それで、新刊を買ったことがあります。
だいぶ前の話なので、その時の書評もどこかに
はさんだまま、忘れております。

今回の横尾忠則氏の書評も、輪郭がはっきりしていて、
その書きぶりが、直接伝わってくるようでした。

書評されている本は『民藝のみかた』(作品社)です。
はい。この書評を読めてラッキーでした。
それでは、書評から適宜引用しておくことに。

「 今日の現代美術ブームの背景には、作家の署名を必要とする
  自我表現としての個人主義があるように思える。・・  」

これが横尾さんの書評のはじまりでした。

「 ・・・僕が地方で幼年時代を過ごした頃は
  土俗的産物として民藝が生活環境を支配していたように思えた。 」

「 ・・・民藝はどことなくうさん臭く、この時代から排除されており、
  土俗的環境からいきなり西洋近代主義に洗脳されたために、
  僕の内部の民藝的土俗性を追放せざるを得なかった。
  が、わずかに残った土俗的尾骶骨(びていこつ)によって、
  あの時代の僕の演劇ポスターが生まれた。・・   」

そして、本の内容にはいっているのですが、
それは、わかったようでわからないから省略。
最後に、『民藝作家の濱田庄司は作品に署名を入れない』として
書評の結論が語られるのでした。その最後を引用。

「 今日の現代美術にない、もっと言えば
  現代美術が無視している民藝の根である人間の
  魂を反映している霊性、それによって現代美術の
  先に立ったのではないだろうか。  」


おいおい。『魂を反映している霊性』って何?
そんな突っ込みを入れたくなるのわけですが、
その一方で、やはり気になる。ということで、
新刊定価から3割引きとなった古本を注文する。

『民藝のみかた』ヒューゴー・ムンスターバーグ著田栗美奈子訳
 ( 作品社・2024年11月15日初版発行 )

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庄野潤三全著作案内から

2024-12-19 | 書評欄拝見
私の事だから、興味はせいぜい一ヶ月。
庄野潤三の本を選ぶ楽しみ。
夏葉社の「庄野潤三の本 山の上の家」(2018年発行で2019年第三刷)。
この本の最後に「庄野潤三全著作案内」が載っています。
写真は少ないのですが、精選されたのだろうなあという貴重な写真が
載っています。うん。庄野潤三の本が好きなんだ。というのが、
凝縮されていて、それがさりげなく一冊にまとめられているという手応え。

さてっと、『 庄野潤三全著作案内 』をめくっていると、
私は、初期の作品よりも、後半の作品が好きなのだろうと、
自分の好みを教えられるような気がしてきました。

そうすると、初期から後期へどのような変遷をたどったのか、
きっかけが気になるわけですが、まあ、それはそのままにして、
とりあえず、著作案内から、古本を注文して、
それが届きはじめました。

  庄野潤三著「ワシントンのうた」(文芸春秋・2007年)
  庄野潤三著「小えびの群れ」(新潮社・昭和45年)
  庄野潤三著「野菜讃歌」(講談社・1998年)


はい。ここは、『全著作案内』から、言葉をひろってみます。

『小えびの群れ』については、こうあります。

「ここではどうしたって『 星空と三人の兄弟 』について書きたい。
 ・・大半が『こわがることをおぼえようと旅に出た男の話』という
 グリム童話の紹介と解説にあてられていること、八割以上が、
 庄野潤三によるグリム童話の周到なリライトになっていて・・・  」

はい。庄野潤三とグリム童話のつながりに惹かれて古本注文。

『 野菜讃歌 』についてはこうありました。

「 その日のテーブルになにが並んだかを書く、
  『 おいしい。 』と書くことも忘れない。
  それだけで、どういうわけか、こちらも食べたくなる。 」

「 小沼丹への追悼文や、おなじみの『 ラムの「エリア随筆」 』など。
  また、・・・日本経済新聞に連載した『 私の履歴書 』が
  収録されている。庄野潤三入門にも最適な一冊。 」

『 ワシントンのうた 』の案内のはじめはこうでした。

「 最後の連載。夫婦の日常ではなく、
  『 これまでとり上げたことのない 』幼年時代から
  『 夕べの雲 』のころまでを描く自伝。
  『 文学交友録 』の文体とは異なり、
  晩年の連作のスタイルで、ゆったりと描かれる。・・・  」


『 知る人ぞ知る 』という作家の後半の作品だからか、
この古本の3冊は、いずれも初版が届きました。
はい。楽しみにして読みます。





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不適切報道大賞

2024-12-09 | 書評欄拝見
ついネットで、あれこれと見ていると要約をしたくなる。
今年の流行語大賞は『 ふてほど 』なのだそうですが、
しっくりくるのは、『 不適切なテレビマスコミ報道 』
というのが一番納得感がある意味になるなあと思えます。
こういう意味合いを重ね合わせることが出来る流行語は、
貴重であります。ふところの深い味わいが感じられます。

ところで、大賞には、選考委員という方々がいる。
いったい、選考委員が選ぶに足る作品がテレビや
マスコミにない場合は、困るだろうなあとおもう。

そんな困った話をあげつらうより、これぞという作品に
めぐりあった選考委員の話を、ひとつ引用してみたい。

ということで、
庄野潤三全集第9巻の月報9。
そのはじまりは与田準一氏でした。

第2回め(昭和47年度)の赤い鳥文学賞の選考委員のひとりが
与田準一氏。ここには候補作品を読んでいる与田氏がおります。

「 ・・・庄野潤三氏の『 明夫と良二 』を読んだ私は、
  こんどの賞はこの作品だ、と思いました。
  いや、読みすすむうち、もう三分の一あたりから、
  候補作品読みといったお役め読みを忘れて、
  純粋な読書の楽しみにひたっていたというのがほんとうです。

  ・・・『 明夫と良二 』の文章は平明です。
  一見、平明です。ですが、味読には一種の咀嚼力がいります。
  それは明晰な強さを持つ文章だからです。
  明晰というのは無駄がないということです。

  ・・・このような自律的文章は、他の作品に見られなかったことでした。

  ・・・根本的には庄野さんの小説の文体と変りはない、
  いやそれそのもので庄野さんは年少読者と付き合おうとしている。
  平明だが咀嚼力がいるという、いっぱん的には
  児童少年文学作品に欠けていた要素がここにあるという、
  確信というか興奮というか、そのような不思議な時間帯のなかに、
  ときに私は立ち止まり、また移りゆく状態でした。  」


はい。何やら選考委員冥利につきる出会いがあったようです。
与田氏はさらに続けるのでした。

「 ひとつもむつかしいものがありません。
  むしろ読者私どもの忘れてかえりみずにいた日日(という不思議)が、
  私どもの内部に眠りこんでいたものと共に甦る、
  とでもいったらいいのでしょうか。
  今は、大人も子どももなべてこの退色してとどまらない
  日日の処在にじつは困っています。・・・・・      」


さらに、与田氏は、同じ選考委員の巽聖歌氏に電話をするのでした。
うん。最後には、その箇所を引用。


「 聖歌は既に承知していて、
 『 すばらしく、長い長い詩だね。 』などと応じたものでした。 」


はい。選考委員と作品との出会いというのは、そうそうあるものじゃない。
そうですよね。


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あとによろこびが残る。

2024-12-08 | 書評欄拝見
庄野潤三著「明夫と良二」を読んだら、その後に、
何というか、著者の他の本を読む気がしなくなる。
それは何かこの一冊で充実した満足感に包まれる。

まあ。このようにいつも本を中途半端に読む私がいる訳です。
けれども、この味わいは何なのかというのは、知りたくなる。
この満足感というのは、いったいどこから来るのだろうかと。

文庫だけを並べた本棚が家にあり、つい買ったはいいものの、
ついぞ、読み通したことのない文庫がそこにあるので滅入る。

たしか、と思って調べてみると、ありました。
庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文庫・昭和46年初版で昭和54年10刷)。
はい。読もうとして買ったはいいものの、そのまま本棚に眠ってました。
この文庫のカバー装画・畦地梅太郎で、面白い絵です。
この文庫の解説は「庄野潤三の文学」と題して小沼丹。

はい。次に読むのはこの文庫にしようと思いながら、
解説を読み始める。そのはじまりは

「 庄野の随筆集『 クロッカスの花 』のなかに、
  『 アケビ取り 』と云う文章があって、
  男の子の友だちの松沢君と云う子供が出て来る。

 『 色が白くて、まんまるで、静かで、いつも悠々としている 』。
  デブチンダヌキと云う仇名(あだな)があるが、
  生れつきおっとりした旦那の風格を具えていて、
  学校の帰りにズックの鞄をかけたまま、坂道の上に立って
 『 何ということなく、あたりの景色を眺めている 』のだそうである。

  これを読んだら、いかにもそんな子供がいる
  と云う実感があって面白かった。・・・・      」(p269)

はい、小沼氏の文は、こうしてはじまっておりました。
そのすこし後に、庄野氏の言葉を引用しておりますので、
そちらも引用しておきます。

『 私はおかしみのあるものが好きで、
  いつもそういうものに出会わないだろうかと待ち受けている。
  道を歩いている時でも、電車に乗っているときでも、
  そんな気持ちでいる。それで何かあると、満足する。

  それは、どういう風におかしいのか、いってみろといわれると、
  おそらくひとことも返事が出来ないような性質のものである。

  何でもないといえば、何でもない。
  そんなことが、どうしておかしいといわれても
  仕方のないような、ごく些細なことである。

  しかし、私はそういうものに出会うと、
  自分の心がいきいきするのを覚える。
  あとによろこびが残る。       』 (p270)


はい。この解説に背中をおされるようにして、
つぎは庄野潤三「夕べの雲」を読んでみます。
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格別な歴史へ

2024-10-21 | 書評欄拝見
9月末に、古本購入した「桑田忠親著作集」全10巻(秋田書店・昭和53年)。
そろそろ一ヶ月になります。今まで私の興味というのは、
そのくらいのパターンで、他へと移ってしまうのでした。
とりあえずは、各巻末の解題だけでも読んでおくことに。

はい。そうして、興味の潮がひいても、また満ちてくる機会を待つことに。
最近は、そんなことを思うようになっております。
そんなことを思っていたら、浮かんできた書評がありました。
それは、書評家向井敏氏が、中野重治著「本とつきあう法」を
とりあげた箇所でした。

「 『本とつきあう法』は昨今しきりに刊行される読書論の
  はしりともなった本だが、・・なかに
  芳賀矢一・杉谷代水の共著になる
 『 作文講話及文範 』 『 書簡文講話及文範 』に触れた章がある。
  文章と手紙の書き方を説いたこの古い二冊の本のために、
  中野重治はその美質を簡潔的確に評したうえ、
  書評史上まれに見るすばらしい言葉を捧げた。・・・・

    ああ、学問と経験とのある人が、
    材料を豊富にあつめ、手間をかけて、
    実用ということで心から親切に書いてくれた
    通俗の本というものは何といいものだろう。     」

      ( p143 向井敏著「本のなかの本」毎日新聞社・1986年 )


ということで、桑田忠親著「戦国武将の手紙」のはしがきの
はじまりを最後に引用しておきたくなります。


「 学生時代から歴史の書物や歴史小説を耽読し、
  特に日本の歴史に深い興味を抱いていた私は、
  大学を卒業して、東京大学の史料編纂所に勤め、
 『大日本史料』や『豊太閤真蹟集』や『古文書時代鑑』の
  編纂に従事するにつれて、日本歴史に対する認識を
  新たにせざるを得なくなってきた。・・・・・・・・

  ・・歴史の材料には、さまざまな種類のものがあるが、
  その中で、古文書と古日記が一番確実な史料だということも理解できた。

  それ以来、学者の評論や作家の時代小説を読んだり、
  物語、伝記、記録などをひもとくよりも、
  古日記を読んだり、
  古文書をあさったりするほうが、
  ずっと楽しくなってきた。

  それによって、歴史の真相に、より以上触れられる
  可能性を見いだしたからだ。たとえば
  麗々しく巻物にして桐の箱に納めた系図よりも、
  襖の下張りにされた古い手紙のほうが、
  史料的価値が遥かに高い、ということを教えられたのである。

  ところで、・・・古文書は、数が多いし、新たに発見される
  可能性にも富んでいる。その点、古文書、即ち、
  歴史上の人物の書いた手紙を、読み解いたり、
  新しいものを発見したり、調査したりする楽しさは、格別である。
  体験した人でないと、その味はわからない。・・   」
     ( p187 桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」 )


はい。とりあえず各巻凾入りの古本の真新しいページをひらいて、
各巻の解題だけは読みました。私のはじまりは、ここまで(笑)。

ということで、この全集の第一巻の解題の最後を引用して
おわることに。

「 このようにして、桑田史学の世界は、
  古文書の研究を基盤とした史学研究であり、
  その研究成果を、わかり易い文章として、
  より多くの読者の心を動かそうとするものである。
  
  つまり底辺を広くし、全体の水準を高め、
  以て日本文化の発展に寄与しようと意図したものである。 」

     ( p349 著作集第一巻の解題・米原正義「桑田史学の世界」 )



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大きな政治や人間を語る

2024-10-04 | 書評欄拝見
角川文庫の桑田忠親著「定本千利休」をひらいていたら、
信長の死が6行で語られておりました。

「 武将信長の死は、あまりにも唐突であった。それは、
  彼がその前後に僅か70余人の小姓、女中衆をついて
  洛中の本能寺に宿泊したことに起因するのであるが、

  彼のそうした行動も、世伝のごとき武弁としての
  不覚さからきたものでなく、一介の数寄者(すきしゃ)として、
  博多の富豪島井宗叱(そうしつ)との契約を履行せんとし、
  永年収集した自慢の名物道具のお開きにうつつを抜かしたためであった。

  火焔に包まれた本能寺の一堂に、東山以来の大名物数十色と
  終わりをともにした信長は、天下一の数寄者たるを
  辱めなかったといってよかろう。 」(p58)


うん。テーマが千利休なので、これ以上信長を記述すると
どんどん脱線してゆきかねなかったのでしょう。
けれども、これでは読者としては物足りないわけでして、

ここは、桑田忠親著作集全10巻を古本で購入することにしました。
日本の古本屋より、香川県高松市の不二書店からネット購入。
全10巻揃い。5500円+送料1380円=6880円なり。
とりあえず、一冊688円で買ったということです(笑)。

はい。全巻凾入り、帯つきでした。
その帯を見くらべていたら、第4巻織田信長の凾帯だけが
ほかと違って、奈良本辰也さんの文が、帯に載っておりました。
うん。ここは、まずもってその帯の言葉を引用しておくことに。

「 桑田さんは永年にわたって東京大学の史料編纂所におられた。
  即ち、わが国に於ける最多の史料に囲まれて今日までを過ごして
  きた方である。桑田さんが、なかでも深い関心を持たれたのは
  戦国から安土・桃山にかけての時代であり、そこに輩出した
  武将たちの生きざまであった。

  織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など日本の歴史上に於て、
  燦然たる光りを放つ英雄たちはもちろん、彼らと交渉のあった
  茶人たちまでが、その膨大な史料によって浮び上ってきた。いや、
  別の言葉で言えば、その人物の全体像をふくらませたのである。

  私もこれまで、戦国時代をみるときは、桑田さんの本に
  随分とお世話になった。確実な史料で、寸分の澱みもなく
  叙述された著作は安心して頼ることが出来るからである。

  歴史という学問は綜合の学問である。そして
  それは大きな政治や人間を語る学問だ。

  その桑田さんの著作が集められて世に出るという。
  私の大いに期待する所以である。 」
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清水幾太郎著「流言蜚語」

2024-09-21 | 書評欄拝見
清水幾太郎著作集2(講談社)の月報は藤竹曉氏。
そこにこんな箇所がありました。

「『流言蜚語』は戦前の日本社会学が生んだ名著である。
 『流言蜚語』の基礎にはイメージの問題がある。

 先生の独創性は、流言蜚語をアブノーマルなニュース
 としてとらえた点に求められる。・・・・・

 本書は二・二六事件直後に発生した流言蜚語の氾濫をテーマに、
 先生が『中央公論』と『文芸春秋』に同時に寄せた二本の原稿を
 もとにして、一気に書かれた。

 もちろんその背景には、先生が中学三年生のときに遭遇された
 関東大震災における流言蜚語の経験があったことは言うまでもない。

 『流言蜚語』が読者を摑まえ、最後まで離さない魅力は、
 言論が不自由になってきた社会状況のもとで、
 流言蜚語の分析に託しながら、精一杯の抗議をなさる
 先生の姿が本書の隅々にまで漲っているからである。 

 『流言蜚語』は先生の学術的著作の中ではもっとも文学的
 とでも呼べるような社会学的に美しく、しゃれた表現が
 ちりばめられている点でも異色である。・・・・     」

はい。途中で引用をやめときます。
私には清水幾太郎著「流言蜚語」は、はなから歯が立たないので、
パラパラ読みに終始しているのですが、そうか
『もっとも文学的とでも呼べるような社会学的に美しく、しゃれた表現』
というのは、たとえば、こんな箇所かもしれないと
一人合点する言葉を最後に引用しておくことに。

「・・完全に嘘であるにも拘わらず、
 現実以上に真実であるやうな流言蜚語があるのである。
 優れた芸術が現実よりももっと現実的であるやうに、
 優れた流言蜚語といふものがあるとするならば、それは
 現実に与へられてゐる以上の真実味を深く湛へたものでなければならぬ。
 ・・・・優れた芸術が現実以上に真実を伝へるといふことは
 何人も否定しないであろう。
 併し学問もまた同じやうな性質を持ってゐないであろうか。
 ・・・・   」( p30 著作集2 )

はい。さわりの箇所だけなのですが、引用してみました。
まあ、私としては、これ以上読み進められそうもないし、
とりあえずは、ここまでにしておきます。
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例えば『民主主義』

2024-03-03 | 書評欄拝見
本を読んでも、積読で、さらっとしか読めない私にとって、
書評の楽しさは、本文へといざなう貴重な入口となります。

といっても現実に、さまざまな書評を読めるわけでもなく、
身近な書評欄だけを窓口に『井の中の蛙』で満腹してます。

さてっと、産経新聞2024年3月3日(日)の読書欄拝見。
そこから、適宜引用してゆきます。

「話題の本」欄では、外山滋比古著「新版思考の整理学」(ちくま文庫)を
紹介しながら、最後をこうしめくくっておりました。

「 著者は特別講義で『自分にとって
  【意味のあるもの】と【意味のないもの】を区別し、
  意味のないものを忘れていく。ここに個性があらわれる。
  これはコンピューターには、できない機能である  』
  と語る。・・・このメッセージは重く響く。」( 海老沢類 )

え~と。花田紀凱(かずよし)の「週刊誌ウォッチング」。
ここは、はじまりの2行を引用。

「 週刊誌の不倫報道にはいささかうんざり。
  わが身を省みて言え。・・・・     」

はい。書評欄にとりあげられていて気になったのは、
福田恆在著「福田恆存の言葉」(文春新書)でした。
そのはじまりは

「 戦後日本を代表する保守派の論客、福田恆存(1912~94年)は
  著述の他に、多くの講演も行った。本書は昭和51~52年になされた
  8回の連続講演録の初の活字化だという。
  没後30年の今年に出るべくして出た一冊といえる。・・・ 」

うん。せっかくなので、もうすこし引用。

「 例えば『民主主義』『平和』『人権』といった
  明治期にできた『ネオ漢語』を論じる第5章
  『 言葉という道具 』は必読だろう。

 『 (日本人に意味が染み込んでいないネオ漢語があったからこそ)
    近代化も成し遂げられたけれども、
    そのためにまた混乱も起きている(中略)
    反省期、調整期にそろそろ入らなければならない  』と説く。


ちなみに、この本の評者は、文化部の花房壮とあります。
産経新聞1月28日(日)の「ロングセラーを読む」で
福田恆存著「私の幸福論」(ちくま文庫)を紹介していたのも
( 花房壮 )と最後にありました。
うん。これからは、この方の名前を見たら書評を読むことに。

もどって、今日の産経書房の『 聞きたい。』欄には
田原史起著「中国農民の現在」(中公新書)がありました。
そのはじまりは

「 急速な経済発展を遂げた中国では都市と農民の間で
  格差が生じ、都市への出稼ぎに行く『農民工』や
  両親が出稼ぎ中の『留守児童』がしばしば話題になる。 」

「 農民は特権的な都市民と自分たちを引き比べるより、
  村内部での格差を気にすると指摘する。 」

あとは最後を引用。

「 2012年に習近平政権が発足した頃から外国人への警戒が強まり、
  『 ホストファミリーに迷惑をかける可能性 』が生じた。
  18年を最後に現地を訪れていないが、
  『 資料や文献を読んで研究することはできる 』。
  インドの農村にもフィールドを広げ、比較研究を行っている。 」
                        ( 寺田理恵 )


はい。産経新聞の日曜日の書評欄が楽しみになりました。




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『読んで損はない』

2024-01-31 | 書評欄拝見
私の本読みは、パラパラ読み専門。
それも、最初から読まずに、勝手口から読み始めるような変則。
それでも、印象に残る箇所があれば、そこだけ読み返してみる。
その本に、印象深い箇所がたび重ると、あらためて読み始める。
うん。最近はそんな感じの読書をしているような気がしてます。


せっかく、藤原智美著「文は一行目から書かなくていい」(プレジデント社)を
ひらいたので、パラパラとめくってゆくと、こんな箇所がある。

「 推敲は必ず紙にプリントアウトしてから行います。  
  不思議なものですが、同じ文章にもかかわらず、
  紙で推敲すると画面で見た場合と比べて何倍もの粗(あら)が見えてきます。・・・
  文章そのものの稚拙さも紙のほうがはっきりと浮かび上がる気がします。」(p128)


あれれ~。こうしてブログに打ち込んでいると、すっかり忘れてしまってますが、
たしかに、文章を書こうとした場合に、私も紙にプリントアウトして推敲します。

うん。読む。打ち込む。書く。というのを
『推敲』という視点から考え直してみたい。
まあ、そんなことがふと思い浮かびました。

そういえば、ちっとも読まずにいた積読本にも、
あらためて、光をあてる一手間作業が必要かも。
書評を読んでいると、推敲とはちがうのですが、
新しく本を掘り返してくれている気になります。


くだくだ能書きをつらねました。こんな書き出しは、
はじめから読まなくてもよい見本みたいなものです。

福田恆存著「私の幸福論」(ちくま文庫)というのを
だいぶ以前に購入してありました。私のことですから、
おそらく、何かの書評で興味をもって、購入したはず。
ですが、ひらかずそのまま本棚にしまってありました。

産経新聞の読書欄「産経書房」(2024年1月28日)の
『ロングセラーを読む』で「私の幸福論」が取り上げられてました。

はじまりの方にはこうありました。

「・・・令和の時代まで読み継がれている。
 それが今回紹介する福田恆存(つねあり・1912∼1994年)の
 名著『私の幸福論』だ。平成10年にちくま文庫になり、昨年で23刷に。・・・」

はい。この文の最後が引用しておきたくなるのでした。

「 ・・・腹が決まったとき、
  やるべきことをやりきったとき、
  人は凛とした、落ち着きを覚えるはずだ。
  多くの情報に翻弄されがちなSNS全盛時代、
  自分の道を一歩踏み出すためにも読んで損はない。 」


はい。福田恆在氏の文は、以前に読もうとしたのですが、
私は読めなかった。読めなくても名前は気になっていた。
おそらくそこで簡単に読めそうな文庫『私の幸福論』を、
買ったのだろうと、忘れていた購入動機を思うのでした。

この機会でもって未読本を既読本へと置き換えるチャンス。
未読なので読書本の推敲をしているような気分になります。






 
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書評の中の財務省。

2024-01-27 | 書評欄拝見
月刊Hanada令和6年3月号の書評欄をひらく。
「堤堯の今月の1冊」は
田村秀男×石橋文登著「安倍晋三vs財務省」(育鵬社)。
うん。どうせ私のことだから興味があっても読まないだろうと思っていた。
気になっていたけれどの一冊。それを書評で語っていただける有難さ。
うん。後半のここを引用。

「たとえば東日本大震災のおり、
 民主党の菅直人(かんなおと)政権は
 復興特別所得税(所得税の2・1%を徴収)を定めた。

 国家的規模の大災害なら、国債発行(国の借金)
 をもって対応するのが常識だ。

 なのに、民主党政権は被災者にも課税した。
 被災者にすれば踏んだり蹴ったりだ。
 振り付けたのは財務省で、このとき安倍(晋三)の胸に
 財務省への疑念が生じたという。

 昭和恐慌を高橋是清(これきよ)は国債発行で乗り切った。
 その高橋は大蔵(財務)では忌み嫌われている。
 高橋は軍事費削減を主張し、2・26事件で最も残酷な殺され方をした。

 高橋は日露戦争のおり、戦時国債をロンドン市場で売りさばき、
 戦費を調達した戦勝の大功労者だ。・・・・・

 救国の功労者を理解できない。令和のいま、
 財務省は安倍晋三を死んでもなお忌み嫌う。
  ・・・・・・・

 いままた岸田政権は財務省べったり。
 防衛費43兆円を増税で賄う。
 防衛は国のインフラだ。
 なのに建設国債で賄うとは考えない。
 これも財務法第四条の縛りから来る。 」(p165)


うん。読まないとしても、
対談で分かりやすそうだし、この本買っとくことにします。
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本への『ほめ言葉』

2023-11-30 | 書評欄拝見
落語関連の本を読みたくなる。
さっそく思い浮かんだ本が2冊。
まだ、読んでいないので誰かの『ほめ言葉』を
まず、聞いてみることに。

そういえば書評っていうのは、
本への『ほめ言葉』ですよね。
『けなし言葉』なら読まない。
本をほめるから読みたくなる。

ということで落語本で気持ちよくほめられている2冊。

① 安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」(ちくま文庫・1993年)
② 桂米朝著「落語と私」(文春文庫・1986年)

①には、福原麟太郎氏の4ページの文が付いている。
そこから引用。

「・・私は永の安藤ファンで、『落語鑑賞』の初版が出たとき、
 それはいま奥付で見ると昭和27年11月15日らしいが、
 実に感嘆して、たちまち全巻を読み上げ、ぼくが死んだら、
 この本をお棺の中へ入れてくれと、家の者に言った。
 それは家内も覚えているし、私も覚えている。・・・  」(p483)

うん。私の興味も、やっと落語関連本に及びました。
それならばと、読みたい本が安藤鶴夫と桂米朝の2人。

②の巻末解説は矢野誠一。
あれ、ここにも安藤鶴夫が登場しておりました。
うん。その箇所を引用してみることに。

「・・おつきあいのできた桂米朝さんを東京に引っぱり出して、
 紀伊國屋ホールで『桂米朝上方落語会』というのを催して・・

 なにしろ、プレイガイドの女の子が、持ちこんだポスターを見て、
 『ドカタ落語って、なんですか?』といったのだから、
 上方落語も東京では未だしの時代だった・・・・

 いまは亡き安藤鶴夫さんが、『地獄八景亡者の戯れ』をきいて、
 『 大阪にも、素晴らしい落語家がいるね 』と、
 感動のあまり声をふるわせていったのを思い出す。・・・・ 」(p220)

「 そんな活字による『桂米朝作品群』のなかにあって、
 この『落語と私』は、ひときわすぐれた名著で、
 桂米朝の著作ばかりか、こと落語について記された
 多くの類書を圧する存在のものである。

 10年前。『ポプラ・ブックス』の一巻としてポプラ社
 から出たとき一読して、すぐそう思った僕は、
 江國滋と三田純市に電話をかけたものである。

 10年ぶりに再読して、あのときの新鮮な印象が
 少しも失なわれていないことにおどろかされた。・・・ 」(p221)

うん。最後に、向井敏さんの『落語と私』の書評を引用しておきます。

「体裁はジュニア向きでも内容はきわめて高く、
 眼の肥えた大人にこそ読んでほしい本がある。・・・・

 桂米朝の『落語と私』。
 中学生向けの啓蒙書として書かれ、
 文体はやさしく語り口は具体的、

 気軽に読めるように工夫されているが、
 落語という話芸の本質をこれほど的確に把握し、
 鮮明に説いた本はざらにあるものではない。

 わけても注目されるのは、落語を単なる伝統芸能としてでなく、
 生きた通俗社会学としてとらえたことである。

 落語にはほんとうの悪人はめったに出てこない。
 といって、世人の鑑となるほどの大人物も見当らない。
 みんなそのあたりにいそうな人ばかり。

 つまり、落語というのは
『 大きなことはのぞまない。泣いたり笑ったりしながら、
  一日一日がぶじにすぎて、なんとか子や孫が育って
  自分はとしよりになって、やがて死ぬ 』と観念した、
 ごくふつうの世間を描く芸であることを桂米朝は強調する。 」


はい。向井敏さんの書評の半分を引用してしまいました。
さあ。この2冊。私にとってやっとこ読み頃を迎えました。
コメント (2)
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書評百年のスタンス。

2023-11-16 | 書評欄拝見
朝日文庫の鶴見俊輔著「期待と回想 語り下ろし伝」を
せっかく古本で買ったので、本文をめくってみる。

その第9章「編集の役割」だけを読むことに。
なんてね。私はこの章だけで満腹でした。
9章の最後を引用することに。

「私は本を読みながら青線・赤線を引くんです。
 それが編集だという考え方もできるでしょうね。
 そうすることでもう1つの本をつくっている。

 スキー場で上から下を見下ろすと、凸凹が見えるでしょ。
 その凸凹をどうやって走り抜けるかを考えるように、
 本を読むこともその凸凹を走り抜けることなんだね。

 あらゆる言葉が均等に並んでいたら、本なんて読めるわけないんです。

 ・・・・もとのテキストのどの箇所をこう解釈したと明示すれば、
 ゆがめたということにはならない。
 たとえゆがめたとしても、ゆがめた証拠はのこる。 」(p526~527)

はい。目からウロコ。
「 本を読みながら・・・線を引くんです。それが編集だ
  という考え方もできるでしょうね。 」

はい。そういうことから編集がはじまっているんだ。
うん。鶴見さんの語りの身近さワクワク感がでます。

書評についてもありました。
新聞の書評委員をしていた経験を話したあとでした。

「・・問題は時間なんです。
 本が出てから、二週間のあいだに書評を書かなければならないでしょう。

 読んでみて重大な見落としは、10年、20年の幅をもって現れるんです。
 その期間に重大な見落としがあったといえるような、
 そんな自由を与えてくれる書評欄がほしいですね。・・」(p523)

「原因は時間だと思います。
 百年の幅をもって書評をしてもいいという欄ができればいい。

 それも旧著発掘だけじゃなくて、新解釈を混ぜたようなかたちで。

 いまの短い書評でも『この本おもしろいよ』と
 責任をもっていえますが、その程度のことです。・・ 」(p524)


なんだか、70歳からの読書の腰の据え方を聞いているようです。
津野海太郎著「百歳までの読書術」を読んでるような気になる。
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カルチャーの語源。

2023-09-23 | 書評欄拝見
カルチャーの語源は『耕す』だと教わったことがありました。

井波律子著「書物の愉しみ」(岩波書店・2019年)を
パラパラとめくっていたら
堀田百合子著「ただの文士 父、堀田善衛のこと」(岩浪書店)の
書評がのっていました。
そこから引用。

「堀田善衛は『 原稿を書くということは、
 原稿用紙の升目に一文字ずつ田植えをしているようなものだ 』
 と言いながら、深夜、トントン、トントントンと万年筆の
 音を響かせて、ひたすら原稿を書き綴っていたという。

 そんな父の姿を幼いころから見てきた著者が、
 ときにユーモアをまじえつつ描く素顔の堀田善衛は、
 著者自身『 文句言いでもなく、気難しいわけでもなく、
 コツさえつかめば扱いやすい家庭人です 』と、

 娘ならではの率直さで述べているように、
 迫力あふれる著作とはうらはらに、ノホホンとした風情があり
 ・・・   」(p515)

うん。それならと古本で安くなっていそうなので注文することに。
ちなみに、この書評で井波律子さんは、もう一度『田植え』を出してきます。

「 いかなる大作、大長編も、田植えをするように
  一字一字、原稿用紙を埋めてゆく日々の積み重ね
  からしか生まれない。

  本書の著者は、いつどこにいても、倦まずたゆまず、
  原稿用紙に向かいつづけた父、堀田善衛の姿を・・・
  ・・・思いをこめて記している。 」(p517)


はい。この頃、ブログ更新を怠っているせいか、
こういう言葉に、つい目が止まります。

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