和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『 おいしーい 』

2024-12-06 | 短文紹介
庄野潤三著「明夫と良二」の中ほどに、
「ざんねん」と題する10ページほどの文がある。

姉と兄と弟との3人兄弟の一番下が風邪をひき下痢をする。
はじまりは

「 これから夏休みが始まるというのに、
  良二は下痢をして、梅干とお茶だけしか口に入れられない。
  みなが食べているのを、怨めしそうにじっと見ている。・・ 」

「昼はお茶と梅干だけ、こちらが冷し中華を食べていると、
 羨ましそうに見ている。・・・

 井村は細君と二人だけでお盆に知人の家へお参りに行ったが・・
 いろんな話をしているうちに、
 奥さんが梅酒はおなかをこわした時に飲むとよく効くといった。
 それを思い出した。

 『 ああ、それがいいわ 』
 と細君がいった。
 『 蜂蜜、入れましょうか 』
 『 それはいいだろう 』
 自分のうちで毎年つくる梅酒が台所にしまってある。
 ( お粥と一緒に食べさせた梅干も自家製であった )
 何本か、ある。
 細君はぐい呑に梅酒をついで、蜂蜜をいっぱいまぜてやった。
 良二は一口なめると、たまらないような声で、

 『 おいしーい 』といった。
 口に入れて、すぐに飲まずに、何遍もこねまわすようにしてから飲む。 」

兄の明夫が、良二のを飲みたがる。

「 『 良二、ちょっと 』
  『 なに! 』
  『 なにって、分かるだろう 』
  『 分りません 』
  『 おい 』
  『 は 』
  『 分るだろうといってるんだ 』
  『 分りません 』

  といったとたん、良二は、
  『 いて 』
  自分の膝を押えた。どうやら明夫が
  素早く『でこぴん』をくらわせたらしい、

  『 明夫 』
  と細君はいった。
  『 下痢して、ふらふらになっている弟を痛めつけるんじゃありません 』

  明夫は、まだ、ひと口くらいなめさせてくれてもいいだろうとか、
  けちだとか、思い切りの悪いことをいっていたが、井村に、
  『 しつこい 』といわれて、やっと諦めた。

  良二は、ぐい呑一杯の蜂蜜入り梅酒を飲む間に、七、八回、
  『 おいしーい 』といった。         」


なにか、まだ引用がたりないような気になるのですが、
これくらいにしておいて、
庄野潤三全集第10巻の月報10に、
庄野潤三のお兄さんの庄野英二氏が文を書いてます。
お兄さんの英二から、弟の潤三が語られております。
『 潤三は子供の頃、漫画が得意で・・・
  夢野朦郎という筆名を自分でつけていた。・・  』

そのあとの英二氏の回想を、ここに引用しておきたかった。

「 夢野朦郎の筆名の由来については、
 『 自分はぼんやりした性質だから 』と随筆の中に書いているが、
 『 潤三は子供の頃、兄弟の中でひとり変っていた。 』
 と亡母がよく話していた。

 茶の間で、子供たちが一緒におやつを食べている時、
 潤三も茶の間に坐っていながら、おやつに気がつかなかったり、
 家の近所の道を歩いていて、母とすれ違っておりながら、
 全然母に気がつかなかったり、ちょっと考えられないような
 放心状態になっていることが、ままあった。     」


ということは、弟の良二を描写している時の庄野潤三氏は
どうやら、御自分の小さな頃を重ね合わせている時のような
そんな筆力を自然と感じさせるものがありそうです。

はい。庄野英二氏のこの文を読むと、何だか、確信したくなります。
はい。ついつい月報をひろげると、あれこれ思い描きたくなります。

英二氏の文にこうもありました。

  「 兄弟共に、食意地が張っていて、
    はしたないことであるが、酒食に関することも多い。   」

そういえば、あらためて『明夫と良二』の場面が浮かびます。

『  ぐい呑一杯の蜂蜜入り梅酒を飲む間に、
   七、八回、 『 おいしーい 』といった。    』 
  
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茶壺、茶碗、料理は。

2024-10-05 | 短文紹介
本能寺の変は、天正10年6月2日。
すこし遡って、天正元年11月24日の朝。

「京都の妙覚寺において、信長の茶会が催され、
 堺代官の松井友閑と宗久と山上宗二が招かれた。

 宗易(利休)は、その席で濃茶の点前(てまえ)を行なっている。
 信長の命令によって、特に名物三日月の壺の茶をひいて
 抹茶を作ったのである。

 床に牧谿の帆帰の絵を掛け、その前に三日月の茶壺を置き、
 炉の鎖で鶴首の釜をつり、蕪無(かぶらなし)の花入には
 信長のいけた白梅がにおっていた。

 茶入は作物茄子(つくもなすび)、茶碗は大覚寺の天目を用いている。
 料理は、雉焼、鶴の汁、蒲鉾、鯛の刺身、鶉の焼鳥、
 菓子はむき栗、金柑、橘飩、煎榧、焼餅、といったもので、
 宗久の点前で薄茶を飲み、
 この日、信長の機嫌は上々であった。  」
           ( p53 桑田忠親著「定本千利休」角川文庫 )


はい。ここを引用しているだけで、何だか私は満腹感を味わいます(笑)。
なお、この箇所は「『今井宗久茶湯書抜』による」とありました。
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「 井戸茶碗の由来 」

2024-09-28 | 短文紹介
読まないままに、古本で買った利休の本に
山本兼一著「利休の風景」(淡交社・2012年)がありました。
せっかくなので、パラパラめくるとこんな箇所がありました。

「井戸茶碗は、もとはといえば朝鮮の飯茶碗である
 ――というのが、日本での通説であった。 」

そのあとに、柳宗悦の評論を引用しておりました。

「 それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使う茶碗である。
  全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。
       ・・・・・    (柳宗悦「茶と美」講談社学術文庫)   

  そんなありきたりの雑器の美を日本の茶人が見出し、賞玩したからこそ、
  井戸茶碗に価値が出たというのが柳氏の主張であった。

  この説はたいへん広く流布された。・・・・・

  しかし、最近、韓国の陶工申翰均(シンハンギュン)氏が、
  井戸茶碗の由来について新説を唱えている。
  井戸茶碗は、日常の食事のための雑器ではなく、
  先祖を供養するときに使う祭器だったというのが、申氏の主張である。

  井戸茶碗は、神の器だった――というのだ。
  たしかに、井戸茶碗が日常の雑器ならば、いくらなんでも
  もうすこし韓国に残っていてもよさそうなものだが、
  現在、韓国内に伝えられている古い井戸茶碗はまったくないという。
  ・・・・

  井戸茶碗が祭器であったことの証明のひとつとして‥」(~p105)

  このあとに、韓国の三代古刹の通度寺(トンドサ)の礼拝図に
 「 祖霊を祀る祭器として井戸茶碗が描かれている 」と記したあとに

「 そもそも朝鮮人の人たちは、茶碗を手に持って食事をする習慣がない。
  茶碗や丼は、机に置いたまま、そこから匙を使って食事する。
  この習慣は、かなり古い時代から現代にいたるまで続いている。
  ・・・・その食べ方からすれば、高台が高くて小さな
  井戸茶碗は、はなはだ不安定である。
  ご飯の茶碗としてはたいへん使いにくい。

  その話を申氏から聴いて、わたしは大いに頷いた。
  歴史の定説や常識のなかには、まったくの誤解や誤伝が
  たくさんひそんでいる。井戸茶碗が飯茶碗だったというのも、
  そんな常識の嘘のひとつにほかなるまい。  」(~p106)

はい。パラパラでも読んでみるものですね。
うん。うん。と頷きながら読みました。
ところどころ端折りましたが、端折りすぎたかもしれないと、
この箇所を最後に引用。

「 なぜ、残っていないのか?
 神聖な祭器であった井戸茶碗は、もともと数が少ないうえ、ある期間が
 過ぎると、粉々に砕いて土のなかに埋めてしまったからだという。」(p105)


はい。神聖な祭器を茶道では大切にあつかい。
本来、粉々に砕いて土のなかに埋められてしまう
はずだった祭器を、茶道では井戸茶碗として伝えている。

何だか井戸茶碗への歴史回答を得たような手ごたえで、
本に載る、井戸茶碗の写真を見入ることとなりました。

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流言蜚語通信

2024-09-26 | 短文紹介
月刊「Hanada」11月号が今日届く。
目次をめくると、そこに流言蜚語の言葉がある。
そこを引用

「 韓国では、言論統制のあった時代には
  噂話や各種ニセ情報がしょっちゅう流された。

  これは『 流言蜚語(りゅうげんひご)通信 』、
  さらに短縮して『 流蜚通信(ユビトンシン) 』と呼ばれた。
  もちろん、なかには本当の情報も隠されていた。 」
              ( p208 重村智計「朝鮮半島通信」 )

せっかくひらいたので、重村氏の文の最後の方も少し引用。

「 韓国には、自民党総裁選が、日本の政治と民主主義において
  どのような意味があるのかを、きちんと説明できる専門家や
  ジャーナリストがいないのが現実だ。韓国の世論は
  『 反日 』を叫べば満足し、学者や新聞記者たちは
  そんな世論に阿(おもね)っている。日本の現実とリアルを、
  韓国民に説明する勇気がない。・・   」(p211)


あらてめて、清水幾太郎著「流言蜚語」の本文の最後を引用。

    「 ――だがこれだけは言っておかねばならぬ。
     言語への軽蔑の支配するところは、却って
     流言蜚語の発生と成長とに有利な風土を持つ
     といふことである。    」


それから、おもむろに雑誌の最後にある平川祐弘氏の連載をひらくと
第29回の題は「『源氏物語』の歌とウェイリ―の英訳(上)」とある。
うん。ここには、そのはじまりを引用しておくことに。

「私は老年の愉しみに『源氏物語』を荻窪の「よみうりカルチャー」で
 通読してきた。まず原文を音読する。
 物語をしっかり掴んでいる人が音読すると
 もうそれだけで内容がおのずと伝わる。
 ついでウェイリ―の英訳を読み上げると、
 するとその箇所の全体像がはっきりしてくる・・・ 」(p314)

はい。ここから平川氏のお話がはじまるのでした。
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コレラのパニックと流言蜚語

2024-05-14 | 短文紹介
吉村昭著「磔」にあるらしいのですが、未読。
ここには、曽野綾子著「ほんとうの話」(新潮文庫)。
ちょっとですが、明治10年に起きたコレラのパニックが書かれておりました。

「・・・何のいわれもないどころか、いいこをして殺された人までいる。
 たまたま今、手許にある新聞には、明治初期の千葉県鴨川の医師・
 沼野玄昌という方のことが出ている。

 明治10年に、全国的に猛威をふるったコレラは、10月になると当時、
 長狭(ながさ)郡貝渚(かいすか)村と呼ばれた鴨川にも発生した。

 近隣の村を合わせると、患者480人のうち261人が死んだのである。
 村人たちは奇病を恐れてパニック状態に陥った。

 沼野医師は、漢方、蘭方、解剖外科にも明るく、
『 西洋医学も修めた医師 』として医学知識のない村民たちを相手に
 防疫に当ることになった。何の衛生知識もない村人たちは、

 汚物は川に捨てる、死者は土葬にする、という調子だったから、
 沼野医師はまず火葬をすすめ、井戸にクロール石灰を投げいれたりした。
 しかしコレラはそうは簡単にはおさまらないので、
 村人は沼野医師を信じなかった。

『 あの医者は、金もうけのために、井戸に毒を入れてわざと病人を作っている 』
 
 と彼らは言い、或る日、ついに竹槍やくわで、当時41歳だった沼野医師を
 惨殺したのである。この話は、土地の人々の間でも思い出したくない話しとして、
 長い間タブーになっていたのだが、今度101年目に慰霊碑が建ち、
 児童公園もできたという。

 別に恥じることはない、と私はおもう。
 私がその場にいても、恐らく医師殺害に与(くみ)したろうと思うし、
 私の父母も、その場に居合わせたら、医師を憎んで竹槍をふるったかも
 知れない。人間、誰しも考えること、やることは、同じようなものである。
 ただそこには、人間が普遍的に犯すあやまちがあるだけである。  」(p96)


私は「安房郡の関東大震災」をテーマに語ろうとしてるのですが、ここで、
流言蜚語に立ち向かう、指導者としての大橋高四郎を、まず思うのでした。

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人を得なけりゃ優駿も只の奔馬。

2024-04-16 | 短文紹介
何か、久しぶりに月刊雑誌『文芸春秋』を
買ったので、何だか新鮮な気分になります(笑)。

今日になって、雑誌を2冊本棚からとりだしてくる。

文藝春秋発行の『諸君!』2009年6月号。
隣に並んでた、『新潮45』2013年12月号。

『新潮45』のこの号には、
田中健五の「池島信平と『諸君!』の時代」が掲載されておりました。
はい。8ページほどですから、すぐに読みかえせました。
その最後の方に、こんな箇所がありました。

「 この雑誌(注:「諸君!」)が今はもう存在しないことを、
  私は悔しく寂しく思う。
  『 人馬一体 』という言葉がある。
  編集者と雑誌も同様である。『人馬一体』が求められる。
  人を得なければ、優駿も只の奔馬にすぎない。     」(p91)


さてっと、『諸君!』2009年6月号の表紙にはこうありました。
「 最終号 特別企画・日本への遺言 」。
その特集の一つ「『諸君!』と私」には、
佐々敦行氏の次に曽野綾子氏の文がありました。
はい。短文なので好きなように引用してみます。

曽野さんは、沖縄渡嘉敷島でのことを、
紀元1世紀にローマ軍に囲まれたイスラエルのマサダ要塞での
出来事をもって比較されておりました。

「私は『 ある神話の背景 』という題で、
『 諸君! 』の1971年10月号から1年間連載させてもらった。」

うん。そのあとの最後の箇所はきちんと引用しておかなきゃ。

「『諸君』編集部に対する言論界の風当たりは強かっただろう。
 沖縄の言うことはすべて正しく、それに対していささかの
 反論でも試みる者は徹底して叩くというのが沖縄のマスコミの
 姿勢だったが、その私を終始庇ってくれたのが、
 
 田中健五編集長と、私の担当だった村田耕二氏だった。
 或る日、一度だけ私は遠回しに村田氏に、
『 多分ご迷惑をおかけしているんですね 』と言ったことがある。
 すると村田氏は
『 社の前に赤旗の波が立ってもかまいませんよ 』
 という意味のことを言った。
 反対する人たちがいたらどうぞご自由に、という感じだった。

 田中編集長と村田氏は時の潮流に流されなかった
 ほとんど唯二人の気骨ある編集者だった。

 私は『諸君』の終巻を心から悼むが、
 経済的な理由で終わりを告げることには、
 むしろ自然なものを感じる。
 これが思想的な弾圧でなくて良かった、と喜んでいる。
 と同時に歴代の編集者たちの苦労を深く労いたい。  」(p165~166)


久しぶりに『文芸春秋』を買って、私が読みかえして
みたかったのは、この曽野綾子さんの短文なのでした。

せっかくなので、曽野綾子氏が
『経済的な理由で終わりを告げることには、むしろ自然なものを感じる』
という『自然さ』を田中健五氏の文にもとめるとなると、
この箇所なのかなあと思う健五氏の言葉を最後に引用しておきます。

「 まだ戦後10年足らずの日本には、
  活字に飢餓感をもつ国民が多く、
  雑誌界は沸き立つような活況を呈していた。
  今では信じられない話しだが、
  一出版社の出す一月刊総合雑誌にすぎない
 『 文藝春秋 』編集長が社会的にも大きな存在を持つ時代だった。 」
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『 年齢七掛説 』

2024-01-21 | 短文紹介
鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」(トランスビュー)を
ひらいたついでに、パラパラとめくってみる。
講談社の編集長をしていた視点からのご意見を拝聴。

たとえば、私など、本を買えども読まない本というのがある。
最近は居直って、積読でも気持ちが弱らなくなりました(笑)。

そういう視点からだと、面白いなあという言葉がある。

「書店だけでなく読者の読む力が弱くなっている。
『 良書でござい 』とあぐらをかいていてすむ時代ではない。
 どうにかしてともかく買ってもらう。
 そうすればその中の何割かは読むだろう。
 ・・・編集者のフットワークが要求されている。 」(p175)

はい。良書のあぐら。安岡章太郎の『蹲踞のように腰を浮かせて書く』。
連想のつながりで、動作が並びます。『良書でござい』とあぐらをかく。
『蹲踞のように腰を浮かせて書く』。さらには、編集者のフットワーク。

編集者の視点が鮮やかに感じられてくるのは、まだまだありました。

「そのころ『 年齢七掛説 』がささやかれていた。
 つまり、いまの22歳はむかしでいえば、15~6歳にしかならない。

 かなり幼いと思った方がいい。
 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』のようなものができないか、
 というふうにはなしが進んだ。・・・ 」(p84)

「 編集者にもいろいろなタイプがある。・・・・・
  ダメだということをいかに納得させるかに苦労することもまれではない。」
                       (p85)

「 鶴見俊輔がどこかで、
  日本はどうも10年ごとにくりかえしているといっていた。
  企画をたてるのに、出版の歴史を知っておいて損はない。 」(p87)


はい。何だか編集者という海岸の砂浜で、尽きない真砂から、
キラキラひかる言葉の貝殻を拾ってるような気分になります。

ちなみに、著者あとがきの最後の日付は2003年12月20日。
約20年前に出版された本のようです。
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古書目録とKさん。

2024-01-14 | 短文紹介
ちくま文庫「出久根達郎の古本屋小説集」(2023年11月発行)を買う。
パラリとめくれば、
古本屋の主人が、売上ゼロとにらめっこして、
古書目録をつくり地方に発送する場面がある。
はい。印象深いので引用。

「主人は思案の末、古書在庫目録を作って、地方の客に送ることにした。
 地元の特定客だけを当てにしていては、細る一方である。
 古本屋が近辺にない地方の人たちを顧客にしよう、と考えた。
 資金が乏しいので、手書きでコピー印刷することにした。
 40ページの小冊子を作った。

 雑誌の愛読者欄を見て、本を好みそうな人を摘出した。
 古書目録『書宴』第一号は昭和56年8月6日に出来あがった。」(p57)

「主人の手作り古書目録『書宴』は、号を追うごとに大変評判になった。
 品物が安価であること、掘り出しが多いこと、の他に、
 目録の記述そのものが面白いとほめられた。
 本の一冊一冊に、主人が解説を施したのである。
 ・・・楽しみながらの無駄口講釈である。 」(p61)

さてっと、ここいらまでは事実のような気がするのですが、
『Kさん』の場面は、すこしフィクションを交えているかも。
ノンフィクションかフィクションか。その箇所を丁寧に引用。

「Kさん、という客がいた。目録の創刊号以来のお得意だが、
 毎号、熱心に注文を下さるのだけれど、大抵ほかの客と
 目当ての品がぶつかってしまい、先着順の受けつけゆえ、
 運悪く後れを取る。・・・・

 しばらくしてKさんからの注文が絶えた。目録は送り続けたが、
 そろそろ中止の潮時かも、と考えていた矢先、
 Kさんの息子と名のる若者が訪ねてきた。
 Kさんは四国の、奥深くに在住の方である。

 むすこさんは東京に用事があって出てきたのであった。・・・
 父親に頼まれたのである。・・父に託された、と里芋のように
 丸いトロロ芋を下さった。袋に詰めて重いのをわざわざぶら下げて
 きたのである。・・・・

 これでは目録の郵送をやめるわけにいかない。
 しかしその後もKさんからは、一度も注文がなかった。・・・」(p63)

 このあとに、主人公は、Kさんの死を知らされます。

「『 父はベッドで『書宴』を読むのが唯一の楽しみでした。
  書宴が送られてこなくなるのを、極度に恐れていたんです。
  ならば毎回注文を出せばよいものを・・妙な父親でしてね。・・
 
  でも父は喜んでいました。
  『書宴』が最後まで父の枕頭の書でありました。・・  』

 ・・・古書目録は、Kさんにはむしろ『本』だったのだ。 」(p64)


さてっと、ちくま文庫の解説は、南陀楼綾繁さん。解説の題は、
『古本屋のことはぜんぶ出久根さんに教わった』とあります。
最後に、その解説から、この箇所を引用。

「出久根さんは『書宴』という古書目録を発行していたが、
 そこに載せた文章が編集者の高沢皓司氏の目に留まり、
 それが『古本綺譚』にまとまった。

『 高沢さんは、
【  古本屋の親父の身辺雑記、と人には言いふらして下さいよ。
   小説集、と絶対に口をすべらせてはいけませんよ。
   無名の人間の小説集は売れませんからね     】
 と釘をさした。私は口外しないと約束した』(「親父たち」)

 その嘘に見事に引っかかった私(南陀楼さん)は、
 かなり後まで『古書綺譚』はエッセイ集だと信じていたのだ。」(p408~409) 

 
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そりゃそうよ。

2024-01-07 | 短文紹介
本を読もうとしても、本は読めないなあ、と思っていたら、
思い浮かんだ対談がありました。

金美齢・長谷川三千子「この世の欺瞞」(PHP・2014年)。
この箇所が浮かびました。

長谷川】 私もよ~く覚えてる。
     2歳の子供を連れて歩くのは、
     8階まで階段を上るより、はるかに疲れるのよね。

金】  そりゃそうよ。

長谷川】 子供の脚に合わせて歩くのって、本当に重労働。
     おまけに、やたらに立ち止まって『あ!』とか言って、
     何かを拾うわけよね(笑)。

     『 それは≪ばっちい≫から、やめようね 』

     と注意して、何とかあきらめさせる。それで、
     大人の脚だったら10分に行けるところが、30分はかかってしまう。

金】   その通りよ。

長谷川】 要するに、子供を育てるということは、
     そういう非能率の24時間を過ごすってこと。

金】   忍耐。忍耐。

長谷川】 私の乏しい忍耐力が、子育てで、
     かなり鍛えられました(笑)。         (p136)



はい。ここに登場している『2歳の子供』というのが、
今の、私の読書じゃないかとハタと膝を打つのでした。
私は、本を読みはじめても、まともにゴールできない。
とりあえず脱線していって、もう元の本にもどれない。
こんな読書じゃ『2歳の子供』より悪いのじゃないか。
まあいいや。こうして、馬齢を重ねてしまった以上は、
このままの自分を受け入れ本とつきあってゆくことに。

『日本の古本屋』で検索すると、
『大菩薩峠』は論創社で全9巻がありました。
そのいちばん安いのを注文。

この論創社の『大菩薩峠』は、伊東祐吏の解題に、こうあります。

「本シリーズは、大正時代に都(みやこ)新聞≪現在の東京新聞≫紙上に
 掲載された中里介山『大菩薩峠』を新字、新仮名、総ルビ、挿絵つきで
 復刊するものである。・・・」

「都新聞に連載された『大菩薩峠』は、単行本化されるにあたって、
 全体の約30%が削除されている。・・・・・」


はい。この論創社のページは、見開きの右と左で
新聞連載の1回分。そこに挿絵・井川洗厓もある。
うん。これなら万事横着な私にもひろげられそう。

さて、それとは別に、扇谷正造氏の文中に桑原武夫氏の
文が紹介されていたのを思い出します。 ありました。

桑原武夫に『大菩薩峠』(1957年5月)という4ページの文。
そのはじまりは

「昨年(1956)、私は横光利一の『旅愁』について放送させられたことがある。
 日本近代文学の諸名作についての連続講義の一つを割当てられたのだ。

 ・・・悪口めくから嫌だといっても、それもまた一興、
 というので、仕方なしにやった。

 開口一番、この小説の再読は、私にとって全く苦痛だった。
 その間、途中まで読みさしの『大菩薩峠』に一そう心ひかれて困った。
 私は横光利一より中里介山の方が芸術家として上だと信じている、
 というところから始めた。・・・・・

 私はハッタリをいったつもりはない。すべて努力は幸福をもたらす、
 というのは倫理的に立派な考え方だが、そして努力なくしてよき成果
 のないことは大よそ確かだが、努力してつまらぬ結果しか出ない場合
 も多いのである。芸術においては特にその感がふかい。・・・ 」

はい。こうしてはじまっており、ここにはその文の最後を引用して
おわることに。

「『大菩薩峠』では机竜之介はもちろんのこと、
 主要登場人物がすべてアウト・ロウ(out-law)だ、
 ということは従来あまり指摘した人を聞かぬが、
 そしてこの着眼は生島遼一君と私との雑談ではっきり
 したことだが、将来大きな手がかりとなるべき点にちがいない。

 ・・・・このあいだ・・一ぱい飲んださい、
 この小説の面白さをしゃべり立て、若干の仮説をのべ、
 大いに扇動しておいたところ、もう半分以上もよみ上げたというのが、
 数人あらわれた。

 私は昭和のはじめに全巻を読破したが、
 再読は半ばまで来て意識的に停滞させてある。

 そのうち日本文化史や国史、文学、心理学などの
 若手の学者諸君と共同研究でもやれたなら、

 ――これが今年の正月からいだいている私の夢である。 」

  ( p16~19 「桑原武夫集 5」岩波書店 )


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ふたたび席に戻る。

2023-12-11 | 短文紹介
吉田光邦氏に「茶の湯十二章」というのがありました。
なんでも、『家庭画報』の1969年1~12月号に連載されたもの。

ここには、12月の箇所を引用。

「12月の茶といえば夜咄。
 冬至の前後のころの昼の陽ざしはみじかく、夜はいやが上にもながい。
 そうした夜に同心のわずかな人数でひっそりと集まる会。それは
 あわただしい歳末のなかで1年をしみじみと思いかえす集まりなのだ。

 寒い夜、おぼろな光、そのなかでしずかに進行する茶事。
 すべては寒さを忘れるようなあたたかい空気への配慮にみたされて、
 集まる人びとはそこに亭主の心づくしを思うのである。

 直弼はまたいっている。
 『 此道の教は初門の時より、喫茶を以て楽しましめ、
   きわめて心地朗なる所を楽しむ、高きも卑きも富めるも貧しきも、
   浅きも深きも楽しむの外事なし 』と。

  彼にとっては茶は楽しむものであり、
  その楽しみは自分の現在のあり方をはっきりと
  見定めることによって生まれてくるものであった。

  ・・・そして人びとの交流の媒介となるものが、
  茶の味であり、懐石の味わいなのであった。
  だがその交流は同時に自分のあり方の自覚でなければならなかった。

  ・・・茶会は終り客は主の見送るなかを立ち去ってゆく。
  そして主人はしずかにふたたび席に戻る。

 『 今日一期一会済みて、ふたたび返らざる事を観念し、
   或は独服をもいたす事、是一会極意の習なり。此時寂莫として
   打語らふものとては釜一口のみにして外に物なし 』

   そうして人生の瞬間は、人びとの心のなかに
   あるしるしをつけながら消えてゆくのである。  」

    ( p168~169 吉田光邦評論集Ⅱ「文化の手法」思文閣出版 )


はい。次回は、お正月の茶の湯の箇所です。
 
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現代の職人気質?

2023-12-09 | 短文紹介
「吉田光邦 両洋の人 88人の追想文集」(思文閣出版・1993年)。
最後の方に略年譜があります。1921年(大正10)~1991年(平成3)。
愛知県西春日井郡に出生。とあります。

さてっと、ここで吉田光邦著「日本の職人像」のおさらい。
まず、どうして私がこの本をひらいたのかというと、
臼井史朗氏のこの言葉でした。

「吉田光邦氏『日本の職人像』は非常に面白い力作だと思った。
 平安から現代まで・・・それぞれの職人気質を・・
 面白く系統的に書いている。名著だと思った。 」
        ( p87 「疾風時代の編集者日記」淡交社 )

うん。その面白さを説明するのに、この一冊からだけじゃ私の手に負えない。
田中一光氏の追想文に、その秘密の一端が披露されていました。
ちょっと長いのですが、的を射た場面を回想されています。

「昭和43年だったか、大阪万博の政府館の歴史パビリオンの
 デザイナーに指名されることになり、作家の今日出海先生を中心に、
 毎月展示物の会議が繰返された。その都度、

 専門の歴史学者がアドバイザーとして出席されるのだが、
 研究分野の領域が狭く、とても縄文、弥生から、明治維新まで、
 通観して教えて貰える学者が見当たらず、締め切りを間近に
 展示計画書を出せずに途方に暮れていた。

 私は思い切って京都に行くことにした。
 これは吉田(光邦)先生をおいて他にないと思ったからである。

 その時の吉田先生の見解は見事なものであった。
 私の頭の中にもやもやしていた日本史が一条の光のように繋がって
 見えてきた。これほど嬉しく、また興奮したことはない。 」
     ( p52 「吉田光邦 両様の人 八十八人の追想文集」 )


さてっと、ここからおもむろに『日本の職人像』の最後を引用して
おわることに。そこでは『現代の職人』を定義して終わるのでした。
そのすこし前から引用。

「かつての職人はその全生産大系を自分で管理していた。・・・
 しかし現代の量産機構のなかに生きる人びとはそうはゆかない。」(p207)

このような観点から説き起こして、この本の最後に至ります。
はい。その最後を引用。

「そこで今も仕事に情熱的であり忠誠を傾けるのは芸術家だとか、
 プロ野球の選手だとか、学者たち、研究者たち、文筆家たちに
 多くみられる理由が分るだろう。

 彼らはすべて現代の職人なのだ。自分の手で仕事をし、
 誰にも助けられず個人の才能だけで勝負しなければならぬ。
 個性のみで勝負しなければならぬ。そしてその結果がどんな
 意味を社会に対してもつかを、彼らはほぼ予測することができる。

 こうみればこの人びとにこそかつての職人気質に似たものが
 よく残っていることも当然となろう。

 仕事を第一に考え、ほんものを何よりも重んじにせものをきらい、
 気に入れば懸命に仕事をするが、気に入らねばなげやりとなる。

 いささか狭量で広い世間についてよく知らぬし、またあまり気にもせぬ
 ――こうした特徴はまことによくかつての職人たちにあてはまるではないか。

 それも結局は孤独にひとりで仕事をつくりあげて
 ゆかねばならぬ上から生じた結果である。
 職人はどこまでも個人であった。
 職人気質とは仕事の上の個性の主張ということであった。

 ただその主張が消費者に対する奉仕の精神をもって
 包まれねばならぬところに、職人の運命的な寂しさがあったのである。」
      ( p209 吉田光邦著「日本の職人像」河原書店・昭和41年 )


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読書も食欲も。

2023-10-29 | 短文紹介
はい。パラパラ読みです。
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)に

興膳宏・木津祐子・齋藤希史「『朱子語類』訳注」(巻10~11・読書法篇)
からの引用があるのでした。

「おおくの弟子たちのメモによって再現した先生のおことばが245篇――。

  読書も食欲にまかせて

『 雑多なものを、時節もわきまえず、一気に食べれば、
  腹が突っ張って、どうしようもなくなる 』とか

『 いまの人の読書は、まだそこまで読んでもいないのに、
  心はすでに先に行っている(略)。
  気分がせかせかして、いつも追い立てられているようだぞ 』とか、

 どのおしえも身につまされ、どことなくユーモラスで、
 キビキビと気合がはいっている。
 とうてい800年もまえのものとは思えないくらい。 」(p67)


はい。よくぞ引用してくださいました。この頃、めっきり
食が細くなったのを実感してる当方としては、これで満腹。



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賢治の夏休み。

2023-07-22 | 短文紹介
宮沢賢治の「イギリス海岸」。そのはじまりは

「夏休みの15日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、
 2日か3日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。

 それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。
 北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、
 北上山地を横ぎって来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、
 少し下流の西岸でした。  」

よその学校では、どうだったかも書かれておりました。

「 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に15日も生徒を連れて行きましたし、
  隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。

  けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。
  ですから、生れるから北上の河谷の上流の方ばかり居た私たちにとっては、
  どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。 」

「それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。」
として賢治特有の蘊蓄がならべられゆきますが、ここでは大胆にカット(笑)。

「・・それにも一つここを海岸と考へていいわけは、ごくわづかですけれども、
 川の水が丁度大きな湖の岸のやうに、寄せたり退いたりしたのです。
 それは向ふ側から入って来る猿ヶ石川とこちらの水がぶっつかるために
 できるのか、それとも少し上流がかなりけはしい瀬になってそれが
 この泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできるのか、・・・
 とにかく日によって水が湖のやうに差し退きするときがあるのです。 」

はい。もう少し引用しておきます。

「 そうです。丁度一学期の試験が済んでその採点も終り
  あとは31日に成績を発表して通信簿を渡すだけ、
  私の方から云へばまあそうです。

  農場の仕事だってその日の午前で麦の運搬も終り、
  まあ一段落といふそのひるすぎでした。
  私たちは今年三度目、イギリス海岸へ行きました。・・・ 」

「 ・・・『ああ、いいな。』私どもは一度に叫びました。
  誰だって夏海岸へ遊びに行きたいと思はない人があるでせうか。
  殊に行けたら・・・フランスかイギリスか、
  さう云ふ遠い所へ行きたいと誰も思ふのです。

  私たちは忙しく靴やずぼんを脱ぎ、
  その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。

  全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚なもんでした。

  その水へ半分顔を浸して泳ぎながら横目で海岸の方を見ますと、
  泥岩の向ふのはづれは高い草の崖になって
  木もゆれ雲もまっ白に光りました。・・・   」

うん。最後の箇所も引用しておきます。

「・・今日は実習の9日目です。朝から雨が降ってゐますので
 外の仕事はできません。うちの中で図を引いたりして遊ぼうと思ふのです。
 これから私たちにはまだ麦こなしの仕事が残ってゐます。・・・

 麦こなしは芒(のぎ)がえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。
 百姓の仕事の中ではいちばんいやだとみんなが云ひます。
 この辺ではこの仕事を夏の病気とさへ云ひます。

 けれども全くそんな風に考へてはすみません。
 私たちはどうにかしてできるだけ面白くそれをやらうと思ふのです。

                     ( 1923、8、9 )   」


( p101~118 「新修 宮沢賢治全集 第14巻」筑摩書房・1990年 )



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読んでいて生きた心地がする

2023-07-21 | 短文紹介
鄭大均(てい・たいきん)著「隣国の発見 日韓併合期に日本人は何を見たか」
(筑摩選書・2023年5月)の序文から引用。

「・・ポスト〇〇ニズムやポスト〇〇リズム隆盛の今日、
 研究者やジャーナリストたちは一見、過去から学んでいる風を装い、
 少数者には大いに関心があると言う。

 しかし彼らは今日を生きる自分たちを至上のものとする人々であり、
 一度(ひとたび)あるものに『侵略者』や『植民者』の烙印を押すと、

 それをなかなか変えようとしない頑固者たちである。
 そんな人々の記したいびつな日本統治期論などに比べると、

 この時代に朝鮮の地に住んでいた日本人が書き残した朝鮮エッセイには
 人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のするものが少なくない。
 
 本書で紹介したいのはそんな良質なエッセイである。・・ 」(p13~14)


はい。第五章まであります。こりゃ夏の読書にはうってつけかも。

ここには、第五章の挟間文一(はざまぶんいち)のはじまりだけ紹介。

「大分県北海部郡佐賀市村に生まれた
 挟間文一(1898~1946)は1923年長崎医科大に入学、
 第一回生として卒業すると助手としてそのまま薬物教室に残り、
 1930年には同大助教授に就任する。

 後にノーベル生理学・医学賞の候補となる研究が始まるのは
 この時期のことで、挟間は研究室が英国から購入したケンブリッジ社製の
 弦線電流計を用いて臓器の動作電流曲線を描写する作業に取り組み、
 それに成功し、成果をドイツ語論文で記し、多くはドイツの科学専門誌
 に掲載されるようになる。

 挟間はしかし1935年、京城医学専門学校への転任を余儀なくされる。
 当時、長崎医科大で発覚した博士号学位売買事件の責任をとって辞職した
 主任教授の後任として長崎に赴任することになった京城医専の教授が、
 助教授職にあった挟間の留任を望まなかったためである。

 挟間は不本意ながら京城の地に向かうが、
 発光生物に関する研究は続けられ、やがて朝鮮をテーマにした
 多くのエッセイが記されるようになる。・・・・・

 筆者は偶然『朝鮮の自然と生活』の本を入手し、
 旅する科学者の姿に斬新な印象を受けたが、
 戦後この人の朝鮮エッセイに触れたものが
 だれもいないことに不思議な気持ちがした。・・・・」(p226~227)

このようにはじまっております。
あらためて、序にある
『 人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のする 』
という言葉を反芻しながら、この夏の読書とします。


 
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児童漫画の読者たち。

2023-07-14 | 短文紹介
藤子不二雄著「二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史」
 ( 毎日新聞社・1977年 )を古本で購入。

いろいろな漫画家が登場しております。
パラパラめくっていると、こんな箇所がありました。

「 はじめは漫画への激しい意欲と情熱を燃やして描いたものが、
  次第に職業的熟練で処理していくようになる。

  大人漫画はいざしらず、児童漫画でこうなったら、
  その漫画家の生命はもう終りつつあるといっていい。

  少年読者は実に敏感に、作品を通して、その作者の
  エネルギーの減退をかぎとるからだ。

  現代の若者やこどもたちはシラケの世代だといわれる。
  たしかに彼等の行動や発言からはそれを感じさせる。

  だが、少なくとも児童漫画の読者たちは、
  漫画にシラケを求めてはいない。

  彼等が漫画に期待するのはホットな連帯感なのだ。
  まわりがシラケの環境であればあるほど、
  漫画の世界だけには熱い感情のたかぶりを求めるのだ。 」(p169)

これは、石ノ森章太郎を語った箇所にありました。
ついでに、石森章太郎はどう紹介されていたかも引用しときます。

「なんせ、つい最近まで、『趣味は?』と聞かれると、
『 漫画を描くこと 』と平然と答えた男(石森)だ。
 本業が『漫画を描くこと』で、
 趣味も『漫画を描くこと』。これはツヨイワ!
 漫画を描くことが面白くて、楽しくてしょうがないのである。
 ・・・・オトロシー。 」(p169)

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