津野海太郎著「最後の読書」(新潮社・2018年)のはじまりは、
『読みながら消えてゆく』と題して鶴見俊輔氏が登場しておりました。
鶴見さんの最後が引用されておりました。
「 2011年10月27日、脳梗塞。言語の機能を失う。
受信は可能、発信は不可能、という状態。
発語はできない。読めるが、書けない。
以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、
翌年4月に退院、帰宅を果たす。読書は、かわらず続ける。
2015年5月14日、転んで骨折。入院、転院を経て、
7月20日、肺炎のため死去。享年93歳。 」 (p12)
津野海太郎さんは、この引用のあとに、記しております。
「 名うての『話す人』兼『書く人』だった鶴見俊輔が、
その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、
それ以上に、それから3年半ものあいだ、おなじ状態の
まま本を読みつづけた、そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。」(p12)
昨日本棚から板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)を出してくる。
私が持っているのは(1993年5月6日第28刷発行)のもの。
そこに、尾崎紅葉が登場する引用があったのでした。
「尾崎紅葉がガンで重態だと新聞に報道されてしばらくして、
紅葉はその痩せほそった姿を丸善の店頭に現わした。
そのころ丸善で働いていた内田魯庵は驚いて、紅葉を迎えた。・・」(p164)
その時の会話から引用
魯庵】 何を買いに来た
紅葉】 ブリタニカを予約に来たんだが、品物が無いっていうから
センチュリーにした
魯庵】 センチュリーを買ってどうする?
それどころじゃあるまい
紅葉】 そう言えばそうだが、評判はかねて聞いているから、
どんなものだか冥途の土産に見ておきたいと思ってね。
まだ一と月や二た月は大丈夫生きているから、ユックリ見て行かれる。
魯庵】 そんならブリタニカにしたらどうだ。
もう二た月もたてば荷が着くから・・・
紅葉】 そうさなあ
二た月ぐらいは大丈夫と思うが、いつなんどきどうなるかわからん。
二た月先に本が着いた時、幸い息がかよっていたにしても、
ヒクヒクしてもう目が見えないでは何にもならない。(中略)
生きのびようとは思わんが、欲しいと思うものは
頭のハッキリしている中に自分の物として、一日でも長く見ておかないと
執念が残る。字引に執念が残ってお化けに出るなんぞ男が廃らあな
魯庵】 むゝ、センチュリーなら直ぐ届ける
紅葉】 これで冥途へ好い土産が出来た ・・・・・・・・・
さて、ここを引用した板坂元氏は
「以前、ノーマン・マルコムの『ヴィトゲンシュタイン』を翻訳しながら、
私はしばしば紅葉の逸話を思い出した。・・・・」
さてっと、板坂さんは、この最後をこうしめくくっております。
「 なにごとも受身になりがちで、無気力化が問題になっている今の
多情報社会では、とくにこのような挑戦型の生き方が、
人間らしく生きるためにも大切になってきている。
また、書いた文章を読んでくれる人に対するエチケットとしても、
情報収集に執念を燃やすことは、基本的な態度なのである。 」(p165)
はい。もちろん板坂さんは、途中にこういう言葉をはさみこんでおりました。
最後にそこも引用しておくことに。
「 われわれ凡人には、なかなかできることではないが、
仕入のためには多かれ少なかれ執念といったものが必要だと思う。 」