和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

今年の本棚つくり。

2024-12-20 | 本棚並べ
今は倉庫代わりに使用している場所があり
( 田舎なので、それなりにスペースはあるのです )、
ここに本棚をすえつけて、書庫にしようとしています。

本棚を作ろうと、板材を買ってあったのですが、
そのまま、え~と、1年以上になるでしょうか。
暮れのこの機会に壁に据え付けの本棚を作成しました。
とりあえず、買ってあった木材を縦横切りあわせて、
あとは、電動ドライバーで、ネジ止めする素人仕事。
コンクリート床から天井まで、ヨコは約2.5mほどの本棚
が出来ました。これで、今年の購入本などを本棚に並べられる。

今年は、安房郡の関東大震災に関する資料を
( といっても少ないので助かるのですが )、
集めてみました。図書館へ出かけるのが億劫な性格なので、
家で、古本がネット注文できる現在は、ありがたいかぎり。
その関連で、町史市史などもそろえました。今年はとくに、
もう、本に関しては贅沢をきめこむことにしております。
安い古本なら、題名で購入。
あとは妥当と思える価格なら購入。
それを読みまとめる手腕はありませんが、
それに関する記述を居ながら読めるありがたさ。

ということで、今年は、震災関連の本。
「日本わらべ歌全集」全39冊(柳原書店)。
「庄野潤三全集」および、その単行本など、
本棚に置きたい本が、本棚に並ぶ順番を待っております。

そんなことで、今日とどいていた古本がありました、
庄野潤三著「庭の山の木」(冬樹社・昭和48年)。
庄野潤三著「逸見(へみ)小学校」(新潮社・2011年)。

うん。あとは本を読むだけなのですが、
まあ、今年の本棚作成はここまでです。
さて、新しい本棚にどのように本を並べるか、
今日、その楽しみが残っております。

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図書館蔵書処分本

2024-09-03 | 本棚並べ
注文してあった『世にも美しい日本語入門』が届く。
いちばん安かった、図書館処分本を注文したのでした。
68円+280円(送料)=384円なり。

図書館の蔵書だったので、透明なシートがぴたりと
表紙に貼りついているのですが、めくると未読感がありあり。
「ちくまプリマ―新書」の栞もはさまっておりました。

図書館の蔵書だったので、その図書館名がありましたが、
ほかは、新品同様です。はい。古本を注文するとこんなこともある。

はい。もう私の蔵書なので、まえの図書館名も紹介しておきます。
『千葉敬愛短期大学蔵書』とあります。初版の日付が2006年ですから、
今年からならもう18年前の図書館蔵書ということになるのでしょうか。

古本としての巡りあわせに感謝して、処分本かどうか、確認してみると、
最後のページに、小さく〇の中に済の字がある赤のハンコが押されていて、
どうやら、それが処分本の証なのかなと思えました。

はい。それ以外は新品同様で、なんだか汚すのが申し訳ないような
そんなきれいさです。とりあえず、そのまま本棚に置くことにして。

古本384円で、今日一日がなんだか楽しくなります。
今日は土砂降りだったり、雨がやんだりしています。
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入門本さがし。

2024-08-31 | 本棚並べ
「世にも美しい日本語」は
安野光雅・藤原正彦対談の新書なのですが、
たしかに、読んだことがあるので、本棚のどこかに
あるはずなのが、見当らない(笑)。
お二人して歌の話を楽しくしていたのでした。

たぶん。単行本と単行本の間にはさまっていたりすると、
奥にひっこんで新書の背がみえなくなってしまうことがあり、
それかもしれないし、どこかに置きざりにしたかもしれない。

はい。こういう場合は、読みたいのだけれど、読めないので、
ちょいと忘れることにして、外の本をさがしている際などに、
ふらっと出てくる場合もあるし、出てこない場合もあります。

さてっと、今回の場合は、出てくるか、出てこないか。
それとも、安い古本のお世話になるか。
読みたいときに読むと、言葉が一段と身に沁みることがあったりして。

ということで、本を読んでいるよりも、本を探しているときの方がどうも
時間的に長かったりするのは、単なる整理嫌いの、私に起因するのでした。

はい。こんなふうに、読みたい私に対して、話題を逸らせる私がいます。

ああそうだ。当ブログで『世にも美しい日本語』の書評を書いたことが
あったのでした。本が読めるまで、それを読みかえしてみます(笑)。
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「冥途のみやげ」に心がけ

2024-02-16 | 本棚並べ
板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)の
第6章「心がけ」から、この前は「尾崎紅葉」の引用を孫引きしました。
そこには、ちゃんと、内田魯庵著「思い出す人々」から引用したとある。
そして、板坂氏は、その引用をしたあとにこう書いて締めくくっている。

「 書いた文章を読んでくれる人に対するエチケットとしても、
  情報収集に執念を燃やすことは、基本的な態度なのである。」(p166)

はい。エチケットですね。ということで、
内田魯庵著「新編 思い出す人々」(岩波文庫・1994年)をひらくことに。

ありました。「紅葉と最後の会見 世間に伝わざる逸事」という小見出し。
ちょいと、板坂元氏の引用から漏れているけど印象的な箇所を
ピックアップしてみます。魯庵との対話のなかに、こんな箇所がありました。

「・・・『 顔だけ見ているとそうでもないが、裸体になると骸骨だ。
   股(もも)なんか天秤棒ぐらいしかない。能く立ってられると思う。』

と大学で癌と鑑定された顛末を他人の咄のように静かに沈着いて話して、


『人間も地獄のお迎えが門口に待っているようになっちゃ最うおあいだだ。
 所詮(どうせ)死ぬなら羊羹でも、天麩羅でも、思うさま食ってやれと
 棄鉢(すてばち)になっても、流動物ほか通らんのだから、
 喰意地(くいいじ)が張るばかりでカラキシ意気地はない。
 まア餓鬼だナア!』

と、淋しい微笑を浮かべた。・・・・・・・  」(p237)

うん。もうすこし引用させてください。

「余り余裕のない懐(ふとこ)ろから百何十円を支払って
 大事典を買うというのは知識に渇する心持の尋常でなかった
 事が想像される。あるいは最後の床の上で『ノートル・ダーム』
 の翻訳を推敲していたからであったかも知れない・・ 」(p241)

はい。魯庵のこの文の最後を引用しておくことに。

「・・・実は紅葉のために常に苦言を反覆したのは
 畢竟(ひっきょう)紅葉の才の凡ならざるを惜しんで
 玉成したかったためであるが、これがために紅葉から
 含まれて心にもなく仲違(なかたが)いするようになった。

 が、瀕死の瀬戸際に臨んでも少しも挫けなかった知識の
 向上慾の盛んなるには推服せざるを得なかった。
 紅葉の真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。 」(p242)


はい。ここでいうエチケットに反するかもしれませんが、
私は尾崎紅葉・内田魯庵のどちらも読まないだろうなあ。
ということで、私の情報収集能力はここまでとなります。
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尾崎紅葉の『冥途の土産』

2024-02-14 | 本棚並べ
津野海太郎著「最後の読書」(新潮社・2018年)のはじまりは、
『読みながら消えてゆく』と題して鶴見俊輔氏が登場しておりました。
鶴見さんの最後が引用されておりました。

「 2011年10月27日、脳梗塞。言語の機能を失う。

  受信は可能、発信は不可能、という状態。
  発語はできない。読めるが、書けない。

  以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、
  翌年4月に退院、帰宅を果たす。読書は、かわらず続ける。

  2015年5月14日、転んで骨折。入院、転院を経て、
  7月20日、肺炎のため死去。享年93歳。 」 (p12)

津野海太郎さんは、この引用のあとに、記しております。

「 名うての『話す人』兼『書く人』だった鶴見俊輔が、
  その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、
  それ以上に、それから3年半ものあいだ、おなじ状態の
  まま本を読みつづけた、そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。」(p12)


昨日本棚から板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)を出してくる。
私が持っているのは(1993年5月6日第28刷発行)のもの。
そこに、尾崎紅葉が登場する引用があったのでした。

「尾崎紅葉がガンで重態だと新聞に報道されてしばらくして、
 紅葉はその痩せほそった姿を丸善の店頭に現わした。
 そのころ丸善で働いていた内田魯庵は驚いて、紅葉を迎えた。・・」(p164)

その時の会話から引用

魯庵】 何を買いに来た

紅葉】 ブリタニカを予約に来たんだが、品物が無いっていうから
    センチュリーにした

魯庵】 センチュリーを買ってどうする?
    それどころじゃあるまい

紅葉】 そう言えばそうだが、評判はかねて聞いているから、
    どんなものだか冥途の土産に見ておきたいと思ってね。
    まだ一と月や二た月は大丈夫生きているから、ユックリ見て行かれる。

魯庵】 そんならブリタニカにしたらどうだ。
    もう二た月もたてば荷が着くから・・・

紅葉】 そうさなあ
    二た月ぐらいは大丈夫と思うが、いつなんどきどうなるかわからん。
    二た月先に本が着いた時、幸い息がかよっていたにしても、
    ヒクヒクしてもう目が見えないでは何にもならない。(中略)

    生きのびようとは思わんが、欲しいと思うものは
    頭のハッキリしている中に自分の物として、一日でも長く見ておかないと
    執念が残る。字引に執念が残ってお化けに出るなんぞ男が廃らあな

魯庵】 むゝ、センチュリーなら直ぐ届ける

紅葉】 これで冥途へ好い土産が出来た ・・・・・・・・・


さて、ここを引用した板坂元氏は

「以前、ノーマン・マルコムの『ヴィトゲンシュタイン』を翻訳しながら、
 私はしばしば紅葉の逸話を思い出した。・・・・」

さてっと、板坂さんは、この最後をこうしめくくっております。

「 なにごとも受身になりがちで、無気力化が問題になっている今の
  多情報社会では、とくにこのような挑戦型の生き方が、
  人間らしく生きるためにも大切になってきている。

  また、書いた文章を読んでくれる人に対するエチケットとしても、
  情報収集に執念を燃やすことは、基本的な態度なのである。  」(p165)

はい。もちろん板坂さんは、途中にこういう言葉をはさみこんでおりました。
最後にそこも引用しておくことに。

「 われわれ凡人には、なかなかできることではないが、
  仕入のためには多かれ少なかれ執念といったものが必要だと思う。 」
  


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70代の読書。

2024-01-12 | 本棚並べ
古本で和田秀樹著「70代からの元気力」(知的生きかた文庫・2022年)購入。
パラリとひらけば、こんな箇所。

「1960年の平均寿命は、それでもまだ男性が65歳、女性が70歳。
 この本の読者層で言えば、ちょうど下の世代の年齢層と言えるかも
 しれません。つまり、1960年であれば、本書のような本は、読者層が
 ほとんど生存していないわけですから、存在し得なかったわけです。

 70代、80代を読者対象にした本がよく売れている日本の現状を考えると、
 とても信じられない気持ちになります。           」(p93)


はい。一年は早い。と年々感じるわけですが、
1月に一年の計を抱かなければ、忘れて過ぎる。

よし、今年は、安房郡長・大橋高四郎のことを
簡単に手に入る本のなかから、抜き出してゆく。
という目標を掲げることに。

それに関して、今年注文した古本といえば、
「千葉県安房郡誌」(編纂兼発行所・千葉県安房郡教育会)。
古書ワルツに注文。5000円+送料520円=5520円なり。

ちなみに、安房郡役所から出た「安房震災誌」は、大正15年3月31日発行。
注文した、「千葉県安房郡誌」はというとこれが、大正15年6月30日発行。

その千葉県安房郡誌の最後に104ページほどで、安房の関東大震災の記録
をコンパクトにまとめてありました。これはたすかる。

パラパラ読みで、通読が苦手な私のようなものは、
とりあえずは、本棚にならべて、あっと過ぎる今年の一年をうらなう。
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買えちゃう本たち。

2024-01-11 | 本棚並べ
地方に住んでます。ネットとかで本が買えない頃は、
新刊でも、地方の書店にない場合は、注文を出して本が届くまでまず1週間。
もちろん、古本の購入は、都会へ出かけておりました。
それだって、ただ漫然と古本屋をまわっておりました。

現在は、有難いですね。ネットで新刊も古本も買えます。
早いと、翌日届きます。新刊だと当日夜届くこともある。
古本は郵便が土日休日配達しないので遅れることもある。
うん。あとは届いた本を読むだけになりました。

古本で注文してあった、「大菩薩峠・都新聞版」全9巻(論創社)届く。
神奈川県海老名市・馬燈書房。5550円+送料1000円=6550円なり。
帯つき全9巻。ページもきれいです。あとは、読むだけ(笑)。

とりあえずは、持っていても未読だった
安岡章太郎著「果てもない道中記」上下巻(講談社・1995年)と並べてみる。

私みたいなへそ曲がりは、最初から読もうとすれば、すぐに挫折します。
正面から向かわないで、裏口から。という手もあり。
何でもいいから私の望みは全巻へ目を通すことです。

さてっと、「果てもない道中記」の下巻。その帯には

「『大菩薩峠』の雄大なスケールを堪能する魅惑の旅」とある。
では、下巻の裏口、最後の方をひらいてみる。

「龍之介を天成のまろうどと呼び、それ故に大菩薩峠の物語は
 一種の貴種流離譚であると言ったのは堀田善衛である。
 このことをどう理解すればいいのだろうか。・・・   」(p404)

そういえば、安岡章太郎著「流離譚」というのがあった。


『果てもない道中記』下巻のいちばん最後の方を引用。


「介山は、昭和19年、終戦の1年前、4月28日に死去した。享年59歳」  
                           (p408)

「当時としては珍しく中国とアメリカへ二度の海外旅行にも行っている。」
                           (p410)

「・・・『大菩薩峠』は、初出原稿こそ都新聞に載ったが、
 あとは介山が指示して家族総出の手造りで出来たもので、
 現在のマス・メディアなどといわれるものとは異質無縁の産物である。」
                           (p414)

ということで、この本の終りの4行を引用。

「 おもえば『音無しの構え』という消極性の極限が
  無比の積極性につうずるという戦法は、

  徳川末期の日本の生んだ極めて日本的な対応法であり、
  現在にいたるまで、これは私たちの骨がらみになった
  世渡りの極意の如きものであろう。

  これを破り、これを越えるには、やはり
  『 忍び踊り 』を踊るぐらいしかないのであろうか。 」(p417)


はい。最後しか読んでないのですから、なにもわからない。
『大菩薩峠』をパラパラ読みで、読み終えるのが今年の夢。
今年の夢が、かないますように。

 



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長谷川伸の職人像。

2023-12-07 | 本棚並べ
吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店・1966年)。
ここに、長谷川伸が登場するのでした。以下引用。

「明治の渡り職人のいく人かについて長谷川伸が書いている。」(p178)

うん。ちょいと飛ばして、この箇所

「土師清二が小説に書いた釣竿作りの名人、竿忠の言葉を
 長谷川はひいている。ある日彼は家人にいった。

『 金をためるな、金をためる気になると、
  金のために竿をこしらえるようになるから、いけねえんだ 』

別の日、また竿忠はいった。

『 金を要意しろ、金を。病人が出た怪我をしたと、
  そのたびごとに他人さまに厄介かけちゃいけねえ  』

これは名言だ。金の重要さと恐ろしさを
最もよく表現したことばである。

一介の職人がもっていたこの金銭観、これが名工、
名職人といわれる者の真実の姿であり、真実の声だった。

金の走狗となって働いてはいい仕事はできない。
と同時にその金の必要な意味もよくわきまえて、金を軽んじてはならない。」
                          (p180~181)

そのすこし前に、渡り職人から派生した
あまりに多い『名人気質の誤解』を指摘してもおります。

「『 汚ない姿をしてすばらしい仕事をやってみせ、
   憎まれ口を叩いて、とびぬけたいい仕事をしてみせるというのは、
   好くない意味でいう名人気質 』と長谷川伸も書いているが、
  ・・・・・・・

  職人は奉仕者であり、注文に応じて
  どんな仕事でもやってのけねばならなかった。
  職人は自分の好みを出してはならない。
  注文者の意を十分にくみとり、
  それを十二分に表現するのが真の職人気質なのだ。
  真の名工とはそうした人たちだった。

  この『好くない意味の名人気質』が、真の名人気質と
  誤解されている場合が余りに多いようである。    」(p180)

うん。幸田露伴にしろ、長谷川伸にしろ、
機会があれば読んでみたいと思っていたのですが、
何しろ私は小説は読めないので、お二人の名前だけ
存じ上げてはおりましたが、そこまででした。

この切り口から、あらためて読み始められますように。
そう思うばかり。

ということで、吉田光邦氏が紹介する長谷川伸の
さわりの箇所を最後に引用しときます。

「明治の渡り職人のいく人かについて長谷川伸が書いている。
 長谷川伸はいわゆる股旅物で知られ、名作一本刀土俵入などで有名な作家だ。
 彼の作のなかでは義理、人情に生きる人間がいつも活躍する。
 と同時にその裏にひそむ人間のみにくさ、
 冷たさにも明確な描写を与えたひとである。
 そうした人間性の本質を捕えたからこそ、
 彼の作は単なる大衆小説でないリアルな味をもっていた。

 同時に長谷川伸は明治になお残っていた、江戸的な人間、
 旧時代的な人間の生き方もはっきり肯定した。

 仕事の修行に必死となり、仕事を第一とする職人たちに
 深い共感をもった。彼の書きのこした職人たちのおもかげの・・」(p178)
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豊かな気持ちに。

2023-11-20 | 本棚並べ
松田哲夫著「縁もたけなわ」(小学館)は
副題が「ぼくが編集者人生で出会った愉快な人たち」。

この本に登場する人は、総勢56名ほど。
その一人一人に南伸坊さんの似顔絵・イラスト。

はい。この単行本をバラして、似顔絵イラストごとにとじて
ベニヤ板サイズのスペースに、トランプみたいにひろげます。
うん。一堂にならぶ似顔絵を見ると豊かな気持ちになります。

一番最初は、小学校の時に図画の先生だった安野光雅さんからです。
そうして、山口昌男・長井勝一(ガロの)・水木しげる・つげ義春
佐々木マキ・呉智英・赤瀬川原平・嵐山光三郎・吉岡実・鶴見俊輔
東海林さだお・柴田翔・種村季弘・野坂昭如・井上ひさし・松下竜一
小沢信男・天野祐吉・杉浦日向子・森毅・藤森照信・秋野不矩・和田誠
小林信彦・吉村昭・津村節子・津野海太郎・大田垣晴子・南伸坊・・・・・
うん。書ききれないので何人か端折りました。

はい。南伸坊の似顔絵イラストだけで、何だか豊かな気持ちになります。

小沢信男著「ぼくの東京全集1951‐2016」ちくま文庫の
小沢信男氏のあとがきには、こうありました。

「・・数枚書けば終わってしまった若者が、70歳をまたいで
 3年間ほどの仕事で、じつに700枚。筑摩書房の松田哲夫氏の
 示唆とはげましのおかげで、2000年2月に刊行、達成感がありました。
 おもえば筑摩書房の方角が私の恵方なのか。
 足をむけて寝られません。・・・   」(p538)


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わかりにくかった時代

2023-11-14 | 本棚並べ
鶴見俊輔著「期待と回想」(朝日文庫・2008年)。
この本の副題は「語り下ろし伝」とあります。

この朝日文庫の解説が津野海太郎。解説の題は
『マチガイ主義がわかりにくかった時代』(p602~608)。

ところで、おさらい。
鶴見俊輔は、1922年東京生まれ。

「鶴見さんに質問をぶつけて、じっくり話を聞いてみたい。
 それをまとめて本にしたらどうか。 」(p596・塩沢由典)

その質問の会が10回(1993年~1996年)。
ちょうど、鶴見俊輔が70歳を過ぎてからの語りが
この本となっておりました。

解説の津野さんの文には、
「 60年代から70年代にかけて、同年配の友人たちにくらべれば、  
  私(津野)は鶴見の著作にけっこう持続的にしたしんでいた
  ほうだと思う。  」(p606~607)

そして、こうありました。

「 むかしの私に『マチガイ主義』がのみこみにくかったのは、
  おそらく私のうちに、なんらかの『マチガッテハイケナイ主義』が
  根をはっていたからにちがいない。・・・・

  なんにせよ私は、まちがいに価値をみいだす習慣を身につけることなく、
  まちがうことをおそれ、正しいことをいわなければとのみ思いつづけて
  若い時代をすごしてしまったらしいや。 ]


それでは、鶴見さんのいう『マチガイ主義』の定義とは。
そこも、解説に引用されておりました。

「 マチガイ主義(falliblism)
  絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性、
  これらは、われわれの経験的知識の達し得ない所にある。

  われわれの知識は、マチガイを何度も重ねながら、
  マチガイの度合の少ない方向に向かって進む。
  マチガイこそは、われわれの知識の向上のために最も良い機会である。

  したがって、われわれが思索に際して仮説を選ぶ場合には、
  それがマチガイであったなら最もやさしく論破できる
  ような仮説をこそ採用すべきだ。         」(p603)
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巡礼。東京をゆく。

2023-11-10 | 本棚並べ
小沢信男著「東京骨灰紀行」(ちくま文庫・2012年)の
はじめの方をパラリとひらく。
はじまりは「ぶらり両国」。まず地図があり、
隅田川にかかる両国橋から、両国駅。両国国技館。下には回向院。

つぎは「新聞旧聞日本橋」。その地図は、両国橋をわたって
馬喰町・横山町。小伝馬町。

はい。この第一章と第二章をひらいてくると、
ああこれは、京都の古寺探訪の東京版なのかもと思えてきます。
残念、京都古寺の自然を期待したい向きには期待はずれですが、
『そうだ』とつづいて、両国、日本橋、千住、築地、谷中、多磨、新宿へ。

おっと、私は両国と日本橋を読み齧っただけでした。
私の経験だと、最後まで読んじゃうと、かえって黙っていたくなるのに、
パラパラ読みだと、妙に語りたくなるのでした(笑)。

では、私は行ったこともない回向院あたり。
「これぞ明暦3年(1657)陰暦1月に江戸市中を焼尽した大火の慰霊塔ではないか・・・18年後の延宝3年(1675)の追善建立でした。・・・ 」

「はやい話がそれまで隅田川に橋がなかった。
 千住大橋以外には。川は重要な軍事境界線だった。
 そのために火勢に追われた大群衆が、焼かれたくなければ溺れてしまった。
 回向院の過去帳には・・・・
 写しとりながらたじたじとなる。大火の焼死溺死者のみならず、
 この江戸城下で行き倒れ、牢にぶちこまれ、殺し殺され、
 ろくでもない死にざまの連中すべてを、いっそまとめてひきうけるぞ、
 という大慈悲心の碑なのだな。・・・」(~p12)

 「・・・この無辜の犠牲者を弔う回向院を、お詣りせずにおられようか。
 そこで本堂めがけて橋を架ける・・・万治2年(1659)末に落成、
 大橋となずけた。西は武蔵、東は下総、二つの国境いの大川を、
 歩いて渡れるありがたさよ。そこで通称両国橋。
 やがて正式名称となった。・・・」(p16)

こうして、はじまっておりましたが、
第一章の最後の方をめくれば、植草甚一。

「『植草氏』と台石に刻まれた墓。
 側面に『浄諦院甚宏博道居士』とあるのが、
 散歩と雑学の植草甚一の戒名です。
 昭和54年(1979)12月歿、享年71歳。
 葬儀のおりは多数の若者たちがここに参集し、 
 トランぺッターの日野皓正が葬送曲を吹き鳴らしたという。・・
 植草家は、日本橋小網町の老舗の木綿問屋でした。

 このお墓のななめうしろに『平田禿木之墓』がある。・・・
 平田家は、日本橋伊勢町の絵具染料問屋でした。

 日本橋なんだよなぁ。・・・
 鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春のこの町には、
 各種問屋が軒をつらねて日本中の物産を集散していた。

 明治となるや文明開化の舶来品もどっとここへ。
 かの丸善が日本橋なので、そこらの横丁にソロバンよりも
 横文字が達者なドラ息子たちが輩出するのも、むべなるかな。

 禿木コト喜一は山の手風の文化人になりすまし、
 甚一はコスモポリタンの足をニューヨークへものばしたあげくに、
 身まかればやっぱり両国へもどって眠っているなんて、ズルいよねぇ。
 そうだ、日本橋へ行こう。 」(p26)

こうして、つぎの『新聞旧聞日本橋』へ、つづくのでした。
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ワープロ(パソコン)のおかげ

2023-11-05 | 本棚並べ
松田哲夫著「縁もたけなわ」(小学館・2014年)に
小沢信男さんが登場する場面がありました。

読んだこともない方なのですが、
何だか小沢さんの本が読みたくなり気になるのでした。

「自他ともに許す『筋金入りの怠け者』である小沢さん・・」(p157)

とあります。松田さんとの付き合いがはじまる場面では

「小沢さんとつきあうようになってわかったのだが、
 この人は視点がいい、文章がいい、その上、人柄がいい、
 まさに三拍子揃った作家なのだ。・・」(p156)

松田さんは、小沢さんに本を書かせたいと面とむかっていうのでした。

「ぼくは、そういう小沢さんが歯がゆくてならなかった。
 彼が70歳になったころに、酔った勢いで、

『 小沢さん、もういい年なんだから、
  いつまでも命があると思っちゃあダメ。
  ライフワークを書くべきです 』

 などと失礼なことを口走ってしまった。
 小沢さんは、ニコニコ笑いながら、盃をなめていた。 」(p156~157)


こうして、「評伝『 裸の大将一代記  山下清の見た夢 』が
2000年に完成し刊行された。72歳にして、初の書き下ろしとなった。」(p157)

「82歳になった小沢さんは、さらに『東京骨灰紀行』を書き下ろす。」

はい。わたしはそのどちらも未読。
そもそも小沢信男さんというのを知らない癖して、
最後の箇所を読むと、何だか同時代性を感じます。
それは、この箇所。

「ますます元気な小沢さんを訪ねてみた。
 すると、若い頃は、
『 ・・・親のスネをかじっていたので、どこかで
  ≪おりてる≫という感覚だった 』という。

 では、老年の旺盛な執筆の理由はと聞くと、
『 60代後半に出会ったワープロ(パソコン)のおかげ。
  原稿用紙に向かうプレッシャーがないし、いくらでも
  書き直せるので、書くのが楽になった 』という。・・ 」(p158)


お歳はだいぶ違うのですが、そうそう
『 原稿用紙に向かうプレッシャー 』という感じを、
このところ、学校以来ですが久しく忘れておりました。

ということで、松田さん「縁もたけなわ」をひらけば、
いろいろと本の紹介にもなっていて、選べるのですが、
ここは一番、『裸の大将一代記』を読むことにします。

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西尾実と大村はま。

2023-10-23 | 本棚並べ
長野県で、私が思い浮かべるのは、
大村はま、藤原てい(夫・新田次郎)の師弟関係です。
ということで、そこらですっかり忘れていたのですが、

先頃パラパラとひらいていた
西尾実著「作品研究つれづれ草」(学生社・1955年)の
著者略歴は、こうはじまっていたのでした。
「明治22年5月14日、長野県生まれ・・・」

ここは、西尾実年譜をひらき、はじまりの方
出生地の長野の関連を引用しておきます。

  明治22年(1889)長野県下伊那郡・・・生まれ。

  明治36年(1903)15歳大下条尋常高等小学校補習科を卒業、
  同郡下条村合原の医師、中島定雄方の薬局生となる。
  8月、兄寿太郎死去、その後、薬局生をやめ、
  豊村和合尋常小学校の代用教員となった。

  明治39年(1906)18歳長野市の長野県師範学校に入学。
  明治40年    夏、2年生の戸隠高原植物採集旅行に参加した。
  明治41年    秋、浅間山・〇氷峠・妙義山・下仁田鉱山・
          大日向峠へ、学年全員で鉱物採集旅行をした。
  明治42年    春、4年生の関東管外旅行で、東京・横浜・
          鎌倉・江の島に行く。
          『 信濃博物学雑誌 』編集員となる。
  明治43年    3月、長野県師範学校を卒業し、
          下伊那郡飯田尋常小学校訓導として赴任した。

  明治45年(大正元年)24歳6月農事休暇を利用して上京し、
          東京帝国大学文学科選科(国文学専攻)・・願書提出。
          9月13日、明治天皇御大葬の当日、入学試験・・・
          9月30日付で大下条尋常高等小学校を退職、上京して、
          ふたたび学生生活に入った。中途退学しようとして
          ・・たしなめられて、思いとどまった。

  大正3年(1914)26歳『信濃教育』の雑誌編集主任になった
          長野師範時代の恩師からの依頼で、東大で聴講した
          講義を整理したものや、提出したレポートを投稿する


ということで、また、大村はまを、西尾実との関連の視点で
読み始めたら、楽しめるような気がしてきました。

ということで、徒然草→西尾実→大村はま。
また、『大村はま』を楽しめますように。
なんせ、あれからちっとも開いてないけど、
私は古本「大村はま全集」買ってあります。

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今、会いたい人はいますか?

2023-10-19 | 本棚並べ
「絵の旅人 安野光雅」(ブックグローブ社・2021年)の表紙の題名の下に
副題らしき小文字で「 思い出を語る人たち 伊藤元雄 編 」とあります。

あとがきにかえてには、こんな箇所

「2020年・・福井さんは打ち合わせが一段落した時に安野さんに
『 今、会いたい人はいますか 』と聞いたら

『 司馬さんだなあ。司馬さんと会っていると楽しいのよ。
  いつも前向きで、同じことを言わない人だった 』と、

 なつかしそうに語ったといいます。 」(p218)

今日になって安野光雅著「絵のまよい道」(朝日新聞社・1998年)が届く。
うん。本の帯に「週刊朝日連載」とあります。
おわりの方をひらくと

「書きながら、司馬さんは毎週この三倍もの長さの『街道をゆく』を、
 一千回以上書いてきたんだからな、などと思った。

 そもそもこの連載は司馬さんが亡くなったときの
 精神的空白のためにスタートしたようなところがある。・・ 」(p258)

「これを書いているいまは、司馬さんが亡くなってから二度目の
『 菜の花忌 』をむかえようとしている一月末である。 」(p259)

「・・・72歳だった。司馬遼太郎が亡くなったのも72歳である。
 『街道をゆく』の題字を書いた棟方志功も72歳だった。
 そしてわたしの父も72歳だった。  」(p260)

ということで、本の最後には

「 いま気がついた。72歳というのは一種の還暦で、
  12で割り切れる。格別の意味はないが・・・。  」(p261)

うん。本は、わたしにはお薦めの本といえるようなものではないのでした。
そうそう、『若い頃の自前の個展』にふれた箇所がすぐに見つかりました。
最後にそこを引用。

「まず会場を借り、案内状を刷り、作品を搬入してそれを飾り、
 サイン帳や茶菓子などを用意して、
 ふりかかる針のような視線に耐える期間のことである。」(p13)

「・・・個展は表現というものの宿命的な祭りなのである。
 だから、何を言われてもしかたがない。・・・・

 むろん絵が売れるということは奇跡に近い。
 しかしその頃は、どんなに純粋に、はるかな芸術の姿を
 夢みていたことだろう。

 その個展というパフォーマンスは、作品の良し悪しは別にして、
 いじらしいまでに感動的なものなのである。 」(p14)



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作家と編集者と

2023-09-30 | 本棚並べ
井波律子著「書物の愉しみ」(岩波書店・2019年)。
この書評集で紹介されている
堀田百合子著「ただの文士 堀田善衛のこと」(岩波書店・2018年)が
気になって古本で注文。それが届く。

さっそくパラパラめくっていたら、編集者と作家のことが
気になりました。

父・堀田善衛の内輪話に
『 作品の善し悪しは、編集者の善し悪しで半分決まる 大事だ 』(p197)
とあるのでした。

宮崎駿さんが訪ねてきたことに触れて、堀田善衛氏は娘にいっています。

『宮崎さんは『方丈記私記』が好きらしい。エライ人だ。・・』(p189)

本のはじめの方に、『方丈記私記』と編集者のことが出てきておりました。
最後にそこを引用しておくことに。

「1970年7月、筑摩書房の総合雑誌『展望』に『方丈記私記』の
 執筆を開始。翌年4月号までの連載でした。・・

 当時の、父の担当編集者、岸宣夫氏に執筆時の話を伺いました。
 当初、『方丈記私記』は連載もなく、単行本になる予定なども
 なかったのです。・・・・

 PR用の予告も出た。しかし、父(堀田)は書かない。
 では、『展望』に連載して、仕上がったら・・・と提案され、
 父は、それなら出来るかもしれないということで、連載が開始されたのでした。
 
 岸さんは、数年前に『展望』編集部に配属されたとき、
 誰が堀田善衛の担当をするかということになり、
 即座に手を挙げたそうです。・・・・

 以来、父が亡くなるまでの30年、父は担当編集者は
 岸さんでなくては駄目だと言い、営業部に異動しても、
 教科書部に異動しても、筑摩書房での父の仕事はほとんど岸さんが担当。
 単行本も、二度の全集も、岸さんが編集作業をしてくださったのです。」
                        ( p70~71 )

この次のページに『方丈記私記』のはじまりが引用されておりました。

「 私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、
  われわれの古典の一つである鴨長明『方丈記』の鑑賞でも、
  また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。

 『方丈記私記』は、この一文で書き始められたのでした。
 連載は、原稿が滞ることもなく、淡々と進められていったそうです。

 が、一度だけ――70年11月、父は第四回A・A作家会議ニューデリー大会
 に出席するため出かけなければならない。
 翌日がその出発日というときに、
『 岸さん、原稿が間に合わない。今日は手伝ってくれ 』
 と言われたそうです。

 岸さんは父の指示した岩波の日本古典文学大系『方丈記』からの
 引用文を書き写し、父に渡す。父はそれに続けて原稿を書く。

 そして岸さんは、次に引用文を書き写す。その繰り返しで、
 深夜に原稿は出来上がったそうです。
 わが家に泊まり込んで、父の仕事の手伝いを
 してくださった編集者は、岸さんただ一人です。

 後日談があります。・・・
 『 岸さん、あんな装丁の本はイヤだ 』・・次に、
 『 岸さん、10章分それぞれの章のタイトルを考えてください 』
 だそうです。・・・

 岸さん、編集者になって初めて作った単行本です。
 そしてこの『方丈記私記』は71年11月第25回毎日出版文化賞
 を受賞したのでした。よかったです。
 父にとってではなく、岸さんにとって、です。

 その後、ちくま文庫に入った『 方丈記私記 』は、
『 インドで考えたこと 』に続く父のロングセラーです。・・・
 後に、父は『方丈記私記』の生原稿を製本し、
 岸さんにプレゼントしました(現在、神奈川近代文学館所蔵)。」(~p73)
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