和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

20歳前後に読んだ本。

2025-02-19 | 本棚並べ
内村鑑三は、1861年(万延2年)~1930年(昭和5年)
正宗白鳥は、1879年(明治12年)~1962年(昭和37年)

年譜を見ると、正宗白鳥は70歳(昭和24年)の時に、
「内村鑑三」を雑誌に連載しておられる。
そこから、引用しておくことに。

「 ・・私も少年期青年期には、いろいろな方面に渡って
  さまざまな人間に心酔したのであった。
  そのうちで誰にもまして私が心酔したのは、
  内村鑑三であったように思われる。何故であるか。

  20歳前後の数年間、内村の筆に成る者はすべて熟読し、
  その講演は聴き得られる限り聴いた。
  青年期にそれほどに心酔していたとすると、私の一生に
  彼の及ぼした感化影響は容易ならぬものであった筈だ、
  と想像されるが、果して異常の感化を受けていたであろうか。
 
  老後の私はそれを考えている。そして、
  昔読んだ初期の内村の作品を読み返して、
  わが受けた感化の真相を検討しようとしている。 」
   ( p22 正宗白鳥著「内村鑑三 わが生涯と文学」講談社文芸文庫)


あと一か所引用しておきます。

「 私は病後、まだ癒り切らぬ弱い身体を引提げて上京した。
  下宿屋の粗末な食事に安んじて学校通いしていたが、
  私の身体は見掛けは弱いようでも、心は強いところがあるのか、
  次第に気力は回復し、学問修行に堪えられるようになった。
  ・・・・・・・
  あの頃の私には内村第一であった。彼によって刺激され、
  彼によって智慧をつけられ、彼によって心の平和を得る
  道を見つけんとしたのであった。
  内村は演説がうまかった。
  植村(正久)の説教を聴いていると、眠くなるようであったが、
  内村は我々を昂奮させ、眠い眼をも醒まさせるのであった。
  押川方義はあの頃の基督教界の雄弁家であったが、
  これは世俗的雄弁家で、内村は精神的雄弁家であった。
   ・・・・・
  私は独りとぼとぼと読んでいたのであったが、
  内村の聖書の解釈が直裁であり、基督教観に、
  他の伝道者の説と異った独自一己の趣があるのに心惹かれ、
  それによって、我が聖書の読み方が生きて来るような
  気がしたのであった。 」 ( p23∼24 同上 )


20歳前後に読んだ本は、私は何だったかなあ。
「日本人とユダヤ人」は、読んでおりました。
さてっと、これくらいにして、これから未読の
内村鑑三の著作を文庫本でもって、読んでみようと思うのでした。

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「暮しの手帖」と「聖書之研究」

2025-02-17 | 本棚並べ
「暮しの手帖」といえば、花森安治。
そして「聖書之研究」が、内村鑑三。
どちらも、雑誌に広告を出しておりませんでした。

講談社学術文庫の「内村鑑三文明評論集」1~4巻には、
その各巻ごとに、山本七平の序が載っております。
その「第二巻の序」に興味深い箇所がありました。

『本誌の為さざること』の中に、次のように規定している。

    商売人に広告を依頼しない、
    名士に寄書を乞わない、
    人に寄付金を乞わない、
    人の著書を批評しない、
    人物評を掲げない、
    主筆の精読を経ざる文章を掲げない、
    人に購読を進めない、
    誠実の存するあれば文章をかまわない。


ところで、この本のはじまりには、山本七平による
『 内村鑑三と「 聖書之研究 」 』という文がありました。
今回の最後には、そこから引用させていただきます。

「 彼(内村)はなんぴとにも顧慮せず、一切の気兼なく発言できた。
  そしてこれを支えたものが、自らが経営し経済的に自立し立派に
  採算に乗っていた『聖書之研究』誌であった。
  ここが、世俗を超越しているようなジェスチュアをしつつ、
  実際は世俗に寄食していた人びとの発言と違う点である。
  
  そしてこの基盤を維持しつづけたという点で彼は、
  一事業者としても凡人ではない。40歳で、徒手空拳、
  無資本で独力で何の背景もなく、常識では現在ですら
  採算が乗り得ないはずのこの特異な雑誌を創刊し、
  爾後約30年、通算357号、その死に至るまで立派に発行しつづけ、
  その間ただの一度も経営的危機に見舞われていない。
  そしてこの経営によって社員を養い、自らと家族の生活を支え、
  ・・・・・・・

  一銭の寄付を求めず、ミッションの援助もなく、
  しかも30年間、印刷所への支払い日と入校日を
  一日もたがえたことがないという実績は、
  その堅実さを物語っている。
  私が彼を世俗の人としても決して破綻者でなく
  むしろ成功者であったと記したのは、以上の意味である。

  そしてこれが、彼の社会への批評が生きた批評であり同時に、
  すべての『 現実に日本という社会に生きている者 』にとっては、
  その現実の姿を的確に論評しつくしたという点で、
  一つの指標となり得る批評である。・・・   」
  ( p4~5 山本七平編「内村鑑三評論集 勝利の生涯」上巻・山本書店)
  

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山本書店

2025-02-10 | 本棚並べ
山本七平編「内村鑑三文明評論集」全4巻(講談社学術文庫)
というのが昭和52~53年に出ておりました。
山本七平氏は、1921(大正10)年生まれ、1991(平成3)年永眠。
そして、1994年に山本書店から、この内村鑑三評論集が上下巻で
出版されております。最初に山本書店店主 山本れい子の短文があります。

「 このたび、講談社のご厚意により『内村鑑三文明評論集』1~4巻を
  上下2巻にまとめて『勝利の生涯』として発行させていただくことに
  なりました。亡夫七平が内村先生の言葉を通して訴えたものは、
  先生の生きざまであり、それが七平の生涯でもあったように
  思えてなりません。皆様も勝利の生涯を送られますように
  お祈り申し上げます。・・・・    」

この上下巻の帯の背には、「 山本書店『復活』の新刊! 」とありました。
むろん、私のことですから、本文を読んではおりませんが、
この本のはじまりに山本七平氏の「内村鑑三と『聖書之研究』」が載っており
こちらは、読ませていただきました。
8ページほどの全文を味わって読みました。ここでは
そのはじまりの箇所だけを引用しておきます。

「 内村鑑三は、おそらく、あらゆる人が
  自分の位置で相対してよい人物であろう。

  そして私(七平)が、一出版者として彼と相対した場合、
  そこに見えるのはまず『 聖書之研究社 』という
  月刊雑誌の出版者であり、その成功せる経営者であり
  かつ名編集者兼主筆としての彼である。

  ということは、学者・評論家・歴史家・宗教家等が見る姿と
  別の姿が、否応なく私の目に入って来て、
  それ以外の視点で彼を見ることができない、ということである。
  生きている人間が、自分の言葉を本当に生きた一人間に対するとき、
  こうなるのが当然であろう。

  そして、そう見えた内村は、私にとっては、
  宗教家・思想家・学者・著作家として何らかの特別な世界、
  いわばさまざまな意味の≪象牙の塔≫の中で生きた人間でなく、
  むしろ世俗に生きた人、そして世俗社会を立派に生き抜き、
  決して破綻せず、生涯を通観すれば
  その社会でも成功者とさえ言える人であった。・・・     」 


はい。ここで、出版者の視点から内村鑑三を語りはじめられております。
こうもあります。

「・・内村が『聖書之研究』を創刊したのは明治32年、40歳のとき、
 西暦でいえば1900年であった。そして昭和5年(1930年)70歳で
 この世を去るまで、この雑誌の発行が彼の事業の中心であった。
 生涯のうち30年を投じた事業は、文字通りに
 ≪ その人の生涯 ≫であったといえる。
 そしてこの30年の開始、すなわち40歳に至るまでに、
 内村には実に長くて苦しい試行錯誤の時代があった。・・・・  」


はい。雑誌「諸君!」の廃刊では、山本七平はもう亡くなっておりました。
今年は、内村鑑三と山本七平と、関連してあちこち齧り読みできますように。
そんなことを思う2月なのでした。

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フクタコウゾン?

2025-02-09 | 本棚並べ
『諸君!』の最終号は2009年6月号でした。
ちなみに、
小林秀雄   ( 1902~1983 )
白洲次郎   ( 1902~1985 )
田中美知太郎 ( 1902~1985 )
清水幾太郎  ( 1907~1988 )
福田恆存   ( 1912~1994 )
林健太郎   ( 1913~2004 )
山本夏彦   ( 1915~2002 )
山本七平   ( 1921~1991 )
三島由紀夫  ( 1925~1970 )
江藤淳    ( 1932~1999 )
高坂正堯   ( 1934~1996 )

以上は、『諸君!』最終号では、もういらっしゃらない方々でした。
そこで、最終号では思想家列伝『輝ける論壇の巨星たち』と題して、
その人となりの紹介文を、一人一人別の方々が書いております。

さて、「『諸君!』と私」ですが、
曽野綾子さんの次からのお名前を列挙しておきます。
深田祐介・屋山太郎・金美齢・佐瀬昌盛・山崎正和・平沼赳夫
渡辺利夫・立花隆・黒田勝弘・長谷川三千子・山内昌行・鹿島茂
関川夏央・阿川尚之・東谷暁・井上章一・荒木和博とあり
このあとに、石破茂の名前がありました。
石破茂・坪内祐三・福岡伸一・佐藤優・福田和也・櫻田淳と
続いておりました。

うん。ここは、石破茂(当時・農林水産大臣)の文のはじまりを
引用しておくことに。

「 『諸君!』が創刊された昭和44年、私は鳥取の中学1年生であった。
  当時鳥取県知事であった父が、夕食時、母に向かって
   『 「諸君!」にフクタコウゾンがこう書いているが、
     あれはなかなか面白いぞ    』
   と言っていたのが記憶の残っている。
   雑誌と言えば『少年サンデー』か『少年マガジン』しか知らなかった 
   私には、『諸君!』が保守論壇誌の名前であることも、
   フクタコウゾンが高名な戯曲家であることも、知る由もなかった。

   やがて中学3年になった頃、父は何を思ったのか
   『 まあ、これを読んでみろ 』と言って  
   私に一冊の『諸君!』を手渡した。・・・      」(p187)

ここには、以下の引用はカット。ここには、
父が、漫画好きの息子に『 まあ、これを読んでみろ 』といって
『諸君』を手渡したしていたことがわかるのでした。

ちなみに、『諸君』と『諸君!』との違いを正確に指摘していたのは
長谷川三千子さんでした。そちらも引用。

「 40年前、はじめて『諸君』
  ( そのときはまだ『!』は付いてゐなかつた )
  を読んだときの衝撃は忘れられない。
  それまで、雑誌などといふものは、
  ただ何となく時間をつぶすためにあるもので、
  雑誌を読んで膝をうつて『 そうだ! その通り! 』
  と叫びたくなることなどありえないと思つてゐた。
  ところが、実際、そういふことがおこつたのである。

  東大紛争の片がついてまだ半年しか経つてゐなかつた頃である。
  世の中の新聞も雑誌も、全共闘は『 純粋 』で『 根源的 』だ
  といふ思ひ込みに首までどつぷりとつかつてゐた時代である。

  さういふ記事を読むたびに、連中と延べ何十時間も討論して
  彼らの思考停止ぶりをイヤといふほど知つてゐる私は、
  『 ウソをつけ! 』と心中ののしりつつ、
  腹にすゑかねる思ひをしてゐた。それを見事に覆してくれたのが、

  『 諸君 』第4号に載つてゐた
  『 東大覆面教官団のアングラ論文集 』であつた。・・・
  ハツキリと、しかもエスプリの効いた文章で語つてくれてゐる――
 
  大袈裟でなしに、紛争以来ずつと心の内にわだかまつてゐた
  孤独な憤激をいやされる思ひであつた。・・・・    」(p178)

この長谷川三千子さんの文の最後も引用させてください。

「 すぐに手軽に共感を得られるやうなネットの
  『 オピニオン 』言論が盛んになればなるほど、
  他方で、本当によく練り上げた、力のある文章を
  世に問ふ場の必要性といふものは、かへつて増すのではあるまいか。

  少くとも私は、これからも変らず、
  さういふ文書を目指しつづけたいと思つてゐる。  」(p179)


たしか、私はこの文を読んでいたのに、長谷川三千子氏の
本を読んでいない。フクタコウゾンと呼ばれようと、
福田恆存(ふくだつねあり)と呼ばれようと、こちらも読んでいない。
これから、パラパラでも読めますように。

ということで、今回の『諸君!』最終号再読はここまで。


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ほとんど唯二人

2025-02-08 | 本棚並べ
雑誌『諸君!』2009年6月最終号の特集
「『諸君!』と私」は、中曽根康弘の文からはじまっておりました。
中曽根氏のはじまりだけを引用。

「 40年前、『文芸春秋』が総合的雑誌で思想的には中道であるのに対して、
  『諸君!』はやや右のラインをとり、当時全盛だった岩波書店を中心と
  する左派に対抗する恰好で誕生した。激動の時代を迎えた日本で、
  保守言論人にとっては胸のつかえを晴らす場所が与えられたわけである。」

つぎに、池辺良・山本卓眞・渡邉恒雄・勝田吉太郎・田中健五・岡崎久彦・
佐々淳行とならび、佐々さんのつぎが曽野綾子でした。

はい。今日は曽野綾子さんの文の後半を紹介。

「 ・・・私は『ある神話の背景』という題で、
  『諸君』の1971年10月号から1年間連載させてもらった。

  『諸君』編集部に対する言論界の風当たりは強かっただろう。
  沖縄の言うことはすべて正しく、それに対していささかの反論でも
  試みる者は徹底して叩くというのが沖縄マスコミの姿勢だったが、

  その私を終始庇ってくれたのが、
  田中健五編集長と、私の担当だった村田耕二氏だった。

  或る日、一度だけ私は遠回しに村田氏に、
  『 多分ご迷惑をおかけしているんですね 』と
  言ったことがある。すると村田氏は
  『 社の前に赤旗の波が立ってもかまいませんよ 』と
  言う意味のことを言った。
  反対する人たちがいたらどうぞご自由に、という感じだった。

  田中編集長と村田氏は時の潮流に流されなかった
  ほとんど唯二人の気骨ある編集者だった。

  私は『諸君』の終巻を心から悼むが、
  経済的な理由で終わりを告げることには、
  むしろ自然なものを感じる。
  これが思想的な弾圧でなくて良かった、と喜んでいる。
  と同時に歴代の編集者たちの苦労を深く労いたい。   」(p166)


はい。今回は、曽野さんのこの引用で終わります。

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というものであった。

2025-02-07 | 本棚並べ
雑誌『諸君!』2009年6月最終号を本棚からとりだす。
最初の巻頭コラムは『紳士と淑女』(え・山田紳)。
巻頭コラムの最後には、『読者へ』という2ページ。

「・・ガン宣告と前後して、『諸君!』の編集長から電話があった。
『 やむを得ない事情により、『諸君!』が休刊に決まりました。・・ 』
 そうですか、長らくお世話になりました、と言って、私は電話を切った。」

この2ページの文の最後で、はじめて名前が明かされておりました。

「 なお、30年にわたって、ご愛読いただいた
  『 紳士と淑女 』の筆者は、徳岡孝夫というものであった。 」

特集の中に、「 『諸君!』と私 」という各界の署名短文が並んでいて、
当時もいちおうパラパラと読み流していたのですが、今あらためて再読。
うん。この雑誌のこの号は、古本で買えるのかどうか?
ここは、何回にもわけて、当ブログに引用したくなります。
たとえば、渡邉恒雄(読売新聞グループ本社会長・主筆)は
こう文をはじめておりました。

「 毎号『諸君』を手にして、とびつくように読んでいたのは、
  巻頭の匿名時評『 紳士と淑女 』だ。
  巧みなユーモアと、批評の切れ味の良さは、
  時には抱腹し、時には感嘆し、読後満足感にひたらせる。
  誰が執筆者か知らぬが、休刊によって『 紳士と淑女 』の
  読後の快感を味わうことが出来なくなるのは本当に残念だ。
 
  『諸君』は一貫してポピュリズム(大衆迎合)を排し、
  時局の中枢を突く批判精神で編集を続けて来た。
  通読するに便利な適度の頁数で、
  私はバックナンバーを書斎に陳列して来た。・・・  」(p158~159)

うん。この書斎に陳列してあった『諸君!』は、今、どうなったのだろう。
どういうわけだか、私の本棚には、この最終号だけは保存してありました。
この「『諸君!』と私」に執筆した方々の名前を列挙するのもいいのですが、
明日も、当ブログで、この方々の文を紹介してゆきたいと思うのでした。


ちなみに、『 諸君! 』の巻末コラムを担当していた
山本夏彦は、2002年10月23日に亡くなっておりました。


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非常にいい感じの言葉

2025-02-06 | 本棚並べ
昨日は、主のいない家の裏の枝切り、及びドブ掃除。
それを午前中で終らせ、午後はマイナンバーカード更新で支所へ。
せっかく出たので、風が吹くなか、神社2社へとお参りに。
滝の口下立松原神社は、石段で、途中足がひっかかりつまずく。
普段運動をしてない私には、石段は心臓バクバクもので要注意。
かさねて、健康を祈願する。来年こそ、順調に上れますように。
つぎに、安房神社へ。そして5時頃に回転寿司で
早めの食事をすませて、家へ帰りお風呂を沸かす。
考えてみれば、ドブ掃除をし着替えただけでした。

廃刊になった『 諸君! 』について、気になるので
とりあえず、ある本を並べてみる。

白川浩司著「オンリー・イエスタデイ 『諸君!』追想」(小学館・2011年)
最終号『 諸君!』(文藝春秋2009年6月号)
「 諸君!の30年」(文藝春秋・1999年)
「司馬遼太郎が語る雑誌言論100年」(中央公論社・1998年)

4冊目の帯にはこうありました。
   「 ジャーナリズムがカチッとしていなければ
     芯のない世の中になってしまう  」 司馬遼太郎

たいてい、帯の言葉は、本文のどこかからの引用だと踏んで
その箇所をひらくと、ありました。
今回はそこを引用してみます。

粕谷】 ・・・マスコミという言葉はあっても、ジャーナリズムという
    言葉はあまり出てこない。言論というものは何なんだろうかと
    考える必要がありますね。マスコミとは違う、情報とは違う
    言論というのは何なんだろうかということを考える。
    そういう影響力を持つジャーナリズムといいますか、
    そういうことをいま考えることが、僕はやはり大事なこと
    じゃないかという気がしているのですが。

司馬】 そうですね。それだけが、つまり極端にいうと、
      将来への希望のロープになりますね。

   私よりずっと年上の人で、20年ほど前によくつきあっていた、
   岡本博さんという毎日新聞の記者がいました。
   40代のころは映画評論をやっていたと思いますが、すぐれた人です。
   ちょっと独特の語彙を持っている人でもありました。
   この人は何か重要なことを聞いたときに、よく言っていました。
   『 ああ、それはジャーナリスティックですね 』
   ジャーナリスティックという言葉は、アカデミックの反対の、
   いやな言葉として、戦前、学者の世界でよく使われた低い言葉でした。
   ところが彼は、非常に高い言葉として言っていましたね。
   だんだん聞き慣れてくると、こう考えるようになりました。
    ・・・・・・・・・・・・

   ジャーナリズムには、そこだけは空虚であり、エンプティ―な面が
   必要だということでしょう。いろいろな価値があって、
   エンプティ―のところを一つつくっておけば、
   非常に精選されたものが出てくる。その成果によって 間違いなく
   世の中が進むという意味で、彼は使っているのだろうと。

   僕はそう解釈して、非常に感動的に思ったことがあります。
   非常にいい感じの言葉でした。マスコミという言葉とは違うんですね。
   マスコミという言葉は、もともといろいろな関係を持ち合うことです。
   しかもだんだんパターン化していって、ファッションになっていく
   だけのものであり、ジャーナリズムという言葉とは違う。

   ジャーナリズムというものがカチッとしていなければ、
   芯のない世の中になってしまいますね。・・・・・
   芯のない世の中になったらどうなりますか。・・
   言論がもう一度見直されていい時期ですね。  」
          ( p87~88 「司馬遼太郎が語る雑誌言論100年」 )
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『老い』の古本。

2025-02-01 | 本棚並べ
寒いせいか、腰の痛さがひけない。
喉は直ってきてても時々咳き込む。

あてもなく買ってあった古本から『老い』をテーマに、
ちょうど読む気もしないので今日は探しておりました。


 塩尻公明著「老春と青春」(神戸近代社・昭和35年)
 河合隼雄著「老いのみち」(読売新聞社・1991年)
 沢村貞子対談集「老いの語らい」(岩波書店・1997年)
 河盛好蔵著「老いての物語」(学芸書林・1990年)
 キケロ著「老年の豊かさについて」(法蔵館・1999年)
 板坂元著「老うほどに智恵あり」(PHP ・1994年)
 曽野綾子著「老いの冒険」(興陽館・2015年)
 鶴見俊輔編「老いの生きかた」(ちくま文庫・単行本は1988年)
 外山滋比古著「老いの整理学」(扶桑社新書・2014年)


安く手ごろな古本を、いずれ読もうと買ってあったものです。
とりあえずは、一冊でも、読めればいいやと思っております。
それとも、私の必殺技、目次パラパラ読み。
気になる箇所だけの、拾い読みとなります。
そうそう『老人力』というのもどこかにあったなあ。


間欠泉みたいに、ときどき咳がでます。

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さっそくですけれど

2025-01-04 | 本棚並べ
昨年は、ネットの『日本の古本屋』さんのお世話になりました。
いつもながら、『日本の古本屋』で、著者名検索をすると、
その著者の単行本はもちろん、雑誌やアンソロジーなどまで、
一堂に検索できるのが頼もしく、あれこれと選べるうれしさ。
また、全集などを注文する際『日本の古本屋』さんの検索が
昨年はたいへん助けになりました。神保町や早稲田の古本屋さんも
ラインナップに並んでいたりすると古本屋さんを直に巡るようです。

そこで、橋本倫史著「東京の古本屋」(本の雑誌社・2021年)を
ひらいてみる。ネットで古本を注文するだけの私ですが、
実際の古本屋さんの様子は、どうなのかという興味から。

本にはランダムに日付がある。さっそく1月の箇所をさがすと、
1月17日(金曜)盛林堂書房という箇所がある。そこから引用。

「今日から3日間、西荻窪の『盛林堂書房』の見習いとして過ごす」(p32)

とあります。

「 『 おはようございます。さっそくですけど、荷物を置いてもらって、
    開店作業を手伝ってもらいます 』。 挨拶そこそこに、
  仕事に取りかかる。まず、店の外に並べる百円均一の棚を、
  スタッフのふみさんと小野さんのお母さんがふたりで配置する。
  棚を出し終えると、そこに百円に値付けされた均一本を運び、
  並べてゆく、本を並べたままだと重くて運べないから、
  毎日棚から外し、並べ直している。

 『 ここに積み上がっているのが均一のネタなんですけど、
  これをそのまま並べると昨日と同じ配置になっちゃうから、
  並びが入れ替わるようにランダムに持ってきてください。
  そうすると、3日前には右の棚に並んでいた本が、
  気づいたら左の棚に入っていたりする。
  風景が変われば見方も変わるから、毎朝この作業をやってるんです 』 」

そして、ハタキがけがあって・・

「 『 じゃあ、次は棚を整えましょう。これはうちの特徴なんですけど、
   棚から本が少し出てますよね 』。

  言われてみると、『盛林堂書房』の棚は、本を奥まできっちり
  押し込むのではなく、棚板の手前にせり出すように並べられている。

  『 うちの先代は、池袋にあった『高野書店』に丁稚で入って
   古本屋になった人なんだけど、『高野書店』の棚がこのやりかた
   だったんです。お客さんが本を棚に戻すとき、
   ほとんどの場合はこうやって奥まで押し込みますよね。
   そうすると、お客さんがどの本を手に取ったのか視覚的にわかるから、

  ≪ この棚はよく触れられているのに、動いてないな ≫と
   客観的に見れるんですよね、それがわかると、
   お客さんはどうして買わなかったのか――値段が高かったのか、
   状態が悪かったのか――分析できるんです 』

  でこぼこになっていた棚をきれいに揃えているうちに、
  開店時刻の11時を過ぎている。・・・・      」(~p34)


はい。こんな感じで目次をひらくと12軒の古本屋さんが登場しております。
はい。新年早々もう、私は満腹で、他の古本屋さんへはうかがえないなあ。

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年の暮れの素人大工。

2024-12-28 | 本棚並べ
家の脇に一畳ほどの納屋があるのですが、
その塩ビ波板の屋根が、穴があいている。
というので、何だか他もあって一日仕事。
やっぱり脚立の上に立つのはこわくって、
へっぴり腰になりながら素人仕事でした。

今日届いた古本は、
佐藤春夫著「蝗の大旅行」(名著復刻・ほるぷ出版)。
庄野潤三をひらいていると、そこに本の名前がでてくる。
気になるのは、佐藤春夫。
こうして庄野潤三を読んでいるはずが、
当ブログでは、最近佐藤春夫の名前が関連して出てくる。
それは、佐藤春夫が私に気になっている証拠でしょうか。
まあ、順番で佐藤春夫の児童書を購入してみました。
それが届いたのでした。



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今年の本棚つくり。

2024-12-20 | 本棚並べ
今は倉庫代わりに使用している場所があり
( 田舎なので、それなりにスペースはあるのです )、
ここに本棚をすえつけて、書庫にしようとしています。

本棚を作ろうと、板材を買ってあったのですが、
そのまま、え~と、1年以上になるでしょうか。
暮れのこの機会に壁に据え付けの本棚を作成しました。
とりあえず、買ってあった木材を縦横切りあわせて、
あとは、電動ドライバーで、ネジ止めする素人仕事。
コンクリート床から天井まで、ヨコは約2.5mほどの本棚
が出来ました。これで、今年の購入本などを本棚に並べられる。

今年は、安房郡の関東大震災に関する資料を
( といっても少ないので助かるのですが )、
集めてみました。図書館へ出かけるのが億劫な性格なので、
家で、古本がネット注文できる現在は、ありがたいかぎり。
その関連で、町史市史などもそろえました。今年はとくに、
もう、本に関しては贅沢をきめこむことにしております。
安い古本なら、題名で購入。
あとは妥当と思える価格なら購入。
それを読みまとめる手腕はありませんが、
それに関する記述を居ながら読めるありがたさ。

ということで、今年は、震災関連の本。
「日本わらべ歌全集」全39冊(柳原書店)。
「庄野潤三全集」および、その単行本など、
本棚に置きたい本が、本棚に並ぶ順番を待っております。

そんなことで、今日とどいていた古本がありました、
庄野潤三著「庭の山の木」(冬樹社・昭和48年)。
庄野潤三著「逸見(へみ)小学校」(新潮社・2011年)。

うん。あとは本を読むだけなのですが、
まあ、今年の本棚作成はここまでです。
さて、新しい本棚にどのように本を並べるか、
今日、その楽しみが残っております。

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図書館蔵書処分本

2024-09-03 | 本棚並べ
注文してあった『世にも美しい日本語入門』が届く。
いちばん安かった、図書館処分本を注文したのでした。
68円+280円(送料)=384円なり。

図書館の蔵書だったので、透明なシートがぴたりと
表紙に貼りついているのですが、めくると未読感がありあり。
「ちくまプリマ―新書」の栞もはさまっておりました。

図書館の蔵書だったので、その図書館名がありましたが、
ほかは、新品同様です。はい。古本を注文するとこんなこともある。

はい。もう私の蔵書なので、まえの図書館名も紹介しておきます。
『千葉敬愛短期大学蔵書』とあります。初版の日付が2006年ですから、
今年からならもう18年前の図書館蔵書ということになるのでしょうか。

古本としての巡りあわせに感謝して、処分本かどうか、確認してみると、
最後のページに、小さく〇の中に済の字がある赤のハンコが押されていて、
どうやら、それが処分本の証なのかなと思えました。

はい。それ以外は新品同様で、なんだか汚すのが申し訳ないような
そんなきれいさです。とりあえず、そのまま本棚に置くことにして。

古本384円で、今日一日がなんだか楽しくなります。
今日は土砂降りだったり、雨がやんだりしています。
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入門本さがし。

2024-08-31 | 本棚並べ
「世にも美しい日本語」は
安野光雅・藤原正彦対談の新書なのですが、
たしかに、読んだことがあるので、本棚のどこかに
あるはずなのが、見当らない(笑)。
お二人して歌の話を楽しくしていたのでした。

たぶん。単行本と単行本の間にはさまっていたりすると、
奥にひっこんで新書の背がみえなくなってしまうことがあり、
それかもしれないし、どこかに置きざりにしたかもしれない。

はい。こういう場合は、読みたいのだけれど、読めないので、
ちょいと忘れることにして、外の本をさがしている際などに、
ふらっと出てくる場合もあるし、出てこない場合もあります。

さてっと、今回の場合は、出てくるか、出てこないか。
それとも、安い古本のお世話になるか。
読みたいときに読むと、言葉が一段と身に沁みることがあったりして。

ということで、本を読んでいるよりも、本を探しているときの方がどうも
時間的に長かったりするのは、単なる整理嫌いの、私に起因するのでした。

はい。こんなふうに、読みたい私に対して、話題を逸らせる私がいます。

ああそうだ。当ブログで『世にも美しい日本語』の書評を書いたことが
あったのでした。本が読めるまで、それを読みかえしてみます(笑)。
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「冥途のみやげ」に心がけ

2024-02-16 | 本棚並べ
板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)の
第6章「心がけ」から、この前は「尾崎紅葉」の引用を孫引きしました。
そこには、ちゃんと、内田魯庵著「思い出す人々」から引用したとある。
そして、板坂氏は、その引用をしたあとにこう書いて締めくくっている。

「 書いた文章を読んでくれる人に対するエチケットとしても、
  情報収集に執念を燃やすことは、基本的な態度なのである。」(p166)

はい。エチケットですね。ということで、
内田魯庵著「新編 思い出す人々」(岩波文庫・1994年)をひらくことに。

ありました。「紅葉と最後の会見 世間に伝わざる逸事」という小見出し。
ちょいと、板坂元氏の引用から漏れているけど印象的な箇所を
ピックアップしてみます。魯庵との対話のなかに、こんな箇所がありました。

「・・・『 顔だけ見ているとそうでもないが、裸体になると骸骨だ。
   股(もも)なんか天秤棒ぐらいしかない。能く立ってられると思う。』

と大学で癌と鑑定された顛末を他人の咄のように静かに沈着いて話して、


『人間も地獄のお迎えが門口に待っているようになっちゃ最うおあいだだ。
 所詮(どうせ)死ぬなら羊羹でも、天麩羅でも、思うさま食ってやれと
 棄鉢(すてばち)になっても、流動物ほか通らんのだから、
 喰意地(くいいじ)が張るばかりでカラキシ意気地はない。
 まア餓鬼だナア!』

と、淋しい微笑を浮かべた。・・・・・・・  」(p237)

うん。もうすこし引用させてください。

「余り余裕のない懐(ふとこ)ろから百何十円を支払って
 大事典を買うというのは知識に渇する心持の尋常でなかった
 事が想像される。あるいは最後の床の上で『ノートル・ダーム』
 の翻訳を推敲していたからであったかも知れない・・ 」(p241)

はい。魯庵のこの文の最後を引用しておくことに。

「・・・実は紅葉のために常に苦言を反覆したのは
 畢竟(ひっきょう)紅葉の才の凡ならざるを惜しんで
 玉成したかったためであるが、これがために紅葉から
 含まれて心にもなく仲違(なかたが)いするようになった。

 が、瀕死の瀬戸際に臨んでも少しも挫けなかった知識の
 向上慾の盛んなるには推服せざるを得なかった。
 紅葉の真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。 」(p242)


はい。ここでいうエチケットに反するかもしれませんが、
私は尾崎紅葉・内田魯庵のどちらも読まないだろうなあ。
ということで、私の情報収集能力はここまでとなります。
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尾崎紅葉の『冥途の土産』

2024-02-14 | 本棚並べ
津野海太郎著「最後の読書」(新潮社・2018年)のはじまりは、
『読みながら消えてゆく』と題して鶴見俊輔氏が登場しておりました。
鶴見さんの最後が引用されておりました。

「 2011年10月27日、脳梗塞。言語の機能を失う。

  受信は可能、発信は不可能、という状態。
  発語はできない。読めるが、書けない。

  以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、
  翌年4月に退院、帰宅を果たす。読書は、かわらず続ける。

  2015年5月14日、転んで骨折。入院、転院を経て、
  7月20日、肺炎のため死去。享年93歳。 」 (p12)

津野海太郎さんは、この引用のあとに、記しております。

「 名うての『話す人』兼『書く人』だった鶴見俊輔が、
  その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、
  それ以上に、それから3年半ものあいだ、おなじ状態の
  まま本を読みつづけた、そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。」(p12)


昨日本棚から板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)を出してくる。
私が持っているのは(1993年5月6日第28刷発行)のもの。
そこに、尾崎紅葉が登場する引用があったのでした。

「尾崎紅葉がガンで重態だと新聞に報道されてしばらくして、
 紅葉はその痩せほそった姿を丸善の店頭に現わした。
 そのころ丸善で働いていた内田魯庵は驚いて、紅葉を迎えた。・・」(p164)

その時の会話から引用

魯庵】 何を買いに来た

紅葉】 ブリタニカを予約に来たんだが、品物が無いっていうから
    センチュリーにした

魯庵】 センチュリーを買ってどうする?
    それどころじゃあるまい

紅葉】 そう言えばそうだが、評判はかねて聞いているから、
    どんなものだか冥途の土産に見ておきたいと思ってね。
    まだ一と月や二た月は大丈夫生きているから、ユックリ見て行かれる。

魯庵】 そんならブリタニカにしたらどうだ。
    もう二た月もたてば荷が着くから・・・

紅葉】 そうさなあ
    二た月ぐらいは大丈夫と思うが、いつなんどきどうなるかわからん。
    二た月先に本が着いた時、幸い息がかよっていたにしても、
    ヒクヒクしてもう目が見えないでは何にもならない。(中略)

    生きのびようとは思わんが、欲しいと思うものは
    頭のハッキリしている中に自分の物として、一日でも長く見ておかないと
    執念が残る。字引に執念が残ってお化けに出るなんぞ男が廃らあな

魯庵】 むゝ、センチュリーなら直ぐ届ける

紅葉】 これで冥途へ好い土産が出来た ・・・・・・・・・


さて、ここを引用した板坂元氏は

「以前、ノーマン・マルコムの『ヴィトゲンシュタイン』を翻訳しながら、
 私はしばしば紅葉の逸話を思い出した。・・・・」

さてっと、板坂さんは、この最後をこうしめくくっております。

「 なにごとも受身になりがちで、無気力化が問題になっている今の
  多情報社会では、とくにこのような挑戦型の生き方が、
  人間らしく生きるためにも大切になってきている。

  また、書いた文章を読んでくれる人に対するエチケットとしても、
  情報収集に執念を燃やすことは、基本的な態度なのである。  」(p165)

はい。もちろん板坂さんは、途中にこういう言葉をはさみこんでおりました。
最後にそこも引用しておくことに。

「 われわれ凡人には、なかなかできることではないが、
  仕入のためには多かれ少なかれ執念といったものが必要だと思う。 」
  


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