和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

月がきれいですね。

2007-03-21 | Weblog
新聞で知る漱石、ということで、
最近もありました。
読売新聞2007年3月18日「よむサラダ」は、茂木健一郎さんが書いておりました。

「日本の作家で好きなのは何と言っても夏目漱石である。」とはじまり
「漱石というとシリアスなイメージがあるが、洒脱な側面も備えている。『アイ・ラブ・ユー』の訳は漱石によると『月がきれいですね』だったそうである。」と続く短い文章の題は「赤シャツ」でした。
そのテーマを書いた箇所はとういうと
「子どものころは、正義は勝つ、坊っちゃんがんばれ、とばかり気楽に読んで笑っていたが、大人になり、ある事に気付いて愕然とした。『坊っちゃん』の登場人物のうち、漱石自身は誰か?つい、正義感あふれた坊っちゃんだと思いがちだが、実はどう考えても赤シャツである。当時は珍しい『学士様』で、文学の雑誌を読んではお高くとまっている。赤シャツは、漱石自身の卑劣さを描いた分身だとわかったら、胸が切なくなった。自らを偽らない文豪の偉大さが、心にしみた。」
こうしてさりげなく書いておりました。

同じ3月18日の日経新聞。ちょうどページの真ん中「美の美」は、日曜日の特集です。
この日は「名作挿絵の世界①」とあり、漱石の初版本の挿絵を紹介しておりました。
橋口五葉装丁の「吾輩は猫である」初版本カバーの上編、中編、下編が写真入りで並びます(出版社は大倉書店と服部書店)。寒月君、吾妻橋の図は中村不折の挿絵。
ちょいと引用したくなるのは浅井忠の箇所。
「浅井忠の猫とカラスの絵である。・・・浅井の絵は簡略だが、絶妙の筆さばきで描かれ、猫の悔しさが伝わってくるようだ。カラスは無頼の表情を浮かべ、猫の威嚇など眼中にない。しなやかな観察眼と諧謔で、一見他愛のない話に読者を引き込む漱石の力量に画家も引けをとっていない。絵が一枚挿入されることで場面の印象が変わり、さらに豊かな彩りを帯びている。」
ということで、浅井忠の挿絵を二枚見ることができました。
さて、この箇所は忘れずにいたいと思える指摘。

「東京文化短大の石切信一郎教授は『美術研究者の立場から見て『吾輩は猫である』はまさに絵本だと思う』と、この本が視覚的にも優れている点を強調する。上、中、下編三冊に挿入された十余枚の挿絵は『当時の本としては異例』である上、カバーや表紙から扉や奥付のデザイン、カットまで工夫がこらされている。漱石はこの本に限らず装丁に情熱を傾け、ついには自らデザインに乗り出した。彼は『吾輩は猫である』のみごとな造本を喜び、上編を装丁した橋口五葉、挿絵の中村不折に『両君の御蔭に因って文章以外に一種の趣味を添へ得たるは余の深く得とする所である』と感謝し、不折にはこう書き送った。『大兄の挿画は其奇警軽妙なる点に於て大に売行上の景気を助け候事と深く感謝致候・・・』」


ところで、
姉のところから、朝日の古新聞がまとめて届いたのでした。
すると3月は連載の終了月のようで、丸谷才一の連載「袖のボタン」が、月一回で3年間続いたのですが終り。
もう一つ対談シリーズ「鶴見俊輔さんを語る」も3月6日で終了とあります。鶴見さんの最後の対談相手は四方田犬彦(よもたいぬひこ)さん。その始まりで鶴見さんはこう話しておりました。
「この間、映画『ユメ十夜』(原作・夏目漱石「夢十夜」)をみました。感心したね。そのなかでわかるのは、ほかのジャンルに対して触媒を務めるのが漫画だということなんですよ。漱石先生が苦吟して原稿を書いていると、パラソルを持った女性が何人か来て声をそろえて『鴎外せんせ~』。これは明らかに漫画の呼吸ですね。」
鶴見さんはこうも語っております。
「あだ名は言語を使った漫画です。それから、はねつきで失敗すると顔に墨を塗るでしょ。あれは芝居化された漫画ですよ。」

ちょいと話がそれますが、この対談の後半では師弟関係に及んでおりました。
四方田さんがこう語っております。
「情報とか理論でいえば、弟子にすぐに追い越されてしまう。教師として大事なのは、ものを考える身ぶりとか、古本の買い方とか、身をもって何を提示できるかということではないか。・・」

これを受けて、鶴見さんの対談最後の言葉というのが、

「『五足の靴』というのがあるでしょう。与謝野鉄幹が北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里をつれて九州へ旅行する。そこでみんなはものすごく刺激を受けえるんだけど、翌年に彼らは(万里を除き)連袂(れんべい)して新詩社を脱会しちゃう。鉄幹の専横に耐えられなくなったんだ。・・わたしは自分の活動に対しては、鉄幹のような目に遭うことを覚悟して、生きてきました。自分には弟子はいないと考えている。」


ああ、そうだ。
丸谷才一の「袖のボタン」。その昨年2006年12月は題して「『坊っちゃん』100年」とあったのです。そのはじまりはとういと、

「『坊っちゃん』100年というのは問題がある。あの名作は雑誌『ホトトギス』の1906年4月号に掲載されたが、単行本に収められたのは1907年1月の『鶉籠』(春陽堂)だから。そして西洋文学では初出を新聞雑誌ではなく単行本で考えるのが正式なのである。たとえば・・・・この調子でゆけば『坊っちゃん』100年は来年なのだが、しかし一年早く古稀や喜寿を祝うのは日本文化の風習だから、まあいいとするか。」

うん。うん。丸谷才一さんの説によると、「坊っちゃん」100年は、2007年の今年ということになります。こりゃあ目出度いなあ。お祝いが二年間つづくようなものでしょうか(丸谷さんの文はこの後がいけません)。

せっかくですから、この機会に、私が紹介したいと思うのが、大岡昇平さんの言葉です。
それは朝日新聞学芸部編「一冊の本」(雪華社・1968年)に載っておりました。
大岡昇平さんは、まずこうはじめておりました。

「本のよしあしをきめるには色々基準があろうが、まず再読出来るかどうかというのが、よい本の条件であろう。結論結末がわかっているのに、人に読み返す手間をかけさせるだけの力があれば、それは一応いい本ということが出来よう。・・私は若いころからスタンダールをやっていて、『パルムの僧院』を二十遍以上読んでいる。ところで漱石の『坊っちゃん』の方は、多分その倍ぐらい読み返しているのである。
始めて読んだのは中学一年の時・・・人生の万端が子供っぽい『坊っちゃん』の目を通して書かれているので、子供の私にもわかりやすく、共感されたということだったらしい。すぐに二、三度繰返して読んだが、その後も読みたい本がきれた時、現在なら、なにか一仕事すませて、頭の転換が必要な時、なにか慰めがほしい時など、寝床の中へ持って入る。そしてほほえんだり、吹き出したりしながら、ざっと読み終って、安らかに眠りに入るという段取りである。これは多分私という人間が、五十をすぎても、子供のままの部分をたくさん持っているからに相違ない。・・・漱石の作品は、その後私が文学青年に育ってゆくにつれ全部読んだ。・・・しかしどうも漱石の後期の作品は、近ごろはあまり読み返さない。作為が目立って、文章をたどるのが、面倒になるのである。処女作『吾輩は猫である』も十遍ぐらい読んでいるので、もし『猫』と『坊っちゃん』を漱石の代表作とする意見があれば、私はそれに賛成である。」

そして、最後に、大岡昇平は「坊っちゃん」について、こう指摘するのでした。。

「こういう多彩で流動的な文章を、その後の漱石は書かなかった。また後にも先にも、日本人はだれも書かなかった。読み返すごとに、なにかこれまで気がつかなかった面白さを見つけて、私は笑い直す。この文章の波間にただようのは、なんど繰返してもあきない快楽である。傑作なのである。」


どうです。少し長めの引用になりましたが、
これこそ、『坊っちゃん』100年にふさわしい言葉じゃありませんか。
こういう賛辞なら、繰返して読んでも、貴重で参考になりますよね。
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蝿蚊油虫蟻。

2007-03-19 | Weblog
    蚤虱馬の尿する枕もと

御存知。松尾芭蕉の「おくのほそ道」に登場する句です。
ところで、イザベラ・バード著「日本奥地紀行」(平凡社ライブラリー)のはじまりの第一信(明治11年)の最後にはこう書かれておりました。

「私は、ほんとうの日本の姿を見るために出かけたい。英国代理領事のウィルキンソン氏が昨日訪ねてきたが、とても親切だった。彼は、私の日本奥地旅行の計画を聞いて、『それはたいへん大きすぎる望みだが、英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう』と語った。『日本旅行で大きな障害になるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱なことだ』という点では、彼も他のすべての人と同じ意見であった。」(p31)

この箇所について、宮本常一著「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」(平凡社ライブラリー)では、宮本氏の指摘が参考になります。

「蚤は戦後アメリカにDDTをふりまいてもらって姿を消すまでは、どこにもすごくいたのです。私も調査に行って一番困ったのは蚤なのです。田舎へ行くほどひどくて、座敷へ上るとパッと二、三十匹とびついて来ることが多かったのです。これが日本ではごく当り前のことだったのです。そして馬の貧弱さなのですが・・・もとは皆小さい馬だったろうと思われることは、鎌倉から掘り出された、ちょうど北条氏が亡びる頃と思われる馬の骨がやはり小さいのです。すると、鎌倉の終わり頃までは日本の馬は小さかったと見てよいのではないか。・・それが江戸時代の初めから、オランダ、イギリス経由で九州へアラビア馬が入って来、それとかけ合わせることにより次第に大きくなって来る・・」(p30~33)


ここから、文藝春秋から出ている「栗林忠道 硫黄島からの手紙」について語ります。
本の後には「栗林忠道 年譜」があり。それによると栗林氏は陸軍士官学校、習志野騎兵第一五聯隊士官候補生として入隊しておりました。すこし年譜をひろってみます。

昭和3年(1928年・37歳)
三月、アメリカ留学を命ぜられる。・・
五月、ボストンに移り、ハーバード大学の聴講生として語学や米国史などを学ぶ。

昭和4年
一月、米陸軍第一騎兵師団が駐屯するテキサス州フォートブリスに移る。
軍事研究に励む傍ら、シボレーを購入、しばしばドライブに出かける。


ちなみに、この年譜がいろいろなエピソードを取り上げており、
生き生きとした栗林氏の側面を照らしだしております。北海道釧路産の栗毛の駻馬の話(p160)とか。また、山本七平氏が語るエピソードも鮮やかな印象を受けます(p168)。それは栗林中将が「連隊長の報告を聞き流しつつ、いきなり私たち見習士官の前にズカズカと来て『時計を出せ』と」言うことから、内地にいながら砲兵たちがもつ時計の誤差が六~十分あったことを一喝される場面です。



え~と。話がそれていきます。短いながら最初からたどりなおすと、
蚤虱(のみしらみ)の話から、馬へと来て、騎兵科出身の栗林忠道へと来たところでした。
栗林氏の「硫黄島からの手紙」の最初は昭和19年6月でした。
家族に島の様子を語っております。

「水は湧水は全くなく全部雨水を溜めて使います。それですから何時もああツメたい水を飲みたいなあと思いますがどうにもなりません。蚊と蝿と多い事は想像以上で全く閉口です。・・地方農民の家がソチコチにホンの少しありますが、皆牛馬の住む程度のものです。兵隊達は全部天幕露営か穴居生活です」(p9)

ここで取上げようとするのは、「蝿・蚊・油虫・蟻」を語った箇所です。
以下列挙していきます。

「汗は滝の如く流れるが清水は絶対になし。蝿と蚊は目も口もあけられぬ程押し寄せて来ます。」(p16)

「毎日、陣地を巡視して汗だくだくとなり、ああ冷い水が呑みたいなあと思っても勿論出来ません。蝿が多い事、実際に目や口の中に飛び込んで来ます。小蟻は何処でも『蟻の善光寺参り』の様で、身体中何十疋となく這い上ります。油虫と云うグロテスクの不潔虫がそれこそ一面に群集しています。只毒虫や蛇の居らないのが何よりです。」(昭和19年8月・p21)

「私は相変らず丈夫で過ごしています。昼は蝿、蟻、夜は蚊、油虫などに攻めたてられて全く閉口しています。蝿は鼻孔、目口迄飛び込むし蟻は地べた一面に居て身体中に匐(は)い上ります。蚊は思ったより少いが内地のものより毒があるらしく、刺されると迚(とて)もはれます。油虫は直接人間にはかかって来ないが持物を皆なめてしまいます。只ここには毒虫毒蛇などがいない事が何よりです。
矢張り清水のない事が何より苦痛です。雨は余り降らず一月に一遍か二遍それもほんのちょっぴりですが、それを丹念にためて置いて炊事、飲用一切に用いるのです。全くやりきれたものではありません。」(p34)

「日中は相変らずカンカン照りつけるが、朝晩は割合涼しいので助かります。年中人を苦しめている蝿や蟻は一向にへりません。油虫(皆んな見た事がないでしょう)も依然山のほどいます。全く閉口です。」(昭和19年10月・p58)

こうして時候の挨拶がわりに、蝿蚊が登場するのでした。
このくらいにして、ここでは、もう一箇所引用して終りにすることにします。

「当地は朝晩は相当涼しくなったが日中はまだ中々あつい。蝿や蚊は依然少なくならない。蝿は一寸でも追わないでいると一杯たかり、ほんとに目口にはいって来る。・・蟻だが、それこそベタ一面に居り、身体中に這い上り一寸の間に三百や五百叩きつぶさねばならぬ程で、夜寝ていても三十や五十はつぶさねばらなぬ程襲って来る。其の外に油虫と言うのが一杯で、何でもカジリちらす。・・併し毒虫や毒蛇、マラリヤ(蚊)など居ないのが何よりです。では左様なら。呉々も御身大切にして下さい。
                         戦地にて  良人
     よしゐ殿           
                             」(昭和19年11月2日・p72~73)
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島も人も。

2007-03-06 | Weblog
樋口裕一著「発信力」(文春新書)というのが出たそうで、「本の話」3月号(文藝春秋・年間購読)にご自身が紹介文を2ページにわたって書いておりました。
そこに「日本人は受信を優れたものとみなし、発信を恥かしいこと、劣ったこととみなす文化を築いてきた。外国から高い文化を受信し、それを深く理解できるのが優れた人間だった。めったに発信しないにもかかわらず、時に多くのものを受信していることをさりげなく示せるのが徳のある人間だった。難しい文章を理解できるのが優秀な人間で、自分の意見を口にし、自己主張する人間は一段劣った人間とされた。わかりやすい文書を書くことはさして評価されなかった。発信の社会で生きるには、そのような価値観を改める必要がある。・・それを改めなければ、いつまでも発信力をつけられない。」(p15)

ああ、そうか。と思いながら、読んでおりました。
そのうちに、ボンヤリと、最近の雑然とした話題を結びつけたくなってきたのです。
たとえば、こうでした。
「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文藝春秋)と映画「硫黄島からの手紙」がありました(映画は残念見てない)。どちらも、私にとっては、手紙を受けとるという、受動的な立場である。そんな仮説を立ててみたくなるのです。その手紙を読んで返事を書くというのが、発信力だとすると。それでは、私はいつ発信するのか?

むろんのこと、さまざまな発信があると思うのですが、
ここでは、ちょいと脇道にそれて、印象深いこんな発信力を、まず思い描いてみます。
それは、毎日新聞書評欄の「好きなもの」というコーナーで、吉田秀和さんが書いておりました。
「2000年名ピアニスト、フリードリヒ・グルダの追悼を書いたら、ウィーンに住む未亡人から手紙が来た。長文なのでその一部を引用すると『あなたの記事を読み、遠い日本でよくここまで洞察していられると、とても新鮮な印象を受けました。日本その他の国々の、大抵は音楽学的な表面的でごく一般的な内容か、あるいは個人的印象か想い出話、彼を理解するにほど遠いものが多かった中で、こういう感覚を持った方がいらっしゃるということに大変うれしくなりました。色々と書く人によって勝手に作られているグルダ像というのがほとんどの中で、本当の部分をわかって下さる方がいらっしゃってホッとしました・・・』自慢話になって、ごめん。」(毎日新聞2007年1月7日)

話題を「硫黄島からの手紙」へと戻します。
産経新聞2007年2月27日に、ワシントンから古森義久氏が記事を送ってきておりました。
それは、米政治評論家ジョージ・ウィル氏の寄稿論文をとりあげて紹介していたのです。題して「硫黄島の共感の教訓」。では、古森氏の紹介記事から
「同論文は、第二次大戦では米国は東京大空襲で一気に日本側の民間人8万3000人を殺し、広島へ原爆投下では一瞬にして8万人を殺したように、日本人一般への人道上の配慮はまったくなく、米側では日本民族全体の絶滅さえ提案されていた、と述べている。同論文によると、米欧で制作された英語使用の映画では第二次大戦に関する作品は合計600以上を数えるが、そのうち『日本軍将兵の人間性』を少しでも認めたのは『戦場にかける橋』など4本に過ぎないという。同論文はしかし、『硫黄島からの手紙』が今回、アカデミー賞の作品賞などの最終候補作に選ばれたことは米側で社会一般に『社会の文明や道義的な憤慨の成果として敵(日本側)の将兵の苦境にも共感を示すようになった』ことの表れだ、と述べている。そのうえで同論文は映画の主人公の栗林忠道中将が山本五十六元帥と並んで日本軍有数の知米派だったことや硫黄島で発見された日本軍将兵の手紙の数々はみな死を覚悟し、『その哀感は彼らの人間性を示していた』と書き・・
ウィル氏のこのコラム論文は冒頭で19世紀の米西戦争でスペインの軍艦を沈めた米艦の艦長が部下に『哀れな敵が死につつあるのを喜ぶな』と述べた言葉を紹介し、末尾でいまの米国社会がこの艦長の『繊細さ』に近づきつつある、と称賛した。」

こうして、古森氏は最後に
「戦争での残虐行為などを相互の行動ととらえて、ともに人間性を認識しあおうというウィル氏の議論は、いま米国議会の下院に提出されている『慰安婦』非難決議案に示される日本への一方的糾弾とは対照的に異なるといえる。」と、しめくくっております。


古森氏の論文紹介記事は、貴重な米国の言論を切り取って鮮やかな印象をうけます。その意見を取り上げて、日本へと発信している古森氏の手腕の鮮やかさを思うのでした。

ここで、最初の樋口裕一氏の言葉にもどりますと、
「ところが、日本人は今もあまりに発信力を苦手としている。人前で話すこともできず、文章を書くこともできない。若者に文章を書かせると、それはそれはひどいものが出来上がる。会議でもなるべく発言せずにすまそうと考える。・・・」とありました。
こうした日本人に、すんなりとした発信力を養うには、どういう手順が必要なのでしょうね。
自分自身も苦手な発信力。それをどうやって身につけていけばいいのかと、いまされながら思い描くのです。
そういう風に思ってみると、私に思い浮かぶのは「司馬遼太郎が考えたこと 15」(新潮社)にある「二十二歳の自分への手紙」と題された8行ほどの文でした。短いのでほとんど引用してみます。

「与えられた題の『私にとっての文学』は、とても卒然と語れそうにありません。ことさらに簡単に申しますと、私は二十二歳の自分にずっと手紙を書きつづけてきたような気がします。昭和二十年八月七日は私の二十二歳の誕生日で、むろん祝いませんでした。それから八日後に、日本は降伏しました。大正や明治の人々はこんなおろかだったろうか、あるいはそれ以前の人々は、という疑問が、私をとらえ、しかもこの自問にひとことも答えられませんでした。昭和四十年前後から、この二十二歳の私自身に手紙を書きはじめました。私の作品はそのことに尽きます。・・・」

この言葉がある「司馬遼太郎が考えたこと 15 」には
「山片蟠桃賞の十年」という文もはいっておりました。
それは「講演というより雑談のつもりでしゃべらせていただきます。」と始まっておりまして、サイデンスティッカーさんの受賞を祝う言葉が語られております。その途中にこんな箇所がありました。
「サイデンスティッカー博士の履歴を見ておりますと、太平洋戦争が博士を日本文学に近づけたわけで・・太平洋戦争というものは双方に多大の犠牲をうみましたけれども、サイデンスティッカー博士とドナルド・キーン博士を得ただけでつぐなえるのではないかと思うくらいであります。サイデンスティッカーさんは硫黄島作戦に従軍されました。私も、当時の志望としてはそこにいたはずでした。・・・・
私は残念なことに硫黄島にゆけず、そこでサイデンスティッカー博士に会うことができずじまいだったのです。もし会っていたら私はここにはいないと思いますけれども。そういうわけで、太平洋戦争が、おろかな戦争およびその戦争の基礎になった昭和の歴史が、これはもうほんとうにおろかなものでありましたけれども、サイデンスティッカーさんとドナルド・キーンさんをうんだというのはこれはまことにありがたい、そのように思っております。」


つぎはぎの引用を並べてきました。
つぎは、島ということで思い浮かんだこと。

河合隼雄著「明恵 夢を生きる」(京都松柏社・講談社+α文庫)のなかに
「島への手紙」という箇所がありました。

「明恵にとってはこのような自然に包まれて在ること、そのことが宗教的体験であったと思われる。日本人である限り、自然への親近感を持っているものであるが、彼の場合はその度合いが極めて深く、・・それが彼の信奉する華厳の教えとも結びついているところが特徴的なのである。明恵が月夜の晩に弟子と共に船に乗り、紀州の苅磨(かるま)の嶋という島へ渡ろうとしたときの様子が『行状』に語られている。・・自然に接し、自然の心を知ることができたときは、今更別に経典を読む必要もない、というのである。明恵の自然にたいする態度が、ここに端的に語られている。
この苅磨の嶋に明恵は一通の手紙を書いた。彼にとっては、島も人も同等なのである。面白いのは、この素晴らしい手紙を手にした弟子が、これをどこに持っていったらいいかと尋ねると、明恵は『苅磨の嶋に行き、梅尾(とがのお)の明恵房からの手紙だと高らかに呼んで打ち捨てて帰って来なさい』と事もなげに答えていることである。・・」
こうして次に、明恵が書いたという「島への手紙」の内容が紹介されているのでした。


「硫黄島からの手紙」を読んで、
「硫黄島への手紙」を、いつか書きたいと、そんなことを私は思ったわけです。
たとえ「人への手紙」じゃなくとも、「島への手紙」としてなら書けるのじゃないか。
と、なぜか思ったわけです。
それが果たせなくても、せめて思ったことを発信しちゃおうと、こうしてブログに書いたというわけです。
これがいつか、次のステップへとつながることを、まるで、種が発芽するかどうかと期待するように思いえがいてみるのでした。

ちなみに、新聞の紹介文を読むと、映画「硫黄島からの手紙」は
「2006年、硫黄島の地中から数百通もの大量の手紙が見つかる場面から始まる。
61年前、この激戦地で戦った男たちが家族にあてて書き残したものだった・・・。」
とありました。島から手紙が発見される、というイメージから、さまざまに連想を呼びさまされた気がしたのでした。

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休講。

2007-03-02 | Weblog
三ヶ月前から、ドナルド・キーンさんは角田柳作先生の講義を受講しております。
そして
「1941年12月7日、真珠湾攻撃の日は、ニューヨークでは日曜日だった。
・・怪しげな夕刊紙の第一面を黒々と埋めた活字によって日米開戦を知った。
夜のラジオ・ニュースで、デマではないことがわかり、さらに翌日の昼、日本とドイツに対して宣戦を布告するルーズベルト大統領の声を中華料理のラジオで聞いた。・・
教室に出ると、かつて講義を欠かしたことのない角田先生が、いつまで待っても教室に姿を見せなかった。敵性外国人として抑留されたと後にわかったが、そのときの無人の教壇が、戦争についての私の最初の実感であった。」(「日本文学のなかへ」p27)

ここで、講義を欠かしたことのない角田先生が語られておりました。
休講ということで、おもしろいのが戦後の昭和28年でした。

「私(キーン)が初めて日本に留学したのは1953年である。当時、日本の大学の内容については、さっぱりわからなかったが、私は京都大学へ直行した。・・
この当時、私は31歳・・とにかく私は、日本の大学で勉強するという経験が欲しかったのであり、別に学位を取りたいとも思わなかったし、試験にも関心がなかった。
しかるに驚いたことには、当時(或いは現在もそうかもしれないが)の京都大学というところは、やたらに休講が多かった。私事で恐縮だが、私は27、8年間の教師生活中、病気以外の都合で休講したことは一度もない。ところが京大では、授業がきちんとあるほうが、むしろめずらしいくらいだった。10月から2月までの5か月間に、ある先生の授業はたったの二回。しかも教室には暖房が全くない。学生はみな、固い木の椅子に坐って両手を尻の下に敷き、必要な時だけ片手を出して本のページをめくるのだった。そして肝心の教師は待てど暮らせど姿を見せない。学生たちはついにあきらめて三々五々帰っていく。私は留学二年目にして大学へは行かないことにした。・・」(「日本を理解するまで」p39)

ここで、肝心なのはキーンさんの
「教師生活中、病気以外の都合で休講したことは一度もない」という講義でした。
休講ばかりしていた日本では、その後「日本文学」はどのようになっているか?
というと、それを知る手がかりがありました。
それは、1991年に中国の杭州(こうしゅう)大学でキーンさんが
日本文学について四回にわたる講義をします。その講義記録「日本文学は世界のかけ橋」(たちばな出版)にヒントはありました。

そこには
「日本人が書いた日本文学史の中に、ひとつ素晴らしいものがあります。それは、小西甚一先生の『日本文学史』です。・・小西先生のことを考えて、自分の書く文学史に絶望を感じたことがありました。・・私はとても競争できないと思っていました。あの大家が書くものの前で、私はひとたまりもないと感じていました。しかし、後で考えて、やはり私の方法は一つしかないことに気付きました。なるべく主観的に、どこまでも自分自身の『日本文学史』を書くほかないと。例えば、連歌の歴史を詳しく書くというようなことでしたら、小西先生にかなうはずもありません。でも、私個人の感性や考え方に基づいてものを書けば、私は小西先生と違う人間ですから、『日本文学史』も違うものになるはずです。」(p118~119)

これは講義の第三章「私の『日本文学史』」にあります。
そのあとに、キーンさんが、小西先生からお聞きした言葉。

「私が以前小西先生からお聞きしたことですが、先生は『日本文藝史』を外国人の大学院の学生に読んでもらいたくてお書きになったそうです。もちろん日本人が読んでもいいのですが、一番の読者対象は、かなり日本語ができる外国人の学生でした。ですから内容は相当専門的で、文章も難解です。特に第一巻はそうです。大変立派な研究ですが、気楽に読むような本ではないのです。・・・」(p119~120)

ここは、キーンさんの「日本文学史」との比較として、語っている箇所なのです。
小西先生が「一番の読者対象」とした相手はどなただったのかに触れている箇所なのでした。

すこし「休講」から、ズレてしまいました。
そういえば、学園紛争の頃に、キーンさんの講義はどうだったのでしょう。
司馬遼太郎著「ニューヨーク散歩 街道をゆく35」(朝日新聞社)は、キーン教授のコロンビア大学退官に際して、ニューヨークを訪れる内容が主題になっておりました。
そこに1968年のことが書かれております。

「・・1968年のコロンビア大学の学園紛争の学生側に強い電流を流しつづけたのは、すでに泥沼状態におちいっていたベトナム戦争だったはずである。・・・コロンビア大学で学園紛争がピークに達する右の1968年は、一月のテト(旧暦正月)攻勢によってアメリカが後押しする南ベトナム政権の諸都市が攻撃され、五月には和平交渉がパリで開始されたとしである。が、和平会談ははかどらず、戦場にあっては、戦闘状態が諸局面でかえって激化していた。これらが、学生たちをいらだたせた。かれらは他の国の学生とはちがい、卒業すれば徴兵令によって戦場に送られる切迫感に駆られていた。大人の政治への反抗が全米の学生にひろがり、とくにコロンビア大学の場合、ニューヨークという都市的気分も手伝って、キャンパスは戦場のようになった。」

こう司馬さんは、学園紛争を調べて書いておりました。
「ニューヨーク散歩」は、この後に「ドナルド・キーン教授」という題で、書かれております。そのはじまりには、こうあります。
「・・今夜というのは、1992年3月2日月曜日の午後7時半である。大学の主催により、日本学の世界的な研究者であるドナルド・キーン教授(1922~)の定年退官のお祝いの会がひらかれる。日本学は、かつては辺境の学問であった。キーン教授の半生の労によって、いまでは世界文明という劇場のなかで、普遍性というイスをもらっている。・・」

キーン著「日本との出会い」(中公文庫・篠田一士訳)には
学園紛争の年のことが何げなく書きこまれておりました。

「私はまた学生にも恵まれている。彼らに自分の熱情を吹きこみ、気にいりの弟子たちに、自分のやるつもりだった日本文学のよりぬきの主題を継がせた。私は教えることがたいへん好きだが、それは学生たちの反応が活発な時に限る。・・・・
1968年のコロンビア大学の学生ストライキの最中さえ、学生の求めに応じて授業をし、ほとんど全員出席した。その春には、私の教師経験ではじめて、学生たちが夕食によんでくれた。」(p133)
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