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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

オレはもう。

2014-11-30 | 本棚並べ
「この本は、2013年の4月から6月にかけて
行った、やなせたかし先生のインタビューを
まとめたものです。『オレはもう死ぬぞ』と
前置きしてからお話しなさる先生でしたが、
とてもお元気で、取材テープの声もしっかり
張りがあります。まさか、数ヶ月後に
お亡くなりになるとは、考えてもいませんでした。」(p142)

こうあるのは、「ぼくは戦争は大きらい」(小学館・2013年)
という本の編集後記でした。

その「はじめに」で、やなせたかし氏は、

「ぼくは、昭和15年から5年間、日本陸軍の兵隊でした。」

「今頃になって、なぜ戦争中のことを話す気に
なったのか、というと、ひとつにはぼく自身が
90歳を超えて、同世代にはもう戦争体験を
語れる人がほとんどいなくなったことがあります。」

誇張も卑下もなく、すぐそばで、
等身大の戦争体験を、笑いながら語っている。
そんなような、鮮やかな語りかけが伝わってくる
ようです。読めてよかった(笑)。
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地震や津波の古文書。

2014-11-29 | 古典
新刊の磯田道史著「天災から
日本史をよみなおす」(中公新書)が届く。
さっそくパラパラとひらく。

そこに、こんな箇所。


「私の母・正路(しょうろ)和子も、わずかな時間ながら、この牟岐にいた。そして、1946年の昭和南海地震にでくわした。そのとき、母はまだ2歳であった。・・・・
私は、幼時から、この話を繰り返し聞かされて育った。どうも、私には、ややこしい血統的家庭的背景があるらしい。津波をかいくぐってきた祖先たちが関係しているのか、『危ない』を事前に察知する話に、どうしても、関心をもってしまうのである。『「武士の家計簿」を書いた磯田道史さんが、なぜいきなり、防災史を書きはじめたの?』と、よく聞かれるが、実は、いきなり防災史をはじめたわけではない。大学一年生の時から、地震や津波の古文書をみると、コピーしてファイルする癖があった。ただ、東日本大震災を目の当たりにして、これまでに蓄積した災害に関する古文書の知識を、自分の頭にだけ死蔵しておいてはいけないと感じて表に出しはじめただけのことである。・・・」(p153~154)


うん。落ち着いて読まなければ(笑)。
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古今をちこち。

2014-11-28 | 地震
磯田道史氏の新刊が出たので、
さっそく注文。まだ届きません(笑)。

さてっと、読売の古新聞を
もらってくるのですが、廃品回収に出した
あとだったりで、そうそう読んでいません。
ある時、月一回の最終水曜日に
磯田道史氏が「古今をちこち」と題して
連載してるのに気づきました。
それで気になっていたのですが、
11月分はめでたく古新聞をゲット(笑)。

11月26日水曜日の読売新聞に
磯田道史氏の文がありました。

こうはじまります。

「昨日、中公新書から『天災から日本史を
読みなおす』という本を出版した。
朝日新聞土曜版の連載『備える歴史学』を
まとめたものである。地震・津波・高潮・
噴火・土砂崩れなど45の歴史災害を
とりあげた。私はこの本を書くために、
国立茨城大学を辞めて、津波常襲地の
浜松に住み、2年半かけて歴史災害の
古文書を全国からあつめて研究した。」


こうしてはじまり、
その新刊に書けなかったことを、
読売新聞のこの連載に、ちょうど書き込んで
おりました。ありがたい(笑)。
読めてよかった。
月一回だと忘れていて、
ついつい読み逃してばかりです。
こちらも早く本にならないかなあ。

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こころなりけり。

2014-11-27 | 詩歌
桜井哲夫著「一遍と時衆の謎」(平凡社新書)に
こんな箇所が、

「また、ある僧が、『心こそ大切だ。
外見などどうてもいいでしょう』
と述べたときに、次のように歌をよんだ。

 こころより
 こころをえんと
 こころえて
 心にまよふ
 こころなりけり

(心とは何か。自分の心のなかに
これがわが心だと思い込んだものを
探し求めても、一体どこにそれが
あるのかわからず迷う。心など
というもは実はだれにもわかりは
しないものである。)」(p174)


そういえば、『僕って何』
と題する小説が以前あったなあ。
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大正生れのアンパンマン。

2014-11-26 | 短文紹介
門田隆将著「慟哭の海峡」(角川書店)を
読む。

最後の方にこんな箇所。

「焦土と化した日本を復興させ、そして、
『二十世紀の奇跡』と呼ばれた高度経済
成長を成し遂げたのも、彼ら大正生まれ
の人々である。戦争中は突撃、突撃を
繰り返し、戦後は黙々と働きつづけた
大正生まれの人々は、いわば
『他人のために生きた人たち』である。
アンパンマンとは、いったい誰だったのか。
おそらくそれは、やなせたかし本人にも、
わからないのではないだろうか。しかし、
そのヒーローが、弟をバシー海峡で喪い、
自身も大正生まれであるやなせでなければ、
生み出すことができなかったものである
ことは、間違いない。
永遠のヒーロー『アンパンマン』は、今、
人生を終えようとしている大正生まれの
男たちそのものなのだから。」(p315)

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大正生まれの若者。

2014-11-25 | 前書・後書。
門田隆将著「慟哭の海峡」(角川書店)を
読み始める。そのプロローグに

「膨大な数の若者が太平洋戦争(大東亜戦争)の
最前線に立ち、そして死んでいった。異国の土と
なり、蒼い海原の底に沈んでいった兵士たちの数
は、実に二百三十万人にものぼる。
この戦死者の大半を占めたのが、大正生まれの
若者である。大正元年生まれは、昭和二十年に
は三十三歳、大正十五年生まれは、十九歳とな
っていた。すなわち太平洋戦争は、大正生まれ
の若者たちによる戦争だったのである。」
(p8~9)

うん。まだ半分なのですが、読み甲斐が
あります。
その帯には、こうありました。

「国民的ヒーローとなった『アンパンマン』
『勇気と希望』の作品を生み出した
正義と自己犠牲を貫いた男たちの物語・・」
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なんだこのイカサマは。

2014-11-24 | 朝日新聞
雑誌「WILL」1月号の大型対談を再読。
そこにある、中西輝政氏の言葉を引用。


日本人にとって、習近平のあの非礼は
長く記憶されるでしょう。
日本は歴史的にも、中国の短所を見る
ことでわがふりを直してきた。
『反面教師』とはまさにこのことです。
古代以来、日本を支えてきた
『中国のようになってはならない』
という言説は、戦後は長く封じ込め
られてきましたが、この十年、
さらに言えばほんの四、五年で
空気はずいぶん変わってきた。


私にとっては中国と朝日新聞は
『一つの存在』なのですが、いずれも
『批判すると人間性を疑われる』
という奇妙な空気が、特に学者や
知識人の間では最近まで根強く
残っていました。いや、いまもまだ
一部に残っているかもしれません。


私も日本にいた頃には気付きませんでしたが、
イギリスでの生活を経て帰国して、すぐ
朝日のおかしさに気付きました。
同じニュースでも、外国で報道されている
のと全く違うトーンだったからです。
『なんだこのイカサマ新聞は。・・・』
とショックを受けたほどです。

(p35~37)
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創刊十周年記念。

2014-11-23 | 本棚並べ
雑誌WILL1月号が届く。
「創刊十周年新年超特大号」とあります。
記念対談は、渡部昇一×中西輝政。
うん、20頁ある読み甲斐(笑)。
私は、これで大満足。

対談のはじまりは、十周年に触れております。
これがいいんだなあ。とりあえずサワリを引用。

渡部】 ・・・四号目にして、『朝日新聞を裁く!』
という特集で完売。いまでこそ「朝日バッシング」
なんて言われますが、当時、朝日を正面から批判する
メディアはそうはなかった。そして十年経って、
朝日新聞は誰が見ても『夕日新聞』になってしまい
ました。

中西】 この十年で、確実に世の中の流れは
変わりました。『WILL』の働きは大きいですよ。

渡部】 世の中に一冊、こういう雑誌がある
だけで空気が変わります。

中西】 世間に空気があるだけではだめで、
目に見えない天空に溜まっているものを見える
形にする。もやもやとしてものをきちんと
集めて見せる。見えるか見えないかは大きな
違いです。

渡部】 『何かおかしいな』と感じていたことが
『WILL』を読むと『おかしいぞ』と書いてある。
読んだ人は『やっぱりそうだったか』とスッキリ
する(笑)。世間の流れを作ったとまでは言えなく
とも、流れを促したのは事実でしょう。



うん。これから始まる20頁。
この対談を、ゆっくりと、
反芻する喜び。
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コナン・湖南。

2014-11-22 | 他生の縁
渡部昇一・林望「知的生活楽しみのヒント」(PHP)。
を段ボール箱から取り出してくる。
線引きの箇所をパラパラとめくっていると、

渡部】 さて、書いたものの質、おもしろさと
いう点に目を向けますと、学者の書いた文章で
おもしろいものは圧倒的に昔の学者によるもの
のほうが多いと思います。・・・昔の学者は
『業績をつくらなければならない』という
強迫観念がなかった。ものを書く学者というのは、
自分の中に『しゃべりたいこと』『書きたいこと』
がある人でした。だから、読むに耐えるものが
多いのだろうと思います。
文化史のジャンルで言えば内藤湖南はシナの歴史に
ついても国史についても本当に書きたいから書いて
いる。また、彼の『近世文学史論』などは芭蕉も
出てこないような変わった江戸文学史なのですが、
それでいておもしろいのだからすごいものがあり
ます。そもそも『おもしろさ』というのは内発的、
自発的なところから出てくるものです。・・・
(p80~81)

そうか、内藤湖南の『近世文学史論』か。
なんか、コナンがすごそう。
前回は、歯が立たなかったけれど、
今回はどうかと、チャレンジ。
コナン・湖南・こなん。なんて
お気楽だと、また、駄目かなあ(笑)。
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野党にメディア。

2014-11-21 | 短文紹介
産経新聞11月20日の一面に
副編集長・石橋文登氏が書いておりました。
そのはじまりから引用。

「『民主党はそんなに解散したいのか?』
10月下旬、安倍晋三首相はこうつぶやいた。
当初、無風と思われていた秋の臨時国会は
荒れに荒れた。9月に民主党幹事長に就任した
枝野幸男氏が『私が首相だったら年内解散だ』
と吹聴し、解散封じに向け、スキャンダル国会
を仕掛けてきたからだ。国会は空転し、
10月20日には小渕優子経済産業相、松島みどり
法相がダブル辞任に追い込まれた。それでも
閣僚の追及は止まらない。・・反撃に出た。
10月30日の衆院予算委員会。首相は、質問に
立った枝野氏とJR総連、革マル派の関係を
逆に追求した。・・・
そもそも首相は年内解散など想定していなかった。
平成24年12月の就任当初は・・28年夏の衆参
ダブル選挙を軸に政権構想を練っていた。
考えが変わったのは、昨年秋、臨時国会で
特定秘密保護法の審議を通じ、野党と一部
メディアの激しい批判にさらされてからだ。
さらに今年の通常国会では、集団的自衛権行使
の政府解釈変更で再び批判を受けた。
首相は、解釈変更に伴う安保関連法案を秋の
臨時国会に提出するのを見送り、27年の
通常国会への提出を決めた。・・・」

うん。NHKニュースを見ていても、
腑に落ちなかったテーマが、
産経の一面に出ておりました。
そして今日、産経新聞の正論欄の
屋山太郎氏の文も頷ける。

ところで、他の新聞は楽しめますか?
朝日新聞は読みたくない(笑)。
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天草版高倉健。

2014-11-20 | 短文紹介
大修館書店の「漢字文化を考える」が届く。
古本屋は
史録書房(練馬区西大泉)
800円+送料300円=1100円

うん。講演録の活字化のようです。
最初にある、山本七平氏の2回の講演を読む。

印象に残ったのはこの箇所

「天正遣欧使節がヨーロッパに行きまして、
それを案内したのがヴァリニャーノという司祭
ですけれども、これは巡察師と言って、
日本におけるキリシタン宣教師のトップの人です。
彼は日本に帰って・・印刷機を持ってきたのです。
それで、天草でこれを据えつけまして、いわゆる
天草版という出版を始めました。・・・
この中で一番面白いのが天草版『平家物語』です。
それから、日本語に訳されて割合に普及いたしました
『伊曾保物語』、これはイソップです。これを
日本語に訳した人が不干斎・ハビアンという
日本人のキリシタンで、同時に天草版『平家物語』を
作ったのも、序文の最後を見るとハビアンであります。」

「不干斎・ハビアンの問答体『平家物語』です。
これをずっと読んでまいりますと、大原御幸まで
全部入っていまして(随分省略されていますけれども)、
いろいろな問題が出てきます。これを見ますと、
非常に強調されているのが、日本人というのは恩を
忘れてはいけない、恩を忘れるとろくなことがない
ということです。・・さらに面白いのが、恩を施した
からといって、それは権利ではないということです。
おれはこれだけお前に恩を施したから、これだけの
ことをお前はやる義務がるという要求は一切できない
というのであります。これはおそらく彼から
見ると、非常に不思議な社会なので、その点に
強調点がいったのだろうと思います。これは
恩を受ける受恩の義務というのは非常に強く
主張するけれども、恩を施恩の権利というものは
一切認めないという形になっているわけです。
・ ・・・これは、ハビアンなどが、彼らは権利と
義務というのが非常にはっきりした社会ですから、
それを見ていまして、自分たちの違いというのを、
そこに見たのではないかと思うのです。・・・・
これは本当に東西の文化の交流の始まりでした。」
(~p63)

うん。こうして受恩と施恩のことを
とりあげてみると、どういうわけだか、
先頃亡くなった高倉健さんの座右の銘を
思い浮かべます。
11月19日の新聞記事に

「事務所によると、
『往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし』
は高倉さんが生前、天台宗の僧侶からもらった
言葉で、本人が大事にしていたという。」

産経新聞の同日の追悼評伝
「古き良き日本人の体現者」のはじまりは

「日本映画が生んだ最後の大物スターが
逝った。寡黙で、折り目正しく、ストイックで
情に厚い・・・。役の上でもプライベートでも、
古き良き日本人の体現者だったと思う。
昨年秋に文化勲章を受章したとき、
こんなコメントを発表した。
『今後も、この国に生まれて良かったと
思える人物像を演じられるよう、人生を
愛する心、感動する心を養い続けたいと
思います』 」(田中宏子)
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方丈記の講師。

2014-11-19 | 古典
今日の産経新聞の産経歌壇。
伊藤一彦選が楽しめます。
いろいろと味わえるのですが、
その9首目に、

青春は齢にあらざり
 方丈記の講師となりて活力の湧く
   成田市 神郡一成

とありました。
「方丈記」とあり気になります。
しかも、「方丈記の講師」とある。
どんな、お話が聞けるのだろうと、
そんな興味が湧きます。

ちょうど、昨日本棚から「方丈記」を
とりだして、めくっていたので、
それもあって、この一首に惹かれました。

ここはひとつ
方丈記の講師のお話は聞けなくとも。

私なりに、浮かぶあれこれ。
ちょうど、思い浮かぶ3冊があります。

石井光太著「遺体」。
桜井哲夫著「一遍と時衆の謎」。
そして、「方丈記」。



まず、石井光太著「遺体」(新潮文庫)は
東日本大震災直後の釜石市のことでした。

各章の題名が
1、廃校を安置所に
2、遺体捜索を命じられて
3、歯型という生きた証
4、土葬か、火葬か

となっており、当時読んで、
今も感銘深い一冊。


桜井哲夫著「一遍と時衆の謎」(平凡社新書)
を昨日読んで、こんな箇所があったのでした。

「・・南北朝期に時衆の多くの徒が、
合戦に従軍して、死者に十念を与えて
弔っており、形見の品を遺族に届けたり、
最期の模様を語るなどしている事実を指摘する。
いわゆる時衆の『陣僧(じんそう)』である。
戦場に赴き死者を弔い、場合によっては、
が行う仕事で卑賤視されていた
死者の遺体処理までも担当する時衆の
『陣僧』の仕事は、他の宗派には
見られない独自の行動であった。」
(p70~71)


最後に方丈記から引用。
ここには、山正和氏の現代語訳。
山崎正和「徒然草 方丈記」(学研M文庫)。



「養和年間(1181~82)のことであったとか、
時がたってよくは覚えていないが、二年もの
あいだ世間が飢えに苦しんで、言語に絶する
事態となったことがあった。・・・・
仁和寺の隆暁法印という高僧があったが、
この人は、こうして数知れず人が死んで
行くことを悲しんで、死体の顔を見るごとに、
その額に尊い『阿(あ)』の字を書いて
やって、成仏の縁結びを施しておやりになった。
人数を知ろうとして、四月、五月のふた月に
わたって数えて見ると、一条から南、
九条から北、京極大路から西、朱雀大路から
東の一帯で、路傍の死体は、あわせて
四万二千三百余りの多きにのぼった。
いわんや、その前や後に死んだ者も多く、
賀茂河原や白河、西の京など周辺の地を
加えて数えれば、限りもないことであろうし、
ましてさらに諸国津々浦々に及べば、
見当もつかにことである。・・・
今回のありさまは目のあたりに見ただけに、
稀有の思いをする体験であった。」
(p195~196)


もとにもどって、はたして、
「方丈記の講師」のお話は、
どのような展開に及ぶのだろうか。


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ひらがな。

2014-11-18 | 古典
桜井哲夫著「一遍と時衆の謎」(平凡社新書)。

その「結びに代えて」の最後を引用。

「さて、私は、社会史家としては主に
フランスを中心にした西欧近・現代の社会史、
思想史を研究し、また社会学者としては現代
日本の社会・文化を論じてきた。一方で、
平成14年(2002)以来、鎌倉時代から続く
時宗寺院44代目の住職であり、時宗の教学
研究顧問もつとめている。宗門に身をおく者
として、いつかはきちんと宗祖一遍上人と
時宗の歴史について語る責任があると考えて
きた。・・・四十数年にわたる私の長年の
思いを込めた一冊だと言っていいのである。」
(p237~238)


さてっと、本文から一箇所引用。

「私自身も、この京大所属の
『国女歌舞妓絵詞』を見たときは、衝撃的だった。
これは、まさに私も時宗僧侶としてずっと唱え
続けている時宗の『和讃』や『念仏』のリズム
そのものだからである。詞をみると、おそらく
時宗の僧なら、すぐに鉦をたたいてよみたくなる
だろう。理屈ではなく、身体で覚えてきた時宗の
『和讃』や『念仏』のリズムなのである。」(p63)

そのひらがなの歌詞と
漢字の表記とを順に引用。


「そもそもみやこほとりの花のめい所、
ぢしゆごんげんの花のいろ、
わしおやまにさく花は、
りやうじゆせんのはるかとうたがはれ、
大はらやをしほのやまの花ざかり、
いまもみゆきやあふぐらん、
さてまたかへりながむれば、
大うち山の花ざかり、
このへどののいとざくら、
せんぼんのはなにしくはなしとうちながめ、
あまみつ神にぞまいりける(繰り返し)。

いかに申候、今日は正月廿五日きせんぐんしゆの
しやさんのおりからなれば、
かぶきおどりをはじめばやとおもひ候。
まづまづねんぶつおどりをはじめ申そう、
・ ・・・・・


( さて都のまわりの花の名所、
地主権現や鷲の山(比叡山)に咲く桜は
霊鷲山(りょうじゅせん)の春かと
思われるもので、大原や小塩山の花盛り
には今も御幸を仰ぐのでしょう。
さてまた振り返ってながめれば、
大内山の花、近衛殿の糸桜、
千本の桜に及ぶものはないとながめ、
(北野の)天神様にお参りいたします。
なんと今日は正月25日、だれもが
お参りする縁日なので、かぶきおどりを
始めましょう。・・・・ )(p60~61)


おあとは、読んでのお楽しみ(笑)。
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どうせ教えるなら。

2014-11-17 | 古典
ドナルド・キーン著「わたしの日本語修行」。
そこに、ケンブリッジ大学で日本語会話を
教えることになった頃のことが語られています。
そこから引用。

「当時、ケンブリッジ大学では、
日本語を初めて学ぶ入門のクラスで
『古今和歌集』の序文(仮名序)を
読むのが習慣でした。・・・・
『古今和歌集』の序文の語彙は限られて
いますし、漢字もあまり使われていません。
その上、文法は文句なしに規則的で、
例外がないと言っていいほどです。
ですから学びやすいのです。
これをしっかり身につけてから、二年目に、
学生たちは初めて現代の日本語に出会うのです。
それがケンブリッジ大学での日本語教育の
方法でした。」(p178)

うん。いいなあ。あらためて仮名序を
読み返してみます(笑)。

「当時ケンブリッジ大学で日本語を教えていた
人は二人いましたが、一人は文法だけを教え、
もう一人は歴史の研究者で、特に日本の農業の
歴史に興味をもっている人でした。わたしは
会話を教え、後には『古事記』や『方丈記』
など日本文学を教えることになりました。」

あ~。私はまだ古事記を読んでいません。


「1952年の春、どうせ教えるなら少しでも
多くの人に教えたいと、大学生だけでなく
一般の人々をも対象にした日本文学に
関する五回の講義を行ないました。
二百五十人入る大教室でしたが、
集まったのはわずかに十人ほどでした。
十人しか集まらない。
しかもその中に、下宿の奥さんとその
ご主人がいて、わたしを応援しようと
来てくれたのでしょうけれども、
講義の時間、そのご主人はずっと寝て
いました。本当の意味でわたしの話を
聞きたいと思う人はほとんどいないと
いう現実に、わたしは心底がっかり
しました。教師として充実感を得る
ことはできませんでした。・・・・
この仕事には将来がないのではないか、
わたしは間違った仕事をやっているのでは
ないかという気持ちになりました。
思い詰めたわたしは、日本語をやめて
ロシア語に切り替えようと思い、
ロシア語の勉強を始めました。・・・・
しかし、ことば、単語が、なかなか
覚えられませんでした。あまりにも
覚えられないもので、わたしはその
理由を求めて自分の頭を分析しようと
しました。そうして、こんなことを
考えました。日本語の場合はことばの裏に
漢字があるのです。よく調べたら漢字が
頼りになります。それで覚えやすいのです。
ロシア語にはそれがないから、何も頼りに
なるものがないのです。だから覚えられない。
・ ・・・英語にも漢字がないと言われれば
そのとおりなのですが、わたしは漢字が好き
なのです。日本語を覚えるときには、漢字を
頼りに覚えるのがおもしろいのです。
ロシア語にはそのおもしろさがなかったの
です。わたしの頭は日本語に向いていて
ロシア語には向いていないと思うほか
ありませんでした。そう思えばもう学生の
少なさを嘆いてもいられません。たとえ
教室に二、三人しかいなくても、わたしは
これでやっていくほかないのだと、
心に決めました。」(~p182)
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どうしたらいいのか。

2014-11-16 | 本棚並べ
外山滋比古氏の新刊が出ておりました。
「聴覚思考」(中央公論新社)。
パラリと後をひらくと、
「本書は書き下ろしです」とあります。

日本語の思考を、
ルービックキューブよろしく、
カチャカチャといじくりまわして、
はたして、全面が揃ったかどうか。
うん。今回はどうだったのか。
そこを読む楽しみ(笑)。

うん。まだ途中までしか読んでいない
のですが、私には楽しめます。
こんな箇所があったりします。


「何をするか。
これは、本を読むよりずっと難しい。
本は目の前の文字を読めばいいのだが、
未来は読みたくても、字に書いていない。
どうしたらいいのか、考えていると、
当面のことが重要であるように思われる。」
(p62)
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