和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

房総半島のない地震図

2024-10-12 | 地震
安房郡の関東大震災を念頭に、
各地震学者の地図を見ると、面白いことに気づく。

たとえば、鎌田浩毅氏の
「 関東南部の活断層と過去に起きた大地震の震源 」
という図があるんです。関東の図の上は茨城・埼玉とあり
千葉県もその図に含まれているのですが、房総半島の箇所が
カットされている。
ほら、裸婦像で、絵の構図の中に足が入りきれずに
途中でカットされていたりする、あんな感じです。

また、鎌田浩毅氏の本には、その同じ図が使い回しされております。

鎌田浩毅著「揺れる大地を賢く生きる」(角川新書・2022年)のp43
鎌田浩毅著「日本の地下で何が起きているのか」岩波書店・2017年のp54

はい。この人の図は『 敬して遠ざける 』ことにします。
もっぱら、私が引用するのは、武村雅之氏の図になります。

図録では「関東大震災80年THE地震展」(読売新聞社・2003年)にある
「 関東地震の推定震度分布 」でした。図録にはp98にカラー図で載り、
さらに右ページには(p99)、同一地図に「市町村別の死者数の分布」図。

武村雅之氏の本には、この「関東地震の推定震度分布」の図が

「関東大震災がつくった東京」(中央公論新社・2023年)のp21
「関東大震災 東京の揺れを知る」(鹿島出版会・2003年)のp94
「地震と防災」(中公新書・2008年)のp10
「未曾有の大災害と地震学」(古今書院・2009年)のカラー口絵の一枚。
「手記で読む関東大震災」(古今書院・2005年)のp10

と同一著者のさまざまな本に、その図が登場しております。
こちらは、ちゃんと千葉の房総半島まで全体が載る地図です。
そこから、その図の解説がはじまっているのでした。

はい。房総半島に住む者としては、何とも有難いのでした。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プリントのパンフレット。

2024-10-10 | 地震
8月に「安房郡の関東大震災」と題する講座をしました。
そのアンケートで、資料に対するコメントを頂きました。

「 今日の関東大震災の話とプリント等を、もう一度
  どこかで企画してほしいです。たくさんの人に学んでほしい。 」

「 ・・・教材もすばらしかった。・・講義時間が少なかった。 」

このように、プリントした資料・教材についての指摘を頂きました。
とりあえず、写真や図や表を、綴じずにバラバラに配布したのです。

〇 武村雅之氏の「関東地震の推定分布」の図。

〇 貝塚爽平氏の相模トラフの線に、プレート境界の褶曲帯を付した図。
貝塚氏のこの図だと、房総半島はすっぽりと褶曲帯の中におさまります。
これなどは、図で示せば、感覚的にも、パッと理解した気分になります。

〇 「安房震災誌」に載る「安房郡震災被害状況図」。
  これは、安房郡の地図を、9割以上の激震地区、そして
  激震地区・軽微地区と3地区に分けて示した地図です。
〇 「安房郡震災被害状況図」のプリントの裏には、
「安房震災誌」から引用した、各町村別の数値一覧表を載せておきました。
各町村の総戸数・全壊・半壊・焼失・流失・死者・負傷者の数値一覧表です。
数値一覧があると、各町村別の被害状況が具体的に理解できます。
そうなんですが、安房郡の被害状況図ならば、一目瞭然で、
地図を前にしてすこし語れば、理解はぐっと深まります。

そのような、プリントを一枚一枚用意。

〇 それから、能登地震の半年後の黒島漁港の隆起状況を、
  震災前と震災後の写真と、並べられた新聞記事もコピー。

この一枚一枚のプリントが、舌足らずな私の助っ人となりました。
そのプリントを、説明であちこちとつなげておりました。
これならば、途中で尻きれトンボでも、何とかさまになります。

さてっと、プリントを、後でまとめて保存しようとすると、
何だか、思い浮かんできた言葉がありました。

「梅棹忠夫語る」聞き手小山修三(日経プレミアシリーズ新書2010年)
そこに、こんな箇所があったのでした。

「 ・・・自分の書いたものを残すべしという習慣がなかった。」(p80)
そこにある会話でした。

小川】 ぼくもアメリカとかイギリスへ行って、
    アーカイブズの扱いの巧みさというものを見てきました。
    パンフレットとか片々たるノートだとか、
    そういうものもきちっと集めていくんですよね。

梅棹】 アメリカの図書館はペロッとした一枚の紙切れが残っている。

小川】 ・・・・それらがきちっと揃っている。

梅棹】  だいたい図書館は内容とはちがう。
    わたしが情報ということを言い出したのは、それがある。
    情報とは中身の話や。
    ところがみんな、やっぱり形式の話で・・・・


8月28日の講座では、約30~40分語れただけでした。
時間がなかったせいもあって、あちこちと
図や表や写真などを中心につないで語って、ハイ終わり。
そこで一枚のペロッとした紙切れたちが役立ち、
それが参加者へと、どうやら伝わったようです。
アンケートコメントを読み返していると、
そんなことが、思い浮かんできました。

やっぱり、実際に人を前にして語るのは違いますね。
それにアンケートの集計を読めたことはありがたい。

一年一回講座ですが、語れてよかったと思いました。
図・写真・集計の紙切れが効果発揮してくれました。
それに今年は当ブログでもあれこれ検討できました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桑田忠親の関東大震災。

2024-10-07 | 地震
日本史研究者として知られる桑田忠親は、
明治35年11月に東京麹町に生まれ、
大正12年(1923)の関東大震災の時は、21歳でした。
年譜(桑田忠親著作集第10巻)によると、
父親は、陸軍歩兵中佐だったとあります。

桑田忠親著作集第1巻は、日本史講義集「歴史の学び方」から
はじまっておりました。そのはじめの方に、関東大震災が語られております。
今回は、そこを引用しておくことに。

「・・こういう大地震になると、
 その被害の規模が大きかったというだけではなしに、そのために、
 いろいろな人々の社会生活に、甚大な影響をあたえているのです。

 とくに、関東大震災のときには、それに付随した、さまざまな事件が
 起っています。たとえば、朝鮮人さわぎが、これであります。

 朝鮮人さわぎ、というのは、ちょうど、関東大震災が起ったとき、
 東京の郊外の多摩川で砂利を運んでいた2000人ばかりの朝鮮人労働者が、
 大震災で、滅茶苦茶になった東京の市街を襲撃する、といった
 デマが飛んだのです。その巷に流れていたデマを、まことしやかに
 報告したのが、三宿(みしゅく)にあった砲兵連隊の斥候兵(せっこうへい)
 だったから、たまりません。

 それを聞きつたえた渋谷、目黒、青山へんの、老人、女、子供たちは、
 なだれをうって、続々と、砲兵連隊の兵舎に避難します。そこで、
 連隊でも、仕方がないので、これを保護し、練兵場に野砲まで引きだし、
 空砲を多摩川方面に向け、威嚇射撃をする、といったさわぎになりました。

 ・・・その夜、たいへんに昂奮し、あわて、ふためいた
 在郷軍人会では、家々に踏みとどまった男子にたいして、
 朝鮮人労働者撃退の命令をくだしたのであります。
 その命令をうけた青年たちは、竹槍を持って、
 渋谷の西郷邸の森あたりに、待機させられたのです。
 しかし、朝鮮人たちは、ついに、襲撃してきません。

 これは、来ないはずです。かれらは、大震災で東京も滅茶苦茶に
 なったので、どうやって暮らしてゆくか、さきの見こみも立たない。
 いっそのこと、朝鮮に帰国したほうがいいか、どうしたものかと、
 多摩川の河原に集まって、相談していたわけです。

 それを何か不穏なことをたくらんでいやしないかと、
 疑われたのであります。いのちの危険をかんじたのは、
 じつは、かれら朝鮮人だったのです。
 翌日になって、それが、デマだったとわかり、
 こんな馬鹿馬鹿しい話ったらないと、心あるものは、
 大いに憤慨したことでした。

 すべて、大事件が起こったときには、そんなデマが飛び、
 不安感におそわれることが多いものです。

 その翌日は、また、朝鮮人が井戸に毒薬を投げこむから、
 用心しろ、などというデマがひろがり、そのために、
 朝鮮人とまちがえられて、あやうく、日本刀で
 斬られそうになった男もいたくらいです。
 じつに、物騒でした。・・・   」(p13~14)


これは、講義の活字化ですので、関東大震災でも
ポイントをしぼって語られているわけなのですが、
それを語る人が、日本史研究者であること。
その人の父親が、陸軍の軍人であったこと。
それを加味するならば、信頼するに値するデマ分析だと思います。
ということで、ここに引用してみました。

まさか、ここで関東大震災の記述を読めるとは思いませんでした。
うん。最後は「著作集の刊行を終えて」から桑田氏のこの箇所を
引用しておわります。

「 ・・・陸軍の軍人であった父は、体も弱くて軍人嫌いな
  少年時代の私をもて余し、なるべく勉強の楽な学校にはいり、
  思想の穏健な教員か学者になってほしいらしかった。

  勇敢で潔白で単純素朴な性格の父を、
  いかにも古武士らしいと思って、尊敬してきた私は、
  父の期待に背くまいと努力してきたが、皮肉な軍隊歴、
  空襲、疎開、思想的混迷などのために、人知れぬ苦悩をした。

  若いときと敗戦直後は、貧乏や病気とも戦った。
  初志を貫徹させるためには、危い時機が幾度かあった。しかし、私は、
  幸運にも、どうやらその危機を乗り越えて、今日に至った。

  生母には13歳のときに死なれたから仕方がないが、
  せめて父には、学位を頂くまでは生きてほしかった。・・  」(p315)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大震災と津波の誤情報

2024-09-19 | 地震
「安房郡の関東大震災」をテーマに、記録をひらいていると、
津波の誤情報があったことがわかります。

うん。今なら、地震があったら津波とすぐに思い浮かべるわけですが、
地震が頻発するたびに、津波情報が多発されるとどうなるのか。
余震が多発するさいに、津波情報も多発されればどうなるのか。

そういうことを実際に思うに際し、歴史的な関東大震災の場合、
安房の記録が語る当時の地域歴史の輪郭が浮き彫りになります。

「・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯(津波)起るの
 流言蜚語至る處に喧伝され人々の不安は今から考へれば
 悲壮の極みであった。・・・ 」
    ( p894 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

ここで注意したいのは、流言蜚語の中には
『海嘯起る』もはいっていることなのです。

その不安は、こう表現されておりました。

「 余震は頻々(ひんぴん)として来り、
  海嘯の噂は頻々として起り、
  不逞漢襲来の叫は頻々として伝へられ、
  
  人心は不安と恐怖とに襲はれて殆んど生きた心地もなく、
  平静の気合は求めようとして求められず唯想像力のみ
  高潮して戦々兢々として居た時であった。  」


こうして、当時の館山町役場報には、震災の翌日の9月2日夕刻に
『戒めの語り草』として、津浪襲来の噂を勘違いして
「町全体は混沌として名状すべからざる状態に陥ってしまった」
という記述があり、そのしめくくりには、こうあるのでした。

「毎年9月1日の震災記念日には、何時も老若男女の戒めの語り草として
 永遠に云ひ伝らるべき悲惨な珍話となっている。 」
      ( p771~773 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とりあえず参考本。

2024-09-10 | 地震
ブログへ講座参考本として列挙した箇所があったので、
とりあえず、肩慣らしで、それを並べておくことに。
講座「安房郡の関東大震災」のための参考本でした。

① 「館山市史」(昭和46年)
② 君塚文雄編「写真集明治大正昭和 館山」(国書刊行会昭和56年)
③ 千葉県立安房農学校 創立五十周年記念誌」(昭和50年)
➃ 「千葉県安房郡誌」(編纂兼発行所千葉県安房郡教育会・大正15年6月)
⑤ 産経新聞7月1日の特集記事「能登半島地震半年」 
⑥ 武村雅之著「シリーズ日本の歴史災害5 手記で読む関東大震災」(2005年)
  武村雅之著「地震と防災」(中公新書・2008年)
⑦ 武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(2023年)
  武村雅之著「未曾有の大災害と地震学」(2009年)
  「三芳村史」(昭和59年9月)
⑧ 武村雅之著「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」(2003年)
⑨ 長谷川櫂著「震災歌集」(2011年4月25日)
  鶴見祐輔著「決定版正伝 後藤新平」8 (2006年)
⑩ 前田宣明編著「石原純が残した記録 保田震災記」(保田文庫2018年)
⑪ 武村雅之著「関東大震災」(2003年)
  貝塚爽平著「富士山はなぜそこにあるのか」(平成2年)褶曲帯の記述
⑫ 千葉県安房高等学校「創立八十年史」「創立百年史」和田金治氏の回想
⑬ 千葉県立安房南高等学校「創立百年史」(平成20年2月)
⑭ 安田耕一著「舎久と道久保」(昭和51年・非売品)
⑮ 郡制の廃止。 
⑯ 「大正大震災の回顧と其の復興」上下巻(昭和8年)
⑰ 吉村昭著「関東大震災」
⑱ 吉村昭著「三陸海岸大津波」
  森健著「『つなみ』の子どもたち」
⑲ 農文協「日本農書全集66 災害と復興1 」(1994年)
⑳ 鎌田浩毅著「日本の地下で何が起きているか」(2017年)
  鎌田浩毅著「揺れる大地を賢く生きる」(2022年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

直下地震の体験。

2024-08-20 | 地震
南三原村駅舎で、関東大震災を経験した
安房農学校第四回卒業吉野美佐夫氏の座談会での言葉に

「 私は式が終って駅へ行き、12時何分かの汽車を待っていまして、
  時間があるので外へでて遊んでいますと一番の地震がグラグラ
  ときたんです。そしてその次の地震で駅はつぶれ、
  駅の庭が割れてしまってゴロゴロころがってしまいました。

  とても立っておられませんでしたので、
  今新聞屋がある処に丁度竹やぶがありそこへ
  逃げ込んで4時頃までいてから家へ帰ったようなわけでした。 」

   ( p45  「安房農業高等学校 創立五十周年記念誌」昭和50年 )

安房郡北條の安房郡役所にいた飯田義人氏の文から

「 ・・・出しぬけに上下動が烈しく起った、ガタ、ガタ、ガタ、
  ミリ、ミリ、ミリ、瞬く間に柱は外れる壁は崩れる。

  私は子供の時より安政の地震の話を老人より聞かされ、
  又学校の先生よりは瓦の落つることの危険なるを教へられて居たが、

  横に揺れる気長な地震にばかり遇って居たので
  之まで地震の時に驚きの声を発したことは無かった。
  併しこの時ばかりは大声を発した。地震だ地震だ皆出ろッ
  ・・・・・・・      」(p831)

同じく郡役所から飛び出した小瀧作次郎氏の文には

「 地震だ、大地震だと外へ出た、丁度出遭ひ頭の
  工員五六名と手を継ぎ合せて輪になって
  郡役所の入口で倒れずに過ごした、
  前は池田屋、脇は議事堂、何れへ寄っても危険なので
  そればかり気にして居た、そのうちに
  池田屋も議事堂も倒れたので最早大丈夫と思った。
  稲葉さんは池田屋の角で転がって居た事を後で聞いた。 」(p834)


  ( 以上2つの文は「大正大震災の回顧と其の復興」上巻より引用 )


もうひとり、直下地震の体験を記述されている方を紹介。
「震災予防調査会報告」第百号(甲)に掲載されている
理学士阿部良夫氏の文
「関東大震災特に鵠沼海岸別荘地に於ける状況」から一部引用。

「・・・自分は室内に居たが、急に戸、障子、柱等がガタガタ
 ガタガタと揺れ、間もなくドーンと強い音響と共に
 はげしい強い上下動が一回あった。

 この時ほど水平動を雑へない純粋な上下動は
 今まで自分の出会はない処である。
 
 強い上下動はすぐに止んだけれども、
 用心の為に自分は縁側から庭に下りた。
 庭に下りた時には地震は全く止んで居り、
 庭に立って家をかえり見るに何の破損もない。

 『 出るには及ばなかった 』と思う間もなく
 遽に足元がゆらぎ出し、直に自分は地上にたおされた。
 側の松の小木につかまって立ち上ると
 又直にはねとばされる。上下となく、前後となく、左右となく、
 メチャクチャに土地が震れて立ち上る事は出来ない。

 丁度暴風時に甲板に在る様である。
 家の近くに居ては危険と思ったの
 地上をはって門の方へと向かった。  」(p333)
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講座参考本⑱

2024-08-11 | 地震
前回、吉村昭著「関東大震災」でしたので、
今回、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)から引用。

「 三陸沿岸を襲った津波は、数知れない。
  その主だったものをひろうと・・

① 貞観11年(西暦869年7月13日)・・(「三代実録」による)
② 天正13年(1585年)
③ 慶長16年(1611年)10月28日
➃ 慶長16年11月13日
⑤ 元和2年(1616年)7月28日
⑥ 慶安4年(1651年)
⑦ 延宝4年(1676年)10月
⑧ 延宝5年3月12日(1677年4月13日)
⑨ 貞享4年(1689年9月17日)
⑩ 元禄2年(1689年)
⑪ 元禄9年(1696年)
⑫ 享保年間(1716‐1736年)
⑬ 宝暦元年(1751年)
⑭ 天明年間(1781‐1785年)
⑮ 天保6年(1835年)
⑯ 安政3年(1856年)
⑰ 明治元年(1868年)
⑱ 明治27年(1894年)
  明治29年6月15日
              (p60~62 「三陸海岸大津波」)

このあとに、章をあらためて「昭和8年の津波」が語られておりました。
「三陸海岸大津波」には、第二章「昭和八年の津波」に「子供の眼」という
箇所がありました。
そのなかに尋常小学校6年の牧野アイの作文が載っております。
ここには、そのはじまりの箇所を引用。

「 ガタガタとゆれ出しました。
  そばに寝ていたお父さんが、
 『 地震だ、地震だ 』と、家の人達を皆起して、
  戸や障子を開けて外に出たが、又入って来ました。

  けれどもおじいさんは、
 『 なあに、起きなくてもいい 』と言って、
  平気で寝て居ました。
  すると、だんだん地震も止んできました。
  お父さんは、それから安心した様子で火をおこして、
  みんなをあててくれました。
  ちょうど体があたたまったころに、お父さんが、
 『 なんだかおかしい。沖がなってきた、山ににげろ 』
  と言います・・・・       」(p130)


ここには、そのつづきを
 森健著「『つなみ』の子どもたち」(文藝春秋・2011年12月10日)
からたどってみることにします。

「アイの家は田老の浜辺から120メートルほどのきわめて近いところにあった。
 深夜に襲った地震に牧野の家族は逃げようと準備をした。
 アイはたまたま玉沢とし子というお手伝いに手をとられて、
 裏山の赤沼山へ避難したが、ほかの家族七人は逃げ遅れた・・・」(p248)

こうして牧野アイさんは、昭和8年の津波を経験し、
さらに東日本大震災にも遭遇することとなりました。
森健氏の本には、アイさんの娘・栄子さんの述懐があります。
最後に、その箇所を引用しておきます。

「 栄子の記憶には、アイのこんな習慣が深く刻まれている。
 『 母は津波を忘れないために、
   夜寝るときには、洋服をきちんと畳み、
   着る順番に枕元に置いておく。
   玄関の靴は必ず外向きにして揃えておく。
   避難の際は赤沼山への道を決めておく。
 
   また、お盆のお墓参りでは必ず墓碑銘を読みあげ、
   誰が津波で死んだかを口にしていた。

   どの振る舞いも母自身への津波への教訓であると同時に、
   私たち子どもたちへの防災教育でもあったのです。 』・・」(p250)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講座参考本⑰

2024-08-10 | 地震
吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)。
ここに、余震に関する記述がある。

「9月1日午前11時58分に相模湾を震源地として起った大地震は、
 おびただしい余震をひき起した。

 3分後の午後零時1分49秒には、
 揺り返しと称される大地震が起り、
 午後1時までに強烈な地震が7回にわたって災害地を襲い、
 その後も夕方までに3度の強震があった。

 これらの強震以外に軽度の地震が絶え間なくつづき、
 同日午後12時までの12時間に、総計128回の余震が起った。

 これらは、すべて相模湾を震源地とするもので、
 家屋の倒壊と大火災におびえる人々を戦慄させた。

 さらに翌2日午前11時46分55秒には、
 前日の大地震につぐ激烈な地震が起り、
 人々は激しく揺れる大地に恐怖の叫び声をあげた。

 この大地震は、房総半島勝浦沖を震源地とするもので、
 相模湾を震源地とする前日の大地震によって誘発されたものであった。
 そして、この勝浦大地震も多くの余震をひき起した。

 相模湾と勝浦沖をそれぞれ震源地とする余震が、
 互いに入り乱れて災害地を襲った。
 そして、その日午後6時27分4秒と午後10時9分29秒に起った
 強烈な地震をふくめて、計96回の余震が続発した。

 しかし、その余震も9月3日には59回、
 4日43回、5日34回、6日27回、7日23回、8日21回と
 次第に減少傾向をたどっていった。・・・ 」(p280~281)

ちなみに、
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書・2023年)には、
図「関東地震の本震の断層面とM7以上の余震の分布」(p22)があり、
表「余震の発生時刻と発生場所」(p23)と二つして分かりやすいのでした。

最後に一覧表の文章項目を引用しておきます。

本震 大正12年9月1日11時58分 相模湾   M8.1
余震 大正12年9月1日12時01分 東京湾北部 M7.2
       9月1日12時03分 山梨県東部 M7.3   
       9月1日12時48分 東京湾   M7.1
      
       9月2日11時46分 千葉県勝浦沖M7.6
       9月2日18時27分 千葉県東方沖M7.1

   大正13年1月15日05時50分 丹沢山地 M7.3


武村氏の本については、もうすこし引用しておきます。

「先に紹介した岐阜測候所の記録は、本震だけでなく多くの
 余震についても完全な記録を残している。
 これらの記録の分析から震源位置を評価し、
 本震同様にマグニチュードMを決めると、
 実に6つの余震がM7以上の規模であることがわかった。」(p22)

うん。せっかくなので、最後にここも引用しておきます。
関東地震の震源断層面の位置を図で示して、解説している箇所です。

「・・神奈川県のほぼ全域と千葉県南部は断層の直上にあたり、
 震度7の地域も広い。・・・・・

 これに対して、東京は東京湾の奥に位置し、震源断層からは外れている。
 このため、当時の東京市15区では最大の本所区でも住家全潰率は22%で
 震度6強と評価され、次いで深川区、神田区、浅草区では震度6弱、
 中心部の日本橋区や京橋区では震度5程度である。

 海外では関東地震のことを東京地震と呼ぶこともあるが、
 揺れの中心は決して東京ではなかったことがわかる。  」(p21)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発火於薬品全焼

2024-08-04 | 地震
安房郡の南三原村に、関東大震災から一年後
『 震災記念碑 』が建立されております。

そこに
    縣立農學校舎 発火於薬品全焼

という文字が記されております。
震災の年に、安房農学校の校舎が完成し、
学校授業に必要な、さまざまな備品が完備したことでしょう。
当時の農学校の塚越赳夫先生の記録があります。
そこから火事の場面を引用。

「ふと後を振り返ったら二階建ての寄宿舎は北側へ引っ繰り返っていた。
 その直ぐ隣の理科室は半潰れになっていた。とその中に火が見えるでは
 ないか。・・・斜めに傾いた窓から白煙濛々と立ち上がり、
 理科室の内部はみるみる内に真赤な火焔が一杯ではないか。

 ・・・火の廻りが非常に早かった事である。それは火元である
 薬品戸棚と壁一重隣りの実験室の天井がペンキ塗りであった 
 ためであろう。折からの烈風にあふられて半潰れの校舎は
 忽ち火に嘗められた・・   」

薬品火災については、吉村昭氏の指摘が印象深いので
以下には、その箇所を引用しておわります。

吉村昭氏は、関東大震災後に出た『震災予防調査会報告』を
語っておりました。こうあります。

「『震災予防調査会報告』は、関東大震災後、当時の一流の学者たちが、
 それぞれの専門分野で震災について徹底的な調査研究を一年半に
 わたって推し進め、まとめた報告書である。」

「私のような素人ですらそれを入手し書架におさめてある」

さて、火災についてです。

「報告書でこの火災について取組んだのは、理学博士中村浩二であった。
 まず発火原因について、中村博士は、薬品の落下によるものが44個所 
 もあると指摘している。
 学校、試験所、研究所、製造所、工場、医院、薬局等にあった
 薬品類が、棚等から落下して発火した。

 ことに学校からの出火が最も多く、
 東京高等工業学校、日本歯科医学専門学校、明治薬学専門学校、
 陸軍士官学校予科理科教室、東京帝国大学医学部等、
 17箇所から出火した。
 中村博士は、発火性の薬品が、震動で棚等から落下せぬように
 工夫することが絶対に必要だ、と強調している。

 昭和53年6月12日、マグニチュード7.4の宮城県沖地震が起った。
 ・・・・・テレビをつけると、東北大学理学部の建物から煙が
 出ているのを眼にした。私は、瞬間的に薬品の落下による
 出火だ、と思った。

 この短文を書くにあたって、東北大学に問い合わせてみると、
 『 地震と東北大学化学教室――宮城県沖地震の被害とその教訓 』
 と題する櫻井英樹氏の論文をFAXで送って下さった。

 それによると、出火原因は薬品の落下で、
 櫻井氏はその落下を防ぐよう工夫することが肝要だ、と記している。

 関東大震災当時よりもはるかに薬品の多くなっている現在、
 東北大学理学部の出火でもあきらかなように、
 中村博士の警告は今でも生きている。・・・」

(p98~99 「吉村昭が伝えたかったこと」文芸春秋平成23年9月臨時増刊号)

それにしても、震災記念碑に、無駄をはぶきながら記したなかに
「発火於薬品全焼」という細部を記したことの慧眼を思います。
こういう細部をおろそかにしない記述が、後世の人への参考になります。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安政地震

2024-08-02 | 地震
「安房震災誌」の第二章は
「過去の地震と安房」と題して日本に記録されていた
古文書等をひもといている箇所がありました。

ついつい、その箇所は端折って、実際の安房の
関東大震災への記載の方ばかり見ていたのですが、
あらためて、『過去の地震』のページをひらいてみる。
はい。安政の地震についても触れられておりました。
そこを引用。

「安政2年10月2日、江戸大地震。いはゆる
 江戸時代に於ける三大地震中の最後の大地震である。

 時代の新しきだけに、地震の詳細を記したものに乏しくない。
 が、此處にはその概要を挙げやう。

 江戸府内で震害の最も劇烈を極めたのは、
 何といっても地盤の柔弱な地域である。
 即ち深川、本所、下谷、浅草の地であった。

 今名主からの届出の数字を見ると
 深川に868名、本所に385名、下谷に372名、浅草に566名
 の変死者を出してゐる。

 山の手の土地の堅硬な場所には、震害は比較的軽かった。
 同じ下町でも、日本橋、京橋、新橋付近の如きは、
 被害が割合に軽かった。

 それから、地震の直後に府内30余箇所から火事が起こったが、
 当夜は幸にも常よりは風が静かであったので割合に火勢弱く、
 火消人足の少なかったに拘らず、
 暁近き頃までに大方は消し終せたのであった。
 全く鎮火したのは翌三日の午前十時頃であったと伝へる。
 焼失総面積は約14町四方即ち一哩平方であった。

 浅草五重塔の九輪曲り、谷中天王寺の九輪は落下したが、
 塔はどちらも無事であった。

 品川沖の二番台場の建物が潰れて出火があった守衛の会津藩士
 16名即死した。中川沿岸の逆井では、地面裂け、平井灯明寺の
 山門傾き、鳥居倒れ行徳の行徳寺は大破損であった。

 江戸近郊で最も震度の烈しかったと伝へるのは、亀有である。
 此處は田畑が一時に隆起して地面が小高くなると同時に
 附近に反対に沼を生じたといふことである。

 此の地震は、亀有から、亀戸、本所、深川の一帯が
 震源地であったと伝へる。幸に津浪はなかったが、
 それでも東京湾の海水が動揺して、
 深川蛤町、木更津の海岸などには、津浪に類似したものがあった。
 余震も可なりつづいたさうである。
 
 小石川の水戸の屋敷などは、館舎築地など、悉く潰れて、
 藤田東湖、戸田忠太夫等、此の時に震災の厄にかかった。
 
 ・・・・・・・・

 此の地震に、我が安房地方は如何なる被害程度のものであったか、
 特にそれを詳知することが出来ないのは遺憾である。
 が、時代の新しいだけに、地方にはそれを記したものもないとも
 限るまいと思ふ。しかし安房総体としてのものを知ることは、
 今日まではまだ出来ずにゐる。・・・・ 」(p49~52)


はい。引用がつい長くなりました。
こうして残念ながら、残っていない安房の震災記録についても
ふれておられる。何だかその無念さは伝わります(笑)。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「下から来る地震はこわいよ」

2024-07-29 | 地震
「安房震災誌」をパラパラめくっていたら、
富浦村の「人の被害」という箇所に

「 富浦村は曾て安政の大地震にも可なりの
  災害を被りしと伝へらるるも確然たる記録は勿論、
  是れといふ言ひ伝へもないが・・・  」(p97)

うん。安政の大地震の内容については語られていないのですが、
ここに『安政の大地震』という言葉が出て来ておりました。

「大正大震災の回顧と其の復興」上巻にも、安政の大地震に
触れた箇所がありましたので、短いから全文引用(p878~879)。
富津尋常高等小学校 八田知栄という方の追憶談でした。

「大正12年9月1日・・・児童を帰して職員大部分は職員室に
 集まってゐた。私は広尾訓導に認印を押して貰ふ用事があったので、
 高等科の教室に行って見ると3人ばかりの児童が残ってゐた。

 やがて下から持ち上げられる様な気持でドーンと来た、
 私は『地震だ。出ろ』と思はず叫んだ。
 広尾訓導は『大丈夫だ』と云った
 ( 其の大丈夫だと言ったのは倒潰することはない、
   夏休中に教室の柱を修理したからの意味で有った )

 私は『何に出ろ』と言って外へ出た。
 ころころと転げて畑の中まで転げ落ちた。
 頭を上げて見ると『ガラガラ』と砂煙りを上げて
 東側の校舎が倒れるのを見た。
 私も広尾訓導も命を拾った、児童も早く逃げ出して居った。

 私の父母は江戸で生れて安政の大地震のとき恐ろしい目に遭った。
 母は常に『下から来る地震はこはいよ』と教えてくれた。
 今更に母の言葉の有難味を覚える、
 下から来る地震東京湾沿岸、三、四尺も隆起した
 ところを見ると下からまくし上げたに違ひない。  」

そういえば、寺田寅彦のエッセイに安政地震のことが出てくる
箇所がありますので、最後にそこも引用して終ります。

「・・困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。
 地震や津波は新思想の流行などには委細かまわず、がんこに、
 保守的に執念深くやって来るのである。

 紀元前20世紀にあったことが紀元20世紀にも
 まったく同じように行われるのである。科学の法則とは
 畢竟(ひっきょう)『自然の記憶の覚え書き』である。

 自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
 それだからこそ、20世紀の文明という空虚な名をたのんで、
 安政の昔の経験を馬鹿にした東京は、
 大正12年の地震で焼き払われたのである。

 こういう災害を防ぐには・・・・しかしそれができない
 相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し
 過去の記録を忘れないように努力するよりほかはないのであろう。 」

(p184~185 寺田寅彦エッセイ集「科学と科学者のはなし」岩波少年文庫)

はい。8月28日(水曜日)に「安房郡の関東大震災」という題で
1時間の講座を語るのですが、これを導入部としましょうか。
安政の大地震と比べ、ありがたいことには関東大震災は過去の記録が
きちんと残されております。そして、その安房の記録を紐解いてゆく。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講座参考本⑧

2024-07-20 | 地震
武村雅之著「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」(鹿島出版会・2003年)。
この本のカバーにある著者略歴を見ると
1952年 京都生まれ
1976年 東北大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)
1981年 鹿島建設株式会社技術研究所入所
 ・・・・・

という経歴の持ち主で、大学の地震学研究者とは一味違うようです。
ということで、この本の最後の方に、気になった箇所がありました。

「・・・日本の教育が『ローカル』を排除し、『グローバル』を崇拝する
 方向に進んでいる現実があるのではないだろうか。

 例えば、高校で力を入れて教えている教科は、
 英語、数学、社会科では世界史、理科では化学と物理である。
 一方、影が薄くなりつつあるのが、国語、地理、生物、地学である。

 前者はすべて世界中どこで勉強しても同じ内容のものばかり、
 つまり『 グローバル 』、
 後者は日本でしか学ぶことができない内容を含むもの、
 つまり『 ローカル 』である。

 ・・・確かに国際化時代といわれ、世界の流れに遅れまいとして
 あせる気持ちはわかるが、こと地震防災に関しては、日本の自然環境を
 背景に自らの住む地域の地震環境や地盤環境を理解することが
 何より大切で、『 グローバル 』な知識のみでは歯が立たない。 」
                    ( p133 )

もう一ヵ所。これは引用しておきたいと思う箇所があります。

「私が、関東地震の調査を開始して感じたことは、
 過去の地震に関するデータは、確かに探せばあるにはあるのだが、
 それにかかる労力たるや大変なものである。

 研究者でさえ目先の成果ばかりを
 要求される現状では手が出しにくい。

 いわば『 好き者 』以外入り込めない世界である。
 さらに、たとえ『 好き者 』が現れたとしても、
 その人が発掘収集したデータは、その後、持っていく場がない。
 つまり一代限りでまた闇の世界へ戻らざるを得ない。
 これが現状である。 」(p135)

『安房郡の関東大震災』というテーマは、それ自体が『ローカル』なんだ。
どうも関東大震災に関しては今まで学者は、安房郡へ手を出しにくいようだと
そんな背景が、よく分かった気にさせてくれます。
はい。いろいろと読み方を触発させてくれる一冊です。
もうすこし、座右に置いておくことにします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講座参考本⑦

2024-07-19 | 地震
いろいろな地図を広げてみる。

武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中央公論新社・2023年5月)に
首都直下地震の範囲を書いておりました。

「 首都直下地震とは関東地方の南部の
  神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県、茨城県南部
  で起こるM7級の大地震を指す総称である。 」(p24)

さてっと、地図です。p21にある地図は
千葉県・神奈川県・東京都・埼玉県・茨城県・静岡県・山梨県
を含む範囲の地図に、震度分布を濃淡で描きこまれてあります。
この地図は、武村雅之氏の本をひらくと同じみの地図なのです。

武村雅之著「関東大震災」(鹿島出版会・2003年)には、p25にあります。
カタログ「関東大震災80年THE地震展」(読売新聞東京本社・2003年)には
その同じ範囲地図に、震度7が赤、震度6が橙色、震度6弱が黄色の色分けで
載せてあります。同じスケールで大阪湾近辺の震度分布図も並べてあります。
見ると関東大震災と阪神・淡路大震災との強い揺れの範囲がすぐわかります。
カタログには「兵庫県南部地震との比較(作成鹿島建設小堀研究所武村・・)」
からの引用とあります。
同じ地図は、武村雅之氏の他の本にも登場します。

 武村雅之著「手記で読む関東大震災」(古今書院・2005年)
 武村雅之著「地震と防災」(中公新書・2008年)
 武村雅之著「未曾有の大災害と地震学」(古今書院・2009年)

はい。地図は一目瞭然で印象鮮やか。
それでは、安房郡の地図はどうか?

「安房震災誌」には、最初にある写真ページの終りの箇所に
「安房郡震災被害状況図」が載っております。
安房郡の各町村名が載っているなかを赤い線で三ヶ所にわけております。
赤の格子柄が「九割以上の激震区域を示す」
赤の横の線が「激震区域を示す」
赤の斜め線が「軽微区域を示す」となっております。
その地域地図を囲むように東京湾・太平洋・君津郡・夷隅郡と書かれている。

はい。武村雅之氏の地図では、
「九割以上の激震地区」と「激震地区」をまとめいっしょにしておりました。武村氏の地図には、そこにM7と表示しております。

この「安房郡震災被害状況図」は、赤で色分けしてあってよいのですが、
各町村名も手書きなので、赤の格子図とで何だか読みにくいなあと
思っておりました。

すると、「三芳村史」(昭和59年9月発行)の震災の箇所をひらくと、
p926に、安房郡役所調査の「安房郡震災被害状況図」が載せてありました。
こちらは、各町村名を活字に置き換えてあり、さらには
黒一色の図なのですが、「9割以上の激震地区」を横線にして
「激震地区」を点々の砂模様。「軽微地区」を斜め横線としありました。
うん。こちらの方が、それなりに分かりやすいと思ってよく見ると、
村名に明らかな間違いがありました。

千歳村を、千才村と活字表記してある。これはいただけません。
白浜(濵)村を、白溪村としてある。これじゃわからない。
太海村は、大海村となっておりました。

三芳村史の、この図はわかりやすくて使わせてもらいたいと思うのですが、
村名を間違えているのが、何とももったいないなあ。

まあ、そんなことを思いながら、あれこれと地図をひらいて見る楽しみ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「安房郡の関東大震災」余話⑦

2024-07-15 | 地震
気になったので、鶴見祐輔著「正伝 後藤新平」(藤原書店・2006年7月)の
第8巻「・・1923~29年」を古本で買いました。この巻のみ購入。
この巻に関東大震災での後藤新平が語られております。
パラリとひらけば、こんな箇所がありましたので引用。

「 事実において、当時ややもすれば挙措に迷い、
  消沈せんとした人心を激励したのは、
  颯爽たる伯(後藤新平)の態度であった。
  その沖天(ちゅうてん・天にも達する)の意気であった。
  これも伯に激励されて、奮い起った一人、
  すなわち当時東京市の庶務課長、文書課長ならびに
  土木局総務課長たりし荒木孟は、次のごとく語った。

    震災の直後、初めて内務大臣としての後藤子爵にお目にかかった
    時の印象、之はたしか3日の朝でありました。
    市役所の状況の報告に内務大臣の官邸に参りました所が、
    偉い元気で激励して下さって、いや心配することはない、

    組織をしっかりしてやって行きさえすれば大丈夫だ、
    何事も組織が大事だ、と言われた事を記憶して居ります。

    平生から調査とか組織とか云うことを能く言われる方で、
    こんな時でも矢張り後藤さんは後藤さんらしことを
    言われると思いました。   ( 「帝都復興秘録」 )   」(p160~161)


この箇所を引用しながら、思い浮かべるのが
安房の関東大震災からの復興でした。
たとえば、千葉県の他郡の青年団等の救援が次々と来る。
その方々は、どちらも、ご自身の食料は、救護活動中自前で持ってきている。
そして、数日して次の救護活動へとバトンを託して、帰路につく。
医師や看護婦等も医薬品等がなくなればつぎへと託することになるようでした。

それらを塩梅してスムーズに活動を援助してゆくのも組織の力が必要でした。
さまざまな救援物資を搬入する手はずも、搬出する手はずも欠かせず、
各地区への伝達要因も必要でした。
それを、倒潰家屋からの救出や、被害家屋のかたずけと同時におこなってゆくわけです。
意思疎通の必要性もあったでしょう。

『安房震災誌』の凡例は、こうはじまっておりました。

「 本書は大正12年9月の大震災によって、
  千葉県安房郡の被った災害と、之れに対して
  安房郡役所を始め全郡の官民が執った応急善後施設の
  概略を記録したものである。  」

では、その組織を指揮した安房郡長・大橋高四郎を吏員はどう思っていたのか
その一例を『安房震災誌』から引用しておきます。

「吉井郡書記、能重郡書記はこういってゐる。・・・・・
 震災直後に、大橋郡長が、庁員の総てに対して訓示せられた、
『 諸君は此の千古未曾有の大震災に遭遇して、一命を得たり。
  幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、
  罹災民の為めに奮闘せられよ 』
 には何人も感激しないものはなかった。
 庁員一同が不眠不休、撓(たわ)むことなく
 よく救護の事務を遂行し得たのは、全く此の一語に励まされたものである。
 ・・・・・・・・
『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 今日ばかりでなく、今後私共の一生涯を支配する重要な言葉でぁる。
 言葉といふより血を流した体験である。 
 地震が心の肉碑に刻したものである。   」(p319~320)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「安房郡の関東大震災」余話⑥

2024-07-13 | 地震
内村鑑三が、関東大震災に遭遇したのは62歳でした。
政池仁著「内村鑑三伝」(教文館・1977年)に

「・・・大手町の衛生会講堂も焼け落ちて、
 内村はその働き場所を失った。東京市民はぼう然自失、
 不安におびえながらも右往左往しそのなす所を知らなかった。

 内村は一枚の紙に左のごとく書いて玄関口にはり出した。

   今は悲惨を語るべき時ではありません。
   希望を語るべき時であります。・・・・・・   」(p567)


「 10月5日の内村の日記に、

    昨夜順番に当り、自警団の夜番を努めた。・・・・
    老先生拍子木を鳴らしながらその後に従う。・・・・

  と書いた。これについて、ベンダサンは、
 『内村鑑三のような、キリスト教徒の非戦論者・平和主義者までが、
  木刀をもって家のまわりを警戒に当たったのは事実であり・・』
  と書いた(「日本人とユダヤ人」)。

 内村は木刀を持って歩いたのではなく、拍子木を鳴らしながら
 歩いたので、拍子木というものはカチン、カチンという
 遠くまできこえる音によって、悪る者が逃げるようにするものである。
 息子の持っていた金剛杖というもの鉄棒だと誤解している人もあるが、
 これは樫の木で作ったもので、この夏息子祐之が富士登山に使った 
 ものである。・・・・      」 (p572~573)


はい。ここに、
『 内村は一枚の紙に左のごとく書いて玄関口にはり出した。
     今は悲惨を語るべき時ではありません。
     希望を語るべき時であります。・・・・・・    』

という箇所があったのでした。そこから思い浮かべた本が、
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日)の
このパウロが引用されている箇所でした。

「新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、
 ところどころに実に特殊な、『 喜べ! 』という
 命令が繰り返されている。

 私たちの日常では皮肉以外に『 喜べ! 』と
 命令されることはない。・・・・・・

 聖パウロの言葉は、人間が命令されれば心から喜ぶ
 ことを期待しているのではないだろう。

 喜ぶべき面を理性で見いだすのが、
 人間の悲痛な義務だということなのだ。

 人間は嘆き、悲しみ、怒ることには
 天賦(てんぷ)の才能が与えられている。

 しかし今手にしているわずかな幸福を
 発見して喜ぶことは意外と上手ではないのだ。  」(p29)


え~と。
内村鑑三著「後世への最大遺物 デンマルク国の話」(岩波文庫)
これをパラリとひらいてみたら、パウロと二宮尊徳とのページが
目にはいりました。その両方を最後に引用しておきます。

「・・・パウロの書簡は実に有益な書簡でありますけれども、
 しかしこれをパウロの生涯に較べたときには価値の
 はなはだ少ないかと思う。パウロ彼自身は
 このパウロの書いたロマ書や、ガラテヤ人に贈った書簡よりも
 エライ者であると思います。・・・  」(p54)

「あなたがたもこの人(二宮尊徳)の伝を読んでごらんなさい。
『少年文学』に中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、
 あれはつまらない本です。

 私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました。
 五百ページばかりの『 報徳記 』という本です。
 この本を諸君が読まれんことを切に希望します。

 この本はわれわれに新理想を与え、新希望を与えてくれる本であります。
 実にキリスト教の『 バイブル 』を読むような考えがいたします。」(p63)


ということで、はい。私はさっそく『報徳記』をネット注文することに。
そこに出てくるであろう、『希望』とめぐりあえますように。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする