河合隼雄著「箱庭療法入門」(誠信書房)の
はじまりに、
「箱庭療法は、ロンドンにおいてローエンフェルトによって、
1929年に、子供のための心理療法の一手段として考案された
ものである。その後、彼女に教えを受けたカルフは、ユングの
分析心理学の考えを導入して、スイスにおいて、これを成人にも
効果のある治療法として発展させた。
河合は、ユング研究所に留学中、カルフに教えを受け、わが国に
紹介するとともに、1965年から、天理大学と京都市カウンセリング
センターで、この技法を用いることになった。・・・・・」(p3)
そういえば、河合隼雄には「ユング研究所の思い出」という
一読忘れられない文があったのでした。はじまりはこうでした。
「スイスのチューリッヒにあるユング研究所の所長リックリン博士
から、『日本人として最初の』という祝福を受けながら、ユング派の
精神分析家の免状を受けとったのは、1965年の2月のことであった。」
うん。1965年にユング派の精神分析家の免状を受けとったのでした。
その1965年から天理大学と京都市カウンセリングセンターで、この
技法を用いることになった。となっており、帰国してすぐに
河合隼雄氏は箱庭療法を日本で用いはじめたのだとわかります。
うん。それはそうと、ここでは、
「ユング研究所の思い出 分析家の資格試験を受ける話」から
引用しておきます。この文が入っているのは、
河合隼雄著「母性社会日本の病理」(中公叢書)で10ページほど。
免許の資格は「最小限度5年はかかることを覚悟しなければならない。
多くの人が途中であきらめてゆくのも当然である。」(p108)
と前段で紹介しております。
こんな箇所もありました。
「・・できるだけ言語化をおさえ、全体的なニュアンスを生かして
ゆこうとするか、逆にある程度のロスはあっても、明確にし得ることを
できるかぎり言語化しようとするかは、分析家の個性、あるいは
『好み』にかかわっているとも言える。しかし、これが日本人と
西洋人となると『好み』の次元を越えて、質的なものと感じられる
までになってくる。われわれ日本人から見れば、彼らはあまりにも
明確化しすぎ、言い切りすぎるように思えるし、端的に言うと
『西洋人はどうして、あれほど簡単に信じることができるのだろう』
という感じになるのである。これを、彼らから言わせると、
日本人のやり方はあまりにも不明瞭で、
『解っているのか、解っていないのかも解らない』
状態と見えるのである。」(p110)
こうして研究所の重要なメンバーであるJ女史を主査とする
試問を受ける場面につながってゆきます。
このJ女史について河合氏は語ります
『著書もあって有名な人である。ところが、この人の講義を聞くと、
あまりにも単純にものごとを割り切りすぎていると思われ、
私はどうも感心できないのである。』(p110)
こうして、臨んだ試験場では、J女史との対決となるのでした。
「陪査として同席していたフレイ先生は、場をとりなすような
発言をしてくれ、私自身も何とかスムースに事が運ぶようにとは
努力するのだが、駄目なのである。それは雪道でスリップを始めた
車のように、いくらハンドルをまわしても運転者の意図を無視した
暴走を続け、衝突を避けることができない。・・・」(p112)
そのあとに、一応パスさせようという申し入れを、今度は河合氏が
『単なるお情けで資格を呉れるなら、そんな資格は要らない』と
つっぱねる場面にまで展開するのでした。
すると、仲介にはいったフレイ先生は
「資格を貰えぬ可能性が大きいが、その覚悟があるかと念を押された。
『私は生まれながらに、河合隼雄という名があって、それだけで十分です。
その上にユンギャンという飾りがついてもつかなくても、
私の存在には変りがありません』と私は答えた。」(p113~114)
うん。短文に内容が詰まっているので、
本来なら、読んでいただきたいのですが、
こちらも、引用しておきたくなります。
「委員会は私に資格を与えることを決定した。
それは相当長時間にわたる激論の末であったらしい。
その決定の趣旨は、リックリン所長が免状を授与するときに、
『ミスターカワイ、あなたは今まで何事もあまりスイスイとやって
ゆくので、イエスマンではないかと、われわれは危惧していた。
しかし、最後になって研究所をゆるがすほどの大きいNo!を言ってくれた。
これで、われわれは安心してあなたに資格をあげられると思いました』
と述べたことに端的にあらわれている。
フレイ先生とこのことを話合ったとき・・・・・
西洋人なら自分の方が正しくてJがまちがっている、
だから免状を呉れるべきだと言ってけんかをするだろうが、
あなたは免状はいらないと言ってけんかをしたのだから、
そのところは日本的と言うべきだろうと言われた。これには、
私もなるほど参ったと感じたことであった。また、先生は、
資格を取る人はすべて教育分析の過程のなかで、一度は相当な
危機におちいり、それを乗り越えるプロセスがあるのだが、
あなただけは一度も危機に陥ることなく成長してゆくので
不思議だったが、一番最後になって相当なデプレッションを
体験しましたね、と言われたことも非常に印象に残った。・・」
(p115)
はい。私はこの文を、雑誌掲載時に読み、切り抜いておりました。
ここで、はじめて河合隼雄の名前を知りました。