和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

というモノサシ。

2012-03-31 | 短文紹介
今朝。テレビをつけたら落合博満氏に阿川佐和子さんがインタビューしてる。私服での落合さんの坊主頭がさまになっておりました。

そういえば、落合博満著「采配」(ダイヤモンド社)に

「結論から言えば、私は今でもこの自分の采配を『正しかったか』それとも『間違っていたか』という物差しで考えたことがない。ただあるのは、あの場面で最善と思える決断をしたということだけである。」(p74)

という箇所があり、印象に残っております。
「物差しで考えたことがない」という落合さんの言葉。

ここで、わたしは司馬遼太郎の「山片蟠桃のこと」という文章のはじまりを連想してしまいました。司馬さんはこうはじめております。

「江戸体制を考える上で、はたして、この体制が建前であるコメ経済であったのか、それともゼニ経済だったのか、ということに迷ってしまう。」

ここでは『建前』という物差しへの迷いから、書きはじめられているのでした。
では、そのつづきをすこし

「当時の為政者も、このことに迷い、頭を痛めた。『加賀百万石』などと、江戸時代のひとびとは前田家の威勢を、石高(こくだか)で表現した。伊達家は仙台59万5千石で、島津家は薩摩鹿児島77万石であったればこそ、威勢があったのである。
が一方でこういう言い方もある。
『播州赤穂の浅野家はわずか5万石ながら、有名な赤穂塩(あかおじお)の収入(みいり)などがあって、ご内福である』この小藩の城下の人口は5千ほどで、江戸初期以来、城下の各戸に上水道がひかれていた。赤穂の上水道は1616年の完成というから、時期としては世界でもっとも早いものである。このような石高に不相応な『内福』さこそ、塩という商品を通じての赤穂藩のゼニ経済のおかげだったといっていい。・・・」

司馬さんは、このように書き出して、だんだんと山片蟠桃へと言及してゆくのに、建前の正しさは石高なのですが、実質的なゼニ経済という時代背景をまずは、浮き彫りにしてゆきます。

さてっと、現在の「建前」とは何でしょうねぇ。
たとえば、民主党が正しいと、
ちっとも疑いをさしはさませない「議論」とか。
あなたなら、
「正しさ」からどういう連想をしますか?
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目に見えぬ鬼神をも。

2012-03-30 | 古典
古新聞の切り抜きが出てくる。
2011年6月20日読売新聞。
国際欄「世界からエール」に、

「台湾・高雄市の義守大学応用日本語学科が年1回出している短歌・俳句の雑誌が、東日本大震災の被災者らを励ます短歌の特集を組んだ。・・・台湾には、日本統治時代に日本語教育を受けた人や日本語を学ぶ学生を中心に、短歌・俳句の愛好者は多い。特集は『台湾歌壇』のメンバーら62人の120首が掲載され・・・『未曽有なる大震災に見舞はれど秩序乱れぬ大和の民ぞ』『天災に負けずくじけずわが愛友よ涙も見せず鬼神をば泣かす』など、耐え抜く被災者への感動を詠んだものが多い。福島第一原発の事故現場で働く作業員への称賛の歌も。『原子炉の修理に赴く男の子らの【後を頼む】に涙止まらず』『福島の身を顧みず原発に去りし技師には妻もあるらん』『大正生まれ昭和育ちの我ならば日本大震災にこころのしずむ』と日本語世代ならではの歌も寄せられた。・・・」

ここに『天災に負けずくじけずわが愛友よ涙も見せず鬼神をば泣かす』という一首があったのでした。「鬼神」といえば、古今和歌集の仮名序が思い浮かびます。

「・・・・力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり。・・・」


さてっと、ここで話題をかえます。
「山片蟠桃賞の軌跡 1982-1991」の第一回受章講演でドナルド・キーン氏が語ったなかに

「・・その時までは英米でいちばん権威のある百科事典ブリタニカが、初めて日本文学に相当のページ数をさくことになり、私に日本文学総論を頼んできました。日本の作家十人を選び、ブリタニカに日本の文学者のことを入れることになりました。なかなか楽しい話でしたが、紀貫之のことを書いたために、その時までに載っていた誰かが落伍しなければなりませんでした。ページ数が決まっているのですから。そこで、だれが落伍したかというと、私の大嫌いなアメリカの海軍大将だったんです。・・・」

この講演のあとに、谷沢永一氏が「お祝いのことば」を語っているのですが、
そのはじまりは、この紀貫之を取り上げることからはじまっておりました。
ということで谷沢氏のはじまりの言葉を引用。

「さきほどキーン先生が、百科事典のために日本の文学者の中から十名をピックアップせよと言われて、紀貫之の名をあげたとおっしゃいました。これはたいへんな見識でございまして、その当時、同時代の日本の国文学者を一堂に集めて、そして日本文学ベストテンをあげろといった場合に、紀貫之をあげるというへそまがりはほとんどいなかったのではないでしょうか。しかし、『古今集』というものがどれほど日本の文学を規定し、大切な要素であったかということが、昭和40年代から50年代にかけまして、多くの俊才の研究の結果、大岡信さんの『紀貫之』が出たりしたこともありまして、おそまきながら日本の国文学者の気づくところとなりました。・・・キーン先生がさきに見抜いておられたということをいま承りまして、非常に感動したわけでございます。・・・」


さってと、わたしはこれからどうしましょう(笑)。
「古今和歌集」岩波文庫
大岡信著「紀貫之」
これにチャレンジしたい。
欲張るならば、
窪田空穂全集にある「古今和歌集評釈」。
それから、たしか谷沢永一氏がお薦めだったところの
藤井高尚の「古今和歌集新釈」まで視野にはいれば。
うん。挫折しないように、ぼちぼちと。

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第一回山片蟠桃賞受賞者。

2012-03-29 | 短文紹介
思い出して、本棚から
「山片蟠桃賞の軌跡 1982~1991」(大阪府)を出してきました。
以前、この賞について、谷沢永一氏が司馬遼太郎さんとの関連を書いており(それがどの本で読んだやら忘れております)、古本で購入してあったものです。

その第一回(1982年度)受章者がドナルド・キーン氏でした。
昨日は、その箇所を読みなおしておりました。
ドナルド・キーン氏の受賞記念の講演と
そのあとに、司馬さんと谷沢さんの「お祝いのことば」が掲載されております。
読み甲斐がありました。
今度読み直したキーン氏の講演では、
この箇所に、注目しました。

「・・もう一つ、これはあるいはいちばん大切なことかもしれませんが、私は1953年頃から何回も何回も日本に来たことがありまして、もう日本のことを外国だと全然思わなくなったんですけれども、日本で、自分の中にもう一人の自分がいるということを発見したんです。どういう意味かというと、ケンブリッジ大学にいた時分、私はその生活が大好きでした。いちばん自分の性質にむいている生活だと思いました。修道院のような生活で、本ばかりとつきあっていました。場合によっては、1週間、自分の講義の時間以外は自分の声をほとんど使わなかったこともあります。私はそれでいいと思いました。学者はこんなものだと思いました。しかも私は学者以外の何者でもなかったのです。どんな簡単な仕事でも大失敗をしたはずですが、学者の道しか考えられませんでしたから、私はしかたなく学者になったのでした。ところが日本に着いてから、そのもう一人が同じ私の中にいるということが分かりました。狭い意味の読者のために書くよりも、広い読者層のためにものを書くことが、私に、よりむいているということが分かったのです。・・・そして、その発見と同時に、一種の解放感もありました。自分のほんとうの可能性を発揮できることが、日本で初めて分かったのです。・・・」(p43)

つぎには、司馬さんのお祝いの言葉から、

「キーン先生の学問的業績というようなものは、たいへんなものであります。さらにはゆたかな芸術鑑賞の感覚と、まれなほどの芸術的文章の才をあわせもっていらっしゃるのです。こういう人を、神様は一世紀に何人も生みださないと思うのですが、そういう方が、よりにもよって、当時、世界文学の中でも辺境ともいうべき日本文学を専攻してくださった・・・・なんとしあわせなことであったでしょう。おそらくこの人のようなかたはもう二度とお出にならないということは、みなさんも思っていらっしゃるだろうと思います。そういう意味で、本日は一期一会ともいうべきありがたい日であります。キーン先生は、年齢でいいますと、私より一つ上であります。・・・」(p64)

うん。谷沢永一氏のお祝いの言葉も、
引用したいのですが、この次にします。
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函美しく。

2012-03-28 | 詩歌
昨日。予約してあった本が届く。
岡野弘彦の歌集「美しく愛しき日本」(角川書店)。

昨年(2011年)の雑誌「短歌」6月号(角川書店)に
岡野弘彦氏の「美しく愛(かな)しき日本」と題して
作品100首が掲載されていたのを読みました。
それ以来、気にはなっておりました。

届いた新刊の函がいい。
きちんと見たいので、帯をとります。
カバー・扉写真 泊昭雄。
「nakasu 川のなかに土、砂がたまってできた州」なのだそうで、
とても写真とは思えず、最初は日本画だとばかり思っておりました。
写真の細やかさが生きて、ぼんやりと、
川と中州のさかいめの、水にひたっている土や石を見ております。
装幀は間村俊一。

うん。函をながめているだけで、いいや(笑)。
そのうち、本をひらきましょう。

とりあえず、あとがきより


「前歌集『バグダッド燃ゆ』を出版してから、
もう六年になろうとする。
・・・・・・・
古代から歌は祈りの声であった。
その歌に托した祈りの心は現代にも生きつづけて、
日本人が体験したもっとも苛酷な人災、
昭和の戦争と敗戦後の忍従を、
われわれはこの伝統詩に凝縮させて祈った。
そして、昨年三月十一日、
思いもかけぬ災禍が日本を襲った。
この火山列島に住みついた祖先達が
幾たびとなく繰り返してきたであろう忍従と祈りの心を、
身の情念をふりしぼって歌わなければならぬ運命に、
また逢遭したのである。

人間が人智によって生み出した新しい力も
巨大な天災に遭って一挙に崩れ、
更に今まで自然界に無かった禍々しい人災を
生み出すことを体験したわれわれは、
より深く力あることばによって、
祈りの歌をうたうべき時にたち到っている。

これは八十代も残り少ない私の八冊目の歌集である。
・・・」


うん。ゆっくりと手をあわせるように、
読ませていただきます。
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鬼泣・鬼怒。

2012-03-27 | 短文紹介
雑誌の連載は、感銘しても、つい忘れて、
それでもって、読みたいときに、
さがしだせないことが、しばしば。
なら、ここに、備忘録がてら、
書いておくにことにしましょう。

雑誌「WILL」五月号(2012年)の連載エッセイ。曽野綾子の「小説家の身勝手」がよかったなあ。連載「蒟蒻問答」もたのしめました。ここでは、巻頭エッセイの日下公人「繁栄のヒント」をとりあげます。

うん、日下氏といえば、思い浮かぶことがあります。
亡くなられた谷沢永一氏の雑誌掲載文に「新聞書評に頼らないで、10冊」という4頁ほどの文。まず最近(平成8年7月1日)の10冊を紹介してから、、語り始めるのですが、そのはじまりはこうでした。

「選択の基準は簡単です。私がかねてより心から尊敬し、その人の述作は全部かならず目を通そうと決めている方々の著書のなかから、この二年以内に刊行されたものを選んでみました。・・・」
たまたま、その最初に選ばれていたのが、日下公人の著書でした。
え~と。ちなみに、この短文は谷沢永一著「読書人の点燈」(潮出版社)に再録されております。

さてっと、その日下公人氏が雑誌WILLの巻頭エッセイを毎回書かれてる。今回の五月号は、ドナルド・キーン氏がテーマ。ということで、そのはじまりを引用。

「戦争中、急遽、日本語を勉強して情報将校となり、ガダルカナル戦以降に戦死した日本兵の日記や手紙の内容を調べたドナルド・キーンさんが、このたび日本に帰化して日本人になった。漢字の名前が『鬼怒鳴門』だと新聞報道にあったので、当時、大東亜戦争を闘った日本人の心をよくわかってくれた人なんだなと嬉しく思った。
あの頃の日本人が何を怒鳴っていたのか、81歳の私はよく覚えている。平和を望む日本人の心を理解しない蒋介石政権やルーズベルト大統領に対し、『どうして分かってくれないのか』と怒鳴りたい気持を抑えて戦いに入ったのである。その気持ちは宣戦布告の証書全体に溢れていたから子供にも分かった。アメリカ人のドナルドさんも、だんだんに分かったのだろうと想像する。・・・」

このコラムの最後も引用したいのですが、
まあ、また読み直します。
うん。雑誌WILL5月号は、
忘れずに本棚に置き、読めるようにしておきます。
感銘しても、再読をしない。その悪い癖は、
すこしずつでもなおしていきます(笑)。
ちなみに、この号の特集の方は、未読。
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大川小学校裏山。

2012-03-26 | 地域
宮城県石巻市にある大川小学校は、海岸から4キロ離れたところにありました。避難所としての指定があったようです。津波が押し寄せる際に、校長は不在。避難所ということで、近隣から老人の方々もあつまっていたようです。先生方は、車でむかえに来る父兄の確認にも忙しく立ち回されていたと思われます。

この大川小学校について、最初にまとまった情報を読めたのは、2011年中央公論8月号でした。それについては当ブログの2011年7月15日に書き込みがしてあります。それから気になっておりましたが、今回、二人の新聞での文を読むことができました。
どうして、裏山へ逃げる選択肢がなかったのか?

曽野綾子と都司嘉宣のお二人の現地へ直接行かれて、確認なさった文を読めました。

どちらも産経新聞です。
2012年1月27日曽野綾子「小さな親切、大きなお世話」は、こうはじまっておりました。「被災した当事者でもない者が、被災地に立ち入るのは心ないようでためらわれたのだが、私は東日本大震災後、丸四カ月目に東北に行った。そして児童74人、教職員10人が死亡または行方不明になったという大川小学校の跡地にも立って、胸のつぶれる思いがした。」

いろいろ指摘があるのですが、私が聞きたかったのは裏山に関することでした。その箇所。

「私はここに小学校児童がいたらどこへ逃げたらいいのだろうか、という思いであたりを見回した。裏山が校舎のすぐ後ろに迫っていることは意外だった。この裏山については、今でも意見が分かれているらしい。まず急峻で、子供にはとうてい上れない、ということはすぐにわかった。」

つぎに、2012年3月22日の都司嘉宣「温故地震」大震災編。この日の題は「大川小学校の惨事」。では、そこから丁寧に引用してみます。

「宮城県石巻市立大川小学校の被災について取り上げる。大川小は、河口から約4キロ上流の北上川南岸の堤防近くにあり、周辺は海抜約2・5メートルのくぼ地となっている。ここで全児童108人の約7割に当たる74人と、教職員10人が死亡・行方不明となる惨劇が起きた。
地震発生時、児童らは2階建て鉄筋コンクリート造りの校舎内にいた。大きな揺れを感じ、津波警報の発令を知った教職員は全校児童を校庭に整列させた。その後、少しでも高い場所に児童を移動させようと、海抜6メートルの北上川の堤防に向かって列になり歩いていくうち、川から堤防を乗り越えてきた大津波に、先頭の児童から順にのみ込まれていったという。」

さて、このあとに、現地へいった都司氏の裏山についての記述がつづくのでした。

「最初にこの話を聞いたのは東京にいるときだった。大川小付近の地図を確認すると、校舎の背後に小高い山がある。『なぜ裏山に登らせなかったのだろう』と不思議に感じた。だが、昨年6月に大川小を尋ねる機会があり疑問は氷解した。させなかったのではなく、できなかったのだ。
裏山は、ほぼ傾斜45度の急斜面だった。斜面には津波が到達した位置を示す木札があり、高さは海抜9.4メートル。私はそこまで登ったが、大の大人が草をつかみながら苦心惨憺し、たどりつくのがやっとだった。しかも、震災当日の昨年3月11日、斜面はまだ一面の雪に覆われていたという。とても児童108人を登らせることはできなかったのである。」

どちらも、現地へ行って、直接確認している点がありがたく。
都司氏は、直接登っておられるのでした。たいへん参考になりました。
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消防団員。

2012-03-25 | 短文紹介
産経新聞の産経抄は、石井英夫さんの頃からの読者でした。
そのころから、ああ、ほれぼれするなあ、と思っていたのは、
同じ産経新聞に掲載されたコラムを取り上げる際の、
すっきりとした見識の手際でした。
これは、他紙にはないのじゃないかなあ。
などと石井英夫さんがコラムニストの時に思っておりました。
そういう、よき気風が、いまも散見できるのは、
産経抄を読む喜びです。

さてっと、前置きが長くなりました。
今日3月25日の産経抄は、その半分をつかって
曽野綾子さんの文を紹介しておりました。
その引用です。はじまりから

「曽野綾子さんが一昨日の1面コラム『小さな親切、大きなお世話』で、カトリックの修道院について書かれておられた。かつては『自由がなく、この世の快楽や便利とはおよそ無縁の生き方を選ぶ場所』だった。それでもそこに暮らす人は『充実感をもって生きていた』という。ところが第2バチカン公会議以来『開かれた教会』が叫ばれてきた。その結果修道院も厳しい規則が取り除かれるようになり、個人の希望もかなえられる所が増えた。するとその頃から修道士や修道女を志願する人が減ってきたのだそうだ。目から鱗の思いがした。修道士も修道女も、俗世界の欲求を断ち神からの使命に従ったからこそ、高貴な生き方として尊敬を集めた。それが俗世界と変わらない生活をし、欲求も入れられるようになっては、もう憧れの対象ではなくなりつつあるらしい。現代の日本では自衛隊や警察、消防などがそれに近い存在といえる。・・・・」

話題をかえます。
雑誌WILL5月号の「蒟蒻問答第72回」で堤尭さんが、最初に喋りはじめておりました。

「大震災からちょうど一年の三月十一日、国立劇場で政府主催の追悼式が行われた。天皇がお言葉を述べられたが、その一節に曰く、『一年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ二万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。そのなかには消防団員をはじめ、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません』
俺はこれを聞いて、『自衛隊も出してほしかったなぁ』と思ったよ。震災直後のお言葉では、『自衛隊、警察、消防、海上保安庁をはじめとする・・・』と真っ先に挙げられた。今回もそうしてほしかったなあ、と。・・・」

うん。私の意見はちがいます。
平成23年3月16日の天皇陛下のお言葉は、「現在、国を挙げての救援活動が進められています・・」と語られる中で、そのつぎに
「自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内のさまざまな救援組織に属する人々が、余震の続く危険な状況で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。」
とあったのでした。
その3月16日のお言葉のなかには、「消防団員」という固有の言葉はなかった。
今度の追悼式では「救助や防災活動に従事して命を落とされた多くの人々」と語るまっさきに消防団員という言葉を入れられていたことに、私は思い至ります。
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あえて私が代弁すれば。

2012-03-24 | 短文紹介
雑誌「WILL」5月号が届く。
曽野綾子さんの最新エッセイをまずは読む。
曽野さんの「揺れる大地に立って」(扶桑社)を読んでいたせいか、
今回のエッセイは、磨きがかかっているように読めました。
ということで、その引用。

はじまりは、

「震災後も私はよく同級生と会って喋り、簡単な食事をする。そして最近のことを語り合う。皆、大東亜戦争の時、中学二年生だった人たちである。・・・・やや遠慮がちに、3・11のことに触れることもある。しかし誰一人としてその前も後も今も、全く考えや物の見方が変わったなどと言う人はいないのである。
世間では、新聞にもテレビにも、あの日以来ものの見方も人生観も変わった、という言葉が頻繁に出ている。そう言わないと災害に遭った人の苦労をないがしろにしているような感じになる世相の中で、高齢者はやや無口である。亡くなった方たちに対して、それはあまりに慎みのないことだとも思うから、誰も大きな声では言わない。・・・はっきり言うと戦争に比べて、今度の地震の災害など軽いものだ、と心の中ではすべての人が思っているのである。戦中世代が心の中で自ら押しつぶしている声を、あえて私が代弁すればこういうことだ。誰も、家族や家や仕事を失った人が、その悲しみを越えてできるだけ幸福になればいいと願っている。しかし世の中には常に、不幸と不運というものがある。それを私たちの世代は、仕方なく、運命の一環として肯定したのだ。・・・・」

途中は、端折って、

「戦争中のことを知る世代はもうだんだんいなくなりつつある。苦労した話など得意気に喋るのも嫌味なことなので、皆過去に関しては寡黙になっている。」


「いつだって望みが叶えられればこんなにいいことはない。しかし今から七十年近く前、全日本が傷ついた戦争の時、人間の希望が、政府によって叶えられるなどということを期待する庶民はほとんどいなかったのだ。当時の日本人は壊滅した日本の国土の中から、自力で立ち上がった。政府がしてくれないことは、すべて自分たちでやる他はない、と知っていたのだ。


最後も引用しておきます。

「しかしいずれにせよ、戦争を体験した者たちは、今度の震災などに、いささかも動じない。人生には、もっともっと激しい貧困、不法、不平等、危険、人間の愚かさの結果としての空しい死があることを知るという、人間としての基本を身につけてもらったからだ。」


そうそう、河出書房新社から「特別授業3・11 君たちはどう生きるか」という14歳の世渡り術シリーズが出ておりました。まだ読んでいないのですが、それはそれ、パラリとひらいた箇所に、こんな箇所がありました。

「わたしが高校生の頃から愛読してきたパスカルという思想家の『パンセ』という本のなかに、こんなことばがあります。
『人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現われている』なんどもくり返し味わうべきことばだと思います。」(p79)
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上毛かるた。

2012-03-23 | 短文紹介
えっへん。プリンターを購入しました(笑)。
今回は、ブラザーHL‐5380DNにしました。
モノクロです。ネット注文で昨日夕方届く。
さっそく試運転。うん。印刷もきれい、両面もスムーズ。
これで、両面印刷も難なくできるなあ。
本を読むように、まずはプリントしてから読める。
スムーズなプリントアウトは心強いなあ。
買ってみれば、いままで何をしていたんだろうと、
思ったりするのでした(笑)。

さてっと、今日の新聞をひろげて高校野球をみる。
石巻工高は5-9で神村学園高(鹿児島)の敗れておりました。
石巻といえば、ゴソゴソと読売の古新聞をもらってきたのを、ひろげていると。

3月10日の編集手帳には、「宮城県石巻市の小学一年、佐々木惣太郎君(7)の作文『おとうさんへ』を本紙で読んだ」と指摘しております。それではと、さがすと、3月3日の社会面にその作文の原稿が、在りし日の家族写真とともに載っておりました。うん。読めてよかった。作文のはじまりの一行は、「おとうさん、ぼくはげんきだよ。」でした。
亡くなった父親は石巻市立大川小教諭だったのだそうです。「児童74人、教職員10人が犠牲になった大川小」。心をあらたに、津波を思うのでした。


学校といえば、今日の産経新聞一面に曽野綾子さんが「小さな親切、大きなお世話」というコラムを書いておりました。そこにご自身の学校のことが書かれておりました。

「私は修道院付属の学校で幼稚園から大学まで教育されたので、昔の修道院の空気をよく知っている。」

3月10日読売夕刊に新保祐司氏が「内村鑑三 心の復興の灯台」と題して文化欄に書いておりました。そこにこうあります。

「今日の日本人が振り返るべき『明治の精神』の群像には福澤諭吉、岡倉天心、夏目漱石、森鴎外など多くの偉人が存在する。その中で『災後』に生きる日本人にとって最も必要な人物は、『文明開化』を推進した福澤でも、『かのやうに』の相対主義に耐えた鴎外でもなく、近代日本の代表的基督(キリスト)者、内村鑑三であろう。」

という指摘の文なのでした。

「高崎藩の下級武士の子であった内村は、群馬県で長い伝統を誇る『上毛かるた』の、『こ』に入っている。『心の灯台 内村鑑三』である。これは、よく出来た読み札だと思う。大震災後の日本は、政治・経済の混迷に留まらず、精神や道徳、あるいは文化といった『心』においても闇が深まりつつある。・・・」


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とにかく、

2012-03-22 | 短文紹介
当ブログの「目利きの町。」(2012年2月19日)に、
貴重なコメントをいただき、気になっておりました。
コメントの題は「学士山岳会」。
そこには、こんな箇所がありました。

「この山登り仲間のスローガンは『団結鉄より固く、人情紙より薄い』という有名なもの。いろんな逸話、伝説がのこっております。」

さて、このスローガンをどう読んだらよいのやら、途方に暮れておりました。すると西堀栄三郎語録とある西堀岳夫編「とにかく、やってみなはれ」(PHP研究所・文庫サイズ)の第6章「和より『調和』でチームはよく動く」が、理解を助けてくれるようなのです。

ということで、第6章から一箇所を引用してみます。

「チーム組織、スポーツの精神の重要性を説いた際、私はしばしば手厳しい反論に出くわしてきた。それはしばしばビジネスの世界の人々から出された反論であるが、『実社会は遊びごとではない。スポーツの世界で成立するような組織の論理を実社会に持ち込むのはふざけている』といったものである。
このような反論に対して、私はつねづね次のように答えることにしている。『ヒマラヤの山に取りつくときも、南極の氷原でキャンプをするときも、当事者は死を覚悟することが何回かある。研究所でもよい、会社でもよい、官庁でもよい、大学でもよい、そこに働いている人の、どれだけが死を覚悟する思いで仕事をしているでしょうか。どちらのほうが、ふざけていることが多いでしょうか』と。」(p125)

う~ん。こうして引用すると、他のほうが、もっとふさわしいページがありそうな気になってきますが、まあ、あまり引用ばかりもいけないし(笑)。このくらいで話題をかえます。

そうそう。昨日は、第84回選抜高校野球大会の開幕式。夜7時のテレビニュースで選手宣誓を聞いていました。今日の新聞には、宮城の石巻工・阿部翔人(しょうと)主将(17歳)の選手宣誓全文が掲載されており、読みなおしておりました。
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これからも変わらないだろう。

2012-03-21 | 短文紹介
落合博満さんは1953年生まれ。

落合博満著「采配」(ダイヤモンド社)をパラパラめくっているところです(笑)。
そこから、すこし引用。


「正確に書けば、私が子育てをしなかったというよりも、妻がさせなかった。・・・私は家にいる時間も野球のことを考えていたし、他の人が寝ている時間もバットを振っていた。息子に構う時間はなかったのだ。些細なことかもしれないが、今にして思えば、風呂に入れたり遊びの相手をしてやりたかった。だが、当時は私だけがそうしていたのではなく、プロ野球選手の家庭は同じような感じだったはずだ。もっと言えば、企業戦士の家庭も似たようなものだったのではないか。子育てを含む家事全般は、妻の役割という時代だった。
それから25年が過ぎる間に、社会の考え方は変わってきた。
夫婦共働きの家庭は珍しくなくなり、家事も主婦と主夫が協力する。それは時代の変化と受け止めればいいが、最近は仕事と家庭という部分だけではなく、あらゆる面で『何かに没頭する』時間が少なくなったように感じている。」(p52)

この次にページに、こんな箇所がありました。

「1日、1日と生活していく中で、さまざまなことをそれなりにこなそうとすれば、どうしてもバランスを取ろうとするため、ひとつのことに深く取り組む、すなわち没頭することができない。そして、それを一定の期間継続すると、没頭するという感性を忘れてしまうのである。」

「古臭いことを言っていると思われるかもしれないが、社会の考え方が変わっても、社会人として台頭するためのプロセスは変わっていない。そして、これからも変わらないだろう。自分の目標を達成したり、充実して生活を送るためには、必ず一兎だけを追い続けなければならないタイミングがある。」


まだ、全部読んだわけじゃないのに、落合博満氏の他の本も読んでみたくなりました。
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鬼と僧侶。

2012-03-20 | 短文紹介
今度、岩波現代文庫に本田靖春著「評伝今西錦司」が入ったそうです。
その解説を河合雅雄氏が書いているようなので気になります。
そういうわけで、未読の単行本「評伝今西錦司」(山と渓谷社)をひらく(笑)。
本の「あとがき」は、柴又の寅さんからはじまります。そのあとに。

「・・・いま、『あとがき』を書いていて改めて感じることは、この世を思いのままに生きた人物が現にいたという事実の重みであり、その貴重さである。しかも、ただ単に、思いのままに生きたわけではない。いまさらいうまでもないが、数々の輝かしい業績を積み、多くのすぐれた人材を膝下から輩出した。私もかなり自由に生きてきたつもりでいたが、振り返ってみると、せいぜい寅さんといい勝負で、私における自由は、身勝手さと言い直すべき性質のものであったと反省している次第である。」

とりあえず、最近買ったのは
西堀岳夫編「とにかく、やってみなはれ」(PHP研究所)という西堀栄三郎語録でした。文庫サイズで表紙はビニール手帳のようなしっかりした感じ。パラリとひらけば、「『プロ精神』から『仕事の鬼』へ」という短文。


「プロ精神で仕事をしろとさかんに言われていますが、これは外来の考え方で、私はあまり気に入りません。私はエサで人間の仕事を釣るようなことはけしからんと考えていました。そのような仕事への待遇よりも、人をしてその仕事に対して、いかにして『仕事の鬼』にさせるかが大切です。『仕事の鬼』になるということは、たくさんの書物を読んだり、三日でも四日でも徹夜して研究したり、そういう作業を誰に言われるのでもなく、自分でやっていく、ということです。『仕事の鬼』になるということはプロなどという程度の生やさしいことではなくて、心の奥底から湧き出てくるやむにやまれないものが自分を鬼にしてしまうようなことです。こうなれば、にんじんを鼻先にぶら下げられたような欲求不満などは消し飛んでしまいます。」(p26)


う~ん。「徹夜」といえば、最近思い浮かぶのは
瀬戸内寂聴とドナルド・キーン対談「日本を、信じる」(中央公論新社)にある、この箇所でしょうか。

瀬戸内】 でも、お互いに90歳ですからね。今度うっかり病気をしたら、もうダメかもしれない(笑)。だから病気をしないようにしましょう。と言いながら、この歳でまだ徹夜で仕事をしているんですからね。
キーン】 私もこの一年、ずっと休みなしです。(笑)  (p14)


キーン】 私は日本の文学、日本の演劇などを生涯にわたって勉強してきましたが、半生を日本で過ごした後に気がついたことがあります。それは~今や私は日本人に負けないほど、ワーカホリックになったということです(笑)。何かしていなければ気がすまない。・・・・働くことがいちばんの楽しみなのです。これからどういうものを書いていくかはともかく、働くこと自体は極めて面白く、大好きなので、生きている限りやめることはないでしょう。
瀬戸内】 私もそうですね。私の場合、何か書くと、その書いたものから、次にすることを教えられるんですよ。『今度、これをしなさい』って、それを書いたら、またその中から、『次はこれにしたらどう?』と教えられながら、ここまで来ました。そして、書いたものに促されて出家してしまったんです。書かなかったら、こういうふうにはなりませんでしたね。法話や説法は僧侶としての私の義務です。でも、小説を書くのは、私の欲望。欲望は快楽をともなうんです。小さいものでも書き上がったら、『バンザーイ!』って真夜中に一人で叫んでしまいます。ですから、それこそ一晩中書いていて、ペンを持ったまま死んでいたのを誰かが見つけてくれる・・・というのがいちばんいい。・・(p116~118)


うん。なんとなく、鬼と僧侶がしっくりしてくる不思議。
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移動図書室。

2012-03-19 | 短文紹介
梅棹忠夫の言葉に、

「現地で、実物をみながら本をよむ。
わたしはまえから、
これはひじょうにいい勉強法だとおもっている。
本にかいてあることは、
よくあたまにはいるし、
同時に自分の経験する事物の意味を、
本でたしかめることができる。」
(引用例として「梅棹忠夫、世界のあるきかた」勉誠出版・p56)

東日本大震災にあたり、
私は、何をしたのか、
現地へは、いっていない。
うん。現地へ行った方の本を買って読んでいる。

さてっと、
畑村洋太郎の言葉に、

「災害にあった現場に実際に行ってみること、
たくさんのことを感じ、考える。
東日本大震災の津波について、
普段から筆者がその重要性を主張している
『3現(現地に行き、現物を見て、現人に会う)』
を実践し、実情を調べた。
その後、被害の実情、津波の現象、復興、防災活動の効果、
災害と力学、などの観点から筆者なりにまとめ、全体像を作った。」

これは、「巨大地震 巨大津波」(朝倉書店)に載っている
畑村氏の「東日本大震災に思う」のはじまりの箇所。


うん。月刊雑誌「新潮」2012年4月号が100年保存大特集『震災はあなたの何を変えましたか?震災後、あなたは何を読みましたか?」というテーマを打ち出していたので、ついつい、気になるので注文しました。それが届いたのですが、何か違う。
何だろう。と思っていたら、梅棹さんと畑村さんの言葉が浮かんだというわけです。まあ、ちょっと読む気にならないので、そんな連想をしておりました。
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作ったら全部おしまい。

2012-03-18 | 短文紹介
「Voice」4月号に
養老孟司・岩村暢子対談「『家族』が壊れて国滅ぶ」を読んだのです。
次を読みたくなり、
養老孟司・隈研吾対談「日本人はどう住まうべきか?」(日経BP社)を購入。
うん。方丈記の「世中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」ということへの言及がひょっとしてあるかという興味もありました。ですが、ちょっと違うようです。
まだ、さわりしか読んでいないのですが、
とりあえず、最初の方にある、この箇所を引用。


養老】 大工さんが建築現場から遠ざかっているんですか。
隈】  現場にはいるんですが、仕事の内容が工場の労働者に近くなってきちゃっています。かつて日本の大工さんといえば、クライアントの家に絶えず出入りしていて、生活のクセを知り尽くしていたので、そこに住んでいる人のニーズを汲み上げて、プランニングもアフターケアもできたんですけど、今はそうではない。作ったら全部おしまい。工事のときだけの使い捨ての存在で、その前もその後も、住んでいる人と関係がない。
昔の大工さんは、クライアントからニーズを聞いたり、図面を引いたり、といった作業を全部自分でやりましたから、責任感だって当然、強くなる。だから、地震でその家が壊れたら申し訳ないと思うわけです。でも今の大工さんは、組み立てだけを請け負っているから、責任なんて感じようがない。仮に責任があってとしても、断片化された中での部分的な責任ですから。継続する時間という一番大事なものを見失ってしまった今のシステムの中でしたら、そういう無責任なメンタリティになっても不思議じゃないですよね。この話は、そのまま原子力発電や災害対策の問題に置き換えることができます。(p21~22)


うん。住まいと「継続する時間」なら、
方丈記でも、一貫しているような気がしないでもありませんね。
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義援金と寝袋とカイロ。

2012-03-17 | 短文紹介
読売と朝日の古新聞をもらってきました(笑)。

それを語るまえに、産経新聞3月14日一面が気になります。
それは、東日本大震災の一周年追悼式典のことについてでした。

「台湾代表として出席した台北駐日文化代表処の羅坤燦(らこんさん)副代表を日本政府が指名献花から外した問題で、藤村修官房長官が13日午後の記者会見で『事務レベルの仕切りに問題があったとは思わない』と述べた。台湾は震災発生後、いち早く支援を申し入れ、世界最高規模の約200億円の義援金を送った。・・・・」

うん。台湾から世界最高規模の義援金が来たということ。
それが200億円だったこと。忘れないでいよう。

その被災地支援が、どのようなものであったのか、
産経新聞一面にリストが載っております。

○ 約200億円の義援金
○ 発電機 688台
○ 寝袋  2587箱
○ 毛布  2099箱
○ 暖房器具 953台
○ カイロ  150箱
○ 寝具   457箱
○ 衛生用品 112箱
○ 食料   16.5トン
○ 飲料   1125箱
○ マスク  404箱
○ 粉ミルク 895箱
○ レスキュー隊 28人


今回、私が気になったのは、寝袋とカイロでした。
そういえば、曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)に、そのことが出ていたなあと、思ったのです。
「避難所というものは災害の当初から、住み心地よくあってほしいものだが、もちろんどさくさの中で快適な生活を用意するということも不可能だろう。しかし私が見ていると昔ながらの救援物資のなかに、毛布というのがあり、それで最低の寝具は整えられたと思うことの神経の荒さをひしひしと感じる。事故当時、災害地にはときどきみぞれや雪が降った。そのなかで畳も暖房もない床に毛布一枚をもらっても温かく寝られるものでもない。災害時に配られる有効な寝具は、寝袋以外にない。寝袋一個は畳んだ状態ならちょっとしたクッション一個の大きさで、屋内で使う場合、いわゆる冬山用の厚いものではなく、俗に三シーズンと呼ばれる薄手のものでいいのである。災害時の寝具は毛布という発想はすべてやめて、寝袋と使い捨てカイロだけにすれば人々は寒さに苦しまなくてすむ。」(p118~119)

ここに、寝袋とカイロという組み合わせが、語られているのですが、
台湾の被災地支援のなかには、当然のように寝袋とカイロがはいっているのでした。

世界最高規模の義援金に、
寝袋とカイロまで支援物資として送ってきたのが、
いったい、どこだったのか?
というクイズがあれば、
つねに即答できるようにしておきましょう。
うん。感謝をもって。
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