和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「京都は歴史の冷凍庫」

2020-05-31 | 京都
4月~5月の2カ月、読売新聞を購読。
今日は5月31日で、読売は今日までです(笑)。
さてっと
読売一面コラムの「編集手帳」(2020年5月31日)。

「鴨川の川辺に高床式の座敷を組み酒食を楽しむ。
京都の夏の風物詩、納涼床の始まりは桃山時代にまで遡る。
もとは浅瀬や砂州に床机(しょうぎ)を並べていたそうだ。
そのにぎわいを蕪村は句に詠み、
本居宣長は日記につづった。・・・・」

はい。このようにはじまっておりました。
ちなみに、産経新聞の産経抄の今日は、
こうはじまります。
「天皇の大臣任命式は歴史が古く、
『徒然草』の第百一段にも描かれている・・」

こうして衣で顔を隠した女官『衣被(きぬかずき)の女房』
を説明しながら、こう続きます。

「・・歴史は繰り返すものなのだろう。
緑滴る季節を迎えてなお、現代版の『衣被』は
簡単に手放せないようである。医療機関や
デパート、航空会社など、利用者にマスク着用を
義務づけた触れ書きを至る所で目にする。・・・」

つぎに、兼好の短文を引用しながら、
コラムの後半をまとめておりました。
はい。どちらも、京都を連想していておかしい。
困ったときの、京都古典頼り。というのがありかもしれない(笑)。

古本で購入してあった本を取り出してくる。
梅原猛著「京都発見」(新潮社)の1と2。
どちらも、300円でした。カバー帯つきで、
本文は開いた形跡もないようで、きれい。

「京都発見」の1(1997年)。その帯に
『京都は歴史の冷凍庫である。』とあります。
ほかには「カラー写真満載」とある(写真・井上隆雄)。
ページの最後の索引下に、
「本書は・・・読売新聞日曜版に連載されたものに
加筆し、脚注を加えました。」とあります。

はい。新聞の日曜版というのは、
新聞の切り抜きをはじまた際の定番コース(笑)。
へ~。と思いながら、この本をネットで検索すると
どうも、1冊目から9冊目ぐらいまで継続して
本が出ていたようです。

さてっと、本文は読んでいないのですが、
帯にひかれました。『京都は歴史の冷凍庫』(笑)。

はい。冷凍を解凍するのは、どうも難しそう。
梅原猛さんは、どう解凍し、どう料理されているのでしょう。
本文を読まない私は、写真に惹かれました(笑)。
うん。それだけでも、300円のもとがとれます。


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「狐つき」3冊。

2020-05-30 | 本棚並べ
柳田国男著「山の人生」のなかの、
「12・大和尚に化けて廻国せし狸の事」に出てくる
「狐憑き」の箇所が、最近思い浮かびました。

「狐憑き」で思い浮かぶ本が、わたしにはあと2冊。
原ひろ子著「ヘヤー・インディアンとその世界」(平凡社)。
こちらには、守護霊の加護を必要とする10代の年齢に、
自分の守護霊がなんであるか、それが出現する際の
状況が語られる箇所があるのでした(p342~343)。
「自ら決意して夢乞いを行なう」とあります。

うん。もう1冊を読んでいて、「山の人生」を思い浮かべたのでした。
その1冊とはマンゾーニ著(平川祐弘訳)『いいなづけ』(河出書房新社)。
その第32章に「ペストを家などに塗りつけてゆく、塗屋」と呼ばれる
流言飛語が現れて、それを患者までが信じてしまうという一部始終が
原因と時間的経緯を通して、解明されてゆきます。
ペストを塗る、塗屋がいると、勝手に思い込まされる段階を、
順をおって示したあとに、それは語られてゆくのでした。

「重病人の譫言の中に『俺がやった』と自分を責める声が出てきた。
これは他人にしてやられるのではないかと怖れていた人が逆に
自分がやった気になって自身を責めたのであろうが、その種の
譫言(うわごと)は世間にはついに犯人が白状したと受け取られた。
そうなると各人もう自分勝手になんでも信じてよいということになる。

譫言にもまして効き目があったのは、ペストに罹った連中の
ある者が錯乱状態におちいって、ペスト塗りがこうやっただろうと
日ごろ想像していた仕種(しぐさ)を本気で真似してみせた時であった。
その実演には誰しも唖然としたに相違ない。
それはいかにもあり得た事のように思えるのだが、そのことによって、
何故当時の人が皆ペスト塗りの実在を確信したのか、
何故かくも多くの年代記作者がその実在を肯定したのかが、
よく説明がつくように私には思える。・・・」(単行本・p672)

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『狐つき』の感染源。

2020-05-29 | 産経新聞
もうすぐ6月です。
今月の新聞コラムで印象に残ったのは
2020年5月23日の産経抄でした。
はじまりは

「韓国の慰安婦支援団体といえば、いつの間にか
国家的英雄視されるようになった元慰安婦の威光を背に、
半ば聖域のように扱われてきた。・・厄介で反日的な存在である。
・・その代表格・・前理事長の尹美香(ユンミヒャン)は
4月の総選挙で与党から当選している。

ところが・・・尹氏を、30年間活動をともにしてきた
元慰安婦の李容洙(イヨンス)が告発したことで事態は動く
『性奴隷というが、とても汚くて嫌で仕方ない。尹に話した。
だが【こう表現してこそ米国が怖がる】と(言っていた)』。
李氏は韓国紙、中央日報にこう話したほか、元慰安婦への
寄付金が流用されていると訴えた。・・・・・
また、元慰安婦が共同生活を送る民間施設『ナヌルの家』でも、
寄付金の使途をめぐる疑惑が施設職員により暴露され、
行政処分を受けることになった。
社会的地位を享受していた支援団体は一転、
元慰安婦を商売の道具にしたとの批判を浴びている。」

このあとでした。日本への言及を産経抄は忘れません。

「日本も無縁ではない。
数年前にナヌムの家に併設された歴史館を訪ねると、
朝日新聞の慰安婦関連記事が展示され、挺対協主催のデモに
参加した岡崎トミ子元国家公安委員長の写真も掲げられていた。
共産党系団体の寄せ書きもあった。

韓国の反日姿勢の背後には、常に日本人の協力者がいる。
慰安婦を『性奴隷』と呼び始めたのも日本人弁護士だった。
残念ながら、日本の敵は日本人だといわれるゆえんである。」


はい。少し端折ったのですが、大半を引用してしまいました。
うん。こんなこと朝日新聞には載らないではないでしょうか。

思い浮んで、本棚から柳田国男著「山の人生」を
とりだしてくる。ここに『狐憑き』をとりあげた箇所があった。
はい。全集別巻に索引があるので、簡単にさがせました(笑)。
はい。こちらは日本の民俗に関する本です。

1は、「山に埋もれたる人生ある事」から、はじまります。
その12には、「大和尚に化けて廻國せし狸の事」で、
ここに「狐つき」が語られておりました。ちなみに、
その13は、「神隠しに奇異なる約束ありし事」と、続いております。

もどって、12に登場する「狐憑き」の場面を引用。


「近頃でも新聞に毎々出て来る如く、
医者の少しく首を捻るような病人は、
家族や親類が直ぐに狐憑きにしてしまふ風が、
地方によってはまだ盛んであるが、何ぼ愚夫愚妻でも
理由も無しに、そんな重大なる断定をする筈が無い。
大抵の場合には今までも似たような先例があるから、
もしか例のでは無いかと、以心伝心に内々一同が警戒していると、
・・・・・
横着なそぶりとなり、この方でも『こんちきしやう』などと
いうまでに激昂する頃は、本人もまた堂々と何山の稲荷だと、
名を名乗るほどに進んで来るので、

要するに双方の相持ちで、もしこれを精神病の一つとするならば、
患者は決して病人一人では無いのだ。・・・多勢で寄ってたかって、
化けたと信ぜずには居られぬように逆に・・・誘導したものかも知れぬ。」
(「定本柳田國男集」第4巻・昭和43年・p90)


この「多勢で寄ってたかって」のなかに、
朝日新聞がいて、挺対協デモに参加した岡崎トミ子。
共産党系団体。そして
「慰安婦を『性奴隷』と呼び始めたのも日本人弁護士だった」。

ここに登場する日本人が、多勢で寄ってたかっている構図。
韓国よりも、それを誘導する弁護士がいる日本。


はい。誰にでも『狐憑き』はあるのかもしれないなあ。
とも、思ってみます。でも狐がつくのか、狸がつくのか。
せめてそれを選べるのならいいのだけれど、
たとえば、新聞の一面コラムでも、
産経新聞『産経抄』が憑くのか。
朝日新聞『天声人語』がつくのか。
読売新聞『編集手帳』がつくのか。
毎日新聞『余録』がつくのか。
うん。「天声人語」憑きという限定があるのなら、
昔懐かしい深代惇郎の「天声人語」が、憑いてくれればなあ。
そんな指名ができるなら、ずいぶんと思考が楽しくなります。


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テレワークと会議。

2020-05-28 | 道しるべ
私は、ワープロがない時代に育ちましたから、
ワープロで自由に活字が打てるという恩恵を、
もろにうけたような気がしております。
はい。字が下手だったせいで、人前に出せるような
文字を書くには、時間ばかりかかっておりました。
それが、文字への恥ずかしさを、ちっとも考えずに、
活字を打ちこめるという気軽さ、楽しさ(笑)。

そうこうしているうちに、ワープロからパソコンとなり、
いつのまにか、ネット社会になっておりました。
コロナ禍の後の社会に、テレワークでの会議が、
というよりも、座談ができるという予測は、
わたしには、ワープロが普及した場合のことから
類推することが出来そうな気がします。

さてっと、月刊Hanada7月号の平川祐弘氏の連載に、
ご自身の著書「日本語は生きのびるか」(河出ブックス)
を注で紹介なさっておられた。はい。たしかあったなあと、
本棚を探してくる。さっそく、パラパラとめくっていると、
会議についての箇所がありました。
こちらで紹介されている会議は切実感があります。
ちょっと文の流れがあるので、その前から引用。

「(この日本の平等主義は国内に限られたもので、
平等主義の主張者も日本人の収入が全人類の人々の
平均収入と平等でなければならない、とはさすがに
言わないようである)・・・・・
日本人が国内的平等をいくら重んじたところで
言語の国際的不平等に勝てるはずはない。・・・・」

はい。このような推移で書かれたあとに『会議』が
ありました。

「自由・平等を世界の諸国並みに理解していないからこそ、
わが国は今日のような自閉的状況に陥ったと見るべきであろう。
同じデモクラシーの原理に立脚するといいながら
西洋の大学にはなぜ日本の大学ほど形式的な会議は多くないのか
ーーそうした現場の相違を日本の西洋研究者はなぜ直視しないのか。
Publish or perish 
『論文を活字にして発表するか、さもなくばポストを失うか』という
大学人としての国際場裡での生存競争の原理を尊重し、
その競争に勝ち抜くためには、
形式的な会議のための会議などに出席している閑な時間は、
本来大学人にはあり得ないはずである。」(p194~195)

月刊Hanada7月号の連載で、平川氏は大学紛争中の
会議をとりあげておりました。こちらも引用することに

「1968年から69年にかけての東大教授会の動向と
学生自治会の動向・・・・

だが、助手の動静は存外報じられておらず、
ほとんど活字になっていない。
紛争に際しては年少気鋭の助手たちがたちまち騒ぎだした。
助手といっても様々で、教授会メンバーに昇格する保証のない
助手もいる。私もそんな一人だが、違いは私だけ一回り年をくって
いたことだ。助手の立場は煉獄にいる様に似て、
フラストレーションが溜りやすい。引火性が高い、
不安定な地位であってみれば、あれよあれよという間に
医学部の若手の主張に同調し騒ぎだした。
 ・・・・・・
・・全共闘派に同調する助手が議事を巧みに進める。
さまざまな提案を何度も投票するうちに百人ほど集まった
教養学部の助手は闘争派の側に次々と靡き、しまいに
賛成と反対は99対1となってしまった。
まだ夏休み前だったが、その日はさすがに憮然として
帰宅した。この先どうなるか、と胃が痛んだ。皆が流され、
自分だけは流されないという座標軸を持つことは容易でない。
 ・・・・・・・・
私と同じような反対派はいたろうが、そうした人はしまいに
助手会そのものに主席しなくなったのに相違ない。
時間の無駄であり、ただでさえ多過ぎる形式的な会議に
これ以上参加を強制されてはたまらない。」(p359~360)

はい。テレワークの会議になれば
『ただでさえ多過ぎる形式的な会議』に
参加しなくても、自宅ですむかもしれない。
なんてことを、たまたま読んでいた
平川祐弘氏の文を借用しながら、
あれこれ思い描く。

そういえば、文化人放送局の
怒れるスリーメンでは、
高橋洋一氏が自宅からの参加で
椅子の背もたれにマッサージ器を
おいているらしく、体を揺らしながら
他の方の話を聞いている姿がありました(笑)。





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80歳過ぎ「コロナがやってきた」。

2020-05-27 | 短文紹介
7月号の雑誌HanadaとWⅰLLが届く。
はい。Hanadaのはじまりのグラビア特集に驚く。
愛知トリエンナーレも真っ青。
こちらは、誰でも、見れます。

それはそうとして、気になったのは
1930年生れの、日下公人氏。
1931年生れの、平川祐弘氏。
はい。この2人。
お二人の『80歳過ぎの光景』を思い描きます。

まず、日下公人さんのWill巻頭随筆から引用。

「テレビをつけると、
国会では同じことを何人もの議員が質問している。
安倍首相はいちいち丁寧に答えている。
国会議員は自分がテレビに映ることばかりを考えて
いるからこうなるのもムリはない・・・・

ある人は
『テレビ中継をする時代がくると、
国会議員はそれに映ることが第一になって
質問者に背を向けて話したり、
図解を持ち込んだりするだろう』と
心配したが、確かにそうなった。

それが実現すると、次は総理大臣に謝らせようと
するようになった。良い質問とは『総理、総理』と連呼して
答弁に自分の出番をつくることで・・・・・
国民は国会全体を軽視するようになった。
国会審議の内容は二の次にするようなったから、
具体的な要求は野党にもっと質問時間をくれ、
というものになった。・・・・
こんなことでいいのかと思っていたところ、
コロナがやってきた。・・・・
日本国のことは他人まかせで、
それで国会議員とは聞いてあきれる。・・・」

この巻頭随筆は、はじまりもいいのですが、
ここでは、カット(笑)。


平川祐弘氏のHanada連載の自伝では、今回は
1960年の安保がとりあげられておりました。

「日本論壇を支配した左翼勢力は1960年に
安保反対を唱えた。・・・・目をつりあげた学生が
『民主主義を守れ』と叫ぶから、私も
『民主主義を守れ』と静かに、多少皮肉っぽく応じた。

そのテンポを一つずらした語調で、私のいう民主主義が
『議論をした後は最終的には国民や国会の多数意見に従え』
という常識的な意味だとすぐ伝わった。・・・・

だが大物知識人が『今こそ国会へ』と学生を煽動し、
東大仏文の渡辺一夫もデモに出かけた。デモの一部は暴走し、
仏文科の助手清水徹は警官の警棒で頭を割られた。
国会前で女子学生が死亡するや興奮は絶頂に達した。

あれから半世紀が経って、80歳を過ぎた清水徹に会った。
そしたら『安保騒動はマス・ヒステリーだった』という平川説に
清水も相槌を打って、淋しげに笑った。」(p357~358)

「東大医学部から教養学部に飛び火し、教養学部がストライキに
突入したのは1968年7月5日である。駒場の地も形勢が不穏になるや
その夏、助手の私は大学院生を連れて志賀高原へ旅行した。
嘱託の平戸恵子さんに言わせれば、私が先手を打ったのである。
・・・・・・平戸嘱託には平川家へ出勤してもらい、八王子のセミナー
ハウスを予約し、そこで合宿する旨の通知を平川家から発信した。
・・・・駒場の比較文学比較文化の大学院だけは東大紛争でストをせず、
研究室を占拠された後も学外でまがりなりに授業を続けたが、
そのことを私は誇りにしている。」(p360)

はい。これだけ読んで私は満腹(笑)。
テレビを見ていると、どうしてか、安保闘争の武勇伝を
聞かされているような雰囲気になりがち、こんなことを
堂々と書けるのも、1930年代の方の特権なのかなあと、
あれこれ思ってしまいます。







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尾身茂さん。

2020-05-26 | 短文紹介
読売新聞一面「編集手帳」(2020年5月25日)。
この日は、尾身茂さんを紹介したコラムでした。
印象に残ります。

2008年2月。当時の読売新聞から引用されているのは、
「感染症対策について国会議員に講演した際の訴え」を
紹介されております。その時の尾身茂さんの発言は

『皆が病院に行けば、病院が最大の感染場所になる。
人の動きを制限し、自宅待機や学校閉鎖を我慢して
もらえるよう政治家が訴えてほしい』

あとは、このコラムの最後の箇所を引用しておきます。

「先日の国会審議で、野党の幹部が、
参考人として出席した尾身さんを激しく攻め立てた。
感染収束に向け、与党も野党も知恵を絞るべきだろう。

著書『WHOをゆく』で、尾身さんは
『治療薬やワクチンがなければ、
19世紀的古典手法に頼らざるを得ない』と説く。
古典的手法とは、感染者の隔離と接触者の追跡だという。
日本の対策は正しいのかどうか、
答えが出るのは当分先かもしれない。」


気になったので尾身茂著「WHOをゆく」をアマゾンで
今日になって注文する、現在は品切れのようです(笑)。
入荷予定は6月中旬とありました。
はい。この本を読み、尾身茂さんを知りたい。
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漱石・露伴と、藤村操(ふじむらみさお)。

2020-05-25 | 道しるべ
「幸田露伴の世界」(思文閣出版)の
まえがきで、井波律子さんは「語り下ろし論文」へ言及しております。
それは、どんなことなのか。

「各自の研究発表はすべてテープにとり、これを起こしたものを
発表者にわたし、研究会におけるやり取りも考慮に入れつつ、
手を入れてもらったものを『語り下ろし論文』とすること。」

「『語り下ろし論文』についても、こうした試みを通じて、
発表現場の雰囲気を生かした臨場感に富む『論文集』に
なった・・・・さらにまた、この『語り下ろし論文』が、
ともすれば『難解』だと敬遠されがちな露伴のイメージを
いささかなりともやわらげ、より多くの人々が多様な露伴像に
アプローチする手がかりになればと願うものである。・・・・」

はい。多様な露伴像。それならこの本の要約より、
わたしなりの、勝手な拡散をたのしみましょう(笑)。

「幸田露伴の世界」の井上章一さんの「語り下ろし論文」は、
題して「『平家』と京都に背をむけて」。
はじめの方で、藤村操(ふじむらみさお)を取り上げています。


「明治36年(1903)のことでした。藤村操という、
当時の一高生が、日光にある華厳の滝へとびこんでいます。
投身自殺でした。遺書には『人生不可解』とあった。・・・・

これが、当時たいへんな評判をよびます。彼をまねて、
同じように自殺をこころみる青年も、でてきました。
世相をゆるがす事件となったのです。」(p160)

はい。井上章一さんの「語り下ろし論文」の要約はやめて、
ここから、わたしの拡散の連想がはたらきます(笑)。

本棚から、出久根達郎著「漱石先生の手紙」(NHK出版)を取り出す。
じつは、藤村操が自殺した時、漱石は彼の英語授業の先生でした。
その箇所を、出久根達郎さんの本から引用してみます。

「漱石が明治36年1月に帰国する・・・・
この年の5月22日の寅彦日記に、次の一行があります。
『一高生徒藤村操、華厳の滝に投じて死す』

漱石は帰国後、東京帝国大学文科大学の講師に任命されました。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任で、英文学概説を講義しております。
・・・・漱石は一方で、第一高等学校の英語の授業を受け持っていました。
藤村操は漱石の教え子でした。

5月13日の授業で、漱石は藤村を指名しました。
藤村は訳読の下読みをしてきませんでした。
これは二度目だったといいます。なぜしないか、と問うと、
『したくないから、やってこないのです』と答えました。
『この次は必ずしてきなさい』と漱石はさとしました。

それから9日目に、藤村は日光の華厳の滝から
身を投げて自殺しました。傍らの樹の幹をけずって、
遺言を記してありました。これが当時評判になった
『巌頭之感(がんとうのかん)』で・・・・」

こうして、出久根達郎さんは
「漱石が一高の教壇に立って、わずか一カ月あまりの
出来事でしたから、しかも当人に二度も注意したことでしたし、
その注意が自殺の原因ではあるまいか、と漱石はずいぶん
悩んだようです。」
と指摘したあとに、漱石の著作の中に、それを探ります。
「吾輩は猫である」「草枕」。そして「坑夫」。それから
「自殺が重要な鍵となる小説『心』」。


うん。ここで、「幸田露伴の世界」へ、もどります。
井上章一さんの文は、その自殺をとりあげてから露伴の
作品『頼朝』へと言及してゆきます。

「しかし、露伴は、そんな苦悩を歯牙にもかけません。
青二才が、なにを血まよったんだとしか、思いませんでした。
そのことを、露伴は、頼朝の若いころとくらべながら論じています。

  人生の味気無さに華厳の滝へ飛び込む可きものならば、
  頼朝などは七度飛び込んでも九度飛び込んでも、
  とても飛び込み足らぬのである。(「露伴全集」第16巻) 」
(p160~161)

「頼朝は、十三、四歳のころに、生死のさかいをさまよった。
平清盛に殺されかける、そのまぎわに、かろうじてたすかっている。
とにかく、少年時代に一度は死を覚悟したはずの人なのです。
それに、父の義朝が家来に殺されもしました。
とにかく、ひどいめにあったのです。

露伴は、ここを強調します。華厳の滝へ七回とびこんでも
たりない経験をしたというのは、このことをさしています。」(p169)


うん。井上章一さんの文は、あくまで幸田露伴なので、
漱石への言及はありませんが、拡散への誘惑はあります。

夏目漱石は、明治36年1月に帰国し、東京帝国大学文科大学の講師となります。
幸田露伴が、明治41年になって京都帝国大学文科大学の講師となり、翌年京都へ。
その経緯は、井波律子さんの文に、語られておりました。

「明治40年(1907)、41歳の時に、主要論文ともいうべき
『遊仙窟』を発表します。・・この論文が『業績』として
評価されたとおぼしく、翌41年、開設まもない
京都帝国大学文科大学講師に任ぜられ・・・・
実際に京都に移り住んだのは、翌42年の初めのようですが、
なんとこの年の9月には早くも辞任しています。
夏休みがすんだらもどって来なかった・・・」(p13)


幸田露伴著『頼朝』は、全集で確認すると
明治41年9月に、発表されています。その9月の辞任です。前年の
明治40年2月に、夏目漱石は、教職を辞し、職業作家へ。その際、
京都帝国大学英文科教授への誘いも断ったようです。

最後に、京都大学創立についての引用。

「明治39年に開設された京都帝国大学文科大学は当初、
『進取の気概』にあふれ、学歴にこだわらず、ずばぬけて
優秀な学者を積極的に採用しました。
正規の学歴は小学校どまりの露伴を講師に迎え、
秋田師範出身の中国学の逸材、内藤湖南を東洋史学科の
教授に迎えたのも、そうした気概のあらわれにほかなりません。
もっとも、露伴の場合、家族を東京に残し単身赴任している・・」(p14)

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声をかけられなければ。

2020-05-24 | 前書・後書。
「幸田露伴の世界」(思文閣出版・2009年)は
井波律子と井上章一の共編となっておりました。

「まえがき」が、井波律子。
「あとがき」は、井上章一。

この共同研究の「あとがき」の最後に、こうありました。

「研究会では、幹事役をおおせつかった。
しかし、私の司会は、全体を拡散する方向にしか、
はたらなかったと思う。・・・・・露伴論をかわしあい、
たがいにすこしずつかしこくなれた二年半が、今はなつかしい。
この機会をあたえてくれた井波律子氏に、
感謝の気持ちをそえて、筆をおく。」

はい。「あとがき」のはじまりを引用(笑)。

「研究会のはじまる前は、露伴の書いたものなど、
ほとんど読んだことがなかった。つきあえば、あじわいぶかい
人なんだろうなという予感が、なかったわけではない。いつかは、
目をとおしてみたいという心がまえも、どこかでいだいていた。

だが、露伴の書いたものには、漢籍や古典のうんちくが、
ちりばめられている。和漢の教養にくらい私などが、
たやすく読めはしないだろう。そんな先入観もあり、
ながらく敬遠しつづけてきた。
井波さんから声をかけられなければ、
そのままほったらかしつづけていたと思う。

とはいえ、私が露伴の研究会でとりあげたのは、
『頼朝』という史伝である。史学史的な興味でえらんだのだが、
・・・この本は、少年むきの読みものとして、書かれていた。
和漢籍の博引傍証は、ほかの本とくらべれば、
ひかえ目になっている。これならば、無学な私でも
とっつきやすかろうという判断も、私をこの本にむかわせた。

読んで思ったが、露伴のこころざしは意外に新しい。・・・
私だけが、そう感じたわけではない。・・・・

明治以後の、東京における知識や考え方を、うかがう。
いわゆる時代精神のありようを、つかみとる。そのためにも、
うってつけの人であろうと、今は考えだしている。・・・・」


はい。この「幸田露伴の世界」に、井上章一さんは、
「『平家』と京都に背をむけて」という題で書いており、
その文は、わたしを惹きつけました(笑)。
ちょっと長くなりそうなので、今回はさわり、
次回に、その内容を書いてみます。
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露伴の退学・中退。漢学塾。

2020-05-23 | 道しるべ
井波律子は、「三国志演義」の訳があり。
幸田露伴は、「水滸伝」の訳がありました。

井波律子への追悼文のなかに、こんな箇所がありました。

「・・はじめフランス語を学び、やがて中国文学に転じた。
第一人者だった吉川幸次郎さんの門をたたき・・・・
『三国志演義』の個人全訳という、6年がかりの大仕事もある。
キーボードをたたき続けているうちに、
指先の皮膚が角質化して全部はがれてしまったという。・・」
(「産経抄」2020年5月19日)

その井波律子さんが、「その生涯と中国文学」をメインに
幸田露伴を取り上げているのですが、いきなり露伴の
フトコロに入ってゆく魅力があります。
その井波さんの文のはじまりは

「幸田露伴、本名幸田成行(しげゆき)は、慶応3年(1867)
明治維新の前年の生まれで、同じ年に夏目漱石、尾崎紅葉、
正岡子規も生まれています。露伴の生まれた家は代々、
徳川幕府のお坊主衆・・・したがって、露伴の生まれた翌年、
明治維新になり徳川政権が消滅すると、幸田家は
経済的基盤を失い、じり貧状態になってゆきます。」

こうして、露伴の少年時代を井波さんは語ってゆきます。
途中から引用。

「明治8年から12年間は、お茶の水師範の下等小学校(附属)に
通学し、ここはちゃんと卒業しています。
 ・・・・・・
明治12年、東京府立中学(一中)に入学しますが、翌年、
先に述べたように経済的事情で退学しています。退学後、
湯島の図書館に通い、独学で漢籍などを読みました。
露伴は生涯にわたって基本的に独学の人です・・・・・

中学退学の翌年(明治14年)、15歳で東京英学校(現在の青山学院)
に入学します。・・これも一年ほどで中退しています。・・・
短期間ながら、こうして英語を学んだために、発音はものになりません
でしたが、読解できるようになり、この英語力を生かして、
後年、釣りに関する英文書を読んだりしています。」

このあとに漢学塾のことが出てきて印象に残ります。

「英学校退学後、菊池松軒の漢学塾に入ります。
ここで学んだことは、露伴にとってたいへん貴重な経験になりました。
当時の漢学塾は、菊池塾もそうだったようですが、
他に職業を持っている人が、なかば趣味で塾を開き、
若い人を集めて教えるケースがほとんどでした。
こうした塾は利益追求型ではないので、『束脩(入学金)』を
おさめるだけで、月謝をおさめる必要はありませんでした。
だから、露伴のように経済的に余裕のない家庭の子弟でも、
通いやすかったのです。
この菊池塾は生徒が自発的に学ぶことをモットーとし、
たとえば、『史記』なら『史記』を独力でどんどん読みすすめ、
わからないところが出てくると、先生に聞くというやりかた
だったようです。露伴はここに毎晩通って学ぶうちに、
正統的な漢文のみならず、『朱子語類』を通じて白話文にも
習熟するようになります。
 ・・・・・
このように露伴は英語と漢文を両方とも学ぶという、
なかなか面白い勉強の仕方をしました。
とはいえ、いつまでもぶらぶらしているわけにもゆかず、
明治16年、17歳のとき、電信修技学校に入学します。
東京の下町では、明治から大正にかけ、
電信技師や電話交換手になった人が多いように思われます。
たとえば、三味線や長唄、清元などの芸事のプロ、
もしくはプロに近い人でも、それだけでは生活できないので、
昼間は電話局や電信局に勤めるわけです。
・・・・・何か手に職をつけなければならないというので、
電信修技学校に入ったのでしょう。優等生だったので
学費免除の給費生となり、翌年に卒業します。
 ・・・・・
当時は師範学校もそうですが、修技学校の卒業者も
必ず一定期間、電信技師として勤務しなければならない
義務がありました。このため、露伴も明治18年、19歳の時に
東京を離れ、はるかかなたの北海道の余市に赴任しました。
ところが、約束は3年だったにもかかわらず、2年足らずで
職務を放擲し、東京に帰ってしまいます。
ときに明治20年、露伴21歳。・・・」
(「幸田露伴の世界」p3~7)

うん。ここから、作家露伴の足跡をおう
井波律子さんの真骨頂がはじまるのでした。

はい。わたしの引用はここまで(笑)。
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幸田文の父露伴。

2020-05-22 | 本棚並べ
幸田文の文章をはじめて知ったは、
学校の副読本かなにかに、『水』という短文があり、
それが、あとあとまで印象に残っておりました。
父親に、掃除・雑巾がけの仕方を教わる内容。

幸田文の晩年の本、『木』『崩れ』は鮮やかで、
ほかと比べるものがないような気がしました。

これはいったい何だろうと思いながら、

  新潮日本文学アルバム「幸田文」(1995年)
  青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店・1997年)
  「幸田文の世界」(翰林書房・1998年)

と古本で少し買っていたことがあります。
その際に、

 「幸田露伴の世界」(思文閣出版・2009年)

こちらも古本で、買ってあったのですが、そのまま未読でした。
この「幸田露伴の世界」が、無事読み頃をむかえたようです(笑)。
「幸田露伴の世界」は、井波律子・井上章一共編とあるのでした。
井波律子つながりです。

思い浮かぶのは、産経抄5月19日の井波律子追悼文でした。
その最後を、あらためて引用。

「メディア史家の佐藤卓己さんが日本経済新聞への寄稿で、
井波さんを『心の師』と呼んでいた。二人が所属していた
国際日本文化研究センターから佐藤さんの京都大学への
異動が決まったとき、意外な言葉を受け取った。
『がっかりしたわ』。大学の看板などなくても
自分の名前で書ける人だと思っていたというのだ。
井波さんこそ、その通りの人だった。」

はい。国際日本文化研究センターの井波律子さんは、
それから、どうしたのか?
それを「幸田露伴の世界」が、教えてくれていました。
「まえがき」は井波さんでした。そのはじまりはこうです。

「本書は2006年4月から2008年3月まで、2年間にわたり、
国際日本文化研究センター(日文研)において行った
共同研究『幸田露伴の世界』の成果をまとめた論文集である。
 ・・・・・
個人的なことだが、私は一時期、かなり身を入れて
『露伴全集』を読んでいたことがあり、機会があれば
共同研究のテーマにしたいと考えていた。しかし、
なかなか決心がつかないまま、歳月が経過し、
3年後に定年をひかえた一昨年、ようやく
上記の共同研究をはじめることにした。・・・・」

このあとの『露伴を語る』という章のはじめに
『幸田露伴 -- その生涯と中国文学』と題して
井波律子さんの29頁の文があるのでした。

はい。今回はじめて読みました(笑)。
肩書という気負いがなく、淡々とわかりやすく
露伴の核心に迫ってゆきます。

この29頁は短いのですが、引用すると長くなる。
井波さんの文は、次回のブログで紹介してみます。



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遊ぶ子供の声きけば。

2020-05-21 | 本棚並べ
本棚から高田宏著「子供誌」(新潮社・1993年)をだしてくる。
いつも通り、内容はすっかり忘れてます(笑)。
いつか、読み直そうと思った。それだけは覚えてる。
手に取るとカバー装画は、安野光雅で、
シンプルで再読をさそうような、そんな絵柄。
はい。またこの本を取り出してくれましたねと、
まるで、絵柄が語りかけてくれているようです。
何をいっているのやら(笑)。

あとがきを、ひらくと

「内なる子供をゆりうごかし、目ざめさせたい。
そうしないと、自分が誰なのか分からなくなりそうだ。
そんな気がずっと前からしていた。・・・」

こうも言っております。

「子供のなかにあるのは・・・・
生きることそのものへのあこがれではないだろうか。
それはたぶん、すべての生きものと共通するものだ。
『内なる子供』は、ぼくたちの『内なる自然』だろう。・・」
(p213)

15の文章が並んでいます。
その3番目の題が「遊ぶ子供の声きけば」で、
はい。ここだけをひらくことにしました(笑)。
では引用。

「平安時代後期の歌謡集『梁塵秘抄』第二にある。
あまりにもよく知られている歌。

 遊びをせんとや生れけむ、
 戯(たはぶ)れせんとや生れけん、
 遊ぶ子供の声きけば、
 我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。

この歌を思い出すたび、どきりとする。・・・・」
(p42~43)

うん。この3番目の文章では、最後に
原ひろ子さんの本を紹介しているのでした。

「カナダ北西部の北極に近い地域で移動しながら暮らしている
狩猟採集民ヘヤー・インディアンと生活したことのある
原ひろ子氏の『子どもの文化人類学』を読むと、
この人びとには働くことと遊ぶことの区分けはなく、
幼い子でも薪割もするのだが、大人たちにとって
子供は労働力である以上に、笑いをさそう者として
貴重な存在と見られていて・・・・
見方によってはそれは童と老人の世界で、
ぼくたちのいうオトナは不在の社会のようにも思える。」
(p46)

はい。原ひろ子著「子どもの文化人類学」はないのですが、
本棚に原ひろ子著「ヘヤー・インディアンとその世界」(平凡社)
はありました。もちろん、未読(笑)。目次をひらいて、
関係ありそうな箇所を、パラリとひらいてみる。
はい。最後に、そこから引用。

「ヘヤー・インディアンは、一般に小さい子どもが
周囲にいる生活は、ほんとうに楽しいと考えている。
とくに生後1年から3年までの子どもはおもしろいという。

毎日毎日、すること言うことに変化が見えるから、それを喜ぶのだ。
テント仲間のみならず、キャンプ仲間全員が、老若男女を問わず、
子どもの行動をじつによく観察している。

『この子は、こんなときには泣き出すが、しばらく知らんぷりを
していて泣き止んだときに気をそらしてやると、機嫌がなおる』とか、

『この子は泣き止みそうになったときにうっかり声をかけると、
また注意を惹こうとして泣き出すから、子どもの方から
何か言ってくるまで放っておくとよい』とか、

『あの子の手の指は、中指と人さし指の長さが
ほとんど同じだ。弓矢を引くには良かったろう』とか、

『この子があんな顔をしているときは、下痢かもしれない』
といったふうだ。
子どもをからかってその反応を楽しむことも、
キャンプのショウになっている。大人にからかわれた子どもは、
必死に知恵をしぼって大人の裏をかこうとする。
『知恵くらべ』の人生は、生後1年にしてはじまるようだ。

ヘヤー・インディアンの大人たちは、
『子どもとは』という一般論はふりまわさない。
『あの子は・・・』、『この子は・・・』と一人ひとりの子どもたちを
独自の人格と特徴をもった個人として眺め、楽しむのである。
・・・」(p247~248)






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『知』の間口の広さ。

2020-05-20 | 産経新聞
新聞の死亡記事に思います。
以前は新聞夕刊の文化欄で死亡者が文化に貢献された方だと、
その追悼文が、載っておりました。
最近は夕刊を取らなくなり。それ以来だと思うのですが、
新聞で追悼文を読まなくなりました。残念でした。

うん。こんなことが思い浮かんだのは、
産経新聞5月19日の産経抄のコラムを読んで、
その追悼文が印象に残ったからです。
コラムは、中国文学者、井波律子さんの訃報を
伝える追悼文となっておりました。

さあ、こう書いて、つぎに産経抄を引用してみます。

「 ・・・・・
中国の長い歴史は、英雄から大悪人まで多彩な人物を
生み出してきた。井波さんは、彼らが残したエピソードを
わかりやすく紹介してくれる・・・

たとえば、現在の四川省の住民の皆殺しを図った、
明末の反乱軍のリーダー、張献忠(ちょうけんちゅう)である。
『あいつを〈収拾(ショーシ)〉してくれ』という言い方で部下に
殺害を命じた。
この人物から連想したのが、オウム真理教の元教祖、
麻原彰晃元死刑囚である。地下鉄サリン事件の報告を
受けると、『ポアしてよかったね』と喜んだ。

京都大学文学部ではじめフランス語を学び、やがて
中国文学に転じた。第一人者だった吉川幸次郎さんの
門をたたき、厳しい修養を積み重ねた。
『三国志演義』の個人全訳という、6年がかりの大仕事もある。
キーボードをたたき続けているうちに、指先の皮膚が角質化
して全部はがれてしまったという。」

はい、コラムで追悼文を読める贅沢。
あとは、最後まで引用していきます。

「小学生のころ暮らした京都の西陣では、
毎日映画館に通い、近くの貸本屋の小説や漫画を読みあさった。
昨年出版した『書物の愉しみ』(岩波書店)では、
中国の古典はもちろんミステリーからロックンローラーの伝記まで
扱っている。著作が多くの人に愛された理由は、『知』の間口の広さだろう。

メディア史家の佐藤卓己さんが日本経済新聞への寄稿で、
井波さんを『心の師』と呼んでいた。二人が所属していた
国際日本文化研究センターから佐藤さんの京都大学への
異動が決まったとき、意外な言葉を受け取った。『がっかりしたわ』。
大学の看板などなくても自分の名前で書ける人だと思っていた
というのだ。井波さんこそ、その通りの人だった。」


佐藤卓己さんの日経新聞への寄稿文も読んでみたいけれど、
一面コラムで魅力の追悼文が読めた。ということで十分満腹。
ちなみに、井波律子著『書物の愉しみ』は
アマゾンで現在品切れ中となっておりました(笑)。
うん。
井波律子さんの本をせめて一冊でも読もう。
と思いました。はい。読みましたなら、感想を
当ブログで紹介したいと思います。
うん。手応えのある産経抄を読めてよかった(笑)。



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三人三様の銀閣寺。

2020-05-19 | 京都
銀閣寺を語る三冊三様。

アレックス・カー著「もうひとつの京都」(世界文化社・2016年)
竹山道雄著「京都の一級品 東山遍歴」(新潮社・1965年)
司馬遼太郎他「日本人と日本文化」(中公新書・1972年)

はい。はじまりはアレックス・カーの本から、
アレックスさんは1976年をきっかけに亀岡市に住み始めます。

「京都は世界的な観光地ですから友人がよくやってきます。
京都に住む人は来客を連れて、しょっちゅうお寺めぐりをする
ことになります。・・・
   ・・・・・・
大徳寺や銀閣寺は百回以上訪れて、ようやく
分かってきたような気がします。大徳寺の場合は、
写真を現像する暗室の中で現像液に浸された白い紙に
画像がジワーッと浮び上がってくるような感じでした。
銀閣寺の場合は、ある日突然
『ああ、そうだったのか!』と一瞬にして閃きました。」(p7~8)


2冊目は、竹山道雄です。

「青い空から粉雪が散って、つめたい日ざしの中に舞っていた。
比叡山には白いレースがかかっていて、大気の中に氷の塊が
流れているようだった。風が骨にまで沁みて、しびれるように寒かった。

こういう日の銀閣寺はじつに美しい。
はじめてここに緊密にまとまった構成があることを感じた。
平素は見物人が多くて雑踏しているので、
それで全体の統一が感じられなかったのだろう。
部分部分のみを見ると、ここはあまりに人工的に完成しているので、
かえって全体がばらばらに思えた。人影がなくひっそりしているときこそ、
あらゆる手法のアンサンブルとしてのひきしまった印象を刻印する。

もしあそこに雑多な石や木が入りこんで、それが動いて喋っていたら、
全体の構図は崩れてしまう。人間も同じわけで、
見物人が多いときには銀閣寺の真の姿は消える。

銀閣寺にむかってゆるい坂を登ってゆくときに、
いつも感じるのは正面の月待山のうつくしさである。
 ・・・・・・・
はじめて銀閣寺の門を入ってその道を歩いたときの
感銘は忘れがたい。垣は下が石で、その上が竹で、
その上に刈り込んだ灌木が、整然としている。
白砂に幾何学的な掃目がつけてある。これで
こちらの意識がある調子にととのえられる。」
(p241~242)

はい。まだまだ続くのですが、引用はここまで。
3冊目は、司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談集です。

司馬】・・・・実を言うと、私はきょうはじめて銀閣を見たわけです。
もっともかなり前に一度きて門前にいるお坊さんが商売商売して
いて不愉快だったものですから大げんかをいたしまして、それきりでした。

それで今夜はじめて見たら、たまたま状況がよくて、
三日月がかかっていまして、キーンさんが晴れ男なのかなにか
知らんけれども、さっきまでかかっていた雲がスッと晴れました。
そして月光といえば淡い月光のもとで見る銀閣というのは、
美といえば完璧な美みたいな感じがしました。・・・・・」(p48)

月夜の銀閣寺なんて、見ようとしても見れないだろうなあ。
けれども、そこでの一期一会の語らいなら簡単に読める。
しかも、後年になってドナルド・キーンさんは
『足利義政 日本美の発見』(中央公論新社・2003年)を
出すことになります。

ということで、三人三様の銀閣寺を、とりあげてみました。
はい。わたしは銀閣寺へ、一度も行ったことがありません。

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ウロウロ歩き始め。

2020-05-18 | 詩歌
黒澤明監督の遺作となった『まあだだよ』。
はい。この映画について語りたかった。

たしか、当時DVDで見たような気がします。
手元に、この映画の絵コンテとシナリオなどを
まとめた一冊『まあだだよ黒澤明』(徳間書店1993年)。
新刊4800円。はい。この値段で買った覚えがあります。
そのまま、本棚で眠っておりました。
いまの古本相場だと、1000円ほど(笑)。

それはそうと、やっと読み頃をむかえたような気がします。
うん。これを映画という視点で見るからいけなかった。映画だと、
アクションもないし、あれこれと減点材料には、こと欠かず。

それならば、いっそこれを『絵本』だと思えばいいんだ(笑)。
これならば、内容が飲みこめるような、そんな気がします。
そう。子供の絵本じゃなくて、大人の絵本。あえて言えば、
「65歳過ぎた方々の『えほん』」という視点。
うん。これは映画じゃなくって絵本なのだ。

その絵本のはじまりは、黒澤明氏が書いておりました。

「いつもそうなんだが、撮りたいものはたくさんあって、
結局撮れなかったものもたくさんあり、
これから撮るであろうものもたくさんある。
 ・・・・・・・・
ぼくの場合は映画を注文されて撮っているわけではないので、
企画から監督から編集から、何から何まで自分でやっている
 ・・・・・・
その時に芽を出したものが材料になってくる。
芽を出して成長し始めると、僕の頭の中で具体的に動き出して、
ウチの連中がよく言うことだが、
僕がウロウロウロウロ歩き始めるらしい。・・・・」
(徳間書店「まあだだよ」p9)

はい。1993年といえば、黒澤明83歳。

この映画。じゃなかった『絵本』では、
要所要所で、歌が唄われていて印象深い。

いま思い浮かぶ場面は、
敗戦の昭和20年。庭番の爺さんの小屋を
借りて二人して住んでいるのでした。
その方丈より小さな家の秋・冬。
そして昭和21年の春の季節が描かれています。

シナリオには、こうありました。


先生、『方丈記』を声を出して、お経の様に読んでいる。
 ・・・・・・・
秋ーー冬ーー春。
方丈よりなお狭い家で、ひっそりと暮している先生と奥さん。
秋は、二人、トタン屋根をころがる落葉の音を聞いている・・・
冬は、二人、七輪に身を寄せて窓の雪を見ている・・・・
春は、二人、硝子戸を開けて、春の陽射しを浴びているかもしれない。
そして、青葉の五月が来る。

ここに若き友人たち4人がくる。
主人公の先生の教え子らしい。
そこのセリフ

先生】 昔、子供の頃の話だが
家の裏の空地に竹とムシロで小さな小屋を作って、
その中に坐ってよろこんでいた事がある。
それを、見つけ出された時
お祖母ちゃんがポロポロ涙をこぼして
この子は、まあ、何という事をする、大きくなったら、
乞食になるんじゃろう、おうおう、と手放しで泣き出した
全く・・お祖母ちゃんの言った通りになって了った。

高山】 (大きな声を出す)先生!
何を言うんです・・・鴨長明を気取ってた癖に
方丈記の精神を忘れたんですか
先生らしくもない・・・
(p78)

そんなことを方丈より狭い部屋で
いっしょに話していると、月が出るシーンとなる。

「奥さん、蝋燭を吹き消して、
『お月様が出ましたよ』
暗くなった部屋に、月の光が射し込む、
高山と甘木、見る。
硝子戸を開け放った向うに、
土塀に仕切られた一面の焼け跡、
その上に月が出ている。
先生、大きな声で唄い出す。

   出た出た月が
   丸い丸いまん丸い

先生】 昔の唄はいいね・・・
アンリィ・ルッソウの絵みたいに無邪気で
率直で・・・私は、昔の唄が大好きだ!

甘木・・表へ出る。高山も続く。
先生も立って来て月を眺める。
三人大声で一緒に唄う。

  出た出た月が
  丸い丸いまん丸い
  盆のような月が   」(p84)


いろいろと唄う『絵本』です。
そういえば、私は大黒様の唄が印象に残っていました。

唄といえば、黒澤明著「蝦蟇の油」(岩波書店・1984年)に
こんな箇所がありました。

「大正初期、私の小学校時代には、まだ明治の香りがただよっていた。
小学校の唱歌も、明るく爽やかなものばかりだった。
『日本海海戦』や『水師営』の唄は、今でも私は好きである。

節もカラリとしているし、歌詞も平明で、驚くほど率直に、
しかも的確忠実にその出来事を叙述し、
よけいな感情を押しつけていない。

後日、私は助監督達にもこれこそ
コンチュニティ(撮影台本)の模範だ、
この歌詞の叙述からよく学べ、と云ったが、
今でもそう思っている。

今、ざっと思い出しても、この二つの他に
当時の唱歌には、次のようないいものがあった。

『赤十字』『海』『若葉』『故郷』『隅田川』
『箱根山』『鯉のぼり』等々。

アメリカの著名な楽団『ワン・ハンドレッド・ワン・ストリングス』も、
この中から『海』『隅田川』『鯉のぼり』を取り上げて演奏しているが、
その演奏を聞いても、その唄の、のびやかな美しさに傾倒し、
それを選んだことがよくわかる。」
(単行本p66~67)

はい。ウロウロウロウロ歩き始めながら、
80歳を過ぎた黒澤明さんは、こうして
昔の唄を口ずさんでいたのじゃなかろうか。
はい。絵本の主人公といっしょに黒澤さんも
唄っていたのじゃなかろうか。そう思うと楽しい。

この徳間書店の本で、黒澤明ご自身が
こう指摘しておられます。

「この映画の背景は戦中戦後も含めて、
貧乏な時代ではあったかもしれないが、
人間関係の中で救われてきた時代だった。」(p29)

はい。『人間関係の中で救われてきた時代』
というのは、いったいどういう時代だったのか。
気になった時に、ひらく絵本がここにありました。







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理不尽の輝き。

2020-05-17 | 産経新聞
産経新聞5月17日。はい今日の2面に、
曽野綾子さんの連載「小さな親切大きなお世話」。

はい。なんていいましょうか(笑)
こういうのは、普通の記事の延長で読んではいけないので、
曽野お婆さんの世間話。おばあちゃんの知恵袋
を読ませてもらっているという発想が大切ですね。
長谷川町子さんのマンガ「意地悪ばあさん」みたいにして
私は読んでおります。そうすると、ちょうどよく、
しっくりと智恵が身につくような気がします。
発想のスパンが違っていて、こういうことを
身近では誰も語ってくれない。

ということで、最後の行を引用することに

「私の子供時代の暮らしを思い出してみると、
そうした人の暮らしの経緯を知るのは、
親たちの話を聞いている時だった。
当時は客間もリビングダイニングもない。
私の家では、家族も親しい客も、冬ならば
皆居間の炬燵に集まっていた。そこでは
私は宿題をする振りをしながら、
知人の小母さんの知り合いの男がお妾さんの『始末』を
する話などを実に熱心に聞いていた。
だからそこは、子供を大人にする最高の教室だった。

今、大人たちは、あまり話をしない。
従って子供がそれとなく大人の世界を
立ち聞きする場所も機会もなくなった。・・・・
私には子供が薄っぺらな大人になる理由だと思える。」

はい。あとは最後まで引用してしまいます。


「『理不尽』という言葉がある。
『道理に適わないことを、強引に行う』ことだという。

人生では理を尽くした方がいい場合が多いが、
時には理不尽に立ち向かう勇気も要る。理不尽でないと、
その不都合な『時』を突破できないこともあるのだが、

理不尽の輝きを口にする人など、
昨今ではめったにいなくなった。」

はい。曽野綾子さんは1931年9月生まれ。
「理不尽の輝きを口にする」年齢なのでした。
その曽野さんの、意地悪ばあさん談義。

果たして「薄っぺらな大人」の私には、
死ぬまでその輝きを口にできるのかどうか、
そんなことを考えさせてくれる文章なのでした。

はい。読売新聞の読売歌壇もいいのですが、
産経新聞の、こういう文章を読めるのもいい。

え~と。黒沢明の映画『まあだだよ』を
とりあげようとしたんです。その前置きが長くなりました。
このつづきは、次回のブログで。

ちなみに、黒澤明は1910年(明治43年)生まれ。
遺作映画『まあだだよ』は1993年。
亡くなったのは1998年。88歳でした。
思えば、曽野綾子さんは、黒澤明の年齢を超えていらっしゃる。


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