和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

その論争ぶり。

2014-04-30 | 本棚並べ
山村修著「遅読のすすめ」(新潮社)を
読み直していると、
なにげない箇所で、
つまずきました(笑)。

「話はそれるが、かつてこの
益田勝実と梅原猛とが論争したことがあり、
それは小谷野敦著『バカのための読書術』に
紹介されているのだが、その論争ぶりがおもしろい。
小谷野の文章に教えられて、二人の応酬がのった
『文学』1975年4月号、十月号、十二月号の
コピーを、私もただちに手に入れた。」(p123)

こうして論争の経過をたどっておりました。
いままでは、ここまでだったのですが、
今は、ネット古書店で、この古雑誌を検索できてしまう。
すると、あるんだなあ、これが(笑)。

こうなると、なりゆきで、
金額を度外視して買いたくなるのでした。

すかぶら堂書店(福岡県宗像市赤間)
文学第43巻第4号  840円。
文学第43巻第10号  735円。
文学第43巻第12号  735円。
  送料      350円。
  合計     2660円。


家にいながらにして、
古雑誌が手に入ります。
はい、注文しました。
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なおかたし。

2014-04-29 | 詩歌
「ふるほん 上海ラヂオ」さんへ注文した
大谷暢順著「蓮如【御文】読本」(講談社学術文庫)
が昨日届く。
200円+送料80円=280円

これは読みやすく、ありがたい。
まえがきに、こうあります。
はじまりは
「蓮如上人滅後、すでに五百年以上の年月が流れました。
けれども、五帖御文は、今日、なお、
東西本願寺門末において、朝夕拝誦され続けています。」

「やはりこの書は、我が国古典の一つとして、
室町末期・戦国の世の国文学の中に、
正しく位置づけて読まれるべきでしょう。」

「一見、至って凡庸に感ぜられる話言葉で
綴られていることから、内に秘められた教えの
深さを見過ごされがちで、従来あまり評価され
ていないのは残念であります。」

やはり「上海ラヂオ」さんから購入してあった
真継伸彦現代語訳「親鸞全集4」(法蔵館)。
第四巻は和讃・書簡でした。
こちらは800円。
これも本棚から取り出して、二つならべて
パラリパラリ(笑)。

その浄土和讃(p35)に

善知識(ぜんじしき)にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
この真継伸彦訳は
「真実の教えを説く善き指導者に出会うことも、
師がよく他を教え導くこともともにむつかしい。
真実の教えをよく聞くこともむつかしければ、
信じることはなおむつかしい。」


かたし。
かたければ。
なおかたし。
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WiLLは酸素ボンベか。

2014-04-28 | 短文紹介
テレビで、紅茶の入れ方を教わりました。
沸騰はイケナイ。
沸騰の前に、ヤカンの底から空気の泡が
ブクブクとつながって浮かび上がる頃合。
その頃合をみはからって。
それで入れる紅茶は、お茶の葉が踊るのだそうです。
沸騰させては、ただただ苦い紅茶となる。
なるほど、苦い紅茶を私は飲んでおりました(笑)。

そういえば、と思うんです。
新聞でも沸騰している記事はいけませんね(笑)。
雑誌「WiLL」6月号が届きました。
なんだか、ホッと息がつけた気分。
日下公人氏の巻頭随筆の最後は、

「・・・その他の、
新語が次々に誕生するから世界は
一体どうなるのかと心配になるが、
多分、実体が行き詰まると言葉の
世界が賑やかになるという、昔から
よくある転換が始まっているのである。
こういうときは、・・・・すべてを一身に
引き受ける人が頼もしく見えてくる。
分かりますか、皆さん。
今年は国際社会が日本を頼ってくる年です。」


曽野綾子の連載エッセイでは

「アラブ諸国で、私がやや意図的に、
状況を知ろうとして立ち寄ったのは、
主に骨董屋と本屋であった。・・・・
ことに骨董屋ほど、土地の人々が将来の
状況に関してどういう予測をしているか
を示す職業はなかった。骨董というものは、
戦乱が起こると、一番大きく被害を被る
商売である。商品はすぐに壊されて価値を失い、
しかもたやすく持って逃げることもできない
ものばかりだ。・・・・」(p125)

堤尭と久保紘之の「蒟蒻問答」には

堤】 たしかにそれは言える。
理研を「特定国立研究開発法人」にする法案を
通そうとしている時だったから、STAP細胞を
打ち上げ花火にしようとしてバタバタと焦って
発表したという事情もあるわけだ。
アベノミクスの第三の矢、成長産業促進の一環
として、先端科学に新たに一千億円が投入される。
その予算の分捕り合戦もある。ライバルは
山中伸弥の率いる京大だ。山中のiPS細胞より
優れた万能細胞発見となれば、理研としては
万々歳だ。だから極秘プロジェクトとして、
闇雲に彼女のユニット・チームの尻を叩いて
発表を急がせたんだろうね。
・ ・・(p106)

対談はこれ以降がおもしろいのですが・・・。

活字から私の体内に空気を入れてもらったような。
Willは酸素ボンベか(笑)。
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「空白」の風景。

2014-04-27 | 本棚並べ
書評の〆が、気になりました(笑)。

産経新聞2016年4月26日
「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」。
その最後はこうでした。

【編集長が浜田敬子さんに代わったばかりの
『AERA』(‘14・4・28)。トップが
「日中韓の歴史教養を知る」だったので読んでみたが、
「中国の歴史関係の本を読め」とか
「中国各地の戦争記念館に行ってみろ」とか、
「韓国併合から45年までの歴史は
 韓国人のほうが詳しい」とか
 相も変わらぬ『朝日自虐史観』だ。】

毎日新聞4月27日の「今週の本棚」では
江國香織評で
石井桃子著「新しいおとな」(河出書房新社)。
その書評の最後はこうでした。

【( ついでに言うと、
「本をつくる」「秘密な世界」「本をつくる人」
はぜひ編集者に読んでほしいし、
「著者と編集者」を読むと、
書き手である私は反省せざるを得ない)。
あー、もし私に権力があったら、
この本をすべての大人の課題図書に
するのになあ】

その書評の脇には
荒川洋治評で
杉田明子・佐藤剛史著(岩波ジュニア新書)
「中高生のための「かたづけ」の本」。
その書評の最後を引用。

【心がかげったり、
落ち込んだりしたとき
「かたづけ」で晴れやかになり、
未来が見えてくる点にもふれる。
「収める」つまり収納では、
「間(ま)を取る」という指摘も。
先日ぼくは書棚の一段を思い切って
『空白』にしたら風景が変わり
周囲がとても心地よいものになった。
もしかしたらあれかなと思った。
「かたづけ」には、いいこと、
楽しいことがいっぱいあるのだ。】
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もっと高く。

2014-04-26 | 詩歌
林望著「ホーソンの樹の下で」(文藝春秋)は、
雑誌「諸君!」に1995年8月号~1997年7月号と
連載されたもの。
ちょっと本文は読む気にならない(笑)。
それでも、気になったのは「書後に」という文でした。
はじまりは

「いつのまにか、日本の『文学』は、
小説ということと同義になってしまったのは、
甚だ遺憾なことだと言わねばならない。
それは、ひとえに近代、いや戦後現代の悪風潮であって、
文学の歴史を古く辿っていくと日本の文学が
決してそのような狭量なものではなかった
ことが検証せられるであろう。
たとえば、『土佐日記』というものは、
虚構的ではあるが、日記文学というジャンルの
輝かしい金字塔であった。・・・・
たとえばまた、『枕草子』は、清原家の才女に
よって書かれた日記のような随筆のような
ものであるが、これまた、小説とは毫も
関係のない作品であるにもかかわらず、
日本文学史上突兀たる高峰とした聳え
立っていることは、世界の常識にほかならない。
そういう流れのなかに長明の『方丈記』が書かれ、
やがて、随筆文学の第一流たる吉田の法師の
『徒然草』が現れた。そういうものを
随筆文学と称して、歴とした『文学』の
一分野と認めてきたのが、わが国の文学の
寛闊なる歴史の現実であった。
しかるに、戦後は、文学と言えば直ちに
『小説』を指すもののごとく、
異常なる小説偏重が現れ、
今に是正されない。そのどこに起因するか、
私はいまだよくも弁えないけれど、ともかく、
その事実は、日本の文学の常識からは遠く外れた、
異常な状態なのだということは、よくよく
認めておかなくてはなるまい。・・・」(p247~248)

この旗印はいいなあ、
私など、肩肘張って「小説」を読まないと
受け答えしていたのが、氷解するようで、
なにやら、ホッと溜息をつきたくなります。
この旗印は、もっと、もっと
高く打ち上げていいのだ。

ということで、
「ことだま百選」(講談社)の25番目に
黒田三郎の詩「紙風船」があったので
それを引用。

  落ちてきたら
  今度は
  もっと高く
  もっともっと高く
  何度でも
  打ち上げよう
  美しい
  願いごとのように
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ゆっくり読む人。

2014-04-25 | 本棚並べ
今年は、本を読む気がしないので、
それじゃあと、ひらきなおって、
「ゆっくり読む」ことをテーマに(笑)。
ということで、本棚からとりだしたのが
山村修著「遅読のすすめ」(新潮社・のちに文庫)。
ここに益田勝実の名前が登場。

古本を買うにも筋道が、
それなりにあるようで、
益田勝実の古本を買おうとした、
それにもキッカケはありました。
そこをもう一度、確認しておきたく。
まず気になったのは、この箇所でした。

「私は、夜は畳の上に正座して
足をしびれさせながら、朝夕は通勤電車の
ざわめきに身をまかせながら、本を読む。
そうして皮膚感覚はいささか緊張させながら、
息をととのえつつ、ゆっくり読む。
速く読んでいては気がつかない一節も、
ゆっくり読むことで目をとめることができる。
はっとおどろくこともできる。
たとえば岩波文庫の柳田國男『木綿以前の事』は、
国文学者・益田勝実が『解説』を書いているが、
これは解説文のなかの傑作である。
読んでいると、益田勝実という人の
読みかたが想像されておもしろい。
明らかにゆくり読む人であると思う。」
(第5章「読書の周辺」単行本p120)

う~ん。
ここではじめて、益田勝実という名が
私の中にひっかかりをもちました(笑)。
「明らかにゆっくり読む人であると思う」
という人の文を読みたいと思ったのは、
山村修氏のこの文によってです。
そういえば、私の手もちの本でいえば、
岩波文庫「北越雪譜」の解説のあとに、
「『北越雪譜』のこと」として益田勝実の
文が載っております。
佐々木喜善著「聴耳草紙」(ちくま文庫)の
解説「聴耳の持ち主」も益田勝実でした。
あとは
なにより、柳田国男本の解説があります。

うん。本年度の読書のスタートラインは、
私は益田勝実。ということで、
もう一度、スタートラインの確認をして、
気がつけば、もう4月25日(笑)。
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はじまりの十選。

2014-04-24 | 本棚並べ
東京都杉並区立天沼中学校編
「ことだま百選」を
今日開くと、最初の十選が
気持ちよかった。

いろは歌
十二支
十干
月の異名
太陽系の惑星
江戸の洒落言葉
円周率の語呂合わせ
回文
春の七草
秋の七草

十二支や十干があると、
橋本武の「銀の匙」講義が
思い浮かびます(笑)。
うん、
この導入の十選を
読めただけで私は満足。

杉並区だけじゃなくて、
たとえば、
江戸東京の扉をひらくのに
十二支十干などは
中学生以上ならどなたにとっても
絶好の呪文となるのだろうなあ。

たのしくなる「ことだま百選」。
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その緊張した文章は。

2014-04-23 | 本棚並べ
昨日注文の本が届く。

東京杉並区立天沼中学校編「ことだま百選」(講談社)
うん。手に入れてよかった。
これで、あれこれと楽しめます(笑)。

ちくま学芸文庫の
「益田勝実の仕事」全5巻。
さいわい、全5巻まとめてなら、
新刊として購入可能だったので、
ブックサービスで注文してあったもの。
カバーの著者紹介文を、
ちらりと引用。

「1923年、山口県に生まれる。・・・
国文学のみならず歴史学・民俗学などの
方法を駆使し、日本人の精神的古層を
明らかにした。また、高等学校用
国語科教科書の編集にも携わり、
国語教育への多くの提言を行った。
実証と想像力のせめぎあう
その緊張した文章は、
多くの読者を魅了している。」
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愉快痛快。

2014-04-22 | 本棚並べ
古本はついつい、
思いついた時に、簡単に注文するので、
あとになって、どうしてこんな本があるのかと
注文するまでの経緯を、忘れてしまうことしばしば。
ということで、
このブログに、その経緯を書いておくことに(笑)。

福沢諭吉著「女大学評論・新女大学」(講談社学術文庫)。

伊藤書房清田店(北海道札幌市清田区清田)
400円+送料180円=580円


齋藤孝「齋藤スタイル自分を活かす極意」(マガジンハウス)
ここに林望氏との対談があり、その最後の方に

林】  ・・・それから、
明治のものでは、福沢諭吉の「女大学評論」。
これは私の監修で講談社学術文庫で出ていますが、
これを読むと、血沸き肉踊っちゃいますよ。
アジテーションというのはこういうものだと、
弁舌というのはこれだなと、
拳を振り上げたくなっちゃいます。
すごい名文ですよ。(p238)


うん。さっそく古本を注文したのでした。
それが昨日届く(笑)。
解説をいれても146ページ。
そのうち最後の「百年、進歩はありや?」
という林望氏の文がp130~146まで。

とりあえず、「百年、進歩はありや?」
のはじまりの箇所を引用。

「福沢諭吉の著作多きがなかに、
もっとも益あるものを選ぶとなれば、
言うまでもなく『学問のすすめ』を挙げるべきが
妥当かもしれぬ。また、楽しみとして
もっとも味わうべきものを選ぶとなれば、
それはたぶん『福翁自伝』に指を屈すべきであろう。
では、もっとも愉快痛快なるものを選ぶとなれば、何か。
世の中にはあまり知られていないかもしれないが、
私は、躊躇なく、この『女大学評論』を挙げる。
予て、講演の折りなどに、私はしばしば、
この作品に言を及ぼし、それも、適宜
その文章を朗読して、福沢の快刀乱麻を断つが
如き鋭さを味わうに至っては、
会場ことごとく水を打ったように静まり、
そうして・・・・」


ということで、経緯のみ。
ちなみに、新刊で注文(4月20日ブログ記入)した
「ことだま百選」は、いまだ届かず。
待つ時間が、さらに充実していきます(笑)。
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私は酒が。

2014-04-21 | 本棚並べ
昨日、林望が登場してきたので、
家にある林望の本をとりだしてくる。
そのなかに渡部昇一・林望対談「知的生活 楽しみのヒント」(PHP)。
パラパラひろげると、
渡部昇一氏の「私は酒が好きです」(p91~)という
箇所が目にとまる(笑)。

そういえば、
吉田暁子著「父吉田健一」(河出書房新社)に
酒に関する箇所があったなあ。
と、まずは、ひらくことに

「父(吉田健一)は、一週間のうちの
六日は『酒は一切飲まない』など、
厳格な生活規律を確立し、
まことに勤勉な人生を送った。
父は家ではお客をする時以外
一切酒を飲まず、外に飲みに行ったが、
帰宅してからもう少し飲み続けることがあって、
私が大学を卒業すると、この帰宅後の
酒の相手を私がするようになった。
父は自分の好きないくつかの詩について
話すことが多かったが、時には
人生についての所感を語ることもあった。」(p98~99)

ひきつづいて、渡部昇一・林望対談から
引用してみます。

渡部】 私は酒が好きです。うちは曽祖父の代から、
三代飲んで身上をつぶした家だから、
酒飲みの遺伝子があるのでしょう(笑)。
しかし、私は普通の日は、夜は仕事をしますから、
酒を飲みません。
酒を飲むといい気分になるからダメなのです。
酒を飲むのは仕事が連続して
昼寝する暇もなかった日の夜です。
そんな日は疲れていてどうせ仕事になりませんから、
そのときは飲んで、あとは寝てしまいます。
それから、非常に楽しい場に身を置いていたら、
これは人生の大事な一コマとして飲みます。
私が外で酒を飲むのは、そういう機会だけです。
私は酔うとどんどん無口になって、
人の話を聞くのが楽しくなります。
誰にも反対せず、誰にも相槌を打つような
「いい男」になるわけです(笑)。

林】 ・・・
私はまったく酒を飲みませんので・・・

渡部】 ある文学賞の審査員だった新聞記者が
言うには、新聞記者で本を書く者と書かない者の差は
非常にはっきりしているそうです。
晩酌をしている者は書かない。それはそうです。
酒を飲めば気分よく寝てしまう。そして、
朝になれば日常の仕事が始まるわけで、
酒を飲んでいたらものを書く時間がない。
ものを書くという作業は日常から
ズレたところにありますから、意識して
そのための時間をつくり出さないと、
どうしたって書けないのです。」(p91~93)
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漱石の精髄はここに。

2014-04-20 | 本棚並べ
新刊(2014年4月8日)で
講談社から「ことだま百選」が出ておりました。
さっそく注文したのですが、あと届くまで2~3日かな。
興味をひいたのは、
杉並区立天沼中学校編となっていること。
なんでも現役の国語教諭らが選んだ百選のようです。
荻窪駅(JR、東京メトロ)から徒歩約15分の
中学校なのだそうです。

うん。こういう本って、届くまでの、
待つ時間のほうが楽しめたりします(笑)。
ということで、待つ間に、
齋藤孝の本を本棚からとりだしてくる。
そう、「声に出して読みたい日本語」が
思い浮かんだのでした。
今回は、
「齋藤スタイル自分を活かす極意」(マガジンハウス)
をパラパラとひらく。最後の方に
林望氏との対談が載っているので、
興味深く読む。題して
「朗読すると古典は断然おもしろい!」。
そこから、すこし引用。

林】 ・・僕は、古文の文法なんか
やらなくていいという論者で、読めばいいと。
文法なんていうものは、読んでいく中で、
大体わかってくるんです。私もいわば
古典学者なんだけれども、
「文法」を勉強したことは全然ないんですよ。
ただ、多くの古典作品をずっと読んでいくうちに
・ ・・・。(p226)

林】 僕は「源氏物語」などは
自分の書斎で朗々と読むんですよ。
そうすると、場面がスッと思い浮かんできて、
意味も頭の中に落ち着いてくる。
黙読は頭に入るけど、音読は頭に入らない
というのが現代文学の一種の常識の
ようになっているんだけど、古典は逆ですね。
音読したときに頭に入ってくる。つまり、
それは書いている人が音声として
書いているからだと思うんです。(p228)

さてっと、「文章の極意は凝縮にあり」
という箇所が印象に残りました。
それを引用していきます。

林】 はい。以前対談した山本夏彦さんは、
文章を切って切って凝縮して、ほとんど意味が
わからなくなるまで切っちゃうと言うんですよ。
それが山本夏彦という作家の要諦なんですね。
本当に山本さんの文章ってわからなくなる
一歩手前ですよ(笑)。・・(p231)

林】 そうそう。だから、僕は若い人たちに
作文指導をするときは、たとえば四枚なら
四枚という枠を与えたときに、
「四枚で書こうと思うな」と言います。
「最初は長く書いて、それを四枚に切り詰めろ」
と言う。そんなことできないって
思っちゃうんだけど、そうじゃないんですよね。
それはできるんです。
それを切って切っていくと、山本夏彦さん
だったら一枚半ぐらいになっちゃう(笑)。
本当は一枚でかけることを
三枚に伸ばした文章と、
六枚なきゃ書けないことを
三枚に凝縮した文章とは
おのずから力が違いますからね。(p233)

ついでに、対談の最後の方からも引用。

林】 僕も「徒然草」はぜひお読みなさい
と言いたいですね。それから、なんといっても
「平家物語」ですね。「平家」を
繰り返し繰り返し読むと、
言葉のリズムというものが本当に
スーッと落ち着いてきます。
文章を書くにしても、「平家」を読むだけで
三倍は上手に書けるんじゃないかな。
だから意味を考えなくてもいいから、
とにかく一度通しで朗読することをお勧めします。

林】 ・・・・
それから、漱石を読むんだったら、
僕は「坊つちやん」か「吾輩は猫である」
がいいと思います。
「草枕」とか、「それから」じゃなくて。
研究者は、「坊つちやん」や「吾輩は猫である」
をばかにするけど、そうじゃない。
漱石の精髄はここにあると思います。(p238)


このようにパラパラと、めくりながら、
「ことだま百選」が届くのを待つことに。

うん。本が届くまでの待ち時間。
待つ間を、満喫する楽しみ(笑)。


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ちょうど読み頃。

2014-04-19 | 本棚並べ
外山滋比古著「乱読のセレンディピティ」(扶桑社)に
「もっともおもしろい読書法」(p18~19)があり、
印象深いので引用。
短いのでほとんど引用しましょう。

「ひとの意見によることもなく
自分の判断で本を選び、自分のカネで買う。
買った以上、読む義務のようなものが生じやすいが、
読んでみて、これはいけない、と思ったら、
読みかけでもさっさと放り出す。
いかにも乱暴のようだが、いやな本を読んでも
得るところは少ない。放り出してから、
どうして読み終えられなかったのか
ということを反省する。
手当たり次第、本を買って、読む。
読めないものは投げ出す。
身ゼニを切って買ったものだ。
どうしようと、自由である。
本に義理立てして読破、読了していれば、
もの知りにはなるだろうが、
知的個性はだんだん小さくなる。
新刊は新しすぎる。古本は古い。
ちょうど読みごろの出版後五、六年
という本は手に入れることもままならない。
図書館はここで役に立つ。・・・・・・
軽い好奇心につられて読む。乱読である。
本の少ない昔は考えにくいことだが、
本があふれるいまの時代、
もっともおもしろい読書法は乱読である。
・ ・・乱読がよろしい。
読み捨てても決して本をバカにしての
ことではない。かりそめの読者がしばしば
大きなものを読みとる。」

うん。本を最後まで読めなかったと、
クヨクヨするのは、もうやめよう(笑)。
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安い本が残る。

2014-04-18 | 地域
山折哲雄著「これを語りて日本人を戦慄せしめよ」(新潮選書)の後半を
とりあえず、読み終える(笑)。
内容を読み込んだかと問われれば、
パラパラと最後まで目を通したのみ(笑)。

さてっと、後半に「海南小記」をとりあげた箇所、
そこが印象に残ります。

「貴族院書記官長を最後に官界に別れを告げ、大正九年八月から東京朝日新聞社客員となった(45歳)。月の手当は三百円で、旅費は社則によって別途支給されることになり、最初の三年間は国の内外を旅行することができるという好条件だった。
はじめの旅は、この年の八月からの東北地方への旅で、『雪国の春』として実る。ついで十月には中部地方に出かけ『秋風帖』が書かれた。三つ目が『海南小記』の旅だった。この三冊は昭和十五年(1940)になって『創元選書』として復刻されたが、このとき中谷宇吉郎が東京朝日新聞に書いた印象深い文章を牧田茂が共感をこめて紹介している。

  百年と言わず、もう三十年もしたら、
  現在出ている沢山の思想や哲学の
  大名著が皆消えて、この汚い紙に
  刷ってある三冊の安い本が残る
  のではないかという気がする。
(角川ソフィア文庫新版『海南小記』2013年、解説) 」(p214~215)

ここから、直接柳田国男を読み始めればベスト。
その前に、益田勝実に寄り道することに(笑)。
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生活第一、信仰第二。

2014-04-17 | 地震
東日本大震災のあとに、
方丈記を読み、
それから一遍へとたどって、
そこまでの、私の読書でした。

さてっと、山折哲雄著
「これを語りて日本人を戦慄せしめよ
柳田国男が言いたかったこと」(新潮選書)
を昨日半分ほど読んだところです。
その第三章「偉大なる人間苦」に
こんな箇所が出てくるのでした。

「柳田がその論述のいたるところで
もちだしているのが、『空也上人』と
『一遍上人』であり、その門流のあいだで
保持されつづけていた
『生活第一、信仰第二』の多彩な事業である。
日本列島ヒジリ史の原型を形づくった
真の主人公こそ、空也と一遍だったと
いってはばからない。
その議論の出発点に、亡霊と鎮魂、
葬送と勧進の事業がつねに位置づけ
られているのである。」(p81)

「柳田国男のいう『半僧半俗』は、
親鸞の生き方を象徴する『非僧非俗』と
真向から対立する概念だったというほかはない。
・ ・・・・・
おそらくかれは、親鸞という存在をつよく
意識していたのだったと思う。
本山本寺の異常な繁栄ぶり、その貴族ぶるまい
のあり方にある種の反撥心を抱いていたからだとも思う。
十三世紀の親鸞の流れをくむ十五世紀の蓮如の存在を通して、
大きな発展をとげた本願寺教団の存在にたいして、
一つの大きな問いを投げかけようと
していたのではないだろうか。」(p82)

うん。
「これを語りて日本人を戦慄せしめよ」は
私は、半分しか読んでいないのでした(笑)。
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ちょっと色めきたった。

2014-04-16 | 本棚並べ
外山滋比古著「乱読のセレンディピティ」(扶桑社)に
イギリスの有力書評誌「タイムズ文芸批評」が、
25年前の誌面を再現して見せてくれたことへ、
言及した箇所があります(p149~)。

「たった25年であるのに、
もとの書評のほとんどが
正当性を欠いていることが明らかにされた。
25年でさえ、同時代批評は
のり越えることができないのである。
近いということは、
ものごとを正しく見定めるには
不都合なのである。
近いものほどよくわかる
ように考えるのは、
一般的な思い込みである。
自分のことがいちばんわかる
と思っているが、実は、
もっともわからない。
近いからよくわかっているように
考えているが、やはり、
本当のことは見えない。・・
さきの『タイムズ文芸批評』は
勇気ある企画によって、
25年たつと、批評が質的に
変化することを見せつけることができる。」

さてっと、
そういえば、と思って
谷沢永一の「新聞書評に頼らないで、10冊」
という文を探すことに、それは
谷沢永一著「読書人の点燈」(潮出版社)に
ありました(p152~155)。
そこで、新聞書評について、
こんな箇所があるのでした。

「採択される書物の資格の第二は、
斬れば血の出るような現実社会のおける
喫緊の問題とは完全に無縁であることです。
それゆえ私がここに挙げた述作のほとんどに
ついて眉を顰めながら遠ざけられる結果となったのです。
これらの書物は多かれ少なかれ現実問題を
めぐっての突っこんだ観察です。
つまり事態の意味するところの枢要を
鋭く解剖しています。
当然のこと大胆な未来予測を含み、
ときには常識に反する積極的な
提案に及ぶわけです。
考えてみれば、なんとも
恐怖(おっかな)い本ではありませんか。
こういう書物を月旦するためには、
まず、政治経済と国際関係をめぐって
の問題意識が欠かせません。
次いでは、著者の論調に対して
評者は自分独自の見識をもって対決し、
示されている立論の当否について
責任のある判断をくださねばなりません。
そんな辛労(しんど)い危険なことに
誰が進んで手をだすものですか。
いずれにせよ労多くして功すくない
難儀な方向は御免でしょう。
したがって、書評欄の多くは、
天下国家の問題に接触しない
趣味的な本ばかり並ぶ結果となります。
思えば人情の然からしむるところでは
ありませんか。・・・
新聞とテレビは常識の世界です。
そして常識は時として嘘をつきます。」

ここで取り上げられた10冊10人については
ここではカット(笑)。
それよりも、
この「新聞書評に頼らないで、10冊」を探して、
谷沢永一著「読書人の点燈」(潮出版社)の前に、
手に取った本は
谷沢永一著「読書人の蹣跚(まんさん)」(潮出版社)でした。
すると、アレレ、こんなのが読めました。
「出しゃばらぬを以て尊しとす 六十歳代を生きる智恵」(p81~91)。
ここに、満六十一歳で関西大学を辞めたことが書かれております。

そこからも引用。

「第一に、私は講義に倦んで厭いた。・・・
現代に講義は不要である。明治大正のころ、
一般学生が原書や学術書にたやすく接しられない時代、
その飢渇をおぎなうのが講義であった。
今は条件がまったく異なる。
図書館や店頭で容易に閲覧入手できる書物と、
同じような似たような談論を、
くりかえす必要はないだろう。・・
第二に、会田雄次先生の述懐がこたえた。
よく戯れの質問に、もし人生をやりなおすと
すれば、お前は何歳にもどしてほしいか、
というのがある。京都たん熊で対談のあと、
願わくはもういちど六十代にかえしてほしいな、
と会田先生が言った。六十代、
あの頃いちばん張りがあったからなあ。
私はちょっと色めきたった。・・
第三に、司馬遼太郎さんがトドメをさした。・・
六十歳をもって思いをあらたにしつつあった
半年後、開高健が死去した。・・・」


うん。色めきのセレンディピティ(笑)。


コメント
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