関東大震災の安房では、
『 鉄道も、陸運も全く杜絶した 』
そして、
『 ひとり海運にのみよったのであるから、
此の間は全く海の時代である。
安房でなければ出来ないことであった。 』
( p276 「安房震災誌」 )
関東大震災の安房を、あらためて、
海という視点から、見てゆきます。
大橋高四郎安房郡長は、関東大震災当日にどうしたかというと、
県庁へと急使を出し、安房の山間部の村へも急使を出しました。
陸上からの急使を派遣した後に、海運へ頼みを託しております。
「 ・・・真先に県へ急使を馳せて、県の応援を要求してはおいたが、
医薬、食料品の必要は寸時も時をうつすことが出来ない。
そこで、館山にある県の水産試験場に、ふさ丸と鏡丸の発航を依頼した。
笹子場長は郡長の依頼に懸命盡力したが、
ふさ丸は機関部に故障があり、鏡丸には軽油の蓄へなく、
その上地震の為め機関長の生死が不明であったので、
二隻ともどちらも即刻の間に合はなかった。
しかし、一方機関の修繕を急がせ、他方軽油を所在に求めて、
2日の夜半漸く出帆準備が出来た。汽船の準備は出来たが、
震災の為めに海底に大変動があり、
且つ燈臺は大小何れも全滅して了った。
此の際航海の危険は、いふを俟たない。・・・
ところが場長の激励と船員の侠気とで、
遂に3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行した。
鏡丸には門郡書記が乗船して、救護品に就ての一切の処理に任じた。
海底の隆起と陥没と、・・危険の中に鏡丸は天祐によって、
無事に千葉に着いた。そして翌4日の午後8時15分には、
又無事に館山に帰航したのであった。
鏡丸には玄米百俵と、若干の食料品と、
そして県の派遣員16名と、看護婦4名とが乗船してゐた。
是れが千葉からの最初の応援であった。
郡当局は斯うして最初の救護品を蒐集した。 」( p257~258 )
時系列的に、もう一度おさらいするのに、
千葉県庁へと急使に立った重田嘉一の手記を見ると、
重田氏が県庁へと辿り着いたのは、2日午後1時半。
その時の、県庁の指示は
『 帰ってふさ丸を千葉に回航せしめよ 』との命だった。そして、
重田氏が『 北條に帰着したのは・・3日午前10時であった。 』
( p251 『大正震災の回顧と其の復興』上巻 )
この県庁の指示を待つことなく、先回りしての理解で、郡長の指揮のもと、
『 3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行 』していたのでした。
さらに次には、郡長が鏡丸に乗船して千葉へゆくことになります。
「 ・・・米は焦眉の必要に応じて、それからそれへと配給して行ったが、
日を経るに従って欠乏甚だしく、7日の夜に至っては、
全く絶望状態に陥った。殊に総説に掲げたる
『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』といった、
各所に掲げた掲示で、人心の安定に導いてゐる刹那のことである。
・・・・是れまで郡長に信頼して飢と戦って来た罹災民は、
いかに失望するであろう。失望の結果、又如何なる事態を惹起するであろう。
・・・・郡長は決意を深く秘めて、翌8日の払暁、
鏡丸に乗じて上縣し、つぶさに郡民の窮乏を訴へ、
而かも米の欠乏甚だしきを以て、直ちに米9000俵の
急送を懇請したのである。
すると県も之を容認して、米5000俵を給興するに決した。
且つ輸送の為めに、館山湾に碇泊中の汽船を徴発すべく、
徴発命令2通を交付された。そこで、郡長は9日に直ちに
帰任して、汽船2隻を徴発し、廻米の事に従はしめた。
そして、その翌10日であった。突如県よりは更らに
米1000俵、増加配給する旨を通達された。・・・・・
震後人心に強い脅威を与へた食料問題も、
是に至って漸くその眼前の急より救はるることを得たのである。」
( p262~263 「安房震災誌」 )