和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

本たちの幸福。

2010-07-31 | 他生の縁
梯久美子著「昭和二十年夏、女たちの戦争」(角川書店)を読んでから、直接には関係ないのでしょうが、ついつい思い浮かぶ箇所がありました。
それについて、語ります。

暑いですね。それでも、興味があるせいか。本棚を見るとイヤな気はしません。
でも、そのままの本棚だと何とも暑苦しい。
読んだ本を本棚に並べていることもあるのですが、ほとんどが読んでない本だったりします。たとえば、全集本を買うと、まずは並べたくなります。しばらくしても、読まない。それも一年、読まないと、読んでないのに本棚ででかい顔をしているのが、何ともうっとうしくなる(笑)。何とも困ったものです。
まあ、そういう本棚との付き合いをしていると、他の方の本棚が気になるわけです。
ちょうど、梯久美子さんの本に、何気なくも、ちょっと触れられている箇所があったのでした。ということで引用。
それは吉沢久子氏を語っているところにありました。

「2009年11月、東京の杉並にある吉沢氏の自宅を訪ねた。・・・・通された部屋には大きなテーブルがあり、壁にはたくさんの本が並んでいる。人の手が触れなくなって久しい本たちは、死んだような顔をしているものだ。古い本がぎっしりつまった本棚の前に立つと、そのあたりの空気がよどんでいるように感じることがある。しかしこの部屋にある本たちは、民俗学や歴史学などのむずかしそうな古い本ばかりであるにもかかわらず、どこか生き生きした表情をしているように思えた。どうしてだろう。生活空間の中にあるからだろうか? ――などと、インタビューをしながら思っていたのだが、取材が終わった後、部屋の隅に小ぶりの黒板が掛かっているのに気がついた。聞けば、戦後に結婚した夫で、評論家だった古谷綱武氏といっしょに始めた歴史の勉強会を、氏が亡くなってからも続けているのだという。
そうだったのかと思った。本たちが生きている感じがするのは、置かれている空間で、にぎやかな知的活動が行なわれているためなのだ。実際に手にとられ、ページをめくられることもあるのだろう。人が集い、議論をする場所に置かれた本たちは幸福だと思った。」(p65)


こういう箇所を読むと、おこがましいのですが、つい自分の本棚のことと関連させてみたりするのです。ということで、この本を読んでから、何日か後に、汗をかきかき本棚の入れ代えをしたというわけです。まことに、何気ない言葉ほど、効果テキメン。
たまたま「そのあたりの空気がよどんでいるように感じる」本棚の本に触れてみたというわけでした。うん。読んだわけじゃなく、あくまでも、触れてみただけなのですが、私も幸福になったような。

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七尺の鳥籠。

2010-07-30 | 他生の縁
岩波文庫の「日暮硯」の最初に、
「真田伊豆守の英知」と文庫で題された、9ページほどの文があるのでした。それが気になっておりました。側近が藩主に飼鳥をおすすめすると、高さ7尺余、長さ9尺、幅6尺の鳥籠を藩主がつくらせて、そこに側近を住まわせようとするようなエピソードがつづられているのでした。
恩田木工を語る際には、たいていこの箇所は省かれるところです。
そこをはしょって、肝心の恩田大工の話からはじめられるのでした。
それじゃ、ここはなぜ必要だったのか。
なんていうことを、漠然と思っておりました。

思っていると、何かと引っかかることがあるものです。
それについて、以下に語ります。

「司馬遼太郎が考えたこと14」(新潮社)は、1987・5~1990・10までのエッセイが掲載されております。そこに「若いころの池波さん」という追悼文が載っておりました。
その話をしたいのですが、ちょっと、そのまえに、同じ本の中に、桑原武夫氏への追悼文「鋭い言語感覚」も掲載されているのでして、まずは、そちらから引用させてもらいます。


「・・桑原さんに『白石と私』という文章がある。・・
『白石と私』によれば、白石との出会いは小学六年の教科書にのっていた『折たく柴の記』の一節だったという。白石の父について書かれている。父が主君のわがままを諌めているとき、額に点々と蚊がとまり、血を吸いあきてグミのようになった。見かねた主君が『追え』と命じて、ようやく顔を動かすと、六つ七つハラハラと下に落ちた。・・・この文章を、桑原少年はいっこうに感心しなかった、という。『子供の私には象徴ということの意味がわかっていなかったからである。いまはすばらしい文章だと思う』と、桑原さんはいう。そこまでくどくこの人は書いていないが、白石がつかった『蚊』の象徴によって、のちになって浪人する白石の父という人の剛直さがわかるのである。・・・」


さて、ここまでにして、次に「若いころの池波さん」を引用してゆきたいと思うのでした。

「・・・私どもは、兵隊にとられた世代である。
戦争がおわり、復員してきてしばらくのあいだ都庁につとめて税金のことをやっていたらしい。あるとき、税金のことで練りテンプラ屋さんにゆくと、揚げた練りテンプラが大きなざるいっぱいにならべてあった。そのざる越しに池波さんが職務上のことをなにかいうと、テンプラ屋がふりかえって、『たれのおかげなんだ、てめえなんぞがめしを食っているのは!』といったとき、池波さんはとっさには自分でもなにをやったのかわからず、気づいたときにはざるいっぱいのテンプラをゆかにぶちまけてしまっていた。あとで役所にデモがくるやら、池波を出せ、というプラカードが立つやらで、都庁に居づらくなり、やめてしまった。この話をきいたころ、池波さんは、恩田大工(おんだたくみ)という江戸期の信州松代藩の名家老のことを書いていたりして、ご自分の性分に似たような人を書いていなかった。おそらくこんな気性は小説にはならないとおもっていたのにちがいない。

私の記憶のなかの池波さんは、さきにのべたように、この人の四十歳前後までのことばかりなのである。和服は用いていなかった。服装はいつも茶色っぽい開襟シャツに地味なセビロで、およそめだたず、あごが頑丈そうで、笑えば金属の義歯が一つ二つ光った。顔が、叩いてつくったようにしっかりした筋肉でできていて若々しかった。いまの若い人にあんな感じの顔をみたことがない。
いつも草をわけるようにして田舎を歩いていたが、気分としては東京がすきで、東京だけでなく、町育ちの者がすきだった。というより、町育ちの者がもっている遠慮とか気づかいとかといった気分がすきなようだった。」


と、ここまで、引用してから、司馬さんが語る「鳥籠」がでてくる箇所を、引用しておしまい。


「私の記憶や知識のなかでは、江戸っ子という精神的類型は、自分自身できまりをつくってそのなかで窮屈そうに生きている人柄のように思えている。池波さんも、そうだった。暮の三十一日の日にはたれそれの家に行って近況をうかがい、正月二日にはなにがしの墓に詣で、そのあとどこそこまで足をのばして飯を食うといったふうで、見えない手製の鳥籠のような中に住んでいた。いわば、倫理体系の代用のようなものといっていい。この場合、こまるのは、巷の様子が変ることである。夏の盛りの何日という日にゆく店が、ゆくとなくなっていたり、まわりの景色がかわっていたりすると、たとえば蛙の卵をつつんでいる被膜がとれてしまうように当惑する。『いやですねえ』池波さんは、心が赤剝(あかむ)けにされてゆくような悲鳴をあげていた。なにしろ当時、東京オリンピック(昭和39年)の準備がすすめられていて、都内は高速道路の工事やらなにやらで、掘りかえされていた。東京は、べつな都市として変りつつあったのである。・・・以下は重要なことだが、この人はそのころから変らざる町としての江戸を書きはじめたのである。・・・」


ということで、この夏の暑さのなかで、
日暮硯の「七尺の鳥籠」と、司馬さんが語る「見えない手製の鳥籠のような中に住んでいた」と、この二つの鳥籠を並べてみたかった(笑)。最後まで読んでいただきありがとうございます。


次は、池波正太郎著「真田騒動」を読みたく。
とりあえず、「池波正太郎を読む」を、さっそく注文。


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「日暮硯」考。

2010-07-29 | 古典
岩波文庫「新訂日暮硯」(笠谷和比古校注)についての3冊。

1.徳川夢声著「話術」(白揚社)
2.山本七平著「日本人とユダヤ人」(角川oneテーマ21)
3.遠藤周作編「友を偲ぶ」(光文社・知恵の森文庫)の中の
 「池波正太郎 若いころの池波さん  司馬遼太郎」(p150~)
(なお、この追悼文は新潮社の「司馬遼太郎が考えたこと14」にもあり)


「話術」には、最後に附説として白揚社の前社長が綴った箇所があります。
そこに、日暮硯が登場するのでした。どう紹介されていたか。

「古い話ではあるが、段論法にもっとも巧妙を極めた座談の例があるので、ご参考に供しよう。それは松代藩の名奉行恩田木工の座談法である。古戦場川中島をその領地に含む松代藩(十万石)は年々水害を受けることが多く、従っていつも財政は苦しく松代藩の貧乏といえば天下に名高いもので、寛保年間には全くやりきれなくなって幕府から一万両を借りてようやく一時の凌ぎをつけたほどでした。藩主真田伊豆守は、何とか藩政を改革して、財政の樹て直しをやらなければならぬと日夜苦慮した結果、藩中から恩田木工という者を抜擢して『勘略奉行』を命じ、藩政の一切をその手に委ねて、大改革を断行せしめたのです。・・・・」以下12ページでその座談を説明しておりました。


さてっと、角川oneテーマ21は新書です。「日本人とユダヤ人」は著者が山本七平としております。以前はイザヤ・ベンダサンという名で出ておりました。
そこに「日暮硯」が登場するのでした。これは岩波文庫の「新訂日暮硯」の笠谷和比古の解説でも触れられておりました。

「『日暮硯』はまた、比較文化論の観点からも興味深い素材を提供している。そこに示された、恩田木工の独特の問題解決の手法は、西洋的、近代的な合理的なやり方とは根本的に異なるものなのであり、このような『日暮硯』における比較文化論の問題については、かつてイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』の中で詳しく展開されたところである。
木工の問題解決の手法の特色は、木工と領民との年貢問題を巡る対話の中に最もよく示されているが、それは法規や契約、証文の文言規定、計算上の収支、利子率などといった形式的な合理性を第一義とする立場からは、不合理きわまる腹芸としか映らないものであろう。しかし『日暮硯』の語るところは、このような形式的合理性の立場と異なる形での、問題遂行のやり方がありうることを示唆している点で重要である。それは通常のやり方では解決不能な状況に立ち至った時、右の形式的に合理的なものについての判断を一旦停止し、対話と合意を尊重しつつ、関係者の全員にとって実質的に最善のものを探究していく手法である。実質的なものの柔軟な取り扱い、自由自在な配分、これこそ『日暮硯』の説き描くユニークな世界をなすものであろう。
しかしながら注意すべきは、この実質的に善なるものが木工一人の判断で領民に恩恵的に施されるというスタイルで事が運ばれていくならば、それは当座は領民にとって利益であっても、大局的には権力的なものが総てを支配する専制政治がもたらされるだけであろう。『日暮硯』における実質的善の追求は、対話と合意による決定という手続きを、これと組み合わせている点で特徴的である。これがある故に、木工の政治には権力的な臭いが感じられないのである。」(p174)

ちょいと先を急ぎすぎました。
「日本人とユダヤ人」に登場する「日暮硯」を見てゆきましょう。

「宗教・祭儀・行政・司法・軍事・内廷・後宮生活というカオスの中から、政治すなわち行政・司法を独立させた日本人が、その後どのような政治思想を基にして、現実の政治を運営していったか。その特徴をもっともよく表わしているのは『日暮硯』であろう。・・・戦争中、アメリカのある機関で、日本研究のために徹底的に研究されたのがこの本であり、私は今でも、これが『日本人的政治哲学研究』の最も良いテキストだと考えている。というのは第一に、非常に短く、少し日本語ができれば短期間に通読できること、第二に・・・奇妙、きてれつなレトリックがないこと。第三に、松代藩という非常に狭い地区だけのことであるから、まるで試験管内の実験のように明白なこと。第四に、『ひぐらしすずりに向かいて』一気に書きあげたものであり、・・「言外の言」で表現するような点が全くなく、従って直截に理解できること。第五に、財政建て直しの記録であるから、その方法、過程、成果がはっきり現われ、どこの国の人にも理解できること。第六に、それでいて・・・一見すべてが非常に不合理・不公平でありながら、すべては『まるくおさまって』おり、あらゆる人がその『仁政』を謳歌していること、である。・・・・
西暦1756年ごろ、信州真田藩は洪水・地震その他のため財政困難となり、幕府から一万両借金したが、それでももうどうにもならぬ、というところまで追いつめられた。百姓一揆は言うまでもなく、驚いたことに足軽のストライキまで起っている。おそらくこれは、日本のストライキ史の第一ページであろう。この難局に直面した藩を十三歳で相続した明君幸豊は、わずか十六歳のとき、末席家老の恩田大工の人物を見抜き、これを登用して一挙にすべてを改革した。当時三十九歳の恩田木工は、その任にあらずと辞退したが許されず、そこでまず、『もし拙者申す儀を『左様ならぬ』と申す者御座候ては相勤まり申さず候間、老分の方を始め諸役人中、拙者申す儀は何事に依らず相背くまじく申す書付相渡され候よう』と全権委任を明確にしてもらい、そのかわり自分の任期を自ら五年と定め、もし失政あればどんな処分でもうける誓詞をしてこれを引受けた。このあたりまでは、別に西欧と変わりはない。・・・・」

さて「日本人とユダヤ人」では、このあとに「全文を引用してみよう」として14ページをつかって「日暮硯」を引用しているのでした。

引用といえば、だいぶ引用が長くなりました。
今回は、3番目の司馬遼太郎の追悼文はカット、で、またこの次。
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落ち込んだり。

2010-07-28 | 短文紹介
梯久美子さんの「昭和20年夏、僕は兵士だった」を、前に印象深く読んだのでした。
それが今年になって「昭和20年夏、女たちの戦争」(角川書店)が7月に出ておりました。

近藤富枝・吉沢久子・赤木春恵・緒方貞子・吉武輝子の五人が登場しております。
ここでは、私は吉武輝子(昭和6年生まれ)さんについて引用してみたいと思います。
こんな箇所がありました。

「・・・学徒出陣だって、最初は理系の学生は行かなくてすんだでしょう。まっ先に戦地へやられたのは、音大や芸大の学生でした。長野県の上田市に、無言館っていう美術館がありますよね。戦死した画学生たちの作品を展示してあるところ。私ね、気持ちが落ち込んだり、疲れてしまったときはあそこに行くんです。
彼らが残していったのは、ほとんどが家族や恋人の肖像なのね。未完成の絵も多い。眉毛が半分とか、唇にまだ色がないとか。みんな、生きて帰って仕上げたかったのよ。でも、絵の才能なんか、戦争をやっている国にとって有用じゃないから、早々に戦場へ追いやられてしまった。
そりゃあ若いから、みんな未熟な絵よ。でも彼らが生きて描き続けることができたら、そう、五十代や六十代になったら、素晴らしい作品を描いたかもしれない。そう考えると、何ともいえない気持ちになります。そして、どんなに疲れていても、生きている限り、私は私にできることをやろうっていう気になるの。」(p212)

思い浮かぶのは、足立倫行著「妖怪と歩く 評伝水木しげる」(文藝春秋)の第四章「戦争体験の夏」。そこに、ラバウルの野戦病院で水木しげるを診察した陸軍軍医砂原勝巳氏との対談が載っております。砂原氏は食道ガンを宣告されておりました。闘病生活3年目にはいって、「もう一度水木に会っておきたい」ということで実現した週刊誌の対談だったそうです。そこに


水木「やっぱり戦死した人ですよ。私は戦後二十年くらい、人にあまり同情しなかったんです。戦争で死んだ人間が一番かわいそうだと思ってたからです」
砂原「生き残ってるのがうしろめたいと言うか、戦後お互いに連絡取らないのはそれです」
水木「生き残った者が一度集まった時、小隊長が『我々はほんのちょっと長く生きただけだ』って言うんですよ」
砂原「その感覚、共通にありますね」
水木「戦死した人間は、ものすごく生きたかったんです!死にたくなかったんです!」
・・・・・・・・
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眠れないなあ。

2010-07-27 | Weblog
むし暑いですね。
眠れずにパソコンをひらいています。
こういうときは、
松岡正剛の千夜千冊の項目をながめていたりします。
もう、寝ようと思うのですが、
まだ、眠れそうにありません。
今ですか、午前2時半。

夏の読書に収穫あれ。
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虚言を一切。

2010-07-26 | 短文紹介
暑苦しさは、何も夏ばかりじゃなく
政治の暑苦しさは、いかんともしがたく。

なんてはじめると、いかめしいのですが、
昨日の続きです。
岩波文庫の「日暮硯」は、信州川中嶋、
そこは、犀川・千曲川の合流地帯の平野をいい、川中島の古戦場として有名な場所。
松代藩の中心部。
そこに藩財政を立て直すべく、恩田木工が起用されるのでした。
その恩田木工が語り。

「先づ以て、殿様不如意につき、只今まで御領内の者ども、殊の外難儀致す儀に候故、此度手前勘略奉行に相成り候へば、尚以て御領分難儀にもこれあるべしと、気の毒に存ぜられ候が、先づ手前儀、向後(きょうご)虚言(うそ)を一切言はざるつもり故、申したる儀再び変替(へんがえ)致さず候間、この段兼(かね)て堅く左様相心得居り申すべく候。さて又、向後は手前と皆の者どもと肌を合せて、万事相談してくれざれば勘略も出来申さず、手前の働きばかりにては勤まらず候間、何事も心やすく、手前と相談づくにしてくれよ。これを第一、手前が皆への頼みなり。・・・」

こうして、語り始められる一部始終。
夏の暑さに、涼感を呼び覚ます読後感あり。


「今までの意趣晴しは此の時ぞ、有難き事なり、誠に闇の夜に月の出でたる心地、胸の曇りも晴れて、これより行末安楽になるべしと、悦び勇まぬ者こそなかりけれ。」


35ページほどの解説も丁寧で、こうはじまっておりました。

「本書は江戸時代中期、信州松代藩10万石真田家の家老恩田木工が、甚だしい窮乏に陥った藩財政の立直しを一任され、嘘をつかず、誠実であることを信条として改革に当たり、よくその功を成した事蹟に関する説話である。」

本文は67ページほど、暑気払いに元気がでるのでした。
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日暮硯。

2010-07-25 | 前書・後書。
徳川夢声著「話術」(白揚社)をめくっていたら、本の最後に「恩田木工の座談法」という紹介がありまして、そういえば、イザヤ・ベンダサン「日本人とユダヤ人」で「日暮硯」が紹介されていたなあ。その時に読んだことがあったなあと、本棚を見回すと、ワイド版の岩波文庫「日暮硯」が買ってありました。黄色い線が引いてあるので、たしかに読んだはずなのですが、もうきれいに忘れておりました。「話術」にある「日暮硯」のあらすじ紹介が丁寧なので、それをふまえて読んだ「日暮硯」の言文の「候文」をまじえた語りもごく自然に読めました(笑)。

さてっと、ヒグラシといえば蝉ですが、
この本の最後は、
「・・・右の正しき事の条々・・・感嘆の余り、日暮し硯に向ひ、ここかしこ聞き覚へしところ、反古(ほご)の裏に書きつけて、伝へるものなり。・・」

とあります。簡潔に記された文を、読むのは、意味が分からないながらも、夏の読書に、端正な気分が伝わり、私にはうってつけのような気がします。それも余分な修飾語などがないせいで、簡潔・端的なのが心持を涼しげにしてもらえるからか。引き締まった印象をもつからなのか(しまった、こうダラダラと書くと暑さがぶり返してしまう)。

「日暮」といえば、徒然草の「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を・・・」が思い浮かぶものですが、「日暮硯」を読むと、「徒然草」の随筆調がきわだっていると思いえてきます。それほど「日暮硯」の方は、記述文(?)ということになるのでしょうか。

うん。現代文よりも、こういう文がうってつけの夏読書かもしれないなあ。汗をかきかき、古典の簡単単純文を読むのもありですね。
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言文別途。

2010-07-25 | 短文紹介
今年になって、終ってからお酒を飲まない議論を月1回ぐらいのペースでしております。そこで、自分の発言べたを、あらためて突きつけられる思いをしております(笑)。
もっとも、その発言を聞かされる方が、それ以上に迷惑をしておられるというところまで、考えが及ばないところが、私の発言の幼稚さ。
さて、そうして7月25日。今日は、昨日の暑さがすこしやわらいで、曇りで心地よい風もあります。
いや、そうじゃない、そうじゃない。「話すこと」について、思わず視界が明るくひろがるような面白い視点を提供してくれる本がありましたので、引用。

外山滋比古著「現代にほんご草紙」(PHP・昭和55年発行)の第二章新文章作法を何気なく開いていたら、そこにありました。


「・・・日本語は書くことばと話すことばが歩み寄っていない。言文別途なのである。それだけに、文章を書くのはいっそう難しいとも言えるし、また、やさしいのだと言うこともできる。なぜやさしいのか。話し方がどんなになっていなくても、文章だけ切りはなして上達することができるからである。実は、一般に考えられているのとは違って、書く方が話すよりやさしい。つまり、うまく話す方が、うまく書くよりはるかに難しい。
 うまく話せないといい文章が書きにくい言文一致の社会より、話せなくても書ける言文別途の国はありがたい。どんな口下手な人でも名文家になれる。口下手な方が上達しやすいかもしれない。そういうわけだから、話すのは文章と直接結びつかない。書くにはどうしても読む必要がある。すぐれた文章を読まずに、いい文章が書けるようになることは難しい。・・・・
国語の先生におもしろい文章を書く人がすくないのは、あまり、いろいろな文章につき合いすぎるからである。目移りがする。腰がすわらない。それではいつまでたってもスタイルができにくい。文章を書くには自分なりの書き方、スタイルが必要である。スタイルというといかにも高尚のようだが、ありようは書きぐせである。・・・・」(p124~125)


ここから、有意義な指摘となるのですが、
とりあえず、「書く方が話すよりやさしい。」というのは、
私には有難い一言であります。
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座談十五戎。

2010-07-24 | 他生の縁
徳川夢声著「話術」(白揚社)に、座談十五戎が載っております。
そこから一箇所引用。第6戎「毒舌屋たるなかれ」。

「・・・好きな人には、仲よしの犬が噛み合いをするように、悪口をいいたくなるものです。また、いわれて敵ながら天晴れと、好い気もちになるものです。しかし、その場合にも相手の急所は避けなければなりません。・・・・・その人が本業としていることを、批評する場合は、余程警戒すべきです。舞踏家の石井漠氏と私と初対面の時、意気大いに相投じて、私は嬉しくたまらなくなった。その嬉しさを何とかして表現したい。石井漠という人間が如何に私に気に入ったかということを、当人に知ってもらいたい、そう思って私は、『いや、まったく君は良い男だ、どうしてこんな良い人物がいるんだろう。ダンスはまずいけれど人間は実に立派だ。』とこういったんです。もっとも両方とも酔っぱらっていました。が、さァ大変です。『なにッ、俺のダンスが拙いとは何んだ、お前なんかにダンスが分るかッ。』というので大喧嘩になりました。こういう経験が、その後も二回私はありまして、つくづく、その人の本業をケナスものでないと覚りました。いかに、こっちに好意があっても、こいつはいけません。でも、もともと悪意から出たものでないから、あとではお互いに笑い話となりますけれど、世の中にはいわゆる、毒舌家という人物があって、言葉に毒を含み、周囲をクサらせる名人があります。当人は得意になって毒舌を振うのですが、毒の及ぶところ、被害甚大です。そして知らず知らずの間に、造らなくてもよい敵を造ります。」(p68~69)

そういえば、最近読んだ中で、思い浮かぶ言葉がありました。
まあ、直接には関係なさそうなのですが、
谷沢永一・渡部昇一著「組織を生かす幹部の器量 宋名臣言行録に学ぶ」(到知出版社)

「・・欧陽修は『道に学ぶこと三十年。得るところのものは、平生、怨悪なきのみ』と言っています。つまり、自分は三十年もの長い間一所懸命に修養したけれども、そこで得たことの結論は『人を恨まないことに尽きる』ということだけだと。これはまた簡潔です。
・・・・その結論に至るまで三十年。」(p189~190)
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いつか読みたい。

2010-07-23 | 他生の縁
いつか読みたい花森安治。
ということで、並べてみます。
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)を楽しく読みました。
そこに紹介されていた、「暮しの手帖」第77号の丸山丈作「東京府立第六高等女学校」を
古本雑誌で読んでこれがよかった。
さて、つぎは花森安治へ興味がうつればよいのでしょうが、なかなかそうもいかない(笑)。ここでは、いつか読みたい花森安治。ということで、それに関する本のリスト。それをとりあえず並べてみます。

花森安治「一銭五厘の旗」(暮しの手帖版)
花森安治著「暮しの眼鏡」(中公文庫)
酒井寛著「花森安治の仕事」(朝日新聞社)
唐澤平吉著「花森安治の編集室」(晶文社)
暮しの手帖・保存版Ⅲ「花森安治」

あと、おやっと思ったのは、
杉山平一著「詩と生きるかたち」(編集工房ノア)に
「花森安治を語る  インタビュー」という個所がありました。
なにやら杉山平一氏は花森安治の後輩にあたるそうです。
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青二才・青くささ。

2010-07-22 | 詩歌
黒澤明著「蝦蟇の油 ― 自伝のようなもの」(岩波書店)に、青二才を語った個所があります。

「私は、青二才が好きだ。
これは、私自身が何時までたっても青二才だからかもしれないが、未完成なものが完成していく道程に、私は限りない興味を感じる。だから、私の作品には、青二才がよく出て来る。姿三四郎も、この青二才の一人だ。未完成だが、秀れた素材がある。私は、青二才が好きだといっても、磨いても玉にならない奴には興味はない。」(単行本第五章「用意、スタート」p276)

前回、窪田空穂歌集から、「孫の成人式に」という歌を引用しました。
ここで、また引用を繰返します。

 成人のいたく苦(にが)きを知れる祖父いかに祝はんこの男孫

 責任を果たしぬべくも真向かひて体(たい)あたりせばたのしみ湧かん

 責任は己がこころの生むものぞ果たしえん境(さかひ)身をもちて知れ

 危険なき生存あらず二十代三十代は危険を冒せ

 記憶せよいま成人の男孫四十とならば惑ひをもつな

ところで、この岩波文庫の「窪田空穂歌集」は2000年4月に第1刷。
その解説は大岡信です。その解説の中に、こうある。

「日本の文学世界の奇妙な癖のひとつは、若年の処女作とか文壇デビュー作のみを過大に重んじ、その後の個々の作家、詩歌人の成熟に対しては、不相応なくらい冷淡無関心になるところにある。与謝野晶子がどれほど『みだれ髪』をうとんじていようと、晶子といえば『みだれ髪』を特別に重んじるというような例は、こまかく見ればいくらでも見出せるだろう。日本文学全体がいつまでたっても青くささを脱け出せないところがあるのと、軌を一にした現象である。空穂のような、前進しつづけた詩歌人についての見方は、とりわけこうした日本人に多く見られる青春讃美の傾向からすると、理解がなかなか行き届かないタイプに属する。・・・・」
ところで、
窪田空穂全集の月報3(第8巻付録)に「空穂談話Ⅲ」が掲載されており、そこに与謝野鉄幹・晶子のことが語られておりました。そこから晶子について語られている箇所。


「晶子さんが、歌会で鉄幹に会って、刺激を受けて、さかんに歌を詠み出した。鉄幹に『ほんとうに思ったことを詠んだら歌になりますか』って、何度も聞いてる。実感があればなんでもいいと、わかったような、わからないような、そういうところから歩き出した人。『みだれ髪』・・・じつに、こりゃあ、おどろかした、みんなを。有名な歌だったが、『清水へ祗園をよぎるさくら月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき』。この『こよひ逢ふ人みなうつくしき』という形をね、しかるべき名流がみなまねしたものだ。魅力のある歌。上田敏が、才女は紫式部と清少納言だというけれども、晶子さんがそのとき生きていたら、もっと有名になりはしないか、なんて批評を書いてる。上田敏という人は信用されていた。この人が言うんだからほんとうかもしれない、という魅力をあの歌集がもった。時代に魅力があった。
歌の数は何万首も詠んでる。何万と口じゃいうけれども、歌を何万も詠んでいるという人は、古来ほんの二、三かぞえられるだけ。やれるもんじゃない。それが口を突いて出てきたらしい。才女に違いない。しかしね、晶子さんの偉かったのは、それでトット、トットと進歩していったことだ。とにかく、それだけ多作をしながら、その上に乗っていると同時に進歩していた。晩年の歌なんか、相当いいんではないかと思う。けれども、晩年のよくなった歌があまり評判にならないで、若いときのおどかしの歌が評判になった。
  ・・・・・
坂本紅蓮洞という男が、『晶子という女はなにをしても勤まる女だ』と感心していた。待合のお女将をやっても、結構やってのけられる女だというのだ。大勢の子供を育て、学校はみんな最高の学校へ入れてやった。収入は文筆だけれども、なんといっても歌が中心になっている。歌などで稼げるのはたかだか知れたものだ。が、それを結構やりおおせた。与謝野がフランスへ行っているあいだに、自分で『源氏物語』で旅費をこしらえて、一人でノコノコあとを追っていったんだからね。」
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空穂歌集。

2010-07-21 | 詩歌
岩波文庫の「窪田空穂歌集」(大岡信編)をパラパラとめくっております。

昭和30年に「選歌」と題して

 よき歌を見出づることのたのしさに引かれつつ選む人が詠み歌

 よき歌を得ればたのしく人が歌わが歌といふけぢめのあらぬ

 胸にしむ歌にし逢へばそぞろにも声立てて読む人が詠み歌

 よき歌にそぞろぐ心究(きは)めむは吾は何ぞと問はむに等し


昭和31年には

 第一に親しく良きは自作なり作者の前に作を語るな

 鑑賞はおのれを語るものにあれば陶酔も無視も好むがままに

昭和37年の「孫の成人式に」では

 成人のいたく苦(にが)きを知れる祖父いかに祝はんこの男孫

 責任を果たしぬべくも真向かひて体あたりせばたのしみ湧かん

 責任は己がこころの生むものぞ果たしえん境(さかひ)身をもちて知れ

 危険なき生存あらず二十代三十代は危険を冒せ

 記憶せよいま成人の男孫四十とならば惑ひをもつな


このあとの昭和37年。空穂86歳の歌「庭にむかひて」のはじめに

 もの言へぬ幼児(をさなご)が目を見ひらきて見つむるごとき草の花かも


マイケル・ディルダ・高橋知子訳「本から引き出された本」(早川書房)に、そういえば、こんな引用がありました。


「芸術の目的は瞬間的なアドレナリンの放出ではなく、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することである。 ・・・ グレン・グールド」(p154)


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神輿終了。

2010-07-19 | Weblog
今年の神輿(みこし)も終了。
昨日の飲み会は、途中で意識がなくなっていました。
今朝起きたら、どうしても思い出せない(笑)。
ひとりじゃなかったから、よかったものの。
昭和5年生まれの氏子総代と日本酒を飲んでいたのが原因。

17日の神社で蝉の声を聞いたら、
19日の午後7時には、夕焼け空にひぐらしの声が聞こえました。
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花納め。

2010-07-18 | Weblog
神輿を昨日担ぎ。
今日は収納と整理。
私は、金銭担当。
といっても、有能な方がいるので、見てるばかり。
今日は夜から、花納め。
神社の関係者やら、区の関連。そして担ぎ手があつまっての
会計報告と飲み会。
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神輿。

2010-07-17 | Weblog
今日は、神輿の渡御。
午前中に神輿の組み立て。
午後から担ぎます。
暑そうだなあ。
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