和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

古本屋さん。

2020-06-30 | 本棚並べ
本棚の文庫棚に、
白上謙一著「ほんの話」(現代教養文庫・1980年)が
あるのでした。本を学生に紹介しているのでした。
だいぶ以前に読んだのですが、歯が立たない(笑)。
そのままに、本棚に鎮座したままでおりました。

古本屋に、その白川謙一氏の単行本が出ておりました。
函入りで書名が「現代の青春におくる挑発的読書論」
(昭和出版・1976年)。購入してみる。
単行本には、ご本人の写真が二枚。巻頭に掲げられてる。
内容をめくると、なあんだ。
この単行本は、文庫「ほんの話」の元の本でした。

「まえがき」によると、
山梨大学学生新聞に1962年~1971年に連載された
約50回分をまとめた一冊なのでした。
著者は山梨大学の生物学教授でした。

はい。この機会に「古本屋さんについて」と題した
4頁の文から引用してみます。
はじまりは、
「梨大(山梨大学)の学生が本当に気の毒だと思うことが
一つある。それは甲府に古本屋さんが多くないことである。」

そうして、次の頁に、神田の古本屋さんの話がつづきます。

「・・・学生時代の私は少なくとも年に20回は神田を
おとずれたものである・・・・しかしこのことではない。
私の目にふれずに売れてしまったどれだけの本があることか。
私が知っている本で、今までに一度も古本屋さんで見かけた
ことのない本がどれほど多いか。

何度もおとずれているうちに、今日神田に並んでいる
50万冊の本が氷山の一角であることがしみじみと分かってくる。
多くの善い本は20年か30年に一冊しか現われない。
 ・・・・・・・・
古本屋とは古ぼけて汚れた本を定価より安く売って
いる店である、などと考えてもらったは困るのである。
書物の購入に関して、彼等の果している役割は、
新本屋さんに百倍するといわなければならない。
特に日本では、出版後十年もすれば、
多くの本は新本屋さんで買えなくなってしまう。
出版社自身が消滅してしまっていることも決して
稀ではない。・・・・」(p27~28)


はい。私はここだけでもう満腹。
あとは文庫と並べて本棚へ。
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新刊届く。

2020-06-29 | 新刊購入控え
門田隆将著「疫病2020」(産経新聞出版)届く。
『おわりに』から引用。

「・・・共産中国が決定的に勘違いしているのは、
『人間の良心』をまったく無視していることである。
力で押せば、必ず相手は引く。
中国は、そう疑いなく思い込んでいる。

・・・日本が未来永劫、独立を保ち、国民が平和と
幸福を享受できるか否かの分岐点であろうと思う。
そのことも読み取っていただけたら、と願う。」(p357)

「政治家も、官僚も、省庁も、企業も、コロナ禍で
これ以上ないほどの情けない姿を晒した。・・・・・
そんな中で、高いモラルと使命感、そして責任感に支えられた
医療従事者の方々によって『日本が救われた』ことを、
感謝を込めてあらためて記しておきたい。

2020年を襲った疫病は、世界秩序も、国家防衛のあり方も、
人々の生き方も、すべてを見直さなければ『生存』さえ
危ぶまれることを私たちに教えてくれた。
本書を手にとってくれた皆様が、そのことの意味を考えてくれるなら、
本書が刊行される意義も幾許(いくばく)かはあったかもしれない。」
(p358)

はい。読み甲斐のある手紙のように、新刊が届く。


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古里の漢文・古典・京都本。

2020-06-28 | 本棚並べ
はい。安い古本で、京都本が少しづつたまると、
これはこれは、豊かな気持ちになります。
その豊かさは、伝えられるものなのか?


山田俊雄・柳瀬尚紀の対談
『ことば談義 寝てもさめても』(岩波書店・2003年)
が古本で送料共312円。以前買って本棚にありました。
はい。対談なので読みやすい。そこに

柳瀬】・・・・英語で全部通じるんだからと、
ケンブリッジ大学で第二外国語をやめようじゃないか
という意見まで出たというんですね。さすがにそれは
廃案になったといいますが。だから、そういうふうになると、
わざわざフランス語をやるとか、ギリシャ語、ラテン語を
やるという必要がなくなって・・・・・結局、残る英語は
ユネスコ英語とコンピュータ英語と、いわゆる商取引の
英語だけになってしまうんじゃないでしょうか。

山田】 日本語の場合もそうなんだね。
柳瀬】 そうです。
山田】 だって、高等学校で漢文もやらない、古典もやらない。
柳瀬】 そうなんです。
山田】 どこに戻ってゆくべき古里をもつのか
    というと、何もないわけですね。
柳瀬】 ぼくらが、漢文がなくなった世代ですから、
    もうほんとに徹底的に駄目ですね。
山田】 無駄かもしれないけれど、やる必要があるんだね。
    何が有用かということになってくるけれども。
(p61)

はい。ここに
『どこに戻ってゆくべき古里をもつか』とありました。
うん。65歳になって、出かけた京都。
そして少しづつ、古本の京都本がたまってゆくと、
安い本でも、だんだんと豊かな気分になってくる。

はい。ここに、古里と古典と漢文とがありました。
本と栄養という指摘もありました。

山田】 ただ、考えてみると、自分の身辺に本を
置いてない若い世代の人って、勉強のしようがないですね。
図書館に行けばいいなんていっても、本はそういうものでもない
んだ。やっぱり自分の身の回りに置いてあって、
本に埋もれてなくては、好きなときに好きなものが
自分の栄養にならないですね。(p59)

ちなみに、
山田俊雄氏は1922年生れ。
柳瀬尚紀氏は1943年生れ。


はい。古里と本と栄養と。安物ですが、
だんだんと、本棚にできる京都本コーナー。
はい。その豊かさと、味わいのある楽しさ。




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松田道雄の解説。

2020-06-27 | 本棚並べ
本をネット検索すると、思いもしない本とであいます。
今回は、松田道雄で本の検索をしていたら、
東洋文庫の、富士川游著「日本疾病史」が引っかかる。
この文庫の解説を松田道雄がしてるのでした。
この本の序に、明治44年と日付があります。

え~と。古本でさっそく注文。1500円+送料300円。
古書ワルツさんから、今日届きました。
う~ん。東洋文庫は買っても、読む確率が
わたしの場合はいたってすくない(笑)。

ここはひとつ、
松田道雄の解説のはじまりを引用しておきます。

「富士川游の『日本疫病史』は・・・世界に類例のない本である。
こころみに本書・・の疫病の年表をみるがよい。7世紀からこちらの
記録によって伝染病の流行がかいてある。中国をのぞけば、
これほど古くから記録ののこっている『先進国』はない。
・・流感の東西の流行の比較がでてくるが西欧では
14世紀以降でなければ、記録が存在しないのだ。
文化という点では、日本はいまの欧米諸国より
はるかに先進国であったのだ。

著者の富士川游が日本の医学の歴史をかこうと思ったのには、
そういう点を『西欧派』の日本の医者たちに教えたかったのだろう。
個々の技術的な点を明治中期の時点で比較すれば
日本の医学はおくれていたにちがいない。だが、
医学を一つの学問とみて、学問をつくっていく人間の
思考の態度というところをとりあげれば、西欧も日本も、
そうかわったところはない・・・」

はい。松田道雄解説の引用をつづけます。

「・・だが、『日本疫病史』のほうは、古い記録や医書の内容を
とりだして、読者に実物をみせてくれる。そのおびただしい引用は、
医学史が学問であることを証明する。だが、同時に読者は、
その引用のなかに、私たち日本人の祖先が、戦乱や天災とならんで、
住民の生活をおびやかした疫病と、どんなに絶望的な抵抗を
くりかえしてきたかを感じることができる。日本の文化は、
この苦悩を通じてつくりあげてこられたのである。

日本の信仰や芸術や思想の歴史をまなぶ人は、
この本から、まなぶべきものがあるだろう。」

このあとに富士川游氏の紹介をしてます。
こちらも、貴重だと思えるので、つづけて引用。

「著者の富士川游は1865年(慶応元年)広島県下阿佐郡安村に
生まれた。家は代々医をもって業としていた。成長の日々のなかで
彼は、医者という職業が何であるかをみていたにちがいない。
・・虫干しに縁側にひろげられた古い医書をみていたという。
そのころから、歴史と医学とをむすびつけたい気持が
彼のなかに醸成されたようである。
広島市の広島医学校をでると、東京に出て中外医事新報の
編集者となって、医学史にとりくむようになった。・・・・
医学史の研究のためドイツにいきイェーナでまなんだ。そして
十数年の歳月をかけて、日本の古い医書を集めた。それだけでなく
『或いは名門の子孫を窮巷に訪い、或いは古人の残碑を僻陬(へきすう)に
探り、断簡零楮と雖も苟も考証に資すべきものあれば多資を惜しまず
千里も尚お遠しとせず之を獲ることを力め、仮令同一の文書と雖も
異本数種あるものは悉く之を網羅』したのであった。・・・・

『日本疾病史』を類がない本といったのは、
日本以外でつくれないだけでなく、日本でも
もうつくれないのではないかと思うからである。
・・・・富士川游の集めた以上の古い医書を現在入手することは
容易でない。富士川游の蔵書は京大の図書館に寄贈されて
富士川文庫として保管されている。それさえ、
十分に読む力をもった医者も、まずいない。そうなると、
日本の古い記録や、むかしの中国や日本の医書を読み、
かつおぼえて『日本疾病史』以上のものをつくることは、
ちょっとできそうにもない。

『日本疾病史』が医学の技術でなしに
医学に思考の態度を教えるものであるとすると、
その目的はほとんど達せられているから、
おなじような方向で疾病史をかくこともむだな気がする。
そういうことをかんがえると、『日本疾病史』は
ながく定本として通用するのでないかというのが
私の予想である。」

はい。解説はまだつづいておりました。
わたしは、ここだけで満腹。
本文はそっちのけで、松田道雄の解説の
はじまりだけを引用しておきます。


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松田道雄の京都。

2020-06-26 | 京都
松田道雄著「育児の百科」(岩波書店)をひらく。
兄の家にあったものをもってきました。
はい。読むのははじめてです(笑)。

パラリとひらいたのは、
「1歳6カ月から2歳まで」の箇所でした。
うん。引用。

「母親は百科事典のようにこたえるのではなく、
詩人のようにこたえねばならぬ。その状況で、
子どものいってほしがっていることを、簡潔に、
正確に、いいあてることだ・・・。

人間の個性のさまざまは、すでにこの時期からはっきりしている。
音楽の好きな子はラジオやテレビから音楽がきこえてくると、
きき耳をたてる。調子をあわせて、からだをうごかすこともある。
絵をかくことの好きな子は、クレヨンと紙をあたえておくと、
ひとりで何かかいている。本の好きな子は、くいいるように絵本を
みている。運動の好きな子は、そとへでて走ったりとんだりする。
道具をいじることの好きな子は、電気器具をオモチャにしたり、
椅子のネジをまわしてとってしまう。

好きなことをするのは、たのしいのだから、
親はそれをたすけてやるべきである。
音楽の好きな子には、いっしょに歌をうたってやろう。
絵の好きな子には、なるべく大きい紙をあたえよう。
本の好きな子は、本屋へつれていって絵本をえらばせよう。
運動の好きな子には・・・・・
道具の好きな子には・・・・」(単行本p466)


うん。松田道雄は、どんな人だったのか?
谷沢永一氏は、こう対談で指摘されておりました。

「松田道雄という存在それ自体が、私の憧れの的でした。
・・・山っ気のまったくない人です。自分が考えたことを、
ひとつひとつ謙虚な報告書としてまとめて、
『今、ここまで考えました。みなさん、どうでしょう』と、
そっと世に送り出すことを続けた人ですね。

・・・自分のうちに熟していないものがあれば、それはパスする。
熟していなくても、自分として、このレベルでいっぺんものを
書きたいなと思うときに、それを率直に書くのです。・・・」
(p234)

これは、「知的生活の流儀」(PHP研究所・1998年)からの引用。
この本は、谷沢永一・山野博史と二人の対談で、
さまざまな方の本を紹介している一冊でした。
この谷沢さんに答えて、山野さんは

「私は学生時代に、京都の市電や市バスの中で、
ロシア語の医学雑誌なんかを読んでいる松田道雄を
見かけたことが何度もあるのです。
八十代の半ばぐらいの話ですが、その時点での
小児医学の学問の最前線に追いついていくために、
週に十五、六冊の専門誌を読む生活を続けているそうです。

その本代をやはり捻出しなければいけないから、
『育児の百科』を書き、岩波新書で『私は二歳』とか、
『私の読んだ本』とかを書いている。・・・・」

ここに、谷沢さんは、京都学派を持ち出しておりました。

「松田道雄が幸せだったのは、京都学派がいちはやく
彼を包含したことですね。その点、やはり京都学派はえらかった。
桑原武夫をはじめとする京都学派が一致団結して、
松田道雄を同志と考えた。そういう後援者というものが、
この人の精神の支えであり・・・・・」

はい。1908年生まれの、京都の小児科医でした。
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堂本印象の京都。

2020-06-25 | 京都
吉田光邦著「京のちゃあと」(朝日新聞社・昭和51年)は、
最初の51頁が、遠藤正の写真を掲載しており、
その写真だけで私は満腹感を味わえました。

それはそうと、パラパラひらいていると、
アートと題した章に、堂本印象を語ったこんな箇所がありました。
「だが印象は恐らく東京では理解されまい。
遊びの要素をもつ仕事だから。」(p92)

はい。美術には疎い私なので、
堂本印象ってどんな絵を描いているのかも知りません。
とりあえず調べると
堂本印象は明治24年生まれ(1891~1975)。
生涯独身を通したが、兄弟姉妹がおり、
弟の四郎の子息が洋画に転じた堂本尚郎(ひさお)。
とあります。

それはそうと、
木村衣有子著「京都のこころAtoZ」(ポプラ社・2004年)
が古本で200円。さっそく買いました。
なになに、木村衣有子(ゆうこ)さんは1975年生まれ。
まえがきは、こうはじまっておりました。

「私は京都に、8年のあいだ暮らしていた。
はじめてのひとり暮らし、はじめてのアルバイト・・・・
ほとんどの『はじめて』には、京都で遭遇した気がする。

京都の街のスケールは、自転車でぐるりと回れるくらいで、
とても把握しやすかった。そしてその中には、感じが良い
喫茶店から、敷居の高そうな料亭まで、
いろいろなものがおさまっていた。
3年前に、仕事の関係上、東京に居を移した。・・・」


この本は、A~Zまで項目があり、Dは堂本印象でした。
各見開きページのどちらかに、写真が掲載されてます。
さてっと、衣有子さんの堂本印象は

「私は、堂本印象の個人美術館の真向かいにある大学に
4年間通っていた。白い下地に破片のようなレリーフを
いっぱいくっつけた、過剰で奔放な佇まいが私の目には
強烈なものに映り、在学中にはいちどもその門を
くぐったことはなかった。・・・」(p28)

はい。文は2頁であと2頁が写真。それでD章はおわります。
その最後を引用。

「おそるおそる『堂本印象美術館』に入館してみた。
階段の手すり、ドアの把手、ランプシェードに至るまで、
すべて彼がつくったもの。外観のイメージ通りに過剰で
装飾的な、この場所にはやっぱり馴染めず、早々に退館。

持ち帰った美術館のちらしには
『画家としては、ひとつの様式が完成すればすぐに
それを打破し、いつまでもそこに安住せずに、気前よく
それを打ち捨てて次に段階を目指して進まなければならない』
という、本人の文章があった。・・・・・」(p31)

はさまった写真の一枚は、こう説明されておりました。

「岡崎の『京都国立近代美術館』のミュージアム・ショップで、
細い線で描かれた鍵と錠前のイラストがあしらわれた
コースターを見かけた。とても洒落ていた。友達へのお土産にも、
そして自分でも使おうと5,6枚購入した。」
これが堂本印象のデザイン。

もう一枚の写真は、
「大学の、というか美術館の近くの和菓子屋『笹屋守栄(もりえ)』の、
水彩の抽象画をあしらった箱は、和菓子にしてはだいぶハイカラな
雰囲気だと思っていたが、堂本印象の絵だと最近知った。」

さらに衣有子さんはつづけます。

「『東福寺』本堂の堂々たる龍の天井絵も、
彼(堂本印象)が手がけたという。
墨で描かれた凛々しい龍、なんと体長54メートル。」

「ある日、街頭での出張切手販売に足をとめ、
可愛らしいうさぎの切手を買ったら、
またもや堂本印象の作。どれもこれも、
まったく印象がちがう・・・・」

注:切手は「日本画『兎春野に遊ぶ』」で
作品は1938年の作。切手としては1999年発行。

また、吉田光邦さんの言葉が浮かびます。

『だが印象は恐らく東京では理解されまい。
遊びの要素をもつ仕事だから。』


ところで、木村衣有子さんは、
堂本印象美術館を早々に退館してから、
それから、どうしたのだろうなあ。
たとえば、堂本印象回顧展などがあったら、
出かけたのだろうか、どうなのだろう。
気になるなあ。





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そう、京都は海なのかも。

2020-06-24 | 京都
京都のイメージとしての海。
ということで、2冊紹介。

①「ベニシアの京都里山日記」(世界文化社)
②吉田光邦著「京のちゃあと」(朝日新聞社)

①で、ベニシアさんが曽祖伯父、カーゾン卿を語った箇所でした。
ジョージ・ナサニエル・カーゾン卿が、日本に二度訪れている。
最初は1887年(明治20年)に、世界旅行の際に日本に立ち寄る。
当時28歳。二度目は、その五年後・・・。
そのカーゾン卿の本を、ベニシアさんは紹介しております。

「初めて訪れた京都については、こう語っています。
『この街は豊かな緑に包まれており、
その趣のある優雅な姿が山間に浮かんでいます。
夜明けに街全体が白い霧に包まれた時は、
寺院の重厚な黒い屋根が、まるで転覆した巨大な
船が海から浮かび上がってくるかのように見えます。
すると、もやの向こうから寺院の鐘が鳴り…』」(p20)

「このようにカーゾン卿が本の中で書き残したことは、
私が38年前の1971年に初めて京都に到着した日に、
目にし、感じたことと同じでした。」(~p21)


つぎは、②。
②は、1976年に『朝日ジャーナル』に連載されたと
「朝日選書版のあとがき」にあります。
この本文の最後に『よく、妻はいっていた』とある。
そこを引用。

「華やかな落日のあとは、深い闇が京の空をおおう。
町の灯が急にきらめきを増す。はるかな山すその方
にもちらちらとゆれる多くの灯。
小高い位置のわたしの住まいからは、見える灯はいつもまたたく。
盆地の気象の通有性のゆえに。なんだか海を見ているような気がする、
漁り火の見える夜の海みたいと、夜の町を眺めながらよく妻はいっていた。
そう、海かもしれぬ。都市はいっさいを
歴史の彼方に飲みこむ巨大な海に似た存在かもしれぬ。」(p282)

そして、『あとがき』になります。
そのはじまりを、吉田光邦さんはこう書いておりました。

「チャートとは海図である。海図を御存じだろうか。
それは陸地については、海上の船から目標になるような
山、岬、立木などが描かれるにすぎぬ。
そして等高線は海についてはくわしく描かれ。
海中の岩、岩礁のたぐいも細密である。

陸地を精細に描いたマップと、海にくわしいチャート、
・・わたしが描こうとしたのはマップではなかった。・・・」(p283)

吉田光邦さんのいう『そう、海かもしれぬ』。
『いっさいを歴史の彼方に飲みこむ
  巨大な海に似た存在かもしれぬ』という京都。

うん。鮮やかなイメージが湧いてくる気がします。





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『月と草樹』と、68歳の定家。

2020-06-23 | 京都
東日本大震災後に、はじめて『方丈記』を最後まで読んだ。
その時に、堀田善衛著『方丈記私記』(筑摩書房)も読む。

ついでに、堀田善衛著『定家明月記私抄』を買ってみる。
買っても、『定家明月記私抄』『定家明月記私抄続篇』は読まず、
そのまま、本棚へ(笑)。
古本でも『続篇』の方は、函入りで新刊なみのきれいさ。
どうやら読まないどころか、開かれた形跡もなし。
その続篇を、今回パラパラとひらきます。

はい。藤原定家といえば、百人一首。
百人一首は、定家の晩年につくられております。
それでもって、続篇だろうと、見当をつけて手に取りました。
うん。私に読み頃をむかえておりました。
続篇の「後記」から引用。

「『明月記』の国書刊行会版を手にしたのは、
戦時中のことであった。・・・・・
そのときから、すでに半世紀近くの歳月が流れて行った。
『明月記』は、定家卿74歳のところで終っている。・・・」

後記の最後には
「 1988年新春 バルセローナにて堀田善衛 」

本文の後半から読み始める(笑)。

「安貞2年は、明月記全欠。
安貞3年は、3月5日に寛喜と改元された。
この年、定家は68歳。実のところを言えば、
これを書いている筆者もまた現在、年を重ねて68歳、
定家卿と同年なのである。

寛喜元年(1229年)のこの年は、京都においても
ーーー 群盗横行は相変わらずであったが ---
また定家の家にあっても、さほど波風の立たない、
まずは平穏な一年であった。

けれども、病身なことは、これも相変わらずで、
老年の相はますます明らかにあらわれはじめている。

3月には『雑熱猶減ゼズ』、4月には咳の病いが続き、
5月13日『窮屈ノ余り、痔病発(おこ)ル』・・・・・・
この5、6月の頃にはまた、左手が腫れて痛み、
灸や蛭(ひる)を施さなければならなかった。
また口熱(おそらくは歯茎の腫れであろう)が発し
 ・・・・・・・」(p233)

まだ、つづくのですが、すこし飛ばして、その後でした。

「かくて老後を養うについて、定家を慰めるものは、
月と『草樹』である。月は夜のことであるから、
昼の草樹を先にするとして、
『老後ノ身、草樹ニ対スルヲ以テ適々憂ヒヲ休ム』
(4月26日)という記述があり、またその
同好の人々もが訪ねて来るようになる。・・・・・
どちらかと言えば秋から早春にかけての、
粛然たる趣きの方が好ましいものと見えているようである。
・・・・・
『菊蘂、初メテ綻(ほころ)ブ。
萩ノ花モットモ盛リナリ。閑夜只之ヲ望ム。
図(はか)ラズモ68年ノ秋。又夢ノ如クニ過グ。』
(9月30日)」(p235)

堀田善衛氏の、月についての指摘も感銘深い。

「夜に入っては、月である。定家は、この日記中のどこにも、
『明月記』と名付けたことについての所以を書いてはいない
けれども、それはほとんどが毎日の晴雨のことからはじまって、
夜の月を記すことに終っていると言っていいほどである。」
(p236)
    ・・・・・・

「私はいま草樹と月に関する記事を引用して
これを書写していると、灯火に乏しいこの当時の人々が、
如何に花や紅葉、あるいは冬の枯林、そして
月光に近く暮していたかが、やはりしみじみと感じさせられて、
ある種の胸に迫るものを覚える。彼等は、おそらく
自然などという言葉を必要としなかったであろう。」(p238)


うん。68歳の定家は、まだつづきます(笑)。

「この年、珍しく数回の歌会を自邸で開いている。
5月14日、6月3日等である。そうして作歌の前後には、
この頃では必ずと言ってよい程に連歌が行われ、
どちらが主体かわからなくなってしまっているのである。
しかも酒や肴、あるいは懸(賭・カケ)物を持参する輩も出て来て
 ・・・・・
歌会はこれきり、打ち切ってしまっている。
・・・・・・
職業歌人としての定家としても、
耐えられる限度がすでに来てしまっている。
またかつての新古今集撰の時の寄人仲間であった、
家隆の家に群盗が入り、『其ノ装束等ヲ取ルト云々』
という事件があったりしたのでは、もうすでに
歌のための風土、雰囲気も失われたに近いであろう。
・・・・
その代り、という訳ではないが、書写、とりわけてこの年は、
病身を賭し、心魂を傾けて天台止観十巻の書写につとめ、
これにまた句読点を加える仕事に従事している。
これもまた晩年の用意の一つである。」(p240)


はい。百人一首を編むきっかけになった
定家74歳までは、もうすこし間があります。

「明月記は、この嘉禎元年(1235年)12月の
記をもって終る。その後の記事は知られていない。
定家、74歳、この後なお6年を、彼は生きた。」(p309)

はい。ここまでにします(笑)。







 




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六十の手習。

2020-06-22 | 道しるべ
白洲正子著「私の百人一首」(新潮選書)を出してくる。
なかなかに思い出せない一首を知るためでした(笑)。
そうすると、
この本の「序にかえて」は題して「六十の手習」とあります。
うん。はじまりを引用。

「昔、私の友人が、こういうことをいったのを覚えている。
ーー 六十の手習とは、
六十歳に達して、新しくものをはじめることではない。
若い時から手がけて来たことを、老年になって、
最初からやり直すことをいうのだと。・・・」

そのあとに、かるたの話になります。

「かるたをとるということと、百人一首を観賞する
ことは、ぜんぜん別の行為なのだ。」

そして、京都の骨董屋とカルタの話になります。

「・・数年前、京都の骨董屋でみつけたもので、
箱に『浄行院様御遺物』と記してあり、公卿の家に
伝わるものらしい。くわしいことは忘れたが、
元禄年間の作で、当時の公卿は生計のために、
かるたを作ることを内職にしたという。
これもそういうものの一つだったに違いない。

読札には奈良絵のような素撲な絵と、上の句が書いてあり、
取札には浅黄地に金で霞をひいた上に、下の句を書き、
裏には金箔が押してある。
カルタという名が示すとおり、元亀・天正の頃、
外国から渡来したカードの形の中に、
平安時代以来の歌仙絵と仮名の美しさを活かすことが
出来たのは、色紙の伝統によるといえるであろう。

たとえ身すぎのためとはいえ、これを造った人々が、
どんなに祖先の生活をなつかしく憶い、
新しい形式の上に再現することをたのしんだか、
眺めているとわかるような気がする。・・・」


はい。こうして8頁の文がはじまっておりました。ちなみに、
本の始まりのページは、その百人一首かるたのカラー写真。

それはそうと、この本のあとがきの最後に、
昭和51年秋とあります。白洲正子年譜には

1970年(昭和45)60歳銀座の『こうげい』を知人に譲り・・
       61歳 『かくれ里』刊行
       64歳 『近江山河抄』刊行
       65歳 『十一面観音巡礼』
そして
1976年(昭和51)66歳 『私の百人一首』刊行

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自腹を切って。

2020-06-21 | 本棚並べ
「司馬遼太郎が考えたこと」全15巻(新潮社・文庫も)。
私見によりますと、この本には、味わい方があります。

それは、各巻の巻末の作品譜。1巻目の最後には、
「資料提供および『作品譜』作成協力 -- 山野博史」
と小さくあるのでした。

「司馬遼太郎が考えたこと」を読む楽しみの隠し味はここ。
うん。その隠され部分を知ると、さらに楽しみが深まります。

ということで、取り出したのは、
谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書・2008年)の
P188~190で、以下に引用。


「・・新潮社から出ている『司馬遼太郎が考えたこと』・・・
あれの60パーセントは山野博史が自腹を切って発掘した成果です。
ほんとに草の根を分けるようにして、要するに、
司馬さんは書きたかったわけですよ、まだ無名の頃から。
山野さんはあらゆることを考えまして、
司馬さんは産経の京都支局に配属されていました。
そうすると、向かいにお花の未生流の建物があって、
そこが山野さんの特色ですが、ひょっとしたら、それと
関係があったかもしれないというので、そこへ飛び込んでいって、
おたくのお花の師匠が雑誌を出していますが、
その雑誌に司馬さんが書いていませんかと。
無名時代に書いているわけです。それを発掘した。

もっと傑作なのは、司馬さんのお宅は近鉄奈良線の
八戸(やえ)ノ里という駅から歩いて数分のところにありますが、
司馬さんは『街道をゆく』などで全国を回りますが、
全部タクシーを利用しているわけです。
八戸ノ里の駅前にタクシー会社があって、そこへ出かけていって、
おたくの宣伝文かパンフレットに司馬遼太郎さんが
書いていませんかと聞くと、書いているんですね。

それから、司馬さんは弔辞の名人です。
藤沢恒夫(たけお)さんが亡くなったときに、
その弔辞は東京版には出さなかった。
司馬遼太郎のエッセイで産経、読売、朝日に出ている
にもかかわらず、関西版にしか載らずに、東京版には載っていない。
ということは、縮刷版に入っていない。
その新聞を保存している近畿一帯の図書館を全部調べ上げて、
大津の図書館にあるとトコトコ出かけていって、
それを全部点検する。
あれは12巻に1000本のエッセイが入っています。
そのうち600本は全部、山野博史が自腹を切って発掘しました。」


はい。私が「司馬遼太郎が考えたこと」を楽しく読めたのは、
理由があったのだと合点できます(笑)。

ちなみに、司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文芸春秋)
の巻末解説は題して『書くこと大好き人間ここにあり』でした。
この巻末解説も山野博史。

「司馬遼太郎の跫音(あしおと)」(中央公論)巻末の
年譜「司馬遼太郎の72年」も山野博史。

きわめつけは、
山野博史著「発掘司馬遼太郎」(文芸春秋・平成13年)。
とつづくのでした。

うん。わたしは司馬遼太郎の小説も「街道をゆく」も
数冊しか読んでいないのですが、司馬さんのエッセイは
好きです。そのエッセイを探して下さっている山野博史さん。
山野博史さんのおかげで司馬さんのエッセイの醍醐味が
じっくりと味わえた気がします。
もうすっかり内容は忘れてしまっていますが、
その印象は鮮やかに残ってます。
ということで、またパラパラ読み返すための
備忘録がてら記しておきます。


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庭の祠(ほこら)。

2020-06-20 | 地域
司馬遼太郎著「この国のかたち 二」(文芸春秋)を
本棚からだしてくる。
ちなみに、「風塵抄」は、司馬さんが産経新聞に連載し、
「この国のかたち」は、雑誌文藝春秋の巻頭随筆として、
書きつづけられたものでした。

さて、「この国のかたち 二」に
「ポンぺの神社」と題した文があります。
はじまりは、
「周防三田尻(山口県周府市)の人、荒瀬進氏のことである。
・・・・・私が四国の善通寺に行ったとき、そこの国立病院の
名誉院長だったこの人にはじめて会った。
『私の生家の庭に、ポンぺ神社という祠(ほこら)がありまして』
といわれた話は、わすれがたい。
幼少のころ、荒瀬さんは、毎朝庭に出てその祠をおがまされた。
あるとき祖母君に問うと、
『ポンぺ先生をお祀りしてある』という。
オランダ人、ポンぺ・ファン・メールデルフォールドのことである。
ポンぺは、江戸幕府がヨーロッパから正式に招聘した
最初にして最後の医学教官だった。
安政4(1857年)、28歳の若さで長崎に上陸し、・・・
日本の学生に体系的に医学を教授した。
日本で最初の西洋式病院をつくりもした。
滞日わずか5年・・・・・
かれは、ユトレヒト大学で医学を学んだが、
たしか速成コースだったはずである。
・・・べつに大学者というような人ではない。
かれの長崎における偉業は、医学(基礎医学をふくむ)の
各科を一人で教えただけでなく、化学や物理といった
関連課目まで教えたことにある。・・・・・
さらには病院で患者を見、学生にカルテをとらせ、
あわせて実地の診療術も教えた。休息というものが
ほとんどなかったにちがいない。
ポンぺ門人帳を繰ってみると、
   三田尻 荒瀬幾造
とあるのが、荒瀬進氏の祖父君であるかと思える。


・・・・・・惜しくも幾造は、早世した。
ただ、帰国してめとった妻に、ポンぺ先生の人柄と学問が
いかにすばらしかったかということをこまごまと語った。
それだけでなく、ポンぺ先生の恩は忘れられないとして、
庭に一祠をたてて朝夕拝んでいたのである。
 ・・・・・・
その祠にはつぎのような〈神話〉までついている。
『若い未亡人になった祖母が、私が小さいとき、
膝の上に抱いては、くりかえし亡夫からきいたポンぺ先生の
話をしたんです。私にとって、桃太郎や青い鳥のはなしが、
ポンぺ先生でした』
と、荒瀬進氏が語った。
唐突だが、右(注:上)の祠に対する未亡人や
その孫の感情と儀礼こそ、古来、神道とよばれる
ものの一形態ではないか。


   ・・・・・・・・・
民間人である三田尻の若い蘭方医荒瀬幾造の心は、
まことに大らかで無垢というべきだった。
・・・・かれはただポンぺを敬するあまり、
カミとしてまつったのである。古神道の一形態とは、
こんなものだったかもしれない。

むろん、このことは、
なまのポンぺご当人の知るところではなかった。
なま身のポンぺその人はその後、オランダで
牡蠣の養殖に失敗したり、赤十字事業に熱中したりして、
1908年、79歳で没した。
かれは、クリスチャンでもあった。
もし三田尻のことを知れば、目をまるくしたにちがいない。」

はい。途中を端折って、最初と最後とを引用しました。
この短文のなかで、司馬さんは、このことに感じ入って
『胡蝶の夢』という作品を書かれた。とあります。

うん。私は、この短文だけで、もう満腹でした。
それで『胡蝶の夢』はいまだに読んでおりません(笑)。
どなたか、読まれましたか?
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1960年、1968年。

2020-06-19 | 道しるべ
平川祐弘氏の文と、
尾身茂氏の文を並べます。

まず平川祐弘氏の1960年。

「日本論壇を支配した左翼勢力は1960年に安保反対を唱えた。
一時帰国した私は安保騒動を目のあたりにしたが、1950年の
岩波の平和問題談和会の面々が今度は安保改定反対を唱えていても、
もはや同調する気はない。・・・・・・

60年も前から・・私は、論壇の主流から外されてきたが、同世代で
誰が王道を進んだのか、判定はまだ下されていない気がする。」
(2020年Hanada7月号・p357~358)


うん。60年前の判定がまだ下されていない。というのですから、
どうやら判定は、60年経っても下されない。そんなこともあるようです。

ちなみに、平川祐弘氏は1931年(昭和6年)東京生まれ。
つぎ引用の、尾身茂氏は1949年(昭和24年)東京都生まれ。

尾身氏は高校時代をAFSの留学制度を利用してアメリカにゆきます。

「1968年に帰国してみれば・・・日本中が、学園紛争で騒然としていた。
例えば安田講堂が占拠された東京大学は、1969年の入試が中止・・・
その年に私は慶應義塾大学(法学部)に入学した。その・・大学でも
ストライキに入った。反権力、反体制が声高に叫ばれる中、
『商社マンや外交官志望』などと口にすれば、『人民の敵』と
言われかねない雰囲気であった。・・・・・・
徐々に大学に通う回数が減り、通学途中で下車して、ある書店に
入り浸り・・・本を漁る日々が多くなっていた。そんなある日、
件の書店でぶらぶらしていると、ふと『わが歩みし精神医学の道』
(内村祐介著)という1冊が目にとまった。医学など夢想だにしなかった
私だったが・・医学という言葉が何か人間的な響きを持ち、
自分の悩みを一挙に解決してくれる救世主に思えた。・・・・・
勉強を始めて数か月後、自治医科大学という地域医療に従事する
医師を育てる大学が創設され、翌春1期生を募集することを知った。
『地域医療』という言葉の響きは、悩む心には魅力的だった。
しかも学費は無料だという。・・・・・

二度目の転機は30代後半に訪れた、卒業後に都立病院で研修した後、
伊豆諸島の離島での診療をはじめとする自治医科大学卒業生としての
就業義務も終わりにさしかかり、人生の後半の生き方を考える時期に来ていた。
・・・・・」(P2~3・尾身茂著「WHOをゆく」医学書院)


はい。1960年代の平川祐弘氏と、1668年代の尾身茂氏を引用しました。

ちなみに、平川氏の文の
「同世代で誰が王道を進んだのか、判定はまだ下されていない気がする」
という文のあとには、数行後にこんな箇所がありました。

「言動においてはきわめて反体制的、
行動においては保守保身的という
日本の左翼知識人のずるさは私も感じた。
しかし人間はそんなものだ、という諦観もあった。」

このあとに、平川氏は1968年の学生運動を語っておりました。

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チリも積もれば京都本。

2020-06-18 | 京都
柏井壽著「京都のツボ」(集英社・2016年)。
これ、古本で200円。なんてことで、
だんだんと、京都本が本棚にたまってゆきます。
いつもなら、途中でたいてい飽きちゃったり、
興味がそれてゆくのがおきまりの私ですが、
ここまできて、その心配はなさそうです(笑)。

「京都というところは本当に不思議な街です。
・・・・・
争いや火難によって、京の街は焼け落ち、
そしてまた人の手によって再建される。
その繰り返しによってできたのが、今の京都です。
したがって平安京の遺構はほとんど残されていません。
それでも人は京の街に雅(みやび)な平安を見出すのです。

今そこにあるものだけを見ていたのでは、
京都という街を理解できませんし、
旅の愉しみも得られません。京都旅でもっとも
大切なのは想像力です。心のなかのタイムスリップ
と言い換えてもいいかもしれません。
その時代時代に思いを馳せることで、
京都がくっきりと浮んで見えてくるのです。」
(「京のツボ」p68~69)

古本の安い京都本でもって、弱火の想像力へと、
せっせと、薪(まき)をくべているような感じです。
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酒屋へ三里、豆腐屋へ二里。

2020-06-17 | 京都
安岡章太郎著「酒屋へ三里、豆腐屋へ二里」(福武書店・1990年)。
未読本を、この機会にひらく。
函付の本です。
「めまいを伴うメニュエル氏病や胆石痛から心筋梗塞を併発し、
半年に及んだ入院生活と予後の日々と・・・・」
このように帯に書かれております。
装丁は、田村義也。
表紙絵は、与謝野蕪村の「夜色楼台雪万家」より。
函も表紙もりっぱです。それだけでもう満足感があります。
けれども、今回は、ひらいてゆきます(笑)。

目次は全14題。雑誌に掲載されたものをまとめてあります。
目次で、気になる箇所のみパラパラ読み。
1番目「かるたの教訓」。
4番目「下剋上の学問」。
14番目「酒屋へ三里、豆腐屋へ二里」。

1番目に「この1年、私はメニュエル氏病といって
目まひの病気に悩まされた」とあります。
この病気の気になる箇所がありました。

「一番こまったのは本が読めないことだ。
これも最初は理屈っぽい評論のやうなものを読むと
発作が起ってゐたのだが、そのうちにどんなものでも、
新聞であらうが、週刊誌であらうが、字を見てゐると、
たちまち目が廻りだした。また映画もダメだし、テレビもいけない。

・・・・・そこで、イロハがるたのことを憶ひ出したわけだ。戦争中、
空襲警報の出てゐるとき、灯火管制で真暗な部屋の中で私たちは、
よくイロハがるたを『イ』から順番にそらで憶ひ出す遊びをした。」
(p7~11)

はい。連載のはじまりは、このようでした。
ちなみに、1986年1月に連載がはじまり、途中中断して
1989年12月で終っております。最終章の
「酒屋へ三里、豆腐屋へ二里」では、退院して
「最近の私は朝から豆腐ばかり食ってゐる・・」として、
だんだんと回復し、
「私は歩く。夏の暑いさかりは、早朝だけしか歩けなかったが、
秋になってからは朝も昼も、そして気が向けば夕刻、
月の出た頃にも多摩川べりを散歩する。・・・・
いまは自分一人でただただ歩く。」(p198)

はい。この本にも京都が登場しておりました。
石田梅岩です。第4章「下剋上の学問」に出てきます。

「梅岩といふ人は、丹波の山奥の農家の倅で、
十歳頃に京都に出て丁稚奉公から叩き上げで、
二十五、六の頃には呉服屋の手代になった。
その店に二十年ほど勤めてゐる間、朝は同僚より早く起き、
夜は人が寝静まってから読書にはげみ、結婚もせずに
本ばかり読んで暮らしたらしい。・・・・・・
四十二、三の頃に、つとめてゐた呉服屋をやめ、
本格的に学問に取り組んだが、さらに二、三年たって
自分の家に町内の人をあつめて教へはじめた。勿論、
初めの頃は『無学な人間が何を教へるのか』と軽蔑され、
うさん臭げな者にも思はれてゐたが、そのうちだんだん
聴講者があつまるやうになり、五年もたつと自宅では
捌き切れなくなって、錦小路の裏手の大長屋の座敷でも
講座をひらくほどになった。やがて江戸にも、弟子の一人が
進出して塾をひらき、つひに全国的に心学がひろまることに
なったといふーーー。

一体どうしてかういふことが可能であったのか。
要するに、徳川中期には一般庶民の間にも、それだけ
知識欲やら学門欲やらが向上してきたといふことに違ひないが、
その庶民の向学心は何から起ったか? おそらくそれは、
小林秀雄が『本居宣長』の中で言ってゐる、
学問の『下剋上』といふものに違ひない。

つまり、戦国時代を一貫してゐた『下剋上』といふ風潮、
これは単に下の者が上の者をひっくり返すといふだけではない。
たとへば『大言海』には『此語、でもくらしいトモ解スベシ』とあるといふ。
そして、この『でもくらしい』といふ意味での下剋上は、
一介の下民から身を起した秀吉が天下を取って、それで
お仕舞ひになったわけではない。・・・・」(p43~45)

もどって、
第1章『かるたの教訓』のおわりの方に、
土佐藩の馬淵嘉平が語られております。

「幕府では、朱子学以外の学問を弾圧してゐたから、
心学も時代や藩によっては迫害をかうむったやうだ。
・・・土佐藩では馬淵嘉平といふのが、文政年間、
熊本で心学を・・習って、それを土佐に帰って教へた
・・・・後に保守派の巻きかへしにあって投獄され、
獄死をとげてゐる。嘉平の罪状は、
心学講義の疑ひあり、といふことで、そこから私は
『心学』なるものにちょっと気を引かれたが・・・」
(p15)

うん。京都と土佐とが出てくるのでした。
ちなみに、安岡章太郎さんは1920年高知県生まれ。
そして、亡くなったのは2013年。


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「花鳥風月」あだ桜。

2020-06-16 | 詩歌
京都の安土桃山ルネッサンスでの「花鳥風月」を
思っていたら、絵には、言葉がつきもの。という
そんな連想から思い浮かんだのが、
きこ書房(2009年)の斎藤亜加里著
「親から子へ代々語り継がれてきた教訓歌」。
ご自身のプロフィールには年齢が書かれていない(笑)。
亜加里さんは、いまは何歳ぐらいの方なのでしょう?

まずは、これから

明日ありと 思う心の あざ桜
夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは

うん。思い浮かぶのは井伏鱒二『厄除け詩集』の
干武陵の詩を訳した一行でした。
『花発多風雨』これを井伏さんは
「ハナニアラシノタトヘモアルゾ」と訳しました。

もうひとつ思い浮かぶのは、西城八十の『旅の夜風』
その歌詞の一行目は『花も嵐も踏み越えて』とはじまり、
『月の比叡を独り行く』『加茂の河原に秋長けて』などと
歌詞はつづきます。

もどって、教訓歌には頓阿法師の歌
(鎌倉時代から室町時代前期の僧で歌人)。
「20歳ごろ出家して、比叡山や高野山で修行したあと、
京都の金蓮寺に入門する。その後、信州を行脚したり、
西行の跡を廻って東山双林寺や仁和寺に住んだりする。」
(教訓歌のp117)

世の中は かくこそありけり 花盛り
山風吹いて 春雨ぞ降る


はい。花鳥という順で、つぎは鳥。

 ほととぎす 自由自在に 聞く里は
  酒屋へ三里 豆腐屋へ二里

うん。ここは、斎藤亜加里さんの解説が魅力なので
そこから引用してゆきます。
蜀山人(しょくさんじん)の愛弟子・頭光の狂歌。
とあります。亜加里さんは
「この歌はもとは狂歌だが、大変な傑作だと感じる。」(p169)
と指摘されて、いろいろ『ほととぎす』の引用をしておられます。

「おなじみの『夏は来ぬ』という童謡にも
『ほととぎす早も来鳴きて』と謡っている。・・・
夏の到来という季節を感じさせるものである。」

「『甲子夜話(かっしやわ)』には、
『鳴かぬなら殺してしまえ』の織田信長、
『鳴かせてみよう』の豊臣秀吉、
『鳴くまで待とう』の徳川家康と、
各人の性格がほととぎすを通してたとえられている。」

え~と。このくらいにしますか。

もうひとつ引用しておきます。
二宮尊徳の教訓歌で有名なのだそうです。

 この秋は 雨か嵐か 知ねども
 今日の勤めに 田草取るなり

ちなみに、この本は定価1300円+税とあります。
ネットの古本では、送料共で258円でした。
斎藤亜加里さんの「はじめに」がいいので、
そこからも引用したくなります。

「教訓歌は、少なくとも昭和30年、40年代までの日本では、
親から子へ、また教育の現場でも盛んに語られたものである。
したがって、ある程度の世代の人たちは、これらの歌を
何らかのかたちで見聞きしてきたのではないかと思われる。
私も幼い頃から・・・教えられて育った。教えられた、といっても、
・・・生活のなかで、何かにつけて『昔の人はね』『先祖の教えではね』
と言って歌が出てくるのである。・・・・・

・・・・あるときは、
父が『まったく厳しい世の中だねぇ』とタメ息をつく、
すると母が、『世の中は何のヘチマと思えども』と笑う。
すると姉妹で『ブラリとしては暮されもせずー』と
大合唱して大笑いする、という感じであった。

母の十八番(おはこ)がいくつかあった。そのひとつが、
『孝行を したい頃には 親はなし
    孝のしどきは 今とこそ知れ』であった。
『うるさいなあ』と口応えすると、決まってこの言葉が出る。
すると、私たち姉妹は『出ましたっ!』とあきれると、
母は悲しそうな顔をするのが常だった。
そんな両親も、今はこの世にはいない。・・・・・」(p2~3)


はい。斎藤亜加里さんの本の紹介になりました。
それにしても、亜加里さんは何年生まれなのかなあ。






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