和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

きれいな空き地をしつらへて。

2018-04-30 | 詩歌
現代詩のホーム・グラウンド。
というのを思っていたら、
大岡信の詩「こほろぎ降る中で 追悼田村隆一」を
思い浮かべたのでした。
さっそく、本棚から
大岡信詩集「捧げるうた 50篇」(花神社)
を取り出してくる。
その最後にありました。

そのはじまりは

 田村さん 隆一さん
 あんなに熾(さか)んだった猿滑りの花の
 鮮かなくれなゐも 薄れてしまった。
 

ホーム・グラウンドを私が連想した箇所も引用


 頭の中にきれいな空き地をしつらへて
 そこで遊ぶ名人だった隆一さん
 あんたは頭のまんなか 小さいやうで広大な
 空き地にまつすぐ 垂直に
 高い棒を立てて遊んだ芸達者
 
 一人で器用に棒をよぢ てつぺんに達し
 未来を見晴らし 現在に あらためて退屈した
 あんたの酒は有名だつたが
 そんなにたいした酒呑みだつたか 疑はしい
 詩とエッセーで酔わせてくれて 十分だつた

 息が大事だ エッセーが冴えてる時は
 とぼけてぐさりと対象を刺す落語の呼吸
 晴朗な青空が落ちかかるやうな
 爽快な落ちで横隔膜までけいれんさせた
 落ちが落ちず火遁の術で消え去るのもをかしかつた

 田村さん 隆一さん あんたが
 ・・・・・・・・


うん。まだ続くのですが、ここまで(笑)

ホーム・グラウンドというと今日になって

『頭の中にきれいな空き地をしつらへて
 そこで遊ぶ名人だつた隆一さん』

という詩が浮かんだのでした。
けれども、それが暗唱できず。
本棚に頼っているのでした(笑)。

こういうのがスラスラ口にでてくるようなら
楽しいのにね。
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現代詩とお仏壇。

2018-04-29 | 本棚並べ
古本で「谷川徹三対談集」のなかの
「道元『正法眼蔵』の読み方」を読んで、
気になったので、次に
古本で谷川徹三著「人間であること」
(現代日本のエッセイ・毎日新聞社・函入)を購入。

ハイ。どちらも200円でした。
「人間であること」から、拾い読みしたのは
『親鸞と私』『道元』の二つのエッセイ。


読みながら、浮かんできたことを書いておきます。

ひょっとして、現代詩人・谷川俊太郎を把握しようとする
ならば、まずは、父親の谷川徹三を読まなきゃ無理だよね。
ということでした。

「ホーム・グラウンド」という言葉が
丸谷才一の「思考のレッスン」の
レッスン3『思考の準備』に出てきます。

たとえば、丸谷さんは大岡信氏について、
こう指摘しております。

「大岡さんのお父さんは歌人の大岡博ですが、
この方は窪田空穂の弟子でした。
したがって、大岡さんは、もの心ついたときから
窪田空穂の本が家にたくさんあった。
それをごく自然に読んで育ったわけです。
きっと、お父さんが『空穂先生は、空穂先生は』というのを、
小さい頃から聞いていたに違いない。
つまり窪田空穂は、大岡家の家の学のようなものなんですね。
ですから大岡さんは、『アララギ』系統の日本文学史とは
違う理解から、文学の世界に入ったわけです。・・・」
(p148)

この次のページで丸谷さんは、こう指摘しております。

「いままでの日本人のものの考え方は、
個性を中心にして考えて、伝統というものを考えなかった。
だから彼のホーム・グラウンドは何だろうと考えることを
しなかったわけですね。ところが、文化というものは、
それぞれ別のホーム・グラウンドを持っている人々が、
次々に受け渡して行くものなんですね。
そこのところがおもしろい。・・」(p149)

思い浮かんで、
本棚から「ユリイカ」(1973年11月臨時増刊)
「谷川俊太郎による谷川俊太郎の世界」を持ってくる。
その雑誌の後記に、ご自身が書いております。

「三浦雅士さんにそそのかされて、
生れて初めて本格的な雑誌編集を体験した。
私はただ自分の好きなもの、興味のあるもの、
楽しいものをやみくもに寄せ集め、
それをいわばモンタージュしたに過ぎない
・・・私にとっては、それぞれの部分が
有機的にひきあって、ひとつの世界を
つくっているように感じられている・・・」

とあります。
うん。ここには父・谷川徹三は登場しません。
それはそうと、
「後記」の前に、「ギャラリイ」と題して、
写真が並べられていました。
それを紹介してゆきます。

エトルスクの彫刻
シェーカー教徒の室内
コルトの拳銃
スティーグリッツの写真「空の歌」
ミューザ―の紙飛行機
良寛の書(道元)
フェルメールの絵(デルフト風景)
シトロエンの自動車・2CV
サーバーの漫画

この写真の中に
良寛の書がありました。
道元の正法眼蔵にある『愛語』を
良寛が書き写したものです。

谷川徹三は、登場しませんが
この雑誌には道元の文が登場しておりました。

ちなみに、私がこの雑誌を見ていて
あとあとまで、印象に残ったのは
この良寛の書でした。
思えば、他は皆カタカナで
「良寛の書(道元)」がひとつ日本。
どなたでも、注目が集まるかもしれません(笑)。

あっ。そうそう。
この雑誌には長新太さんの漫画もありました。
各詩人の名前を織り込んだ、一コマ漫画が
細かく並べてあります。それも紹介。
一コマ漫画で、どれもおじさんが歩いています。
岡をおじさんが見上げているような図にセリフ。

「ぜったいに大きなおかであると
わたしは信ずるから大岡信さんなのである」

うん。もうひとつ、一コマ漫画のセリフを引用

「わたしの頭はからっぽで
のいばらの木から のりがとれるなんて
とても とんちんかん 一番きれいな
茨木のり子さんにあげようね」

それはそれとして、
つぎの連想。
櫂同人による「櫂連詩」というのも、
この雑誌に載っておりました。

パラパラめくっていたら、
茨木のり子さんの連詩の箇所が
目にとまりましたので紹介

「誰もが手紙を書かなくなった わたしも
ポストにはなまくらな活字ばかりが投入される
久しぶりときめくは木戸のもと 開封されたばかりの沈丁花」

これを見たら、きになって本棚から
「茨木のり子の家」(平凡社)を取り出してくる。
茨木のり子さんは旦那さんを早くに亡くされております。
家には本棚があるのですが、遺影の写真らしきものもある。
う~ん。家の各部屋の写真と平面図をみてもちょっと仏壇が
あるようには見えない。

ちなみに、谷川俊太郎氏の家には仏壇があるか?
というのが次の問題。

現代詩とお仏壇?

う~ん。現代詩人は心の中に墓碑銘を刻むのでしょうか?
すると、ホーム・グラウンドを探すのに手間ヒマかかる。

ですが、谷川俊太郎の詩を知りたかったら、
まず櫂よりはじめよ。じゃなかった「隗(かい)より始めよ」。
谷川俊太郎の、ホーム・グラウンド谷川徹三。
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安倍のせいで慰安婦のウソがばれた朝日新聞の怨念。

2018-04-28 | 短文紹介
現在の国会運営こそ、
語り甲斐のあるテーマはない。

という視点で雑誌を読んでいく愉しみ。

正論6月号が届きました。
巻頭随筆は高山正之氏の「折節の記」。

はじまりは
「なぜか。NHKを含めてテレビには恥ずかしい特性がある。
取材能力がなく、いつも新聞を参考にして番組を作るのが
形なのだ。」(p35)


これを踏まえて、次のページで
こう指摘してゆきます。

「このテレビの特性を踏まえると
モリカケ問題の本質が見えてくる。
森友も加計も根っこにあるのは
朝日新聞の安部憎しの怨念だ。

安倍のせいで慰安婦の嘘がバレ、
社長の首が飛び、
部数減で給料も半分になった。

森友は財務局が詐欺師、籠池を
騙そうとして見破られ、
値切られただけの話だが、
そこにたまたま昭恵夫人の名が出た。

朝日は『ソフトターゲット』を狙った。
執拗に昭恵の名を出した。
テレビがそれを反復し、
野党がテレビに映りたくて増幅した。

加計問題では安倍の友達が学園長
というだけの根拠で
『政治家と役所が組んだ金権政治』
という古典的パターンで疑惑を煽った。

『火サス』レベルだからテレビ連中も喜んだ。
ただ火サスで大事なカネが見えない。
その滑稽さに無能ゆえまだ気づかない。
朝日も馬鹿を踊らせて
政局にできたと満足しているようだが、
ジャーナリストとしては恥ずかしい。」
(p36~37)

はい。『火サス』レベルの
私のようなものは、
この指摘を真摯に受け止められるのでした。


ちなみに、この巻頭随筆は、
5ページのなかに内容がテンコ盛り。
私が引用したのはほんの一部です。
あしからず。
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「今月も朝日と全力で戦います」月刊Hanada。

2018-04-27 | 産経新聞
産経新聞4月26日には
月刊Hanada6月号の全面広告。

真ん中に小さくですが、
「今月も朝日と全力で戦います!!」
とあります。
新聞全面を上下に四等分して
上・四分の一に「総力大特集 朝日新聞は正気か」
と横文字。個別に黒に白抜きの縦文字題名が並びます。
私のお気に入りは蒟蒻問答のセリフが題名となった
「一年をモリ・カケで暮らすバカ野党」。
その隣は飯島勲氏
「安倍総理!今こそ解散を」。
大座談会は櫻井よしこ・門田隆将・石橋文登(産経新聞政治部長)
「ジャーナリズムの歴史的汚点」。
右上には大きく2つの縦文字。
「森友問題が暴き出した歪んだ倒閣運動」
これは、長谷川幸洋氏。
「『常識』か、『狂気』か」は小川榮太郎氏。

まだまだありますが、
朝日新聞にはこの広告は掲載されましたか?

ここが重要な問題点なのですが、
月刊Hanada6月号のp40~41に
「実態を知ってもらいたい」という2頁の文が、
わかりやすい。


「この度、小社刊行・小川榮太郎著
『徹底検証『森友・加計事件』朝日新聞による
戦後最大級の報道犯罪』を・・・・
小社および著者の小川氏は、
この著書について朝日新聞社より
名誉毀損に当るとして五千万円の損害賠償
及び一千万円余の謝罪広告掲載を求める
訴訟を提訴されました。・・・・
本書は、提訴中の書籍広告は掲載しない
という新聞各社の内規により広告を打てなくなり・・」


この問題を、朝日新聞の購読者はご存知ですか?
知りたいところですが、それはそれ。

この2頁の文の中に
朝日新聞・渡部社長による、大阪での挨拶が紹介されてます。

「森友学園をめぐる報道は
日本外国特派員協会の
『報道の自由推進賞』に選ばれました。」
と朝日新聞受賞歴を語ったあとに

朝日新聞側が
「『言論の自由』をはき違え」たと判断して、
出版社と小川榮太郎氏を名誉棄損で提訴し
裁判に持ち込んだと披露しております。
何やら、「言論の自由」は朝日新聞の
威光できまってゆくような口ぶりです。

小出版社に対する
「五千万円」プラス「一千万円」の提訴に踏み切り
しかも、それこそが「言論の自由」だとする朝日新聞側。

朝日新聞による訴訟の対象となり
朝日新聞が「言論の自由をはき違え」たと断定をくだす

小川榮太郎著
「徹底検証『森友・加計事件』
朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」。

この本は、どなたでも、読もうと思えば読めるのですが、
そして、この本を私は読んだのですが、
朝日新聞の言う「『言論の自由』のはき違え」が
単なる難癖でしかないと、読めば分かるのでした。
けれど、読まなければ分からない。それをよいことに、
朝日新聞は、自分の難癖を、訴訟で権威づける。


朝日新聞社長によると
「『言論の自由』をはき違えたもので、
これを許せば、健全な言論を傷つける
ことになると判断しました」訴訟。

当の本である小川榮太郎著
「徹底検証『森友・加計事件』
朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」を読まずに、
朝日新聞側の偏った意見に賛同するか。
それとも、小川榮太郎氏の本を読もうとするか。
朝日新聞の言うところの
「『言論の自由』をはき違えたもので、
これを許せば、健全な言論を傷つけることになる」
という朝日新聞が断言した『言論の自由』は、
御自分で、この本をひらけば確認できます。
その確認の手間を取るかどうか? あるいは、確認を怠って、
マスコミと野党の喧噪の渦に巻き込まれて過ごしますか?
それとも、朝日新聞の紙面上では
この問題はないことになっているらしいので、
そのとおりに、やり過ごしますか?


朝日新聞が受賞の「報道の自由推進賞」と、
小川榮太郎氏の本が示す「言論の自由」と、
両方を比較して判断を下す絶好のチャンス。

「一年をモリカケで暮らす野党」は、
朝日新聞の陣頭指揮で、
二年目もまた、続いてゆくかもしれない。
そんな、ありえなくもない状況の中で、

小川榮太郎著
「徹底検証『森友・加計事件』
朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」。

この題名が、私には輝いて見えます。

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「雪月花」と「政治の悪口」。

2018-04-26 | 産経新聞
深代惇郎のコラム「天声人語」に
「ボルテージ」というコラムがあったのでした。

「書くことがなくて、・・・雪月花にも
感慨がわかないときは、政治の悪口を書く
といってはふがいない話だが、そういう時もある。
本人は、ほかにないから書いているのであって、
そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、
コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、
自分とはいささかちぐはぐの『書生論』になる。
ジャーナリズムには、
そういう気のひけるところがある。」
(昭和48年12月3日)

コラムニスト深代惇郎にしてから
こうだったのですから、われら凡人は
いったいどうなのか?

『書くことがなくて、・・・・
雪月花にも感慨がわかないときは、
政治の悪口を書く
といってはふがいない話だが、
そういう時もある。
 ・・・・
そういう気のひけるところがある。』

よく言ってくれました。
書き残してくれました。
コラムニストが書く
コラムニストの悪口。
はい。自戒を込めていらっしゃる。


ここに、「雪月花」と「政治の悪口」への
腐れ縁のような、つながりが見て取れます。
と、私は言ってみたい衝動にかられます(笑)。

さてっと、
雪月花を取り上げる方に
「政治の悪口」を語る方が多いのかどうか?
それが、次の問題。

「ふがいない話」で「気のひけるところ」。
そこにメスを入れる時代となったのでした。

あるいは、新聞の短いコラムが
「雪月花」と「政治の悪口」とを
ごく自然と結びつけていたのかもしれない。
そういう発想が、成り立つかもしれない。

たまに、コラム「ボルテージ」を読み返し、
今回は、こんなことを思ったわけです(笑)。

ちなみに、
引用した深代惇郎のコラムに
『書生論』とあったのですが、
今日の産経新聞の「正論」欄。
古田博司氏が書いている中に、
「書生」という言葉がありました。
その個所だけを引用することに。


「日本ではもう済んだことだが、
韓国では遅れていて、ロウソク革命で
暴虐な政府を倒した自分たちは『革命政権』だと、
文在寅政権は信じ込んでいる。
本当は学生運動の気分を残した『書生政権』にすぎない。
これは大変な未来の誤算を生むことになるだろう。」

『書生論』は、深代惇郎コラムの言い回しなのですが、
『書生政権』は、古田氏が指摘する現在形の韓国動向。

そういえば、菅直人と「学生運動」とは、切っても切れない関係でした。
授業をボイコットして、デモに参加していたその姿は、現在の
審議拒否をしてプラカードを掲げる野党議員の姿と重なります。

ということで、今日の産経新聞
「阿比留瑠比の極言御免」から、
最後の箇所だけを引用。

「インターネット上では、
野党議員は『簡単なお仕事』だと揶揄されている。
いろいろなバージョンがあるが、例えばこんなふうだ。
『首相らの答弁や主張にヤジを飛ばしたり、
反対したりするだけの簡単なお仕事です』
『報道されたものを国会で読むだけの簡単なお仕事です』
『「疑惑は深まった」と繰り返すだけの簡単なお仕事です』
・・・・」

本当は、今日の「阿比留瑠比の極言御免」の全文を
読んでいただければ、御納得していただけると思います。
けれど、ここまで、読んでいただいて感謝しなくちゃ。



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そこで唐突に思い出すのは。

2018-04-25 | テレビ
丸谷才一についてで、
瀬戸川猛資著「無想の研究」(早川書房)にある
「太古の祭り」を読むと、
丸谷才一の「忠臣蔵とは何か」をとりあげながら、
なぜか、最後の方に、こんな箇所がありました。

「そこで唐突に思い出すのは、
フランク・キャプラ監督のアメリカ映画
『素晴らしき哉、人生!』(’46)である。」(p186)

その箇所を読んでから、いつか
見直したいと思っておりました(笑)。
今日それを最後まで観る。家のテレビで。

夜は、
録画してあった。NHKの
プロフェッショナル仕事の流儀
4月23日の
「注文殺到!3000人待ち
北海道の小さな本屋
運命の1冊を選び抜く」を
見る。

はい。そんな一日でした。
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深代惇郎の「天声人語」。

2018-04-24 | 本棚並べ
こうしてブログを綴っていると、書くことがないと、
深代惇郎の『天声人語』を思い浮かべます(笑)。

と思って本棚から取りだすのですが、
私の本棚には「深代惇郎の天声人語」の隣に
坪内祐三著「考える人」(新潮社)が並んでいる。

まずは、掃き清めるように、
「考える人」のこの箇所から引用。

「今の中学、高校の国語(現代国語)の授業方針は
どうなっているのか知りませんが、当時、私の中学、
高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』
を読むことが奨励されていました。例えば夏休みには、
毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の要約
が課題(宿題ではなく課題だったと思います)で
出されました。・・・・
それがたまたま深代惇郎の担当期間に当たっていたの
ですから・・・それはとても幸福なことでした。

しかし、その結果『天声人語』イコール深代惇郎レベル
の文章という印象が体に深くしみついてしまったのは
不幸なことでした。

それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。」
(p125)


ちなみに、坪内祐三氏は1958年東京生まれでした。
はい。この前後の年代の方々が、学校で『天声人語』を
教えられて惚れてしまったのかもしれません。
いまでも、その幸福が続いている年齢層です。
ですから、「『天声人語』はろくなものじゃない。」
というのは、こういうブログを書く際の前口上にしないと、
つぎには、進めないわけです。


こうしてから、
あらためて、「深代惇郎の天声人語」をひらく。
お目当ては「ボルテージ」と題されたコラム。

それはこうはじまります。

「毎日、コラムを書くていると、
きょうは思うような材料が見当たらない
という日もある。」

そして、戒めのようにして
コラムの最後を読む。

「書くことがなくて、・・・雪月花にも
感慨がわかないときは、政治の悪口を書く
といってはふがいない話だが、そういう時もある。
本人は、ほかにないから書いているのであって、
そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、
コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、
自分とはいささかちぐはぐの『書生論』になる。
ジャーナリズムには、
そういう気のひけるところがある。」
(昭和48年12月3日)


朝日新聞の「ボルテージ」。
その現在は?
SNSの炎上なんて、小さい小さい。
朝日新聞は毎日毎日六百万部。
昨日のこのブログで引用した箇所を
また繰り返せば

「そんなふうにして新聞が『世論』をつくるのである。
世論を誘導するのである。新聞が怪(け)しからぬ、
といえば読者大衆も怪しからぬ、と同調する。」

うん。朝日の『ボルテージ』を、
どなたが止めるのか。止められるのか。
というところまで来ているのだと思います。
はい。「新聞の悪口」を書きました。





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朝日が怪(け)しからぬといえば、同調するのだ読者は。

2018-04-23 | 朝日新聞
加藤秀俊著「社会学」(中公新書)の
第三章「コミュニケーション ことばの力」に
新聞をとりあげた箇所があるので引用。


「だが、新聞はたんなる世間話の拡散装置というだけではない。
なぜなら世の中で起きている雑事のなかのほんの一部分だけを
拡散するのだから、当然、取捨選択する。価値判断をする。
したがって必然的に『党派性』を背負うことになる。

そんなわけで、新聞というものは多かれすくなかれ
政治的メディアという側面をもっていた、といってもいい。
じっさい西洋でも日本でも新聞はもともと『政論』の場であった。
政府の立場を擁護する『御用新聞』もあったし、反対に
ひたすら権力批判や政府高官の醜聞に徹する『赤新聞』もあった。
現在の日本の新聞は『不偏不党』を旗印にしているが、
そんなことはない。とりわけ『進歩的』新聞は慢性的に
欺瞞をくりかえしている。信頼性のない『証言』から書いた記事が、
とりかえしのつかない国際的反日運動の原因になったりしたこともある。
新聞はウソをつかない、というが、
全面的なインチキ記事はいくらでもあった。
じぶんで自然環境に落書きして写真を撮り
『心ない観光客のしわざ』と報道した新聞がある。
潜伏逃走中の思想犯に会見した、という完全ウソで固めた記事が
社会面のトップをかざったこともある。
あとで謝罪したが、それで許されるものではあるまい。」
(p79~80)

うん。きちんと『朝日新聞』と新聞社名が記載されていないので、
一読、読み流してしまいそうな箇所です。

はい。読者の読解力をためされる箇所です。

その後には、『ニューヨーク・モーニング・ジャーナル』の
捏造記事への具体的な言及をして、
そのあとに加藤秀俊氏はこう記しております。


「なぜウソをつくのか。
戦争になれば新聞の発行部数が伸びるからである。
そんなふうにして新聞が『世論』をつくるのである。
世論を誘導するのである。新聞が怪(け)しからぬ、
といえば読者大衆も怪しからぬ、と同調する。
新聞がある人物を悪人ときめつければ
人民ことごとく、その人物を糾弾する。
新聞は政治を、経済を、そして世評を
変化させるだけの力をもつようになったのだ。
わたしたちがもっているさまざまな『意見』は
一見したところ自発的・自主的にみえるが、
じつはそのほとんどが新聞記事の関数だとみてよい。
・・・『ニューヨーク・タイムズ』『人民日報』、
その他世界の有名新聞を世間は依然としてタヨリにしている。」
(p80~81)



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『の』がない『社会学』。

2018-04-22 | 本棚並べ
加藤秀俊氏の新刊「社会学」(中公新書)が発売。
さっそく購入。

はい。第一章を読んで私は満腹。
お腹を減らしてから、次の章へ。

それまでの間に、第一章で紹介されている本を
ネット検索で古本注文。
とりあえず、第一章から引用しておきます。

「『社会』という新語はなかなか
日常用語としてなじまない。やっぱり
『世間』のほうが落ち着く。
『はなしことば』では『せけん』
というのがふつうで、めったに
『しゃかい』などとはいわない。
いまでも『社会』という漢字は
『文字ことば』の世界のものであって、
日常会話のものではない。」

このあとに山本夏彦氏の言葉を引用しているので、
そちらも、孫引きしておきます(笑)。

「昭和平成のこんにち、
山本夏彦さんなどもおなじ見解をおもちであった。
いわく、
【私はなるべく『世間』と言って
『社会』とは言わない。・・・・
『社会』は明治以来用いられ出した言葉で、
『世間』のほうが古い。
世間しらず、世間てい、世間見ず、世間並、世間話、
世間晴れてと用いられるが、
社会しらず、社会ていなどとは用いられない。
用いられるには五百年かかるだろう。】」(p7)


はい。私など、この第一章の内容だけでも、
飲み込むだけで精一杯。
咀嚼するまでには、まだまだ時間がかかります。


あとがきには、
こんな箇所がありました。
気になるので引用。

「そのわたしが、こともあろうに
『社会学』担当の教授として
あちこちの大学に勤務してしまったのである。
・・講義を文字にした著書も
『東京の社会学』『習俗の社会学』『余暇の社会学』など、
ことごとく『の』のついた個別的な表題のものばかり。
ゼミでは学生たちにあちこちの村に二週間住み込んで、
七十歳以上の年寄りのはなしをきいてそれぞれの『伝記』を
綴ることだけを課題とした。あの本を読みなさいといった
読書指導はいっさいしなかった。・・・」(p202)

その加藤秀俊氏は今年88歳になり、
豪勢にも、『の』のつかない題名で、
「社会学」と題した新書を出された。


ちなみに、各章の最後には
【さらに読むといい本】が指摘され、
そこでは著者の短めのコメントもついて、
読書指南本としてありがたく、
新書に附録がついてきたようで得した気分(笑)。
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およそすべてのメディアに。

2018-04-21 | 短文紹介

今こそ、冷静な分析で、
的確な指針がもとめられている時はないと、
どなたも思っていると、そう私は信じます。


それは、どなたかが書かれるべきであり、
たとえ、それが読まれないとしても、
読まれなければ、読まれるように、
その橋渡しをかってでる人がいてもいい。

はい、その橋渡しとなれればと思いました。
「新潮45」の5月号に
櫻井よしこ氏が書いており、その文を紹介します。

7頁ほどの簡潔な文です。

その文の題名は、
「問題の本質を直視しない 
 いつわりの『安倍潰し国会』」。

まず文の最後から紹介してゆきます。
櫻井氏の文章の最後は、こうでした。

「旧民主党政権下では、
3・11の被害の中で、
緊急災害対策本部など
関連15の会議の内10の会議で
議事録さえも作成されていなかった。
文書管理以前の問題として、
政府としての決定のプロセスを
記録に残すことをしていなかったのである。
・・・」(p26)

その少し前には、
櫻井氏はこう指摘されておりました。

「大事なことは、議論の途中での発言や、
ちょっとした言葉の問題などをあげつらって
非生産的な議論に陥らないことだ。
些末な議論に迷い込めば、
問題の本質を見逃してしまう。」


ひょっとすると、
野党とマスコミだけでは、
これからも、ずっと災害がおこれば、
「緊急災害対策本部での議事録」
さえ作成できずに
「問題の本質を見逃した」
対策を施行する恐れがあるのだと、
思えば背筋が寒くなる。

何か、天災が起こった際には、
そうなることを、肝に銘じて
天災と人災とをもひっくるめて
ゆかなければいけないのだと、
あらためて想起させてくれます。


さてっと、櫻井氏の本文は、

 防衛省の『日報隠し』問題。
 財務省の『公文書改竄』問題。
 文科省の加計学園獣医学部新設を巡る
 『行政を歪めた』問題。

この3つの問題のそれぞれの問題点を
ていねいに、ひも解いてゆきます。

ここでは、長くなるので
3番目の問題を紹介することに。
この3番目の問題は、これから十分予測できる
「鳥インフルエンザ」「口蹄疫」への
前哨戦にあたるものです。
その「問題の本質」はどこにあったのか?



「・・・他方、加計学園問題はわが国の行政の
根本に巣くう岩盤規制を打ち破ろうとした政治と、
守ろうとした官僚が激しく戦った問題に他ならない。

数ある岩盤規制の中でも、獣医学部新設の規制は
とりわけ異様である。
文科省と日本獣医師会が連携して、52年間、
獣医学部の新設を阻止し続けた。
通常の学部の場合、文科省は新設計画の申請を受けて
審査をするが、獣医学部の新規参入計画の場合は
最初から審査に入らないのである。
・・・こんな規制は他にはない。
もうひとつ異様なことは、
既得権益の塊のようなこの岩盤規制が、
法律ではなく文科省の告示で決められていることだ。
告示は、国会での審議も閣議決定もなしに、
文科省が勝手に決めたものである。
申請を全く受けつけて貰えない『告示』の壁・・・

文科省で官房長を務め、愛媛県知事を
三期務めた加戸守行氏が語った。

『私の知事時代には鳥インフルエンザが、
また平成22年には宮崎県で口蹄疫が発生しました。
四国には獣医学部のある大学は一校もありません。
農家も役所もどれほど獣医不足が恨めしいと思ったことか。
そこで四国四県の知事が連名で早期の獣医学部新設を
要望したのです。しかし文部科学省は酷い対応でした。
我々地元の声を無視しました』

02年、小泉純一郎政権のときに規制改革を目指し
構造改革特区が制度設計された。それでも
加戸知事、今治市、加計学園の申請は却下され続けた。
第2次安倍政権ができても状況は変わらず、
今治市や加計学園の申請は安倍政権の下でも
5回も却下されている。

変化は安倍政権が構造改革特区のかわりに
国家戦略特区制度を設け、諮問会議に
民間の議員らが参画したときに起きた。
・・加計学園を含む2つの大学の申請が審査された。
早い時期から準備をしていた加計学園の申請が
認められたのは自然な成り行きだったが、
文科省及び獣医師会は抵抗した。

前文科事務次官で岩盤規制を守り、
・・天下り斡旋を続けていた前川喜平氏は
安倍首相が不当に『行政を歪めた』と主張し続けた。

・・加戸氏が
『岩盤規制死守に走ったのが文科省と獣医師会、
彼らが行政を歪めてきたのであり、国家戦略特区制度
によって歪められていた行政が正されたのです』
と証言しても
およそすべてのメディアに、また野党からも無視された。

・・・とりわけ民主党は政権の座についたとき、
高らかに政治主導の旗を掲げた。その象徴的な決定が
事務次官会議の廃止だった。
官僚ではなく政治家が決定するという決意で、官僚を退けた。
その流れを汲む人々がいま、安倍一強だ、政治の横暴だと論難する
・・・」

うん。引用はこれくらいにして、
これが、櫻井氏の文への、呼び水となることを願って。




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意見広告『国会よ、』

2018-04-20 | 産経新聞
産経新聞4月20日に「意見広告」が掲載されておりました。

さて、こういうのは
朝日新聞には掲載されるのですか?
私は、朝日新聞をとっていないので、
私自身は、分からない。
けれども、朝日新聞購読者で
私の知る、一人の方には、読んでもらいたい。

そう思いながら「意見広告」の、
最初と最後とを引用してみます。

「一体いつまで続けるつもりなのか。
多くの野党、メディアはコリカケや自衛隊日報の
『疑惑』追及に明け暮れ、事の軽重を完全に見失っている。

憲法論議、北朝鮮問題、長期の戦略的思考を要する日中関係、
経済摩擦も加わり複雑さを増す日米関係など国家的課題が
置き去りにされている。・・・・」

う~ん。短い意見広告なので、
中ほども引用します。

「大統領制のアメリカでは、
法案も予算も基本的に議員同士の論戦で帰趨が決まり、
大統領に議会出席の義務はない。
他方、議院内閣制の日本では、
首相は国会質疑に拘束され、
その分内外の重大事案に割く時間は削られる。
本来、大統領制以上に野党議員の
自覚が求められるのが議院内閣制である。
にもかかわらず、野党は論点がずれた
『疑惑』を持ち出し続ける。

 森友学園は、財務省の問題だ。
 加計学園は、岩盤規制打破の問題だ。
 自衛隊の日報は、公文書管理の問題だ。

これらの問題を国会は連日、
安倍晋三首相の介入疑惑、あるいは
隠蔽工作疑惑に結びつけ、・・・・

その目的は、安倍首相の掲げる
憲法改正阻止にあるのではないか。」


そのあとに、結びの文言がつづきます。


「わが国がいま外交・安全保障で
身動きがとれなくなっているのは、
現実に対応できなくなった憲法を正そうとせず、
常識から外れた議論に終始する政治の無責任さに原因がある。

焦眉の急は、憲法改正をはじめとする
国政課題に取り組むことだ。

国会よ、正気を取り戻せ。」


この文言に反対するにせよ
この文言に賛成するにせよ
そんなことよりも、
この文言を、読んで、
あらためて、『事の軽重』を
ご自身で判断していただきたく、
引用させてもらいました。


注】 『コリカケ』は『モリカケ』です。

引用中「コリカケ」は「モリカケ」の打ち間違い
でしたが、私には「コリ」の方が軽さがしっくり。
なので、そのままにしておきます。

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朝日新聞。第1日第1話。

2018-04-19 | 古典
丸谷才一著「思考のレッスン」を
読み返していると、今回は
「デカメロン」を読んでみたくなりました。

まずは、「思考のレッスン」のレッスン2に
その引用箇所がでてきます。

質問者が、バフチンを取り上げると、
丸谷氏が、答えます。

「僕は好きですね。せっせと原稿を書いて、
本にする論文を溜めているんだけど、
タバコを巻く紙がなくなると、その論文で
タバコを巻いて吸ってしまう(笑)。
死ぬときには、目が見えないから、
『僕が好きな話を読んでくれ』と言って、
ボッカチオの『デカメロン』の一話を
朗読してもらうんだけど、
それがたいへんなペテン師の話なんですね。
このペテン師は死を前に神父さんに向って、
いかに自分が立派な人間であったか、
徳行を積んだかという大嘘を告白する。
それが伝わりに伝わって、
死後、聖者としてみんなから尊敬される
という話なんだよ。・・・」(p89~90)


はい。バフチンは知らないけれど(笑)、
デカメロンなら平川祐弘訳で文庫本もある。
たまたま単行本を古本で買ってあったので、
さっそく、第一日第一話だけを読むことに。

この第一日第一話の主人公はというと、

「どんな男か。彼は代書人である。・・
要するに人を騙すのが好きで好きでたまらぬ男で、
偽の証書を作るのなら只でも仕事をした。・・
頼まれようが、頼まれまいが、喜んで偽証した。
当時のフランスでは誓言(せいごん)はたいへん
重きをなしたが・・・宣誓しても平気で嘘をつく。
名誉を誓って口述するよう求められた法廷でも
平気で嘘をつく。・・・」

はい。ここからの記述が、どんどんと並べられてゆきます。
モリカケ問題で一年費やすどころの騒ぎではありません。
その主人公の死期が近づくと、まわりの者が話し合います、
「きちんと懺悔はすまい。そうすれば、どこの教会も
こいつの亡骸を引取って墓にきちんと埋めてはくれまい」。
それを聞いた主人公は、
「私はいままで神様にさんざ悪態をついてきた。
だから死ぬ一時間前にもう一度悪さをしたところで、
もはやそれ以上悪くも良くもなりますまい。」
こういって、しっかりした坊様を連れて来るよう頼みます。
そうして、懺悔でも例のごとく偽証を繰り返します、
あろうことか、坊様は、その懺悔をことごとく信じる。


うん。朝日新聞の記事をことごとに信じる購読者。
というイメージを私は思い浮かべます。
まさか、懺悔で、嘘をつくとは思いもせず。
まさか、新聞でもって、嘘をつくとは
日本人の大多数は思いもしないことでした。

この第一日第一話の登場人物が
亡くなります。その後について、デカメロンでは語られます。

「懺悔を聴聞した尊師は・・僧院の院長と相談した。
そして鐘を鳴らさせて寺の修道士をみな講堂に集めた。
そして一同に向かい、自分が懺悔を聴聞した事から判断すると
氏は聖人さまであった・・・それだから修道士たちはみな
最大の敬意と信心をこめて・・氏の御遺骸を受取らねばならない、
と説得した。こうしたことについて修道院長もお人好しの修道士たちも
ごもっともと同意した。それで、一同揃って・・盛大で厳粛な通夜をした。」

うん。つづきも大切ですが、これだけ引用すればよいでしょう。

これを、現代に例をとるならば、
「吉田清治」が分かりやすいでしょうか。

「1982年9月2日、朝日新聞大阪版が
『済州島で韓国人女性を強制連行した』という
吉田清治を取りあげる。
吉田は83年7月に『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』(三一書房)
を出版。同年12月に、天安市に私費で謝罪碑を建てるために訪韓し、
土下座した。92年に秦郁彦が済州島を調査、吉田の『体験談』が
嘘であることを突き止め、吉田本人も虚偽を認めた。
だが、朝日はその後も吉田の証言を取り上げ続けていた。

1991年8月11日と12月25日に、朝日新聞大阪社会部記者(当時)の
植村隆が、元慰安婦・金学順の記事を掲載。
慰安婦と女子勤労挺身隊を混同しており、
2014年12月23日に朝日新聞社は
『この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません』
『誤りとして、おわびして訂正します』と謝罪記事を掲載した。」

(Hanadaセレクション『財務省「文書改竄」報道と朝日新聞誤報
・虚報全史』グラビア特集・目で見る朝日新聞誤報史年表p86)


昨日の当ブログの引用を、また繰り返します。
小川榮太郎氏の座談でしめくくりの語りです。


「『嘘をついて人を騙す』という存在は、
敵役としても存在すべきではない。
単なる社会の迷惑に過ぎない。
朝日新聞の論調が悪いと言っているのではなく、
嘘つきが毎日、六百万部の新聞を売って
平気な顔をしているーーー
社会でそんなことが許されていいわけがない。
『朝日新聞批判』というのはつまるところ、
『嘘をついて人を騙す新聞があってはならない』
と言っているまでのことなのです。」



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嘘をついて人を騙す新聞があってはならない。

2018-04-18 | 地域
月刊Hanadaセレクションが発売になりました。
グラビア特集「目で見る朝日新聞誤報史年表」が
ビジュアルとして分かりやすく、コメントも適切。

それはそうと、「座談会」(p24~p41)を
私はここでは、紹介できれば満足。

司会    須田慎一郎
パネリスト 阿比留瑠比
      小川榮太郎
      門田 隆将
      花田 紀凱


阿比留さんは、まずこう指摘します。

「実は十年前の第一次安倍政権の時もそうだったんです。
当時は執権が始まるや否や、『安倍叩き』が始まり、
第一次安倍内閣が発足した翌日の朝日新聞の見出しは
『学級会内閣』でした。新しくできた内閣をいきなり
『学級会』と茶化す見出しをつけたんです。」(p25)

うん。もう忘れておりました。
あれ以来だったんですね。「安倍叩き」は。

小見出しに『もはや「誹謗中傷」』(p26)とある
箇所では、まず須田さんが

「一部新聞などメディアに激しく批判されたら、
これまでだったら普通の政権は倒れていましたよね。
しかし安倍さんは倒れない。
だからバッシングも過剰になっていく。」


小川榮太郎氏の本を朝日新聞が訴えた件は、
朝日新聞購読者には見えづらいでしょうから、
丁寧に引用。


須田】 ・・・メディアが同じメディアを訴え、
さらに個人を訴えるという話は聞いたことがない。
・・・通常、メディア同士の争いにおいては
『言論には言論で』応じるのが一般的ですし、
メディア自身もそういってきたはずです。

門田】 朝日の提訴は、まさに典型的な
スラップ訴訟です。スラップ訴訟とは、
裁判によらなくても名誉回復ができる力のある大企業が
フリーのジャーナリストやライターなどを訴え、
自分を批判する論調を書く執筆者を威嚇し、
言論を封じるために起こす裁判のこと。・・・
(p27)


 うん。うん。メディアの横並び報道は
 朝日新聞のスラップ訴訟を恐れての
 ただ単にそれだけのことなのかもしれない。
 私には、そう思えてくるのですが、
 そう思えてくる人がいないことの不思議。
 私の意見は、そのくらいにして、
 次を引用してみます。


小川】そもそも裁判というのは、
不名誉なことを書き立られても釈明もできない、
名誉回復も難しいという人が、司法に判断を
仰ごうと言って裁判所に訴えるんです。
いわば弱者が、その手段しか残されていないから
と法的手段に訴える。
しかし朝日新聞は、私とは比較にならない
発信力を持っている。社会的信用も持っている。
世界的にも知られたクオリティペーパーなんですよ。
・・・・

門田】朝日新聞がやっているのはスラップ訴訟、
そのものです。裁判に訴えなくても反論できる
大企業や大新聞が一個人を訴え、
言論を委縮させる『恫喝的訴訟』です。(p33)

う~ん。
まだまだ、引用がたりないのですが、
それはそれ、あとは雑誌を買って
座談会の箇所を読んでいただくことにして(笑)
ここでは、
座談会の最後の小川さんのコメントを引用
しておくことに。


小川】 「嘘をついて人を騙す」という存在は・・
単なる社会の迷惑に過ぎない。朝日新聞・・
嘘つきが毎日、六百万部の新聞を売って
平気な顔をしている
社会でそんなことが許されていいわけがない。
『朝日新聞批判』というのはつまるところ、
『嘘をついて人を騙す新聞があってはならない』
と言っているまでのことなのです。
(p41)


はい。月刊Hanadaセレクション
『財務省「文書改竄」報道と朝日新聞誤報・虚報全史』
は、書店にいけば立ち読みもできます。
ぜひ、グラビア特集
「目で見る朝日新聞誤報史年表」だけでも一読の価値あり。
その年表のコメントを立ち読みするだけで充分。





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光陰は矢よりすみやかなり。

2018-04-17 | 道しるべ


正法眼蔵の現代語訳の文庫を買ったは
よいものの、いまだ読み進めずに
脇道から、それてばかりで、
本文を読み進めてはおりません。
気持をいれかえて、
立ち戻ることにします。

さてっと、水野弥穂子訳「正法眼蔵随聞記」(ちくま学芸文庫)
に、学道という箇所がありました。

「学道の縁もまたかくのごとし。・・・・
古人云ク、『光陰虚シくわたる事なかれ。』ト。
今問フ、時光はをしむによりてとどまるか、
をしめどもとどまらざるか。
また問フ、時光虚シクわたらず、
人虚シく渡るカ。
時光をいたづらに過ゴす事なく
学道せよと云フなり。・・・」(p285)


正法眼蔵はひらいてないので、
ここでは、
曹洞宗のお題目本「修証義」から
「光陰」が出てくる箇所。

「光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、
身命は露よりも脆し・・・」

もう一箇所。

「命は光陰に移されて暫くも停(とど)め難し、
紅顔いずくえか去りにし、
尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし」


あらためて「正法眼蔵」を
読みはじめます。

うん。そういえば、
「修証義」のCDを買ったのに、
いまだ聞いておりませんでした。

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「歳月、矢のごとし」。

2018-04-16 | 道しるべ
丸谷才一著「思考のレッスン」(文藝春秋・単行本)。
その、レッスン3は「思考の準備」となっております。
そのレッスン3の最後のページに
こんな言葉がありました。

「そういうふうに生活と一体になっている古典、
それが民衆のホーム・グラウンドであり、
それが伝統というものだと僕は思うんですね。

イギリス人が、なにかと言えば
シェークスピアでものを考えるように、
古典や伝統をホーム・グラウンドにして、
文明は成立していると思うんです。
 

 ―― そういう意味では、いまの日本人にとっての
   ホーム・グラウンドに当たるものは、
   なかなか思い浮かばないですね。


むずかしいですねえ。もちろんあるけれど、
その中にいる僕たちには見えないんでしょう。
混沌としているから。
百年くらい後の人たちにははっきり見えるはずです。」
(p160)


ははあ。今まで気づかなかったのが不思議ですが、
学校では、宗教を見えないこととしてカットして
教育しているわけです。
はい。宗教は見ないでねといわれて、
それとは、違う方向ばかり見て暮らしていたような気がします。
ですけれど、家では、年を重ねると
法事があったり、両親が亡くなったりと
つづいてゆくわけです。

ということで、私には仏教が視界にはいって
くる年齢となりました。
学校教育からは、言葉でタッチできなかった
空気みたいな存在だったような気がします。


もどって、「思考のレッスン」。
その、レッスン5は「考えるコツ」。
その「考えるコツ」での、丸谷さんの最後は
こう語っておりました。


「もうそんなになるか、歳月、矢のごとし(笑)。
いまにして思うと、あれはつまり、
日本とは何かという謎の一つのあらわれでしたね。
そして、日本とは何かという謎は、結局のところ、
自分とは何かという謎につながるんですよ。」
(p233)


この「歳月、矢のごとし」というフレーズに
私としては、仏教を感じるこの頃です(笑)。
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