和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

本探し。

2009-11-30 | 短文紹介
外山滋比古著「ことわざの論理」をめくっていたら、

「いまから五十年ほど前に、アメリカの雑誌で偶然に【セレンディピティ(serendipity)】ということばを覚えた。いまかりに、ひとりの科学者が、Aというテーマで新しい研究をしているとする。目指すAについての結果はなかなか出ないが、あるところで、思いもかけないXという事実を発見したとする。このXのことをセレンディピティの発見という。
昔セイロン(いまのスリランカ)に三人の王子がいた。さがしものをしているとき、いつもきまって、さがしているのではない掘り出しものをする。そういう名人だったという童話がイギリスにあった。・・・・」(p28)

これを読み齧って、そういえば、
以前に、その童話の翻訳本が出て、書評が好評だったので、つい買ってあったのを思い出しました。むろん読んでない(笑)。それがどこにあったのか、探していると見あたらない。でも、そうして何冊か探していた見あたらない本というのはあるものですね。丁寧に探していると、以前探していた本がでてきたりする。お目当ての本が見あたらずに、違う探し物が出てきたりする。う~ん。これがセレンディピティなのかと苦笑い。

ちなみに、私は本棚が少ないので、段ボール箱に本をしまっております。コンクリーの床にそれを積んである。家の中にはおけないなあ。本自体はそんなに多くはないのです、整理が何せ乱雑なので、その段ボール箱をひらくまでに時間がかかる。う~ん。腰にきたりします。きちんと本棚に整頓されていればよいのに、そういうわけにもいかない。まあ、それでセレンディピティの童話がしばらく見つからないでおりました。

ある一冊を探していると、見つからないとイライラしますね(笑)。
滅入ってくる。というほうが正確かなあ。
ところが、何冊か他の本が出てきたりする。
このとき、セレンディピティの発見とたとえられるかどうか。
これからは、セレンディピティの発見をおまじないにします。
そうそう、「思考の整理学」に、気になる箇所がありました。


「論文を書こうとしている学生に言うことにしている。
『テーマはひとつでは多すぎる。すくなくとも、
二つ、できれば、三つもって、スタートしてほしい』。
きいた方では、なぜ、ひとつでは『多すぎる』のかぴんと来ないらしいが、そんなことはわかるときになれば、わかる。わからぬときにいくら説明しても無駄である。」(p43)


ところで、数日して、セレンディピティの童話はみつかりました。
それで、ここに安心しながら、書き込んでいるわけです。
でもね、まだ読んでないのですけれど(笑)。
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急がば。

2009-11-29 | 短文紹介
外山滋比古著「思考の整理学」(ちくま文庫)を読んで、つぎに
外山滋比古著「ことわざの論理」(ちくま学芸文庫)を読みました。

さて、「ことわざの論理」の中で、「思考の整理学」と近い関係にあるのは
ここじゃないかという箇所が思いあたるので、そこを今回は引用。
「ことわざの論理」は各章の題名が「ことわざ」になっております。
その「急がばまわれ」という文を紹介。
はじまりは

「森鴎外がこどもに教えた――
『どうしようもないほど乱雑になったり、ものごとが錯綜しているとき、あせってはいけない。ひとつずつ、ゆっくり片付けて行けば、思ったより早く整理がつくものだ』急ぐときほどゆっくり、ひとつずつ処理せよ。決してあわててはいけないという教訓。さすがに、超人的に多忙な生活をしていたと思われる人のことばだけのことはある。われわれは、混乱を目の前にすると気が動顚して、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまう。しばらくあちこちいじりまわしてみてながめているが、全体はすこしも片付いていない。絶望していやになり、投げ出すのである。」(p47)

ここに「あせる」という言葉がありました。
「思考の整理学」に「とにかく書いてみる」と題した文があります。
そこも比べて読むのにいいかもしれません。

「まとめ、というのは、実際やってみると、なかなか、たいへんな作業であるのがわかる。その面倒さにてこずったことのある人は、だんだん、整理したり、文章にまとめたりすることを敬遠するようになる。そして、ただ、せっせと本を読む。読めば知識はふえる。材料はいよいよ多くなるが、それだけ、まとめはいっそうやっかいになる。こうして、たいへんな勉強家でありながら、ほとんどまとまった仕事を残さないという人ができる。」(p134)

とここまでは、実際の教授でも、こういう方がよくいらっしゃるという風に読めます。ここから引続き学生へと外山氏はつなげてゆきます。

「もうすこし想を練らなくては、書き出すことはできない――卒業論文を書こうとしている学生などが、よく、そう言う。ぐずぐずしていると、時間がなくなってきて、あせり出す。あせっている頭からいい考えが出てくるわけがない。そういうときには、『とにかく書いてごらんなさい』という助言をすることにしている。・・・・頭の中で、あれこれ考えていても、いっこうに筋道が立たない。渾沌としたままである。ことによく調べて、材料がありあまるほどあるというときほど、混乱がいちじるしい。いくらなんでもこのままで書き始めるわけには行かないから、もうすこし構想をしっかりしてというのが論文を書こうとする多くの人に共通の気持である。それがまずい。気軽に書いてみればいい。あまり大論文を書こうと気負わないことである。・・・・」(p134~135)


ところで、「ことわざの論理」の「急がばまわれ」で私が印象深い箇所として残ったのは、オキシモロンという言葉でした。そこを引用。


「一見矛盾することばを結びつけて、一面の真理を伝えるのを修辞学でオキシモロンという。日本語では撞着(どうちゃく)語法と呼ばれる。たとえばこういうのがある。

    公然の秘密
    まけるがかち
    ありがためいわく               」(p51)


「オキシモロンには論理の飛躍がある。
そのすき間を飛びこえられない人には、何のことを言っているのかわからないだろうし、逆に飛びこえられる人には何とも言えぬおもしろさと感じられる。
つまり撞着語法はかなりシャレたものなのである。それが日常生活で何気なく古くから遣われてきたというのは、なかなか興味ぶかいことである。大人のことばである。こどもには通じない理屈である。」(p52~53)

「急がばまわれ、にも論理的ギャップがある。急いでいるのなら、当然、最短コースを行かなくてはならない。急いでいるのなら、急がなくてはならない。
ところが、あわてると、さきにものべたように、ロクなことがない。思いがけない失敗をやらかして、かえって、おくれてしまう。ここまでの部分をのみこんで表面に出さず、だから、急いでいるときには安全な、まわり道をした方が、意外に早く行かれていい、という部分だけを表面に出す。
そういうかくされた部分がわからないと撞着語法はつじつまの合わない話になるが、言外のことばを解すれば、何とも言えないおもしろ味がある。」(p53)


そういえば、今年のはじめに「老子」を読もうと思ったことを思い出しました。
あれから、他の本へと興味が移ってしまっておりました。
さて、今年中に「老子」が読めるかどうか(笑)。
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国際情勢に疎く。

2009-11-28 | 前書・後書。
宮崎正弘著「朝日新聞がなくなる日」(WAC)のプロローグに

「学生が新聞を読まなくなり、新聞を購読する世帯が激減し、朝日も読売も悲鳴を挙げた。
なにしろ若者の多くはまったく新聞を購読せず、インターネットだけで国際情報まで数行で仕入れてしまうのである。したがって国際情勢に疎く、ものごとの本質を把握できる力もないが、いまの日本全体がそうだから、学生だけを責めるのは酷だろう。」(p11~12)

そのインターネットといえば、

「通信販売がとうとうデパート、コンビニの販売額を抜いた。
昨年度ネットの売り上げは八兆円。ことしの予測は八兆五千億円(野村総研推計)。・・書籍はネット通販で全体の一割」(p45)

う~ん。私も書籍はほとんどがネット注文ですから、納得してしまいます。
さてと、若い世代でした。
文芸春秋社の月刊雑誌「諸君!」が終刊となったことについて

「最近の若い文春社員と会話しても、かれらの関心は世界史的パースペクティブを伴わない。野球選手、スポーツ、グルメ、旅行。カリカチュアとしての政治。したがって近年の『諸君!』がじつにつまらなくなったという感想は筆者ばかりではなかった。過去数年、一応、郵送による講読をつづけてはきたが、まったく読まないでツンドク状態が続いた。目次をみても読む意欲が湧かない。保守の論争の中心であって『諸君!』を隅から隅まで読まなければ論争について行けないという時代が終わっていることに気がついたからだ。
オピニオン雑誌の経営というのはほぼ慈善事業に近い。商業主義としてはコストがあわずまっとうな経営はできない。基本的にマーケット需要ではなく、発行母体の経営状態に大きく左右される。・・・」(p95~96)

「日本には情報の本質を理解できる層が著しく減ったのだ。」(p163)

そして、エピローグには、
いまから35年以上前の数人の発言をちょっとづつ引用してから、
こう書いておりました。

「そしてマスコミの知的退廃という本質は、いまも変らない。」(p253)

その本質を、自然体の語り口で書いているのが「朝日新聞がなくなる日」なのでした。
その「いまも変らない」箇所を縮約して開示しております。
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漢文科。

2009-11-28 | 他生の縁
「橋本武のいろはかるた読本」(日栄社)をめくっていたら、
高等師範のことがでておりました。

「高等師範にやって来る者に、裕福な家庭の者はまずいなかった。私ほどひどい者もいなかったが、似たりよったりの連中だから・・・」(p249)
とあります。

ちなみに橋本武は明治45年(大正1年)生まれ。
( 余談ですが、私の父親は、大正2年生まれ )

橋本武氏の在学中の様子をもう少し引用してみます。

「私が東京高師に在学中は文字通りの苦学生活の連続であったが、その中でも言語に絶する一時期があった。朝食抜き、昼は学生食堂から流れ出るカレーのにおいに歯を食いしばって耐え、二十分ほどの道を歩いて下宿に戻り、玄関横の三畳の間でカップ一杯の米をかしいでやっと食事にありつく。こんな生活の中で五泊六日の野外教練は天国のような思いであった。何がしかの費用は納めたと思うが、食事は腹いっぱい食べることができた。・・練習が終わって廠舎(しょうしゃ)に戻って来ると、お目当ての夕食が待っている。気の合った友と飯の大食い競争をやり、腹の皮がつっ張って苦しくなると、雑草の茂った原っぱに腹を空に向けて寝っころがり、星空を眺めながら物も言えずにうめいていた。さしずめ『貧書生の重ね食い』であった。」

以前に原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)を読んでいたら、
そこに橋本武氏が登場しておりました。
ちなみに原田種成氏は明治44年(1911年)生まれ。
それは第二章「諸橋『大漢和辞典』編纂秘話」の中にありました。
ちょっとその箇所の近辺。

「そのころの諸橋宅の編集室では、いつまでに原稿を完成する予定であるのか、1ヵ月にどのくらいの進度でやるのかなどということがとくに決まっているわけではなかった。だから、一語を調べるのに丸一日かけることも度々あり、実にのんびりした空気であった。また、編集員といっても、とくに専任者がいるわけではなく、私たちのような学生と、当時は不況時代であったから大東文化を卒業してもすぐには適当な職を得られず、就職ができるまで手伝いをするというのが川又さん以外のすべてであった。このことは現今でもあまり変りはない。出版社は大きな辞典の編纂のたびに専門の社員を雇うわけにはいかないから、他に本務を持つ者や大学院生のアルバイトということになっているようだ。
この雑司ヶ谷二丁目の家での共同生活は、都合で、昭和八年三月三十一日で閉じた。私は尾久の家に帰り、橋本は神戸へ赴任し・・・・」(p88)

ここに出て来る橋本というのが橋本武氏なのでした。
もう少し引用。

「私たちが近くに住むので諸橋先生から橋本武もいっしょに、と頼まれた。橋本は高等師範の学生で、卒業後、神戸の灘中学に勤めた。灘中は戦後は、大学受験で高名な灘高校となり、橋本は国語の受験指導で定評があり、七十歳で定年になるまで勤め、遠藤周作は橋本の教え子だった。・・・・」

ついでながら、高等師範の学生について原田種成氏が言及している箇所もあります。
そこも引用しておきます。

「高等師範の出身者は漢文の読解力が不足していたから『大漢和』の原稿作成に関与することはとうていできなかったであろう。資料蒐集時代に大東文化の学生は『周礼』『儀礼』『公羊伝(くようでん)』や『漢書』『後漢書』等の白文の原書から語彙カードを採取していたのに対し、たとえば、高師の学生だったK氏は先生から少年漢文叢書の返り点送り仮名のついている『論語』『孟子』を与えられて、語彙カードを作った思い出を書いていた――それほどの差異があったのである。
高師は国漢科であるから、国語と漢文の両方を学習し、しかも就職に有利だからと修身や習字の免許を取るための学習もしていたから、漢文の力はあまり伸びなかったのである。大東文化の学生は、旧制中学時代から漢文が好きで、白文が読める力を持って進学し、さらに高度の漢文を専攻したのであるから『大漢和』に引用する原文を読解することができたのである。私の教員免許が旧制中等教員も旧制高等教員も『漢文科』の免許であることについて、高師出身の鎌田正氏は自分のが『国語漢文科』の免許であるので、漢文だけの免許状があるのは知らなかったと驚いていた。」(p77)
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いろはかるた。

2009-11-28 | 詩歌
外山滋比古著「ことわざの論理」(ちくま学芸文庫)を読んで、その味わいに感銘。ということで、12月の次はお正月で、興味は「いろはかるた」へ

まずはおなじ文庫の森田誠吾著「いろはかるた噺」(ちくま学芸文庫)
ちなみに求龍堂の森田誠吾著「いろはかるた噺」には、「付 江戸いろはかるた復刻一組」というのがカラーでありました。ちょっと絵だけからは、どういう言葉とつながるのか見当もつかなかったのには、まいります。すこし壁にかけてながめていたくなる一組。ちなみに付録のかるたはつながって折畳んであるだけなので、絵入り全体を一枚としてながめられます。絵篇と言葉篇と、言葉の方もくずし字で、なんとも、そのそっけない書きぶりが勉強になります。

この前テレビで灘高校の名物先生・橋本武氏の紹介番組を見たのでした。
そういえば、「橋本武のいろはかるた読本」(日栄社)というのがあり、
いろはかるたを読むには、こりゃ一番に読みやすい。
小松英雄著「いろはうた」(中公新書)は副題に「日本語史へのいざない」とある。
学術的な新書で、お気楽な「いろはうた」を期待している私などには、歯が立たない一冊。池田弥三郎・檜谷昭彦著「いろはかるた物語」(角川書店)も口絵がカラーで滴翠美術館蔵の江戸「赤犬棒かるた」・上方「いやいやかるた」が掲載されており興味をそそられます。

幸田露伴にも「いろはかるた」の簡単な紹介・解釈の文があり、それは全集40巻に載っているのでした。こちらはさらりとしたものですが、含蓄あり。

私の手元にある「いろは」は以上。
もっとよい本があれば、ご教示ねがえると助かります。
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小石川植物園。

2009-11-27 | 幸田文
柴田宵曲著「漱石覚え書」(中公文庫)に植物園と題する見開き2ページほどの文があります。こうはじまります。

「寺田寅彦の名は科学者としてよりも先ず文学上に現れた。『ホトトギス』の百号(明治38年4月)に出た『団栗』が最初の作品で、三重吉の『千鳥』ほど華々しくはなかったけれども、寅彦の特色は已にこの一篇に遺憾なく発揮された観があった。病余の細君と一緒に小石川の植物園に遊ぶところが全篇の山であり、細君の歿後六つになる遺児を連れて同じ場所に遊ぶ一条を以て之を結んでいる。母の面白がって拾った団栗を遺児も亦面白がって拾う、それがこの題名の生れる所以であるが、植物園を題材として作品で、これほど短い中に無限の情味を湛えたものは、前にも後にも無いかも知れぬ。この作者は当時小石川の原町に住んでいた。植物園とは地理的にも因縁がある。・・・・」

というのが、短文の前半であります。
小石川の植物園といえば、「幸田文対話」(岩波書店)に、
山中寅文氏との対談があるんです。
思い浮かぶので、ひっぱりだして引用しておきます。


【山中】はじめてお目にかかったのは、もう二十年前になりますか。お一人で植物園にいらしたでしたね。
【幸田】そう、私が六十になった頃でしたか・・・。娘が結婚し、子どももうまれ、順調に育ち、まずは一段落でホッとしたのですが、さてこれからさき何へ心をよせていこうかと思ったときに、住居のすぐ近くに小石川植物園があったことは幸いでした。・・・・・
ふと思いついて植物園に出かけたのです。ところが園の中は広いし、植物は何もしゃべらないし、まことにどうも、面白くない。ベンチに腰かけていたら、白衣を着た人が通りかかった。『植物園の方ですか』って声をかけると『そうだ』と言う。ベンチの後ろにスーッと何本かのもみじが並んで折柄実がなっていました。『あれ、幾つくらいなってるんでしょうね?』ってその人に聞いたら、言下に『まあ、五千だね』って。たまげましたね。おっかぶせて『どうしてわかるんです?』そう聞いちまうところは、我ながら憎たらしいけど、憎たらしいのも、物を聞く機縁の一つでしょうかねぇ。『そりゃ、数えたことがあるからさ』といわれて、こりゃいけないと思いました。あれから、もう二十年になるのですね。

  ・・・・・・・・・

【山中】たとえばランの種子は、一果に十万ぐらい入っていますが、まれにしか生えてきません。種子の多い植物は弱いのです。一番強い種子は何かというとドングリです。ドングリは、一つしか実がなりませんが、どこに落ちても必ず芽が出る。種子の多い、一本に何十万も種子のなる木はまことに弱いけれども、神様がもしたくさんの実をつけて下されば、千に一つは生えるので、それで充分ということになるんですね。


伝法な口をきく幸田文さんとのやりとりが何ともいえません。
「千に一つ」といえば、漱石が虚子に返事を書いた明治39年7月2日付の手紙が思い浮かびます。


「啓上其後御無沙汰小生漸く点数しらべ結了のうのう致し候。昨日ホトトギスを拝見したる処今度の号には猫のつづきを依頼したくと存候とかあり候。思はず微笑を催したる次第に候。実は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇体なものにて十分に三十秒くらいづつ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と湧くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから沢山なものに候。此漫然たるものを一々引きのばして長いものに出来かす時日と根気があれば日本一の大文豪に候。此うちに物になるのは百に一つ位に候。草花の種でも千万粒のうち一つ位が生育するものに候。・・・・・
小生は生涯に文章がいくつかけるか夫が楽しみに候。
又喧嘩が何年出来るか夫が楽に候。
人間は自分の力も自分で試して見ないうちは分からぬものに候。
握力杯は一分でためす事が出来候へども
自分の忍耐力や文学上の力や強情の度合いやなんかは
やれる丈やつて見ないと自分で自分に見当のつかぬものに候。
古来の人間は大概自己を充分に発揮する機会がなくて
死んだろうと思われ候。惜しい事に候。
機会は何でも避けないで、
其儘に自分の力量を試験するのが一番かと存候。・・・・」

まだこれから興味深い言葉がつづくのですが、このくらいで切り上げます。
ちなみに、漱石はこの手紙を書いた明治39年の4月に『坊つちやん』をホトトギスに発表しておりました。9月には『草枕』を発表します。

え~と。寺田寅彦・幸田文・夏目漱石でした。
ところで、漱石と小石川植物園との関係は、
どなたか、ご存知の方いますでしょうか?


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体験的新聞読解。

2009-11-26 | 朝日新聞
宮崎正弘著「朝日新聞がなくなる日」(WAC)を昨日読みました。
宮崎正弘氏の著作ははじめてなので、つい経歴をまじえながらの書き込みになります。

1946年金沢生まれ。
「著者は大学入学と同時に早稲田の近くの朝日新聞専売所に『就職』した。昭和40年3月だった。夜汽車で上京し、翌朝、専売店に到着。その日の夕方から運動靴にトレパンで朝日新聞を配達した。以後、ちょうど三年間、朝夕の新聞配達と集金。ときに拡張も。日曜夕刊もあった。・・定休は正月と5月5日のこどもの日だけ(秋にもう一回休刊日があったかも)。朝夕の食事は販売店の奥さんがつくってくれた。昼間は弁当代がでた。最初は六畳間に三人、それから部屋を移り四畳半にふたり。・・・ともかく朝日新聞専売店の二階に十二、三人が住みこんで、紙面を拡げて政治経済を論じ合ったり、人生を語り合った。晴れた日には一台しかない洗濯機の順番取りで喧嘩になったり。チラシ折り込みが多い前日には準備が夜中になることもあった。日曜夕刊が廃止されたとき、最初の『配達なしの夕暮れ』が信じられず、新宿で映画を見ていたが不安で一度、店に戻った。シーンとしていて『ああ、これが日曜日の静けさか』と感動した。」(p236)

東京オリンピックは昭和39年。
雑誌『諸君!』の創刊は昭和44年。
宮崎正弘氏が東京に来た昭和40年を、ご自身が語っております。

「当時、自衛隊は依然として社会の日陰者であった。
マスコミ主流は批判する記事ばかりを満載していた。今の論調よりひどかった。大学キャンパスには『安保反対』『再軍備反対』の虚言が立て看板で並び、進歩的学者やマスコミ人が織りなす奇妙な国防論がまだ大手を振って闊歩していた。・・・
筆者は大学の仲間を糾合し、早稲田大学に『国防部』(同好会の一種)をつくった。・・・風潮は左翼全盛、日本の行く末を心配する気運も一方では膨らんでいた。
大げさに『部』とはいっても正式の大学当局に認可された倶楽部でもない。いまでいう『同好会』である。・・・日本の思想状況は左翼寄りが圧倒的でマスコミは反・自衛隊でほとんど足並みを揃えていた。だから『国防部』という名前だけでも十二分に反時代的で挑発的だった。大学のキャンパスの真ん中で・・・新人募集をおおっぴらにやったため、左翼学生の妨害は凄まじく、連日連夜、数百・数千の野次馬も混ざっての激論となった。・・
左右思想の激突が繰り返されたが、今と異なり若い世代には使命感と熱気が溢れていた。幼い正義感がたしかに当時の若者を支配していた。六十年の安保ハンタイの時の学生運動も、指導者のひとりだった西部邁氏自身が語っているように『安保条約を読まないで反対していた』。反米ナショナリズムの情緒的行動だったわけだ。」(p104~105)

「左翼各派は勢力拡大に余念がなく、しかも世論は自衛隊を白眼視している。マスコミは総じて左翼学生を支援した。わたし達は孤立無援だった。」

「それでも昭和42年の4月から始めた新人募集には早大だけで二、三○人もの『強者(もさ)』が集まったのは意外という外はない。・・・マスコミは『学生運動に日の丸派』(毎日、日経)などと現象的な扱いに終始し、さも異端の、暴力的なグループと印象づけをした。とくに朝日新聞の記者は、神津島で夏期合宿をしたおりに昼の学習会は取材せず、夜中に行った軍事訓練をヘリコプターを飛ばして取材にやってきてニコニコ笑いながら談話を集め、紙面となると時代錯誤の暴力学生のようなイメージの記事をつくった。
しかも、である。翌日か翌々日の北京放送が、その朝日新聞記事をまるまる援用する形で『日本では学生右翼が反動的な勢力を拡げている』と放送したのはご愛敬だった。」(p107)

「大学を縦断する勉強会や国防セミナーも盛んに行った。・・・
左翼の横暴に業を煮やしていた保守派の文化人らもついに立ちあがり、手弁当で有名な大学教授や作家、評論家が私たちの学生運動を支援するために駆け付けてくれるように環境が激変したのだ。名前を一瞥するだけでも林房雄、三島由紀夫、福田恒(つねは別字)存、村松剛、桶谷繁雄、若泉敬、高坂正尭(字は、曉の日なし)、阿川弘之の各氏ら。のちに諸君、正論、自由の執筆メンバーの大半が支援してくれた。そして正式に『全日本学生国防会議』(国防部連合を改称)が発足したのは部発足から一年二ヶ月後の昭和43年6月15日である。・・・・大手マスコミはこれを右翼の復活なとという視点で批判的に報じた。しかしながら左翼ジャーナリズムが期待した昭和45年の『安保決戦』は不発に終わり、左翼学生は内ゲバに熱中し、ハイジャック事件、浅間山荘事件などを起こしつつ舞台から退場した。」(p109)


さて、こうした経験をつんできた宮崎正弘氏が現在の朝日的新聞を語る箇所が、この本の読みどころなのですが、私には、まずこの宮崎氏の経歴がわかってうれしいかったのでした。
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啖呵のゆくえ。

2009-11-25 | 朝日新聞
読まないのですが、
最近気になる二冊。
 別冊正論「朝日新聞・NHKの大罪」
 朝日新聞がなくなる日 WAC BUNKO

ということで、朝日新聞について、
ブログ「内田樹の研究室」の11月24日に

「朝日と日経に書かないことにしたのは、この二紙のデスクが私の原稿に「書き直し」を要求したからである。朝日は原稿を送る前に「社の方針に合わない内容なら書き直しを要求します」と言われた。日経は原稿を送ったあとに「・・・である」という断定を「・・・であると思う」(だか「・・・だと言われている」)に直せと言われた。私はべつに両紙の社説を書いているわけではない。自分の名前で書いているのである。」

とあり、「『二度と書きません』と啖呵を切った」話がでてきます。
何とも、それからが内田樹。朝日新聞の依頼をひきうける話なのでした。

「イシカワ記者は彼が『AERA』にいた頃からのおつきあいで、平尾剛さんと書いた『合気道とラグビーを貫くもの』という本を作ってもらったご縁がある。
いつもの温顔で登場して、いきなり真珠湾攻撃という軍事作戦の当否について論ぜよと言う。むずかしいお題である。とはいえ、こちらも『日本辺境論』を書いた手前もあり、なぜ日本の政策決定システムは定期的に思考停止に陥るかについて持論を述べる。」


う~ん。内田樹氏への興味から、朝日新聞を読む方もおられるのだろうなあ。

ここでは、「啖呵」に興味がありますので、啖呵のゆくえ。

古雑誌(平成12年)に曽野綾子氏が「最も才能のない詩人による駄詩ーー『二十世紀』」という短文を載せておりました。そこから引用。

「 朝日も読売も毎日も、
  社会主義を信奉するソ連と中国を
  批判することを許さず、
  私の原稿はしばしば書き換えを命じら
  れ、没になった。

  戦後のマスコミは、
  言論の自由を守ると言ったが、
  差別語一つに恐れをなし、
  署名原稿も平気で差し止める。
  だから彼らはもはや自らの悪を
  書けない。
  だから成熟した善も書けない。  」

という箇所がありました。
なぜ、この箇所をひさしぶりに思い浮かべたかといいますと
産経新聞2009年11月4日の「曽野綾子の透明な歳月の光」というコラムを読んで、いまだにその余韻がのこっているからなのでした。もうすぐ一カ月が過ぎようとしているのにね。そういうコラムなら引用しておいてもいいでしょう。

「この原稿は11月2日の午前9時に書いている。
私が株式会社日本郵政の社外取締役として働けという内々の意向を亀井静香金融・郵政担当相から受けたのは10月9日。あまり唐突・・・
帰国は24日の土曜日。翌日曜日の午前10時ごろ大臣からお電話があり、午後、斎藤次郎社長と私の家に来られた。それが『正式な内諾』の手順であった。
私がお二人に確かめたことは『もし私に守秘義務があるなら、私はお引き受けできません』ということだった。もちろん私は他人の個人的な事情について書こうとしているのではない。営利会社なら技術的な秘密があって当然で、それも会社の利益を守るために口外できないことである。しかし公的に発表してもいいことにまで、圧力がかかるようなら、私の役目が果たせないという意味である。お二人は共にそのようなものはない、と言明し、ことに斎藤氏は『ここまで来たらないでしょうね』と笑って言われた。臨時株主総会と取締役会は10月28日に開かれた。『株主様』の代表はたったお二人だけ。亀井大臣ともうお一人。何しろ株主はまだ国だけなのだから、こんな奇妙な株主総会もなかった。」

ここからが、読みどころなのでした。

「それ以来約1週間。
私の中で日本郵政というところは、緩んだ組織がという印象ができかけている。私はまだ辞令ももらっていない。手続き上認められれば、それいいじゃありませんか、と私は思うのだが、法的には書類がなければ、私は取締役としてあの建物に入る権利もない。
そんなことはしかしどうでもいいことだ。
私が気になるのは、私のような素人に対しては、とにかく急遽、誰か若い人が、事業の初歩的な説明をしてくれるべきなのに、それを誰もしないことだ。14年前、日本財団の無給の会長に就任した時は、連日あらゆる部門と関連財団の業務内容の説明が行われて、私は疲れ果てた。
私には、未だに外部の人に手渡されるパンフレット一つ日本郵政から渡されていない。従業員は25万人といえばいいのか。人件費・広告費は全予算の何%なのか、何一つ資料はない。多分インターネットで見ろということなのだろう。しかし業務内容の説明なしに、社外取締役に何を考えさせようというのか。
28日の臨時取締役会以来、私が日本郵政から受けた唯一の連絡は、給与を払い込むための郵便預金の通帳の番号を聞いて来たことだ。・・・何も働かないのに月給をもらうわけにはいかないから、私は貯金通帳など作らない。・・・」

産経新聞のコラムだから、こういう意見が聞けるのでしょうか。
それとも、産経新聞に書き場所を選んだ曽野さんを思うべきなのでしょうか。
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縮約する。

2009-11-24 | 短文紹介
谷沢永一氏のコラム連載「巻末御免」の300回最終回を反芻。

「・・自覚しないうちに蓄積された無意識または印象を、自ら掘り起こし、見つめ直し、検討する努力が求められる場合がある。伊藤整が戦後まもなく刊行した『小説の方法』はこの自己発掘の熱意が頂点に達していたと推察される時期の労作である。・・・・自己を省察し、自分の姿勢を改め、居住まいを正す努力が要求された場合に相当する。」

さてこのあとでした。

「理路整然とした論理構成が文章の極意であるとは限らない。
表現とは結局、自己を鍛え直す作業である。」

そして、こう続くのでした。

「・・・評論とは自己を評価し直すことである。
それを縮約する不断の営みが、読者の胸を打つのではないか。」


う~ん。「縮約する不断の営み」というのは、どういうことか?
ところで、私は加藤秀俊著「メディアの発生」を読んで胸を打たれる気持になりました。それがどうしてなのか?中途半端な読解では語れないわけですが、それでも、その興奮ぐらいは書き残しておきたいと思ったりします。

今月の新刊でちくま文庫から加藤秀俊著「独学のすすめ」が出ました。
その「教養とはなにか」という章を、今回注目しました。
三国志を語り始めてから、落語が出て来ます。そこいらから引用。

「落語というのは、人間と人間のつくり出す社会状況のいくつかの典型をおどろくほどの鋭さでみごとにとらえた大衆文芸であって、日本の社会についてかんがえるばあい、落語というものを多少は知っていないと困るのである。そして、日本人は、代表的な落語をお互いの共通知識として生きてきているように、わたしには思える。ところが、若い世代の人たちには、そういう知識がまったくない。」

この文が書かれたのは、ちなみに1974年。
あとをぶつ切りにしながら、引用してゆきます。

「もちろん、落語をたくさん知っている人間がえらい、といっているのではない。・・一連の代表的落語などは、大げさにいえば日本国民の基礎教養なのではないか、とわたしはかんがえるのだ。いくつかの物語を共有しないで、『文化』というものはたぶん存立しえない。そして、ついこのあいだまで、われわれ日本人にとって『三国志』も落語も、そういう共通の物語なのであった。学歴とか職業とかにかかわらず、誰でもがこれらの物語をなにほどかは共有していたからこそ、お互いをおなじ文化のなかに生きる人間としてみとめあい、安心しあうことができていたのである。・・・それは基本的にだいじなことなのである。」

「ところで、だいじなことは、これらの国民的教養というものが学校で教えられるものではない、ということである。」

「そして、そうした事情をかんがえればかんがえるほど、わたしはこんにちの日本人がひたすら『学校』を重視するあまり、基礎教養というものをさっぱり忘れてしまっているのではないか、という疑問をおさえることができない。」

「そうしたもろもろの理由のなかでいちばん強力な理由は、おそらく、日本人お互いのあいだで日本の国民文化というものにたいする自信と誇りがかなりぐらついてしまっている、という事実なのではあるまいか。なんとなく、『桃太郎』だの『三国志』だの、あるいは落語、講談、伝説などといったものは時代おくれで古くさいもの――そういう一般的な気分が、たしかにわれわれの心の片隅にある。じっさい、ここまでのわたしの文章を読んでこられた読者のなかにも、なにをいまさら、バカバカしい、古いねえ、という反応をなさったかたもあるだろうし、なかには落語ときいただけで、下品だわ、と顔をしかめていらっしゃるかたもあるだろう、とわたしは推測する。そうした反応が生まれるのも無理はない。というのは、ここ三十年間にわたって、日本には一種の文化的精算主義のようなものがゆきわたってしまっているからである。」

「子どもの文学として、アンデルセンはわるくない。わたしはそのことに反対ではないのだけれど、日本の国民文芸を否定してアンデルセンというのはおかしいのではないか。ものごとには順序というものがある。・・・・子どもや若ものたちのための、わかりやすく、おもしろい『平家物語』だの、『水滸伝』だの、あるいは『太平記』だのをあたらしくつくる、という努力があまりなかった。むしろ、バタくさいハイカラ趣味をもって青少年文化の向上と錯覚することが主流を占めた。」

「このような国民文芸の復興がはたして可能なのかどうか、・・・」


加藤秀俊著「メディアの発生」を読み終わるとですね。
おわりに「これはわたしの八十代へむけての卒業論文のようなものだ、とじぶんではおもっている」とある。この「独学のすすめ」から「メディアの発生」まで。復興の心棒として卒業論文が、この可能性をぐんと押し広げてくれたことを、私は確信するのでした。

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学術紙芝居。

2009-11-24 | 短文紹介
今朝の新聞(2009年11月24日産経新聞)のコラム「正論」は、加藤秀俊氏。
題して「暗黒の『紙芝居』教育はご免だ」。
本文を紹介しておきたいのはやまやまなれど、ここはちょっとしたエピソード。

「わたしはけっしていい教師ではなかったが、それでも教授時代には学生たちの顔をみながら講義をすすめた。内容がむずかしそうならやさしい事例を説明する。それでもダメならちょっと脇道にそれて注意をひきつけたりしてあれこれくふうしていた。」

う~ん。ここだけでは、いけないなあ。
やっぱりコラムを引用しましょ。

はじまりはというとこうです。
ほうぼうの大学が公開講座、教養講座を開設して一般市民に講義を聞かせてくださる。としてわたしもときどき聴講にゆく。受講料は500円くらい。タダのところもある。

そして、次に気になってしかたがないことを語ります。

「このごろの大学教授がやたらにスライド映写で授業をなさることだ。
スライドといってもこれはパソコンのなかに画像を貯蔵しておいてそれを投射するパワー・ポイントという新発明。あらかじめ作成しておいた文字、グラフ、写真などをスクリーンに映し、レーザー・ポイントで指しながら説明してくださるのである。いうなれば『学術紙芝居』である。」

これが、前振り。次に後半部を引用。

「いまどきのスライド授業は暗黒のなかでの一方的なオハナシである。なによりも教授諸公は自分の手元のコンピューター操作にいそがしく・・・・学生の反応なんかみているヒマがない。せっかくおなじ教室にいるのに『対面授業』になっていないのである。ときにはパソコンのご機嫌がわるいから講義できない、などと公言なさるかたもおられる。これにはおどろいた。
このごろのお医者さまのなかにも電子カルテになってからコンピューター画面ばかりみていて、いっこうに患者の顔色さえみてくださらないかたがおられるという。それとおなじ情景である。」
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一々身に。

2009-11-23 | 短文紹介
外山滋比古著「ことわざの論理」(ちくま学芸文庫)に
こんな箇所がありました。


「  三十六計逃げるに如かず
というのである。
玉砕を喜ぶ国民性がすべてではないことは、こういうことわざを愛用してきたことでもわかる。建前ではなくて、本音を吐くところがことわざの身上である。文章などを書くときは、出処進退を明確にすべし、などと言っている人間が、親しい友人に窮状を訴えられると、なに、三十六計逃げるに如かずさ、などと言う。ことわざはふだん着の智恵というわけだ。
近代の文化は、書物中心に発達した。本を書く人、それを読む人は、どちらかというとエリートが多かった。狭い範囲でしか世間と接触がない。書巻の気というのは観念的ということで、生きることの生々しさがない。それを高尚なことのように考えてきた。
このごろはすこし事情が変わってきたようだが、われわれのように戦前、戦中に教育を受けた世代は学校でことわざのことを一度も習わなかった。国語の教科書にも故事は出てきたが、ことわざはない。先生の口からもきいた覚えがない。学校教育とことわざは別々の世界にあった。
それで学校を出てから、ことわざの価値を発見しておどろくことになる。学校で学んだことはほんのすこししか役に立たないのに、だれも教えてくれなかったことわざが、一々身にしみるではないか。それまで見向きもしなかっただけに、その気になってみると、新鮮ですらある。」(p147~148)

これを引用していると、森田誠吾著「いろはかるた噺」(ちくま学芸文庫)の戦争中のことを語った箇所が思い浮かびます。

「アジアの広域に散開して苦闘する戦場で、あるいは、猛火に包まれてゆく日本列島で、ぎりぎりのところへ追いつめられた民衆が、思わず呟いたのは、幼い日に覚えた『まかぬ種ははえぬ』であり、『無理が通れば道理ひっこむ』ではなかったでしょうか。そして『負けるが勝』とひそかに語りかけ、『縁と月日』は待つがよいとささやいて、戦後に立ち向かわせたのも、卑小な『いろはかるた』の記憶ではなかったでしょうか。
戦後の社会は、新しくならねばならぬ、という信仰のもとに、日本の古い文物を拒絶して、『いろはかるた』に至るまで、棄てられて、忘れられて、塵に等しい遺物となりました。また、戦後の教育改革によって、新仮名遣いが採用され、『いろは歌』も否定されて、『アイウエオ』の採用が内閣によって望まれました。『いろはかるた』は、諺を内容としたかるただとはいっても、構成の軸となっている『いろは歌』の通じない世となっては、いよいよ凋落の道をたどるほかはありません。それやこれやが重なって、昔ながらの『いろはかるた』を欲しいなどと訪ね廻ってみても、『あんなもの』が手に入らなかったのも当然でした。」

この森田氏のあとがきは
「・・・諺のノートから年代順に文例を抜き、『東西いろはかるた資料』と名付けて百部ほど、小さな私版にして友人知己に配ったのは、昭和44年のことでした。」とはじまっております。


つぎは、外山滋比古著「思考の整理学」(ちくま文庫)に「知恵」(p178~)という短文が入っております。こうはじまる。

「本に書いてない知識というものがある。ただ、すこし教育を受けた人間は、そのことを忘れて何でも本に書いてあると思いがちだ。本に書いてなくて有用なこと、生活の中で見つけ出すまでは、だれも教えてくれない知識がどれくらいあるか知れない。」

その6ぺージほどの文に、入っている何げないエピソードが思い出されます。

「このごろアメリカで、日本人が繊維のある食べもの、たとえば、ごぼうのきんぴら、のようなものを常食していることが、腸をつよくし、老化を防いでいるといって、それを見倣おうとする風潮が見られる。戦争中に捕虜にごぼうを食わせた、雑草の根を食わせたのは捕虜虐待であると、訴えられて、戦犯になった収容所長のあったことを思い出す。」(p181)


ここから加藤秀俊著「独学のすすめ」へと連想を飛ばしたいのですが、
今日はここまで。
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平信。

2009-11-22 | 手紙
同じ言葉を見つけると、単純にうれしくなったりします。
ということで、「平信」。

外山滋比古著「日本語の作法」(日経BP社)に

「ところで、用があっても手紙は書かないで電話ですますのが現代である。用のない手紙【平信】のたのしさを知る人は少なくなった。用件などない手紙をやりとりする相手があるのは人生の幸福だと言ってよい。」(p43)

というのが印象に残っておりました。
昨日、外山滋比古著「ことわざの論理」(ちくま学芸文庫)を読んでいたら
「便りのないのはよい便り」という諺をテーマにした文のなかで

「貧乏神のような人があるものだ。電話がかかってくると、本能的に身構える。何だろう。出てみると、案の定、ろくでもないことだ。そういう人が手紙をよこすと、一瞬、心を暗くする。こういう便りなら、ない方が平安である。
昔の人はよく封筒の上に【平信】と書いた。これは、別に用件があってのことではありません。時候のあいさつ、あるいは近況を知らせる便りです、という意味である。貰う側からすれば、こういう手紙はありがたい。手紙らしい手紙は来ない方が安全だ。」(p159)


こうしてちらっと書かれて出されると、かえって気になるなあ。

ところで【平信】というのは、封筒のどこいらに書かれるものなのでしょう。
切手の下あたりに書くのだろうか? と思ってみるのですが、わかりません。
さしあたり、このブログなどは、平信のあつまりみたいなものでしょうか?
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整理読本。

2009-11-21 | 前書・後書。
加藤秀俊著「整理学」(中公新書)は、1963年初版。
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は、1969年初版。
 (このあとは、端折って整理して・・・)
外山滋比古著「思考の整理学」(後で、ちくま文庫)は、1983年初版。
ということで、加藤秀俊の「整理学」が出てから20年後に、
「思考の整理学」が世に出ておりました。

たとえば、文章読本の嚆矢としては、
谷崎潤一郎著「文章読本」が思い浮かびますがいかがでしょう。
おそらく、整理学の最初は、加藤秀俊氏の本をもってきてもよさそうに思うのですがいかがでしょう。
最初の本というのは、ある恐れというものが含まれていることが往々にあります。
ということを、以下引用していきます。

谷崎潤一郎著「文章読本」のはじまりの方に

「返す返すも言語は万能なものでないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。」

とある。それをまた繰返しております。

「ここで皆さんの御注意を喚起したいのは、『分らせる』ことにも限度がある
と云う一事であります。
既に私は此の読本の最初の段で、言語は決して万能なものでないこと、その働きは思ひの外不自由であり、時には有害なものであることを断つて置きましたが、現代人はややともすると此の事を忘れがちであります。そして、口語体の文章ならどんなことでも『分らせる』やうに書ける、と云ふ風に考へ易いのであります。が、そう考へたら大変な間違ひであることを、常に皆さんは念頭に置いて頂きたい。」


こういう恐れという感覚が、最初の文にはあるのが、それにつづく歴代の文章からは消えてゆくのは、世の常なのでしょうかね。
この消えゆく感触というのは、こと「整理学」にもいえるのじゃないかと思うのです。

加藤秀俊著「整理学」の、まえがきに。

「あらゆる『整理』は暫定的なものである。ガタピシもまた、やむをえない。『整理』とは、なめらかにゆくものでは、けっしてない。『忙しさからの解放』といっても、ラクな解放感をうけとっていただいては困る。整理は、人間にとっての、楽しい、そして無限の苦役の一つなのだから。」

こうある。次は、この「整理学」の新書の最後を引用しておきましょう。


「われわれのさまざまな整理の一つ一つは、人類の歴史の小さな部分として考えられなければなるまい。この本のなかでは、ひじょうに多くのスペースを整理の具体的技術の紹介や示唆のために割いた。それは、できるだけ読者の身近な問題解決に役立ちたかったからであり、また、こうした領域での作業について、包括的に書かれた書物がなかったからである。しかし、よりよき整理に志す人は、じぶんの作業の一つ一つを、人間のおどろくべき努力の歴史の文脈のなかで考えるのがほんとうであろう。なんべんもくりかえすようだが、ひとりの人間――どのような天才であろうと――ののこしうる整理は、この文脈で考えるとき、じつに小さく、はかないものである。ひとりの人間がその人生いっぱいにのこしたファイルやノートやカードは、その人の生命の終結と同時に、生命を失う。そのうちのなにがしかは、同時代人やつぎの世代と共有できようが、大部分は、その持主たる人間とともに消えゆかねばならぬ。
しかも、すでにみたように、われわれの整理には、これでおわり、という究極がない、都市問題一つとりあげてみても、そこには不断の代謝があり、展開がある。一つの問題解決は、また新たな問題をうむ。それは無窮運動だ。やりのこしたことをたくさんのこしながら、個人は、そして世代は、生き、そして死んでゆく。いつおわるともない、それが、人類の宿命なのであろう。だが、それを充分承知で、われわれはせいいっぱいに充実した生命と生活をもとめてやまない。人間のあかしは、おそらく、この宿命のなかで、なおかつ『努力』をつづけるという、おどろくべき資質をもっているという事実にあるのではないか。たぶん、この本のむすびにふさわしいことばは、パスカルの『パンセ』にある、つぎの一句であろう。『たたかいのみがわれわれによろこびをあたえる。勝利が、ではない』」

う~ん。加藤秀俊氏の著作の分りやすさを、私は安易に享受しておりました。
いままで、その「おどろくべき資質」を汲みとりえずにおりました。
ということで、加藤秀俊著「メディアの発生」を、あらためて読み直してみたい。と思っております。うん、思うだけなら誰でもできるのになあ、つい書いてします(笑)。
うん。うん。棒ほど願えば針ほど叶うというたとえもあります。
コメント (2)
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毎年のように。

2009-11-20 | 短文紹介
最近の「ちくま文庫」は気になります。
ということで、具体的に。
外山滋比古著「思考の整理学」と加藤秀俊著「独学のすすめ」は、
現在どちらもちくま文庫で読めます。
その二冊を比較してみる愉しみ。

外山滋比古氏は1923年愛知県生まれ。
加藤秀俊氏は、1930年東京生まれ。

共に教える立場で、大学紛争と向かい合った経験をもっている。
外山氏は「やがて東京教育大学は筑波移転をめぐって大揺れに揺れ、それがおりしもの大学紛争と重なってたいへんな混乱におちいった。わたくしは移転問題がややこしくなりかけたとき、いち早く、いまの大学へ移った。」(p162)とあります。
いまの大学とは、お茶の水女子大学教育学部なのでしょうか。

それでは、学生運動の頃の加藤秀俊氏は、どうだったのか。
この11月にちくま文庫から出たばかりの「独学のすすめ」に
「あたらしい読者のために――ちくま文庫版へのあとがき」を加藤氏ご自身が書かれておりました。その肝心な箇所に大学運動のことが出て来ます。

「この時代はベトナム反戦運動や中国の文化大革命の時代でもありました。そうした思想を背景にして学生運動も活発になり、それはやがて『学園紛争』という社会的大事件になって爆発しました。その激動のなかで、わたしはかんがえるところあって、大学を辞職する決心をしました。その事情はわたしのデータ―ベースのなかに収録した『我が師我が友』という半自叙伝のなかで公開してありますから興味のあるかたは参照してみてください。」

ということで、さっそく参照。
ちなみに、この『わが師わが友』は加藤秀俊著作集の月報にご自身が連載されていたものです。その著作集第一巻の月報に「京都文化のなかで」という文があります。そこに学園紛争当時が回顧されておりました。その近辺を引用。

「ほうぼうですでに書いてきたことだけれども、わたしはだいたい『教える』ということがじょうずでもないし、好きでもない。ひとりでコツコツ勉強してものを書いているほうがわたしには向いている。それがこともあろうに、『教育』学部に行って、『比較教育学』なるものを『教える』というのだから、世のなかは皮肉なものだ。しかし、コマ数は少ないし、人文の研究会にもつづけて出席することはできる。だから、教育学部へ移った。」

さて、興味深いので長い引用をしてゆきましょう。

京大教育学部の助教授というポストに移動することになった
「辞令は1969年1月16日付。・・・研究室はおどろくほどひろかった。7・8人の研究会ならじゅうぶん可能なだけのスペースがあったし、書棚もたくさん用意されていた。人文の研究室でも自宅でも、本がオーバー・フロー状態になっていたので、それもぜんぶ運びこんだ。デスクや椅子もならべた。ここなら、しずかに勉強できるだろう、とおもった。そして、初出勤の日がきた。1月16日である。しかし、なんたることであろうか、学部の建物と図書館とのあいだに毛沢東の大きな肖像がかかげられ、そのそばで数人の学生がタキ火をしているのである。もとよりわたしは、その前年から、全国の大学で、いわゆる『紛争』がはじまっていることを知ってはいたが、こともあろうに、わたしの初出勤の日にこんなことが起きようとは予想もしていなかった。・・・」

う~ん。ここから面白くなるのですが、さいわい加藤秀俊氏の文はネット上で簡単に読めますから、真ん中を端折っていきましょう。

「・・・じぶんが学部の教員である以上、毎日研究室に詰めよう、と決心した。ロック・アウトはいつのまにやら崩れて、学園は無政府主義的状態だったし、どこから石がとんでくるかわからなかったけれども、わたしは研究室にひとりすわっていた。・・・・ただ本を読み、執筆した。ほとんど無人の建物のなかに、ある日白ヘルのグループが入ってきて、ガラスを割りはじめた。そのとき、わたしは中公新書の『人間開発』の『まえがき』を書いていたが、物音が近づいてきたので研究室のドアをあけ、『バカ者、しずかにしろ』と怒鳴った。覆面をしていたから、誰であるかわからなかったが、二、三の学生はわたしの姿をみとめ、『あ、いらしたんですか、すみません』と間の抜けたことをいっておじぎをした。物音はしばらくつづいたが、わたしの部屋のガラスだけは割られずにすんだ。」

ここから、ついつい引用したくなるのですが、とばして

「解除後の学部の建物は、めちゃくちゃだった。しかし、わたしと、他の一、二の先生の研究室だけは、家具も持ち出されず、書棚も整然としていた。わたしはべつだん全共闘の仲間でもなんでもないのだが、こういうイキサツがあると、どうにも居心地がわるい。1970年の冬、わたしは、もう、ここは辞職しよう、と決心し、辞表を出した。おなじころ、永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和己など何人ものわたしの先輩や友人も、期せずして大学を辞めた。わたしは四十歳になっていた。・・・自由の身になったわたしは、全共闘のリーダー数名を楽友会館に呼び出し、わたしのほうから、かれらのお得意の『団交』を申しいれ、『自己批判』を要求した。かれらは率直であった。わたしはかれらを許すことにした。かれらの何人かとはいまも親交がある。」


ついつい引用をしすぎました。
さて、外山滋比古先生のほうにもどります。
こちらは、先生を続けられております。
そして卒業論文のことになる。

「・・卒業論文を書く学生が相談にくる。というより、何とかしてほしい、とすがってくるのである。何を書くも自由、となっているのに、何を書いたらいいのか、わからない。何を書けばいいのか、教えてほしい、と言ってくる。こうしなさい、と命じられると、反発して、そんなことしたくない、とごねるこせに、ご随意にどうぞ、とやられると、とたんに、途方にくれる。皮肉なものだ。
毎年のように、わたくしは何を書けばいいのでしょう?といってあらわれる学生と付き合っているうちに、自分でテーマをつかむ方法のようなものを教えなくてはなるまいと考えるようになった。・・・」(p30)

私は、これを読み直すとですね。
手塚治虫の『火の鳥』を思い浮かべるのです。
『火の鳥』には、リフレインというのでしょうか繰り返しというテーマがある。
最後の方に、クローン人間が培養されて次々に出て来る箇所がたしかあったと思います。
外山先生が卒論で「毎年のように・・付き合っている」という箇所は、何度も再生されるクローン人間が、つぎつぎおそいかかってくるような、そんな連想が浮かびます。

ところで、加藤秀俊著「独学のすすめ」は、1974年に雑誌『ミセス』に連載された文章なのでした。それは、加藤氏が1970年に辞表を提出したあとであります。そのことを加味して以下の文は読まれるとよいのでしょう。

「『問題』は、ひとから出してもらうもの、という観念ががっしりと根をおろしてしまっているのだ。大学で若い人たちを相手にしていたときも、わたしはそのことを感じた。論文のテーマになにをえらぶか、なにを『問題』としてとらえるか――それがじぶんの力でできるのがそもそも大学生の基本的な資格だとわたしは思っているのだが、年々、じぶんで『問題つくり』のできる学生は減ってきた。なにをやったらいいでしょう、などとききにくる連中が押しかけてくる。わたしはうんざりした。ここは幼稚園ではないのだよ、問題はじぶんで見つけたまえ、見つけたら手つだってあげるがね――相当つよいことばで学生にいったこともある。だが、かれらはキョトンとして、わたしを見つめ、わたしのことを不親切だ、などと悪口もいっていたらしい。
わたしは手おくれだ、と思った。小学生のときから、解くことのできる『問題』だけをあたえられつづけてきた若ものたちは、『問題つくり』の能力をもたないまま、モヤシのごとくに成長してしまったのである。二十歳ちかくなったこのモヤシどもに『問題つくり』の能力をあたえようとしても、もうおそい。日本社会での創造性は、だんだんよわくなってゆくのではないか――わたしは淋しくなった。いまも、淋しい。」(ちくま文庫「独学のすすめ」p155)


ところで、
1974年に加藤秀俊の「独学のすすめ」が雑誌掲載され、
9年後の1983年に外山滋比古著「思考の整理学」が出てる。

最近の新聞広告では
「東大生、京大生に『今のままじゃヤバイ』と思わせたミリオンセラー!」と「思考の整理学」を紹介しておりました。

今年2009年5月に出版された、加藤秀俊著「メディアの発生」。
そのあとがきを最後に引用。

「わたしはいつのまにやら七十九歳の誕生日をむかえていた。いうならば、これはわたしの八十代へむけての卒業論文のようなものだ、とじぶんではおもっている。筆のすすむまま書きつづけ、気がついてみたら原稿の量は千二百枚をこえていた。こんな長編を書き下ろしたのは生まれてはじめての経験だった。このめんどうな作業に挑戦できたのは、ひとえに先学がのこされた著作や先輩、友人のおかげだった・・・・・」

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未読本。

2009-11-19 | 短文紹介
外山滋比古氏の著作を、私は読まなくてもよい人だと思っておりました。たとえば、外山氏の「近代読者論」と題した本があるそうですが、こりゃ前田愛著「近代読者の成立」の二番煎じじゃないかと思っておりました。困ったことには私はそのどちらも未読。未読だからでしょう。安易な判断を下しておりました。まあ、そんな題名だけで判断する、お手軽読者の一人なのでした。

それが昨年。
外山滋比古著「日本語の作法」を読んで感銘。
今年はといえば、
この11月15日の朝のNHKで、外山滋比古著「思考の整理学」を紹介しながら、地下鉄の定期を買って毎日散歩されている外山氏を写しておりました。なんでも「2008年京大東大生に一番読まれた一冊」というのが文庫「思考の整理学」の最近の帯の言葉なのだそうです。
というわけで、買ってあってそのままホッぽり投げていた、この本を、読んでみました。うん。よかった。

ちなみに毎日新聞11月15日の日曜日書評欄「今週の本棚」の「好きなもの」欄が外山滋比古氏でした。そこでこう書いておられる。
「本を読むのは、正直いって、それほどおもしろくない。仕事がらみの本が退屈なのは是非もないが、そのほかでも好きな本は限られている。いちばん影響を受けたのは寺田寅彦である。ものを考えることを学んだように思う。書けなくなったとき寅彦を読むと言った批評家がいたが、頭が濁っているときに読むと心まで澄んでくるような気がするから妙である。好きな文章は内田百ケン(ケンは門に門の中が月)。明治以降、これほどすぐれた文章を書いた人はないとひとり決めしている。外国のエッセイではやはりモンテーニュがいい。人間の勉強になる。ただ邦訳のスタイルが、私の好みに合わなく残念だ。変ったところではショーペンハウエル『みずから考えること』(石井正訳・角川文庫)が好きである。小気味よく痛快である。
もともと菊池寛の文章を好み、ひそかに崇拝している。編集感覚においては右に出るものはないと考え『話の屑籠』を愛読する。年とともにその人物に心惹かれるようになった。どこか、菊池寛アンソロジーを出してくれるところはないか。」

とにかくも、外山滋比古氏の本は二冊しか読んでいない。
その二冊を読み返すか、はたまた他の外山氏の本を読んでみるか。
う~ん(笑)。
こんな風に書いているときは、読まないで終るというのは、いつも
間違いないわけですが、とにかく書き込んでおく癖をつけるだけでもよいでしょう。

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