和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

飽きる読者。構える読者。

2021-05-31 | 本棚並べ
鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」
(トランスビュー・2004年)を昨日は読み直す。
万華鏡みたいに角度によりキラキラと輝きます。
これはすぐに、本棚にもどすにはもったいない。
ということで、しばらくこの本をとりあげます。

たとえば、『読者』を鷲尾賢也氏はどう把握していたか。
小見出しの効用について

「節までは著者の構成に含まれる。ところが小見出しは、
・・・・編集者が読者のために挿入するものである。」

「人間の思考能力は高いものであるが、
じつは2~3ページ以上、誌面を眺めつづけると、
誰しもが少し飽きてしまうところがある。」(p129)

はい。こういう箇所を読むと、私はホッとします(笑)。
では、こういう箇所を拾ってみることに。

ベストセラーに共通する、白字が多い誌面について

「活字がぎっしり詰まっていると、読もうという意欲が
どうしても失わせてしまう。それは事実である。」(p125)

「読書は習慣性の要素も強い。
一度足が遠のくと億劫になる。」

はい。一日ブログの更新を怠ると、億劫になります。

「あらゆるものが氾濫している現代は、
情報過多のように見えて、じつは情報過疎になっている。
・・読者が自力で本を探す力が弱くなっている。」(p203)

はい。過疎地だけが、過疎の代名詞ではなくて、
情報過多のなかの情報過疎になりませんように。

読者代表の編集者から、著者への忠告ということでは

「著者側も構造的な発想ができなくなっている。
時代がオタク化を推進していることも関係しているだろう。

彼らはおもしろく伝えるという技術をなかなか会得してくれない。
つまり読者がよく見えていないのである。
  ・・・・・
読者は本に対して、どこか構えている。
それをほぐしてやらなければいけない。」(p101)

読者の読む力についても触れておりました。

「書店だけでなく読者の読む力が弱くなっている。
『良書でござい』とあぐらをかいていてすむ時代ではない。
どうにかしてともかく買ってもらう。
そうすればその中の何割かは読むだろう。
そのためには読者に本の存在を知ってもらわなければならない。
・・編集者のフットワークが要求されるのである。」(p175)

はい。こんな編集者のフットワークに
知らず知らず影響を受けていたのかも。

ともかく、私は本を買っておりました。
買った本の、その何割を読んだのだか。
という狭い発想ばかりしておりました。

この思いは、ひっくり返してもよかった。
『その何割かは読むだろう』という鷹揚。
ひょっとしたら、今までのわたしは、
本の広告やら、本の書評から、編集者の
その『こころざし』を買っていたのかもしれない。
そう思えてくるのでした。

再読し、以前思いもしなかった
その内容を味読できたよろこび。
ということで、明日も続けます。



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新書で思い浮かぶのは。

2021-05-29 | 本棚並べ
本棚から取り出したのは、鷲尾賢也著の
「編集とはどのような仕事なのか」(トランスビュー・2004年)。

うん。けっこう線を引いているので、
熱心に読んだはずなのに、すっかり忘れておりました。

はい。熱しやすく冷めやすいタイプです。本の読み直し。
とりあえずは、パラパラと線をひいてある箇所を眺める。

ちなみに、著者は講談社の編集者でした。こんな箇所がある

「戦前の講談社の少年社員も書道、手紙、剣道を徹底的に仕込まれた
 (剣道があるところがいかにも講談社らしい)。」(p95)

著者鷲尾賢也(わしおけんや)氏は、1944年、東京の下町に生まれる。
とあります。1969年、講談社入社。
・・・講談社現代新書の編集長、PR誌『本』編集長などを歴任。
・・・別に、小高賢の名で歌人としても活躍・・・

内容豊富な一冊で紹介しようと思えば、支離滅裂となりそうです。
ここでは、講談社現代新書と京都。

「当時現代新書は、岩波新書、中公新書に大きく遅れをとっていた。
あまりにも売れないので、やめようという社内の意見も多かったそうである。
・・・・大衆向け出版の講談社というだけで、多くの先生方は
真剣に相手にしてくれなかった。週刊誌を発行している会社とは
つきあいたくないという顔を、露骨に見せる先生もいた。
アカデミズムとはこういうものかと、悔しかったことをよく覚えている。
人文研(京都大学人文科学研究所)など、いわゆる京都学派の方々に
積極的に執筆をお願いしたのは、そこには権威主義の匂いが少なかった
からであろう。・・・」(p22)

うん。本の最後の方にも京都が出てきておりました。

「新書の世界で講談社が、岩波、中公の後塵を拝していたことは
すでに述べた。東京より京都の方が差別される度合いが少なかったのだろう、
当時の編集長は企画のターゲットを京都の著者に絞っていた。
桑原武夫、今西錦司、梅棹忠夫、林屋辰三郎、奈良本辰也、貝塚茂樹
といった大物に接触を試みていた。そこから、その
弟子筋が紹介されるのが京都システムであった。」(p210)

「『季刊人類学』という雑誌を社会思想社からひきついで、
編集実務を講談社が引き受けていた。当然赤字であるが、
今西錦司、梅棹忠夫以下のいわゆる文化人類学関係の
著者獲得の一方法としてはじめたと聞いている。その結果、
岩田慶治、佐々木高明、米山俊直、谷泰、松原正毅といった
方々と長い間、おつきあいが生まれた。・・・・」(p211)

うん。引用ついでに、つづけます。

「銀閣寺の近くの岩田慶治さんのお宅に、
京都出張のときはよくうかがった。何冊か単行本を手がけたが、
猫の寝ている姿から寝釈迦にはなしが展開するなど、
岩田学は独特で、また読者も熱っぽかった。杉浦康平さんも
そのひとりで、岩田さんの学問と人柄をいつも絶賛されていた。

戦争中、特攻隊に志願するものは一歩前に出ろ、といわれたとき、
出るか出ないかというはなしが印象に残っている。・・・・
岩田さんは前に出てしまった。もちろん出撃する前に
戦争は終わってしまったのだが。

米山さん、谷さんのお二人が『季刊人類学』の実務の中心であった。
三カ月に一度、京都大学人文科学研究所の一室で・・・
論文の掲載や、コラムの担当などを決めるのだった。
 ・・・・・・
よくはなしに出るのは今西錦司先生のことだった。
一度きめたら梃子でも動かない。変えることのできるのは
天皇だけだなどと、弟子筋が笑いながら酒のさかなにしていた。

私は直接、今西さんを見た(?)のは二、三度しかない。
伊谷純一郎さんが英国のハクスリー賞を受賞したパーティーで、
進化論の敵国から賞をもらうとはけしからんと挨拶されて、
会場を沸かせたことを記憶している。」

「人文研時代の梅棹忠夫さんは知らない。
私は民博館長になってから以後のおつきあいである。
『館長対談』という本を何冊かつくっている途中、
視力を失くされる不幸に遭われた。
私が担当した『夜はまだ明けぬか』という体験記は、
そのときのことを書かれたものである。
以後何冊もエッセイ集を刊行した。ともかくパワフル。
視力を失くされてからの出版の方が多いというのであるから、
お目にかかるたびにこちらがタジタジとなってしまう。
三原喜久子さんという名だたる秘書の片に、
絡め手から頼みこむのが常であった。」(p213)

はい。編集者から見た京都という視点が、
赤字続きの雑誌編集をひきうけることと同時に鮮やかで、
ついつい他にも引用したいことがあるのに、残念ここまで。

あ、そうそう。わたしの講談社現代新書といえば、
板坂元著「考える技術・書く技術」
板坂元著「続考える技術・書く技術」
ついつい、新書で探すのが面倒なので、
身近な本棚に置いております。


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眠りの姫よ 起きなさい

2021-05-28 | 本棚並べ
はい。読んだ本でも、すぐに忘れますね。
そのかわりに、再読のたび、何だか新鮮。

今日になって、本棚からとりだしてきたのは
河合隼雄・長田弘「子どもの本の森へ」(岩波書店・1998年)。

うん。本文には子どもの本の紹介を対談で語っているのですが、
その紹介本を読んでないので、正しくは未読本になるのかなあ。

けれども、この本の、はじまりが忘れられません。
うん。途中から引用してみます。

長田】 本はほんとうは必要な家具でもある。
ツンドクしてちゃんと時間をかけないとだめで、
葡萄酒みたいに、ちゃんと寝かせておいてこそ、
おいしく熟成するものですね。

河合】 寝かせてなかったらだめです。

長田】 いまはその寝かせ方が、本に足らないんじゃないか
なあって思いますね。・・・・・(p6)



長田】 しなかったもの、しそこなったもの、
つい忘れてそれっきりのもの、そういうもののなかには、
じつは、自分で気づいてない豊かなものがいっぱいあるんだ
ってことを、忘れたくないですね。

たとえば図書館へ行けば、読んでない本、読まないだろう本が
圧倒的なのが当たり前で、読んでない本、知らない本が
いっぱいある図書館が、いい図書館。

河合】 そのとおりですね。
ぼくは『読みなさい』って言わないんです。
『こんなん読まな損やで、こんなおもしろい本』
と言うことにしてる。

長田】 よくないのは、要約しろっていう読み方。
その考え方が読書をつまんなくしちゃってると思うんですね。
要約なんかしなくていい。それよりもその本のどこか、
好きなところを暗誦するほうがずっといいと思うのです。
  (p7)


はい。これを新刊で読んだので、今から23年ほど前に
なるのでしょうか。この箇所を合言葉として、今まで
『本の寝かせ方』を試していたような気がしてきます。

はい。それでは『眠りの姫よ 起きなさい』。
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道すがら。

2021-05-27 | 本棚並べ
河合隼雄・・「ウソツキクラブ短信」(講談社・1995年)に
「駅名さまざま」というので、千葉県が登場しておりました。
車中で居眠りして車掌さんに場所を尋ねると

「『これ、どこ行きですか』
 『キミツです』
   ・・・・・
彼はなんだか不安になってきて、ふと気づくと電車が
ガタガタと揺れはじめ脱線でもしそうな感じになってきた。
『そ、それで、こ、これ何線ですか』
『ボーソー特急です』
『暴走特急が機密の駅に行く』
 ・・・・
関東の人にとって、房総特急の駅の終点に
『君津』という駅のあることぐらいは常識であるだろう。」
 (p43)

このあとには、京都の桜の名所・周天街道が
語られておりました。

「この周天に行くのに、バスに乗るのだが、このバスが
『途中行き』なのである。京都から滋賀の方へ抜けてゆく
道の途中であるから『途中』というのだろうが、なにしろ、
それがバスの終点なので混乱のもとになるのだ。

私が京都駅に着いたときのことだ。案内所へ行って、
『周天まで行きたいのですが』と言うと、
京美人の案内嬢が現れ、ハンナリとした声で、
『しゅうてんどすか、そんなら、とちゅう行きのバスにお乗りやす。
しゅうてんまで行かはると、とちゅうどすから、
とちゅうのしゅうてんでお降りやす。おわかりやしたか。・・・』」
(p44)

うん。杉本秀太郎著「ひっつき虫」(青草書房・2008年)に
杉本氏が京都から千葉へと出かける場面が載っておりました。
うん。せっかくなので丁寧に引用してゆきます。

「・・『浅井忠の図案展』を見るべく佐倉に行った。
昔は徳川の重臣堀田氏の城下として栄えた下総国印旛郡の
この町を訪れるのはこれが初めてであった。

京都を発って東上するあいだ、靄の立ちこめた薄暮のような
天候が静岡までつづいたが、総武本線に乗り継いだ昼すぎには
日が射してきた。千葉には何度となく行ったことがある。
往き帰りの電車から見る東京千葉間の都会の景ほど
荒涼無残なものはない。千葉をすぎてもなお同じ。

ところが四街道の町が切れると、不意に景色は一変し、
櫟(くぬぎ)、小楢の雑木林が冬枯れの薄野を挟んで展延し、
なだらかに目路を遮りはじめる。

いまから五十年前まで、私たちの日常生活に欠かせぬものだった
炭のうち・・・上質の白炭として名高かった佐倉炭は、
この雑木林あっての産物なのだった。・・・・

浅井忠が佐倉の町を東に一里ばかり出外れた将門山の屋敷に
少年の日々をすごした文久から明治初めにかけての世には、
印旛の林間に炭焼小屋が点在し・・・かように思い描いていると、

京都に移り住んだのちの浅井忠には、比叡山のふもと
八瀬の里から薪をかしらに載せて京の町に出てくる大原女の姿に、
故郷の追憶がかさなっていたのかと俄かに腑に落ちるものがあり、
油彩にも水彩にもたびたび大原女をえがいた上に、絵皿、茶碗の
図案のなかにまで同じ姿を採用した人が、まだ佐倉駅に着かぬ
うちから、なつかしくてたまらなくなった。

とりわけ私の眼底によみがえるのは、
洛北の櫟林の小道を奥のほうに歩み去るひとりの
大原女を点景人物とする『秋林』と題された水彩画であった。
浅井忠の力量を剰す所なく見させるすばらしい水彩画。」
(~p207)

「総武本線の佐倉駅は、佐倉の町からずいぶん遠くにあった。
・・・・美術館は・・もと川崎銀行の西洋建築をそのまま
活用していた。私は美術館に赴くときには、いつもそこにいたる
道中にこだわるという習癖をもっている。」(p207)

ちなみに、「道中にこだわるという習癖」といえば、
杉本秀太郎著「見る悦び」(中央公論新社・2014年)の
まえがきに、こんな箇所があるのでした。

「柳田國男というひとりの大博物誌家は、あるとき
慶應義塾の山岳部員に、君たちは山を見ても、
途中のことを何故よく見ないのかね、と語った。・・・」
(p2)

はい。私はここを読む前までは
浅井忠の水彩画なんて、と思っておりました。

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庭の手入れ。本の読直し。

2021-05-26 | 本棚並べ
今日は一日庭の手入れ。
車で30∼40分の家へと出かけ。
まず、雨戸を開け家の深呼吸。
今日はそれなりに日差しあり、
風もよく通ります。

隣りの境の側溝のどぶ掃除。
隣家へひろがる枝切りに、
側溝まわりの雑草処理。
キレイさは眼中になく、
とりあえず一日でやれるところまで。
はい。そう思えば気が楽でした。

帰ってきてから開いたのは
「半歩遅れの読書術 Ⅱ」(日本経済新聞社・2005年)
の河合隼雄氏の「庭の手入れ」(p223∼224)。
その短文の最後はというと、

「本の読み直しは庭の手入れに似ている。」

私なんて、読まない癖して買ってしまった
本のことばかり思い悩んでしまうのですが、
そこはそれ河合さんは、やっぱり違うなあ。

はい。これから梅雨の季節になると、
庭の手入れは御免とさせてもらって、
はい。「本の読み直し」ついでに
本棚の並べかえをしてみます。

うん。今思っているのは
京都関連の本をコーナーにして、
さらに、地域ごと本の並べ変え。
京都の次は、大阪で、そうそう、
江戸のコーナーは欠かせません。
江戸は幸田露伴や幸田文がいて。
それに山本夏彦がいるじゃない。
はい。幸田露伴なんて、京都の大学へ呼ばれたのに、
そそくさと、東京へと舞い戻ってしまうのですから、
これはこれで、本棚の並び替えの醍醐味がありそう。
はい。思うだけならいろいろとですね(笑)。

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司馬さんの謎かけ。

2021-05-24 | 本棚並べ
対談集は、お気楽に読めるのが好き。ありがたいのは、
あとでよみがえる印象に残る言葉があったりするとき。

佐藤忠良・安野光雅『ねがいは「普通」』(文化出版局・2002年)。
このなかで、安野光雅さんが語っておりました。

安野】 司馬遼太郎さんがあるとき

 『絵に描いてあるリンゴと本物のリンゴを比べたとき、
  絵のリンゴのほうがいいってことは、どういうことなんだろう』
  って謎をかけるんです。

 『絵に描いたリンゴは食べられもしない。それなのに
  絵のリンゴのほうがいいっていうのは、どういうことなんだろう』
  って。

 カレイの干物の絵を描く人がいるでしょう?
 ではカレイの干物をキャンバスにはりつけたほうが
 いいかっていうと、そうはならない。
          ( p22~23 )


そういえば、『謎かけ』って『問題を出す』ってことですね。

 「問題を出すということが一番大事なこと、うまく出す。」
   ( 「対話 人間の建設」小林秀雄・岡潔 )

 「問いはそのままに答へであり」
    ( 伊東静雄の詩「そんなに凝視めるな」の一行 )

 「問いはそのまま答えなのだ」
    ( 杉本秀太郎著「見る悦び」p378 )


もどって、山根基世さんが佐藤さんに質問していました。

山根】 最近、佐藤先生は、木のデッサンだけを集めた本を
    お出しになりましたが、彫刻家がなぜこんなに
    デッサンやスケッチをよくなさるのですか?
             ( p63 )

その質問の下には、注がありました。
「『木』こどものとも539号/2001年2月、福音館書店刊  
 佐藤忠良の木のデッサンと、詩人・木島始の文による絵本。」

はい。気になるので古本で注文しました。これは、
後に表紙がしっかりした絵本になっておりました。

最初のページには、描く木の写真です。
次のページには、描いている佐藤忠良氏の写真。
その右ページに、言葉が添えられておりました。

  おおきな木は
  なにを かんがえているのかな

  おおきな木を
  えに かくと

  おおきな木は
  いろいろ はなしをしてくれる

そして、木の根っこのデッサンからはじまって
だんだんと枝が描かれ、木のこぶし、木々の様子。
そして、枝に緑がすこしずつ現れだす芽吹きの様子。

最後の頁は、写真でした。
スケッチブックを片手に、佐藤さんが右手で木に触れて
見あげております。木島始さんの文は

  ありがとう
  また くるよ
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夏木マリさんの横笛。

2021-05-23 | 本棚並べ
朝ドラ『おかえりモネ』第四回目の録画を、また見直す。

四回目の最後の方、ほんの少しですが能舞台で謡(うたい)
が始まる前に、夏木さんの横笛を吹く場面があるのでした。

恐らく、現地の方の横笛の音にあわせてでしょうね、
夏木マリさんが笛を吹く姿勢で、指を動すその姿が、
一度の場面なのに、引きしまって印象鮮やかでした。
はい。その景色を、録画で再生して見ておりました。

そういえば、枕草子が浮かんできました。
「笛は、横笛、いみじう、をかし。」と始まる段がある。
そのなかに、吹き方という指摘がありました。
ここは、島内裕子さんの訳で引用してみます。
まず、笙に触れております。

「笙(しょう)の笛は、月が明るい夜などに、
牛車に乗って移動している時、どこからともなく
聞こえてくるのは、とてもよい。ただし、
笙の笛は横笛よりも大きいので、取り扱いが難しい
のではと感じられる。笙の吹き口が下の方にあるので、
顔の中央に持って来て、両方の頬を膨らませて吹く時の
顔といったら、ちょっと滑稽なくらいであるが・・・。
まあ、それは管楽器の場合、どれも似たようなもので、
小さな横笛でも、吹き方一つで、顔がよく見えたり、
滑稽に見えたりするのだろう。・・」
( p217。ちくま学芸文庫「枕草子 下」島内裕子校訂・訳 )


昨日。「黒川能の世界」(平凡社・1985年)の
馬場あき子さんの文を引用しました。
その文に、門笛の名手が語られてる。

「毎年四月はじめ・・・
黒川の門笛は獅子を連れて一軒一軒ていねいに村を巡ってゆく。」

「門笛の名手・難波甚九郎さんは70歳を超えたが、
ただ一人しかいない貴重な現役である。・・・・
・・甚九郎さんにとって、この四日の間、
夜遅くまで笛を吹いて村々をまわることは
決して楽なことではない。子息の玉記さんは
笛をはじめてまだ日が浅いから、甚九郎さんにいわせれば、
『まだ恥(はず)がすぐで、人さまに聞がせらいね』ということになる。」
( ~p28 )

この笛の音を、馬場あき子さんは、こう書いておりました。

「« 流し »と呼ばれるその曲は、
りょうりょうとして若やかで、馥郁としてなつかしい。
そしてどこかにもの哀しい音色を秘めて、しみじみと春を待つ
草木や名もない土地神の祠の扉にしみとおってゆく。」(p27)

はい。枕草子の『笛は』のはじまりを
ここはまず原文で、次に現代語訳で、引用してみます。

「笛は、横笛、いみじう、をかし。
遠うより聞こゆるが、漸(やうや)う、近う成り行くも、をかし。
近かりつるが、遥かに成りて、いと仄(ほの)かに聞こゆるも、
いと、をかし。・・・・」

「管楽器の中から選ぶとすれば、何と言っても横笛が、素晴らしい。
遠くから横笛の音色が聞こえて、それが段々こちらに近づいてくるのも、
趣深い。そしてまた、近くではっきり聞こえていた横笛の音が、次第に
遥かに遠ざかってゆき、ほんのかすかに聞こえるだけになってしまうのも、
とても面白い。・・・」
(p215~216。ちくま学芸文庫「枕草子 下」島内裕子校訂・訳)


はい。ちなみに、『徒然草』の第16段に、
笛・篳篥(ひちりき)をとりあげた短文があります。

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黒川の春告げ笛

2021-05-22 | 本棚並べ
ちょっと、『能』についての古本が目につくと
その都度買っております。
「黒川能の世界」(平凡社・1985年)も、そんな一冊。
写真入りの本です。はじまりに『春告げ笛の頃』という文が
ありますので、紹介がてら引用。

「・・庄内平野・・日本海から吹きつける吹雪が、
横なぐりにこの平野を吹き抜け、月山にぶつかって吹き溜る。
その麓に位置するのが黒川である。鶴岡から南へ8キロほど
入った東田川郡櫛引町の村落である。・・」

はい。この本の最後には、黒川能役者名鑑として、
学校のアルバムのように、一人一人が免許書の写真サイズに
紹介されています(白黒写真)。
黒川能をささえる役者衆152名の氏名・生年月日・役どころ
が写真下に紹介されておりました。

最初の文にもどります。そのおわりの方にこうあります。

「毎年4月のはじめ・・・黒川の門笛は獅子を連れて
一軒一軒ていねいに村を巡ってゆく。

村境にいたるとその土地への挨拶の一曲、
・・墓原の縁に佇んで一曲。・・
路傍の祠の前、村の字々の小社の前、
千年の松といわれている巨木の前、
馬頭観音の前でまた一曲。
それに合せて獅子頭もぱくぱくと風を噛む。

« 流し »と呼ばれるその曲は、りょうりょうとして若やかで
・・・・
この笛が通っていったあとには、まるで農事をうながすように、
やさしく田打風も吹きはじめる・・・
笛は塗りの美しい黒漆の竜笛であった。・・

家々では門笛がやって来ると、盆にいっぱいの米を用意し、
連れている獅子に頼んでいろいろと邪気払いに噛んでもらう。
目を閉じて坐るお年寄り、逃げ腰の幼子まで、
病気をせぬよう、幸せが来るようひとしく祈るのである。」
(p25~27)


はい。この本が1985年に出版ですから、
今の黒川能はどのようになっているのでしょう。
役者名鑑の人たちは、どうしているのでしょう。

この本は、どうも紹介本のようで、ほかに、
重要な黒川能へと導きの本があるようです。




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朝ドラの『能』

2021-05-20 | テレビ
気になったので、朝ドラ『おかえりモネ』
第四回目の、今日の分を録画しました。

主人公が居候している先の女主人・夏木マリの家。
その家が気になりました。はい。確認できました。

現代風の部屋で、フローリングに食堂のテーブルがあり、
一段あがって正方形の畳が敷かれた部屋となっておりました。
囲炉裏があって、南部鉄瓶がのっています。

録画を停止して、その畳の部屋の壁のようすを確認。
上に大きな神棚があり、すぐしたに横広の大きな掛け軸。
掛け軸に「伊達政宗遺訓」の書が墨痕あざやかに見れます。
その下に、低いはめこみ式の窓になっていて、その向こうが
坪庭にでもなっているようで、雨がふると下を覗き込んでいます。

さて、神棚・掛け軸にむかって、左に陣羽織。右に日本刀が飾られ。
夏木マリはお辞儀して、そこに置かれた笛をおもむろに取りだす場面。

第四回目の今日は、登米能がはじまるのでした。
夏木マリが横笛をふき、能がはじまっております。
謡の年配の方は地元の能保存会の方なのでしょうか。

うん。ここまで確認できました。
さてっと、佐藤憲一著「素顔の伊達政宗」(洋泉社歴史新書)
に「能楽史上に残る能楽好き」とある箇所。
そこから引用。

「和歌、茶の湯と並んで当時の武将たちの代表的な嗜(たしな)み
のひとつが能楽である。豊臣秀吉や徳川家康といった天下人が能楽を愛し、
能役者に扶持(ふち)を与えて保護したことは有名な話である。

伊達政宗も生涯にわたり能楽を愛した。・・・・・

政宗が能楽に親しむようになったのは、
父輝宗の影響が大きい。輝宗が来客の接待に能を催したり、
たびたび勧進能を行っていたこと、家臣たちと囃子(はやし)に
熱中していたことなどが、その天正2年の日記にみえる。
また、天正12年の『正月仕置之事』には『14日(中略)
らんふはしめ(乱舞始)』とあり、米沢に下った役者が
輝宗・政宗の前で謡や乱舞、狂言を演じることが
佳例(かれい)となっていたことがわかる。

こうした家庭環境が政宗の能楽嗜好をつくりあげたといえるだろう。
政宗はみずから太鼓を打つ腕前であった。・・・」(p207~208)

ちなみに、この新書の副題は「『筆まめ』戦国大名の生き様」とあり

「政宗は筆まめな人だった。生涯にわたり、手紙をコミュニケーションの
手段として上手に利用した。そして、大切にした。実にたくさんの
自筆(直筆)の手紙を残している。それらの手紙から自ずと
政宗像が浮かび上がってくる。」(p222)

私に興味をひくのは
「仙台市博物館に『萩(はぎ)に鹿図(しかず)』という
四曲一双の屏風がある。金箔で覆われた画面には、
咲き乱れる萩と薄(すすき)、それに水辺に憩う一組の鹿の
母子が描かれている。・・・・・
画中に動きがあるのは金地の余白全体に添えられた
流麗な和歌や漢詩の散らし書きのせいだろう。・・・・

散らし書きの筆者は伊達政宗。絵は政宗が晩年に棲家とした
若林城(仙台市若林区)の襖絵と伝える。
画家は不明だが、京都から政宗に招かれ。
仙台城の襖絵などに腕をふるった狩野(佐久間)左京か
その周辺の絵師と推測されている。・・・」(p198~199)

はい。朝ドラなのですが、背景のセットを見ながらだと、
時代背景まで振り返れて、ありがたいことに楽しめます。



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朝ドラの『書』

2021-05-19 | テレビ
時代劇に、床の間が出てきたりすると
掛け軸や、生花が気になるようになりました。

朝はBSで、朝ドラ「おかえりモネ」を見て、
そのあと、火野正平の「こころ旅」を見てます。

今週から始まったばかりの「おかえりモネ」に、
初回から気になった書が出てきておりました。
今日は、その書が丁寧に映し出されていて、
「伊達政宗公遺訓」とわかったのでした。

そういえば、だいぶ前ですが、おみやげで松島博物館・観瀾亭の
書をもらったことがあり、どこかに取ってあった。
( はい。捨てずにとっておくタイプです )

出てきました。
素人の私には読めなかったですが、
ちゃんと活字もついておりました。
この機会に引用してみることに。

  貞山政宗公遺訓

 仁に過ぐれば 弱くなる
 義に過ぐれば 固くなる
 礼に過ぐれば へつらいとなる
 智に過ぐれば うそをつく
 信に過ぐれば 損をする

はい。この個所が朝ドラでは大きく分かりやすい書で
畳一枚を横にしたサイズに、筆で書かれておりました。
それを朝、主人公ら三人で読んでから朝食。
そんな場面が、今日の回にありました。
はい。こちらは、床の間じゃなくって、
現代的な建物の普通の壁に掛けてありました。

おみやげの活字には、この続きがありますので、
引用しておくことに。

  気長く心穏かにして
  万に倹約を用ひて金を備ふべし
  倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり
  この世の客に来たと思へば何の苦もなし
  朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし
  元来客の身なれば好嫌は申されまし
  今日の行きおくり
  子孫兄弟によく挨拶して
  娑婆の御いとま申すがよし

はい。おみやげに貰ってあっても
読まずに、そのままになっておりました。
よい機会なので、ここに引用しました。

活字には、日本三大遺訓とあり、
丁寧に、徳川家康・水戸光圀も書かれておりました。
  
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「そういえばそうだな」

2021-05-18 | 本棚並べ
『ウソツキクラブ短信』(講談社・1995年)の著者は、
河合隼雄+大牟田雄三(おおむだゆうぞう)とあります。

序「いま、なぜウソが大切か」の、はじまりは

「本書の著者、大牟田雄三君とは本文にもあるとおり、
生れて以来の無二の親友である。しかも、容姿が
いわゆる瓜二つというわけで、よく間違われた。
われわれも面白半分に二人で役割を交換し、
同級生や親兄弟までも欺いたりして楽しんでいるうちに、
本人たちでさえどちらがどちらなのか不明になることさえあった。

ただ、生来の性格で言えば、私はキマジメというか、ウソはおろか
冗談ひとつも言えぬ人間で、万事控え目で無口な方であったが、
大牟田君は、これとはまったく対照的で、子どものときから饒舌で、
虚実の世界を自由に駆けめぐる才能があった。・・・・・」(p1)


はい。長谷川町子さんなら、「サザエさん」と「意地悪婆さん」
との使い分けという感じで、あてはめてもよいのでしょうか。
ちなみに、河合隼雄氏は7人兄弟(一人は夭折)だったそうで、
兄弟やりとりの延長で自然に大牟田雄三君が登場していたのかも。
うん。そういえば、赤塚不二夫著「おそ松くん」は六つ子でした。

本文はといえば、絵のでてこない癖して、面白漫画みたいに楽しかった。
あまり気楽にサラサラと目で追って、私はそのままになっておりました。
どういうわけか、今回思い浮かんできたのが、この本です(笑)。

序の最後の方の言葉が、本の帯に引用されておりました。
そこも引用。

「総じてマジメ好きの大日本国において、
こんな本がほんとうに売れるのか心配である。

もし売れ行きがよかったら・・・・
成熟した知恵を日本人が身につけて
いることの証拠として喜びだい。」

( 現在ネット上で、高橋洋一氏のさざ波・ワラワラ問題で
ご本人が、丁寧に、繰り返し解説をされております。
それが有難く、それを私も、その都度繰り返し聞いています。 )

さてっと、この本の
装幀・装画は、安野光雅。
挿画は、大田垣晴子。
絵のない漫画のような、そんな本なので、
装幀・装画・挿画はとても滋味な味わい。
本文を引用しているとキリがないで、
またもや、最後を少し長く引用してみることに。

「『ウソツキ』の種もだいぶ尽きてきたので、
そろそろ日本ウソツキクラブ会長を定年退任する
との噂のある河合隼雄氏に、『あなたが子どもだったころ』
について語ってもらうことにした。・・・・・

大牟田】 今日はどうもご苦労さまです。
会長には、いろいろとユニークな方と対談された
『あなたが子どもだったころ』というおもしろい本がありますが、
今日はご自身のことについて縦横に語ってください。
   ・・・・・・
男兄弟六人とのことですが。

河合】 はい、私は五番目で『ゴナン』なのです(笑)。
他の兄弟はスポーツが得意でね。
私だけ運動神経が鈍くて、劣等感に悩みました。
三番目の兄、雅雄は走るのがすごく速く、運動会の花形でした。
 ・・・・・・
大牟田】雅雄さんというのは、あの猿学の研究者ですね。

河合】そうです。走るのが速いのでアフリカでゴリラに
追いかけられたときなど得をしたらしい。・・・・・
(p229~230)

うん。ついつい引用しちゃいます。
ここで、肝心なこの本のしめくくりを引用。

河合】 ・・・・それにしても、きみもよく、
これだけナンセンスなことを書き続けてこられたね。

大牟田】いや、最初のころはすらすらと自然に出てきたのが、
最近は筆が鈍ってきてね。

河合】 老化現象?

大牟田】 いや、そうではなくて、このごろの世の中は、
    『悪質なウソ』がはやりすぎるのでね。

河合】 ウソにも良質とか悪質とかあるの。

大牟田】最近の新聞の一面を見るとよくわかるだろう。
    自分の利益をはかるためにウソをつく。
わが日本ウソツキクラブはユーモアのあるウソを大切にしているのだが、
そんなことのわからない人たちが――あのマジメクラブの連中なんだが――
『ウソはいけない』というキャンペーンを張って、まず第一に、
『ウソツキクラブ短信をボイコットせよ』などとわめいているのだ。

自分のためにするウソツキと、マジメ人間とにこの世の人は
分かれてしまって、俺などはこの世にいないほうがいい、
という感じになってくる。

河合】 今の世の中、間違っている、と大声で言いたくなるのは、
そもそも老化の徴候だよ。『この世にいないほうがいい』などと
張り切らなくとも、そのうちに自然にこの世にいなくなれるから
心配いらないよ。

大牟田】そういえばそうだな。
なにもやたらに慨嘆することもないわけだ。
終わりが少しおかしくなったが、今回は珍しく二人で
マジメに話しあいをしたね。・・・どうもありがとう。

河合】私も、自分の個人的なことを言うのは好きでないのに、
ウソツキクラブということで、なんだか思わずしゃべってしまったね。
それじゃお元気で。





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雑木林の河合雅雄さん。

2021-05-17 | 本棚並べ
昨日の読売新聞社会面(p28)に
河合雅雄氏の死亡記事。
「14日、老衰のため死去した。97歳だった」とあります。
河合隼雄氏の実兄。

以前に、読んだのは福音館日曜文庫の
河合雅雄著「少年動物誌」の一冊。
この本の挿画は平山英三。河合氏の文章に
融け込むようにして印象に残っております。

うん。子ども向けのわかりやす文章なのに、
なにやかやと内容があり、ゆっくりでしか読めなかった。
そんな記憶があります。いつか読み直そうとそう思って、
そのままになってしまった一冊でした。

うん。ここでは買っても読まなかった
河合雅雄著「学問の冒険」(佼成出版社・平成元年)を
とりだしてくる。その「はしがき」から引用することに

「私は学問の世界においても、妙な言い方だが、
雑木林をもって理想としている。さまざまな生き物が、
大きな動的な調和の世界でおのれの命を強くたくましく生きている姿は、
それぞれの個性や資質を果てしなく伸ばしていこうとする人間の姿を
彷彿(ほうふつ)とさせる。

学問は元来、そういう人間の中から創られ支えられてきたものである。
見渡す限り同じような動植物に統一された純林のような学問世界からは、
学問を力強く発展させる独創性は生まれてこないだろう。

・・・・独創性を育むには、それに適した« 林 »が必要であり、
同時に個々人が旺盛なる探検精神に目ざめることが大切であろう。
探検とは読んで字のごとく未知の世界を探り、
探りあてた新しいものを検(しら)べ、創造的な世界を生みだすことだ。
・・・つまり冒険の中に身を置くことに、
あえてたじろがない心が要求されるのである。」(p2)

はい。私の読書は「はしがき」だけ。
いつかもう一度、読み直したいと思っていた、
『少年動物誌』を、この機会にめくることに。
そこに、独創性を育む« 林 »が見つかるかも知れない。
はい。独創性と年齢とは関係ないですよね。そう信じて。


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なぜ樹を描くのか。

2021-05-16 | 本棚並べ
古本で買ったのに読まなかった本。
そのまま読まずじまいが普通です。
今回は対談なので手にとりました。

佐藤忠良・安野光雅『ねがいは「普通」』(文化出版局・2002年)。
はじまりは、佐藤忠良氏の2ページの文でした。こうはじまります。

「北海道から上京し、22歳で初めて粘土に手を触れてから、
もうじき90歳になる今日まで、僕はほとんど何の変哲もない
彫刻をつくり続けてきました。・・・」

おしまいは、安野光雅氏で「佐藤忠良さんと素描」と題されてます。
そのなかに、

「彫刻家がヌードデッサンするというのはわかるが、
どうして風景や木や果物などを描くんだろう・・・」(p155~156)

「佐藤さんの素描作品については、まだまだたくさん言いたいことがあるが、
ここでは、『なぜ樹を描くか』という疑問についてだけ憶測を述べた・・」
(p159)

はい。まえがきと、あとがきを読めば、
それだけで読んだ気になるわたしです。

対談の本文には、木の素描やら、アトリエの彫刻の写真やら、
お二人の顔写真など出てきて、ついついひらいてしまいます。
読むつもりでなくても、余白の多い活字なのでさそわれます。

佐藤】 我々美術家というのは――彫刻でも何でも――
素描、デッサンですね、それに力量がすべて出ちゃうんです。

だから僕は、素描を人に売りたくないし、
人のは盗み見しても見たいですよ。

どんなに有名な人でもデッサンを見ると
『えーっ?』と思うようなことがありますが。
これは職人どうしの目ですよ、・・・・・
素描がその作家の力を露呈してしまうということ、
これは僕は身をもってお話できると思うんですけれども。
  (p58~59)

佐藤】・・・・・
素描というのはいちばんボロが出るんですよ。
ちょうど雑談しているときと同じでね、
構えていないのに力量がわかる。(p64)


はい。わたしはこれだけで、満腹。
そういえば、福音館書店の絵本「おおきなかぶ」の
あの絵は、佐藤忠良氏だったのですね。
はじめて知りました。
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読書人素描

2021-05-14 | 本棚並べ
桑原武夫著「人間素描」(筑摩叢書)で、印象鮮やかなのは、
読書人を素描していることなのでした。
さて、読書人の風貌といってもよいのでしょうが、
とりあえず、西堀栄三郎氏から引用。

「・・・・彼(西堀)との交友のおかげだと思う。
私は読書論をかくたびに彼の風貌を想起せずにはおられない。
とくに忘れがたい一場面がある。

ある登山の集会で、浦松佐美太郎氏の講演中、
私はわからぬことがあったので、紙片に疑問を書いて西堀に回した。
彼は例によってグラフと数字を書こうとしたが、紙がない。すると、
彼はその日丸善から買ってきたばかりのフィンチの山岳紀行文集の
豪華本、本文が中央に印刷され、余白の多い、その欄外のところを
サッと引きやぶって、それに答えを書いてよこした。

長塚節の『土』の初版本を見つけて喜んだりしていた私は、
全くイカレた。この間この話をしたら、本人はすっかり忘れていたが、
私のようなものにも、もし読書史というものがありとしたら、
彼の行動はその一転回点をなしたといえる。」(p150)


内藤湖南をとりあげた個所では

「父が、わしの書庫はまるで内藤(湖南)君のもののようだ。
と二、三度いうのを聞いたことがある。

よく先生から電話がかかり、君のところに何々というのがありましたね。
いつか拝借したが、あれの第何章に、ほぼこういう意味のことがあった
と思う。明日講義で引用しなけりゃならないので、恐縮だが電話口で
ちょっと読んでくれませんか。

父は書庫からその本を捜し出してきて半信半疑でページをくると、
その場面に必ずその文句はあった。あの記憶力にはかなわん、
と父は私によく述懐した。」(p13)

もう一人引用させてください。
「狩野先生逸事」と題された、ほんの1ページほどの文。
まず、小料亭の女将お春さんから聞いた話とあります。

「彼女は京都の大先生たちをよく知っていたが、
そのきかせてくれた逸話の一つ。戦争末期、京都も空襲の恐れがあり、
物ぐさの狩野直喜先生もようやく貴重な蔵書の疎開を考えられた。

・・・老儒を困惑からすくったのがお春さんだった。
洛西鳴滝の宇佐美邸に預ってもらうことになり、
定めの日にトラックを用意して田中大堰町のお宅にうかがうと、
モーニングに威儀を正した先生が玄関へ出てこられたので、
お春さんは驚いた。

今日はなんかあるのどすか、とおたずねすると、
わたしが永年厄介になった本、それがあんたの世話で旅立つ、
お別れの日ではないか、と答えられたという。・・・」(p32∼33)

はい。あなたなら、どのエピソードがお気に入りでしょうか?
私は、欲張りなせいか、どのエピソードも忘れ難いのでした。

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83歳の富岡鉄斎。

2021-05-13 | 京都
加藤一雄著「雪月花の近代」(京都新聞社・1992年)。
そのはじまりは『富岡鉄斎の芸術』でした。
とりあえず、パラリとひらいた箇所を引用。

「鉄斎は83歳の時、唯一人の子謙蔵を失った。
この時の老爺の姿は非常に印象的である。

謙蔵なき跡には嫁のとし子さんと三人の孫が残っている。
この人たちがすべて最晩年の鉄斎の肩にかかって来た。

この状は、ちょうど80余年の昔、
一子宗伯を失った滝沢馬琴の運命によく似ている。
馬琴は傷心の暇さえなく、嫁女のお路を唯一の頼りとして、
『八犬伝』を書き進めて行った。

同じように鉄斎もまた、とし子さんを唯一の助手として、
批評家の言葉を借りると、『ベートーベンの交響楽』のような
最晩年の傑作を次々とかいたのである。

この間鉄斎の口からは一語の悲愁ももれていない。
ストイックな諦念(ていねん)の言葉さえもれていないのである。
そしてただ彼の絵のみが蒼勁(そうけい)の美しさをいよいよ
深くして行く――この間の鉄斎の姿は、とし子さんの筆によって、
優しくも生々と描き出されている。・・・・・・
あの白髪白髯も美しい、右眼の少し斜視の、不思議な気魄にみちた
老人の顔を加えたら、この希有の大才の姿は大体遺憾なく出てくる
だろうと思う――
ただし、これに聾疾をもつけ加えてもらいたい。
鉄斎は幼時から耳が遠かったのである。・・・・・」(p34)

「鉄斎の伝記を書くどんな筆者も
『彼は儒者であって、画家ではない』、と書いている。
  ・・・・・
読書博渉は死にいたるまで鉄斎が一日も止めなかったところであり、
筆をとって記録することは異常なまでに好きだった人である。
断簡零墨は膨大な量に達するという。 ・・」(p35)

はい。ここから本文は深まってゆくのですが、
私はここまで。

あと、ちょっと加藤一雄氏の指摘を引用しておきます。

「彼の絵は、どちらかというと、農村の素封家に愛されるよりも、
都会の商人たちに愛されてきた傾向がある。あの強さ、あの濃厚、
ことにあの賑わしさは、寂莫とした農村のものではなく、
都会的商業的なのである。ここに近代から現代への急激な
移行に際して、鉄斎の価値が飛躍する重要なモメントがある
のではなかろうか。」(p37~38)


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