鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」
(トランスビュー・2004年)を昨日は読み直す。
万華鏡みたいに角度によりキラキラと輝きます。
これはすぐに、本棚にもどすにはもったいない。
ということで、しばらくこの本をとりあげます。
たとえば、『読者』を鷲尾賢也氏はどう把握していたか。
小見出しの効用について
「節までは著者の構成に含まれる。ところが小見出しは、
・・・・編集者が読者のために挿入するものである。」
「人間の思考能力は高いものであるが、
じつは2~3ページ以上、誌面を眺めつづけると、
誰しもが少し飽きてしまうところがある。」(p129)
はい。こういう箇所を読むと、私はホッとします(笑)。
では、こういう箇所を拾ってみることに。
ベストセラーに共通する、白字が多い誌面について
「活字がぎっしり詰まっていると、読もうという意欲が
どうしても失わせてしまう。それは事実である。」(p125)
「読書は習慣性の要素も強い。
一度足が遠のくと億劫になる。」
はい。一日ブログの更新を怠ると、億劫になります。
「あらゆるものが氾濫している現代は、
情報過多のように見えて、じつは情報過疎になっている。
・・読者が自力で本を探す力が弱くなっている。」(p203)
はい。過疎地だけが、過疎の代名詞ではなくて、
情報過多のなかの情報過疎になりませんように。
読者代表の編集者から、著者への忠告ということでは
「著者側も構造的な発想ができなくなっている。
時代がオタク化を推進していることも関係しているだろう。
彼らはおもしろく伝えるという技術をなかなか会得してくれない。
つまり読者がよく見えていないのである。
・・・・・
読者は本に対して、どこか構えている。
それをほぐしてやらなければいけない。」(p101)
読者の読む力についても触れておりました。
「書店だけでなく読者の読む力が弱くなっている。
『良書でござい』とあぐらをかいていてすむ時代ではない。
どうにかしてともかく買ってもらう。
そうすればその中の何割かは読むだろう。
そのためには読者に本の存在を知ってもらわなければならない。
・・編集者のフットワークが要求されるのである。」(p175)
はい。こんな編集者のフットワークに
知らず知らず影響を受けていたのかも。
ともかく、私は本を買っておりました。
買った本の、その何割を読んだのだか。
という狭い発想ばかりしておりました。
この思いは、ひっくり返してもよかった。
『その何割かは読むだろう』という鷹揚。
ひょっとしたら、今までのわたしは、
本の広告やら、本の書評から、編集者の
その『こころざし』を買っていたのかもしれない。
そう思えてくるのでした。
再読し、以前思いもしなかった
その内容を味読できたよろこび。
ということで、明日も続けます。