「米騒動の研究」全5巻(有斐閣・昭和34年)は、
1918年(大正7年)の米騒動の全国的概要を都道府県別に詳細を調べています。
ここには、第1巻の「はしがき」のはじまりを引用。
「1918(大正7)年の米騒動は、周知のようにわが国の
歴史上最大の民衆蜂起であった。それは7月22日の
富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たちの集会にはじまり、
9月17日福岡県嘉穂郡明治炭坑の暴動で一応おさまるまで、
すべての大都市、ほとんどすべての中都市、全国いたることろの
農村、漁村、炭坑地帯など、1道3府38県、およそ500カ所以上に
飢えた民衆の大小の暴動、あるいは暴動直前の不穏な状態として
出現した。・・・・・・
騒動の現象そのものは比較的単純であり、
民衆は政治的要求を明確にすることも、ほとんどなかった。・・・・」
ネットで知った財務省前のデモも、最初の方では、
静かに集まって、各自が手製のプラカードを持っていたようでした。
それが、テレビに放映されるようになってから、騒々しさを増して
いるような気がしております(テレビの取り上げ方によるのか?)。
もどって、大正7年の米騒動に関連して、私の注意をひいたのは
この箇所でした。
「 佐渡の相川の明治維新前にもあった。
『 安政元治の交(1854~64)米価暴騰のさい、
窮民の婦女ら数十百人相集まり、人毎に椀一個を持ちて
役所の前に集まり、組頭役の出庁を伺い、
之を囲繞して無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・・』(相川町史)」
( 第1巻p106 )
これは、騒動の類型という項目にでてきております。
そのページをもう少し詳しく引用してゆきます。
「 騒動の目標という観点から、居住型の米騒動は、
さらにいくつかの類型に分けられる。
第一は、富山県下のそれや岡山県の津山町、林野町、
広島県の三次町、和歌山県の湯浅町などのように、
自町村の米を他へ移出することを禁止する要求が
事件のきっかけとなっている場合である。・・・・
そしてこの型では、移出反対と同時に、
市町村当局や有力者に生活救済を嘆願するが、
家屋や器物の破壊など暴動にはならない。
富山県下の事件でも、この型の運動では、
被検束者の釈放を要求して警察に押し寄せているが、
暴動はおこっていない。また富山県下では、
女の集団が椀をもって資産家の門前に立ちならび、
救済要求の沈黙の示威をしている例もあるが、
この形は同地方では、この年以前にも何回かおこなわれている。 」
こうして、佐渡の例を引用されておりました。
このあとに、第二の型が出てくるのでした。
「 第二の型は、米屋、米の貯蔵者等を主目標にし、
安売りを強要し、相手がぐずぐずすれば、ただちにうちこわしをする。
そうして一軒で打ちこわしをはじめると、その後の店では、
しばしば安売り交渉も何もなしに、はじめから
うちこわしになることがある。同時に米商以外の
食糧品店、薪炭店等や高利貸、質屋、家主等をおそう。
江戸時代町人の『うちこわし』とまったく同じである。
・・・六大都市をはじめ、都市の騒動はすべてこの類にぞくする・・」
( 第1巻 p106 )
最後に、もう一度、相川町史の記述をもってくることに。
「 ・・婦女ら数十百人相集まり・・・
囲繞して無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・ 」
財務省前のデモでは、放置すればするほど、初期の無言のデモから、
だんだんと第二の型へ移行してゆかないとも限らないわけなのです。
ちなみにですが、大正7年から5年後の大正12年は関東大震災でした。