和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

火鉢の炭火が。

2020-10-31 | 本棚並べ
大庭みな子著「雲を追い」(小学館)に、
ご自身の両親のことがすこし登場します。

「新潟の田舎で開業し、内科、外科、産婦人科どころか
ときには獣医まで引き受けていた父はよく言っていた。

『子供の病気は何よりもその子の母親に話を聞くに限る。
母親ほど事細かに病状を見つめている人はない。
医者がちょっと診察したってなかなか判る者じゃないよ』。」
(p66)

さて、みな子さんは女学校にあがります。

「昭和22年の冬、新潟県北部の新発田(しばた)市の女学校に
通学したが、雪の多い冬のバスの運行は途絶えがちだったので、
冬は市内に下宿をすることになった。敗戦直後の貧しい時代で、
日本人全部がただ生き残るためにもがいていた。今の親なら
14、5の娘を自炊させて学校に通わせるなど思いもしないだろうが、
それは当時の唯一の道だった。

新発田藩主の屋敷のそばにあった備前さんという未亡人の家に
自炊を条件に泊めてもらっていた。亡くなった夫が読書家だった
ようで、部屋にはその蔵書が残されていたので文学志望のナコには、
静かな雪の夜はうってつけの環境であった。でも暖房は火鉢だけ、
窓から舞い込む細かい雪が降り積むような部屋の中で親元を離れて
一人食事を作るのもせつないものだった。・・」(p79~80)

はい。講談社の「少年少女古典文学館④」の枕草子は
大庭みな子さんが現代語訳をしているのでした。
はじまりの「春はあけぼの」に「冬は早朝」とある
そこにも、火鉢が登場しておりました。
はい。大庭みな子訳で引用。

「冬は早朝。雪がふりつもったら、なおさらだけれど、
霜のまっ白におりた朝もよい。そうでない朝でも、
たいそう寒いなかを、火などいそいでおこして
炭を持ちはこぶさまはいかにも冬らしい。
昼になっていくらか寒さもゆるみ、
火ばちの炭火が白く灰になるころはわびしい。」

この本の、大庭みな子さんの「あとがき」は
こうはじまっておりました。

「『枕草子』は15、6のころからよく読んだ。・・・
日本じゅう食べるものにこと欠いている時代だった。

食べるものも、着るものもなく、もちろん冷暖房などない。
冬になると寄宿舎にはわずかな炭の配給があり、掘りごたつに
当番の生徒が火をおこして、それが唯一のあたたかな場所だった。
学校制度が女学校から高等学校にうつるころで・・・・」

「わたしはその後、大学でも寄宿舎にくらしたので、
実に10年近くの学寮生活を送った。そのあいだじゅうわたしは、
生きている同世代の人たちからもたくさんのことを学んだが、同時に
本と暮らして、その本を書いた作者たちと無言の対話をしてすごした。

さて、『枕草子』だが、最初読んだころはなんといっても
年齢的に男女の間がらのおもしろさなどわからず、叙景的なものも、
ごく表面的な美文めいた調子に酔っていたところが多かったと思う。
けれど、ともかくも、わかってもわからなくてもこの時期に一度目を
通しておきさえすれば、その後の長い人生で、くり返しよみがえる
情景とみょうにつながりあって心にのこるのが、古典の強さという
ものなのだ。こんなにもうつりかわる幾世代もの人たちが読みついで、
なおすてられなかったものとは、そうした生命力の強さともいいかえられる。

年齢によっておもしろいと思うところもちがう。
読みながら、おもわずふきだしたり、首をかしげたり、
ふんと思ったり、あきれたり、感心したり、悲しくなったり、
肩をすくめたり、なるほどと思ったりする箇所がこれほど
豊かな作品はそう多くはない。やはり、名品というべきだろう。」
(~p316)

うん。まだ、引用したくなる「あとがき」です。
ということで、もう少し引用。

「わたしは、ある意味で、幼年時代から目に見える風景と、
上っ面な人の言葉には興味を感じなくなったのだ。
書き残された古い言葉の中にのみ、ときおりほんとうらしい
言葉と人間のしぐさと吐息と目の輝きがある、
生きている人の気配がなまなましくある、と思うようになった。
 ・・・・・・
 ・・・・・・

わたしは『枕草子』のはなやかな宮廷生活にあこがれるというよりは、
宮廷の貴婦人、定子中宮といえど、清少納言といえど、おなじ人間の
欲望と夢をもつ人なのだということに安心した。そして、それを
そのように、描いた作者に敬服した。人をばかにしたり、
いばったりするのも、いまも昔もおなじである――。・・・」

はい。引用はこれくらいにします。
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ついでながら。

2020-10-30 | 本棚並べ
本棚から谷沢永一の本を数冊とりだす。
お気楽に読める対談集をひらくと、
司馬遼太郎著「ひとびとの跫音(あしおと)」を
話し合っている箇所がありました。

木場】 正岡子規は・・・。

山野】 「ひとびとの跫音」ですね。

木場】 あれは小説を呼んでいるような気になりますね。
    ところが小説ではない。

山野】 いわゆる小説ではないですね。

木場】 エッセイでもない。しかしドラマになっている。

山野】そもそも、ジャンルで分けようとすると、
   暖簾に腕押し、途方にくれるのが司馬さんの世界です。

谷沢】「ひとびとの跫音」は既成概念における小説家からは外れています。

木場】しかし、読むとすごいドラマを見終わった感じがします。

山野】司馬史観とか、パノラマ――鳥瞰史観といわれますね。
正体不明の言葉ですが。「ひとびとの跫音」はそれに対するひそかな、
しかし確固たる異議申立てではないですか。「そんなにおっしゃるなら
地べたを這って人間を見る手並みを披露しましょうか」と。

谷沢】司馬さんははみ出すんです。「空海の風景」も、
小説かどうか、判断が難しい。

山野】好ましき逸脱の人、という感じがありますね。
作品によく出てくる名文句の『ついでながら』。
あれも文章の中での好ましい逸脱と思うんです。

谷沢】あれが出てくるので、一部の人は頭から反撥する。
ああいうことは小説の中で言うべきでない、という牢固たる
純文学の観念があるのです。日本に限りませんがね。・・・・


(p93~94)本は
谷沢永一著「本音を語る① 人たらし」(バンガード・1998年)
対談相手は、木場康治・山野博史。

はい、私は「空海の風景」未読です。
   



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たぎたぎしく(よたよた)なって。

2020-10-29 | 本棚並べ
大庭みな子著「空を追い」(小学館)に
「タギタギ」と題する5頁ほどの文は、
古事記からの引用からはじまっておりました。
引用のあとに、こう続きます。

「わたしがこの文章を読んだのは多分15、6歳のころだったろう。
いまわたしは夏以来脳梗塞で半身不随になり、まっすぐに立つことも
座ることもできない。そして、突然このタケルの台詞が生き生きと
甦ったのだ。タケルは脳梗塞で倒れたに違いないとわたしはほとんど
確信した。まあ、そうではないかも知れないけれどわたしの現在の
身体の状況は、実にその文章にぴったりなのだ。
―――わが足はタギタギとして三重に曲がり、得歩まず。―――
無理して一本の足で立とうとすればそういう身体の状態になる。
タギタギ、なんとリアルな表現だろう。
半分麻痺した足のさまそのものである。
わたしは今後日常的に疲れた足をひきずるとき、
どうしてもそのように表現をしたい。・・・・」(p52~53)

はい。この古事記の箇所を集英社「わたしの古典①」の
「田辺聖子の古事記」で、ひらいてみました。
うん。せっかくなのでその箇所を引用。

「倭建命(やまとたけるのみこと)は・・・
伊吹山の神を討ちに出ていかれた。・・・・

すると、山の神が激しく雹(ひょう)を降らせて、
倭建命を、打ちこらしめた。・・山の神の怒りを買ったのであった。

命(みこと)は、やっとのことで山を下られ、玉倉部(たまくらべ)の
清水に着いて・・そこから出発されて、美濃の当芸野(たぎの)のほとり
にお着きになったとき、命はしみじみと述懐された。

『私は今まで、元気な時は、空をも飛んでいこうと思うくらい、
いきいきしていたが、今は、病んで足も動かなくなってしまった。
たぎたぎしく(よたよた)なってしまった』

そうおっしゃったので、その地を名づけて、当芸(たぎ)というのである。
そこから少しばかり進まれたが、ひどくお疲れになったので、御杖をついて、
ぼつぼつと歩まれた。それゆえ、その地を、杖衝坂(つえつきさか)という。

・・・・そこからさらに進まれ、三重の村(四日市市采女町の旧名かという)
にたどり着かれたとき、いわれた。
『私の足は、三重に曲がったように、たいそう疲れてしまった』
そこでその地を、三重という。
そこからさらに進まれて、能煩野(のぼの・三重県鈴鹿郡か)に、
やっとお着きになったとき、もう一歩もお進みになれなかった。
なつかしい大和(やまと)は目前であるのに、
たどり着くことがおできになれない。
故郷をしのんで、倭建命は歌われた。

 倭(やまと)は 国のまほろば
 たたなづく
 青垣(あをかき) 山隠(やまごも)れる
 倭し 美(うるほ)し

・・・・・・」(p168~171)

うん。大庭みな子さんの「タギタギ」の文のはじまりも
引用しておかなきゃね。

「古代の英雄、ヤマトタケルは東征ののち三重県の当芸野(たぎの)
まで来てついに力つきて倒れた。その時の台詞には

『吾が心、恒(つね)に虚(そら)より翔(かけ)り行かむと
念(おも)ひつ。然るにいま吾が足得歩(えあゆ)まず、
當藝當藝斯玖成(たぎたぎしくな)りぬ。』とある(古事記)。

そして彼は地に倒れその地を人は当芸(たぎ)と名付けた。
さらに三重の村に来ると
『吾が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり。』
と述べ、その地を三重と名付けたとある。」(p52)
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みるみる元気になった。

2020-10-28 | 本棚並べ
大庭みな子著「雲を追い」(小学館・2001年)を
寝床でパラパラとひらいてます。
そういえば、と思ったことがありますので書きます。
はじめに司馬遼太郎著「風塵抄二」(中公文庫・2000年)
の最後にある「司馬さんの手紙 福島靖夫」の箇所を引用。
以前にも私は何度か引用してる例の箇所です(笑)。

「文章についての私の疑問に、
 司馬さんはこう書いている。

『われわれはニューヨークを歩いていても、パリにいても、
日本文化があるからごく自然にふるまうことができます。
もし世阿弥ももたず、光悦・光琳をもたず、西鶴をもたず、
桂離宮をもたず、姫路城をもたず、法隆寺をもたず、幕藩体制を
もたなかったら、われわれはおちおち世界を歩けないでしょう』

そして、『文章は自分で書いているというより、
日本の文化や伝統が書かせていると考えるべきでしょう』
と続けるのだ。
この手紙を読んで、私はみるみる元気になった。」(p289)

大庭みな子著「雲を追い」にも、司馬さんが言いたかった
と思えるような箇所がありました。はじめの方でした。

「詩的言語、生命の叫びといったものは、書いている本人にも
説明がつかない、自分が今まで生きのびて来た命そのものの力
であり、決して小さな自分だけのものではない。自分自身の作品の
中にほんのわずかでもそのような部分があれば、文学に生きる者として
はひどくよい気分だが、それは向こうからやって来るもので、
自分で作為的に呼び寄せられるものでもない。
自分の力で書いていると信じて疑わないような作家も
ときにいるようだが、そういう人の文章はわたしの心を動かさない。」
(p15)

うん。ここだけじゃ、わかりにくいので
もうすこし引用してゆきます。

「・・・・自力で作品を書いているというよりは、
遠い祖先たちが、数限りない人びとがどっと押し寄せて来て、
無理矢理そう書かされてしまうと思うことが多い。・・・
そういうときは・・・・その部分はあとになって読み直してみると
比較的悪くはないと思える。そして、なぜ自分がそのようなことを
知っていたのか、どうしてそのように書けたのかわからないのに、
首を振り、ぼんやりしてしまうことがしばしばある。」(p14)

うん。こういう方々が、日本の古典の現代語訳に
チャレンジされている、というのが私の現在の興味となっております。

そうそう。大庭さんはこうも書いておりました。
「祖先に遡っても、子孫のことを想い浮かべても
せいぜい三代くらいまでが現実感のある限度で、
それから先は雲か霞のかかったような曖昧模糊としたもので
・・・・」(p15)

うん。これが題名の「雲を追い」とつながるのでしょうか。
すぐに寝ちゃうので、寝室での読書「雲を追い」は、
なかなか読みすすまないのでした。



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連れ合いの名前。

2020-10-27 | 本棚並べ
はい。連れ合いの名前といえば、
司馬遼太郎著「ひとびとの跫音(あしおと)」に、
ぬやま・ひろし(タカジ)という実在の人物が登場します。
そのタカジが名前を呼ぶときには、「くん・さん」をつけずに
名前そのもので呼んだとあり印象に残っておりました。
うん。その後読み返していないので、本では
どう語られていたのか、すっかり忘れましたが、
これを読んで以来。その影響か、私は子供の名前も、
名前そのもので呼び、連れ合いも同様にして呼んでおります。

さてっと、大庭みな子著「雲を追い」(小学館)に
「杜詞と奈児」と題する短文がありました。
そのはじまりを引用することに、

「病気で倒れてから1年になる。その間三つの病院で過ごしたが、
頭の方もかなりぼんやりしていて、うつらうつらと日を送ってい
たことが多いらしい。その間看病に欠かさず来ていた連れ合いを
名前そのもので読んでいたので、彼の名前はどの病院でも、
看護婦、医師、患者に知れわたることになってしまった。

家では結婚以来40数年の間『トシ』『トシちゃん』で過ごして
きたわけだから、無意識のうちに発する言葉はそれ以外にはない
わけだ。『トシはまだ来てませんか』『トシはどこでしょう』
などと言うと、70に近い老人のそんな呼び方に初めての看護婦さん
はびっくりしたような顔をするが、それが夫のことだと分かれば、
あとは彼女たちもその名前を利用する。
『ほらトシオさんが来ましたよ』、『トシオさんは遅いですね』
といった具合である。

いろいろエッセイなどを書いてきたが、
配偶者のことをどう書くかは悩みが多かった。
わたしの年代では『主人』などという言葉は抵抗があって
とうてい使う気がしない。母の年代では『宅』と呼ぶ中流夫人も
多かったようだが、今では死語に近いようだ。『夫』あるいは、
『伴侶(はんりょ)』はなんだかよそよそしい抽象的な感じがする。
『宿六(やどろく)』と言えば落語か漫才の世界になってしまうし、
『うちの人』というのは何だかペットの感じがしないでもない。
『彼』という言葉も悪くはないが、英語調だし、それに夫以外にも
彼はいるわけだから困る場合もあるかもしれない。
『同行者』という言葉を使っている人もいるようだが、
何だか一緒に歩いているのは弘法大師のような気がして好きでない。

適当な表現に困って結局わたしは『連れ合い』という言葉を
使うことが多かったが、それで満足していたわけではない。
何となく照れるような感じもあって、面倒だからなるべく
言葉には出さぬ方を選ぶことにもなってしまう。

 ・・・・・・

しかし、病になって唯一最大の介護者の『連れ合い』を他人に
対しても無意識のうちに彼の名前そのものを呼んでみれば、
それが一番適当な呼び方だったのだと悟った。

『連れ合い』などと多少照れもあるような呼び方よりも
数十年続けてきた『トシオ、トシ』『ミナコ、ミナ、ナコ』
で通せばよいわけだ。連れでも配偶者でもない、
人そのものの名前がもっとも適当な名前であると居直ることにする。」


はい。文筆家の大庭みな子さんが
『配偶者のことをどう書くかは悩みが多かった』とあります。
うん。私など、こうしてブログを書いていると
『面倒だからなるべく言葉に出さぬ方を選ぶことにもなって』
という感じがよくわかるじゃありませんか。
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渡辺京二。1930年生れ。

2020-10-26 | 本棚並べ
昨年の台風15号で、本棚の一部に天井から雨漏り。
ちょうどそこにあったのが、
谷沢永一著「紙つぶて自作自注最終版」(文藝春秋・2005年)。
それに、渡辺京二の本と雑誌が数冊などでした。
この本たちの底は、漏れで水を吸ってしまって、しわしわ。
それでも、いちおうページがひらけるので、
そのまま、本棚にならべておりました。
それを、こわごわ、ひらいてみる。

とりあえず、ページはひらけます。
けれども、「紙つぶて・・」など、パラリとめくると
なんとも、カビがふわっとひろがるような気がします。
だけども、これ古本でもいまだ値段がいいのでそのまま置いときます。
さてっと、渡辺京二の関連の雑誌は、おいそれと古雑誌を買えないので、
そのまま、気になった際にひらきます。
そうして、その気になった今日でした。

2016年6月号「新潮45」には髙山文彦の
「瓦礫の中から石牟礼さん、渡辺さん、ご無事でしたか」。
同じく6月号「文藝春秋」は、特集「大地震からの再出発」で、
渡辺京二の「熊本の地から 私には友がいた!」。
うん。これらも、少ししたらありかも忘れてしまって
汚らしい雑誌として捨てちゃう可能性が大なので、
この機会に、渡辺京二氏の文を引用することに。

まずは、同じく水を吸ってヨレヨレになった
渡辺京二著「未踏の野を過ぎて」(弦書房・2011年)から
引用することに、その本のはじまりの短文は

「このたびの東北大震災について考えを述べるように、
いくつかの新聞・雑誌から注文を受けたが、全部お断りした。」

「世論という場に自分が登場する」のもいやであった。と続きます。
そして、このような単行本なら読者も少ないし
いいのではないかと、4頁の文が載っておりました。

「・・・・いや、東北三県の人びとはよく苦難に耐えて、
パニックを起こしていない。パニックを起こしているのは
メディアである。災害を受けなかった人びとである。

この地球上に人間が生きてきた、そしていまも生きている
というのはどういうことなのか、この際思い出しておこう。

火山は爆発するし、地震は起るし、台風は襲来するし、疫病ははやる。
そもそも人間は地獄の釜の蓋の上で、ずっと踊って来たのだ。
人類史は即災害史であって、無常は自分の隣人だと、
ついこのあいだまで人びとは承知していた。
だからこそ、生は生きるに値し、輝かしかった。人類史上、
どれだけの人数が非業の死を遂げねばならなかったことか。
今回の災害ごときで動顚して、ご先祖に顔向けできると思うか。
人類の記憶を失って、人工的世界の現在にのみ安住してきたからこそ、
この世の終りのように騒ぎ立てねばならぬのだ。・・・」


ちなみに、この本「未踏の野を過ぎて」の目次をひらくと、
「老いとは自分になれることだ」という題が目につくので
その箇所をひらいてみる。はじまりを引用。

「老後というのはふつう、一生の仕事・勤務から引退して、
自由(もしくは不安)になった状態を指すのだろう。
ところが私は、生涯勤めというものをほとんどしてこなかったので
(予備校で働いたのは確かだが、これは90分いくらのギャラを
いただいただけで、勤務したわけではない)、
人生の最初からいわば老後みたいなものであった。

だから、停年になって家ばかりに居て、何をしていいのかわからない、
といった心理とはまったく縁がない。若いころと寸分たがわぬ暮しを、
いまもしているだけである。といっても、生物的な老いは容赦なく
襲ってくるし、何よりもこたえるのは、親しい人間が次々と逝ってしまう
ことだ。眼がかすんで、何だかこの世も遠くなったようだ。」(p22)

はい。これが2011年の文でした。
次に、2016年4月14日の熊本地震へと移ります。

「・・・震源に近い益城(ましき)町はもっと惨澹たる有様だった。
わが家は震源から2里とは離れておらず、それだけに被害は少なくは
なかったとうだけだった。

一応片づけが終った15日の深夜、正確にいうと16日午前1時25分、
M7・3の第二震が襲った。第一震など較べものにならぬ衝撃で、
まだ座卓に向かっていた私は、前後左右、仏壇・書棚・CD棚が
倒れかかる中、ただ座卓にしがみついていた。灯りは消えて真暗闇。
背後右手の最も重い書棚が倒れる際、右肩に打撲を受けた。
もし私が床を延べて寝ていたら、頭部まで書棚・書物に直撃され、
死ぬ重傷を負っていただろう。・・・・・」

「・・いま私は85歳、今度ほど自分が役立たずであるのを
感じさせられたことはない。これほどの災害に遭いながら、
心はもの憂く、何もせぬのに躰は疲労し尽している。
何くそと奮起するものもない。無力感を抱きつつ、
もう面倒で厄介なことはいやだなあと、安穏を夢みるばかりなのだ。
いや災害のせいではなく、去年にはいってから心身ともにもの憂く
なっていた。大地震はそれを仕上げたのである。そして反省しきり。」


「ありがたいことに、世の中は私のような老人ばかりではない。
 ・・・・・
いまの若い人が東北大災害と熊本大地震を経験したのは、・・・
よきことなのだ。このふたつの悲惨事は、これからの社会を担って
ゆく人びとにとって貴重な経験になるにちがいない。

高度化・複雑化・重量化する文明を、いかにして
質を落とすことなくかえって高めながら、
より操り易くより軽量でより人間に馴染み易いものに
転換してゆくかという困難な課題に取り組まなければ
ならぬのは彼らなのだ。・・・・」
(「文藝春秋」2016年6月号・p174~178)

はい。ここまで引用しました。ちなみに、渡辺京二氏の本は
今年の11月にも、また新刊の予定があるのでした。

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鬱症からの帰還の目撃者。

2020-10-26 | 本棚並べ
PHP文庫の谷沢永一著「紙つぶて【完全版】」(1999年)。
この文庫解説は渡部昇一氏。なんとなく読みなおすことに。

阪神大震災のことからはじまっておりました。
はじまりを引用。

「平成7年1月17日午前5時46分、ドドーンという音と共に、
大地震が関西を襲った。・・・この時、大地震帯の真上にあった
兵庫県川西市花屋敷一丁目二十四番地の谷沢永一邸はどうであったか。

主人永一は午前3時頃から書物を相手に仕事をしていたが、
2時間半以上もの集中のあと、ほっと一息つくため、食堂に出て一服
吸っていた。書庫に入っていたままだったら圧死した可能性がある。
夫人美智子は睡眠中で、そこに洋服箪笥が倒れてきた。畳の上に
寝ていたらこれまた圧死の可能性があったが、ベッドであったため
無事であった。両人ともかすり傷一つなかった・・・・・

大震災の話を持ち出したのは、はしなくもここに谷沢永一という
人物の日常が出ていたからである。昭和4年生れの谷沢は当時
66歳だったことになる。・・・・・

ベネディクト会の修道士の如く、日が登る何時間も前に起床して
精進する谷沢の姿は、正に懦夫(だふ)をして起(た)たしむる
ものがあるではないか。谷沢は入試を前にした学生ではないのだ。
毎日が入試のような勉強を谷沢は半世紀以上も続けてきたことになる。」

このあとに、渡部昇一氏は学問の敵を、箇条書きのようにして
とりあげておりました。
ここには、「学問の第三の敵」の箇所を引用。

「政府委員などの公職に就くことである。
政府審議会というものが、どれだけ時間を喰うものであるか。
役人ならそれが本職だ。しかし学者には無駄な時間なのだ。
税金の専門家が税制調査会に入ることは多少の意義はあるだろう。
しかし文科系、しかも純文系の人間にとっては何にもならない
時間である。意見があったら論文なり何なりに書けばよいので、
それを上手に官僚が汲み上げるべきなのである。
谷沢は関西という地の利もあって、このタイム・キラーから
まぬがれていた。もっとも東京にいてもそういう職は
引き受けなかったであろうけれども。」

さて、今回この解説で引用したかった箇所がありました。
谷沢永一氏の鬱症を渡部氏が紹介しているところです。

「・・・日本の図書館は午前3時には開いてくれない。
しかし谷沢は丑の刻であろうと午の刻であろうと、
日曜であろうと祭日であろうと、交通機関を使うことなしに
入館できる私設図書館を持っていたのである。

こんな状況で勉強し続けたら、人はどうなる。
それは谷沢流の鬱症になる。谷沢はしばしば
鬱症になると自称している。一切本が読めなくなる、
というのだ。腦が本を拒絶するらしい。・・・・・・

・・どんな鬱状態の時でも、谷沢は対談や口述になると、
光彩陸離たる話し手、いな噺家ともなるのだ。
ここに私は『光彩』という言葉を使った。
これは私には体験があるからである。

2、3年前、谷沢の鬱状態が特にひどい時があった。
歩くのも大儀という風であって、顔色も冴えない。
しかし前からの予定なので、私と対談して本を作ることになった。
立ち上りはスローであった。しかし語り合っているうちに、
次第に谷沢の顔はひきしまり、頬の色はよくなった。
つまり顔のに光彩が生じてきたのである。そして
一冊分になるほどの対談が終ったあと、谷沢はすっかり
健康人の如く、足どりも軽くなり、食欲も立派なものだった。
その時の対談のデキも悪くなかったことは、・・・・
10万部近く出て、今なお出ているそうだ・・・

専門の医者だって、対談中に顔に光彩が生じてくる
患者を目撃したことはなかろう。私は谷沢の症例を
持っているのだ。・・・」

はい。だからといって
懦夫である私が、起つかというと、そういかないのですが、
せめて、備忘録がてらの引用なら私にでもできる。
うん。この頃、本の文を思い出すこともなかったのですが、
昨日寝ていたら、なんの脈絡もなく、この解説を読み直し
てみたくなったのでした。

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私たちのすぐそばに。

2020-10-25 | 本棚並べ
津野海太郎著「最後の読書」(新潮社・2018年)が
本棚にあった。新刊で買ってパラパラ読みしたまま、
すっかり忘れておりました。

目次をめくると、「古典が読めない!」と題する
15頁の文がある。さっそくひらいて読んでみる。
そのはじまりは

「私がある本をえらぶのか、それともある本が私をえらぶのか。
いずれにせよ、近ごろは、じぶんとおなじ年ごろの70代から80代
ぐらいの人たちが書いた本を手にとる機会が、めだって増えてきた。」

「いざじっさいに年をとってみると、なかなか思うようには
いかんのですよ。われわれ新老人を・・待ちかまえている難関が
いくつもある。その最大のひとつが『古典が読めない!』という
難関・・・・小学校から高校まで、習字や漢文もふくめての本気の
古典教育をうけたという記憶がまったくといっていいほどない。
その点にかんするかぎり、私のあとにきた人たちだって、
だいたいは似たようなものなのではないかな。・・・



このつぎに「でもわれわれ以前の人たちはかならずしも
そうではなかった」として堀田善衛氏の登場となります。
ここで、堀田善衛著「故園風来抄」(集英社・1999年)
をとりあげておりました。

「・・この連載は、日本の古典をめぐる短めのエッセイを
ほぼ時代順につづるという趣向で・・・1998年、連載が
32回目の『一言芳談抄』になったところで、著者の死によって
中断される。けっきょく、これが堀田善衛の最後の著書という
ことになった。すると連載のはじまったのが1992年だから、
これは80歳で没した堀田が70代後半に書いた本ということになる。

当初から、かれは、この連載であつかう原典のすべてを読むか、
読みなおすかしようと決めていたらしい。もちろん、ざっと
読みとばすとか、ときには必要な箇所にしぼって読んだりも
しただろう。でも基本的には、『日本霊異記の全説話と付き合う
ことはなかなかのことであったが』などとグチをこぼしながらも、
最後まで所期の目標をつらぬきとおすことができた。」

このあとに、津野海太郎氏は、こう語るのでした。

「それにしても、70代後半から80歳といえば、
いまの私とまったくおなじ年ごろだぜ。
死を目前にしたそんなよれよれ老人が、
どちらかといえば軽いエッセイ連載のために、
これだけの重労働をなんとかこなしてしまう。

いまとなってはもはや絶滅寸前というしかないが、
しばらくまえまでは、こうした荒わざを平然と
やってのける人たちが私たちのすぐそばに生きていた。

そして堀田はまぎれもなくそのひとりだったのです。」
(p140~144)

はい。このようにして軽いエッセイを連載した方がいた。
なんてことを、ちっとも思いもしなかった私がおります。

はい。おそらくこの短文を私は読んだのだと思います。
なぜって、しっかり『故園風来抄』を買ってあった。
買っても、読まずに本棚で埃をかぶっておりました。
はい。すぐそばにあっても読まないんだからね。

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磯の方から満ち。

2020-10-24 | 本棚並べ
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)をひらく。
はじまりは

「3年まえに70歳をこえた人間としていわせてもらう
・・・・・
読書にそくしていうなら、50代の終わりから60代にかけて、
読書好きの人間のおおくは、齢をとったらじぶんの性にあった
本だけ読んでのんびり暮らそうと、心のどこかで漠然と
そう考えている。現に、かつての私がそうだった。

しかし65歳をすぎる頃になるとそんな幻想はうすれ、
たちまち70歳、そのあたりから体力・気力・記憶力が
すさまじい速度でおとろえはじめ、本物の、それこそ
ハンパじゃない老年が向こうからバンバン押しよせてくる。
あきれるほどの迫力である。のんびりだって?
じぶんがこんな状態になるなんて、あんた、
いまはまだ考えてもいないだろうと、60歳の私を
せせら笑いたくなるくらい。」

はい。これが、この本のはじまりでした。
うん。私はこれを読んでもう満腹感。
先へはすすめない、横着読み。
そういえば、と思い浮かんだのは、
小林秀雄著「考えるヒント」でした。
その中に、「青年と老年」という4~5頁ほどの文。
そこから、引用してみます。

「・・・兼好は、かういふ事を言つてゐる。
死は向こうからこちらへやつて来るものと皆思つてゐるが、
さうではない、実は背後からやつて来る。沖の干潟にいつ
潮が満ちるかと皆ながめてゐるが、実は潮は磯の方から満ちるものだ。

・・・死は向こうから私をにらんで歩いて来るのではない。
私のうちに怠りなく準備されてゐるものだ。
私が進んでこの準備に協力しなければ、
私の足は大地から離れるより他はあるまい。
死は、私の生に反した他人ではない。
やはり私の生の智慧であろう。
兼好が考へてゐたところも、
恐らくさういふ気味合ひの事だ。・・・・」

この文の後半は、堀江謙一著「太平洋ひとりぼつち」について
触れられておりました。文の最後を引用。

「この青年は、あたかもかう言つてゐるようだ、
世間は新事件と新理論を捜してゐて、
青年なぞ必要としてゐないのではなかろうか、と。」
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国語には歴史がある。

2020-10-23 | 本棚並べ
集英社の「わたしの古典⑱」(1987年)は
「竹西寛子の松尾芭蕉集/与謝蕪村集」。

最初の「わたしと松尾芭蕉、与謝蕪村」では、
芭蕉と蕪村の二人についての指摘があるのでした。

「一つ。芭蕉も無村も、いずれ劣らぬ革新の詩人である。
しかもこの二人は、多くの場合、古典とともに物を見、古典とともに
物を聞き、なおかつ自分ひとりの世界を創り出したという点において
共通である。大袈裟ではなく、当り前のこととして古典を学び、
その上で二様の革新の花を咲かせている。

二つ。芭蕉は読者に沈潜を促し、蕪村はむしろ高揚を促す表現者、
芭蕉はしばしば、一点に向かって錐を揉み込むように句をなし、
蕪村は、天と地の懐に抱かれて悠々と遊びながら、天にも地にも
通じ句をなしている。それでいて、蕪村の句のかなしみが、
芭蕉の句のかなしみよりも浅いとは思われないのである。

三つ。芭蕉の句は思索の分析に応じやすく。
蕪村の句は感受性の分析に応じやすい。このことに優劣はない。
『野ざらし紀行』や『笈の小文』『おくのほそ道』を読むと、
思索の分析に応じやすい句をなす芭蕉の、表現の苗床に立ち入った
と思われる瞬間が何度かあった。単なる紀行というには、
あまりにもつくられた構成の紀行類であるが、そこには、
表現の論理を絶えず自らに課している芭蕉がいて、
俳句の教育者、あるいは指導者としての使命感の有無も、
芭蕉と蕪村の違いの一つかと思われる。
 ・・・・・・・

芭蕉や蕪村の作品が、その道の研究者や現代俳句の専門家、
愛好者だけでなく、ひろく国語を大切に思う人たちに与える
快い刺激を大事にしたい。国語には歴史がある。

和歌、俳諧の過去を無視して今日の国語はない。
それは好悪を超えた日本の言葉の事実である。」

うん。国語といわれると、意表をつかれたような
気がしました。



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女の人の編み物と一緒や。

2020-10-22 | 本棚並べ
大庭みな子さんは、1930年生まれ。
1996年夏に脳出血と脳梗塞で倒れる。

河合隼雄の対談集をひらいていたら、本棚にある2冊に、
大庭みな子さんとの対談がありました。

ひとつは、1991年出版の鼎談本
鶴見俊輔・河合隼雄「時代を読む」(潮出版社)。
毎回ゲストを呼んでの3人での座談のなかに、
大庭みな子さんが登場しておりました。
この時は、大庭みな子著「津田梅子」を中心に
話が盛りあがっております。

もうひとつは、「続々物語をものがたる 河合隼雄対談集」
(小学館・2002年)に登場しておりました。こちらは、
大庭みな子さんとの対談日1998年7月8日と記載あり。

両方ともに感銘深いのですが、
ここでは、年齢に関する箇所が気になったので引用。

1冊目のなかで、鶴見俊輔氏が語ります。

鶴見】 詩を書く年齢というのがあります。2歳、3歳だったら、
口にする言葉が全部詩になっているでしょう?
・・・小説を書く年齢というのもある。
伝記を書く年齢もある。20代で書いた伝記はだいたいつまらない。
中年以後、初老というときになると素材を通して人間が動いてくる。

 ・・・・
河合】 ・・生きている。それは裏側をずっともって書いておられる
からでしょうね。通り一遍にいいことばかり書いてあるのとは違う。
それと、やはりご自分のことと重ねて書いておられるところが
すごく説得力があります。津田梅子と大庭みな子という個人を超えた
流れがあって、それがずっと流れているぞという感じが出ている。
そして、そういう流れをこの人は生んだわけでしょう?

 ・・・・
大庭】 私は書いていて津田梅子に何か乗り移られるような感じを
比較的もてたことがありました。そろそろ彼女が亡くなった年齢に
近づいておりますから。

河合】 編み物なんかされているんじゃないですか。

大庭】 そうなんです。(笑)

河合】 私は自分でものを書いているとき、
それは女の人の編み物と一緒やとよう言うてるんですけどね。
暇なときにちょこちょこっとやって、また暇ができたときに
ちょこちょこっとやって、つないだら一つのセーターぐらいに
なっている。

大庭】 そうなんですね。ところが、私ね、やっぱり
若いとき愚かだったものですから、編み物を軽蔑していたんです。

鶴見】 津田の学生で編み物をする人なんていないでしょう。

大庭】 いや、私はしてましたよ。若いときから。寮にいたころから。

(p215~216)

2冊目も、紹介しなくちゃいけないので、ここまで。
2冊目は、河合氏が口火を切っておりました。

河合】じつは、私は和歌はわからん(笑)
といってきたのですが、大庭さんが対談してくださるということで、
『伊勢物語』を読みました。和歌は苦手なんですが、
けっこうおもしろくて喜んでいるんです。
それに大庭さんの現代語訳(「わたしの古典 
大庭みな子の竹取物語・伊勢物語」集英社文庫、1996年)が
すごく助けになりまして、これで鑑賞させていただきました。
 ・・・・・・・・・・
私は和歌にはほとんど関心がなかった。ところが
今年、古稀をむかえたのですが、これぐらいの年になると、
和歌がだいぶわかってきたのか、けっこうおもしろかったので、
たいへん感激しましたね。やっぱり和歌というものは
たいしたもんだと思いました。(p60~61)

こうはじまって、内容の濃い対談となっておりました。
うん。あんまり濃すぎて、伊勢物語の対談を引用するには、
わたしの手にあまりますので、ここまでといたします。



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「あれは、よい作品です」と。

2020-10-20 | 本棚並べ
集英社「わたしの古典」全22巻のうち、
大庭みな子さんの担当が2冊ありました。

③「大庭みな子の竹取物語/伊勢物語」
⑲「大庭みな子の雨月物語」

⑲の「わたしと『雨月物語』『春雨物語』」
は6ページで、他の巻より長めです。そこには

「・・・もともとこの企画の最初の段階では、
『雨月物語』は円地氏が手がけるはずのものだったが、
病で倒れられたので、後輩の私が引き受けることになった
といういきさつがあった。

その意味でも、今度、自分で秋成にとり組んでみたことは、
円地氏の思い出に重なって、作家としての私の世界を
大きく深く掘りさげてくれたものといってよい。」

「『樊噲(はんかい)』は『春雨物語』の最後の作品だが、
故円地文子(えんちふみこ)氏が亡くなられる間際に
心を残していらっしゃった。
『あれは、よい作品です』と、円地氏は
病院のベッドで、私の手を握りしめて呟かれたが、読み直し、
一語一語を辿るうちに、なるほどと頷ける傑作である。

大悪人がふとしたことで発心する話だが、
結びの表向き、たてまえの説論口調はとるにたりないところで、
それよりは文中のなにげない描写の中に、生暖かく、
ふうっと舞い上がるような息づかいがある。
生きものの酷薄な哀しみに通ずる、宗教でも哲学でもないけれど、
ほとんどその深みにまで到達している文学作品で、
秋成の晩年を飾るにふさわしい作品である。

・・・・・もちろん、読者は作品の良し悪しよりは
好みによって読むのがよいと、私はつねづね思っているから、
一つ一つの作品にランクづけするような評価は避けたいと思う。

読者にとって、解説者の言うことは参考になる意見にすぎない。
文学作品は、それぞれの人生を生きた人が、それぞれに自分の力で
学びとった感性に重ねて自由によむがよい。また、
秋成自身、古典をそのような態度で読んでいた人のように思える。」

うん。こんな風に言われると、つい読みたくなりますが、
それはそうと、③の「わたしと『竹取物語』『伊勢物語』」
からも引用しておきます。こちらは2頁。
ここには、伊勢物語を説明した箇所。

「『伊勢物語』は在原(ありはら)の業平(なりひら)の歌を
中心に、次々とその周辺の人びとが筆を加えて、現在一般に読まれ
ている125段の形になったものと言われている。・・・

現在の形よりはるかに短かったに違いない業平自身の草(そう)に
なる歌物語めいたものが、ごく素朴な形で初めにあったとしても、
それは、歌を贈ったり、返されたりする対になる歌の場合、当然、
片方の歌は業平のものではない。返しのないものもあるが、
いずれにしても、そこに表現されているものは、業平という
一人の人物と、他の人物、または彼をとりまく状況の中から
ひき出されたものなのだ。つまり、ひとつの言葉に触発されて
ひき出された新しい言葉が加わることこそが、
言葉が生きつづけるさまなのである。・・・・」


どちらも、これだけで私は満腹。
なので、ここまでにします。
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カアラス カンザブロー。

2020-10-19 | 本棚並べ
新刊で買っておいて、
安心してそのまま読まないであった本が出てくる(笑)。
大庭みな子著「雲を追い」(小学館・2001年)。
帯は、加賀乙彦氏が書いていて、そのはじまりは
「脳梗塞で半身不随になったみな子さんは、
文章の世界で見事に立ちなおった。・・・」
とあります。

買ったのに、そのままに本棚に眠っておりました。
あとがきは、こうはじまっておりました。

「1996年の夏、脳出血と脳梗塞で倒れる半年ほど前から
小学館の『本の窓』に連載し始めて、中断はあったが
いつの間にか一冊の本になるくらいのものが溜まったので
・・・・」

うん。最初の方、倒れる前の文章をパラパラとひらくと、
「おみくじ」と題する文がある。そこを紹介。

「師走に入ると、観光の街・京都もさすがに人影が
めっきり減り・・・・」とはじまります。

5頁ほどの文の最後は、
「どういうわけか最近目にする生きものの仕草や、耳にする
生きものの立てる声はそのまま人間のものになってしまう。」
としめくくられております。

さて、大庭みな子さんは、上賀茂神社へ行かれたようです。
そこで若い二人が登場しておりました。

「お互いの腰に手をまわした若い恋人たちが、
みたらし川のほとりでおみくじをのぞきこんでいる。

『あらあ、凶だよう。じゃだめだ』
『ばか言うな、何がだめなんだ』

青年は天に向って凶を空に放つように
高らかに読み上げて自説をも添えた。

『〇願いごとは叶わず ――ふん、願いごとはなし。
〇待人来たらず ――
    待っている奴なんかここにいる人以外にないから関係なし。
〇遺物出ず ――失ったものはなにもない。
〇賣買ともに元手を失うことあり ――賣買はする気ないからよし。
〇病いはないから治らずともよい。
〇方角は西北東北がいいってさ。
〇家造りも引越しも縁談も奉公も旅行も当分あてはないから大丈夫。

凶はカラスが持っていけ。山の火事場で焼いとくれ』

恋人たちは鳥のように囀(さえず)りながら、
おみくじをみたらし川の枝に引き結んだ。・・・・

いつか何かがあったとき、彼らはこのときのことを
いろんなふうにあてはめて思い出すかもしれない。
全然反対の吉事が起ったときでも、べつのようにこじつけて、
やっぱり、と頷(うなず)くのではないだろうか。

そして、わたしは辻占いとは、こういう人の鳴く声を、
木陰に佇(たたず)んでじっと聞きとり、自分の辿って来た
道の情景を、そしてまたはるばるとゆく道の姿を想い描いて
呟く、鳴く鳥の声に似た歌なのであろう。」

こうして、文の最後へとつながっておりました。

「 カアラス カアラス カンザブロー
  凶ノオミクジ 持ッテユケ
  オ山ノ火事デ ヤイトクレ

 口ずさんだ自分の声は先刻聞いた鳥の声に似ていた。
どういうわけか最近目にする生きものの仕草や、
耳にする生きものの立てる声はそのまま人間のものになってしまう。」
(P16~20)

はい。19年前に買ってあった本に、
やっと、たどり着いた気がしました。
これから本は、脳梗塞の後の文へと
つながってゆくのですが、私はここで満腹。



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あ、これ、オオサカの。

2020-10-18 | 本棚並べ
集英社「わたしの古典⑯」は
「富岡多恵子の好色五人女」(1986年)でした。
はじまりの2頁は富岡さんによる「わたしと西鶴」。
そのはじまりを引用。

「自分が大阪に生まれ育ったことを、
日ごろは特になんとも思わないが、
近松の浄瑠璃を聞いたり、西鶴の文章を読んだり
している時、あ、これ、オオサカのひとのものいいだ、
と思いあたったりすると、現金にも、ふるさとは
ありがたきかな、に急変するから滑稽である。

それはさておき、西鶴の小説がおもしろくなってきたのは、
近年のことで、教科書で読まされる西鶴は、
オモシロイのオまでも至らず、その後も
『小説』として楽しむには多少の時間を要した。

西鶴は四十を過ぎたころまで俳諧師で、
一昼夜に二万三千五百句もつくるという
矢数俳諧なるものを興行し・・・・・
こういう、俳諧マラソンをやってのけた俳諧師が、
死ぬまでの十年を小説だけで埋めているのは
一体なにごとなのか。しかも、その小説が、
いちいちおもしろいのだから・・・・」

数日前に本棚整理をしていたら、
林えり子著「東京っ子ことば抄」(講談社・2000年)が
ありました。ぱらりとひらくと富岡多恵子がでてくる。
その箇所を短く引用。

「富岡多恵子著の『大阪センチメンタルジャーニー』を
読んで羨ましくなった。生まれ育った大阪を
『なんで東京みたいなイナカへいきはるの?』
という、東京っ子にとってはびっくりするような
ことばに送り出されてから三十年余が経つそうだ。

以降、大阪へは旅人として赴くことになるのだが、
大阪という土地は、『大阪』が丸ごと詰まっている著者の、
『他国ぐらし』という薄い表皮をさらりと溶かす地熱があるようだ。
それがいっとう羨ましかった。・・・・」(p90)





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関西フォーク・ソングの幸福。

2020-10-17 | 詩歌
古本で「有馬敲全詩集」(沖積社・2010年)を購入。
栞がはさまっており、栞には3人の方の文が載っていました。
杉山平一・中川五郎・水内喜久雄の3名の紹介文。
ここには、中川五郎氏の文から引用。
うん。はじまりから引用してみます。

「1960年代半ばから後半にかけて、アメリカのフォーク・ソングが
日本でもて囃されるようになった。最初は大学生が中心になって
そのかたちだけを真似、英語で歌ったりしていたが、そのうち
外側ではなく中身をと、人々の暮らしや時代のありようを歌う
アメリカのフォーク・ソングの精神を学び取り、日本語で自分たち
の歌を歌う日本のフォーク・シンガーたちが登場して来た。

どういうわけか、そういう人たちは関西に多くいて、
いまでもスタイルにこだわり英語で歌い続ける東京の
フォーク・シンガーたちに対して、日本語で自分たちの
フォーク・ソングを歌おうとする彼らのことは、いつしか
『関西フォーク』と呼ばれるようになった。

この『関西フォーク』にとって幸福だったのは、
その動きを担ったのがミュージシャンだけでなく、
詩人たちも積極的に関わってくれたことだった。
とはいえそんな詩人は少数派で、紙の上の言葉の
美しさだけをひたすら追求するタイプの多くの詩人たちは、
つたない歌詞で世の中のできごとやそれぞれの心のうちを
ストレートに歌うフォーク・ソングを、あまりにも
幼稚すぎると、歯牙にも掛けようとしなかった。

しかし少数派の詩人たちは、言いたいことがあれば
『しろうと』でも自分たちの言葉で表現できるという
フォーク・ソングの面白さや柔軟さを鋭く見抜き、
自分たちの研ぎ澄まされた言葉や表現方法、創作の知恵など
をふんだんに差し出しながら、その動きに深く関わってくれた。
そのひとりが有馬敲さんだった。・・・・」

はい。もう半分も引用してしまいました。
ちなみに、有馬さんは1931年京都府生まれ。

つぎに、水内さんの紹介文からも、すこし引用。

「読んでいくと、現代詩・子ども向けの詩・パロディ・
わらべうた・ことばあそび・替歌など多彩であり、
あらゆるジャンルの詩をたくさん書かれています。
そして、それらをいろんな言葉を遣って書いておられます。
共通語・京言葉、最近では生活語という言葉を遣われており・・・」

さてっと、この全詩集はというと、
函入でした。上下二段組。全2179ページ。
多すぎて二冊にわけて、一つの函におさまっておりました。
定価は2万円+税。これが古本で2000円でした。
値段で買わせていただきました。
うん。はじめて読むと思います。





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