大庭みな子著「雲を追い」(小学館)に、
ご自身の両親のことがすこし登場します。
「新潟の田舎で開業し、内科、外科、産婦人科どころか
ときには獣医まで引き受けていた父はよく言っていた。
『子供の病気は何よりもその子の母親に話を聞くに限る。
母親ほど事細かに病状を見つめている人はない。
医者がちょっと診察したってなかなか判る者じゃないよ』。」
(p66)
さて、みな子さんは女学校にあがります。
「昭和22年の冬、新潟県北部の新発田(しばた)市の女学校に
通学したが、雪の多い冬のバスの運行は途絶えがちだったので、
冬は市内に下宿をすることになった。敗戦直後の貧しい時代で、
日本人全部がただ生き残るためにもがいていた。今の親なら
14、5の娘を自炊させて学校に通わせるなど思いもしないだろうが、
それは当時の唯一の道だった。
新発田藩主の屋敷のそばにあった備前さんという未亡人の家に
自炊を条件に泊めてもらっていた。亡くなった夫が読書家だった
ようで、部屋にはその蔵書が残されていたので文学志望のナコには、
静かな雪の夜はうってつけの環境であった。でも暖房は火鉢だけ、
窓から舞い込む細かい雪が降り積むような部屋の中で親元を離れて
一人食事を作るのもせつないものだった。・・」(p79~80)
はい。講談社の「少年少女古典文学館④」の枕草子は
大庭みな子さんが現代語訳をしているのでした。
はじまりの「春はあけぼの」に「冬は早朝」とある
そこにも、火鉢が登場しておりました。
はい。大庭みな子訳で引用。
「冬は早朝。雪がふりつもったら、なおさらだけれど、
霜のまっ白におりた朝もよい。そうでない朝でも、
たいそう寒いなかを、火などいそいでおこして
炭を持ちはこぶさまはいかにも冬らしい。
昼になっていくらか寒さもゆるみ、
火ばちの炭火が白く灰になるころはわびしい。」
この本の、大庭みな子さんの「あとがき」は
こうはじまっておりました。
「『枕草子』は15、6のころからよく読んだ。・・・
日本じゅう食べるものにこと欠いている時代だった。
食べるものも、着るものもなく、もちろん冷暖房などない。
冬になると寄宿舎にはわずかな炭の配給があり、掘りごたつに
当番の生徒が火をおこして、それが唯一のあたたかな場所だった。
学校制度が女学校から高等学校にうつるころで・・・・」
「わたしはその後、大学でも寄宿舎にくらしたので、
実に10年近くの学寮生活を送った。そのあいだじゅうわたしは、
生きている同世代の人たちからもたくさんのことを学んだが、同時に
本と暮らして、その本を書いた作者たちと無言の対話をしてすごした。
さて、『枕草子』だが、最初読んだころはなんといっても
年齢的に男女の間がらのおもしろさなどわからず、叙景的なものも、
ごく表面的な美文めいた調子に酔っていたところが多かったと思う。
けれど、ともかくも、わかってもわからなくてもこの時期に一度目を
通しておきさえすれば、その後の長い人生で、くり返しよみがえる
情景とみょうにつながりあって心にのこるのが、古典の強さという
ものなのだ。こんなにもうつりかわる幾世代もの人たちが読みついで、
なおすてられなかったものとは、そうした生命力の強さともいいかえられる。
年齢によっておもしろいと思うところもちがう。
読みながら、おもわずふきだしたり、首をかしげたり、
ふんと思ったり、あきれたり、感心したり、悲しくなったり、
肩をすくめたり、なるほどと思ったりする箇所がこれほど
豊かな作品はそう多くはない。やはり、名品というべきだろう。」
(~p316)
うん。まだ、引用したくなる「あとがき」です。
ということで、もう少し引用。
「わたしは、ある意味で、幼年時代から目に見える風景と、
上っ面な人の言葉には興味を感じなくなったのだ。
書き残された古い言葉の中にのみ、ときおりほんとうらしい
言葉と人間のしぐさと吐息と目の輝きがある、
生きている人の気配がなまなましくある、と思うようになった。
・・・・・・
・・・・・・
わたしは『枕草子』のはなやかな宮廷生活にあこがれるというよりは、
宮廷の貴婦人、定子中宮といえど、清少納言といえど、おなじ人間の
欲望と夢をもつ人なのだということに安心した。そして、それを
そのように、描いた作者に敬服した。人をばかにしたり、
いばったりするのも、いまも昔もおなじである――。・・・」
はい。引用はこれくらいにします。