和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

豊かでおおらかな視点。

2023-01-31 | 絵・言葉
新聞の切り抜きを、整理する甲斐性がないもので、
以前の磯田道史の新聞連載『古今をちこち』の切り抜きを
さがしてもが見つからない。それでも、

折り畳んで本に挟み込んであった一枚がでてくる。
連載挿画は村上豊とあるので、ネット検索をする。

村上 豊(むらかみ ゆたか、1936年 6月14日 - 2022年 7月22日)日本の画家。そうか、昨年亡くなられていたのだと、ここでわかる。

それ以後の、磯田氏の新聞連載『古今をちこち』は、
挿画も磯田氏自身が描くことになったのだろうなあ。
まあ、そんなことに思いいたる。

ここで、思い浮かんだのは、絵と文章ということでした。

「梅棹忠夫語る」( 聞き手・小山修三。日経プレミアシリーズ新書 )
から引用してみます。この新書は2010年刊行なのですが、
梅棹忠夫氏は2010年7月3日に亡くなっております。
この本の第三章『メモ / スケッチと写真を使い分ける』から引用。

小山】 梅棹さんは、よく写真や絵を学術論文にも使いましたか?

梅棹】 論文それ自体のためには、牧野四子吉さんに描き直して
    もらったりしてた。動物なんかはとくに。

小山】 モンゴル、アフリカでスケッチされた道具類の絵は、
    もうほとんどそのまま使えるようなものですね。

梅棹】 そら、わたしは描ける。それも、かなりあるんじゃないかな?

小山】 イヌぞりの実測図は、全部、寸法も測りながら、とってますが。

梅棹】 あのときは、樺太のイヌぞりの形態と機能について、絵を描いている。

小山】 そういうときに写真でなく絵を描くことの意味とは何ですかね?
    たしかに絵は文章よりわかりやすいと思うんですが。

梅棹】 そう。写真ではあかん。写真では細部の構造がわからへんのや。
    目で見て、構造をたしかめて、その構造を図に描くんやからね、
    ようわかる。

小山】 目でたしかめていくわけですね。

梅棹】 写生をするということは当然、そういう作業を伴う。
    写真ではそれがない。写真もたいへん有用、役に立つけれど、
    ちょっと絵とは機能がちがう。
    フィールド・ワークの補助手段としては、
    写真よりも絵のほうがずっといい。
    その場でシューッと線をひいて、欄外にメモが書きこめるから。

小山】 描きながら、部分の呼び名なんかをメモしている。

梅棹】 それが大事。呼び名と構造だな。そうやって、
    わたしは絵がためらわずに描けるんです。

小山】 でも絵が下手な人は、どうしたらいいのかな。
    これは一種のセンスですか、経験ですか。

梅棹】 まあ、両方あるやろうな。
    わたしは子どものときから絵がうまくて、
   『 この子は絵描きにせえ 』って言う人と、
   『 この子は絵描きにだけはしなさんな 』と言う人があったんです。
   『 絵描きでは食えませんからなあ 』って言って。
                        ( p54~58 )

はい。この箇所はまだまだつづくのですが、ここでカット。
はい。次に写真のこともでてくるのですが、ここまで。

参考文献としては、

「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館・2011年)には
いろいろな写真があって、そこに描いた絵も収められて楽しめました。

「梅棹忠夫著作集第1巻」(中央公論社・1990年)のなかの
 『イヌぞりの研究』には、橇(そり)も犬も、橇と犬を結ぶ綱の
 形態も絵入りで一目でわかるような記載がなされております。


昨日のブログで紹介した
磯田道史氏の言葉のなかには、こうありました。

『・・・わかりやすい。面白い。楽しい。つながる。
 こういった本来、人文知がもっていた豊かでおおらかな視点・・・
 誰にもわかる。楽しめる。ユニバーサルな学問がこれからは必要である。』

はい。そんなことを思いながら、つぎにひらいた本は、

  磯田道史著「日本史を暴く」(中公新書・2022年11月)。

パラパラひらくと、著者自身の挿画が二枚ありました。
うん。『カブトムシの日本史』という文(p97~100)には、
クワガタが三匹、角度を変えて道史氏の画で(p99)載せてあります。
ここでは、この文の最後の3行を引用しておくことに。

「 結論をいえば、約200~300年前から、
  日本人は我々同様にカブトムシやクワガタムシを
  精確に認識しはじめたようである。

  熊本藩の細川重賢(しげたか)や
  長島藩(三重県)の増山雪斎(ましやませっさい)など
  
  盛んに昆虫の絵を描く殿様が相次いだのも、この時期である。」(p100)

この「豊かでおおらかな視点」には
挿画も、写真も、マンガも、ビデオも、何でもはいるかもしれないなあ。
はい。短歌も、俳句も、いれときましょう。









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『 作文をどうするか 』

2023-01-30 | 本棚並べ
梅棹忠夫の研究室に勤めていた藤本ますみさんの本に、
こんな場面がありました。

「 原稿がなかなかすすまなくて困っているとき、
  先生(梅棹)は苦笑しながら、こんなことをもらされた。

 『 ぼくの文章は、やさしい言葉でかいてあるから、
   すらすら読めるし、わかりやすい。だから、   
   かくときもさらさらとかけると思っている人がいるらしい 』  」

      ( p240 藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」講談社 )


読売の古新聞をひろげていて、お目当ての箇所がありました。
それは磯田道史の『古今をちこち』という月一回の連載です。
ふ~ん。最近のは、挿絵も磯田氏ご自分が描いているようです。
うん。『下手うま』というのありますが、どう見ても下手絵(笑)。
うん。以前の挿絵は惹かれるものがあり、夢にも出てきたんです。

それはそうと、12月14日(水)の磯田氏の連載文は、こうはじまってます。

「磯田道史『日本史を暴く』(中公新書)がベストセラーになったという。」

この回の見出しは、『学問と社会をつなぐ工夫』でした。
うん。ここが肝心そうだという箇所を引用しておきます。

「 21世紀半ばの人文学は、新しい評価軸が必要だと思う。これまでの
  人文学系の学界の考え方には欠けている視点があり反省が必要だ。

  学者と言えば、真か偽か、新知見か既知か、先行研究を高めるか、
  という評価軸だけで考え、難解な用語で、専門家だけの学術雑誌
  に論文を書く仕事だとしてきた。
  
  一方で、わかりやすい。面白い。楽しい。つながる。
  こういった本来、人文知がもっていた豊かでおおらかな視点を欠いてきた。
  誰にもわかる。楽しめる。ユニバーサルな学問がこれからは必要である。

  難解な学問が不必要なわけでない。

  学問の成果の理解が難しければ、学問と一般社会
  をつなげ、コミュニケートする工夫が必要になる。

  実は、この仕事は難解な専門研究をやるよりも数段難しい場合も多い。

  この点を誤解している研究者はまだ多い。
  旧制高校卒業の世代の著述に比べ、近年、
  人文系の研究は明らかに拙い文章の論文が増えている。
  論文の査読をしていて強く感じる。

  誰にでもわかりやすく解説するには
  国語力や雄弁・博学が必要で、
  なかなか難しい。でも、やらねばならぬ局面だ。       」  


『でも、やらねばならぬ局面 』を、どのように理解すればよいのか?
というところで、ここにも大村はま先生に、登場していただくことに。

上記の磯田氏の文に『旧制高校卒業の世代』とありました。
ちなみに大村はまが、先生となったのはいつ頃だったのか?

大村はま著『新編 教えるということ』(ちくま学芸文庫)は、
講演をまとめた一冊なのですが、そこのはじまりにありました。

「 私は昭和3(1928)年にはじめて教師になりました。」( p11 )

どこで先生をはじめたかというと、
長野県の諏訪高女(今の二葉高校)です。その箇所を引用。

「 それから国語の先輩の先生は、私を助手にして万葉集の索引を作る
  仕事をなさっていました。先生は土屋文明先生のお手伝いをして
  いらっしゃたかたですが、私に・・むずかしい中国語の辞書をひかせます。
  ・・『・・こうやってひくんだよ』と教えてくださいました。
  『 なんだって今のうちに勉強しておかなきゃだめなんだ。
    手伝っているなんて思ったら大間違いだ。この本は、
    こういうふうに使う。これを調べるにはこれを使う 』
  と教えてくださいました。

  当時、珍しいほどの蔵書を持っておりました長野県の、
  今、二葉(ふたば)高校と申します諏訪高女の国語研究室において、
  私はたいへん鍛えられたのです。・・・・

  それから、また、言論自由の職員室の空気がありました。・・・
  一方、思いきってものの言える雰囲気ができていて、
  いちばん若い私が、いろいろなことを言えるような
  雰囲気になっておりました。              」( p18 )

はい。これが、戦後の大村はま先生へとつながってゆく箇所なので
もうちょっとおつきあい願います。

「 そのころ、熱心な先生のなかには、国語ですと、
 『源氏物語の研究』とか、『万葉の研究』とかいったような
  テーマをもって勉強なさるかたが、信州にはたくさんありました。

  私はそのことについて相当な反感をもっておりました。
  それはそれでよい、研究することは尊いことだと思います。

  けれども、私はもっと、『 作文をどうするか 』とか、
  そういった種類のことを教師は勉強すべきではないかと、
  生意気ながらも考えておりました。

  女子大に在学中から、先生になろうと決心して、
  教材の研究を試みていたのですから、
  当然そういうことになるわけです。

  ・・・・国語教育の権威芦田恵之助(あしだけいのすけ)先生に
  直接手をとって教えていただいた最後の人たちの中に、私もはいっております。
  ですからもう、教育の、そうした現場の研究をすべきであると、
  胸いっぱいに思っておりました。          」 ( p19 )


この講演「教えるということ」は、1970年8月におこなわれたものでした。

そうです、梅棹忠夫氏は、こう語っておりました。

『 ぼくの文章は、やさしい言葉でかいてあるから、
  すらすら読めるし、わかりやすい。だから、   
  かくときもさらさらとかけると思っている人がいるらしい  』

新聞連載の、磯田道史氏はというと、

「 誰にでもわかりやすく解説するには
  国語力や雄弁・博学が必要で、なかなか難しい。
  でも、やらねばならぬ局面だ。         」と指摘します。

どうやら、磯田氏の指摘を深堀するためには、
梅棹忠夫著『 知的生産の技術 』があって、
大村はまの『 作文はどうするか 』がある。
そう私なりの目星をつけているわけなんです。

はい。つい長くなりますが、最後にここも引用。

「 ある日、歴史の先生が

 『 勉強しているかい、テーマを言ってみろ 』

  と私におっしゃいました。
  そして、私が

 『  作文を今こういうふうにして、
    こういう記録をとって、
    こういうようにやっている  』

 と言いましたら、

 『 平家物語時代に口語が芽ばえてきて、
   だんだん狂言のことばになってくる。
   そういうふうな研究をして、
   口語の発生とその発達、ということを考える。

   このなまな国語、なまな口語、これが今からどのくらい経たら
   ほんとうの日本語になれるのか、考えてみるんだな。

   文語はすでにもう鍛えられたことばになったけれども、
   どうも口語はなまでいけない。
   口語では文章は書けないし、歌も作れない。
   そういう意味で口語の研究をしたらどうか   』

 と私におっしゃったのです。
 たいへん強くそれをおっしゃったのですが、
 それはそれとしておもしろいとは思いましたけれども、
 私は黙っていて、それをやるとは言わなかったのです。

 ところが、あくる日になってもまた、万葉集はどうかとか、
 芭蕉はどうかとか、いろいろおっしゃったものですから、

 とうとう私は、職員室のまん中で、20幾人かいる先生がたのまん中で、
 ――校長先生ももちろんおいでになっていました――

  『 作文の研究じゃいけないんですか! 』と、
 
 大声でどなってしまいました。・・・・
 そんなことをどなったというのが、今日まで教室につながる
 エネルギーだったんじゃないかと、今でもみなさんに言われます。
 そんなようなことで、私は、先生になった初めの10年間を過ごしました。」
                          ( p19~20 )


今年これから私が読もうとしている『大村はま国語教室』は
そこから始る大村はまの足跡なのだと心得。全集を開きます。

何って、ちっとも読み進めていないのだから困ったものです。
せめても、当ブログで『読むぞ、読むぞ』とスタートの号令。




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新聞紙は財産だった。

2023-01-29 | 短文紹介
この前、読売の古新聞(12月中頃~1月中頃までの)を
もらってきて、今日になってパラパラめくっています。

もう1月も終わろうとしてるけれど、
たとえば古新聞の1月1日の新春詠。

ここはお一人。小池光氏の3首。

 新春の庭に降り立ちちからある霜柱踏む 善きことあれな

 胃ぶくろの中に容れたりいただきし会津みしらずの大柿ひとつ

 息つめて一気に抜きしいつぽんの白毛鼻毛をわれは凝視す


新聞紙で思い浮かぶのは、四コマ漫画のサザエさんでした。
畳をあげての大掃除をしている場面。その下に古新聞が敷いてある。
サザエさんが、その古新聞を読み始めると掃除はそっちのけとなる。

うん。新聞紙で思い浮かぶ、大村はま・梅棹忠夫を並べてみることに。
まずは、大村はま先生から

それは、昭和22年中学校が創設された時のことでした。

「私はいちばん最初に、来るようにと声をかけてくださった
 校長先生の学校へ行きました。それは江東地区の中学校でした。

 ご存知のとおり大戦災地でしたから、一面の焼け野原・・・・

 焼け残った鉄筋コンクリートの工業学校があります。
 その一部を借りて、私のつとめる深川第一中学校というのは出発しました。

 ・・ガラス戸があるわけでなし、本があるわけでなし、
 ノートがあるわけでなし、紙はなし、鉛筆はなし・・・
 そこへ赴任したわけです。・・・

 『教室がないから二クラス百人いっしょにやってください』と、
 こういうわけです。その百人の子どもは中学の開校まで3月から
 1か月以上野放しになっていた子どたちです。・・・・
 しばらくは教室の隅に立ちつくしていました。・・・

 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
 とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものを
 たくさんつくりました。約百ほどつくって、それに一つ一つ
 違った問題をつけて、ですから百とおりの教材ができたわけです。

 翌日それを持って教室へ出ました。そして、子どもを一人ずつつかまえては、
 『これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん』と、
 一つずつわたしていったのです。・・・・・          」

  ( p75~76  ちくま学芸文庫「新編教えるということ」 )


この場面は、「教えることの復権」(ちくま新書)での
苅谷さんとの対談のなかでも出てきます。

大村】 ・・・そのとき、ふと新聞のことを考えついた。
苅谷】 すぐその帰り道のことなんですか。

大村】 そう。戦時中、強制疎開で私は千葉県我孫子市に
    一時移ったんですけれども、そのとき、
    茶碗やら何やらを新聞にくるんで運んだわけです。
   
    当時は私だけでなく、だれも新聞紙は大事にしましたよ。
    ご主人は、仕事に行くときに必ず新聞紙一枚ポケットに
    入れておくといったような。そんなふうに新聞紙は財産だった。

    ・・・でも、なにか特別の目的で取っておいたのでもなんでもない。
    靴を包んだりお箸やお皿を包んだりした新聞紙ですから、
    古いのも破れたのもあって、教材なんて結構なものではない。
    それが、まあたくさんあったわけです。

    とにかく子どもの数ほどないとしょうがない。
    新聞を丁寧にのばして、教材として使えそうな記事を探して、
    はさみで切っていって、百枚ほど作った。

    ほかに余分な紙などはないから、記事の余白に一枚一枚、
    学習のてびきを書いていったんですよ。

    これを読んでどうせよということ。
    それも、この文章を読みなさいなどというのではなくて、
    ちょっと気の利いた、面白いことばをつけて、
    やってもいいなという気にさせる。
    そんなてびきをそれぞれにつけた。

    ・・・・それが百枚全部違うわけよね。
    茶碗を包んだ新聞紙ですから。
    全員に全部違うものを読ませるとか、
    具体的なてびきをつけるとか、
    その後の教室での仕事が、このとき
    骨身に沁みてわかったのではないかしら。

    あれ以来、教材を探すのもてびきを作るのも、誰よりも早い。
    じょうずかどうかわからないけど、パッとこれは教材になるとわかる。
    あまりえり好みせず、なんとか役に立つものを自分で作るということ、
    それを知らず知らず体得したのではないかしら。

                     ( p131~132 )



うん。次でおしまい。
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)。
そこにある、『 十年分の日刊紙三紙 』のことが印象深い。

「先生の場合、最初からはっきりした目的があったのかどうかは知らない。
 しかし、すくなくとも、半年か一年さきにつかう目的はなかったと思う。

 というのは、わたしがつとめはじめたときにすでに、梅棹夫人は
 物置きが新聞だらけで困っておられたのだから。 」(p207)

「十年もの長きにわたって、家族との闘いのなかを守りとおしてきた」(p210)

この三紙10年分の古新聞が日の目を見るチャンスが訪れます。
うん。肝心なところなのですこし長く引用。

「加納一郎先生の古稀記念事業に、その門下生たちのあいだで、 
 今日までの日本の探検の全成果をまとめて出版しようという
 企画がもちあがったのである。・・・・・

 梅棹先生も加納先生の薫陶をうけたひとりであった。
 研究室で加納先生のお名前が出るとき、先生はきまって
 『加納先生』と呼んでおられた。京都大学のあたりでは、
 学生も先生も教師のことを、本人の目の前以外のところでは、
 『さん』づけでよぶのがふつうになっている。それなのに、
 わたしたちの前でも、加納先生と呼び、手帳に約束をかきこむときも、
 『加納先生』と記入してあったから、梅棹先生にとって加納先生は
 ただの先生ではないのだなと、わたしは感じていた。

 その加納先生の古稀事業だから、先生はだれよりも率先してはたらいた。
 出版社に話をつけ、編集方針、編集委員などについて、
 根まわしのほとんどをとりしきられた。・・・

 その探検講座の資料の一部に・・自分の新聞を提供しようと考えられた。
 たまった新聞は、10年分はゆうにある。このなかから、
 探検や冒険に関連のある記事を切り抜いていけば、立派な文献資料ができる。

 ・・・出版社に交渉したら、切り抜きに必要な経費は、
 編集費の一部として出していただけることになり・・・

 アルバイトをしてくれる〇〇探検部の若者たちの手で、
 梅棹家から古新聞がはこびこまれ、台紙、合成糊、
 赤色マジックペン、新聞名や日付を台紙におすハンコ、
 スタンプ台、カッターなど消耗品は、注文し・・届けてもらった。

 ・・気になった記事の指定は、選定基準をもとに、
 まず学生たちが赤で記事をかこみ、そのあと、
 福井(勝義)さんが記事のとりこぼしがないかチェックする。

 さらに切り抜きと台紙にはりつける作業は、
 梅棹家のお子さんと若い学生さんたちで手わけしてやるときまった。

 ・・先生は『新聞切抜事業団』と名づけられた。・・・・   」
                      ( p209~210 ) 


さてっと、これだけで終わっては昔の戯言と笑われるかもね。
最後には、鶴見俊輔氏の対談での言葉を引用しておくことに。


「 ・・私たちが〇〇でやったのは、いまの〇〇のイメージとは
  ぜんぜん違うわけ。つまりね。あのときのカードは機械のない
  時代の技術なんですよ。コピー機もないしテープレコーダーもないし、
  もちろんコンピュータやEメールもない。

  いわば、穴居時代の技術です。
  コンピュータのいまのレベル、
  インターネットのいまのレベルという、
  現在の地平だけで技術を考えてはだめなんです。

  穴居時代の技術は何かということを、
  いつでも視野に置いていかなきゃいけない。

  それとね、私たちの共同研究には、
  コーヒー一杯で何時間でも雑談できるような
  自由な感覚がありました。・・・・・

  一日中でも話している。
  アイデアが飛び交っていて、
  その場でアイデアが伸びてくるんだよ。
  ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。

  いま、インターネットで世界中が交流できるようになってきているけど、
  コンピュータの後ろにそういう自由な感覚があれば、
  いろんな共同研究ができていくでしょうね。   」

   ( p207 季刊「本とコンピュータ」1999年冬号 )






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『 逝きし世の面影 』

2023-01-28 | 本棚並べ
平凡社ライブラリーの渡辺京二著「逝きし世の面影」。
その最後の解説を、平川祐弘氏が書いておりました。
はじまりを引用。

「 『逝きし世の面影』という情緒豊かな標題の本書は、
   我が国が西洋化し近代化することによって失った
   明治末年以前の文明の姿を追い求めたものである。

   著者はおびただしい幕末・明治年間の来日外国人の
   記録を博捜・精査することによって、それをこの分厚い一冊にまとめた。

   ・・・著者の、イデオロギーや先入主にとらわれない、率直な反応が、
   美しい日本語に表現されていて、本書を価値あるものとした。

   共感は批評におとらず理解の良き方法であることを本書は実証している。」


はい。これが解説のはじまり、4頁なので私にもすぐ読めます。
うん。ここには、平川解説の最後の3行も引用しておくことに。

「 明治日本の生活様式は多面的である。それでいて
  多くの外国人の目がおのずと集中する点がある。

  そこに旧文明の面影は宿る。その過去は
  私たちの心性の中で死に絶えてはいない。

  かすかに囁き続けるものがあるからこそ、
  逝きし日の面影は懐かしいのである。    」( p591~594 )


ちなみに、葦書房より刊行されたのが1998年。
平凡社ライブラリーで刊行されたのが2005年。
この文庫を、古本で安く手にした版は2010年( 初版第21刷 )。

それはそうと、月刊Hanada2023年3月号に、
三浦小太郎氏の「追悼・渡辺京二」があり題は、
「伝え続けた小さきものの声」( p310~319 )。
こちらも、さらりと引用しておきます。

「昨年12月25日、思想史家渡辺京二が92歳の生涯を終えた。
 私は訃報を知ると、すぐに『小さきものの死』(1975年)を読み返した。」

こうはじまっておりました。私では
手には負えない重要なテーマなので、
最後にここだけ引用しておわります。

「渡辺京二の名が一般的に知られるようになったのは、
 1998年に出版された『逝きし世の面影』(葦書房)であろう。

 幕末・明治初頭の日本を訪れた外国人の記録を通じて、
 江戸時代を近代によって滅ぼされた美しい文明社会と
 して総合的に分析した本作は、現在でも多くの読者を
 引き付けている。
 
 この著名な作品については、私はあえてあまり触れずにおく。
 本書を手に取っていただければ、そこから立ち上ってくる
 前近代の日本の姿に、読者は目を見張る思いがすることだろう。」(p318)


あとは読むだけなんだけれど、
読まずにこうして書いている。
はい。これがふだんの私です。


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渡辺京二の熊本大地震。

2023-01-27 | 地震
同時代にいてくれたのに、
私は、『逝きし世の面影』も未読でした。

その著者・渡辺京二氏が2022年12月25日に亡くなる。

今日の産経新聞オピニオン欄『正論』で平川祐弘氏が
渡辺京二氏をとりあげられておりました。
そのはじまりは

「 渡辺京二氏が熊本で歳末に亡くなった。
 『逝きし世の面影』(平成10年、葦書房)という
  情緒豊かな標題の書物で、日本が西洋化することで
  失った明治末年以前の文明の姿を追い求めた。

  この代表作が17年に平凡社ライブラリーとして
  再刊され、(注:平川祐弘が)解説を書いた。・・・        」


 ちなみにですが、
 渡辺京二氏は1930年生まれ。
 平川祐弘氏は1931年生まれ。

平川氏は、渡辺京二氏の『逝きし世の面影』を切り口にして、
戦後の言論空間を短文できれいに腑分けしてくれていました。

月刊Hanada令和5年3月号には、
三浦小太郎氏が「追悼・渡辺京二」という10頁の文が載っていました。
ちなみに、その次の頁には平川祐弘氏の連載が第九回目になってます。

わたしは、『逝きし世の面影』も読んでいないし。他の本も、
ちょっと、読み齧ったぐらいですので追悼文の引用はさけて、
本棚から、渡辺京二氏の掲載文がある雑誌をとりだしてくる。

「文芸春秋」2016年6月号には、
特集の「大地震からの再出発」に、渡辺氏が「熊本の地から」と
題する文を載せておりました。その文のはじまりは

「 この原稿の注文を受けたとき、考えてしまった。
  決定的な二度目の激震のあと、まだ三日目である。・・・

  やっと最低限の生活空間をぎりぎり作り出したばかりだ。  」

こうして、被災した様子を少し書いてゆき、
「その後のことは書かない。」として文章の鼻先を変えています。

「 災難は今度で二度目という気がする。
  というのは、私は旧制中学三年のとき
  大連で敗戦を迎え、引き揚げるまで一年半、
  敗戦国民として悲惨を味わったからだ。

  特の二年目の冬がひどかった。
  常食は高粱(コーリャン)でつねに飢えていた。

  零下十数度までくだるのに、
  石炭が切れて暖房なしに過した。

  家は接収され、他の日本人住宅に同居を強いられた。
  引き揚げ船には手荷物だけで乗った。全所有物を失ったのだ。

  引き揚げてみると、当にした親戚は空襲で焼け出されていて、
  彼らが転がりこんでいたお寺の一隅に、さらに私たちが転がりこんだ。」


 「敗戦後の苦難と、今回の災害は、形態は違うものの、
  生活基盤を脅かされる点では同一といってよい。
  
  だから私は二度目というのである。
  しかし、経験の質はまったく異なっていた。

  私は年齢というものを勘定に入れていなかったのである。
  敗戦後の私は十代であった。躰をいくら酷使しても疲れを知らなかった。
  苦難は冒険とさえ感じられた。この時期の記憶は、
  私の生涯でも最も生気に満ちている。

  しかし、いま私は八十五歳、
  今度ほど自分が役立たずであるのを感じさせられたことはない。」

 
「 大連で敗戦を迎えたのが私にとってよきことだったのは、若かったからだ。
  いまの若い人が東北大災害と熊本大地震を経験したのは、
  私の場合とおなじようによきことなのだ。このふたつの悲惨事は、

  これから社会を担ってゆく人びとにとって
  貴重な経験になるにちがいない。

  高度化・複雑化・重量化する文明を、
  いかにして質を落すことなくかえって高めながら、

  より操り易く、より軽量で、
  より人間に馴染み易いものに転換してゆくか
  という困難な課題に取り組まねばならぬのは彼らなのだ。 」



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『週刊朝日』に『ハルメク』。

2023-01-26 | 道しるべ
夕刊フジを数か月購読してました。
今日電子版に登録しておきました。

うん。新聞は紙で読むものだと習慣づいており、
なかなか電子版で読むのは億劫だったのですが、

一ヶ月の購読料が夕刊フジで3,700円。電子版で1,100円。

はい。電子版で今日から読み馴れることに。
とりあえずは、今月末までは、紙と電子版
がダブるので両方を見て電子版慣らし期間。

夕刊フジは、見出しが好きなんだな。
他の新聞より、はっきりした見出し。

それはそうと、1月26日(木)で気になった箇所。

花田紀凱「天下の暴論」(p14)は題して
『 「週刊朝日」休刊を惜しむ 』でした。
そのはじまりは

「『週刊朝日』5月休刊のニュースを悲しい思いで聞いた。
  創刊101年目のあの『週刊朝日』が――。・・・

  何より表紙がいけない。毎週のように、
  ジャニーズ系の男の子たちのアップ(むろん彼らを非難しているわけではない)。
  若いファンが購入してくれるのを見込んでのことだろうが、
 『週刊朝日』ともあろうものがそんな層に媚びてどうする、
  と情けなかった。・・・・

  ぼくは『週刊朝日』はすぐれた家庭誌で、
  その路線を貫くべきだったと思っている。

  中流家庭の居間に置いてあり、
  家族の誰もが手に取れるような週刊誌。・・  」


思わず、そうそうと、頷きたくなります。
さて、同じ日の夕刊フジの4面右上には、

「 女性誌『ハルメク』快進撃 」とある。

記事のはじまりを引用しておきます。

「 50代以上の女性向け月刊誌『ハルメク』の販売部数が
  昨年12月号で50万部を超え、漫画誌を除く全雑誌で
  1位となった( 日本ABC協会調べ )。

  雑誌不況の中、5年前からほぼ右肩上がりの快進撃。
  読者自身も自覚しないニーズを掘り起こす編集姿勢・・ 」

うん。全文引用したくなる記事なのですが、とりあえずあと少し引用。

「 書店を通さず読者に直送する定期購読月刊誌として
  1996年創刊した『いきいき』が前身。

  部数が低迷していた2016年に現誌名に変更した。
  翌17年、主婦と生活社で女性誌の編集長を歴任した
  山岡朝子さん(48)が編集長に就任した後、躍進が始まった。

 『 雑誌作りで大切なのは読者を知り、寄り添うこと 』

 と山岡さん。その好例がスマートフォンの特集だ。・・・・  」

『 不況に負けず50万部超え 』という小見出しが効いてます。

折れ線グラフでは『家の光』『週刊文春』『文芸春秋』『週刊現代』
の各雑誌が下降線をたどる中、昇り調子の『ハルメク』が一目瞭然。


夕刊フジ(1月26日)にはこの時代のエポックとして、
『週刊朝日』と『ハルメク』とが語られて印象的です。




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そらええなあ。そのときはぼく。

2023-01-25 | 他生の縁
「知的生産の技術」に、登場するキツネ。
ということをとりあげてみます。

まずは、『知的生産の技術』から、この箇所。

「ある作家の作品のなかに、只棹埋男(たださおうめお)翁という
 老学者がでてきて、おどろいたことがある。その老人は、

 しめきりがきても文章ができあがらないので、
 たいへんくるしむのだが、夜中になると、
 とつぜんにキツネがやってきて、とりつく、
 すると、たちまちにして文章ができあがる、というのである。

 じっさい、くるしまぎれに、キツネつきみたいな状態になって、
 無我夢中でかきあげてしまうことがおおい。・・・ 」( p199 )


はい。どのような状態なのだろうなあ、と思っていた、わたしに
思い浮かんできたのは、大村はまさんの『仏様の指』の話でした。
あらためて、とりだしてみます。

『 仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、
  一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。

  そこはたいへんなぬかるみであった。
  車は、そのぬかるみにはまってしまって、
  男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。

  男は汗びっしょりになって苦しんでいる。
  いつまでたっても、どうしても車は抜けない。

  その時、仏様はしばらく男のようすを見ていらしたが、
  ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、

  車はすっとぬかるみから抜けて、からからと
  男はひいていってしまった。  』      

  ( p156 大村はま著「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )


この『仏様の指』のお話と、
キツネつきを語る梅棹忠夫。

藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)。
その第三章「知的生産の奥義」に、具体的な場面が散りばめられてました。

そこを飛び飛びに引用してみることに。

「 新しいシステムを採用することと、
  原稿の生産性があがることとは、別の問題である。

  ・・・『遅筆の梅棹さん』の評判は、わたしなどが
  くる前から、知る人ぞ知る、有名な事実だったのである。

  先生が原稿を執筆されるのは、自宅の書斎である。
  だから、わたしは、執筆中の先生の姿を見たことはない。

  ただ、たいへん苦しい思いをなさるらしいことは、
  しめきりのぎりぎりのところにくると、
  よく脈が結滞して医者にかかられることからも、察せられた。 」(p238)


うん。こういう具体例が多い第三章なので、続けます。

「予定どおり原稿ができなくて四苦八苦しているとき、先生はよく

 『 原稿というもんはキツネがついてくれないとできんもんでな 』

 といわれる。

  『 そんなバカなこと、ウソでしょ。
    しめきりにまにあわないことを、
    キツネのせいにするなんてずるい  』

 たのまれた原稿なんてかいたことのないわたしは
 先生の言い分を否定した。それでも先生は、

 『 いや、やっぱりキツネがつくのやで。
   原稿用紙を前に、うんうんうなったって、かけんときはかけん。

   それがあるとき突然かわる。いままで苦しんでいたのが
   ウソみたいに、文章がでけてくる。かけだしたら早い。・・・

   どこでどうなってそうなるのか、自分でもわからんけど、
   とにかくできるときはすっとでけてしまう。
  
   不思議というか、なんというか、これは
   キツネがついたとしかいいようがないなあ 』

  まじめな先生が、ほんとにまじめな顔をしてキツネ説を主張される。 」

        ( p224 藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」 )

うん。ここはさらに、つづけていきます。

「 めったにないことだが、いろいろと悪条件が重なると、
  先生はきょうのようなむずかしい顔つきになる。

  たいていは、原稿の執筆が思うようにすすまない、
  疲れがたまって体の調子が悪くなる、
  
  前の仕事がすまないうちにあとの約束が追いかけてきて
  二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる・・・と、
  こんな悪循環がかさなってしまったときである。

  原因は、すべて自分にあるのだからどうしようもない。
  短気な人なら、まわりの者にあたりちらすところだが、
  自制心の強い先生は、内にぎゅっとおさえて、
  この窮地を脱出すべく、苦しみに耐えている。・・・・  」


これは、あの場面でしょうか?

 「 ・・・・そこはたいへんなぬかるみであった。
   車は、そのぬかるみにはまってしまって、
   男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。
   男は汗びっしょりになって苦しんでいる。

   いつまでたっても、どうしても車は抜けない。・・・  」


はい。最後に、こちらも引用して終わります。

「 はいってきたのは、小松左京さんだった。
  今夜の集まりのメンバーのひとりである小松さんは、
  ロンドの会員でもあり、京都で仕事があるときは、
  ちょくちょく研究室をのぞかれる。きょうも少し早目に
  きて、先生をさそって会場へいくおつもりらしい。・・・・

  小松さんがはいられると、声は一段と高くなり、
  にぎやかになった。いつのまにか、梅棹先生の
  原稿ができあがらないことが、みなさんに知れてしまった。小松さんが、

 『 いっぺん、みんなでシンポジウムせないかんなあ。
  【 「知的生産の技術について」の筆者に原稿をかかせるキツネについて 】
      といテーマはどうやろ』といいだした。

 『 そらええなあ。そのときはぼく、一番前にいてきかしてもらいます 』と先生。     
     ・・・・・・    」
             ( p231 第三章「知的生産の奥義」 )




 




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「 はじめに 」

2023-01-24 | 本棚並べ
数年ごとに、みじかな本棚からとりだすのは、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)。

この梅棹忠夫の新書と、大村はまの講演とを
『 重ね読み 』してみたいと思います。

新書の「はじめに」は、20ページあるのですが、
なんど読めど、分かったようでいてわからない。

うん。分からないから、何度でもひらいてみる、
といった方がよいのかもしれないなあ。

ページごとに、言葉に一本筋が通っていて、
まるで筋が多い肉が、噛み切れないように、
嚙み砕いて理解しようとするのを阻みます。

「はじめに」の最後の3行に
『いちばんかんじん』なことを書いてあります。

「 知的生産の技術について、いちばんかんじんな点は
  なにかといえば、おそらくは、

  それについて、いろいろとかんがえてみること、
  そして、それを実行してみることだろう。

  たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。 」


うん。ここで、大村はま先生の講演を思い浮かべます。

「 今までやってみたことはけっしてやりません。
  それから既存の教材はけっして使いません。・・・・

  かならず教材は新しく発掘して使います。
  だれも使ったことがない、教科書などにはもちろん載っていない、
  そういう新しい教材を用意します。

  方法も、自分として今まで一度もやったことのない
  方法を開拓してやるわけです。ですから・・・・

  新卒の時と同じ苦しみです。何をやってよいかわからないし、
  どうやればよいかわからないし・・・・

  もう四十幾年も教員をやっていれば、・・・
  どんな古い方法でも、今までやった方法でもよかったら、
  いますぐにでもやれます。

  けれども、それでは老いてしまうと思います。
  それは精神が老いてしまうことです。

  未来に対して建設できないなら、私は、
  さっさとやめた方がよいと思っています。・・・・

  一般の学校にいるから苦しみも大きいのです。
  しかし、私は、その毎月の研究授業をだれのためにもやっていません。
  自分が教師として老いないためです。・・・・    」

  ( p30~31 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )


また、「知的生産の技術」の「はじめに」を引用してみます。

「 この本で、わたしがかこうとしていることは、要するに、
  いかによみ、いかにかき、いかにかんがえるか、
  というようなことである。・・           」( p2 )

「 ここで問題にしようというのは・・むつかしい話とはちがうのだ。
  学問をこころざすものなら当然こころえておかねばならぬような、

  きわめて基礎的な、研究のやりかたのことなのである。
  研究者としてはごく日常的な問題だが、たとえば、
 
  現象を観察し記録するにはどうするのがいいか、あるいは、
  自分の発想を定着させ展開するにはどういう方法があるか、

  こういうことを、学校ではなかなかおしえてくれないのである。
  このことをわたしは、わかい研究者諸君の指導をする立場に
  たつようになってから、気がついた。

  大学をでて、あたらしく研究生活にはいってくる人たちは、
  学問の方法論については堂々たる議論をぶつことはできても、

  ごくかんたんな、本のよみかた、原稿のかきかたさえも
  しらないということが、かならずしもめずらしくないのである。 」
                       (  ~p4 )


はい。『ごくかんたんな、本のよみかた、原稿のかきかた・・』
それを学ぶのには、梅棹忠夫氏より大村はま先生に学ぶに限る。
そう思ってみるのです。今年は、大村はま先生から学ぶことに。
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どこにでもあるような大問題。

2023-01-23 | 短文紹介
今年は「大村はま全集」を最後までひらき、
そうして、根気よく読みとおせますように。

「大村はま国語教室」の第4巻に
「文学を味わわせるために」(昭和42年12月大下学園国語科教育研究会)の
講演録が載っておりました。そのなかに『 重ね読み 』が語られていて、
ああ、一冊だけじゃなくって、何冊か重ねながら、そこから共通点やら
微妙な違いやらを抽出して、自分の心持を言葉に浮かび上がらせる過程を、
具体例を出し、講演を聞く先生方に発見させるような説明されております。

『重ね読み』で、私がきちんと比べたくなる人たちは
大村さんと、梅棹忠夫たちの共同研究の系列の人たち。


今年はまた、1から大村はまを読み始めることに。
そう思うと、ちくま新書の「教えることの復権」をひらきたくなる。

大村はまさんが、教えようとした学校を語る箇所がありました。

「・・・でも私自身はいい学校へ行きたいと志願したことはないです。
 日本中にどこにでもあるというようなあたりまえの学校に奉職したい
 と思っていたんですよ。

 これから自分が一生懸命取り組んでいくことの成果、
 それはあたりまえの学校でやってこそ、
 たくさんの人についてきてもらえるのだ、と思った。」( p28 )

この語りをついで、元生徒の苅谷夏子さんも語っています。

「 私たちはみんなあたりまえの、普通の中学生だった。
  特殊例として、そう思って読んでほしくない。

  普通の中学生がこういうことをやっていたんだ、
  そう思って読んでいただきたいと思うんです。  」( p29 )


この箇所はそのまま、大村はま全集のひらき方を示唆しておりました。
これから一年、私は中学生となり大村はま国語教室の生徒になります。

まず、大村先生は、こう新入の中学生に言ってきかせております。

「『ここは中学校です。
  小学校は子どもの学校、中学校は大人の学校、
  ――じゃないけれども、大人になる学校です。

  だから子どもの学校ではいいと言われたことでも
  中学校のほうではだめっていうことがあるんです。

  それは中学校の先生が意地悪なのではなくて、大人になって
  やって悪いことはやめていかないと困るので、そこが大変ちがう。

  そこで、とにかく国語の時間としては、これからは一ぺんで
  ものを聞いてほしい、私の言うことは一ぺんで聞きなさい 』

 こんなふうに言いました。
 わからなければ二度でも三度でも言うけれど、
 お詫びしなければ言わないって。

 大人は聞きそこなったりすると、恐れ入りますがどんな話でしたか、
 と、そういうふうに言って謝らなければ聞けない。

 だからそれをまず国語の時間にやってほしいと言いました。

 それは、実際には、単元学習のような構成の複雑な学習を進めるのに、
 一ぺんで話のわからない子どもがたくさんいたら、やれません。

 だからそれは最初の大事なことでした。
 
 二度聞いても三度聞いても、もちろんよくお話しはしますよ、
 お話しはしますが、ただ、謝らなきゃねって。

 これは大層効果のあったことでした。

 ただし、それは教師のほうからすれば大変なことなの。自分が一ぺんで
 わかる話をしているかということが問題でしょう。大問題。  」(~p31)


ちなみに、この『 大問題。 』は、そのあとにどうなったのか?

「大村はま国語教室」第13巻は「やさしい国語教室」の文が載っています。
その最後の「解説」を倉沢栄吉氏が書いているのですが、そこから
この箇所を引用して、今回は終わります。

「・・・それは本書の愛読者が、先生方はむろんだが
    小中学生にもたくさんいたという事実である。

    その少女の一人を宮崎陽子という。
    この少女はいわゆる帰国子女の一人で、
    日本に帰ってきた六年生のとき、

    偶然、荒木千春子と出会い、
    『やさしい国語教室』をすすめられる。
    熱心に読み出してその感想を文章に書き続けた。
    ・・・・・少女は次のように親しみをこめて書いている。

  『 この「やさしい国語教室」を読んで感じた楽しさは、
    今までに読んだ本の楽しさとは、質が違うように感じられる。

    それは、他の本よりも、この本は
    作者を身近なものに感じさせるからだろう。

    この本を読むと、大村はま先生と実際に
    お話をしているように感じられる。

    このような事は、今までに読んだ本の中では
    一度も感じられなかった。 』 と。     」

         (  p468 「大村はま国語教室」第13巻  )
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根っこ繋がり。

2023-01-22 | 本棚並べ
今年、1月18日発売の記念切手を買ってあります。
封筒用84円のシール式切手。1シート840円なり。
切手は、だんぜんシール式の方が使い勝手がよい。

はい。手紙なんてめったに書かないので、
1シートあれば私は1年分だったりします。

年の初めくらい多くの手紙が書けるよう願って、
記念切手を買います( 郵便局の回し者か )。

買ったのは「自然の記録」第三集で『本草図譜』。
シール脇説明には大学の「付属植物園蔵」とあり、
どうみても、江戸か明治頃の手書きの絵図譜です。

絵柄も、今どきの花の絵柄の切手とはちがって、
枇杷の絵柄も、路地で雨さらしの枇杷だったり、
イチゴ図柄も、実が楕円だったりしてます。
そして、特徴は本草図譜というだけあって、
花と実に絵によっては根までも描かれてる。

なんとも、クラッシクな絵柄花柄なのです。
10枚つづりの絵(一枚一枚違う草花)を見ていると、
だんだんと、私は根にまつわる連想がはたらきます。

ここで、思い浮かんだのは、お正月の松飾りでした。
平凡社のコロナブックスシリーズの一冊を出してくる。
持っているのは『京の坪庭を楽しむ』。そのp78です。

このページの写真は、のれんの下がった家の正面。
下の説明をそのままに引用。

「  冨田屋・正面外観
   正月の飾り付けをした冨田屋の正面。
   明治18年の建築。・・・      」

とあります。私が気になっていたのは、
のれん下両脇に、小さな松飾りがある。
その松飾りはどうみても根っこがついているのでした。
小さな苗のような松を根っこごと飾っているのです。

( この風習をご存知の方はお教えください )

何だろうなあ、飾った後に、その松を植えるのだろうか。
それにしても、シンプル松飾りにこんなバリエーションがある。
さまざなま飾り方があってもよいという楽しみがひろがります。
それとも、着飾った松飾りの原型の姿とはこのようだったのか。
一枚の写真に、京都のお正月の飾らない姿を教えられるような。


本棚からもう一冊とりだしてきたのは、
杉本秀太郎著「絵 隠された意味」(平凡社・1988年)
その『告白』という文でした( p90~94 )

そこには、昭和46年に武田薬品が創業190年記念に出版した
『薬用植物画譜』が紹介されておりました。こうあります。

「 薬用植物の図譜のために描かれた植物図には、
  普通の植物図鑑の図とはちがうところがある。

  薬用に供される部分が特に目立つように
  描かれなければならないからである。

  多くの場合、それは植物の果実、もしくは根ということになる。
  だが、植物識別の目じるしになる花、葉、幹、茎も正確に描か
  れていなければ物の役に立たないのは当然である。  」

このあとに、葛(くず)の説明があり、最後はそちらも引用したくなる。


「 夏、秋の日本の山野に趣を添える葛は、あのすさまじいばかりの
  繁茂ぶりから想像がつくように、地中にたくましい根塊を秘めていて、
  そのなかに多量のデンプンを蓄積している。

  冬のうちに掘り起こした葛の根をたたきつぶして、水にさらす
  と良質のデンプンが得られる。葛の食用植物たる所以である。

  葛の根は、また古来、漢方では葛根(かつこん)と称して
  重宝されてきた。デンプンのほかにイソフラボノイド、
  ダイゼインを含有していて、血行を良くし、
  血糖を降下させるのに有効で、解熱作用もある。  」

はい。p93には、『薬用植物図譜』から葛の絵が載せてあります。
下には「 小磯良平『葛』( 「薬用植物図譜」より ) 」とあります。


はい。家では、生姜葛湯も葛根湯も常備しております。
あれ。葛湯は飲んでナシ。さっそくストックしなきゃ。
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地域発『猫語入門の発音読本』

2023-01-21 | 安房
水曜日。半日のドライブを楽しんでの帰りがけ、
道の駅『鄙の里』で、地元のミカン=『地ミカン』を買う。
そこに、三芳・方言の会『三芳村のことば』(2022年12月発行・1500円)
の冊子があったので、こちらも買ってかえる。

『三芳村のことば』。大きさが週刊誌サイズ。全185ページ。
字も見やすい大きさ。スペースも適度で読みやすく老眼の味方。

凡例をひらくと、
「アクセントは『新明解国語辞典』にならって数字で示して・・」
とありまして、正確を旨としており、単なる読みやすさだけじゃない。
凡例の8を引用してみます。

8・ 連母音の『長拗音化』という用語は一般でなく・・・・

   例えば、『来年』(rainen)の訛りは
   『りゃーねん』(rya:nen)とも『れゃーねん』(reya:nen)とも
   表記できます。

   また『お前』(omae)の訛りは
   『おみゃー(omya:)とも『おめゃー(omeya:)』とも表記できます。

   これらの『rya:』『mya:』に基づき『長拗音』という用語を用いました。

   例えば『無い』の訛りは
   『ねゃー』(neya:)であって『にゃー』(nya:)ではありません。
    ・・・・・           」

はい。私には詳らかには分からないながらも、理解したことにして
こうして、本文をひらくのですが、これがめっぽう面白い。
面白いので、どこを引用しようか迷います。
はい。今回はあきらめて最後をひらくと、会の人たちの短文が並んで
おりました。うん。どなたのも言葉に重さがあって好きなのですが、
ここには、吉野さんの文を引用することに。

「私は生まれも育ちも三芳で、社会人になってからも三芳の中に勤務し、
 60歳定年退職後も生まれ育った所に住んでいます。したがって
 三芳から外に出て生活した経験のない者です。

 父は昭和36年、私が小学校5年で10歳の時に病死し、
 祖父は私が4歳の時に他界していました。
 祖母は父が死亡した5年後の私が高校1年の時に病死しました。
 祖母は同じ集落内から嫁いできていましたので、
 一生地元で過ごした者です。
 母は静岡県浜名湖のほとり、温州みかんの産地の三ヶ日から
 戦後間もなく三芳に嫁いできています。・・・・・・

 中学校は三芳ですので、友人仲間とも当然方言だらけの会話でした。
 高校に行くと、安房地域全域からの集まりですので、

 友人仲間から三芳の方言を指摘され、
 特に『猫語』が多いと言われました。

 日曜日に友人から海釣りに行こうと誘われても、
 『日曜は田植えん(田植えの)準備で、田んぼん(田の)仕事が
 あっから(あるから)、おいねゃー(いけない)』となる。

 否定の『ない』は『ねゃー』となるので、
 会話の中では頻繁に『ねゃー』が出現します。

 私は『猫語』を改めることなく・・・
 使い続けていた記憶があります。          」( p177 )


藤平さんの文のはじまりは
『私はこの会が平成15年(2003年)に発足した時から参加しています。』
とあります。『三芳・方言の会』が発足して今年で20年。

  10年ひと昔
  12年ひとまわり
  25年四半世紀
  ~30年一世代


何だか20年過ぎて、同じ景色が新鮮にみえてくるのかも。
そんなことを思ってしまう、この頃です。ということで、
貴重さに敬意をこめて『ねゃー』猫語入門の新刊本紹介。

 
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上達する月日を共に過ごした

2023-01-20 | 詩歌
『 コロナ禍に友と楽器を奏でうる喜び語る生徒らの笑み 』
                
はい。昨日の新聞に歌会始の記事。
歌会始のお題は、友でした。そこから、
天皇陛下のお歌を引用してみました。これからの、
皇室の和歌を深く奏でられますよう願う気持ちになります。

水曜日にもらってきた読売の古新聞。
さっそく、その月曜日をひらきます。
読売歌壇・読売俳壇がお目当てです。


読売歌壇・俳壇からの列挙。

 山茶花や一人住ひの両隣   東大阪市 渡辺美智子

12月19日の読売俳壇。宇多喜代子の選の最初。

選評】 一人住まいの隣人であろうか、それとも一人暮らしの作者か。
     山茶花(さざんか)が一人暮らしの各々をつなぐ役をしている。 

読売歌壇では、病院に関する歌が目にとまりました。

 医師からの結果待つ間のドキドキにああとめどなく身の固くなる
                神戸市 西 和代

1月16日。小池光の選の最初でした。

選評】 これは誰でも経験している。お医者の言葉ほど重たいものはない。
    何と言われるか、天国と地獄の差がある。ドキドキドキ、
    頼む、大丈夫だと告げて下され。  

同じ日の、栗木京子選の3首目

 原因は加齢と言われた帰り道きれいに終わる蔦の赤見ゆ
              龍ヶ崎市 寺山昭彦

選評】 診察を受けた帰り道。
    加齢が原因と言われて気が滅入るばかり。
    散る前の蔦(つた)の葉の赤さが
    作者を励ましているように見える。


水曜日は、朝床屋へ行ったのですが、
短歌にも、床屋が出てくるのでした。

12月19日。小池光選の2首目。

 行き慣れし床屋が閉まり初めての店に入り行く冒険のごと
                狭山市 奥園道昭

選評】 なじみの床屋が閉店してしまい、
    別のところにいかなくてはならない。
    はじめて入る床屋は、ちょっとした冒険である。
    こちらの気分にうまく合えばいいんだがねぇ。


最後は、この1首を引用することに。

1月16日。黒瀬珂瀾の選のはじめでした。

 連載の初期の画風のあどけなく共に重ねた月日を思う
             八王子市  吉村おもち

選評】 マンガも長期連載だと初回と最新回で
    絵のタッチが随分と変わる。
    漫画家が上達する月日を共に過ごした
    という奇妙な連帯感。
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水曜日の自由時間。

2023-01-19 | 地域
昨日の水曜日は、一日自由時間。
まずは、前日予約して、朝8時に床屋へ。
同窓生がやっている理髪店。最近その近所で
火災があり、母屋が屋根の瓦が飛ぶ大火事。
さいわい風がなく、隣家への被害は少なかったよう。
帰りがけに、そこを下道から見てみる。
二階までの壁は、防火壁になっているせいか、
一見しただけじゃ、火災後と知らずに通り過ごす。

屋根瓦の箇所が、ところどころ無くなっていて、
そこから火が吹きあがったと思われるのでした。
聞いてなければ分からず通り過ぎておりました。

床屋がおわって、9時少し前、姉の家にゆく。
お茶をご馳走になり、明日回収にだすという
読売新聞の古新聞をもらってくる。
姉夫婦は、明日は病院へ行くということです。

9時過ぎたので、郵便局へ、注文してあった
記念切手シール式をもらいに。
郵便局では、〇〇さんが郵便物を出しにきていた。
近くの高校の先生で、百周年記念誌を製作中。
だいぶ疲労困憊している様子。すこし立ち話。
その高校で両親も〇〇さんも卒業したとこのこと。
予定の枚数をオーバーし、ページ数をふやし、
3月頃になんとか発刊できそうとのこと。

兄の家にゆくと、夫婦二人して居間にいる。
すこし話してもどる。

今日は、それから夫婦してまず主なき家にいって、
この前、修理した屋根の補修箇所が大丈夫か確認。
暮れに切った松のむこうに、梅の花が咲いている。

11時開店回転寿司に一番乗りで海鮮丼と唐揚げの昼飯。
そのあと、メガネ屋へコーティングがはがれてしまって
補修ができないレンズを交換してもらったのを受け取りに。

私の頭髪は上から薄くなるというもう禿げかかっているし。
そして遠近両用メガネも見えずはずす回数が増えてきたし。

精神年齢だけが若い、というのが取り柄だったはずが、
頭もなんだか固くなって融通がきかなくなってきたし。

穏やかな天気なので3時間くらいのドライブをすることに。
海岸線を北上してゆき1時間ほどの町営の美術館をめざす。
保養にきて、永住した日本画家の掛け軸とか、
地域の方の注文に応じて書いた幟の字とか、額とか。

帰りがけに、台風15号で被害甚大だった、
岩井袋地区へとむかう。整理や修理で傷跡はなくなっている。
鳥居があったので、階段をのぼってお参り。

帰る途中に、スーパーと道路を隔てて100円均一の店がある。
お客がすくなそうなので、もどって立ち寄り1700円ほど購入。

ちょこちょこと、脇道へはいりながらのドライブ。
帰りにスーパーで、しゃぶしゃぶ肉を買って今日の夕飯。

相撲を見たりで、夜の9時からNHKBSの探偵ポワロ。
はい。亡くなった声優熊倉一雄の声が聞けるポワロ。
若い時は、口ひげを切りそろえているポワロが気に食わなかったけれど、
今になると、同じ水曜日の時間帯の『相棒』が気に食わなくなっている。

まるで、鬼平犯科帳の時代劇の人通りの混雑とかを楽しむように、
ポワロの空間を楽しんでいる自分がいます。この日は倍の時間で、
夜11頃までありました。2時間の物語をたっぷりと楽しみました。

はい。そのあと床についたので、昨日のブログ更新はなしでした。
この1日を言葉でしめ括るのは勿体ないといつもの横着がでました。



コメント (2)
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20歳で花守り。堀宗凡さん。

2023-01-17 | 本棚並べ
堀宗凡さんのことは、入江敦彦著「読む京都」に登場します。
入江さんは、二度出会っておりました。ここには、二度目の
場面を引用することに。

「 一ヶ月ほどのち、こんどは昼下がりだったが彼を見かけたとき、

 『 こないだは失礼しました。偉いお茶の先生やと母に教わりました。
   こんど会ったら、ちゃんとご挨拶するよう叱られました  』

  というと 『 ほな、うちおいでやす 』 と・・・
  
  それは多分わたしが体験する初めての本物のお点前だったが、
  その水が流れるような自然美におおいに胸をうたれた。

 『 お兄さんは、なんにもお作法をご存知ない言わはりましたけど、
   お見事でしたえ。作法を引き出すのは亭主の責任。
   お客が不調法なんは主人が無能やのえ 』

  帰る間際、堀宗凡は『 うち、こないだ本出してもろてん 』
  と件の『 茶花遊心 』をわたしに手渡し、
  『 また、いつでも遊びに来よし 』と誘ってくれた。

  直後から仕事が猛烈に忙しくなって、それきり
  堀との付き合いが途絶えたことを未だ後悔している。   」

     ( p98 入江敦彦著「読む京都」本の雑誌社・2018年 )


この入江さんの本に『 茶花遊心 』を紹介した箇所があります。

「 いまのところ読んだ限りで矛盾に満ちた京と茶の命題を
  もっとも緻密に解き明かした本は堀宗凡の『茶花遊心』である。

  本書には、もてなす気持ちがまるで一斉に花を開いた
  春の野原みたいに揺れている。70、80年代の京を代表する
  数寄者として知られた堀の一冊きりの、しかし400ページに
  及ぶ茶道家としての仕事の集大成だ。 」 ( p97 )

ちなみに、入江敦彦著「読む京都」の最後の方に
「 京都本の10冊 」が列挙されており、そこにも『茶花遊心』が 
選ばれております。そこには、

『 長らく修道した裏千家を離れ、
  独自の茶道に生きた≪ 最後の数寄者 ≫堀宗凡。
  稀なる茶人の花と和歌と人生の記録 』 ( p217 )

 こうもありました。

『 ・・・
  こちら側で身じろぎもせず
  京という水際立った水瓶に花を活けようとしたひともいた。
  それが堀宗凡なる茶人だ。

  彼の著書《 茶花遊心 》はその記録。収録された
  図版を眺めていると、まず思い浮かぶのは矜持という概念である。』(p222)


ちなみに、写真集でも見かけることができます。
私の好きな写真集に、中村勝・文で甲斐扶佐義・写真の
「ほんやら洞と歩く京都いきあたりばったり」(淡交社・2000年)があり、
その中に登場しておりました。
この写真集は主に商店街のご夫婦を写したりしながら、京都を歩いている
子供も、猫も、僧侶も、さまざまに登場しておりました。そこのp105に
古本屋の店先で本をひらいている姿が写っておりました。写真の下には

「河原町通三条下ルの古書籍の店先で、茶人の堀宗凡さん。さまざまな
 ファッションで河原町通を散歩する姿は有名だった(1979年撮影) 」

小さくプロフィールもありました。

【堀宗凡】 大正3年、京の料理屋に生まれる。
      幼い頃から花に魅せられ
     『 ききょう咲く陽あたりのよい土地少しあるならば 』
      と、20歳で花守りの人生が始まる。
      その間、裏千家14世淡々斎に師事。
      58歳より独自の茶道に生きる。 ・・・  


う~ん。写真集の中村勝さんの文も引用しておかなきゃいけないかな。

「 着流しの和服の上にマントのようなものを引っかけて、
  さりげなく古本屋の前に立つ姿はどこかカメラを意識
  しているようにも見える。

  粋な人といえば、この人も非凡なファッションセンスで、
  町を行く人たちの目を止めた。堀宗凡という有名な茶人だ
  ということは、ずっと後で知ったが、
  数年前まで河原町通をまさに闊歩していた。

  ときには、つばの広い帽子の女装であったり、
  ウエディングドレスのようなファッションで
  歩いていたのを見た人もいる。

  下鴨の自宅から葵橋を渡って、河原町通を四条辺りまで
  下って行くのが定番コース。途中、出町の西田運送店に
  立ち寄って先代の主人の話し相手になっていたという。
  ・・・・                      」  


それよりも、写真の『 茶花遊心 』をひらく楽しみ。
古書ですが、時々ネットの「日本の古本屋」で出ます。
いま、ちょうど検索すると、ちょい高いけど一冊ある。


  
  
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私は好きです。

2023-01-16 | 地域
学校の図書室は、いまはどうなっているのでしょう?


昭和35年に大村はまは、石川台中学校に転任します。
そこで、図書室の蔵書を見ている箇所がありました。
何だか気になる箇所なのでした。引用しておきます。

「昭和35年の4月、私は東京都大田区の石川台中学校に転任した。
 さっそく図書室に行って、蔵書と対面した。

 端から端までゆっくり背文字を見ていたが、そのとき、
 思わず手を出した本があった。『日本つづり方作文全集』である。
 創元社から出ていた、旧版の赤い表紙の本であった。

 見ていくと、子どもたちの生活の変化、子どもを取りまく社会の変化、
 もっと細かく、子どもたちの学んでいること、教訓されていること、
 けんかのたね、また、子どもたちの楽しみにしていること、
 幸せと考えることの内容の変化、教科の名前、学用品のいろいろ、
 ―――とにかく、私はおもしろくてたまらなかった。

 その後、図書室にくる子どもたちをつかまえては、
 その本を引き出して、私のおもしろい発見を披露した。

 国語の時間にも、『 この本、読みませんか 』の時間と称して、
 はんぱに残った時間などに、いろいろの本を紹介したが、

 そんなときもよくこの赤い本を取り出して、少し前の時代の
 学校のようす、お手伝いのようすなど読み聞かせた。

 そういうとき、子どもたちは、いつもおもしろそうであった。
 これを読書教材に、と思うと、私は胸のときめきを感じた。   」

         ( p241 「大村はま国語教室」筑摩書房 第4巻 )


これは、昭和49年9月 石川台中学校三年生によって
単元学習『 明治・大正・昭和の作文の歩み 』として結実しておりました。

全集には、単元の個人発表の箇所が付されてます。
三年A組 太田久美子さんの、最後の箇所も引用。

「明治の文体には、文語体が多く、そのため、ひきしまった感じを受ける。
 ・・・・・

 昭和にはいると、ほとんどが口語体になり、敬語文も非常に多くなってきた。
 昭和戦前は、大正時代の延長のようで、表現に大きな変化がないが、
 戦後になると、急にやわらかい、親しみやすい表現になってきている。
 
 そして、文末の表現の種類がふえて、変化に富んだのびのびした文章である。
 また、明治時代にはあまり見られなかったあいまいな表現、
 二重否定なども多くなっている。自分の意志や、推量、感動が
 特にたくさん文末に使われている。

 感動・断定の表現には、各時代の特色があり、
 その表現の移り変わりが大きい。・・・・      」


また『 あとがき から 』も、ひとり(北村美弥)紹介することに。

「作文を書くのは苦手だけれど、
 誰かが書いたものを読んだりすることはとても楽しいので私は好きです。
 それを書いた人の考えや、その時の情景が私にも少しわかってくるような
 気がするからです。
 そんな訳で、今度の研究は、大へん興味がひかれました。・・・・ 」

            ( p289~290 )


はい。このGOOブログでの皆さんの文を読ませていただいていると、
これからは、中学三年生の北村美弥さんの言葉が浮ぶのだろうなあ。

『 誰かが書いたものを読んだりすることはとても楽しいので私は好きです 』


 
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