和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

おまえさん おまえさん

2022-08-29 | 詩歌
田村隆一の短い追悼詩があって、引用することに。

      桜島   黒田三郎の霊に

    きみは
    たしか鹿児島の造士館の出身で
    城山にすまいがあった
    ぼくが
    山を見ればその山は桜島であって
    はじめてみた桜島は雪がつもっていた

    おまえさん
    おまえさん また逢おう


東京の下町生れの田村隆一さんが、鹿児島生れの黒田三郎と出会って、
どのような影響があったのか? どうだったのか?
なんて、わかりようがないのですが、
まるで履歴書のように、『きみ』『ぼく』とはじめた詩が
一行空白後『おまえさん おまえさん』と呼びかけてます。

交際の履歴書ならば、空白の間にはさまざま詰め込まれて
しかるべきなのでしょうが、出身から桜島とはじめだけを
とりあげたあとは、一行の空白の空間に押しこめたままに、
次にくるのは、最後の二行の呼びかけとなっておりました。

おいおい。それはないだろう。と思う反面。
語られない、空白空間のブラックボックス。
そこに、反古の詩篇は詰めこまれてるようで、
『言葉なんか覚えるんじゃなかった』と書く
田村隆一の息を吞むような一回きりの気合芸。
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ウサギ追いしかの山

2022-08-28 | 詩歌
私はろくすっぽ泳げなかったけれど、
いちおうは、海辺で育ちましたので

   生れてしおに浴(ゆあみ)して
       浪を子守の歌と聞き、
    千里寄せくる海の気を  
      吸いてわらべとなりにけり。

        ( 「尋常小学読本唱歌」明治43年7月 )

という、唱歌「われは海の子」の二番は、身近に感じられます。
ところで、唱歌「故郷」は「尋常小学唱歌(六)」大正3年6月。
唱歌「故郷」のはじまりの言葉「 兎追いしかの山 」のことが
思い浮かぶので備忘録がてら知らない世界なので記しておきます。

松田道雄著「京の町かどから」(昭和37年)のなかに
「ウサギ狩り」と題する文があるのでした。そのはじまりから
ここは、長くなりますが、貴重だと思うので引用しておきます。

「 こよみのうえで寒があけようとするころ、
 盆地の京都は一年で最低の気温になる。
 愛宕山や鞍馬山の尾根はいつみても白い。
 比叡おろしに肌がいたい。

 この時期をえらんで、私のいっていた中学では
 毎年ウサギ狩りをやるのだった。朝まだ暗いうちに、
 一番電車にのっていって校庭にあつまる。学年ごとに一隊となって、
 それぞれの方角にわかれて出発する。

 京の町は南をのぞいて、まわりはみんな山である。
 いまのように、山すそまで人家がたてこんではいなかった。
 町はずれから山までは、田んぼや畑のなかの細い道を、
 霜柱をふんで、かなりながい距離をいかねばならなかった。
 その途中で、すっかり明るくなるのだった。

 ウサギ狩りは、ひどく原始的な狩猟法であった。
 奥山にえさがなくなって、畑に近い山に移動してくるウサギを、
 山をかこんだ勢子(せこ)がおいあげて、山の背にはった網に
 ひっかかるのをつかまえるのである。

 ウサギは耳のさとい動物だから、私たちは山に近づくと
 いっさい口をきいてはならないと、言いわたされていた。
 中学の子どもが、ながいあいだ絶対の沈黙をまもらねば
 ならぬということは、かなりの苦痛であった。

 いよいよ山のすそにつくと、甲組、乙組、丙組とわかれていた私たちは、
 それぞれがコの字の一辺をなすようにして、山をとりかこむ。
 両わきにあたった組は、こんどはもっと隠密に、音をさせぬようにして、
 一列になって山をのぼっていかなければならない。
 五十人のクラスの生徒が、三、四㍍の間隔にたてにならぶと、
 ちょうど山の下から、上までとどくのであった。
 コの字の、あいたほうを山の背にむけて、そこに網番にえらばれた
 三、四人がすばやく網をひろげて、はりめぐらす。

 こうして用意がおわると、総監督の体操の先生が、
 いま交通巡査がつかっているのとおなじ笛を吹きならす。
 山のすそから、これも、三、四㍍の間隔にならんだ一組が 
 いっせいに山をのぼりはじめる。

 『ほーい、ほーい』
 山にこだまして、勢子の追いあげる声がひびく。
 ・・・・・・・

 ウサギは、山をかけのぼるほうが得意であるらしく、
 それを利用しての狩猟法なのだから、『ほーい、ほーい』を
 忠実にやっていれば、下にはむかってこない。

 ところが、道のない坂をのぼりながら、『ほーい、ほーい』を
 ひっきりなしにどなることは、生理的にかなり困難な作業であった。

 それでも、やっと木立と灌木のしげみを脱して、
 あかるい山の上の平地にでたとき、網番が黒褐色の
 こわい毛の大きいウサギの耳をつかんで、みせてまわって
 いるのにあうと、つかれを一度に忘れてしまうのだった。

 この原始的な狩猟法は、あまり能率のいいものではなかった。
 ウサギが一度に二羽以上とれることはなかったし、
 一時間か一時間半かかって、一山を追いあげても、
 一羽も獲物がないということもめずらしくなかった。

 それに一つの山を狩ると、もうその近所の山のウサギは、
 奥山に逃げてしまうので、つづいて近所でやるということはできなかった。
 第二回の狩猟をやるためには、また一時間か二時間、沈黙の行軍をやって、
 もっとふかい山にはいっていかねばならなかった。・・・・・

 せいぜい、三つか四つの山を狩ると、もう陽はかたむきかけ・・
 こんどは、いままでの沈黙をとりかえすような気持で、合唱したり、
 しゃべったりしながら、六尺棒に四肢をしばったウサギを通して、
 おかごみたいにかついだ網番たちを先頭に校庭にひきあげていった。
    ・・・・・・・・・・・・・・

 私たちは校長の森外三郎先生のみじかい慰労のあいさつをきいてから、
 ウサギ汁を『立食』した。ニンジンやダイコンや油あげの
 きざみこんである京都式のカス汁であった。
 野ウサギがどんな味がしたものか、てんでおぼえていない。
 ウサギが足りないので、まぜられていたブタしかあたらなかったせいだろう
 それでも、早起きしたうえ一日かけずりまわったあとの、
 ウサギ汁はおいしかった。・・・・            」
               

松田道雄は、1908年(明治41年)生れでした。
ちなみに、1982年発行の「洛々春秋 私たちの京都」(三一書房)。
この鼎談に、こんな箇所がありました。

松田道雄】 ウサギ狩りちゅうの、ありませんでしたか? あのころ

天野忠】  ああ、学校から連れていかれました。     ( p107 )


はい。唱歌の『故郷』のその一行目に、この原始的な
狩猟法が記してあったなんて、思いもしませんでした。


  
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のり子さん のり子さん。

2022-08-27 | 本棚並べ
気になって、文芸別冊KAWADE夢ムック『茨木のり子』(2016年)を
古本で購入。ひらくとはじまりのエッセイが工藤直子さんでした。
題が『のり子さんのり子さん』。

うん。そのはじまりだけを引用してみます。

「 昔、友人が一冊の詩集を抱いてやってきた。
 『 あなた読んだ? この詩集、まだ? まだなら貸す。
   いや、あげる。とにかく読んで。今すぐ読んで   』

 それは、出たばかりの『見えない配達夫』、
 茨木のり子さんの第二詩集だった。

 1958年(昭和33年)。初めての就職でジタバタしているときのことだ。
 詩集をもらって『今すぐ(!)』読むうちに
 ( ああこれですこれです。会いたかった詩だよぉ~ )と思った。
 特に『怒るときと許すとき』の

   油断すればぽたぽた垂れる涙を
   水道栓のように きっちり締め

 の詩句が沁み入り、気がつくと私も、
 ぽたぽたぽたぽた涙を垂らしていた。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・       」

はい。エッセイですから、これからが本題なのでしょうが、
私はこれだけで満腹。


さてつぎは、詩集『見えない配達夫』をひらいて、
『怒るときと許すとき』を読まなきゃ。

詩を直接読むより、ボンクラな私は語っているのを、
間接的に聞いている方がより思わぬ発見があります。

そういえば、永瀬清子の詩なんて知らずに読む気にもならなかったのですが、
茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)にでてきた
永瀬清子の『悲しめる友よ』で、はじめて腑に落ちた感じでした。
女性が女性の詩を取り上げ、掬い上げる。
そういえば、
皇后陛下美智子さまの英訳とご朗読『降りつむ』(毎日新聞出版社・2019年)
に、永瀬清子の詩「降りつむ」がありました。
私はボンクラ男ですから、こんな女性の詩は、
なにか、別世界にまぎれこんだ気になります。
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ひかりさん ひかりさん。

2022-08-26 | 本棚並べ
呼びかける詩というのがありますね。
昨日は、永瀬清子の詩「ひかりさんひかりさん」(?)を
捜してたんですが、どこにあったのか、
何の雑誌だったのか、はたまた追悼号だったのか、
見つからずじまい。

はやくに亡くなった干刈あがたさんを悼む詩だったのでした。

 ひかりさん ひかりさん
 後ろから私を照らしていてください

そんなような語句があったような気がするのですが、長い追悼詩でした。

しかたないと、今日は思潮社の現代詩文庫1039「永瀬清子詩集」を
とりだしてくる。この解説を干刈あがたさんが書いておりました。
そこから引用しておくことに。


「私は永瀬清子の詩を読みながら、
 もっと早く読んでいればよかった、と思う一方で、
 
 もし二十代の時にこれらを読んでいたら、
 私にはこの明りは見えなかったかもしれない、
 とも思います。

 私は自分が生活経験を重ねてみて、
 女が家の中にいることや子育てで身動きができないこと
 自体が不幸なのではない。その中には考える種がいっぱいあり、

 命に近いところにある豊かさをいっぱい感じられる場所なのに、
 そのことに気がつかないことが不幸なのだ、と思うようになりました。

 そこからものごとを見つめたり考えたりしたい、
 と思うようになった私に、ようやく見えた明りだったのではないかと。

 私の永瀬清子の詩の読み方は、大ざっぱなもので、
 折折ぱらぱらと頁を繰って、わかりやすいものに取りつく、
 というようなものです。・・・             」
                  ( p153 )


うん。これを読んでからも永瀬清子さんの詩を読まなかったし、
まして、干刈あがたさんの本も読んだことがありませんでした。

結局みつけられなかったのですが、呼びかける追悼詩のことが
不思議と思い浮かびました。またいつか、この詩と出会えますように。

その時は、もう少し私も成長していますように。
つい、そんなことを思ってしまう追悼詩だったような気がしています。
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田村さん 隆一さん。

2022-08-24 | 詩歌
今日は、天気のよい水曜日。
主なき家の、道路わきの草刈り。草取り。
もう午前中にて、そそくさとやめて帰る。

お昼はビールを飲んで昼寝。
暮れるとコオロギが鳴いている。
そういえば、数日前には家にコオロギ。

この時期になると、思い浮かぶ詩があります。
大岡信の詩です。

     こほろぎ降る中で 追悼田村隆一

 田村さん 隆一さん
 あんなに熾(さか)んだつた猿滑りの花の
 鮮かなくれなゐも 薄れてしまった
 蝉時雨に包まれてあんたが死んだ1998年も
 たちまち秋に沈んでゆく

 ・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・


 田村さん 隆一さん あんたが
 好き嫌ひともはつきり語った二十世紀も了る
 こほろぎがばかに多い都会の荒地を
 寝巻の上へインバネス羽織つただけのすつてんてん
 あんたはゆつくり 哄笑しながら歩み去る

 ・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・

 ( p202~204 大岡信詩集「捧げるうた50篇」花神社・1999年 )

さてっと、これから、コオロギの鳴く季節へ。
  
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老子の『道(タオ)』

2022-08-23 | 古典
加島祥造訳「タオ 老子」(筑摩書房・2000年)の最初から引用。

  道(タオ)

 これが道だと口で言ったからって
 それは本当の道(タオ)じゃないんだ。
 これがタオだと名づけたって
 それは本物の道じゃないんだ。
 なぜってそれを道だと言ったり
 名づけたりするずっと以前から
 名の無い道(タオ)の領域が
 はるかに広がっていたんだ。

 まずはじめに
 名の無い領域があった。
 その名の無い領域から
 天と地が生まれ、
 天と地のあいだから
 数知れぬ名前が生まれた。
 だから天と地は
 名の有るすべてのものの『母』と言える。

 ところで
 名の有るものには欲がくっつく、そして
 欲がくっつけば、ものの表面しか見えない。
 無欲になって、はじめて
 真のリアリティが見えてくる。

 名の有る領域と
 名の無い領域は、同じ源から出ている、
 名が有ると無いの違いがあるだけなんだ。

 名の有る領域の向うに
 名の無い領域が、
 はるかに広がっている。
 明と暗のまざりあった領域が、
 その向うにも、はるかに広がっている。その向うにも・・・
 入口には
 衆妙の門が立っている、
 森羅万象あらゆるもののくぐる門だ。
 この神秘の門をくぐるとき、ひとは
 本物の Life Force につながるのだ。


ちなみ、PARCO出版・加島祥造訳「タオ」(1992年)があるのですが、
筑摩書房のほうが訳文の推敲がされていて、よりわかりやすく読めます。 
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老子の『徳』

2022-08-22 | 古典
加島祥造著「タオ(道)」筑摩書房・2000年。
帯には「道は無い・・・それが道だ」全訳創造詩とあります。
今回引用するのは第38章徳(テー)

 だいたい私が
 徳と呼ぶのは
 千変万化するタオのエナジーが
 この世で働く時のパワーのことを言うのだ。

 タオのパワーにつながる人は
 いまここに居る自分だけに
 心を集めている。
 ほかの意識は持たないから、
 内側のエナジーはよく流れる。
 これを私は上等の徳と言うんだ。
 世間にいる道徳家と言うのは
 徳を意識して強張(こわば)るから、
 エナジーはよく流れない――
 こういうのを私は下等の徳と言うのさ。

 同じことが日々の行為にも当てはまる。いつも
 意識して行動するだけの人は
 深いエナジーを充分に掬(く)みだせない。
 タオの働きを信じて、
 余計なことをしない人は
 いつしか大きなパワーに乗って、自分の
 生きる意味につながる。
 その人の
 本当の人間感情も
 こういう大きな愛から動く。

 これが正しいからやる、なんてことばかり
 主張する人は
 浅いパワーを振り回しているのさ。
 そして礼儀や世間体や形式ばかり
 守ってる人は、
 こっちがそれに同調しないと
 目を剝いて文句を言い、
 腕まくりして無理強いしたりする。

 言い直すと、世界ははじめ、
 タオ・エナジーの働きを、
 徳として尊んだんだがね。
 それを見失ったあと、 
 人道主義を造りだした。
 それを失うと、
 正義を造りだした。
 正義さえ利(き)なくなると、
 儀礼をはじめた。
 儀礼がみんなの基準になると
 形式ばかり先行して、裏では
 むしり合いがはじまった。
 先を読みとる能力が威張り、
 愚かな競争ばかり盛んになった。

 あの道(タオ)の
 最初のパワーにつながる人は
 上辺(うわべ)の流れを見過ごして平気なんだよ。
 結果が自然に実を結ぶのを
 待っていられる人になる。
 花をすぐ摘み取ろうなんてせずに
 ひとり
 ゆっくりと眺めている人になる。

              ( p104~107 )


はい。この夏は、老子・荘子を読もうと思った。
思ったまま、夏も過ぎようとしております。
 
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えいやつと蠅叩き

2022-08-21 | 詩歌
夏目漱石は、大正5年(1916)12月9日に亡くなりました。
その大正5年9月2日の芥川龍之介宛の手紙のなかに

  秋立つや一巻の書の読み残し

という俳句があります。
凡人とっては、夏休みが終る頃の
『読み残し』には身近な実感ありますが、
漱石は、この年の暮れに亡くなりました。


さてっと、漱石俳句の夏をめくることに。

 のうぜんの花を数へて幾日影  ( 明治40年 )

うん。半藤一利著「漱石俳句を愉しむ」(PHP新書・1997年)には、
青春の章・朱夏の章・白秋の章・玄冬の章・おまけの章と区分けしてまして、
それならばと『朱夏の章』だけめくることに。

   泳ぎ上り河童驚く暑かな

半藤さんの解説の最後は
「・・あまりの熊本の暑さに閉口している図とも考えられる。
 そのカッパとは、東京からやってきた漱石先生のことでもある。」
                       ( p69 )

    隣より謡ふて来たり夏の月

解説は長く引用することに
「さすがに熊本は、54万石の城下町であるな、という感を深めるのは、
 漱石がこの地で謡曲に親しんだということである。・・・・

 ただし、漱石先生の謡はかなり下手であったらしい。
 寺田寅彦が『いやはや聞きしに勝るからっぺたですな』と
 なげいた話がある。

 家へ帰ってご機嫌でやって、
 『いい謡を聞かしてやったんだ、感謝しろ』
 といったら、鏡子夫人が答えた。
 『我慢して聞いてやったんだから、あなたこそお礼をいいなさいまし』
 ・・・                        」( p75 )


明治29年の漱石俳句をひらくと

    衣更へて京より嫁を貰ひけり

うん。この年の夏の俳句をめくると

   すずしさや裏は鉦うつ光琳寺

   ゑいやつと蠅叩きけり書生部屋


と、『音』が、なにやら印象深いのでした。


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面白い雑誌をつくるには。

2022-08-20 | 道しるべ
産経新聞の8月20日
『花田紀凱(かずよし)の週刊誌ウォッチング』から引用

「新聞、テレビなど大メディアが、一方に振れたとき、
 ちょっと違うのでは、こんな見方もあるのでは、
 と発信するのが、雑誌ジャーナリズム、特に週刊誌の役割だろう。

 ところが、このところの『統一教会』批判、まさに『魔女狩り』
 とでも言うべき大メディアの報道に、異を唱えるどころか、
 週刊誌も一緒になって煽(あお)っている。

 実に情けない。

 ・・・その『新潮』、今週もトップは『統一教会』で・・・

 7月の参院選で、萩生田光一氏が、生稲氏を伴って
 八王子市内の関連施設を訪れたという、たったそれだけの話。
 ・・・・・

 渡邉哲也さん(経済評論家)が、こんなことを言っていた。

 『 統一教会系の団体の会合に出たとか追及されて
   ヘドモドしている政治家も情けない。そう言われたら、
   ≪ いや、私、創価学会の会合にも、立正佼成会、霊友会
     の会合にも出てますよ。何が悪いんですか ≫
   と返事すりゃいいんです  』              」


週刊新潮の表紙絵・谷内六郎さんが亡くなってあと、
いちばんの痛手は、新潮社の編集者・齋藤十一さんが亡くなった
ということでした。

小島千加子さんの「齋藤さんの徳」には、

「・・やがて週刊誌へと移行、
 自分の思い通りの誌面造りへと発展させたのである。

 誰もやろうとせず、やれなかったことをやるのが人間としての生き甲斐、
 という齋藤さんの、果敢な精神の発露である。   」
                          ( p38 )

 亀井龍夫の「私は齋藤さんを生きている」では

「 ・・・・
 私にいわせれば、程度の低い人を相手になさらなかっただけだと思う。

 何をいってもわからない、わかろうとしない、
 そういう人を相手にしているヒマはない。

 これが齋藤さんの生き方であり、
 私も年をとればとるほど、程度の低い人は相手にしないに限る
 と考えるようになっている。この面でも私は
 齋藤さんを生きていることになるのであろうか。    」( p87 )


伊藤貴和子さんの「『ひかり』の中で」には

「『 人の群がるところに行くな 』

 『 読者がこういう本を読みたいだろうから、
   ではなく自分が面白くて、読みたい本を出せ 』

 『 本は書名が命だ 』
 『 宣伝文句に、使いふるされた文言を使うな、自分の言葉をみがけ 』

 等々、編集者の心得を日々叩きこまれた。  」 ( p131 )


うん。あと一人。
松田宏さんの「 齋藤さんの思い出 」に

「 齋藤さんとのエピソードは書けばきりがない。
  私が接触した齋藤さんは、いわば晩年の齋藤さんである。

  しかし、編集理念に衰えは見られなかった。
  その理念とは何かと聞かれれば、
  『逆説』という一語につきるかも知れない。

  戦後民主主義のバカさ加減をあますところなく追究された。

  『面白い雑誌をつくるには面白い人間になれ』
  よくおっしゃっていた言葉だ。・・・       」( p140 )

 以上の引用は、「編集者齋藤十一」(冬花社・2006年)でした。
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なんだ竹槍じゃないか。

2022-08-19 | 硫黄島
水木しげる著「白い旗」(講談社文庫)が、古本で200円。
読んだことがなかったので購入。
最初にある『白い旗』をひらく。

昭和20年2月10日硫黄島。とはじまる。
最初のページには文がある。

「 硫黄島は、その名のごとく硫黄の島であった。
  井戸を掘っても、硫黄くさい海水まじりの湯が出る。
 
  陣地構築のために穴を掘れば、
  鼻がただれるほどきつい一酸化炭素と
  硫黄のにおいで十分には作業ができない。 」

忘れがたいのは、この箇所でした。

「 射て 」「どうした」
「弾がありません」
「弾薬庫から早くもってこい」
「弾薬庫も空です」
「なに空!?」

「そりゃ大変だ」「無電 無電」
 ・・・・・

「そのあくる夜 無電が通じたのか・・・」
「輸送機です」
「しめたっ」「弾薬だ」 

 輸送機から「ぽたっ」と荷が落下する。

「早くあけろ」
「なんだ竹槍じゃないか」
「竹槍で戦えというのかナ」 ( ~p22 )


文庫には、「白い旗」のほかに
「ブーゲンビル上空涙あり」「田中賴三」「特攻」と、
あるのですが「白い旗」だけで私はもう先が読めない。

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兄ちゃん浜いぐべ。

2022-08-18 | 本棚並べ
週刊誌をちっとも買わなくなりました。
夏といえば、『週刊新潮』創刊号の表紙が思い浮かびます。

表紙は谷内六郎。表紙の絵の中には言葉もある。

『上総の町は貨車の列 火の見の高さに海がある』

それとは別に、「谷内六郎 表紙の言葉」があるんだそうでした。
この創刊号の言葉は、

「 乳色の夜明、どろどろどろりん
  海鳴は低音、鶏はソプラノ、

  雨戸のふし穴がレンズになって
  丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈。

  兄ちゃん浜いぐべ、
  早よう起きねえと、地曳きにおぐれるよ。

  上総の海に陽が昇ると、
  町には海藻の匂がひろがって、

  タバコ屋の婆さまが、
  不景気でおいねえこったなあと
  言いました。             房州御宿にて   」

  ( 「週刊新潮」昭和31年2月19日創刊号 当時は定価30円 ) 


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海を近くに

2022-08-17 | 詩歌
今朝は涼しく感じられます。
はい。秋の虫が鳴き始めてもおかしくない。

え~と。茨木のり子詩集(思潮社・現代詩文庫20)を
ひらき、その目次から海をさがす。ありました。

    海を近くに

 海がとても遠いとき 
 それはわたしの危険信号です

 わたしに力の溢れるとき
 海はわたしのまわりに 蒼い

 ・・・・・・・・・

 いまは魚屋の店さきで
 海を料理することに 心を砕く

 ・・・・・・・・・

 海よ! 近くにいて下さい
 ・・・・



日本唱歌集の「われは海の子」をひらいてみる。
その二番は、こうだったんだ。

 二  生れてしおに浴(ゆあみ)して
        浪を子守の歌と聞き、
     千里寄せくる海の気を
        吸いてわらべとなりにけり。


はい。今年の夏は、2~3回
塩分濃度の濃いお風呂にはいるように
海につかりました。
はい。『坊っちゃん』のように、
ちょっと、湯船で泳いだりして。

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テレビの困った番組第一位。

2022-08-16 | 本棚並べ
まずは、茨木のり子の年譜をひらきます。

1926(大正15年)   6月12日生まれ。
1937(昭和12年)11歳。小学校5年生。12月生母死去。
1949(昭和24年)23歳。医師、三浦安信と結婚。
1961(昭和36年)35歳。夫、くも膜下出血で入院。
1975(昭和50年)49歳。夫、三浦安信、肝臓がんのため死去。
2006(平成18年)79歳。2月17日茨木のり子くも膜下出血のため自宅にて死去
           19日、音信不通のため訪れた甥、宮崎治により発見。

詩に関係する年譜はというと、

1953(昭和28年)27歳
    5月、同じ「詩学研究会」に投稿していた川崎洋氏と共に、
    同人雑誌『櫂』創刊。以後、谷川俊太郎、吉野弘、友竹辰、
    大岡信、水尾比呂志、岸田衿子、中江俊夫氏らが参加。
1965(昭和40年)39歳
    1月、詩集『鎮魂歌』思潮社から刊行。12月『櫂』復刊。
1977(昭和52年)51歳
    3月、詩集『自分の感受性くらい』花神社から刊行。
1979(昭和54年)53歳
    10月、岩波ジュニア新書9『詩のこころを読む』刊行。

(  以上は、岩波文庫「谷川俊太郎選茨木のり子詩集」2014年
   の最後にある、略年譜(作成・宮崎治)より引用しました。  )

ここには、茨木のり子著「詩のこころを読む」の「はじめに」。
そのはじまりを引用してみることに。

「いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。
 いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの
 感情をやさしく誘いだしてもくれます。
 どこの国でも詩は、その国のことばの花々です。

 私は長いあいだ詩を書いてきました。
 ひとの詩もたくさんよんできました。
 そんな歳月のなかで、心の底深くに沈み、
 ふくいくとした香気を保ち、私を幾重にも豊かにしつづけてくれた詩よ、
 出てこい! と呪文をかけますと、まっさきに浮かびあがってきたのが、

 この本でふれた詩たちなのです。いったん扉をひらくと、
 次から次からあらわれでて困ってしまうほどでしたが、

 一番最初に姿をあらわしたものが、私にとって一番忘れがたい
 ものでしょうから、いさぎよくそれだけで構成することにしました。
 ・・・・                            」


はい。この本のほぼ全体が、戦後の詩で埋めつくされておりました。
茨木のり子さんは、この時代の言語空間をうろうろ、まよいながら、
詩の言葉との出会いを探し求めていたのだなと思い浮かべるでした。


文庫の年譜にはなかったようなので、
気になるので、指摘しておきますが、

文藝別冊「花森安治」(KAWADE夢ムック・2011年)に、
茨木のり子の「『暮しの手帖』の発想と方法」という文が掲載されています。

1ページが上下二段となって、16ページの茨木さんの文章です。
「『暮しの手帖』の発想と方法」の章立ては
第1章 志について
第2章 ことばについて
第3章 衣食住について
第4章 商品テストについて
第5章 類が類をよぶ

何でも、講座での文章のようです。
昭和48年とありますから、
昭和50年の旦那さんが亡くなる2年前でした。
「暮しの手帖」の花森安治と、同時代を生きた茨木のり子。
それが語られているのですが、ここには、第5章のおわりの方を
最後に引用してみます。

「一見、美しく確かなものの追究という、何気なさを装いながら、
 『暮しの手帖』がその底に絶えず持続させてきた
 ≪したたかさ≫と≪しぶとさ≫は相当なものだが、
 読者はそれをどう読み、受けとめてきたか、
 これも大いに関心をそそられるところである。

 つまり料理のヒント、工作のための教科書としてのみ生きているのか、
 それ以上なのか? ということである。

 計るすべもないのだが、しかし、1969年から1年3か月かかってまとめられた
 ≪テレビの困った番組、読者投票≫によれば教養・報道の部の、
 最悪番組第一位は、NHKニュースと出たことは、
 その一端をわずかに垣間みせてくれたような気がしている。

 NHKは政府の放送局ではないかという不満を持って、
 42%の人びとが最悪番組第一位に選んだ。

 この結果は編集部としても意外で、予想もつかなかったことだったらしい。
 NHK ニュースに漠然とした不満を持っていた人びとに対して、
 この数字のデータが投影されて、ますますしらじらしいものとして
 形をとって感じられ、波及していったことはまだ記憶に新しい。・・」
                   ( p144 )

この茨木のり子さんの講座の文が書かれてから、ほぼ50年がたちました。
現在の言語空間のなかにあって、
今に、花森安治がいたら、1年をかけてどのような読者投票を企画しただろう。
今に、茨木のり子がいたなら、それをどう評価するだろう。




 
 
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あちらでパラリ こちらでリラパ!

2022-08-15 | 詩歌
茨木のり子さんの詩『花ゲリラ』に、こんな2行がありました。

   思うに 言葉の保管所は
   お互いがお互いに他人のこころのなか


たとえば、詩の現代語訳とか、訳注とかがあります。
茨木さんは、ご自身の詩を、ご自身で解説する場面がありました。
まるで、濃縮ジュースを氷や水で薄めて飲むような不思議な感じ。
はい。お酒ならストレートじゃなく、オンザロックか、水割りか。

ということで、茨木のり子さんの「山本安英の花」という文から引用。

「戦後の昭和22年頃、当時戯曲を書こうとしていた私(茨木さん)は、
 不思議な御縁で山本さんにめぐりあうことができた。

 この出会いは私の人生において決定的なものだったと今にして思う。
 はたちちょっとすぎの小娘だったのだけれど・・・・       」

ここからもうすこし後にありました。

「或るとき、

『 人間はいつまでも初々しさが大切なんですねえ、
  人に対しても世の中に対しても。
  初々しさがなくなると俳優としても駄目になります。
  それは隠そうとしたって隠しおおせるものではなくて、
  そうして堕ちていった人を何人もみました   』

 と言われた。活字にしてしまえばなんでもなくなるかも
 しれないが山本さんの唇を通して出た言葉は私に、大変な衝撃を与えた。
 ・・・・・・
 山本さんは私の背のびを見すかし、
 惜しんでふっと洩らして下さったに違いない。
 頓悟一番というと大げさだが、その時深く悟るところがあった。

 他人に対するはにかみや怖れ、みっともなく赤くなる、
 ぎくしゃく、失語症、傷つきやすさ、それらを
 早く克服したいと願っていたのだけれど、

 それは逆であって、人を人とも思わなくなったり
 この世のことすべてに多寡(たか)をくくることのほうが、
 ずっとこわいことであり、

 そういう弱点はむしろ一番大切にすべき人間の基本的感性なのだった。
 年老いても咲きたての薔薇のように、初々しくみずみずしく
 外に向って開かれてゆくことのほうが、はるかに難しいに違いない。

 そのことにはたと気づかされたのである。
 以来、自分をスマートに見せようというヤキモキが霧散した。

 十数年を経て、この経験を『汲む』という詩に書いた。

 —――Y・Yに—―― という副題をつけたが、
 Y・Yとは誰ですか?と尋ねられても今まであまり話したことはないが、
 山本安英さんの頭文字なのである。

 『汲む』という詩は、今の若い人にもすっと入ってゆくようで、
 この詩に触れた高校生からの手紙を貰ったりすると、
 時代は変っても青春時代の感覚には幾つかの共通点があるのだなと思う。

 こんなふうに、他者から他者へとひそやかに、
 しかし或る確かさをもって引きつがれてゆくものがある。
 こういう道すじは、なんと名づけたらいいものなのだろう。
 ・・・・・                          」

     ( p130~134 茨木のり子著「一本の茎の上に」筑摩書房 )
     (  p210~212 「茨木のり子集 言の葉2」ちくま文庫 )


はい。最後は詩

      花ゲリラ   茨木のり子

  あの時 あなたは こうおっしゃった
  なつかしく友人の昔の言葉を取り出してみる
  私を調整してくれた大切な一言でした
  そんなこと言ったかしら ひャ 忘れた

  あなたが 或る日或る時 そう言ったの
  知人の一人が好きな指輪でも摘みあげるように
  ひらり取り出すが 今度はこちらが覚えていない
  そんな気障(きざ)なこと言ったかしら

  それぞれが捉えた餌を枝にひっかけ
  ポカンと忘れた百舌(もず)である
  思うに 言葉の保管所は
  お互いがお互いに他人のこころのなか

  だからこそ
  生きられる
  千年前の恋唄も 七百年前の物語も
  遠い国の 遠い日の 罪人の呟きさえも

  どこかに花ゲリラでもいるのか
  ポケットに種子しのばせて何喰わぬ顔
  あちらでパラリ こちらでリラパ!
  へんなところに異種の花 咲かせる
  
 


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茨木のり子と感受性。

2022-08-14 | 詩歌
現代詩文庫20「茨木のり子詩集」(思潮社)を、
はじめてひらいた時、気がかりだった詩があります。
『汲む』でした。うん。まるまる引用しちゃえ。

       汲む   —― Y・Yに ――

  大人になるというのは
  すれっからしになることだと
  思い込んでいた少女の頃
  立居振舞の美しい
  発音の正確な
  素敵な女のひとと会いました
  そのひとは私の背のびを見すかしたように
  なにげない話に言いました

  初々しさが大切なの
  人に対しても世の中に対しても
  人を人とも思わなくなったとき
  堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
  隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

  私はどきんとし
  そして深く悟りました

  大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
  ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
  失語症 なめらかでないしぐさ
  子供の悪態にさえ傷ついてしまう
  頼りない生牡蠣のような感受性
  それを鍛える必要は少しもなかったのだな
  年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
  外にむかってひらかれるのこそ難しい
  あらゆる仕事
  すべてのいい仕事の核には
  震える弱いアンテナが隠されている きっと・・・
  わたしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
  たちかえり
  今もときどきその意味を
  ひっそり汲むことがあるのです


うん。この詩に『感受性』という言葉があったのでした。
詩『汲む』は詩集『鎮魂歌』(1965年)よりとあります。
そして、詩集『自分の感受性くらい』は1977年に出ます。

うん。『汲む』とならべて読みたくなります。

    自分の感受性くらい

  ぱさぱさに乾いてゆく心を
  ひとのせいにはするな
  みずから水やりを怠っておいて

  気難かしくなってきたのを
  友人のせいにはするな
  しなやかさを失ったのはどちらなのか
  苛立つのを
  近親のせいにはするな
  なにもかも下手だったのはわたくし

  初心消えかかるのを
  暮しのせいにはするな
  そもそも ひよわな志にすぎなかった

  駄目なことの一切を
  時代のせいにはするな
  わずかに光る尊厳の放棄

  自分の感受性くらい
  自分で守れ
  ばかものよ



花神ブックス1『茨木のり子』(花神社・1985年)を読むと、Y・Yの当人、
山本安英さんの文や、のり子さんの旦那さんのことなどの理解が深まります。


コメント (2)
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