え~と。10月26日の「益川敏英。」の書き込みに、aoyamaさんがコメントを下さっておりました。う~ん。そのコメントを読んでいたら、直接にはちっともつながらないのですが、私には養老孟司氏の言葉が思い浮かんできました。それは中公文庫の養老孟司著「あなたの脳にはクセがある」の最後に載っている「方法としての言葉」という文なのです。これ面白い文なので読まれることをお薦めしますが、ちょっとさわりだけでも紹介しておきます。
「学問には、対象と方法とがある。私は方法にこだわって生きてきた。」こうはじまっております。「おかげで人生がいささか狂った。自然科学をやっていたのに、あるとき『英語で論文を書く』作業をやめてしまったからである。そのために『科学者としての将来』を自分で消すことになった。そういう過去がある。」
「英語と日本語とでは、モノを見る目自体が、具体的に違ってしまう。英語ばやりの世の中で、それに気づく人がどれだけいるか、私は知らない。」
具体的には全文読んで頂きたいのですが、たとえばこんな箇所があります。
「言葉による抽象思考とは、いわばその自由度を最大限に利用することである。
その意味では、日本語は抽象思考に意外と向いており、英語は向かない。英米系の哲学が、経験主義に傾いたり、プラグマティズムに傾いたりするのは、英語という言葉の癖にようるのではないかと、私は疑っている。」
その抽象思考というのが、荘子であったり、論語であったりの漢文に根があるのかもしれないと思うわけで、それが湯川秀樹氏から受け継がれていた抽象思考でもあるのじゃないかと思うわけです。ということで案外にも、足もとを照らしてみるに、科学をやるなら漢文がよろしいと、素人の私も疑ってみるのでありました。
「学問には、対象と方法とがある。私は方法にこだわって生きてきた。」こうはじまっております。「おかげで人生がいささか狂った。自然科学をやっていたのに、あるとき『英語で論文を書く』作業をやめてしまったからである。そのために『科学者としての将来』を自分で消すことになった。そういう過去がある。」
「英語と日本語とでは、モノを見る目自体が、具体的に違ってしまう。英語ばやりの世の中で、それに気づく人がどれだけいるか、私は知らない。」
具体的には全文読んで頂きたいのですが、たとえばこんな箇所があります。
「言葉による抽象思考とは、いわばその自由度を最大限に利用することである。
その意味では、日本語は抽象思考に意外と向いており、英語は向かない。英米系の哲学が、経験主義に傾いたり、プラグマティズムに傾いたりするのは、英語という言葉の癖にようるのではないかと、私は疑っている。」
その抽象思考というのが、荘子であったり、論語であったりの漢文に根があるのかもしれないと思うわけで、それが湯川秀樹氏から受け継がれていた抽象思考でもあるのじゃないかと思うわけです。ということで案外にも、足もとを照らしてみるに、科学をやるなら漢文がよろしいと、素人の私も疑ってみるのでありました。