和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

一番勉強になる。

2013-10-31 | 地域
近所の高校の
創立五十周年記念誌を、
お借りして、パラパラと読んでるんですが、
これが、面白いなあ。
その編集後記には、
「さていよいよ資料の収集を始めましたところ、本校は関東大震災によって倒壊炎上し、その上、終戦の混乱、昭和二十七年の火災等で記録の殆んどを失い、頼るべき資料が校内にはないということでした。・・・乏しい資料とはいえ、私たち編集員は、この手で、本校五十年の歴史を記す光栄を与えられ・・・ひとしお愛着の心を感じたことは何にもまして大きな収穫でありました。・・・」


そういえばと、
山本伊吾著「夏彦の影法師」(新潮社)を
とりだしてくる。
そこに、父(山本夏彦)の言葉として

「編集者ってのはね、雑誌の創刊と廃刊に立ち合うのが一番勉強になる。その時に出会ったらよく見とくことだよ」(p126)


うん。この「創立五十周年記念誌」を
あらためて「よく見とく」ことにします。
うん、編集者じゃないのですが(笑)。

そこに、「校友会誌創刊号」からの
引用があり勉強になります。
この創刊号が読めたらなあ。
と思いながら、
「創立五十周年記念誌」をひらいております。
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舞える人物。

2013-10-30 | 短文紹介
今日は出かける。
出かけるから、
本をと思って、
対談本を選ぶ。
鷲田清一・赤坂憲雄「東北の震災と想像力」(講談社)
結局読まずに帰ってくる。

ただ、この本の最後に、
鷲田清一氏の
「大阪大学平成二十二年度卒業式 総長式辞」
が掲載されていて、
読んだのは、それだけ(笑)。

そこから少し引用。
最後の方にこうありました。

「みなさんに卒業後求められるのは、専門家としての技を磨くことであるとともに、『成熟した市民』『賢い市民』になることです。」(p227)

あれ、こんなところに『賢い』という言葉が登場する。
つづきも引用。

「市民社会、その公共的な生活においては、リーダーは固定していません。市民それぞれが社会のそれぞれの持ち場で全力投球しているのですから、だれもいつもリーダー役を引き受けられるとは限りません。だとすれば、それぞれが日頃の本務を果たしつつ、public affairsについては、あるときは『いま仕事が手を抜けへんので代わりにちょっと頼むわ』、あるときは『本業のこと、ほんとは心配なんやろ、しばらくはおれがやっとくわ』というふうに、それぞれが前面に出たり背後に退いたりしながら、しかしいつも全体に目配りしている・・・そういうメンバーからなる集団こそ、真に強い集団だということになるでしょう。いいかえると、日々それぞれの持ち場でおのれの務めを果たしながら、公共的な課題が持ち上がれば、だれもがときにリーダーに推され、ときにメンバーの一員、そういうワン・オブ・ゼムになって行動する、そういう主役交代のすぐにできる、しなりのある集団です。その意味では、リーダーシップとおなじくらい、優れたフォロワーシップというものが重要になってきます。自分たちが選んだリーダーの指示に従うが、みずからもつねに全体を見やりながら、リーダーが見逃していること、見落としていることがないかというふうにリーダーをケアしつつ付き従ってゆく、そういうフォロワーシップです。・・」

うん。言葉ではわかりますが、つい震災の際の民主党のことが、よぎります。

式辞は、つぎにこんな箇所がありました。

「昨年亡くなられた文化人類学者の梅棹忠夫さんは、亡くなられる直前のインタビューにおいて、いつも全体を気遣いながら、自分にできるところで責任を担う、そういう教養のあるフォロワーシップについて語っておられました。そしてその話をこんな言葉で結ばれました。――『請われれば一差し舞える人物になれ』。」

う~ん。ついつい民主党の舞い方が思い浮かびます。
これも、忘れないようにします。
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願わくは。

2013-10-29 | 地域
近所の高校の創立五十周年記念誌をかりて読んでおります。
この冊子は昭和50年印刷。

さてっと、
校友会誌は、昭和4年2月に創刊号。
その校長先生による「発刊の辞」の最後を引用。


「学校は諸子が修養の道場にして
 会報は諸子が修養活躍の記録なり
 願くは此の道場を汚す勿れ
 願くは此の記録をして
 永遠に光輝あるものたらしめよと。」


うん。はじめて読む私には、
これの冊子が面白いんだ。
とりあえず、付箋をつけながら、
パラパラと読んでおります。
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少しの食を取らせて。

2013-10-28 | 古典
まずは、イソップ物語。
天草本「伊曾保物語」の「蝉と蟻」の紹介。


「或る冬の半(なかば)に蟻ども数多穴より五穀を出いて
日に曝し、風に吹かするを蝉が来てこれを貰うた。
蟻の言ふは、『御辺は過ぎた夏、秋は何事を営まれたぞ?』
蝉は言ふは、『夏と、秋の間には吟曲にとり紛れて、
少しも暇を得なんだによつて、何たる営みもせなんだ』と言ふ、
蟻『げにげにその分ぢや、夏秋歌ひ遊ばれた如く、
今も秘曲を尽されてよからうず』とて、
散々に嘲り少しの食を取らせて戻いた。」

以上は、平川祐弘著「東の橘西のオレンジ」(文藝春秋)から
孫引き(p320)しました。平川氏はここで、原本にない「食を取らせて」ということの変容について語られておりました。

さてっと、この箇所を思い出したのは、
上田篤著「縄文人に学ぶ」(新潮新書)を読んだからでした。
その上田篤氏の文より以下引用。

「それにしても、よく『縄文時代には戦争や殺人がなかった』といわれる。それは遺された縄文人の遺体に殺されたとみられる痕跡がほとんどないからだ。対照的に弥生時代になると、殺されたとみられる遺体が多数でてくる。なかには鋭利な石器や金属器が突き刺さった状態で発見されるものもある。
では、なぜ縄文時代に戦争や殺人がなかったのか?
それについては証明のしようがないが、
ただ先に紹介したアメリカ先住民の社会が一つのヒントを与えてくれるだろう。ルイス・モーガンはいう。
『イロクォイ諸部族のあいだでは、客がくればだれでも歓待する、ということが、大昔から変わることのない風習となっていた。どこのインディアンの村でも、村人であれ、部族民であれ、よそものであれ、だれかが家に入ってきたばあい、食べ物をさしだすのはその住まいの女性の役目であった。この役目を怠る、ということは、公然と侮辱したことに等しい』(「アメリカ先住民のすまい」)
・・・・・・・
『インディアンは、大いなる精霊が人類全体の幸せのために、地球とそこにあるすべてのものを創った、とかんがえている。・・・この基本原理を源として、歓待のしきたりは生まれる。・・・病人や貧しい者は、共同の貯えから助けてもらう権利がある。・・・』
・・・・つまり歓待するというのは大霊の恵みなのだ。大霊の恵みの前には人間はみな平等なのである。だから見ず知らずの人にも歓待をおこなう。・・・」(p189~191)

う~ん。このジグソ―パズルは、どこへあてはめればいいのか。
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月と「且つ」。

2013-10-27 | 地震
震災記念碑という石碑がありまして、
町史には、その碑文の全文が掲載されておりました。

うん。石碑は、読みにくい。ということで、
信頼して(笑)、町史に記載された石碑の文字を読んでいたのですが、
ある雨上がりの日に、その石碑を見にゆくと、
その石碑に雨が沁みて、黒光りして、文字が鮮明に見れるのでした。
ああ、そういえば、
昔よく、お墓参りで、墓石の上から水をかけていたなあ。
あれは、ひょっとして、墓石の文字を確認する意味もあったのかもしれない。
などと思いながら、その鮮明に浮かび上がった、碑文の文字に見とれておりました。それをまた今日になって石碑を見に出かけたのでした。すると、素材の石のスジがみえたりとか、全体に白っぽくて、文字を追うどころじゃないのでした。それでも、せっかく来たのですから、文字を追ってゆくと、
あれ、町史の記録と、石碑の文字に違う箇所がある。
町史では「月」とあるのが、石碑には「且」となっている。

漢字の意訳をした際に、ちょっと苦心してこじつけた箇所だったので、
こういう際には、まず直接に石碑にあたるべきだと、反省しきり。
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オノマトペア。

2013-10-26 | 地震
近くの高校は、
大正11年創立。そして校舎ができると、関東大震災。
全焼。その様子を塚越赳夫先生が、記録しておいてくれました。

この文には繰返しが多く。実感的で、わかりやすい。
たとえば、

「・・みちみちと初めの内はよく有る地震だとばかり・・・
みちみちが間もなくがちゃがちゃとなり天井がゆらゆら揺れる・・・」

「ふと後を振り返ったら二階建の寄宿舎は北側へ引っ繰り返ってゐた。その直ぐ隣りの理科室は半潰れになってゐた。とその中に火が見えるではないか。紙か油が燃え上る様に赤い焔がめらめれと見えるでは無いか。・・・斜に傾いた窓から白煙もうもうと立ち上り、理科室の内部はみるみる内に真赤な火焔が一杯では無いか。『火事だ火事だ』と呼ぼうとしたが自分の喉からは声が出なかった。・・・」

「再び教員室へ飛び込んだがもう天井がヒューヒュー火焔で唸ってゐる」

「こうしてはゐられない。早く救ひ出さなければならぬ。しかし自分の体は思ふ様に働けなかった。焦りに焦って唯うろうろしてゐるのみであった。」


この塚越赳夫先生は、博物科の受け持ち。
博物の教える内容は、博学とあり、植物、鉱物、地質、動物、生物理。
と教育内容に書かれております。

さういえば、
上田篤著「縄文人に学ぶ」(新潮新書)に
こんな箇所があったなあ。

「話は飛躍するが、日本語はいろいろの言語が混合した『ピジン語』とみられ、その起源は『縄文時代以前に遡るであろう』(山口敏監修「日本人の起源の謎」日本文芸社)といわれる。日本語の特徴にオノマトペアがある。カラスがカアカア鳴くとか、雨がシトシト降るとかいった擬声語あるいは擬態語である。
そしてそのオノマトペアの豊富さの起源のヒントになるものにアイヌの『ユーカラ』さらにそのなかの自然が神さまとなる『カムイユカル』がある。
その自然とは、鳥獣はもちろん草木虫魚、日月星辰だ。・・・
その神々が自分が何者であるかを示すためにしばしば『折返し』なるものを歌う。
それは動物の鳴き声であったり、動作であったり、状況であったり、叫びであったりする。それがオノマトペアであろうとわたしは考えている。」(p197~198)

大正12年か。
博物科の塚越赳夫先生の授業を、
一度聞いてみたかったなあと、思ったりします(笑)。
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君知るや。

2013-10-25 | 地震
近所の高校の、古い本をお借りできる。
さっそく、パラパラ。

貴島憲先生による「復興の歌」というのがありました。
「復興の歌は、昭和6年正式の校歌ができるまで、
生徒、並びに卒業生が校歌のような気持ちで歌っておりました。」とあります。
なんでも「大正12年9月関東大震災の直後」につくられた歌のようです。

歌詞は8番まであり、そこから
震災に関係しそうな箇所だけとりあげてみます。


 大地震(ふる)いて新たなる 命四海に漲りぬ
 厳(おごそ)かなれや土の色 いざ固くとれ鍬の柄(つか)


 太平洋の朝風に 汗拭く心地君知るや
 生気溢るる黒土に 種蒔く思い君知るや


 天変我に何がある 地異はたわれに何がある
 力溢るる我が友の 復興の意気君見ずや


 汗する者に光あり 恐れぬ者に栄あり
 剛健敢為(かんい)若人は 足踏みしめて立たんかな



この貴島憲先生のエピソードもありました。

「先生は修学旅行で生徒を関西方面に引率した。京都で生徒たちに、『お前等はもう一人前だから、ここで解散する。間違いなく家に帰れよ』と、旅行団を解散してしまった。生徒の中には四~五日も遅れて帰宅した者もあったとか。」

うん。この高校の創世記は、面白そうです(笑)。


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飯島耕一死去。

2013-10-24 | 詩歌
今日の産経新聞(2013年10月24日)で知りました。
社会面にありました。最初をすこし引用。
「戦後の現代詩を代表する詩人で日本芸術院会員の飯島耕一氏が14日、呼吸不良症候群のため死去した。83歳。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長男の建築評論家、洋一氏。」


飯島耕一詩集「ゴヤのファースト・ネームは」(青土社)を、何度も私は、ひらいておりました。そしてそんな時期のあと、いつのまにか、潮が引くように、忘れておりました。

ということで、黄ばんだその詩集をとりだしてくる。
一部引用。


  夢がほしい
  などとおろかなことを言うな。
  夢から逃れることに
  日夜 辛苦している心が
  いくつもあるのだから。


  きみは思考の過ちを
  懸命になって求めよ
  さもなければ
  きみは存在しない。


   ( 以上は、詩「思考の過ちを求めて」より )
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委員会。

2013-10-23 | 地域
今日は午後1時から、
地域の委員会の方々の前で、
地元の震災関連のお話をさせていただく。
ほとんどが、自分より年長の方々、20数名。

言葉がゾンザイなので、
せめてとネクタイをしめてゆく。
3・11の当時避難場所の様子を聞いたりしたので、
私だけが話したわけじゃないのですが、
3時半頃までの2時間半。

私は喋っていればよかったので、
気が楽でしたが、聞かされる方はどうだったか?
仕事の合間に抜け出してきた方もおり、
けれども、最後まで皆さんいてくれました。
ということで、
とりあえず、無事終了。

私にとっては珍しいことなので、なんとなく、
昨日はブログの更新も怠りました(笑)。

帰ってくると、
思潮社の現代詩文庫の新刊(2013年7月)
「蜂飼耳詩集」がポストに、
解説は、荒川洋治・藤井貞和・田中和生・日和聡子。
とあります。
毎日新聞の今週の本棚に、
「門」さんが短文書評を載せていたので注文しました。
たまには、詩を読もうと思ったのは、
秋だからかなあ。
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関東大震災での校舎。

2013-10-21 | 地震
近所の高校が
関東大震災の際に、崩れて、全焼した様子を
先生が書き残しておいてくれておりました。

それを引用。

先生の「地震の思い出」。

大正12年9月1日、
その日は二学期の始業式のあった日である。
二時間ばかり前に式は終って舎生の他は
大抵帰宅してしまった後である。

みちみちと初めの内はよくある地震だとばかりで
丁度自分は教員室で昼食の箸を止めたまま天井を仰いでいたが、
みちみちが間もなくがちゃがちゃとなり、天井がゆらゆら揺れるので、
それっとばかり窓から中庭へ、中庭から運動場の方へと走っていった。
そして中庭を出切った時、
大地の上に転倒するかと思われる程地面が揺れた。
この時自分のすぐそばで講堂が、又少し前方で農具舎が共に
黒塵を舞い上げながら、硝子(ガラス)の裂ける凄い響きを立てて
つぶれるのが眼にうつった。
はっと自分もつぶされるのかと息が止まった。
講堂は自分の足元二、三尺のそば迄のめって来ていた。
湯のみがよろよろして最後にどしんとへたばった様である。

へたばった講堂を見てびっくり仰天しながらも
「自分は助かった」という意識を強く感じたのだった。
・・・・・・・・  
ふと後を振り返ったら二階建の寄宿舎は北側へひっくり返っていた。
其のすぐ隣りの理科室は半つぶれになっていた。
と其の中に火が見えるではないか。
紙か油が燃え上る様に赤い炎がメラメラと見えるではないか。
地震と火事はつきものであることをチラッと意識したが、
こうまで早く火炎となって現れようとは。

見よ瞳を転ずれば
斜めに傾いた窓から白煙もうもうと立ち上り、
理科室の内部はみるみる内に真赤な炎が一杯ではないか。
「火事だ火事だ」と叫ぼうとしたが
自分ののどからは声が出なかった。
・・・・・・

ここに特記しなければならぬ事は、
最初に窓を飛び出してからつぶれかかった教員室へ
出たり入ったりして遂に茫然と立ちすくむまで、
時間にして実に三分間ともたたぬということである。

さてこの時である。
「伊藤君がでないぞ!」「鈴木君が出ないぞ!」
「二人でないぞ!」慌しく舎生が口々にわめくのである。
  潰された
  可愛想に死者を出したか
  お前にも責任があるぞ

こう思うと愈々(いよいよ)自分は血の気を失ってしまった。
無惨な残骨を横たえた寄宿舎は、
今にも火になめられそうである。
飛び上がる炎のすぐ風下に、
材木を散らしてぺちゃんこになっている。
其の中につぶされていようとは。
こうしてはいられない。
早く救い出さなければならぬ。
しかし自分の体は思う様に動けなかった。
焦りに焦ってただうろうろしているのみであった。
・ ・・・・・・・

ところが幸なるかな、間もなく、
真に一分とも経たぬ間もなく
「出たよ出たよ、万才、万才」。
長い丸太を下げた青島氏が万才を連呼しながら走って来た。
「皆助かったよ、万才、万才」
舎生も口々に呼ばわりながら走って来た。
教頭も両手を上げて「万才、万才」と呼べば、
加藤氏も星氏も涙を浮べて喜んだ。
・・・・・・・・・

さて戦いの後の様に、
誰も誰も皆血走った眼に、
涙さえ浮べて、
けがをした鈴木君を中央に、
いたわりながら一団となって
校門のそばに立ちすくんでいた。
炎はもう校舎にもついた。
片側の校舎全部燃え上っている。

こうして新築落成したばかりの○○学校は
使用すること僅(わずか)九ヶ月では灰儘に帰したのである。
・・・立派な講堂も、広い校舎も、
機械本室も、蚕室も忽にして灰になった。
僅かに農具舎、畜舎及び宿舎の便所のみを残して。

終りに付記したい事は、
火の回りの方が非常に早かった事である。
それは火元である薬品戸棚と壁一重隣りの実験室の天井が
ペンキ塗りであったためであろう。
折からの烈風にあおられて半つぶれの校舎は
忽ち火になめられたのである。
寄宿舎は風下にあったが、
つぶれていたため火の回りは比較的遅かった。
何んにしても一人残らず助かった事を
天に謝して筆を置く次第である。
・・・・・・・



ちなみに、この思い出を書いたのは、博物学科の先生。
博物は、植物・鉱物・地質・動物・生物を教えていたようです。

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わたしはみている。

2013-10-20 | 短文紹介
上田篤著「縄文人に学ぶ」(新潮新書)を読んだとこです(笑)。
うん。夢を見せて頂けた。そんなよろこびを味わえました。

「日本には確固とした固有文化がある・・それはこの土偶に象徴される縄文文化だ、とおもう。・・・人々の心や体には深く沁みついていると、わたしはみている。そして何かがあったときに、それが顕在化するのだ。」(p216~217)

とは、最後の方にでてくる言葉なのですが、
うん。たのしめました。
その読後感が、芯のある、夢を見せていただけたなあ、というものでした。
この楽しみは、
もうすこしたってから、また読み返してみます(笑)。
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震災記念碑。

2013-10-19 | 地域
先頃、地区の震災記念碑の漢字を読み。感じ入っておりました。
そういえば、
寺田寅彦に「津波と人間」という短文があったなあ。
と岩波少年文庫の寺田寅彦著・池内了編「科学と科学者のはなし」をひらく。

「災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすいところに立ててあるが、道路改修、市区改正等の行われるたびにあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山かげの竹やぶの中に埋もれないとも限らない。そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく言っても、たとえば『市会議員』などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎(やえむぐら)に埋もれたころに、時分はよしと次の津波がそろそろ準備されるであろう。
昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。それは実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。それでこそ、たとえば津浪を戒める碑を建てておいても、相当な利き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか、はなはだ心細いような気がする。・・・・
しかし困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、がんこに、保守的に執念深くやって来るのである。」(p184~185)

うん。
この震災記念碑について、だんだんと
地元の方に語りたくなってきました(笑)。
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鼻はフルヘッヘンド。

2013-10-18 | 前書・後書。
吉村昭著「冬の鷹」(新潮文庫)を読み終える(笑)。
終盤がもったいなかったように思えました。
あとがきに、
「執筆に最も時間を費やしたのは、ターヘル・アナトミアを良沢らがどのように翻訳したかであった。私にはオランダ語の知識がないので、蘭英辞書を唯一のたよりに慶応大学教授大島蘭三郎氏所蔵の原著を複写させていただきターヘル・アナトミアに取り組んだ。」(p411)

うん。どうりで、ターヘル・アナトミアの翻訳の箇所が充実していたわけだ。と改めて思うのでした。この箇所はまたの機会に読み直したくなるのでした。

あとがきには、「鼻は、フルヘッヘンドしたもの也」のエピソードは、実際にはなかったことを確認しておりました。
「・・・教科書にも採用されたのだが、岩崎克己氏をはじめ『解体新書』研究家によって、それが根拠のないものであることが指摘されている。その理由は簡単で、原書ターヘル・アナトミアの『鼻』の部分にフルヘッヘンドという単語がなく、事実私も原書にその単語を見出すことができなかった。」(p413)

「このことについて小川鼎三氏は、『蘭学事始』を書いた時の玄白がすでに83歳の老齢で、40余年も前のことでもあるので記憶ちがいをしたのだろうと述べている・・・」(p414)

このエピソードについて知りたい方や、疑問に思う方は、どうぞ、「冬の鷹」のあとがきをお読みください。丁寧に解説されております(笑)。
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腰が抜ける。

2013-10-17 | 地震
関東大震災の際に、地元の様子を記した文を読んでいたら、

「突然大地の変動に見舞われたからみんな驚いて顔色がなかった。余震の大きいのがくる度に、みんな世の中の終末かと思って蒼ざめていた。ただ一途に桑原々々を唱える人もあれば、腰を抜かして全然動けない人もあった。腰が抜けるとは全く面白いもので、驚愕の極み、腰がへたへたと床に落ちて、足の運動が無力となって、一過性の麻痺状態となる。こんな二人の女につかまって私は往生した。余震の大揺れが来るたびに天井を見ればうねっていて、何時落ちてくるかと生きた心地がしなかった。
余震が段々弱くなって来たが、何時また大きいのが来るかと家の中には入って寝ることが出来ないから、みんな野外に蚊帳を吊って野宿した。三日間は余震が劇しくて飯もろくに食えなかった。こんな生活が十日間も続いて、漸く余震も薄れて家の中にいられるようになった・・・・。
余震も全然とはいえなが、静かになってから十四日くらいして・・・」(p68~)

揺れが何日つづいていたのか、案外、記録には残っていないので、貴重な文を読めたと思っております。ちなみに医科大に通う学生が、夏休みに帰省していて、遭遇した関東大震災を書きのこした文でした。
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秋風が立つ。

2013-10-16 | 短文紹介
吉村昭著「冬の鷹」(新潮文庫)に

「暑熱がやわらぎ、秋風が立つようになった。
玄白は、訳がすすむにつれて自然に翻訳の整理をするようになった。
かれは、良沢のしらべた単語の訳を克明に記録し、家に帰ってからそれを清書する。そして、次の会合に持参すると、良沢たちに配布して訳業を前進させることにつとめた。
・・・・・
また説明文の訳出がまとまると、玄白は急に明るい表情になって、冗談を口にしたりして良沢たちを笑わせる。緊張の連続である訳業に疲れきった良沢たちの重苦しい気分は、玄白の軽口でたちまち晴れるのが常であった。・・・・
良沢は、孤独を好む気むずかしい性格で、他人と共同作業のできぬ男であった。それが玄白たちと力を合わせ翻訳を進めることができたのは、玄白の巧みな操作によるものであった。
玄白は、良沢の偏狭な性格を鋭く見ぬいていた。社交ぎらいで、ただ学問のみに専念する人物であることを知っていた。しかし、ターヘル・アナトミアの訳業は、良沢の存在なしには考えられない。・・・」(p174~175)


うん。まだ、ここらあたりを読んでおります(笑)。
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