和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

水漏れ本。

2019-09-24 | 本棚並べ
台風15号の被害は、南側の二階の屋根が飛ばされ、
家屋一部損壊との評価でした。

一階の階段そばの壁につくりつけの本棚。そこに
二階からの水漏れがあったのを、昨日気づく。
後ろの壁づたいに階上からの水がつたわっていた。

立てかけた本の背表紙はなんともなく、
それで、気づくのが遅れました。

本棚の後ろの木の壁をつたわっておりました。
本棚の各段ごとに、その水が横にひろがり
幅30~40センチほどの間隔で本棚8段
約100冊の本が、水の濡れシミ。
本の地(けした)から水を吸い上げており、
月刊雑誌などは全頁ぬれぬれ。
背表紙がきれいで、つい気がつかずにおりました。

地元の買えない本があり、
いただいた本があり、それが残念。

あとは、必要なら古本で購入できるので
あきらめがつきます(笑)。

とりあえず、一冊ずつ別々にならべて、
水の吸い込み具合をみる。
しみ込んだ水が、黒カビになっており、
気がつくのがおそかったなあ(笑)。

昨日隣の館山市へ、
知り合いの家を数軒ほど訪問。
私の家が、いかに被害がすくなかったのかを
実感して帰って来る。

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トタン屋根。

2019-09-21 | 安房
台風15号。家では9日の午前1時半頃から
風雨ともに一段と激しくなり。
それが3時半ごろまでつづきました。
それから、今日で13日目。

海側の南に面する屋根が飛ばされる。
はい。トタンの屋根のせいか、飛ぶのも派手。

お隣りは、床の通気孔から風がはいり、
一階の畳が持ち上がっていたそうです。

南に面した屋根の三角形がなくなり、梁が見えていました。
部屋からは天井板の垂れ下がった隙間から、
台風一過の空がみえました。朝一番に大工さんへ連絡
9日午後に大工さんが来てビニールシートを
はってくれたので安心。ですが、雨が降ると、
しっかりと雨漏り(笑)。

さいわい、ビニールシートを持参してくださる
方々がいてくださって、その次の雨にそなえて、
天井裏にもありったけのビニールシートを敷くことに。

19日・20日と大工さんが来る。
19日は大工さん一人なので手伝いながら
ビニールシートをはがして、べニヤで
二階の屋根をふさぐ。べニヤは6枚ほど。
とばされた梁をつぎたして、角材を屋根にそって
何本もわたして、そのうえにベニヤ。
20日は大工さん二人でしたので、おまかせ。
べニヤの上にさらに、ちがう種類のボードを打ち込み、
防水シートをはり、さらに角材を等間隔で打ち。
二日間の作業を終えました。最後の
トタン張りの作業は、まだまだ後になるでしょうが、
これで雨漏りの心配が軽減されると思うと、うれしい。

とりあえずの一段落。
ホッとして、こうしてブログの書きこみ(笑)。
近所でもまだまだビニールシートを瓦屋根に
かぶせている家があります。

9日は、携帯が通じていたのですが、
次の日から、不通となりました。

郵便は、普段通り届いておりました。
広報無線のスピーカーも、流れておりました。
千葉県全域が停電になっていることは、
電気が流れてから知りました。

9月20日の産経新聞。正論欄は竹内純子さん。
「停電の長期化が突きつける課題」。
その最後に

「・・加えて強調したいのは、
個々人の防災力も高める必要があるということだ。
わが国の防災教育は、災害時には公的機関からの
サポートがあることを前提としている。
しかし、防災教育の真価は『いざというときに
誰に頼ればよいか』を知らせることではなく、
『自分の身は自分で守る』ために何をすればよいか
を教えることにあるはずだ。・・・・」

この言葉のまえには、こうありました。

「日本はもともと地震や火山の噴火などの災害が多い
ことに加えて、近年、豪雨・台風等の災害のレベルや
頻度が上昇している。しかしそれに伴って社会の危機
管理能力は向上しているだろうか?

わが国の防災担当相は内閣府特命担当大臣として、
基本的に他の国務大臣が兼務している。
東日本大震災以降、米国の緊急事態管理庁(FEMA)に
倣う省庁の創設が議論されたこともあったが、
中央防災会議が策定する防災計画に沿って
自治体が防災に努めるという構造は変わってはいない。
常設の役職や組織を作れば無駄も生じるので、
単純に役職や組織創設が解決策だと考えるわけではない。

しかし非常時にみんなが集って協力しあう
という仕組みは、ともすると統率のとれた
復旧作業を阻害することにもなりかねない。

わが国の危機管理能力向上を真剣に
議論すべきではないだろうか。」



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梵鐘・除夜の鐘。

2019-09-07 | 本棚並べ
CDが気になって
「京の通り名の歌 都の歳時記とわらべ歌」を
購入。昨日届く。
とりあえず、一回聞いてみる。
わらべ歌は、あいりす児童合唱団で監修が高橋美智子。
魅力だったのは、わらべ歌だけで、まとめられるのじゃなく、
祭の雑踏の音が聞けたりするのでした。
祇園囃子が聞けて、詩仙堂の猪おどしまで聞ける。
洛西十輪寺の梵鐘(余韻にうねりのない澄んだ音色の鐘の音)。
CDの最後は、知恩院の梵鐘で、除夜の鐘。
除夜の鐘は、ずっと聞いていたくなるのですが、プッツンと
途中まで(笑)。

そんな京都の音のあいだに、はいる京わらべ歌も
選択が自然でみごとです。

このCD。もう発売されていないようでネットで
定価よりもすこし高くなっておりました。

さてっと、聞き終わると、
私に思い浮かんだのは、武満徹。

ということで、
吉田直哉著「まなこ つむれば・・」(筑摩書房)
を本棚からとりだしてくる。
この本は、はじまりが武満徹で、
さいごの、レクイエムの章の、おわりも武満徹でした。
題は「武満さんの先駆的な旅」とあります。
その本の最後の文から、引用。

「彼、武満徹にはじめて会ったのは昭和29年、1954年である。
私はNHKに入局2年目の新人で、放送30周年特集に提案した
『音の四季』という企画が通ったので、その作曲を頼みに
行ったのだった。・・実をいうと提案会議で採択された企画書は、
早坂文雄の名になっていたのである。しかし勇んで伺ったら
御病気で(いま思えば死の)床についておられ、

『君は若いんだから、
ぼくなんかじゃなく若い人といっしょに仕事をしなさい。
足元に波が打寄せてくるような気がするほど、すごいのがいるんだよ』

と武満徹という名を教えて下さったのだ。・・・・・
さっそく会ってみた。すると、何ともはかなく頼りない
外見なのに、強烈な存在感なのである。」(p252~p253)

そして、吉田直哉さんは
「ことばを交わしてすぐ企画が根底からゆさぶられるような、
強烈な発言が繰り返されるのをきいた」というのでした。

「・・・・さらに彼は訥々とつづける。
『現実音より楽器が出す音のほうが高尚だと錯覚している愚か者が多い。
目をさまさせるために、全部を水の音でやってみたらどうかな。
雪どけから始まって五月雨、入道雲が崩れて二百十日、風雪・・・。
四季それぞれにどんな音が在るかというのは、
つまり水の音のきこえかたが、春夏秋冬でどうちがうかでしょう。
  
   松風の音のみならず岩ばしる水にも秋はありけるものを

―――です』

水の音に秋冷を聞きとる西行のような耳に、
それに匹敵する楽音を差し出すことは至難のわざだ、
という意味のことも言った。
そのすべてが自説を偉そうに開陳するというのとは
全く反対で、自分に誠実に言いきかせる、
という調子だからすっかり感動した。
 ・・・・・・
こうして思い出すと、武満徹という人物が
自分の踏み出そうとしている荒野を、その人生の出発点から
実に明確に問題意識をもって展望していたのだ。
という事実にいやでも気づく・・・」(~p254)


はい。このCD
「京の通り名の歌 都の歳時記とわらべ歌」にも、
こんな問題意識をもって作られた一枚なのだと思える、
そんな楽しい想像がひろがりました。

ちなみに、このCDの

都おどり・白川女花売り・葵祭(牛車と雅楽)
梵鐘(十輪寺)・祇園祭(市電・お札うり・山鉾巡行)
いんでこ大文字・猪おどし(詩仙堂)・除夜の鐘(知恩院)

以上は1970~1972年録音とあります。
そのころの雑踏のようすが雑音とともに聞けます(笑)。
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うしろの正面どなた。

2019-09-06 | 本棚並べ
昨夜は、寝床でCD「京のわらべ歌 うしろの正面どなた」を
聞きながら寝る。
言葉が曲にのる唱歌のようでもなく、
語り口が、流れてゆくような感じに、つい
京都のお寺の読経の流れを重ねてみたくなる。
「門前の小僧ならわぬ経を読む」というじゃないですか。
門前の女児、京のわらべ歌を読み流す。という感じに
イメージしてしまいます(笑)。

さてっと、CDとともに、
髙橋美智子著「四季の京わらべ歌 あんなのかぼちゃ」(京都新聞社)
を手元にもったのですが、さらに、
「四季をつたえる 『京』のうた・こころのうた」(ミヤオパブリッシング)
というのが古本で200円で手に入る。
こちらは、というと、
1月から12月まで月々に目次がわかれておりました。
楽譜つきで、小学校唱歌と京わらべ歌とが、
ごく自然にまざりあっている編集となっておりました。
うれしかったのは、
「京の通り名東西」「京の通り名南北」とが
どちらも、簡単な地図・通り名入りで表示されていること。

発売元は、京都。
宮帯出版社(京都市上京区真倉町)2010年発行。
編者代表・森田煦美子(くみこ)。

森田煦美子さんの略歴は
「昭和14年京都市生まれ
京都市立音楽短期大学(現京都市立芸術大学)卒業
京都市立中学校教諭・京都市立看護短期大学非常勤講師
京都子どもの音楽教室を歴任
前佛教大学教育学部教育学科非常勤講師
仏教大学附属幼稚園講師
アンサンブルアンダンテ主宰」
とあります。

「おわりに」は、こうはじまっておりました。

「私たち3人は各々が異なる立場で乳幼児から高齢者
障がい者の方々と音楽を通しての活動をして参りました。

その中で京都のうた・なつかしい唱歌・心のうたにふれる度に
多くの人々に知っていただきたい、歌い継ぎ、残したいと思う
気持ちが高まり、今回出版の運びとなりました。
 ・・・・・・・
    森田煦美子・咲花実千代・谷井郁野   」

はい。一箇所引用することに。
「京の子守唄」p174に楽譜。p175に歌詞と解説。

「     京の子守唄

  ねんねねんねん ねた子はかわい
  おきて泣く子は つらにくい
  赤いべべ着て 赤いじょじょ履いて
  連れて参ろか ののさまへ
  ののに参ったら なんというて拝む
  一生この子が まめなよに まめなよに  」


歌詞の下には、解説があり、そこも引用。


「京都市内で歌われた子守歌で、ねさせ歌に分類されるものです。
京都府下、また京都府周辺にも
『ねた子はかわい おきて泣く子はつらにくい』のフレーズを
持つ子守歌が多数あります。
  ・・・・・・・・・
歌詞の『つらにくい』は『面憎い』で、顔を見るのも憎らしい
という意味です。幼い子を寝かしつける大変さがにじみ出た歌詞です。
起きて泣く子が面憎いとは、親として愛情が足りないのではないかと
いう心配を持たれるかもしれませんが、大事な子であるからこそ寝ず
に泣いていると放ってはおけないくて、寝られない親も辛いという
ことなのです。・・・・
『ののさま』は、神・仏など尊ぶべきものを指していう幼児語です。また、
『なんというておがむ』は『どういっておがみましょう』のことです。
 ・・・」

 
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赤ん坊のおしめを干している。

2019-09-05 | 詩歌
本棚から天野忠詩集「讃め歌抄」をとりだす。
うん。地名が出てくる詩があったので、
せっかくですから、引用。

   
「    絶望的   天野忠

 西陣の
 古い小さいお寺の門前に
 いつでも掲示板が出ていて
 お経の中の有難い文句や
 偉い人の言葉などが書き出してある。
 ある日
 〇〇〇〇の言葉が出ていた。
 なんでも
 人は絶望的になったら
 その絶望的な場所から歩み初めねばならん
 というようなことであった。
 隣りは
 瓦屋根のずれた平家の
 ちっぽけな機(はた)屋さんで
 機屋さんの屋根にかぶさるように
 お寺の物干しには
 いろとりどりのおむつが
 ずらりと五列も六列も並んで
 はたはたはたと風に揺れていた。
 機の音が
 肩をたたくように聞えて
 とても気もちの良い小春日和だった。   」




そういえば、私が京都を歩いていると、
ときどき、お寺の掲示板があったなあ。
そこでは、筆でもって書かれていた。

掲示板といえば、私の地方では、
教会が思い浮かび、地方のお寺では、
あまり掲示板と結びつかないのでした。
でも、ポスターみたいのが貼ってある
掲示板なら、そういえば、ありました。

京都を歩いていたとき、
瓦屋根のずれた家もあった。

でも、
「いろとりどりのおむつが
ずらりと五列も六列も並んで
はたはたはたと風に揺れていた。」
というのは、
現在の日本中では、
どこでも見かけないかも。

「おむつ」といえば、
鼎談「丁丁発止」(かもがわ出版)の
はじまりが、私に思い浮かびます。
梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄の鼎談。
せっかく、思い浮かんだのですから、
引用しておかなきゃ(笑)。


鶴見】梅棹さんと初めてお会いしてから
ほとんど50年でしょうか。
1949年でしたからね。そのころ、
実によく会っていました。梅棹さんの話は
京大のキャンパスのなかでも本当に特異で、
取り上げる話題が全然ほかの人とちがうんですよ。
・・・・


これが鼎談のはじまりでした。
それで、つぎのページには


梅棹】 ・・・・鶴見さん、覚えておられますか?
敗戦後、私が意気揚々として・・・・。

鶴見】そうそう。びっくりしたのは、
引き揚げの上陸用舟艇で三井・三菱の支店長の細君たちが
喜々として赤ん坊のおしめや何かを干している風景。

梅棹】引き揚げ船の甲板に綱を張って、
それに干したおしめがまるで満艦飾でね。

鶴見】そのことに感激しているわけです。梅棹さんは、
日本にはもともと階級制に縛られる性格はあまりない
という考え方だった。だから、大商社の支店長なんかが
財産を奪われても元気でいられるのはそれだな、と。

梅棹】元気、元気でね。私は
『ああ、これで日本の将来は開けた』と思った。
それまですべて軍でしょう。・・・・
こんなおもしろくないことはないですよ。
それがいっぺんに解けてしまった。
『ああ、もうこれで日本は万々歳だ』と、
戦争に敗けるというのは、歴史上いくらでもあることで、
べつにしょげ返ることはないんですよ。
『これから日本の世紀が来るんだ。万々歳だ』と
言って帰ってきた。・・・・
そのころの日本は敗戦で打ちひしがれているときで、
『何を言うてるんや』という雰囲気だった。
日本に帰ってみたら、みんなシュンとしている。

鶴見】梅棹さんと主に話していたのは・・・
進々堂コーヒー店で、梅棹さんと話していると、
そこがまるで別天地のようなんです(笑)。

梅棹】毎日、われわれは進々堂にたむろして、
お茶を飲んで話していました。

鶴見】そのころは酒を飲まなかったんです。
コーヒー一杯で、ものすごく安上がり(笑)。
(p8~p11)


天野忠の題名につまずいて、
おむつ・おしめつながりで、
梅棹忠夫の「別天地」まで、
連想がひろがりました(笑)。

    
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職人町育ちの天野さん。

2019-09-04 | 本棚並べ
河野仁昭著「京ことばの知恵」(光村推古書院)。
これも古本で購入してあった。
はい。忘れてました(笑)。
身辺雑記を毎回3頁にまとめています。

そこに、天野忠さんが登場する回がある。
それを、引用してみます。

「和田洋一・松田道雄・天野忠の鼎談『洛々春秋』にも、
『お茶漬けでも』が出てくる。
和田氏が、京都人は口と心の中が違うと言い出したのを受けて、
松田氏は『京都のルールというもの』があって、『お茶漬けでも』
といったときは、『もう、お帰りになった方がいいですよ』という
ことを婉曲にいっているわけだから、『結構です』といって
帰ればいい、直接的な意味はないんだからという。
これに対して、職人町育ちの天野さんは、
『うちらは、職人同士のつきあいで、そんなことなかったように、
おぼえてますね。「ごはん、どうどすか」というたら「おおきに」
いうて「ちょうど、メシどきやし、よばれまっさ」っていうのが
多かったでっせ』
というのである。
同業者仲間はいわば身内のようなもので、気心も知り合っていれば
家庭の内情も分かり合っていたらしいことをうかがわせる。
・・・」(p35)

「水菜のひねたん」と題する文にも登場します。

「・・鼎談『洛々春秋』のなかで、中京の職人町に生まれ育った
詩人の天野さんは、次にように語っている。
『うちらは、じじむさいですわ。うちらのものみせたら、
それこそおつけ物ひとつでもね、水菜のひねたんしかなかったり、
きのうの水菜と、お揚げさんと豆腐とたいた残りがある。
それくらいのものしかない』
 ・・・・
『水菜のひねた』漬物とか、『あらめとお揚げのたいたん』とか、
その語感からして京の庶民のつつましい台所を彷彿させるようで
ほほえましい。両方ともわたしは好きだし、そういう物を食べて
育ったのである。しかし、いくら好きだとはいえ、天野さんがいうように、
気をおかねばならない客にすすめたいとは思わない。」(p23)

話しはかわりますが、
私には好きな詩集が数冊あって、そのなかに
天野忠詩集『讃め歌抄』(編集工房ノア)があります。

それはそうと、
山田稔著「北園町九十三番地 天野忠さんのこと」。
そのはじめのほうに、こんな箇所がありました。


「私が天野忠の読売文学賞受賞を知るよりおよそ二年前の
1980年に天野忠・松田道雄・和田洋一の3名による鼎談
『洛々春秋』が京都新聞に連載されている。しかし当時、

私の友人の間で話題になった記憶はない。
その鼎談が単行本になったものを私は持っているが、
何時読んだかはっきりしない。つまり天野忠は私にとって
その程度の関心しかひかない存在だったようである。
いや、私だけでなく、詩壇のなかのごく一部の人を除いては、
誰も天野忠を知らなかったと言ってもかまわないだろう。
・・・文芸時評で丸谷才一はこう書いている。
『これほどの詩人を知らなかったことをわたしは恥じた。』

それでも詩人は無名でありつづける。
松田道雄の言葉を借りれば、みずからの詩的感覚を保持する
ために『有名になるのを拒否』していたのである。」
(p19)

はい。天野忠の詩がわかるための着眼点として、
『中京の職人町に生まれ育った詩人の天野さん』。
ここから、その輪郭がつかめるかもしれない(笑)。

思い浮かべるのは、詩人田村隆一さん。
大岡信の田村隆一追悼詩のなかの3行。

「大塚の花街に隣る料理屋育ちの
 折目正しい日本語と べらんめえの啖呵の混ざる
 あんたの口語は真似できそうで できなかった」

たしか、その田村隆一のエッセイで、
天野忠の詩を紹介していたことがあったと思います。
うる覚えですが、わたしは、それで知りました(笑)。



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ふるさともとめて。

2019-09-03 | 詩歌
髙橋美智子著「四季の京わらべ歌 あんなのかぼちゃ」(京都新聞社)。
古本で200円で購入。
はい。今年は京都関連の古本を、あれば買っています。
ネット古書なので、中身をひらけないのですが、
古本購入のなかに、一冊でも、輝く本があればしめたもの。
それには、安い古本は、ありがたい。

著者略歴 高橋美智子
京都府立第二高校女学校卒業
声楽家・わらべ歌研究家
あいりす音楽院院長

とあります。本は1998年初版で、きれいです。

きになったので、
CD「京のわらべ歌」を注文することに、
髙橋美智子・あいりす児童合唱団。
こちらは、915円+送料500=1415円。

はい。聞けてよかった(笑)。
通り名の歌「丸竹夷(まる・たけ・えべす)」の
はじまりは、バスの乗り降りの際の音声が流れます。
なるほど。パンフの最後に協力京都市交通局とある。
女の子の声での、わらべ歌なのがいいですね。
京都でも、ちょっと普通には聞けないかも(笑)。

さてっと、ひとつだけ引用。
『花いちもんめ』の解説はこうはじまります。

 「『花いちもんめ』は、
いま全国の子どもたちにうたわれ遊ばれていますが、
昭和のはじめに京都から東京へ伝わりました。
昭和6年ごろから文献に載るようになったといわれていますから、
わらべ歌としては新しいものといえましょう。
  ・・・・・
『ふるさともとめて花いちもんめ』ということばの
美しさからでしょうか、今では遊びをはなれて、
歌曲『花いちもんめ』として独り歩きしています。
  ・・・・・
『子買お 子買お』とも歌われていた数ある
子もらい遊びの中の、いちばん美しく昇華された歌。
『花いちもんめ』はそんな歌だと思います。」(p52~53)



 ふるさともとめて 花いちもんめ
 ふるさともとめて 花いちもんめ
 
 もんめ もんめ 花いちもんめ
 もんめ もんめ 花いちもんめ

 〇〇ちゃんもとめて 花いちもんめ
 〇〇ちゃんもとめて 花いちもんめ

 勝ってうれしき 花いちもんめ
 負けてくやしき 花いちもんめ





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京ことばの文章。

2019-09-02 | 本棚並べ
大村しげ著「京暮し」(暮しの手帖社・昭和62年)。
古本で届く。200円なり。
はじまりの白紙ページに、著者の筆書きサインがあった。
左下に小さく、分かりやすくて丁寧で大胆にさりげなく。

あとがきのはじまりを紹介。

「京暮しは、暮しの手帖に、2年半の間連載していただいたものです。
題名の『京暮し』というのは、花森安治さんがつけてくださいました。
 ・・・・
花森さんは、京ことばの文章をよしとして、
それをそのまま載せてくださいました。
そのうれしさを、わたしは忘れることができません。
わたしのことばとなりますと、それはやっぱり京ことばです。
そのことを、花森さんはちゃんとわかってくださいました。
そしてわたしの思いをだいじにしてくださいました。
それがうれしかったのです。京暮しは京ことばのままで、
みなさんに読んでいただきました。
 ・・・・・」

 目次をのぞいてみると、
季節ごとに分かれております。
初春・春・初夏・夏・秋・冬という順の目次です。
装画・花森安治。

せっかくなので、今頃の季節感がでてくる箇所を
めくって、一箇所引用。題は「盆の十六日」。

「お盆がすむと、京の夏もいっしょに去(い)んでしもうて、
祇園祭から大文字へかけて、カッカと燃えていた気分が、
いっぺんにしぼんでしまう。あーァ、これで今年の夏もおしまいやわ。

暑い、暑い、蒸し暑い夏やのに、
わたしはこの季節との別れがいちばんさびしい。

そして、残暑がいっぺんにこたえてくる。
きっと、お祭りや、お盆やというていた気持の
支えがのうなるからやろう。」(p155)

「この季節との別れがいちばんさびしい」
この言葉と共に、令和元年の夏を惜しむことに。
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「論壇時評」を読む人。

2019-09-01 | 本棚並べ
家では昔から、新聞といえば朝日新聞でした。
自分で新聞を購読するようになって、
読売・毎日・産経と、時には3紙同時にとったり
したこともありますが、どうも、
朝日新聞を読んでいると、鬱憤が溜まる。
うん。最初は、そのウップンに自身気づかずに、
いたのですが、朝日新聞を購読しなくなったら、
そのウップンも消えておりました。
なあ~んだ。でした。

それはそうと、雑誌「正論」。
その雑誌の最後の方に、「メディア裏通信簿」という
座談会が、最近めっぽう面白い。

メンバーは匿名で、教授・先生・女史・編集者の4名。
8月~10月号まで続けて読むとたのしめます。

その一人「教授」の発言に、焦点をあてて引用。

まずは、8月号から

「朝日は毎月最終木曜日掲載の論壇時評を刷新しました。
5月30日の朝刊にはジャーナリスト、津田大介氏が担当・・・
・・津田氏の文章は相変わらずの『敵』か『味方』かの
単純二元論に過ぎない。とても内容的に貧相です。・・・
出来上がった紙面を見る限り、無残なものです。
・・・
津田氏には少し荷が重い気がしますね。
・・・
朝日の政治面などちっとも面白くないですよ。」

はい。『教授』の発言を適宜引用しております。
次は、9月号。ここに朝日論壇時評の箇所が
あらためて、つづいておりました。

先生】教授は前回、津田には『荷が重い』って言っていたけど、
段々その通りになってきたね。

編集者】これ以上的確な指摘はなかったですよ。『荷が重い』って。

先生】津田はフェイスブックで詳しく反論していたらしいぞ。

教授】え? 論壇時評という自分の土俵には書かずに、
自分のフェイスブックで反論?
それって論壇のルールに照らしてどうなんでしょうか。
ダメでしょう。
 ・・・・
『百田尚樹許せない』とはじめから決めつけているから
こんなことになるのだと思う。二回目の論壇時評(6月27日)
も全く冴えがなくつまらなかったですね。
二回目は引きこもりを取り扱っていて、
あれこれ述べてはいますが、
結局何が言いたいのかわからないのです。
 ・・・・
ゆとり教育が華やかなころ、
文部官僚だった寺脇研氏が『不登校こそ新しい生き方だ』
と言ったことがありました。
『不登校児は生涯学習を実践している』という理屈でしたが、
何だかそれを彷彿とさせます。
果たして問題の深刻さを本当に受け止めているのかな、
と感じたことを覚えています。
この二回目の紙面にも似たものを感じます。
腰を据えて読んではみたのですが、
全然心に刺さらないのです。
 ・・・・・
自己矛盾ですね。少し荷が重いという話ではなく、
かなり荷が重いのではないかと思います。


はい。そして10月号となります。
いよいよ
10月号は「あいちトリエンナーレ」での
芸術監督の津田大介の話題からとなります。


うん。引用してもいいのですが、発売中なので
本屋で立ち読みもできます(笑)。
ちなみに、
10月号での、教授の最初の言葉はこうでした。


教授】津田さんに注目しておいて良かったですね。
何をするにも何か起きるだろうなあ、
という予感がありましたからね。




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学問をする若い諸君に。

2019-09-01 | 本棚並べ
桑原武夫の「人文科学における共同研究」。
その最後から3頁ほどのところに、
こんな箇所があり、印象に残ります。

「私どものやりました共同研究の
内容よりも、そのやり方について、
いろいろ批判のあることはよく承知しております。

たとえば、研究をみな楽しそうにやっているという。
これが批判になるのはおかしいのですが、日本の学界には
禁欲主義みたいなものがあって、学問とはつらいこととみつけたり、
ということでないといけないような空気がありますが、
私はいやいややる学問にろくなものなしと考えております。

それから、サロン的である、おしゃべりにすぎない、
という批判がある。なんとかにすぎないという表現は、
傍観者的な悪い表現だと私は思っておりますが、
毎週金曜日のくるのが待ちどおしかったといった人がある。
これはちっとも恥ずかしいことじゃありません。

つぎに、共同研究といっても耳学問の集大成にすぎない、
という批判があります。これは問題の根本にふれている。

間接的知識の否定というのは立派な態度のようですが、
あらゆることを現地へ行って自分の眼でたしかめ、
レジュメは一切信用せずに原典の最後のページまで
読みおわらなければ一切発言しない、というのは
宗教的態度であるかもしれませんが、
近代の学問の方法ではありません。

私はこれから学問をする若い諸君には、
耳学問の練習を早くからやらなければいけないと
いつも言っているのです。

耳学問で大よそをつかみうるためには、
ちょっと頭の働かせ方を研究しておかねばだめなので、
なんでも聞けばわかるなどと思っているのは、
よほど頭が悪いのです。」


 はい。ここで引用をおえると、
 中途半端で、もやもやしてしまいます。
 う~ん。ここは最後まで引用しないとね(笑)。
 以下につづけます。


「学問、とくに人文科学は、人間の生活の
常識をふまえるものですけれども、しかも
究極において常識を反転せしめる、
常識の反措定を出すものだろうと思うのです。・・・

そういたしますと、さきほど申しましたいろいろの批判、
サロン的であるとか、遊びの要素があるとか、耳学問だとか、
非専門的だとか、こういうことは学界用語ではマイナス記号、
けなし言葉ですが、私は、これらのマイナスをそろえることによって、
ツー・テン・ジャックのそれのように、
全部をプラスに転化しうるのでないかと思っております。

学問研究は、いうまでもなく学説やイデオロギーや、
重要なことがたくさんありますけれども、それらを
生み出してゆく諸人間関係というものが
下部に、あるいは基礎としてあって無視できない。
そういうことを言うと、崇高な学問を人間世界に
引下ろすように思う人があるかもしれませんけれども、
それは、学問を雲の中にあることのように思っているからであって、
学問というものは、もともと人間の中から出てきたものである。

ただ学問は、人間世界から出てくるけれども、どこかでそれを離れる。
デタッチメントということがなければ、学問にならない。
しかし、離れるということは、また戻ってくるということを
前提にしなければならない。不即不離です。

そうすると、離れたところで学説はできるけれども、
その学説を生み出すために切磋琢磨していく人間、
その人間のグループの組み方は、きわめて大切な問題となるわけで、
秀才がたくさん集まればよろしいというわけのものではありません。

もしあの仲の悪いパスツールとファーブル、ゲーテとベートーヴェン
をいっしょに仕事をさせたらどうなるでしょうか。
そういう点を無視しては、おそらく共同研究の成果は
あがらないのじゃないかと思います。

はじめにおことわりしたように、あまり理論的でない、
まとまりのない話になりましたが、
思い出話の一端としてお聞き捨てくださればしあわせです。
どうもありがとうございました。」

(1968年3月21日、京都大学での講演速記を修正加筆したもの)


はい。その最後を引用してしまいました。
私は、「若くない諸君」のひとりですが、
つい、引用させていただきました。


コメント
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