和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

西條八十の夏休み。

2023-07-31 | 思いつき
藤田圭雄著「日本童謡史1」(あかね書房・昭和60年)に
西條八十が「学生時代から房州海岸が好きでよく遊びに行ったようだ」
という箇所があります。

「八十の死の直前、昭和45年7月10日付の手紙に、
 『・・私の父は富豪でしたが非常な倹約者で、
  少年時代海も山も知りませんでした。

  14歳で父に死なれその翌年か翌々年あたり私は旅行というものを
  初めてし、保田へ行ったのです。

  そこに渋谷未亡人が大きな邸宅を構えてゐました。
  軍医の奥さんといふ話でした、最初の年は、私と妹とを
  食客に置いてくれ、なんの宿泊料も請求しませんでした

  ・・・・それから夏になるときまって保田へ行きました。
  ・・その間に弟も行って厄介になったらしいのです。・・・

  24歳で結婚してからは近くの漁師の家に泊りました。
  だから・・私の海の作品は房州海岸が基調になってゐます。

 もっともその間に一家で片瀬へ避暑したことがあり・・・
 そのころを想ふとなつかしさが一杯です。・・・・     」
                      ( p151~152 )


この文の少し前には、正木直彦の『十三松堂日記』の、
明治44年8月11日の箇所からの引用もしてありました。

「『 8月11日、金曜日好晴 我等下女まで一行九人
   大行寺新発意小久江勇策 渋谷未亡人、渋谷の客人・・・
   西条十一、隆治、フキ子の兄弟三人・・・・
   都合同行20人にて羅漢寺鋸山に登山 』

  という記録がある。明治44年といえば、
  八十は20歳で、早大へ再入学した年だ。

  文中の『大行寺』というのは、現在、
  房総西線保田駅のすぐ前にある日蓮宗の寺だ。・・  」(p151)


最近の当ブログの題名は、なんだかんだ、
暑気払いの思いがムクムクとでるせいか、
『 夏休みシリーズ 』めいてきました。



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竹山道雄。敗戦後の夏休み。

2023-07-30 | 重ね読み
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店・2013年)を
本棚からとりだす。そこにある『ビルマの竪琴』の箇所をひらく。
ここは、執筆依頼の場面から引用することに。

「・・童話雑誌『赤とんぼ』も21年4月に創刊された。
 編集長の藤田圭雄は・・執筆依頼に鎌倉まであらわれた。

 敗戦後は勤労動員や空襲こそなくなったが、一高幹部の竹山は
 新情勢への対応に忙殺された。・・・
 それが昭和21年の夏になって、竹山はひさしぶりに休まざるを得なくなった。
 積年の疲労のせいか、かるい中耳炎をおこして10日ほど・・家にひきこもった
 からである。頭に血がのぼる。耳にあてるための氷は・・もらった。

 そしてその暇に子供むきの物語『ビルマの竪琴』を考えた。
 比較的に短い30頁足らずの第一話『うたう部隊』だけがまずできた・・

 第一話の原稿を書きあげたのは昭和21年9月2日だった。・・・・

 昭和22年1月号掲載予定のこの第一話は校正刷を提出した段階で、
 米国占領軍の民間検閲支隊Civil Censorship Detachment いわゆる
 CCDの検閲にひっかかってしまったのである。

 内幸町の米軍事務所に一週間後に許可を貰いに行った藤田は唖然とした。
 ・・・・・

話の二行目『みな疲れて、やせて、元気もなく、いかにも気の毒な様子です。
中には病人となって、蝋のような顔色をして、担架にかつがている人もあります。』
には傍線が引かれている。当時、検閲実務に従事した要員はおおむね日本人で、
占領軍の指令に従いチェックしていた。いかに日本人らしい几帳面な書体で
問題個所の英訳を付し、・・『公共ノ安寧ヲ妨ゲル』という検閲項目に抵触
する旨が書き添えられている。・・

復員兵の消耗した有様は、連合国側の日本兵捕虜虐待を示唆するが故に
印刷禁止に該当する。これが上司が指示した検閲要領に忠実に従った
日本人検閲員の判断だった。当時CCDには英語力に秀でた日本人5000人以上
が勤務していた。滞米経験者、英語教師などが、経済的理由から、
占領軍の協力者というか有り体に言えば共犯者となって働いていたのである。

その要因募集はラジオを通して行なわれ、給与金額まで放送されたから、
少年の私にも比較的高給が支払われることは聞いてわかった。
費用は敗戦国政府の負担である。・・・・
が仕事の性質を恥じたせいか、検閲業務に従事した旨後年率直に
打明けた人は少ない。その体験を公表した人は葦書房から書物を出した
甲斐弦など数名のみである。タブーは伝染する。・・・・

 ・・・・・・

音楽による和解のこの物語のなにが悪いのだろうか。
内幸町のビルからすごすごと帰りかけた藤田圭雄は、もう一度窓口に引き返し、
受付の日本人女性に『どこが問題なのか』としつこく頼んだ。
すると奥の日系二世の部屋へ通された。そこにいたのは『二世の将校』だと
藤田は書いているが、対応の様子から察するに下士官だったのではあるまいか。
・・・
藤田の『この物語こそ今の日本の子どもたちにぜひ読ませたものだと思う』
という訴えを聞いて、二世の士官は
『わたしはまだこれを読んでいない。今すぐ読むからちょっと待ってくれ』
といって別室にはいった。そして20分ほど経つと戻って来た。

そして『 あなたのいう通りだ。これは決して悪くはない。しかし
ここまで来ると、もう一つ上のポストの許可がいるから、今月はなにか
別の原稿にさしかえて編集してほしい。しかしかならず許可を出すから』
といった。

上のポストには、問題となった個所のみをチェックする白人の管理職の
士官がいた。戦争中に日本語の特別訓練を受けた語学将校の英才たちである。
ブランゲ文庫に保存されマイクロフィルムに写された『赤とんぼ』には
検閲の痕跡をはっきり見ることができるが、先の傍線を引かれた箇所に
OK true と書きこまれている。

日本軍の復員兵士が
『みな疲れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子』
というのは事実その通りなのだから、問題とするには及ばない、
OKという判定を語学将校が下したのである。・・・   」

( p183~190 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 )
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歌う部隊。

2023-07-29 | 重ね読み
新潮文庫の竹山道雄著「ビルマの竪琴」の最後には
荒城の月からはじまる歌詞が13曲。楽譜もついておりました。

本文の、はじまりの第一話の題は『うたう部隊』とありました。

令和5年の月刊Hanada9月号の平川祐弘氏の連載
『詩を読んで史を語る』は第15回目で題は「日本の小学唱歌」。
その文をめくっていたら、『ビルマの竪琴』がでてきておりました。
平川氏の文は、注釈も、それだけで楽しめるのがありがたい。
『ビルマの竪琴』に関連する文の注釈が目を引きました。以下引用。

「私が・・教えた学生三井憲一の父君は大正10年生まれ。
 招集され各地を転戦した。生前、戦争について家族に語ることは
 一切なかったが、唯一の例外は昭和31年、憲一が小学校1年の時、
 父に連れて行かれ映画『ビルマの竪琴』を観た。それだけであった。

 その父が急逝した時・・・追悼の席で戦友4名が
 ≪ 山砲兵第51聯隊歌 ≫を歌い、その作曲が父であったと
 知らされて、雷に打たれた如く成り、涙がとまらなかった。

 父三井道は信州の小学校卒業後、すぐに紳士服仕立ての店で働いた。
 音楽は好きで仕事をしながらレコードは聞いていたという。

 作詞は部隊長の桑原忠博、楽譜は存在しないが、
 戦友会で歌われる曲を録音して憲一が音楽の先生にお願いして
 五線譜に復元・・・『うたう部隊』は竹山の物語の歌のほかにも
 このような形で存在したのである。     」( p321 )


新潮文庫『ビルマの竪琴』には、本文のあとに
「ビルマの竪琴ができるまで」(昭和28年)という14ページの文があります。
最後に、そこからも引用しておくことに。

「・・モデルはないけれども、
 示唆になった話はありました。こんなことをききました。

 一人の若い音楽の先生がいて、その人が率いていた隊では、
 隊員が心服して、弾がとんでくる中で行進するときには、
 兵たちが弾のとんでくる側に立って歩いて、隊長の身をかばった。

 いくら叱ってもやめなかった。そして、その隊が帰ってきたときには、
 みな元気がよかったので、出迎えた人たちが
 『 君たちは何を食べていたのだ 』とたずねた。
 ( あのころは、食物が何よりも大きな問題でした )

 鎌倉の女学校で音楽会があったときに、
 その先生がピアノのわきに坐って、譜をめくる役をしていました。
 『 あれが、その隊長さん―― 』とおしえられて、
 私はひそかにふかい敬意を表しました。

 日ぐらしがしきりに鳴いているときでしたが、
 私はこの話をもとにして、物語をつくりはじめました。 」( p195 )


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とは思ひつつも。

2023-07-28 | 地震
以前に、教えてくれる方がいて、はじめて図書館でひらいたのが
「大正大震災の回顧と復興」上下巻(昭和8年8月・千葉県罹災救護会)でした。

その「編纂を終へて」安田亀一氏の文には

「・・・1000頁の予想が2500頁になった。
 この震災事情の記述の外に復興努力の跡をも振返ることが出来、
 さうして本年はここに大震災の十周年であり・・・  」とあります。

この「編纂を終へて」が印象に残っていたので、
ここであらためてひらいてみました。はじめのほうにこうあります。

「一体、本県(千葉県)で震災誌編纂のことは
 震災直後に定った方針であるらしい。

 が、種々の支障から今日まで之を完成してゐなかった。
 既に県の書類なども保存期間が切れて廃棄処分をしたものもあり、
 又やがてその期間に達するものもあって、時の経つと共に、

 だんだん資料が散逸し、折角貴重な文献が喪はれて行く処があるので、
 誰も早く記録を取り纏めて置きたいとは思ひつつも知らず知らず
 時期を逸した態であった。

 尤もその間に、編纂委員が出来て、材料の取纏めに取りかかってゐたが
 中絶し、その後に又、専門に相當する嘱託(高月氏)が入って起稿し始めたが、
 編史の進行難やら一身上の都合やらで、折角同氏が予定した計画をも
 実現するに至らずして辞された。

 そうした事情の推移から岡社会課長の時代に震災義捐金の残で
 罹災救護会なる組織が出来、その団体の一事業として震災誌を
 編纂することとなった。而して止むなくんば、社会課全体が
 手分けして之を完成しようとの議が起って、準備打合会までやったが、
 
 何分にも課の仕事が多端で、次から次と突発事故も出来、
 着手も延々になってゐたのを、永野社会課長の時代になって、
 いつ迄も延々にすることも出来ないので、

 結局私にお鉢が廻って来た。
 私も熟考の末、勤務の半をこの方に費やすといふ条件で引受けた。
 それは昭和6年の9月、秋風の立ち初むる頃であった。

 私は一応材料を点検して見て考へた。これでは迚も物にならない。
 急務は先づ材料の蒐集整頓であると思った。・・・・・

 だが肝心の県の記録がなかなか纏らない。そこで私は、
 まず大震災当時応急活動に従事した人々で、
 現に在庁又は在葉する人々を日赤支部楼上へ集って頂き、
 私の予定したプランに依って座談会を開いた。

 この座談会から私は多くのものを得た。
 事情の大要をようやく系統的に知るを得たのみならず、
 之に依ってその後幾多資料の所在を教へて呉れる人が
 続々出来たからである。

 それから私は、県の文書課の倉庫の中に納まってゐる書類の、
 当時以後の編年総目次につき関係のありそうな書類を点検して
 引き抜いて、それについて調査し、必要箇所を助手の人々に
 一々書き抜いて貰った。

 それに軍隊や、鉄道や、警察や、病院やその他団体などの
 厚意でいろいろ資料を出して貰ったり、少数の人々に種々事情を
 訊ねたりした。・・・・
 かくして採録材料の上に漸く確信を得るやうになった。

 小さい乍らこれでも一箇の修史の事業である。
 修史の事業であると思ふと編纂してゐる中に
 尽きない一種の感興に繋がれて、感興の動くままに
 思はず夜を徹して筆を進めることも屡々あった。・・・ 」

   ( p979~981 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


はい。「編纂を終へて」に恥じない本文の守備範囲の内容に
以前に読んだ時、パラパラ読みでは申し訳ない気がしました。
かといって、じっくり腰を据えて読んだわけでもありません。
整頓し読もう『とは思ひつつも知らず知らず』今があります。





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「新宮澤賢治語彙辞典」

2023-07-27 | 前書・後書。
もともと、本は最後まで読めなかったので、
その癖は、もう治らないとあきらめてます。
無理して、最後まで読んでも頭に残らない。

その癖して思うのは、贅沢な読書はしたいでした。

ところで、『宮澤賢治語彙辞典』というのがあります。
こちらは、宮澤賢治語彙辞典と、新宮澤賢治語彙辞典、
さらには、定本宮澤賢治語彙辞典(2013年)まである。
うん。何が何やらわからないままに、定本の辞典は、
一万円以上するので論外ということにして、ここは、
古本で「新宮澤賢治語彙辞典」を買ってみました。

ページ数は、本文が930ページ+索引139ページ=1069ページ

最後の方には、宮澤賢治語彙辞典の際の序も引用されておりました。
その旧版序文「本辞典を利用される方々へ」のはじまりを引用してみます。

「詩人、作家としては、日本ではもちろん世界的にもおよそ類例がないと
 思われる多種多様の語彙の駆使者、宮澤賢治 ・・・・

 その多彩さは、しかし、よく使われる『豪華絢爛』、『言葉の魔術師』、
 といったニュアンスとは一味ちがった、
 また古典派、教養派のもつ言語の多彩さとも一味も二味もちがった、
 それはなんと言ったらよいのか、
 
 彼らの書物臭や書斎の雰囲気を、感覚の偏差や文学臭を、
 まったく剥ぎとったと言ったらよいのか、はだかの言葉たちの
 無垢の実在感、即物性、リアリティー、軽快さ。

 例えば、天文、気象、地学、地理、歴史、習俗、方言、地名、人名、哲学、
 宗教、農業、化学、園芸、生物、美術、音楽、文学・・・等々の諸分野の
 名詞が、ごく自然に軽やかに繰り出されてきて・・・・・

 読者の意表をつく軽快さとうらはらに、やはり意表をつく
 それら名辞の難解さに、非常にしばしば眩惑されながら、
 この謎にみちた賢治世界の、いわば言語地理を、

 誰にもわかるような辞典のかたちにして作れないものかと
 私が思案しはじめたのは、もう20年も前のことである。・・・」(p922)

はい。これが「宮澤賢治語彙辞典」の序文のはじまり。
次に、「新宮澤賢治語彙辞典」の序のはじまりを引用。

「・・初版の刊行は1989年10月であった。ほぼ10年ぶりに、
 この「新宮澤賢治語彙辞典」は刊行されたことになる。

 ・・10年間・・思えば旧版刊行の翌日から、
 私は不眠症に襲われ、ずっと安定剤の世話になりつづけた。
 項目や説明の不備、不適切、錯誤、等々への不満足がしだいに募り、
 すぐにでも版元に絶版を申し入れたいほどであった。

 いっとう悔やまれたのは、一項につき幾通りもの生原稿を重ね、
 採用最終稿を上にして渡し、あとは校正まですべて編集部に
 委ねてしまったという私の無責任であった。・・・・・・・・     
  
                   1999年3月   原子朗 」


ちなみに、旧版序文には、こんな箇所もありました。

「例えば賢治得意のオノマトペの数々、
 それらが作品の中で果たしている
 音とイメージの感覚的役割をコメントしようと
 準備していた。そして他の形容詞や副詞等の取扱いと
 同じように、その頻度や種類、分布などを論じる工夫を
 私は考えていた。

 なんとかやりぬく自信もあったが、やはり断念した。
 未練も残ったものの、それらはまた別の機会にゆずることにした。」(p924)

「新宮澤賢治語彙辞典」をひらくのですが、こちらでも、
 宮澤賢治の、オノマトペは省かれておりました。残念。


はい。新・旧の辞典の序文を読んで、私はもう満腹です。
後はその都度、辞典を活用していけるように心がけます。


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図書館の本の9割9分以上は。

2023-07-26 | 本棚並べ
昨日のブログに、コメントを頂き、
それについて思い浮かんだのが、図書館でした。

隣りの市の図書館は、あんまり大きくはないのですが、
地域の資料を調べに、先週行ってきました。
本の名前を告げると、検索してくれて、持ってきてくださった。
ありがたい。図書館に所蔵されている地域の高校の記念誌など数冊。
八十年史とか、百年史とか、酪農の百年史とかまで、
本の名前をいうと、それはありませんとか、あれば持ってきてくれました。

それはそうと、図書館。
渡部昇一著「知の井戸を掘る」(青志社)に、図書館が出てきます。

「私はドイツへの留学前と留学後のしばらくの間、
 大学図書館に警備員兼務のような形で住み込んでいたことがある。

 だから、一日のいかなる時間でも必要な本を見ることができた。
 文字どおり、図書館は我が家だった。
 
 しかし、その時こんなことを考えた。
 『図書館に住んでいるということは、何と便利なことであろうか。
 研究のはかどり方も違う。

 しかし、この図書館の9割9分以上は、私の関心とまったく関係がない。
 関係があるものだけなら、もっと小さな図書館でも十分に間に合う。
 将来、自分用の極小ライブラリーの中に住むわけにはいかないだろうか』

 これが私が書斎を持とうと決心した理由の一つである。・・・ 」(p100)


うん。世のなか、公平に書こうなんて思わなければ
案外、極小ライブラリーは夢ではないかもしれない。

はい。地方の図書館で、地方の本を読ませてもらいながら、
そう思いました。
それに、私が買うような古本は、安いわけですし(笑)。
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想定外の判断力。

2023-07-25 | 地震
今月は、市の主催による「地域防災力向上講演会」と題した
鍵屋一氏の講演会へ行ってきたのでした。

うん。地域の高齢化も含めての防災力が語られて新鮮でした。
私に印象深かったのは、

「 想定外のことがおこると、判断力が小学生以下になる 」

というようなことを語られておりました。
「小学生以下の判断力」となったなら、どのように
気持ちのスイッチをいれ、逃げるスイッチをいれるのか。

ということで、『誰が逃げろと伝えたか?』の統計を
つぎに示してありました。家族・同居者が一位で
第二位は近所・友人となっております。

高齢化と兼ね合わせてなのですが、
支援者の役割を限定して、避難連絡だけでよいから、
自分から「助けて」と声や求めをかけにくい方には、
声をかけてあげることの重要性を指摘しておられました。
それも、一人でなく、三人くらいが声をかけてあげる。
それは、『避難連絡だけでよい』としております。

ちなみに、2022年の酒田市防災訓練の写真が紹介されておりました。
95歳の夫と86歳の妻とが車いすに乗って避難しているのですが、
その車いすを押しているのが86歳の町内会長という説明がありました。

『 想定外のことがおこると、判断力が小学生以下になる 』

ということで、避難訓練などの参加経験のあるなしが、
それとの関係で語られておりました。

はい。参考になりました。

コメント (2)
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漱石と賢治の「楽しいなあ」

2023-07-24 | 重ね読み
高島俊男著「漱石の夏やすみ」に、こんな箇所がありました。

「 漱石の作品をみると、できばえのよしあしとは別に、

  漱石が、おれはこういうことをやっているときが一番たのしいなあ、
  とおもいながらつくったことがつたわってくるものがいくつもある。

  絵や書はたいがいそうである。
  俳句も、せっせとつくっては病気の子規におくって、
  子規にわるくちをいわせてたのしんでいた時期はそうである。

  小説では『草枕』と『吾輩は猫である』が顕著にそうである。
  ・・・・・・

  そして、最初の作品である木屑録と、
  最晩年『明暗』を書いていた時期に毎日つくっていた詩、
  これがそうである。

  漱石は、それをつくっている時間、
  つくっている過程をたのしんでいる。

  絵がそうであるように。また『草枕』がそうであるように。 」

    ( 単行本ではp179~180。 文庫本ではp156~157 )


いっぽう、萬田務著「 孤高の詩人 宮沢賢治」(新典社・1986年)に
こんな箇所がありました。

「 賢治の教師生活は大正10年12月から同15年3月まで、
  4年4か月続けられた。

  この教師生活が極めて充実していたことは、
  後になって賢治自身、『この四ヶ年は、わたしにとって、
  じつに愉快な明るいものでした』・・・(「春と修羅」第二集・序)
  と述べていることからも明らかである。

  またノート紙葉に書かれた「生徒諸君に寄せる」の(断章一)でも

      この四ヶ年が
          わたくしにどんなに楽しかったか
      わたくしは毎日を
          鳥のやうに教室でうたってくらした
      誓って云ふが
          わたくしはこの仕事で
          疲れをおぼえたことはない

   と言う。さらに後年の、昭和5年4月4日付書簡(沢里武治宛)においても、
   『 農学校の四年間がいちばんやり甲斐のある時 』であり、
   『 しかもその頃はなほ私には生活の頂点でもあった 』と書いている。
    ・・・  」( p208~209 )


はい。8月は、教師時代の賢治を、読む楽しみ。
   
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漱石の夏やすみ。

2023-07-23 | 思いつき
夏休みといえば、思い浮かぶのが
高島俊男著「漱石の夏やすみ」(朔北社・2000年。ちくま文庫・2007年)
単行本のカバーの折り返しには、こうあります。

「『木屑録』は、漱石が23歳のときに書いた房総旅行記である。
 これまでも存在は知られていたが、『漢文』で書かれているために、
 読まれることは少なく、まして味わわれ評価されることは稀な作品であった。

 本書は自在な訳文によって、『木屑録』本来のすがた、味わいを
 初めて明らかにしただけでなく、執筆の契機となっている
 漱石と子規の、文章を通しての友情に説き及ぶ。・・・   」

はじまりは、こうでした。

「『 木屑録(ぼくせつろく) 』は、
  夏目漱石が、明治22年、23歳のときにつくった漢文紀行である。
  漱石は、第一高等中学校の生徒であった。
  このとしの夏やすみを、漱石は旅行ですごした。 」

漱石の海水浴も記されております。

「 房州旅行中、おれは毎日海水浴をした。
  日にすくなくも二三べん、多くは五たびも六たびも、

  海のなかにてピョンピョンと、子どもみたいにとびはねる。

  これは食欲増進のためなり、あきれば熱砂に腹ばひになる。
  温気腹にしみて気持よし。

  かかること数日、毛髪だんだん茶色になり、
  顔はおひおひ黄色くなつた。

  さらに十日をすぎて、茶色は赤に、黄色は黒にと変化せり。
  鏡をのぞきこれがおれかと、アツケにとられたり。     」
                   ( p22  単行本 )

もう一箇所だけ引用しておきます。

「 ともに旅せるはわれを入れて五人、
  風流を解するやつは一人もない。

  酒を飲んではわめくやつ、大飯食って下女をたまげさせるやつ。
  ふろよりあがれば碁か花札で、ヒマをつぶすがおきまりなり。

  しかるに、我輩一人のみ、仲間にはいらず沈思黙考、
  うめきを発して苦悶のありさま。連中みなこれを笑ひものになし、

  こやつ変人なりと言ふもわれ顧慮するところなし。
  知るや知らずやかの邵青門、脳中に文を練るときは
  無限の苦しみある者に似、その文成るや歓喜きはまり、
  ・・・・                     」(p25単行本)


ちなみに、昨日の
宮沢賢治の夏休みは、農学校教師のころ。
夏目漱石の夏休みは、生徒のころでした。
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賢治の夏休み。

2023-07-22 | 短文紹介
宮沢賢治の「イギリス海岸」。そのはじまりは

「夏休みの15日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、
 2日か3日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。

 それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。
 北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、
 北上山地を横ぎって来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、
 少し下流の西岸でした。  」

よその学校では、どうだったかも書かれておりました。

「 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に15日も生徒を連れて行きましたし、
  隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。

  けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。
  ですから、生れるから北上の河谷の上流の方ばかり居た私たちにとっては、
  どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。 」

「それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。」
として賢治特有の蘊蓄がならべられゆきますが、ここでは大胆にカット(笑)。

「・・それにも一つここを海岸と考へていいわけは、ごくわづかですけれども、
 川の水が丁度大きな湖の岸のやうに、寄せたり退いたりしたのです。
 それは向ふ側から入って来る猿ヶ石川とこちらの水がぶっつかるために
 できるのか、それとも少し上流がかなりけはしい瀬になってそれが
 この泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできるのか、・・・
 とにかく日によって水が湖のやうに差し退きするときがあるのです。 」

はい。もう少し引用しておきます。

「 そうです。丁度一学期の試験が済んでその採点も終り
  あとは31日に成績を発表して通信簿を渡すだけ、
  私の方から云へばまあそうです。

  農場の仕事だってその日の午前で麦の運搬も終り、
  まあ一段落といふそのひるすぎでした。
  私たちは今年三度目、イギリス海岸へ行きました。・・・ 」

「 ・・・『ああ、いいな。』私どもは一度に叫びました。
  誰だって夏海岸へ遊びに行きたいと思はない人があるでせうか。
  殊に行けたら・・・フランスかイギリスか、
  さう云ふ遠い所へ行きたいと誰も思ふのです。

  私たちは忙しく靴やずぼんを脱ぎ、
  その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。

  全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚なもんでした。

  その水へ半分顔を浸して泳ぎながら横目で海岸の方を見ますと、
  泥岩の向ふのはづれは高い草の崖になって
  木もゆれ雲もまっ白に光りました。・・・   」

うん。最後の箇所も引用しておきます。

「・・今日は実習の9日目です。朝から雨が降ってゐますので
 外の仕事はできません。うちの中で図を引いたりして遊ぼうと思ふのです。
 これから私たちにはまだ麦こなしの仕事が残ってゐます。・・・

 麦こなしは芒(のぎ)がえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。
 百姓の仕事の中ではいちばんいやだとみんなが云ひます。
 この辺ではこの仕事を夏の病気とさへ云ひます。

 けれども全くそんな風に考へてはすみません。
 私たちはどうにかしてできるだけ面白くそれをやらうと思ふのです。

                     ( 1923、8、9 )   」


( p101~118 「新修 宮沢賢治全集 第14巻」筑摩書房・1990年 )



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読んでいて生きた心地がする

2023-07-21 | 短文紹介
鄭大均(てい・たいきん)著「隣国の発見 日韓併合期に日本人は何を見たか」
(筑摩選書・2023年5月)の序文から引用。

「・・ポスト〇〇ニズムやポスト〇〇リズム隆盛の今日、
 研究者やジャーナリストたちは一見、過去から学んでいる風を装い、
 少数者には大いに関心があると言う。

 しかし彼らは今日を生きる自分たちを至上のものとする人々であり、
 一度(ひとたび)あるものに『侵略者』や『植民者』の烙印を押すと、

 それをなかなか変えようとしない頑固者たちである。
 そんな人々の記したいびつな日本統治期論などに比べると、

 この時代に朝鮮の地に住んでいた日本人が書き残した朝鮮エッセイには
 人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のするものが少なくない。
 
 本書で紹介したいのはそんな良質なエッセイである。・・ 」(p13~14)


はい。第五章まであります。こりゃ夏の読書にはうってつけかも。

ここには、第五章の挟間文一(はざまぶんいち)のはじまりだけ紹介。

「大分県北海部郡佐賀市村に生まれた
 挟間文一(1898~1946)は1923年長崎医科大に入学、
 第一回生として卒業すると助手としてそのまま薬物教室に残り、
 1930年には同大助教授に就任する。

 後にノーベル生理学・医学賞の候補となる研究が始まるのは
 この時期のことで、挟間は研究室が英国から購入したケンブリッジ社製の
 弦線電流計を用いて臓器の動作電流曲線を描写する作業に取り組み、
 それに成功し、成果をドイツ語論文で記し、多くはドイツの科学専門誌
 に掲載されるようになる。

 挟間はしかし1935年、京城医学専門学校への転任を余儀なくされる。
 当時、長崎医科大で発覚した博士号学位売買事件の責任をとって辞職した
 主任教授の後任として長崎に赴任することになった京城医専の教授が、
 助教授職にあった挟間の留任を望まなかったためである。

 挟間は不本意ながら京城の地に向かうが、
 発光生物に関する研究は続けられ、やがて朝鮮をテーマにした
 多くのエッセイが記されるようになる。・・・・・

 筆者は偶然『朝鮮の自然と生活』の本を入手し、
 旅する科学者の姿に斬新な印象を受けたが、
 戦後この人の朝鮮エッセイに触れたものが
 だれもいないことに不思議な気持ちがした。・・・・」(p226~227)

このようにはじまっております。
あらためて、序にある
『 人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のする 』
という言葉を反芻しながら、この夏の読書とします。


 
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この夏、『井戸を掘る』。

2023-07-20 | 温故知新・在庫本
渡部昇一著「知の井戸を掘る」が、新刊で出ている。
渡部昇一氏は2017年4月17日逝去。享年86歳でした。
あらためて新刊なのかなと思いながら買ってしまう。

発行所:青志社。編集人・発行人は阿蘇品蔵。
2023年6月24日第一刷発行とあります。

はい。目次を見ていたら、何か格言が並んでいるようで、
かってに目次から選んで、福沢諭吉の『心訓』よろしく、
目次の言葉をならべてみたくなりました。


〇 ≪よい人間関係≫は滋養のように≪じんわり≫効いてくる

〇 ≪感謝する心≫はすべての人間をハッピーにする

〇 師でもライバルでも≪発見する≫のは自分

〇 情報氾濫の時代だからこそ≪グルメな読書≫を

〇 生き方の≪襟≫を正してくれる古典

〇 ≪相性の合う≫本にはどんどん書き込みを

〇 まずは自分の≪興味の波長≫をしっかり決めること

〇 情報を生かせる人、情報に振り回される人

〇 ≪関心のブレークダウン≫を試みるのも一つの手

〇 ≪情報の捨て方≫に有能さが問われる時代

〇 自分の頭を刺激し続ける情報・資料は身近に置く

〇 ≪感謝する≫ことには敏感、≪感謝される≫ことには鈍感であれ



はい。目次だけで9ページある(文字も大きいのですけれど)
はい。目次だけでもう元をとった気持ちになれる不思議(笑)。


ちなみに、本文の最後には

「この作品は月刊『BOSS』1996年12月号から97年5月号に連載した
 『新・知的生活の方法』に大幅な加筆・改編を施し、1999年4月、
 株式会社三笠書房より刊行した『ものを考える人考えない人』を
 改題して新装復刊したものです。」( p243 )

とありました。はい。私は新刊が出た時のようにひらきました。
目次だけですけれど。気になった目次のページをひらきました。
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ギャグとオノマトペと『おそ松くん』

2023-07-19 | 幸田文
藤子不二雄著「二人で少年漫画ばかり描いてきた」(毎日新聞社・1977年)
に『シェー』が登場する箇所がありました。

「・・『シェー』というのである。ただいうだけではない。
 左手を頭の上に小手をかざすようにし、
 右手を胸のへんに、手のひらを上にかまえる。そして
 左足を内側に曲げれば満点。・・   」 ( p226~227 )

はい。本ではもうすこし詳しく書かれておりました。

「昭和37年から『週刊少年サンデー』に連載をはじめた
 『おそ松くん』で、赤塚不二夫はギャグ漫画家の地位を不動にした。

 『おそ松くん』にでてくるおフランス帰りの紳士イヤミの発する
 『 シェーッ! 』という奇声は流行語にまでなった

 ピキー、ショエー、トヒヨー、ホエホエ、ビローン、
 ダヨーン、ガバチョ、コキコキカパチョ、ウヒヨー、
 ムヒッ、ハヒッ、ワショー、ゴニヤー、ピヤポ、プンスカ・・・。

 『おそ松くん』に氾濫した奇妙な言葉(?)の軍団は、
 読者の脳髄をかきまわし、不思議な生理的快感をあたえた。 」(p226)


うん。あらためて、
山口仲美編「暮らしのことば擬音・擬態語辞典」(講談社・2003年)
をひらいてみる。数頁をめくるたびに、ページ下に漫画のワンカット
が引用されております。そこに引用されている漫画のカットの中でも
とくに『おそ松くん』のカットが無駄がなくって、あらためて見ると、
まるで擬音・擬態語を効果的に引きだす背景にマンガのカットがある、
というように思えてくるから不思議です。

さて、この本は、編著者・山口仲美さん。それに13名の執筆者で
できあがった辞典なのでした。
「はしがき」は山口仲美さん。その小見出しはというと、
はじめが、「国語辞典にに載らない言葉」
そのつぎ、「日本語を学ぶ外国人と翻訳者を悩ませる」・・・なのでした。

辞書のページにところどころ、はさまるように
「山口仲美の擬音語・擬態語コラム」が⑳もあります。
はい。私はまずはそこしか読まないのでした(笑)。

そして最後には特集として、
『 擬音・擬態語で詠む 俳句傑作選 』
『 擬音・擬態語で詠む 短歌傑作選 』
まで付録のように載っております。
もちろん最後には、索引もありました。

「 オノマトペ(=擬音語・擬態語)を多用する詩人は、
  北原白秋・宮沢賢治・草野心平・萩原朔太郎など。・・・ 」 
        ( p399 山口仲美の擬音語・擬態語コラム⑮ )

私に興味深かったのは山口仲美さんのコラム⑰でした、
題は「 幸田文さんの文章 小説と擬音語・擬態語 」( p457 )

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賢治作詞と曲と随筆的作品。

2023-07-18 | 本棚並べ
宮沢賢治の農学校教師時代の作品
『台川』『イーハトーボ農学校の春』『イギリス海岸』を
読んでみたいと、新潮文庫の宮沢賢治本の目次をひらいても見つからない。

うん。ここまできたのだから。ということで
筑摩書房「新修・宮沢賢治全集」全17巻(別巻1冊含む)が視野に浮かぶ。
この全集を、欲しい一冊ごとに別々に買うよりも、
古本だと、全集で買ったほうがお得感があります。
ちなみに、全集が5950円 × 送料1250円 = 7200円。
ということは、1冊が424円ほど。それで買うことに。

到着した本をひらくと、
『新修宮沢賢治全集』第14巻に、各当する作品がありました。
『台川』『イーハトーボ農学校の春』『イギリス海岸」など、
それらをまとめて『随筆的作品』と見出しをつけてあります。

ちなみに、『新修宮沢賢治全集』第7巻の最後の方には
『歌曲』と見出しがあって、楽譜もついて並んでいます。
『精神歌』『黎明行進曲』『角礫行進曲』『応援歌』・・・・。
『精神歌』は、川村悟郎の原曲と作曲として2つの楽譜がありました。
21曲もあります。ほかに、私が知っている曲といえば、
『星めぐりの歌』『月夜のでんしんばしら』などもありました。

全巻月報もついている。
なんだか、贅沢な気分になります。
はい。全集を買っても、数冊しか読まないだろう癖して。
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事実は小説より『宮沢賢治』

2023-07-17 | 思いつき
日本図書センターの「近代作家研究叢書86」(1990年)が
森荘巳池著「野の教師 宮沢賢治」でした。復刻版で函入り。
目次のつぎをひらくと、
右ページに「花巻農学校精神歌」の歌詞。
左ページには、川村悟郎作曲のその楽譜。

本の最後の方には、「ある対話」というページがありました。
そこに、堀籠文之進氏と著者の森氏との対談がありました。

森】 賢治が、学校にあらわれたときの感じはどうでした。

堀籠】 洋服を着て丸坊主でした。・・・
    宮沢さんは、なかなか物固くて、
    いってみれば和尚さんのような感じでした。・・・

    宮沢さんが、岩崎・・さんのあとをついで、
    化学、数学、英語、農業実習、稲作。
    わたしは、農業、園芸、英語など・・・ ( p193~194 )



堀籠】 古い校舎では式があると、花巻女学校からオルガンを借りてきました。
    ・・そのオルガンを年を越しても返さないで、
    宮沢さんもひいていましたが、オラホ(自分の方)で使うから
    返してくれと催促されてたりしました。

    賢治さんから、かたい感じがなくなったのは、
    オルガンをひいたり、髪を伸ばしてポマードをつけたり、
    作曲をしはじめてからです。

森】  学校で歌ったり作曲したりしたのですか。

堀籠】 やっておりました。精神歌の作曲者川村悟郎さんは、
    高等農林の生徒で・・悟郎さんは、バイオリンをひきました。

    借りたオルガンは職員室においてひきました。
    春の休みで川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、
    ああでもない、こうでもないと作曲をしておりました。

    ですから私たちは、できあがらないうちから、
    精神歌をきいていたわけです。題は、はじめはありませんでした。
    
    曲ができ上りますと、放課後、音楽の好きな生徒をのこして
    歌わせました。畠山校長もいい歌だと感心していました。

    はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
    3月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、
    卒業式には、りっぱに歌いました。・・・・

    題はあとで『精神歌』とつけました。
    油がのったとでも言うのでしょうか。
    宮沢さんは応援歌、行進歌、農民歌、剣舞の歌など、
    どんどん作曲して生徒に歌わせましたので、

    学校は、すっかり変わってしまって、
    おどろくほど生き生きとなってきました。
    生徒はよろこんで精神歌や応援歌を歌いました。 ( ~p193 )



この堀籠氏の精神歌の箇所は、
堀尾青史著「年譜 宮澤賢治伝」(中公文庫)や
境忠一著 「評伝 宮澤賢治」(桜楓社)に
部分引用されていたので、気になっておりました。
今回、対話全体が読めて私はよかった。
たとえば、そのあとに、森氏が語っているのでした。



森】 県下の中等学校の陸上競技大会が花巻で開催されたことがありましたが、
   わたしたちも森岡中学校の応援団になって、その大会に出かけました。
   会場には、どこの学校の応援団もきていてさかんに
   校歌や応援歌を歌っているのをきくわけですが、

   ひときわ目だって、変った歌を歌う応援団がありました。
   生徒が少ないくせに意気天をつく一団でした。
   これが花巻農学校だったのです。
   あまり変った歌なので今でも記憶にあります。

   ・・・精神歌も、いまにして思えばたしかに
  『精神歌』と題をつけるほかにない感じの歌でした・・・ ( p198  )


はい。こう語っている森氏が
ご自身の本、森荘巳池著『野の教師 宮沢賢治』の
はじまりに、『精神歌』の歌詞と楽譜とを置いていたのでした。
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