平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店・2013年)を
本棚からとりだす。そこにある『ビルマの竪琴』の箇所をひらく。
ここは、執筆依頼の場面から引用することに。
「・・童話雑誌『赤とんぼ』も21年4月に創刊された。
編集長の藤田圭雄は・・執筆依頼に鎌倉まであらわれた。
敗戦後は勤労動員や空襲こそなくなったが、一高幹部の竹山は
新情勢への対応に忙殺された。・・・
それが昭和21年の夏になって、竹山はひさしぶりに休まざるを得なくなった。
積年の疲労のせいか、かるい中耳炎をおこして10日ほど・・家にひきこもった
からである。頭に血がのぼる。耳にあてるための氷は・・もらった。
そしてその暇に子供むきの物語『ビルマの竪琴』を考えた。
比較的に短い30頁足らずの第一話『うたう部隊』だけがまずできた・・
第一話の原稿を書きあげたのは昭和21年9月2日だった。・・・・
昭和22年1月号掲載予定のこの第一話は校正刷を提出した段階で、
米国占領軍の民間検閲支隊Civil Censorship Detachment いわゆる
CCDの検閲にひっかかってしまったのである。
内幸町の米軍事務所に一週間後に許可を貰いに行った藤田は唖然とした。
・・・・・
話の二行目『みな疲れて、やせて、元気もなく、いかにも気の毒な様子です。
中には病人となって、蝋のような顔色をして、担架にかつがている人もあります。』
には傍線が引かれている。当時、検閲実務に従事した要員はおおむね日本人で、
占領軍の指令に従いチェックしていた。いかに日本人らしい几帳面な書体で
問題個所の英訳を付し、・・『公共ノ安寧ヲ妨ゲル』という検閲項目に抵触
する旨が書き添えられている。・・
復員兵の消耗した有様は、連合国側の日本兵捕虜虐待を示唆するが故に
印刷禁止に該当する。これが上司が指示した検閲要領に忠実に従った
日本人検閲員の判断だった。当時CCDには英語力に秀でた日本人5000人以上
が勤務していた。滞米経験者、英語教師などが、経済的理由から、
占領軍の協力者というか有り体に言えば共犯者となって働いていたのである。
その要因募集はラジオを通して行なわれ、給与金額まで放送されたから、
少年の私にも比較的高給が支払われることは聞いてわかった。
費用は敗戦国政府の負担である。・・・・
が仕事の性質を恥じたせいか、検閲業務に従事した旨後年率直に
打明けた人は少ない。その体験を公表した人は葦書房から書物を出した
甲斐弦など数名のみである。タブーは伝染する。・・・・
・・・・・・
音楽による和解のこの物語のなにが悪いのだろうか。
内幸町のビルからすごすごと帰りかけた藤田圭雄は、もう一度窓口に引き返し、
受付の日本人女性に『どこが問題なのか』としつこく頼んだ。
すると奥の日系二世の部屋へ通された。そこにいたのは『二世の将校』だと
藤田は書いているが、対応の様子から察するに下士官だったのではあるまいか。
・・・
藤田の『この物語こそ今の日本の子どもたちにぜひ読ませたものだと思う』
という訴えを聞いて、二世の士官は
『わたしはまだこれを読んでいない。今すぐ読むからちょっと待ってくれ』
といって別室にはいった。そして20分ほど経つと戻って来た。
そして『 あなたのいう通りだ。これは決して悪くはない。しかし
ここまで来ると、もう一つ上のポストの許可がいるから、今月はなにか
別の原稿にさしかえて編集してほしい。しかしかならず許可を出すから』
といった。
上のポストには、問題となった個所のみをチェックする白人の管理職の
士官がいた。戦争中に日本語の特別訓練を受けた語学将校の英才たちである。
ブランゲ文庫に保存されマイクロフィルムに写された『赤とんぼ』には
検閲の痕跡をはっきり見ることができるが、先の傍線を引かれた箇所に
OK true と書きこまれている。
日本軍の復員兵士が
『みな疲れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子』
というのは事実その通りなのだから、問題とするには及ばない、
OKという判定を語学将校が下したのである。・・・ 」
( p183~190 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 )