新刊本は、ネットのbk1で購入するというのが、私の最近のならいです。
気をつけているのですが、それでも直接見てから買うわけではないので、ときどき失敗します。今回新聞広告で見た、新刊の岩波新書「大岡信編 新折々のうた総索引」というのを取り寄せました。「折々のうた」は新聞一面に掲載されていましたので、短歌・俳句、それに詩などの引用が短い。その総索引とありましたので、てっきり、これは掲載時の短い引用がそのままに、「うた」が、ずらりと並んで一望できるのじゃないか。こりゃお得だなあと早合点。まあ、そう思って私は注文したのです。ところが、本が届いてページをめくると初句索引とありまして、はじまりの4~5語ほどの言葉がずらりと並んでいるだけじゃありませんか。それは「あ」からはじまります。「ああ女・ああ、かぐや姫の・ああ昨日の・嗚呼と見るまに・愛あまる・・・」こんな感じでずっとつづくわけでして、しまった、こりゃ「新折々のうた」の全巻を持っていなけりゃ、ちょいと使い道もない一冊なのだと、いまさら、わかったというわけです。カバーの折り返しに「折々のうた全11冊」「新折々のうた全10冊」とあります。そんなの知らなかった私が悪いのでしょう。これじゃ「捕らぬ狸の皮算用」。折々のうた全部が一望できると、ぬかよろこびしたのが誤りでした。
さて、気持ちを切りかえて、その新書をあらてめてながめますと、129ページもの作者略歴がついている。それに最初に46ページほどが「折々のうた」の大岡信氏の講演が再録されてもいる。作者略歴はまたいつか、人名辞典として使えるかも知れないし(誕生と死亡の年が記入されております)、講演再録は、これはひとつ一日つぶして大岡氏の講演を聞きに出かけたと思えば660円+税は安いじゃないか。とまあ、こう思おうとしたわけです。
ということで、講演を読み始めたというわけです。
講演には時々、方向指示器みたいな箇所がありますね。何といっていいのか、道路を走っていると、時々信号機があるように。それが、止まれであったり、注意しろであったりする。講演の途中で、何箇所かそういう印象に残るポイントがあったりする。そのポイント切り替え地点というのが要所要所にある(まあ、この新書を買って失敗したなあなどと思いながら、講演を読んでいると、そんな普段考えないようなこともあれこれ思うものです)。
そんな何ヵ所目かのポイント切り替え地点に、こんな言葉がありまして、印象に残りました。
「歌とか俳句というのはへんなもので、地べたに接触している感じの強いもののほうが、それの弱いものよりは、何か訴える力がある。・・・・」(p31)
そして、大岡氏はこのあとに結城哀草果(ゆうきあいそうか)氏の歌をもってくるのでした。ちなみに結城氏は山形の人で田を耕して暮らしていたとあります。
その引用されている歌は
しみじみと田打ち疲れしこの夕べ畔(くろ)をわたれば足ふるひけり
大岡氏は「【足ふるひけり】という、これがやっぱりいいですね。足がもう、こむら返りを起こすような感じでふるえるわけです。これはなぜかといったら、山形ですから、冷たい。水を張ってない田んぼでも冷たいですね。感覚がなくなってしまって、しまいにはこむら返りを起こしたようになるということがありうるわけです。・・ありふれた言葉ですけど・・・これだけでも大正あたりの日本の農民の生活というのがよく出ていると思います。」(p32)
そういえば、と私は思ったわけです。
読売歌壇(2007年10月29日)の岡野弘彦選の一番はじめに並んでいたのが
湿田に夕べ稲刈る人をりて泥より足を抜く音きこゆ 坂東市 本間猛
岡野弘彦氏の選評はというと
「湿田とか深田とか言われるたがある。排水が不良で一年中水に漬(つ)いている田だ。休耕田がふえる一面で、こういう田を耕作する人もある。この下の句、私の胸に痛切にひびく。」とあります。なぜ岡野氏の「胸に痛切にひびく」のか、もう私など、さっぱり分からずにおります。
ちなみに、岡野氏の選の二番目はというと、
稲刈りを終へたる空は晴れて澄む共に仰ぎし妻逝きて亡し 常総市 渡辺守
この選評はというと
「日本の農作物の自給率は年々減少している。祖先から受けた田を辛うじて老夫婦が守ってきた、といった農家が多い。この作者もそうした一人だろう。」
ところで、今私は「庭」ということが気になっております。
すると、その「庭」の地べたは、はたして、土か、砂利か、コンクリートか、はたまたレンガか。などと思い描くわけです。
読売歌壇の岡野弘彦選の下は、小池光選が並んでおりました。
小池選の一番目はというと
アスファルト敷かれた舗道押し上げて吾は苦しいけやきの根っ子 武蔵野市 中村安岱
小池選評は
「自分がズバリけやきの根っこになってしまうところがおもしろい。上から理不尽に押さえ付けられて息が詰まりそうだろう。現代人の快適な文明はこういう圧迫の上に成り立っている。」
その二番目はというと
庭先の棚よりさがる瓢箪の尻をときどき叩きはげます 町田市 谷川治
この小池選評も引用しておきましょうか
「庭先のヒョウタン、日々に大きくなる。その尻を叩いて、はげますところがユニーク。おいがんばれよ。ヒョウタンの喜ぶ顔がうかぶよう。」
うん。小池氏の選に、歌を選ぶ息づかいが感じられるのでもうすこし引用をつづけます。
頼むから溜め息なんてつかないで逃げ場所のないエレベーターで
東久留米市 中里正樹
ハンドルの上に足裏見えてをり長距離トラック木陰に休む 東松山市 嘉藤小夜子
もうすこし続けます。大岡氏の講演を読んで、
私が思い浮かんだのは岡潔氏の文章でした。
「数学の思い出」(「岡潔集 第一巻」学研)
そこにこんな箇所があったのです。
「二度目に粉河中学にはいり、中学二年のとき初めて代数を習ったが、この年の三学期の学年試験では五題のうち二題しかできなかった。・・・試験がすんで郷里へ帰ったが、この不成績が気にかかってくよくよしていた。ところが、ある朝、庭をみていると、白っぽくなった土の上に早春の日が当たって春めいた気分があふれていた。これを見ているうちに、すんだことはどうだってかまわないと思い直し、ひどくうれしくなったことを覚えている。ついでにいうと、土の色のあざやかな記憶はもう一つある。中学一年のとき、試験の前夜遅くまで植物の勉強をやり、翌朝起きたところ、気持ちがさえないでぼんやりとしていた。ところが、寄宿舎の前の花壇が手入れされてきれいになり、土が黒々としてそこに草花がのぞいているのが目にはいると、妙に気持ちが休まった。日ざしを浴びた土の色には妙に心をひかれてあとに印象が残るようである。」(p19)
気をつけているのですが、それでも直接見てから買うわけではないので、ときどき失敗します。今回新聞広告で見た、新刊の岩波新書「大岡信編 新折々のうた総索引」というのを取り寄せました。「折々のうた」は新聞一面に掲載されていましたので、短歌・俳句、それに詩などの引用が短い。その総索引とありましたので、てっきり、これは掲載時の短い引用がそのままに、「うた」が、ずらりと並んで一望できるのじゃないか。こりゃお得だなあと早合点。まあ、そう思って私は注文したのです。ところが、本が届いてページをめくると初句索引とありまして、はじまりの4~5語ほどの言葉がずらりと並んでいるだけじゃありませんか。それは「あ」からはじまります。「ああ女・ああ、かぐや姫の・ああ昨日の・嗚呼と見るまに・愛あまる・・・」こんな感じでずっとつづくわけでして、しまった、こりゃ「新折々のうた」の全巻を持っていなけりゃ、ちょいと使い道もない一冊なのだと、いまさら、わかったというわけです。カバーの折り返しに「折々のうた全11冊」「新折々のうた全10冊」とあります。そんなの知らなかった私が悪いのでしょう。これじゃ「捕らぬ狸の皮算用」。折々のうた全部が一望できると、ぬかよろこびしたのが誤りでした。
さて、気持ちを切りかえて、その新書をあらてめてながめますと、129ページもの作者略歴がついている。それに最初に46ページほどが「折々のうた」の大岡信氏の講演が再録されてもいる。作者略歴はまたいつか、人名辞典として使えるかも知れないし(誕生と死亡の年が記入されております)、講演再録は、これはひとつ一日つぶして大岡氏の講演を聞きに出かけたと思えば660円+税は安いじゃないか。とまあ、こう思おうとしたわけです。
ということで、講演を読み始めたというわけです。
講演には時々、方向指示器みたいな箇所がありますね。何といっていいのか、道路を走っていると、時々信号機があるように。それが、止まれであったり、注意しろであったりする。講演の途中で、何箇所かそういう印象に残るポイントがあったりする。そのポイント切り替え地点というのが要所要所にある(まあ、この新書を買って失敗したなあなどと思いながら、講演を読んでいると、そんな普段考えないようなこともあれこれ思うものです)。
そんな何ヵ所目かのポイント切り替え地点に、こんな言葉がありまして、印象に残りました。
「歌とか俳句というのはへんなもので、地べたに接触している感じの強いもののほうが、それの弱いものよりは、何か訴える力がある。・・・・」(p31)
そして、大岡氏はこのあとに結城哀草果(ゆうきあいそうか)氏の歌をもってくるのでした。ちなみに結城氏は山形の人で田を耕して暮らしていたとあります。
その引用されている歌は
しみじみと田打ち疲れしこの夕べ畔(くろ)をわたれば足ふるひけり
大岡氏は「【足ふるひけり】という、これがやっぱりいいですね。足がもう、こむら返りを起こすような感じでふるえるわけです。これはなぜかといったら、山形ですから、冷たい。水を張ってない田んぼでも冷たいですね。感覚がなくなってしまって、しまいにはこむら返りを起こしたようになるということがありうるわけです。・・ありふれた言葉ですけど・・・これだけでも大正あたりの日本の農民の生活というのがよく出ていると思います。」(p32)
そういえば、と私は思ったわけです。
読売歌壇(2007年10月29日)の岡野弘彦選の一番はじめに並んでいたのが
湿田に夕べ稲刈る人をりて泥より足を抜く音きこゆ 坂東市 本間猛
岡野弘彦氏の選評はというと
「湿田とか深田とか言われるたがある。排水が不良で一年中水に漬(つ)いている田だ。休耕田がふえる一面で、こういう田を耕作する人もある。この下の句、私の胸に痛切にひびく。」とあります。なぜ岡野氏の「胸に痛切にひびく」のか、もう私など、さっぱり分からずにおります。
ちなみに、岡野氏の選の二番目はというと、
稲刈りを終へたる空は晴れて澄む共に仰ぎし妻逝きて亡し 常総市 渡辺守
この選評はというと
「日本の農作物の自給率は年々減少している。祖先から受けた田を辛うじて老夫婦が守ってきた、といった農家が多い。この作者もそうした一人だろう。」
ところで、今私は「庭」ということが気になっております。
すると、その「庭」の地べたは、はたして、土か、砂利か、コンクリートか、はたまたレンガか。などと思い描くわけです。
読売歌壇の岡野弘彦選の下は、小池光選が並んでおりました。
小池選の一番目はというと
アスファルト敷かれた舗道押し上げて吾は苦しいけやきの根っ子 武蔵野市 中村安岱
小池選評は
「自分がズバリけやきの根っこになってしまうところがおもしろい。上から理不尽に押さえ付けられて息が詰まりそうだろう。現代人の快適な文明はこういう圧迫の上に成り立っている。」
その二番目はというと
庭先の棚よりさがる瓢箪の尻をときどき叩きはげます 町田市 谷川治
この小池選評も引用しておきましょうか
「庭先のヒョウタン、日々に大きくなる。その尻を叩いて、はげますところがユニーク。おいがんばれよ。ヒョウタンの喜ぶ顔がうかぶよう。」
うん。小池氏の選に、歌を選ぶ息づかいが感じられるのでもうすこし引用をつづけます。
頼むから溜め息なんてつかないで逃げ場所のないエレベーターで
東久留米市 中里正樹
ハンドルの上に足裏見えてをり長距離トラック木陰に休む 東松山市 嘉藤小夜子
もうすこし続けます。大岡氏の講演を読んで、
私が思い浮かんだのは岡潔氏の文章でした。
「数学の思い出」(「岡潔集 第一巻」学研)
そこにこんな箇所があったのです。
「二度目に粉河中学にはいり、中学二年のとき初めて代数を習ったが、この年の三学期の学年試験では五題のうち二題しかできなかった。・・・試験がすんで郷里へ帰ったが、この不成績が気にかかってくよくよしていた。ところが、ある朝、庭をみていると、白っぽくなった土の上に早春の日が当たって春めいた気分があふれていた。これを見ているうちに、すんだことはどうだってかまわないと思い直し、ひどくうれしくなったことを覚えている。ついでにいうと、土の色のあざやかな記憶はもう一つある。中学一年のとき、試験の前夜遅くまで植物の勉強をやり、翌朝起きたところ、気持ちがさえないでぼんやりとしていた。ところが、寄宿舎の前の花壇が手入れされてきれいになり、土が黒々としてそこに草花がのぞいているのが目にはいると、妙に気持ちが休まった。日ざしを浴びた土の色には妙に心をひかれてあとに印象が残るようである。」(p19)