岡崎久彦・渡部昇一対談の
「賢者は歴史に学ぶ」(クレスト社)。
その、まえがきは渡部昇一氏でした。
そこからの引用。
「岡崎氏と私は同じ昭和五年生まれではあるが、
稟質(ひんしつ)も経歴もまったく違う。
しかし、同じ歳の日本人の男として、
ツーと言えばカーと通ずるところがある。
同じ教科書を使い、同じ唱歌を歌い、同じ少年雑誌を読み、
同じニュースを聞いて育ったのだ。
戦前の偉大な日本の記憶もあるし、
戦争に引き込まれていったプロセスも、
敗戦の屈辱も悲惨も、また戦後の解放感も、
焼け跡からの復興も知っている。
わずかのことで戦場には出なかったので、
かえって『敗れて腰が抜けた』ような
日本人にもなっていない。
占領軍や日教組の反日的教育も受けていない。
『こういう世代は貴重なんだ』と岡崎氏は言う。
たしかにそう言えば、私の尊敬する著述家の多くの人たち、
たとえば五十音順に並べただけでも、
石井威望、小室直樹、日下公人、谷沢永一・・・
と思い浮かぶが、いずれも
昭和五年前後に生れた人たちである。」
はい。最近、1930年生まれの日下公人氏は
新刊「『発想』の極意」を出されております。
表紙脇には「人生80年の総括」と但し書き。
ちなみに、曽野綾子氏は1931年生まれ。
雑誌WILL12月号の曽野さんの連載は
こうはじまっておりました。
「本誌編集部から、『新潮45』の突然の休刊について
書くよう指示があった。」
その4ページほどの連載の最後のページ
を引用しておかなきゃ。
「先日、もう終りも近い自分の一生で、
何が幸福だったかを確認しておこうと考えた。
戦争中、食物に不自由はしたが、
飢餓で死ぬ恐怖は覚えなかった。
何より仕合わせだったのは、
いわゆる略奪というものの光景を、
私は一度も見なくてすんだことだ。
スーパーなどを略奪する光景は外国の
テレビ報道として見たことがあるが、
あれは精神と肉体の双方の貧困を
合わせてみせた悲しい場面だ。
そういう行為を私は一度も見ずに済んだのだ。
日本の同胞と国に深く感謝したい。
『新潮45』の悲しさは、『勇気がないこと』だった。
何も銅像になったり子供の教科書に美談が載ったり
するほどの勇気でなくていい。
しかしささやかな個人の暮らしの中で、
子や孫しか知らない程度でも
自分の取ろうとする生き方のために、
ほんの少しの抵抗をすることが
充分に勇気なのである。
それはほんとうにいい香りがする、
と私は思い込んでいたのだ。
『新潮45』はこの勇気に欠けていた。
雑誌として双方の対立する意見を載せ続け、
その結果として少数の暴徒に踏み込まれたり、
嫌がらせを受けたりするようなことにも
耐える勇気を見せてほしかった。
私は、新潮社という出版社は冷たく骨のある
社だからそれくらいのことはできる、
と思い込んでいたのだ。
しかし今は『ごくろうさまでした。
お疲れになったでしょう』と言うだけだ。
別に放火や殺人や詐欺をすすめたりした
のでもない雑誌をつぶした人たちは、
この時代にまたはっきりと汚点を残した。
しかしそれも仕方がないだろう。
私たちの時代はそういう濁った時代だったのだ。
そして私はそれを救う力を何一つ示せなかった
平々凡々たる人間だったということだけのことだ。」
(p145)
「賢者は歴史に学ぶ」(クレスト社)。
その、まえがきは渡部昇一氏でした。
そこからの引用。
「岡崎氏と私は同じ昭和五年生まれではあるが、
稟質(ひんしつ)も経歴もまったく違う。
しかし、同じ歳の日本人の男として、
ツーと言えばカーと通ずるところがある。
同じ教科書を使い、同じ唱歌を歌い、同じ少年雑誌を読み、
同じニュースを聞いて育ったのだ。
戦前の偉大な日本の記憶もあるし、
戦争に引き込まれていったプロセスも、
敗戦の屈辱も悲惨も、また戦後の解放感も、
焼け跡からの復興も知っている。
わずかのことで戦場には出なかったので、
かえって『敗れて腰が抜けた』ような
日本人にもなっていない。
占領軍や日教組の反日的教育も受けていない。
『こういう世代は貴重なんだ』と岡崎氏は言う。
たしかにそう言えば、私の尊敬する著述家の多くの人たち、
たとえば五十音順に並べただけでも、
石井威望、小室直樹、日下公人、谷沢永一・・・
と思い浮かぶが、いずれも
昭和五年前後に生れた人たちである。」
はい。最近、1930年生まれの日下公人氏は
新刊「『発想』の極意」を出されております。
表紙脇には「人生80年の総括」と但し書き。
ちなみに、曽野綾子氏は1931年生まれ。
雑誌WILL12月号の曽野さんの連載は
こうはじまっておりました。
「本誌編集部から、『新潮45』の突然の休刊について
書くよう指示があった。」
その4ページほどの連載の最後のページ
を引用しておかなきゃ。
「先日、もう終りも近い自分の一生で、
何が幸福だったかを確認しておこうと考えた。
戦争中、食物に不自由はしたが、
飢餓で死ぬ恐怖は覚えなかった。
何より仕合わせだったのは、
いわゆる略奪というものの光景を、
私は一度も見なくてすんだことだ。
スーパーなどを略奪する光景は外国の
テレビ報道として見たことがあるが、
あれは精神と肉体の双方の貧困を
合わせてみせた悲しい場面だ。
そういう行為を私は一度も見ずに済んだのだ。
日本の同胞と国に深く感謝したい。
『新潮45』の悲しさは、『勇気がないこと』だった。
何も銅像になったり子供の教科書に美談が載ったり
するほどの勇気でなくていい。
しかしささやかな個人の暮らしの中で、
子や孫しか知らない程度でも
自分の取ろうとする生き方のために、
ほんの少しの抵抗をすることが
充分に勇気なのである。
それはほんとうにいい香りがする、
と私は思い込んでいたのだ。
『新潮45』はこの勇気に欠けていた。
雑誌として双方の対立する意見を載せ続け、
その結果として少数の暴徒に踏み込まれたり、
嫌がらせを受けたりするようなことにも
耐える勇気を見せてほしかった。
私は、新潮社という出版社は冷たく骨のある
社だからそれくらいのことはできる、
と思い込んでいたのだ。
しかし今は『ごくろうさまでした。
お疲れになったでしょう』と言うだけだ。
別に放火や殺人や詐欺をすすめたりした
のでもない雑誌をつぶした人たちは、
この時代にまたはっきりと汚点を残した。
しかしそれも仕方がないだろう。
私たちの時代はそういう濁った時代だったのだ。
そして私はそれを救う力を何一つ示せなかった
平々凡々たる人間だったということだけのことだ。」
(p145)