和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

住吉かいわい。

2008-07-31 | Weblog
黒沢明監督の映画で、登場人物が自分の名前を語る箇所がありました。桑畑三十郎。椿三十郎。どちらの時も、三十郎と云ってから「もうすぐ四十郎だがな」という風に言葉を継いでいたような気がします。そういう年齢を加味して名前を語る場合もありなんだ。と可笑しくおもったのでした。そういえば、小野十三郎という名は、十三歳の中学生をイメージしてもよいのでしょうか? などと、そこからあらぬことを思ったりする私です。

藤沢桓夫を追悼した司馬遼太郎の文に、
「一言でいうと、魅力的な人でした。いくつになっても品のいい中学生にそのまま年を取らせたような、明るくてとびきり聡明な人でした。私が二十代の終わりごろ、新聞社の人間として小説家という人を見た最初の人でした。その印象は圧倒的で、私心がなく透明な感じで、お話が実に面白かった。・・・」(p57・山野博史著「発掘司馬遼太郎」)この短文の終わりにこうあります。
「高校や大学で一緒だった長沖一さん、秋田実さん、小野十三郎さんなど、家のある住吉かいわいでのつき合いで終始したのは見事でした。生活圏を限定されており、その中から小野さんらが出て、いい感じのサロンだった。ちょっと離れて遠くから見る感じのいい景色で、藤沢さんはすべての点で景色のいい人でした。」

その司馬さんは「直木賞をもらったとき、百分の一秒ほど『東京に出ようか』と考えた。しかし、大阪には藤沢さんがいるから、と思い直した」と語ったそうであります。

え~と。小野十三郎については、谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書 p72)にこんな箇所がありました。

「僕の父が買った家は、阿倍野区の昭和町というところの八軒長屋の一軒でした。そこから歩いて五、六分のところに、詩人の小野十三郎さんが住んでおられた。その真ん中辺に、河野多恵子が住んでいた。それから逆に東へ行くと、十五分ぐらいのところに開高健が住んでいた。こういう、住んだところの人間配置ですね。それから近くに藤本進治という、無名で亡くなった哲学者・・・全部ほんとに近所にいた。同人雑誌をやっていると、当然小野さんともお目にかかる機会が増えまして、そこで小野さんのところに僕もなんべんも遊びに行く。向こうは子供が多くて、たしか五人だったかな。ちょうど適齢期でしたから、僕なんかとちょうど話し相手にいいわけです。私は当時は推理小説に凝っておりまして、ヴァン・ダインであろうがエラリー・クイーンであろうが、江戸川乱歩であろうが横溝正史であろうが、とにかく面白い推理小説の筋をずっとしゃべるということができましたから、小野家へなんべんも行って、子供たちみんなにサービスをした。ということで、小野十三郎さんと縁ができたんです。これも偶然です。これが一キロ離れていたら、もうそんなことはありえなかったと思う。・・」


ちょうど、岡崎武志と山本善行著「新・文學入門」(工作舎)を開いたら、お二人とも出身が大阪。大阪といえば、藤沢・小野のお二人。という妙な連想がはたらいたので、引用しておきました。

もう少し引用しておくと、「新・文學入門」に杉山平一著「戦後関西詩壇回想」が好意をもって、取り上げられておりました。この「詩壇回想」に、小野十三郎氏が登場しております。伊東静雄を取り上げた箇所ででした。
「昭和18年・・・詩人の伊東静雄が富士正晴を連れてきた。富士正晴は、他人に愛想笑いをするようなことはなく、つねに冷やかに見ている人だが、そのとき、伊東静雄が、『あれが、藤沢桓夫だ、あいさつしてきなさい』と、いったという。『殺生なこと、いいよるねん』と、富士は、可笑しがったが、伊東静雄には、そうした処世術があった。もとより、学校教師であるから、無頼などではない。・・・伊東は、大戦後早々、短歌的抒情の否定で小野十三郎が戦後思想の時流のチャンピョン視されると早速、自分が教師をつとめる住吉高校に呼び、講演を依頼している。・・」(p17~18)

また杉山平一は、伊東静雄と藤沢桓夫のことも印象深く書いております。
「私がはじめて伊東静雄に接したのは、私の処女詩集『夜学生』の出版記念会であったと思う。・・席上、藤沢桓夫は、小野十三郎の物の見方を『小野メガネ』と評したり、新しい故の鋭い評言が飛び交っていたなかで、伊東静雄が、ときめく藤沢桓夫に反論し口論になった。何か、古今集の歌人についてのことだったと思うが、どちらも、ゆずらず、見ている私は、胸が苦しくなった。そのとき、詩人や作家というのは凄いなぁ、というショックを受けた。・・・」(p175~176)


それにしても、伊東静雄が住吉高校を去る時のことは「伊東静雄研究」を読むと何だか泣けてくるのでした。




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正確な日本語とは。

2008-07-30 | 朝日新聞
「大野晋先生を悼む」と題して読売新聞2008年7月21日に井上ひさし氏が書いておりました。そこでのたとえが印象に残ります。
お役所の会議で

  「こんどの図書館の改装については、地域との協力関係を大切にしよう」

これを外来語をふんだんにまぶして語ると

 「このたびのライブラリーのリニューアルについては、コミュニティーとのパートナーシップを重視しよう」

となっているのだそうです。井上氏は『外来語言い換え手引き』(ぎょうせい刊)による、各単語の意味範囲を視野において、外来語のこの文を、可能な範囲で訳し直しております。

「こんどの修蔵館についてはすべてを一新して、地域共同体との共同経営にしよう」

これから、大野晋氏への追悼文の本題に入っておりました。

さて私は、この例文を読んでいて思い浮かんだのが、6月13日の各新聞一面記事。
それは平成13年1月30日にNHK教育テレビで放送された慰安婦問題番組変更の最高裁判決を記事にしておりました。
その番組はといえば「昭和天皇を『強姦と性奴隷制』の責任で弁護人なしに裁いた民間法廷を取り上げた内容」(産経新聞「主張」)だそうです。

さて一面でした、
読売新聞は見出し縦文字は「NHK逆転勝訴」
産経新聞は縦見出しは「最高裁逆転判決原告の団体敗訴」
朝日新聞は「市民団体が逆転敗訴」

一面の横見出しは、
読売新聞が「戦争番組改編」
産経新聞が「NHK従軍慰安婦問題の番組変更」
朝日新聞が「NHK訴訟」

朝日新聞だけが見出しで「昭和天皇を『強姦と性奴隷制』の責任で弁護人なしに裁いた民間法廷」の女性団体を「市民団体」と規程しておりました。

朝日新聞は「市民団体」
読売新聞は「民間団体」
産経新聞は「女性団体」

そして、おごそかに
朝日新聞の記事一段目の本文を読むと、
「市民団体がNHKなどに損害賠償を求めた訴訟」
「市民団体の請求をすべて退ける判決」
「市民団体側の逆転敗訴が確定した」

とあり、いったいどんな「市民団体」とかがあいまいで。
ペタペタと判を押すように言葉「市民団体」を記事に並べて。
記事を組み立てておりました。おいおい。
ここからは、悪い市民団体が敗訴したというイメージはありません。
善い市民団体が、権威をふりまわす最高裁に敗れたとでもいいたいようです。
朝日新聞が応援していた市民団体が逆転敗訴したのだと読めるように。
工夫を凝らした記事になっておりました。

そういえば、「朝鮮民主主義人民共和国」という名称を
最後まで、一面記事に記載し続けたのが朝日新聞。

昨年のネットでの流行語大賞が「アサヒる」。
今年はさらに功名さを身にまとうのか朝日新聞。
ツタが絡まるように新聞の一面・社説を占拠する方法。
という本を読んでみたい。



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天皇陛下 大いに笑う。

2008-07-29 | Weblog
定期購読している「WiLL」の9月号が、ポストに届いておりました。
連絡紙が封筒に入っておりました。それによると一部地域で「発売日に本が届かない」というご指摘があった、そのお詫びの連絡。
そこには「創刊以来3年半・・月刊誌としては『文藝春秋』に次ぐ売れ行きで・・」「5月号から8月号と3号にわたる西尾幹二さんの『皇太子さまへのご忠言』は予想を上回る大反響。6月号は光市母子殺人事件の本村洋さんの独占手記を掲載し、完売、増刷致しました」とあります。

さっそくこの雑誌をパラパラとめくっていたら、
最後の方に連載している「ある編集者のオデッセイ 文藝春秋とともに」が、今回は「『非常識人』・池島信平さんの死」というので、普段は読まなくても興味深いので読んでみました。そこにこんな箇所があります。

「『いいか堤、日本のインテリたる者は、天皇制についてトコトン考え抜いて置かなきゃいかんよ』。池島伝説の一つに、『文藝春秋』誌を大きく飛躍させた企画『天皇陛下 大いに笑う』がある。昭和24年の春、菊地寛の一周忌に縁(ゆかり)の人を集め、バスを仕立てて多摩墓地へ出かけた。画家の宮田重雄が言った。『こないだ、ハッちゃん(サトウ・ハチロー)と夢声(徳川)老と辰野(隆)大博士が、天皇さんの前でバカ話をして、陛下は生れて初めてお笑いになったそうだ』振り返った池島さんが、『それ、いきましょう! 頂きです』早速、三人に願って鼎談を掲載した。当時は天皇退位論、さらには戦争責任論が論壇を賑わしている。その最中に『天皇陛下 大いに笑う』の見出しだ。この逆ばりを機に、雑誌は八万部だった部数を毎年十万部ずつ伸ばし、四十万部に達した。池島さんの親友に『週刊朝日』編集長・扇谷正造がいる。・・扇谷さんも辰野隆から御前放談のことは聞いていた。しかし『いまどき天皇のことなんか』と気にも止めなかった。朝日社内に瀰漫する天皇批判の空気に絡め取られていたのだろう。・・・」(p283)

とあります。これがすこぶる興味深いわけです。
そのころの『文藝春秋』のバトンを、いま『WiLL』が受け継いで走っているように私には見える。


ちょうど、この雑誌に渡部昇一氏も書いており、同様の箇所を指摘しております。

「ついでながらつけ加えておけば、戦後しばらくの間、日本人は本当に皇室の行方を心配していました。共産党は皇室廃止論です。後に最高裁長官になり文化勲章を受けた横田喜三郎東大法学部教授も、『皇室と民主主義は合わない』という主旨の著述をしていたのです。そんな時に『文藝春秋』は『天皇陛下 大いに笑う』という座談会を載せました。この昭和天皇のお姿を知って、当時の日本人はどんなに明るい気分になったことか。これ以後、『文藝春秋』は毎月十万部ずつ発行部数を増やし、国民雑誌になりました。」(p72)

これから、WiLLの発行部数が増えてゆくかどうか?
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草田男と明治の夏。

2008-07-28 | 安房
中村弓子著「わが父草田男」(みすず書房)の中の文「わが父草田男」は、こうはじまっておりました。

「  毒消し飲むやわが詩多産の夏来る
夏こそは父の季節であった。父は7月24日に生まれ、8月5日に亡くなった。暑い季節がやってくると家族は全員げんなりしている中で、『瀬戸内海の凪(なぎ)の暑さなんてこんなもんじゃありませんよ』などと言いながら、まるで夏の暑さと光をエネルギーにしているかのように、大汗をかきながらも毎日嬉々として句作に出かけていた。・・・」(p57)

さて、昭和11年に出版されていた草田男句集「長子」を覗いてみました。夏の句に「安房野島ヶ崎にて」という句が、そこにあります。

   夏草や野島ヶ崎は波ばかり

   燈台や緑樹は陸(くが)へ打歪み

野島ヶ崎燈台に上る

   涼風の旗打つ如く衣を打つ

   照り返す貝殻のみの入江あり



   夏芝やこごみかげんに海女通る

   月見草湾を距てて山灯る

   明笛鳴り軍艦通る月見草

帰省の句もあります。
  
   果樹の幹苔厚かりし帰省かな

松山城にて

   炎天の城や四壁の窓深し



ここらで、明治の夏。
ドナルド・キーン著「明治天皇を語る」(新潮新書)に
明治天皇の夏が紹介されております。

「夏の間、どんなに暑くても、避暑地に行くことはありませんでした。冬も避寒地に行くことはありませんでした。日本の各地に明治天皇のための別荘ができていましたが、一度も行ったことはありませんでした。側近が静養を勧めると、天皇はこう応えるのです。朕は臣民の多くと同じことがしたい。天皇は日本人の多くが酷暑、酷寒にもかかわらず働いているのに、自分だけが一人のんびりと静養する気にはとてもなれなかった。・・・」(p89)

「明治天皇は内閣の会議には必ず出席していました。議場は夏には耐えがたいほどの暑さになることもありますが、不快を訴えることもなく議事に聞き入りました。とはいえ、一度も言葉を発したことはありません。あとで議長を呼んで質問することはありましたが、議事中はただそこにいただけです。それが自分の義務だと思っていたのです。もし天皇がそこにいなければ、内閣らしい話はなかったでしょう。長い間、内閣を構成する多くの人たちは、戊辰戦争で業績を上げた軍人たちでした。政治などの複雑かつ高度な問題にあまり興味がない者もいます。もし天皇が出席していなかったら、雑談とか猥談とか、いろいろ楽しい話をしたに違いない。しかし天皇がそこにいたために、そういう話はできなかった。大臣らしい行動をしなければならなかったのです。」(p90)

これを引用しながら思い浮かぶのは「五箇条の御誓文」でした。
そのはじまりの一箇条は「広く会議を興し、万機公論に決すべし。」でした。
五箇条を並べた最後には「我国未曾有の変革を為んとし、朕躬を以て衆に先じ、天地神明に誓ひ、大に斯国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆亦此旨趣に基き協力努力せよ。」


ところで、中村草田男句集「長子」は、春夏秋冬の順に句が集められておりました。最後の冬の句のなかに、有名なこの句があります。



      降る雪や明治は遠くなりにけり



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言葉は飛び去るけれど。

2008-07-27 | Weblog
ネット上の書き込みは、手紙と比較するのが分かりやすいのじゃないでしょうか。たとえば、手紙でよく語られていたことに
「あとになってから取り消さなければならないような、もしくは後悔するようなことは一行たりとも書いてはいけない。なぜなら、フランスの諺にもいうように、言葉は飛び去るけれども、書いたものは残るからである」。
ネット上で、打ち込んだ言葉は、私など、ややもすると飛び去っていくイメージがある。という点では、ちょっと話し言葉に似ております。そこで、ネット画面活字と手紙との、違いと、類似点とが気になります。ネット上での打ち込みは会話と手紙との中間というイメージが強いのじゃないか。むしろ会話により近い(どうでしょう?)。ところが、これが活字として残る。まあ残るとしても、会話をカセットで録音したようにして残るという方がよいのかもしれないなあ。

まあ、このくらいにして(笑)。
何で、こんなことを思いうかべたかといいますと。
齋藤孝・梅田望夫著「私塾のすすめ」(ちくま新書)を読んでいたからです。
そこでは、齋藤さんはネットの書き込みをしていないタイプ。
その齋藤さんは、こう語っております。
「本というものは、文章にせよ、主題にせよ、ある程度以上の秩序が要求されますよね。編集者というフィルターも入りますし。でも、ネットで僕が直接のメッセージを書いたときに、舌禍事件をおこしてしまいそうということがあります。本ではコントロールしているのですが、なまみの人間としては、そうとう危険な発言が多い。・・・」(p091)


梅田さんはこう語っておりました。

「僕はネットで面白い経験をしたことがあります。ネットで知り合った人とリアルで会う『オフ会』というのがありますが、ブログを始めてしばらく経ったころ、僕のブログの読者を集めて、『オフ会』というか、セミナーみたいなものをやったことがあります。百人くらい集まったのですが、そのなかで、一番前の列ですごく熱心に聞いてくれていて、いい質問をしてくれた人がいた。終わったあとに、名刺交換をしたら、ネットでいつもひどいことを書いている人だったんですよ(笑)。とにかく、ネットでは皆、少し過激になる。僕はネットの世界で相当経験を積んでいるからわかるのですが、アテンション(関心)を引きたくて、実際よりも偽悪的、露悪的な表現をする人が多いというのを感じています。僕はそういう人に対して、絶対、攻撃的なことはしないと先に言いましたが、相手が実際にはいい人である可能性がかなりあるということを学んだからなんです。・・・コメントをしてくる人というのは、まだ何ものにもなれていない一人の人である可能性が高いでしょう。僕がその人に対して、非常に強く戦いを挑んだら、勝つかもしれないけど、相手は本当にダメージを受けてしまうかもしれない。だからそれは絶対にしません。・・・」(p137~138)

この新書では、「ネット上の私塾」ということを語り合っておりました。
私が、この箇所を読んでいて思い浮かべたのは手紙の心得でした。
そう梅田さんはネット上の心得を、ここでは語っておられる。
その心得というので、私はネットと手紙とをつなげたくなりました。

ここでは、最近読んだ河盛好蔵の「現代・手紙日記作法」から引用してみます。
その心得の注意を箇条書きにしてありまして、私が興味を引いたのは三番目でした。
「第三番目の注意は、【もらった手紙にはすぐ返事を出す習慣をつける必要がある。しかし諸君を傷つけたり、不快にしたりした手紙をもらった場合は例外である。そんなときにはしばらく待つことが大切で、すぐに相手に向って報復する態度に出てはいけない。常におだやかに、冷静に行動したという満足を持つべきだ】というのであります。・・・絶交の手紙とか、こちらを非難した手紙を貰ったりすると、すぐ肚を立てて、その場で返事を書いて相手に復讐しようという気持ちになりやすいものでありますが、そんなときには、一応怒りをぐっと押えて、一日か二日して心が平静になった時分に手紙を書くということが必要なのであります。と申しますのは、そういういふうな、相手を非難する手紙を書いた人は、手紙を出して二、三日すると、あんな手紙を書くんじゃなかったと心の中で後悔するのが普通でありますから、そういう後悔をしている時分にこちらから穏やかな手紙が行くと、相手を非常に恐縮させる効果があるのであります。手紙を書くときには、いつも穏やかな気持ちで書くということは大切なことであります。」(河盛好蔵 私の随筆選 第六巻私の人生案内)

う~ん。手紙には宛名がありますから(単純には匿名というのはないでしょうが)、そこがネット上とは異なるところでしょうか。ここで興味深いのは、ネット上を私塾とする発想です。塾ならば先生と生徒。あるいは先輩と後輩という要素が登場します。ネット上の先達として余裕をもって、穏やかな気持ちで相手に書くというのが、ここでは、心得として成り立ちそうです。

さて、最後に新書の方にもどりますが、
「私塾」という発想は、どこから生れたのか。それに近づける発言がありますので、そこもついでに引用しておきます。梅田さんの言葉です。

「僕は、エネルギーが湧く方向への『励まし』をいつも自分のなかに蓄えて、それを生きるための燃料にしているのですが、シリコンバレーから東京に来るたびに思うのは、日本で受動的にメディアから受ける言葉に、どうも気持ちが萎えるような言葉が多いなということなんです。」(p191~192)

受動的にして萎えさせるメディア。と、励ます私塾。

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ネット獄中私塾。

2008-07-27 | Weblog
齋藤孝・梅田望夫対談「私塾のすすめ」(ちくま新書)を読みました。
ちょうど、これを読んだ頃に、私は講義録というのを思っておりました。何げなくも私は「講義録=大学での講義の記録」と思ってしまうところがありまして、別に大学じゃなくてもよい。という、もう一歩の発想へと結びつかないでおりました。それについて、次のステップを照らしているような対談がこれでした。この対談に「ネットは私塾」という箇所があります。
梅田望夫さんでした
「過去をふりかえって、福沢諭吉が慶応義塾を作ったというのは、今から見れば、偉人伝の世界なんだけれど、同時代の人々からどう見られていたかというと、今のような高い評価を受けているわけではなかった。福沢が始めた私塾にすぎないという受けとめられ方がふつうだったでしょう。僕は今、大学の先生にならないかと誘われると必ず断っているのですが、大学の先生になるというのは、これまでの古いしくみのなかに入ることですから、そういうのは僕にとってはありえないのです。そうでなくて、毎日ブログを書いていて、30年たったときに、『あの人はネット上で私塾を開いた初めての人だったんだ』とか言われたいですね。今は誰もそんなふうに言ってくれる人はいないけれど・・・」(p107~108)

この対談の最後は齋藤孝さんでした。
「・・・『私塾的関係性』を大量発生的に生み出せる可能性がインターネットにはあります。直接面識のない人との間に、学び合う関係を築く不思議な事態がすでに起こっている。学校という公的な場ではない、『私塾的』学びの共同体が、自然発生的に増殖していく様は、植物の増殖を思い起こさせます。みなが心のどこかで求め、しかし現実では満たされることの難しかった『気持ちの通い合う私塾がほしいという思い』つまり『私塾願望』がインターネットの空間で満たされる希望を感じます。『私塾』の良さは、いつどこでも、二人ですぐに始められるところです。吉田松陰は、投獄された野山獄で、他の囚人たちに孟子を講義しました。他の囚人の得意分野をお互いに学び合う場を松陰は作ったのです。『獄中私塾』ができるなら、インターネットの世で無数の『ネット私塾』が花開くことは、十分期待できます。」(p196)

うん。「ネット上の私塾」から、対談ならではの飛躍で、最後は「獄中私塾」へとつながったりしております。それにしても、「ネット版獄中私塾」という言葉があるとするなら、こうしてパソコン画面に向かいながら、今日の暑さで、私には何ともリアルなネーミングとして受け取れるのでした。
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明治神宮パンフ。

2008-07-25 | Weblog
ドナルド・キーン著「明治天皇」を古本で上下巻揃えて、机に立てかけてあるのですが、あああ、上巻を拾い読みして、そのままになっております。そのままになりながら、何となく明治天皇というキーワードが目につくのが不思議。
たとえば、渡部昇一著「父の哲学」(幻冬舎)にはこんな箇所がありました。
「こんにち、父親の権威が失墜したと言われているが、そのきっかけとなったのが、教育勅語の廃止である。教育勅語というのは、法律ではなく、明治天皇のお言葉である。・・・信奉するものにとって心の拠り所となる、リーダーの言葉なのである。これは本来なら議会が廃止できる性質のものではない。ところが、進駐軍の方針に従い、議会がさっさと廃止してしまったという経緯がある。当時大学生だった私が近所の床屋に行くと、子どもの頃から散髪してくれていたオジサンが、『いや、この頃は困ったもんだ』と言う。聞けば、『教育勅語がなくなったから、子どもを叱るわけにいかない』のだそうだ。そのように、教育勅語は一般庶民にとって、想像以上に大きな存在だったのである。もともと明治天皇が、この教育勅語を世に広めた背景には、当時の中国の衰退が影響していたようだ。それまで日本の倫理の規範となっていたのは儒教である。ところがその儒教の本場である中国が、アヘン戦争以後、西洋にめったやたらに食い荒らされていたのである。そんなところから、そんな国から来た儒教をお手本にしたままでいいのだろうかという疑問が明治初期のインテリの間に芽生え始めていたのだ。・・・・」(p174 ~175)ここから、佳境に入るのですが、その手前でやめときましょう。ちゃんと教育勅語全文も、引用されております。

さて、これからが語りたかったことです。
ちょうど、身近でですね。明治神宮にお年寄の方々とともに観光してきた人がおりました。その身近人(兄なのですが)は、明治神宮の絵入り案内パンフレットと、それから「教育勅語」と「五箇条の御誓文」と「明治天皇御製・昭憲皇太后御歌の一日一首」とが裏表に書かれている小さな蛇腹折の紙とをもらって来ておりました。しばらくして、欲しくてその二つのパンフレットをもらって、いまこうして手もとにあります。発行・明治神宮社務所とあります。五箇条の御誓文には「我国未曾有の変革を為んとし、朕躬を以て衆に先じ、天地神明に誓い、大に斯国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆亦此旨趣に基き協心努力せよ。」とあります。御製(ぎょせい)御歌(みうた)は一日一首で、これまた魅力です。31日分が、奇数日が御製、偶数日は御歌と交互に並んでおります。

絵入りパンフには「歴史にふれ、自然に憩う神宮の杜。」とあります。
そういえば、私は明治神宮にも行ったこともないのでした。
せめてドナルド・キーンの上下巻は読んでおこう。
という思いで、こうして書き記しておくわけです。


追記。
ちなみに、教育勅語についてですが、
兄の嫁さんのお母さんは、お一人でお住まいです。
何でも、時に教育勅語を写経しているらしいのです。
そして私の嫁さんのお母さん。この明治神宮のパンフレットを見せて
話をしていたら、お母さんの実家の上の兄弟の家には、
教育勅語が額にして、家に置かれているというのでした。


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冥想録(パンセ)。

2008-07-25 | Weblog
こりゃ、あとで読みかえさなきゃ。と思う本があります。たとえば渡部昇一著「パスカル 『冥想録』に学ぶ生き方の研究」(到知出版社)も、そんな一冊でした。けれども、そのまま読まずにいるのが、いつもの私です(笑)。

さて、たまには本棚から取り出して、パラパラと眺め直しております。
興味深いのは、序論に書かれているこの箇所でした。

「私が初めてパスカルの『冥想録』を読み終えたのは1950年(昭和25年)3月5日の12時40分のことであった。これは本の巻末に書き込んであるので間違いない。したがって、実に55年も前に読んだことになる。・・・・・55年前の私は、大学1年生の春休みの寸前にパスカルを読んで非常に感激し、そして新学期からは神学の勉強をしようという覚悟まで述べているのである。・・・フランツ・ボッシュ先生の神学的な講義を受け、さらに岩下壮一神父の『カトリックの信仰』およびその他の著作を一年間熱心に読み、私は洗礼を受けるかどうかを考えるに至った。そのときはまだ躊躇があったのだが、最後には思い切って飛躍して洗礼を受けることにした。その決断の理由となったのが、実は『冥想録(パンセ)』に書かれている『賭の精神』を読んだことであった。パスカルの研究家は無数にいるだろうし、翻訳家もたくさんいる。しかし『冥想録』によってカトリックの洗礼を受けようと決心した人間はそれほど多くはいないはずである。ある意味では、私はパスカルから最も強い影響を受けた一人であるといえるのではないかと思っている。私はその後、三木清の『パスカルに於ける人間の研究』というような名著も読んだが、私から見れば、三木清は本当の意味でパスカルがわかっていないと感じられた。なぜならば、彼はパスカルの『賭の精神』がわからなかった。それゆえにカトリック教徒にならなかったのだと、当時は生意気にも思ったりしたものである。その後の55年間の生活において、私は絶えず宗教問題から離れることなく考え続けてきた。それが私の人生の一つの筋道となっている。」(p17)

これは、あとにp76でも繰り返し語られております。
それに、こんな箇所も印象深い。

「旧約聖書というのは膨大なものであって、また元来はユダヤ人の話であるから、これを読まなかった人も多いだろう。したがって、キリスト教を信じる人たちの中にも、わかりやすい新約聖書だけを読んだ人、あるいは、どちらも読まなかった人もいたはずである。それにもかかわらず、キリストの説いた言葉がすっと入ってくる人がいる。そういう人は内的素質がいいのだ、とパスカルはいう。理屈をあれこれいわずともわかるというのは、その人の気持ちがいいからであるというわけである。私の周囲には非常に素朴な人たちがたくさんいた。その人たちは皆、何が正しくて何が正しくないかを本当によくわかる人たちだった。たとえば私の母はもちろんキリスト教徒ではないけれども、『死んだ先祖からいつも見られている』ということを信じていた。だから自分は苦労しても、先祖から『おまえ、苦労してるな、頑張ってるな』といわれるような慰めを得ているというところがあった。おそらくキリスト教国の場合にしても、『神様が見ているぞ』ということを非常に率直に感じられる人がたくさんいたと思う。宗教によって何が見えるかの違いはあれ、心が清純であれば、自分の良心まで知っているものがあるという自覚を持てるものなのではないかと思うのである。」(p88)


ともかくも、宗教を思う時、まずあらためて再読したい一冊。

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優秀な講義録。

2008-07-24 | Weblog
森銑三・柴田宵曲著「書物」(岩波文庫)に「青年図書」という箇所がありまして、そこに一読忘れられない言葉がありました。

「ここで私は、家庭の事情その他に依って、中等学校へ進み得ないでいる青年たちの読書のことを考えて見たい。」ちなみに、この本は昭和19年(1944)に出ております。

「中学の四、五年間に習う教科書を積んで見ても高が知れている。少し読解力のある少年なら、語学や数学くらいを除いたら、その教科書を通読することに依って、中等教育の大体に通じて、中学卒業生に近い学力を自ら修めるのも、必ずしも不可能事とせぬであろう。然らば国家的にも優秀な講義録の類を発行して、それらの恵まれざる少年に自修の便宜を与えることなども考慮せらるべきではなかろうか。・・・」(p120)

なぜ、この箇所を思い出したのかといいますと、山村修著「もっと、狐の書評」(ちくま文庫)をパラパラとめくっていた時でした。その四章「書物の筋肉が動く」の本のラインアップを眺めながらでした。私がちょうど読んだものでいえば

 「一言芳談」
 藤井貞和著「古典の読み方」
 一海知義著「漢詩入門」
 谷川健一著「独学のすすめ」

ほかに12冊が、この章にはあがっておりました。

優秀な講義録が読みたい。でもそのリストというのは、案外知りえない。そんな方に、ここにそのリストがありますよ。と語りかけたくなってくるのでした。もっとも、肝心な私がほとんど読んでいないのですから、あんまり人にかたりかけてもなあ。であります。これを機会に、私もいっしょに読みたいと思う暑さかな。であります。山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくな新書)と、この「もっと、狐の書評」とが、私の安心できる水先案内書。とかく学校の制約の中で、ややもすると無難な言葉選びと、曖昧で萎縮しやすい講義録ですが。そこから、見事に離脱しつつ、学問と社会との通気性が快い本の紹介となっており、そのリストだけでも楽しめるのでした。
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植村牧師。

2008-07-23 | Weblog
村岡恵理著「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」(マガジンハウス)を半分ほど読んだところです。そこにこんな箇所がありました。
「花子は大正8年(1919)3月、山梨英和女学校教師をやめて東京に戻った。一昨年出版した『爐邉』が植村正久牧師の目を引き、築地の基督教興文協会の編集者に、花子を推薦してくれたのだ。『あなたはキリスト教文学に集中しなさい』植村牧師はそう言って、大正7年(1918)には花子が教師生活の傍ら、こつこつと翻訳していた『モーセが修学せし國』を、救世軍の山室軍平に頼んで、出版できるように取り計らってくれた。キリスト教界の大物である植村牧師の励ましは、花子を奮い立たせた。」(p138)

この植村牧師についてです。
国木田独歩と植村正久との関連について、大岡信氏は書いております。

「植村正久は明治の文人の一部に大きな影響を与えている。たとえば植村に師事したことは、国木田独歩の生活においてきわめて重要な意味を持っていた。『欺かざるの記』には、親しい助言者として、内村鑑三とともに植村の名がしきりに現れる。第一、独歩が明治28年(1895)佐々城信子と自宅で結婚したときの司会は、独歩をかつて受洗させた植村にほかならなかった。『独歩が一番町教会に籍をおき、植村先生を崇拝したことは非常なもので、自分の文章が簡潔に書き得ているのなども植村先生の説教に学ぶところがあったからだと、他日人に話したこともある程で・・』と信子の従妹にあたる相馬黒光は書いている(「国木田独歩と信子」)。あるいはまた、正宗白鳥は明治30年、18歳のとき、市ヶ谷のキリスト教講習所で植村正久の手で受洗し、『植村師の祈禱に和し、説教によって啓発されたばかりでなく、師の私宅を訪問して、直接に教へを受けたことが多かった』という。・・・」

大岡信氏は窪田空穂論において、空穂にとっての師として坪内逍遥と植村正久とをあげておりました。
「空穂が終世、心の師として尊んでやまなかった植村正久・・・」という箇所があります。すこし続けます。「歌集『鏡葉』に、植村牧師の逝去(大正14年)のさい、はじめて植村の説教に接したころのことを思い出して歌った歌が収められていて、そこには『先生を知りまをししはこの我の生涯の上の大き事なりき』という作があり、また『今の世の大きなる人この眼もて見ぬとよろこびその夜を寝(いね)ず』という作もまる。」

以上は、大岡信著「窪田空穂論」の「空穂の受洗と初期詩歌」に書かれております。

さてこれから私が思い浮かんだのは、山村修著「狐が選んだ入門書」に、窪田空穂著「現代文の鑑賞と批評」が取り上げられていたことなのです。その窪田空穂の文に国木田独歩が取り上げられています。その箇所を少し引用したくなります。

「・・・独歩の文章ほどひきしまった、そしてはっきりした文章はない。今一句一句について見ても、一音の無駄もない、出来るだけ引きしまったものにしている。同時に、はっきりと言い切って、聊かの曖昧も、陰影も持たせてはいない。句を連ねる上で、多くの人の愛用する接続詞さえ殆どない。その結果、文章は、強く鋭い。これが特色である。この文体は、独歩の生み出したものと見える。そういえば独歩の文章には、古典の影響が認められない。西洋の小説の影響は受けていても、それは大体の上の事で、文章の上には、それも認めるに困難だ。思うにこの文体が、独歩の気分であったらう。真実を求めてやまない独歩は、文体を外に求めずして内に求めたと見える。もし調子という言葉でいえば、この言葉の調子のない、しかし強くはっきりとした文体が、独歩の心の調子だったろうと思われる。・・・」

ここにいう「文体を外に求めずして内に求めた」という時に、窪田空穂にとっては独歩とともに、植村正久の説教のことが、「内に求めた」という言葉の、暗黙の前提にあったと、私には読めてくるのでした。それにしても「自分の文章が簡潔に書き得ているのなども植村先生の説教に学ぶところがあったからだ」と語ったという独歩。
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あらえびす。

2008-07-22 | Weblog
武部利男訳「白楽天詩集」の最初の方を読んでいたら、
「えびすの おどりの おんなたち」と
「がんじがらめの あらえびす」という詩が一読印象に残りました。

そういえば、野村胡堂著「胡堂百話」に「あらえびす」という言葉があったのを思い出しました。著者紹介野村胡堂「明治15年(1882)岩手県に生れる。本名・野村長一。別号・あらえびす。・・・」とあったのでした。そして百話のなかにこうあります。
「一体、私のところへ来る手紙は、本名と、胡堂と、あらえびすと、三種類ある。・・・胡堂は最も普通で、全体の90パーセント。あらえびすは、音楽とレコードの関係で、8パーセントくらいだろう。あらえびすの筆名を使いはじめたのは、大正13年。すなわち震災の翌年・・・方角の違った音楽のことを書くのに、胡堂はいかにも固くるしいが、さりとて、新しく考えるのもめんどうなので、やわらかく、カナにしたまでである。『袖荻祭文(そでおぎさいもん)』という芝居の中で桂中納言に化けて出た安倍の貞任が、花道の中ほどで引き抜きになり、『まことは、奥州のあらえびす』と威張るところがある。語源的にいうならば、『にぎえびす』に対する『あらえびす』で、日本が台湾を領有した当時の言葉でいうならば、熟蕃に対する生蕃(せいばん)である。えびすの中の、飼いならされない種類である。伝統的のカナ使いでは、『あらゑびす』でなければならないが、読みよいために、最初から『えびす』とした。・・・ほんの一時期だけR.A.B.Cと署名してことがある。これをアラエビスと読ませようとのコンタンだが、いかにもキザなので、じきによした。」(中公文庫p63~64)

白楽天にもどると、題が「縛戎人」とあり訳が「がんじがらめの あらえびす」。
戎は、漢和辞典によると「つはもの(兵・軍人)・えびす、西方の蛮族。転じて広く野蛮人の義に用ふ。・・」とあります。ここでは短い方の「胡旋女」「えびすの おどりの おんなたち」をひとつ出だしを引用しておきましょう。

  えびすの おどりの おんなたち

 えびすの おどりの おんなたち
 えびすの おどりの おんなたち
 こころは いとの ねに こたえ
 てぶりは たいこの ねに こたえ

 いとと たいこの ひとこえに
 ふたつの そでが まいあがり
 ひらひら ゆきが ひるがえり
 ころがる よもぎ とびまわり

 みぎに ひだりに ぐるぐると
 めぐって つかれる こと しらず
 せんかい まんかい くるくると
 まわって おわる ときが ない

 この にんげんの せかいでは
 くらべたとえる ものが ない
 はしる くるまの わも のろく
 つむじかぜでも まだ おそい

 きょくが おわると にど おじぎ
 てんしに おれいの ごあいさつ
 てんしも ごらんに なりながら  
 にっこり おくちを あけられる

 えびすの おどりの おんなたち
 ソグドの くにから やってきた
 ごくろうさんにも ひがしへと
 ばんり はるかに こえてきた

 
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符丁社会のKY。

2008-07-21 | Weblog
大野晋氏の死亡記事と関連コラムを見ていたら。文藝春秋6月号に鼎談が載っていたと書かれておりました。それでもって、その雑誌を開いてみたわけです。大野晋・丸谷才一・井上ひさし。その三人のお話が聞けるのでした。
そこで、大野氏が「・・今、『KY』という言葉が流行しているようですが、僕は『KY』を『空気が読めない』とは、どうしても読むことができません。こうした言葉が生れて、大勢が使っているような社会は、言葉にとって危機的な状況だと思います。・・・」
こうして大野氏の状況判断が示されてからのやりとりが楽しいのでした。
丸谷・井上ときて、大野晋氏がこうかたるのでした。
「ここにあるホテルのパンフレットを見ても『マイレージポイントについては、コンシェルジュデスクにお尋ねください』とあって、もはや語る側が日本語を使うことを放棄しているように感じられます。僕は、マイレージポイントにも、コンシェルジュデスクにも馴染みがない。物事をきちんと見たうえで、いわゆるぼかし言葉を使わずに『はっきり言う』ことが大事だとつねづね考えてきましたが、カタカナ言葉は、その対極にあります。」

ここから具体的な指摘が面白かったのです。
【丸谷】カタカナ言葉や略語を、限られた社会での符丁や隠語として使うという考えは、日本でも以前からありました。
【井上】もう十年以上前ですが、同窓会で会ったスチュワーデスの女性が、仲間内で使う『UUU(ユーユーユー)』という言葉を教えてくれました。『うるさい、うるさい、うるさい』の略だそうです(笑)。お客さまに聞えるところで『うるさい客』とは言えないので、『あのお客、UUUよ、気をつけましょう』などというそうです。これはなるほどと思ったのですが。
【丸谷】僕が聞いた話では、ある患者が病院で自分のカルテを見たら、下の方に『UB』と書いてあったそうです。何かわからなくて徹底的に調べたところ『うるさいばばあ』の略語だった。

さまざまな面白い鼎談を、一箇所だけすくい上げるのは残念ですが、せめてもう一箇所。大野晋氏の言葉を

「『後期高齢者』という言葉が批判されると、すぐに今度は『長寿』という言葉に置き換えようとしました。上っ面だけで処理しようとしています。これはすべて、『物事をきちんと見る』ことを日本人がおろそかにしてきた結果だと思います。今の日本では、見ることと言葉を発することがばらばらになってしまっています。物事をきちんと見ていないので、きちんと語れないわけです。」

鼎談のはじめのころ、こう大野氏が語っておりました。
そして、もう終るというところで

「・・今の日本人が、どこかで物事をきちんと見ることを覚えない限り、明るい光は差してこないでしょう。それが一番初歩的なことであり、一番大切なことですから。最近の日本を見ていると、88歳まで生きてきて、少し長生きをしすぎたと感じることもあります。」

このあと、丸谷氏、井上氏と一言ずつ語って終るのですが。
いきがかりから、そこも引用しておかないと片手落ちになりますね。

【丸谷】いや、大野先生は88歳まで生きたからこそ、あれだけ立派な研究ができた。日本語のためにもっと力を貸していただきたいですね。日本語を巡る現状は確かに暗いけれども、少しでも希望をもちたいと思います。
【井上】・・・政治家を含めたみんなが日本語で先を切り拓いて行こうと強く思うこと以外に、道はないのかもしれません。


こうして、先生を囲んで二人の言葉で締めくくられておりました。
おそらく、大野先生にとって、これが人生最後の鼎談だったのでしょうね。
その肉声を活字をとおして伺ったょうな気分になれました。
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神輿花納め。

2008-07-20 | Weblog
昨日、神社で、まわり小範囲の木々に囲まれて、蝉の声を聞きました。
一匹の蝉のような気がしました。日差しと暑さとともに、その声が充満するように聞えたのでした。今日は午前中後片付け。御芳志の集計。なかなか金額が合わず、お昼にも集計とにらめっこ。4~5人で、お金の洩れを確認しておりました。
今日は午後七時より神輿の花納め。ということで飲むのでした。
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本日は快晴。

2008-07-19 | Weblog
今日は神輿。
6時から庭なぎ。
旗竿を立てたり。
そして8時から、神輿組立。
午後から渡御。
今日はこのまま暑さが増してゆきそうです。
さて、いつ帰れることやら。
そういえば、今年はまだ蝉の声を聞きません。
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宗教問題?

2008-07-18 | Weblog
明日は地区の神輿の渡御(とぎょ)。
なのですが、最近私に思い浮かぶ宗教問題。
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」
中村弓子著「わが父 草田男」
村岡恵理著「アンのゆりかご 村岡花子の生涯」

私は「アンのゆりかご」の最初しか読んでいないのでした。
ちょっとそこで引っかかってしまたのです。
そこには戦争中の様子が書かれておりました。
「花子の母校である東洋英和女学校で教育にあたるカナダ人宣教師は4年間、何の罪もないのに収容所に送られた。昭和17年(1942)には治安維持法違反のかどで日本基督教団の幹部が一斉検挙された。親の代からのクリスチャンである自分たち夫婦も、今は教会に通えない。たとえ、翻訳が完成しても、果たして、この小説を本にする日は来るのか。・・いつの日か刊行して、多くの人のもとに届けたい。モンゴメリという作家が書いた、明日への希望わく物語を。」
ここにある「東洋英和女学校」というのは、注がありまして「明治17年にカナダ・メソジスト派の宣教師たちによって創設されたミッションスクール。現・東洋英和女学院」とあります。

ところで、長谷川町子さんの家族は、父親が亡くなって福岡から上京します。
その父親が亡くなる頃のことを長谷川洋子さんが書いております。
「亡くなる一年位前に母は主治医から回復の見込みがないことを聞かされていたらしい。絶望して気力を失った母は、クリスチャンの親友から、『一緒に祈りましょう』と誘われて教会の門をくぐった。それからの母は、神様しかおすがりするものがなく、日曜礼拝だけでは足りず、祈祷会や方々の集会にも足しげく通った。こうして母なりに心の拠り所を得ると、父にも体の回復だけではなく、心の平安を持って安らかに天国に行ってもらいたい、というのが切なる願いになった。母の懇願で父をはじめ一家五人が洗礼を受けたのは、この頃だった。・・」(p31)
「母の子育ての柱は二つあって、一つはキリスト教の敬虔な信者であること、二つ目は人に頼らず一人で生計を立てられること、この二つであるらしかった。」(p40)
長谷川洋子さんの感想で、なるほどと思った箇所
「疎開のとき・・・ことに歎異抄は繰り返し読んだ。人は修行や善行によってではなく信仰によってのみ救われると説く他力本願のところがキリスト教に通じるように思われた。日本人だからだろうか、歎異抄を通して聖書を理解する部分も多かった。」(p58)

何気なくも、こんな箇所も印象にのこります。
母親を語っている箇所でした。
「自分の心の落ち着き所を求めて東奔西走し、ついに無教会主義にたどりついて、その居場所を見つけた。内村鑑三先生に提唱される無教会主義は、そのお弟子さん達に受け継がれて各所で集会がもたれていたが、母が導かれたのは自由が丘にある今井館だった。当時は矢内原忠雄先生が主宰しておられ、毎日曜に聖書講義があった。・・町子姉と私は母に叩き起こされて、二度に一度は母のお供をした。会堂の中には何本かむき出しの柱があり、姉と私はなるべく柱の陰になる位置に座って先生の目にとまらないよう心がけた。お講義はむつかしく理解できないところも多かったが、眠気が吹き飛ぶ程、深く引き込まれる講話だった。畏れを知らない母は、このコワイ先生とも親しくお付き合いをするようになり、呆れたことに私の結婚式の司会をしていただくことまでお願いしてしまった。・・」(p78)

「わが父 草田男」に山本健吉氏の言葉がありました。
「草田男さんからカトリシズムを除いたら、やはり草田男さんの真髄はわからないという感じがするんです。」(p44)これについて中村弓子さんは長いあとがきで「健吉氏は、母も幼少時代を過ごした長崎の出身でいらっしゃり、母が成人してカトリックの洗礼を受けたことは、長崎出身の健吉氏の、終生やむことのなかったカトリック信仰への問いかけともかかわらずにいなかったと思う。対談でも健吉氏は母の信仰に触れ、そこから『草田男とカトリック』の話題に展開された。」(p171)

話がかわるのですが、
ドナルド・キーンに角田先生が登場します。その角田先生と同じ明治10年生まれに窪田空穂がいることを知ったのは最近でした。大岡信著「窪田空穂論」には「空穂の受洗と初期詩歌」という章があり興味深いのでした。

大岡信著「日本の古典詩歌5・詩人たちの近代」(岩波書店)のなかの
p475と、それから国木田独歩にも言及しているp471
(どちらも引用していたら、画面から消えっちゃった。残念もう一度打ち込むのはやめておきます。きっと、引用のしすぎだということでしょう)

あと渡部昇一著「パスカル『冥想録』に学ぶ生き方の研究」(到知出版社)が私に思い浮かんだのでした。
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