黒沢明監督の映画で、登場人物が自分の名前を語る箇所がありました。桑畑三十郎。椿三十郎。どちらの時も、三十郎と云ってから「もうすぐ四十郎だがな」という風に言葉を継いでいたような気がします。そういう年齢を加味して名前を語る場合もありなんだ。と可笑しくおもったのでした。そういえば、小野十三郎という名は、十三歳の中学生をイメージしてもよいのでしょうか? などと、そこからあらぬことを思ったりする私です。
藤沢桓夫を追悼した司馬遼太郎の文に、
「一言でいうと、魅力的な人でした。いくつになっても品のいい中学生にそのまま年を取らせたような、明るくてとびきり聡明な人でした。私が二十代の終わりごろ、新聞社の人間として小説家という人を見た最初の人でした。その印象は圧倒的で、私心がなく透明な感じで、お話が実に面白かった。・・・」(p57・山野博史著「発掘司馬遼太郎」)この短文の終わりにこうあります。
「高校や大学で一緒だった長沖一さん、秋田実さん、小野十三郎さんなど、家のある住吉かいわいでのつき合いで終始したのは見事でした。生活圏を限定されており、その中から小野さんらが出て、いい感じのサロンだった。ちょっと離れて遠くから見る感じのいい景色で、藤沢さんはすべての点で景色のいい人でした。」
その司馬さんは「直木賞をもらったとき、百分の一秒ほど『東京に出ようか』と考えた。しかし、大阪には藤沢さんがいるから、と思い直した」と語ったそうであります。
え~と。小野十三郎については、谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書 p72)にこんな箇所がありました。
「僕の父が買った家は、阿倍野区の昭和町というところの八軒長屋の一軒でした。そこから歩いて五、六分のところに、詩人の小野十三郎さんが住んでおられた。その真ん中辺に、河野多恵子が住んでいた。それから逆に東へ行くと、十五分ぐらいのところに開高健が住んでいた。こういう、住んだところの人間配置ですね。それから近くに藤本進治という、無名で亡くなった哲学者・・・全部ほんとに近所にいた。同人雑誌をやっていると、当然小野さんともお目にかかる機会が増えまして、そこで小野さんのところに僕もなんべんも遊びに行く。向こうは子供が多くて、たしか五人だったかな。ちょうど適齢期でしたから、僕なんかとちょうど話し相手にいいわけです。私は当時は推理小説に凝っておりまして、ヴァン・ダインであろうがエラリー・クイーンであろうが、江戸川乱歩であろうが横溝正史であろうが、とにかく面白い推理小説の筋をずっとしゃべるということができましたから、小野家へなんべんも行って、子供たちみんなにサービスをした。ということで、小野十三郎さんと縁ができたんです。これも偶然です。これが一キロ離れていたら、もうそんなことはありえなかったと思う。・・」
ちょうど、岡崎武志と山本善行著「新・文學入門」(工作舎)を開いたら、お二人とも出身が大阪。大阪といえば、藤沢・小野のお二人。という妙な連想がはたらいたので、引用しておきました。
もう少し引用しておくと、「新・文學入門」に杉山平一著「戦後関西詩壇回想」が好意をもって、取り上げられておりました。この「詩壇回想」に、小野十三郎氏が登場しております。伊東静雄を取り上げた箇所ででした。
「昭和18年・・・詩人の伊東静雄が富士正晴を連れてきた。富士正晴は、他人に愛想笑いをするようなことはなく、つねに冷やかに見ている人だが、そのとき、伊東静雄が、『あれが、藤沢桓夫だ、あいさつしてきなさい』と、いったという。『殺生なこと、いいよるねん』と、富士は、可笑しがったが、伊東静雄には、そうした処世術があった。もとより、学校教師であるから、無頼などではない。・・・伊東は、大戦後早々、短歌的抒情の否定で小野十三郎が戦後思想の時流のチャンピョン視されると早速、自分が教師をつとめる住吉高校に呼び、講演を依頼している。・・」(p17~18)
また杉山平一は、伊東静雄と藤沢桓夫のことも印象深く書いております。
「私がはじめて伊東静雄に接したのは、私の処女詩集『夜学生』の出版記念会であったと思う。・・席上、藤沢桓夫は、小野十三郎の物の見方を『小野メガネ』と評したり、新しい故の鋭い評言が飛び交っていたなかで、伊東静雄が、ときめく藤沢桓夫に反論し口論になった。何か、古今集の歌人についてのことだったと思うが、どちらも、ゆずらず、見ている私は、胸が苦しくなった。そのとき、詩人や作家というのは凄いなぁ、というショックを受けた。・・・」(p175~176)
それにしても、伊東静雄が住吉高校を去る時のことは「伊東静雄研究」を読むと何だか泣けてくるのでした。
藤沢桓夫を追悼した司馬遼太郎の文に、
「一言でいうと、魅力的な人でした。いくつになっても品のいい中学生にそのまま年を取らせたような、明るくてとびきり聡明な人でした。私が二十代の終わりごろ、新聞社の人間として小説家という人を見た最初の人でした。その印象は圧倒的で、私心がなく透明な感じで、お話が実に面白かった。・・・」(p57・山野博史著「発掘司馬遼太郎」)この短文の終わりにこうあります。
「高校や大学で一緒だった長沖一さん、秋田実さん、小野十三郎さんなど、家のある住吉かいわいでのつき合いで終始したのは見事でした。生活圏を限定されており、その中から小野さんらが出て、いい感じのサロンだった。ちょっと離れて遠くから見る感じのいい景色で、藤沢さんはすべての点で景色のいい人でした。」
その司馬さんは「直木賞をもらったとき、百分の一秒ほど『東京に出ようか』と考えた。しかし、大阪には藤沢さんがいるから、と思い直した」と語ったそうであります。
え~と。小野十三郎については、谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書 p72)にこんな箇所がありました。
「僕の父が買った家は、阿倍野区の昭和町というところの八軒長屋の一軒でした。そこから歩いて五、六分のところに、詩人の小野十三郎さんが住んでおられた。その真ん中辺に、河野多恵子が住んでいた。それから逆に東へ行くと、十五分ぐらいのところに開高健が住んでいた。こういう、住んだところの人間配置ですね。それから近くに藤本進治という、無名で亡くなった哲学者・・・全部ほんとに近所にいた。同人雑誌をやっていると、当然小野さんともお目にかかる機会が増えまして、そこで小野さんのところに僕もなんべんも遊びに行く。向こうは子供が多くて、たしか五人だったかな。ちょうど適齢期でしたから、僕なんかとちょうど話し相手にいいわけです。私は当時は推理小説に凝っておりまして、ヴァン・ダインであろうがエラリー・クイーンであろうが、江戸川乱歩であろうが横溝正史であろうが、とにかく面白い推理小説の筋をずっとしゃべるということができましたから、小野家へなんべんも行って、子供たちみんなにサービスをした。ということで、小野十三郎さんと縁ができたんです。これも偶然です。これが一キロ離れていたら、もうそんなことはありえなかったと思う。・・」
ちょうど、岡崎武志と山本善行著「新・文學入門」(工作舎)を開いたら、お二人とも出身が大阪。大阪といえば、藤沢・小野のお二人。という妙な連想がはたらいたので、引用しておきました。
もう少し引用しておくと、「新・文學入門」に杉山平一著「戦後関西詩壇回想」が好意をもって、取り上げられておりました。この「詩壇回想」に、小野十三郎氏が登場しております。伊東静雄を取り上げた箇所ででした。
「昭和18年・・・詩人の伊東静雄が富士正晴を連れてきた。富士正晴は、他人に愛想笑いをするようなことはなく、つねに冷やかに見ている人だが、そのとき、伊東静雄が、『あれが、藤沢桓夫だ、あいさつしてきなさい』と、いったという。『殺生なこと、いいよるねん』と、富士は、可笑しがったが、伊東静雄には、そうした処世術があった。もとより、学校教師であるから、無頼などではない。・・・伊東は、大戦後早々、短歌的抒情の否定で小野十三郎が戦後思想の時流のチャンピョン視されると早速、自分が教師をつとめる住吉高校に呼び、講演を依頼している。・・」(p17~18)
また杉山平一は、伊東静雄と藤沢桓夫のことも印象深く書いております。
「私がはじめて伊東静雄に接したのは、私の処女詩集『夜学生』の出版記念会であったと思う。・・席上、藤沢桓夫は、小野十三郎の物の見方を『小野メガネ』と評したり、新しい故の鋭い評言が飛び交っていたなかで、伊東静雄が、ときめく藤沢桓夫に反論し口論になった。何か、古今集の歌人についてのことだったと思うが、どちらも、ゆずらず、見ている私は、胸が苦しくなった。そのとき、詩人や作家というのは凄いなぁ、というショックを受けた。・・・」(p175~176)
それにしても、伊東静雄が住吉高校を去る時のことは「伊東静雄研究」を読むと何だか泣けてくるのでした。